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プローチダ夜曳航   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

Procida Ch
 スキラッチ兄弟は、混み合うプローチダ水道をタグボートで曳航されていく白亜の旅客船を眺めていた。日がな漁船ばかりが悠長な借景になっている水平線。そこへ魔群の通過のごとく富と余裕の象徴たらんと優美な旅客船が現れる。兄弟は苦笑交じりに夢とやらを語り合うしかなかった。
「俺の夢はIOR、新聞を読んでいるおまえなら知っているだろう、バチカン銀行だ。あんな風に尊敬と金を一手にすること、そう、まったく夢だ」
 兄のエンリコは網の繕いを放りだすようにして言った。エンリコは港には週二ほどしか現れず、オリーブ畑の土手に寝転がっていることが多いので「土手のスキラッチ」と呼ばれていた。
「俺の夢は、そうだな、ポンペイの円形劇場の前にあるアンフィ・テアトロで、いい服を着て…」
 弟のアルは強制されたような夢語りを吞み込むようにして俯いた。アルは新聞を隅から隅まで読んでいる寡黙な青年で「老いたスキラッチ」と呼ばれていた。
「本当のところは日本へ行ってみたいんじゃないのか」
 エンリコは厳つい髭面を弟の剃り跡も艶やかな頬へ押しつけた。相変わらず嫌がりも逆らいもしない。子供の頃から自分以上に父や祖父を手伝い、なるが儘に潮臭い漁師になったアル。網の繕いや給油、船外モーターの調子を見る以外は、新聞読みの猫背な後ろ姿。あれは一種の偽装だな。エンリコは知っていた。夜ともなると、弟はベッドで低く唸りながら中古のノートパソコンでメールを交換し合っていて、最近の相手は日本人らしい。そう、観光客で偶に見る騙されやすそうな日本人だ。
「まあ日本人でもアメリカ人でも構わないが、付き合うなら、愛犬の餌を買いに行くにもセダンを乗り回している女にしな」
 アルは破顔しながら手繰り鉤を腰に仕舞った。兄貴はあの分じゃ繕いも半端に五分もしないうちに姿を消すだろう。あの飽きっぽさは、祖父でもない、むろん父でもない、誰に似たのだろう、という界隈の騒々しさには慣れている。女には珍しい言語障害があったとされる母の血統ではないか、などと訝っていた叔父や叔母も亡くなった。いずれにせよアルは考えたくもなかった、自分を産んですぐに逝ったらしい母、そして目の前で欠伸ばかりのエンリコのことなどは。アルは自分のことで精一杯だった。去年の春、ここプローチダの島に現れて、あの見晴台から飛び降り自殺を図った日本人。当時ほとんどイタリア語を話せなかった日本人の中年男性が、今や深夜の夜間飛行ばりに流暢なイタリア語のメールを降らせるのだった。
 プローチダは外周が約十六キロあまりの島である。小粒な美しさは「ナポリの真珠」などと謳われている。兄弟が住む漁村コッリチェッラでは度々、飽きもせずに映画撮影が行なわれていた。その世に言う真珠のようなコッリチェッラを映画さながらに見下ろそうと、体力と時間のある観光客は丘陵テッラ・ムラータまでニ十分ほど歩いていた。
 今から思い返せば、波浪の名残のような風鳴りに耳をかしてしまったことは、粛々と日常が急転することを想っていたアルにとっては啓示だったのかもしれない。彼の過敏さは子供の頃から喧騒のコッリチェッラからテッラ・ムラータへ逃れていた。あの日も何かと煩かった。荒天続きで漁に出るのは儘ならず、エンリコがミランを食ったレッジーナの勝利に一人酔い、隣のサルバトーレが癲癇の発作を起こして救急車を呼びつけていた。アルは救急車を見送った野次馬が散っていくとき、ふとテッラ・ムラータの方を見上げてしまった。風鳴りだろうか、見晴台で三流アルトが練習でもしているのか。気がつくと歩き慣れた坂道を上っていた。
 アルは上りつめて見晴台の瘦せた男を認めた。中国人のような平坦な面立ちだ。長々と歌っていたのか、怒鳴っていたのか、発声し終わったばかりに喘いでいる。波止場の孕んだ雌犬を追い立てる気持ちになる。アルは声をかけようとした。しかし男は辺りの気配など物ともせずに断崖を跳んだのだった。
 中途半端な飛び降りを敢行した旅行者を引き上げたアルは、父と同級生のティツィアーノ巡査と二度、三度と診療所へ足を運ぶ羽目となった。所持していたパスポートと本人の拙い英語から日本人「安田昇」四十八歳と知れた。ティツィアーノ巡査は案の定、日本大使館との煩雑なやり取りなどはすべてナポリ本庁まかせだった。そして日本人が望んでいること(自殺願望は除いて)を細に入り聞き出すことはアルまかせとなった。致し方ない、父が亡くなった折の騒動やエンリコの飲酒運転で巡査には大いに世話になっている。パソコンを少々、駆使した聞き取りまがいの手伝いを承知せざるえなかった。翻訳機能を使っての問答対話をイタリア語に成文化したものを読み直してみた。
「あなたの家族、および職業と連絡先を教えてください」
「私、安田昇の父親は他界していて、母親は存命していますが老人ホーム施設にいます。私の職業は郵便局員です。先月の三十日に有給休暇を申請しました。連絡先、局の電話番号は…」
「あなたはローマ観光のツアーに同行してプローチダ島に来られたのですね」
「私、安田昇はローマに着くと同時にツアーから離脱しました。旅行会社に違約金を払って…二十年前に行ったナポリへもう一度行きたかったのです」
「それでナポリからプローチダへ渡られたのですね」
 アルは遂に安田のナポリでの再会について成文化することはできなかった。安田が二十年前に知り合ったナポリの女性エルサは、はや六十歳近くになっていて警察病院に隔離されていた。十年以上前の次女殺しと度々の自虐行為は、精神鑑定と安定剤投与を要としたのである。聞くだに安田の失望から絶望に至る苦悩が見え隠れして、プローチダまでやって来ての彼の自殺行為はそれで説明がつくかと思った。否、ここから先が厄介だった、安田が真に愛している長女の行方において、それは未だに。
 安田がなんとか日本の四日市という町へ帰って半年もした頃、アルの銀行口座に一〇〇〇ユーロの謝礼金が振り込まれた。帰路に就くまで律儀に振込口座を書いてくれと執拗に追い立てられる。エンリコなどの耳に入る前に断ってきたが、明日はナポリに渡るという日に「書いてくれなければ、あのサンタ・マルゲリータ・ヌオーヴァ教会から新たに(ヌオーヴァ)飛び降りる」と脅された結果だった。
「アルは、偉大なるスキラッチは、単に私の命の恩人というばかりでなく、私を真正な生き方へと導かれた、あの聖フランチェスコにも比肩する方なのです。これは運命なのでしょう、アルが漁師であることと同様に」
 安田のイタリア語のメール文は驚異的に形を成していった。アルは「聖フランチェスコは漁師じゃない」を何度も反芻しながら、覚醒したような困難を知らないイタリア語の進捗に何かしら不気味なものを感じていた。医師は安田の転落時の頭部の外傷は認めながらも、再三にわたって判断能力を一とした脳の異常は認められないと断言していた。
「私をあの見晴台から跳び下ろさせた動機のようなもの、あえてアルなのでアルがゆえに言えば、長女のナナの前途を憂いてしまったのかもしれない。エルサ?母親のエルサ?エルサがこうなってしまったのは、あえて言うなら(E sufficiente dire)、エルサには最初からナポリ的な面はあったね。そう、ナポリ的な面、それは情熱的な面というよりも、あえて言うなら狂信的な面とでも言おうか。そう、私はアルも知っているとおり鈍い日本人。愛してくれと言われても、エルサを愛することはできなかったね」
 アルは四十九歳にならんとする男の渇淡で飾らない正直な語り口のメールに閉口した。
「私が二十年前にエルサを訪ねていったとき、ナナは六歳になったばかりだった。不愛想で無口、眼の輝きが強い子だった。エルサは日本人とメール交換していることをナナには黙っていたようだ。だからエルサからの最後のメールで、十六歳になったナナが柔道をやっている、という文には驚いちゃったよ。私という日本人の影響はありえない。ナポリっ子のナナばかりじゃないだろう。日本のアニメに見る正義感、そして柔道や空手に見る勇敢さ、こういったものに魅せられている少年少女が世界中にいるんだ」
 一昨日の夜半に何度も読み返したメールは尋常ではなかった。闇に紛れるようにして曳航されていく貨物船の船尾に安田の微笑みが見えるような気がした。
「アルがイタリア人だからというわけではないが、我々、日本人とイタリア人とドイツ人は、往時の三国の関係を全否定する歴史観に大いに疑問を呈しなければならない。先週末にメールしたアゾフ連隊のアンドリー・ビレツキーには信念がある。ビレツキーは「かつてのソ連邦を駆逐した解放者としてのナチス・ドイツの戦いを思い起こせ」と高らかに言って収監されたりもしたが、当時のポロシェンコ大統領に勲章を授与されて、今や立派なウクライナの国会議員だ。そのビレツキーとマクレイリとナナの師範、この三者は日本の武士道精神で繋がっている。私はミラノで道場師範をしている二十七歳のナナの意志が、ウクライナのドンバスへ義勇軍として参戦することにあると知ると、情けなくもこの日本人は絶望して飛び降りようとした。そしてアルが救ってくれた。アルとは毎夜毎夜、寝るのを忘れて話し込みたい。アルも地中海の温暖を出でてアルプスを越えてくれないか。大丈夫、オスロのマクレイリ先生がすべての手筈は整えてくれている。私にとってこの時代に生まれたことの絶望と喜びを教えてくれたのはナナなのだ」
 アルは自分よりもやや小柄な兄が波止場の方へふらふらと歩いて行く後ろ姿を見送った。もし弟の自分がこの島を出て行ったらエンリコはどうするだろうか。エンリコはエンリコのまま生きていくさ。そしてこの島を出て行ったアルの悪態神話を紡ぎ出すだろう。点景となったエンリコをウミウシのように潰すこと、一瞬の殺意がアルの口許を緩ませた。

                                            了
逃亡派 (EXLIBRIS)

逃亡派 (EXLIBRIS)

  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2014/02/25
  • メディア: 単行本



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一乗谷   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 元亀四年は後に改元して天正元年、八月十八日という朱夏の極み候のことである。越前は一乗谷の惨状もここに極まり、檜皮葺は言うに及ばず瓦土塀も劫火に焦がされ灰燼と化した。応仁の大乱以降、砕かれた散った亀甲のような日の本を破片粉塵ごと搔き集める大挙に出た信長という男、数百年後の史跡知らずをも刮目させたその男の壮挙いやさ暴挙の一つがここに見られる。夜半まで一乗谷を渡る強暴な火柱は、改暦されて天正となる元号の更なる凶変を予感させるような赤々とした灼炎となった。
 明けて八月十九日、焼け残った一乗谷城の三の丸から項垂れ下る二人の武将がいた。信長から若狭一国を任されて三の丸へ陣を敷いた丹羽長秀の許へ、昨日からの戦果報告として参上した若狭武田氏家臣の松宮清長と粟屋勝久である。両人の疲弊した心中に容赦なく去来する思いは、長らく朝倉に捕らわれている当主孫犬丸(後の武田元明)への忠義、今や仇敵だった朝倉を一掃しようとしている強大過ぎる信長への恐慌にあった。
「叶わんのう、この焦げ臭さは。おぬしはここをやると仰せなら有難く拝領するか?」
 清長はこれまた疲れ切ったような馬の鞍を寄せて苦笑交じりに聞いた。
「奴の首を取ってからじゃ」
 勝久は正直なところ馬首を抱えて眠り込んでしまいたかった。
「奴の首だと、義景の首など、そのうち平泉寺の生臭坊主が持参することだろうよ」
「違う。平泉寺の坊主やら大野の武者狩りやらが巣食っている中へ追い込んだ奴の首のことよ」
 清長は打たれたように背筋を立てて項垂れるように頷いた。
「朝倉衆筆頭の朝倉景鏡(かげあきら)、あの狐か」
 越前と武田家の命運に狐を据えてくるとはさすがの粟屋勝久である。五代続いた朝倉本家が途切れようと、あの狐の景鏡が狐よろしく丹羽殿の辺りを立ち回れば、孫犬丸さまを奉じるも我らの戦続きは途方もない。清長は自棄じみて振り返った。
「ならばじゃ、いっそのこと、お狐さまに馬の轡を繋ごうかのう」
 勝久は手綱を息子に預けて馬上酔揺の体で眠りに沈みはじめていた。
「聞いておったか?そうか、お前も眠そうじゃのう」
 清長は己の疲労の果ての寡黙な足軽列を止めて、それに勝るとも劣らず疲れて鈍重な粟屋の一行を先に行かせた。槍先にふらつかせられているものの足軽あっての軍勢である。その足軽も尻下の馬も、そして己も、飲んでも飲んでも乾いてしまう夏の盛りだ。どこか焼け燻っていない邸跡、すなわち早々にここ一乗谷を見限った空き家然と見紛う構えなら井戸があるだろう。見当たらない。見えるのは二町ほど先の下城戸あたりにはためく織田の桐旗だけである。兎にも角にも、春までは讃えて昨夜は焼き払った一乗谷を出ようか。ふと子の泣き声が右耳についた。清長は赤子が蝉のように鳴り泣く崩れ門の奥を覗いてみる。門柱の軒下裏で乳をやっていた女と嫌がおうにでも目が合った。
 清長は安寧を知らぬ戦国武将という自覚は毛頭なかった。
「さても、己の身を案じるばかり、女子供を置き捨てて、さっさと平泉寺へ逃げてしもうた朝倉義景、この様を御覧じられ」
 女は呆けていたような柳目を猫の光彩をもってこちらへ向けた。赤子の吸い口から乳を残した乳首が弾ける。赤子が驚き泣き出すと薄ら笑いながら女が吠えた。
「この子はのう、義景さまの従弟で、朝倉衆筆頭、大野郡司であらせられる朝倉景鏡さまの三男、犬丸さまじゃ」
 清長は思わず手綱をひいて仰け反った。
「女、気がふれてしもうたか」
 女の笑いは呵々と大笑になって、泣いている赤子を叱咤の末に愚弄しているように見えた。乳が垂れる乳首をさらけ出しながらの鬼気迫る女の笑い顔、殺戮の記憶が双肩に重い白日に直視続けられるものではない。さればこそ、女が言ったことは聞き逃せない。清長はよろめくように下馬した。
「女、ここはその朝倉景鏡さまの屋敷だったところか?」
「景鏡さまのお屋敷じゃ」
「なるほど、早々に退散された景鏡さまの屋敷なら、女、井戸はまだ生きておるだろう」
 女はごくりと喉を鳴らして己の右乳首を上げて咥えた。乾いている。口から糸を立てて下がった右乳首はうまい具合に赤子の鼻先に落ちた。
「井戸は死んだ、井戸の辺りは水を飲んで死んだ者ばかりじゃ」
「なるほど、景鏡さまが毒をまいて退散されたわけか」
「わらわじゃ、景鏡さまに言付かって、兜花を井戸へ入れたは」
 清長は呼応するように喉を鳴らした。女は気などふれていない。さればこそ、女は景鏡への切り口を一つ二つ持っているやも知れん。今のままでは織田はもとより武田もいつ毒の井戸となるやも見当がつかん。清長は女を気の毒そうに見ている子飼いの足軽の竹筒を渡した。
「女、三の丸近くの湧き水じゃ、飲め」
 女は竹筒を受け取ってから足軽の若々しい目元口元に見入っている。そして唇の乳を拭うようにして竹筒に口をつけた。
「一つ聞きたい。その子は本当に景鏡さまの三男なのか?」
「この子?犬丸は確かにわらわが産んだ子なれど、さあ、景鏡さまのお子かどうかということになると…」
「もう一つ聞きたい。景鏡さまと主、義景さま、おなごとしてどちらが好みじゃ」
 女は咽るようにまた笑いだした。苦しそうに徐々に笑いを収めると、赤子に乳首を吸い直させて足軽の方へ竹筒を突き出した。
「わらわはああいう若いおのこが好みじゃ。犬丸のてて親が景鏡さまかどうかなんぞお釈迦さまでも分かるかいな」
 清長がこの女を拾って足軽へ与えことは言うまでもない。赤子は未だ子がなかった病弱の長男へ預けた。
 焼け燻った一乗谷を横目に諸将の思惑が血の汗と重なる日々は続いた。八月二十日、朝倉景鏡に促され大野郡へ逃れていた朝倉義景は、仮の宿所としていた六坊賢松寺を景鏡の手勢二百ばかりに囲まれる。義景は自刃し景鏡は義景の首を持参して信長に下った。

                                       了
だれか、来る

だれか、来る

  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2023/12/24
  • メディア: 単行本



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ソーローヴェル   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

Sørover
 私の文体は、チキン・ハンバーガーのタルタルソースの円やかさに飽いた生意気な少年、しかしその食性から逃れられないロマンティックなだけの世間知らず、おそらくそんなものなのだろう。そもそもがスコットランドに生を受けていながらイングリッシュらしい高慢な視点に汚されていた。インド人のナジャになって書いてみても、メガーラーヤにオードリーは分裂症の鏡像もどきに現れた。英語で書くナジャなら英語を母語とするオードリーの気持ちが分かる?対象に距離を置きながら対象から強引に感動とやらを頂こうとしている半端な詐欺師だ。それでも恥も外聞もなく拙戯曲をDonbasドンバスの民へ捧げる。


二〇二二年 二月二十七日 二十一時

場所
 ノルウェー オスロ

登場人物
 ギュリ…ギュリ・イェンセン
 ソリィミンツ…ソリィミンツ・イェンセン
 外交官…元外交官と称している日本人
 カレン…動物行動学者と称しているアメリカ人
 マクレイリ…マクレイリ・ストラン

(クリスチャニアと呼ばれていたオスロの旧地区にあるヘヴィメタルバーGULLの内装は少々疲れ気味の黒壁と蛇を模した黄金のモール張り。上手寄りにスポットライトが当たった黒い一枚のカウンターに黒い六脚のスツール。下手寄りのライトが当っていない暗がりにテーブルと長椅子の簡単なラウンジ。繰り返し鳴っているのはバンド=メイドの曲「スリル」。カウンターの中にはイェンセン兄弟の剛髭の兄ギュリがマスクをつけて黙々とグラスを磨いている。入口側(上手)の二脚に初老の男(外交官)と中年の女(カレン)が座って透明のアルコールらしきものを飲んでいる)

外交官 勘違いも甚だしい。ウォー・ホースっていうのは、イングランドが舞台の馬の話だよ。
カレン イングランド?イングランドは、たしか…合衆国が戦った国よね。
外交官 独立戦争だよ。随分と古い話だな。それはともかく、私が最初にウォー・ホースを観たのはブロードウェイのミュージカルだった。
カレン ミュージカルって…あなたって外交官だったんでしょ。
外交官 外交官だってブロードウェイのミュージカルぐらいは観るさ。
カレン(うわの空でカウンターに立てかけてあるCDケースを見つめる)ところでさ、この女の子たちが歌っているのって何語?
外交官 日本人のグループだから日本語さ。俺だけが聞き取れる…失敬、俺とマスターだけが聞き取れる日本語さ。
(マスターことギュリがグラスを磨きながら深々とお辞儀する)
カレン 曲名がスリルって?どうせ大したこと歌ってないんでしょ。ま、それでいいんだけどね。
外交官(うわの空で脇に置いてあったニューヨーク・タイムズを取り上げて)大変なことになったな、ドンバスは。ソレダルの娘たちはどちらへ逃げたのだろうか。
カレン あたしの友達はキーウにいるんだけれど、うまく逃げてくれたかな。
外交官 キーウは失敗するさ、ロシア軍の侵攻はね。
カレン それってさ、合衆国やドイツからウクライナへの武器供与が始まるってこと?
外交官 それもあるが、そもそも…
(入口が金属音を立てて開いて、風が吹きすさぶ音がしたかと思うと閉まり、トレンチコートに毛織帽子にマスクをしたマクレイリ・ストランが立っている。外交官とカレンが凝視する中を悠々とカウンターへ近づいて両手に消毒アルコールを吹きかけて正面のスツールに座る。外交官とカレンは慌ててポケットからマスクを出してつける)
マクレイリ(マスクを下げて)ウイルスが蔓延していようと黄金(GULL)は健在だな。いつものを飲ましてくれ。
ギュリ 弟はずっと姿を見せていないよ。
マクレイリ そうか、なるほど、じっとしてられないのはイェンセンの血筋なのかもしれない。
ギュリ(コースターの上にグラスを置いて透明のアルコールらしき飲み物を注ぐ)あんたが呼び出したんなら姿を見せるかもな。
マクレイリ(すぐに一口呷って嘆息)ときどき思うんだ、我々ノルウェー人は生活するために南下していった、度々。本当にそうだろうか。むしろ生活することに飽きて南下していったんじゃないか、とかね。
(カレンがいかにも関心を持ってグラスを掲げて見せる)
カレン 今晩は、普段はフロムに住んでいるアメリカ人です。こちらへ来て十年以上にはなるんですが、発音がノルウェイジアンのように聞こえるといいんですけれど。
マクレイリ 十分ですよ、アメリカの方。乾杯。
カレン 乾杯。あたしはネコ科の美男ばかりを追いかけている動物行動学者で…こちらは今かかっているバンド=メイドにも詳しい若々しい日本人の元外交官。
外交官(小さく舌打ちして面倒そうに)ここのマスターがバンド=メイドやベビーメタルとかの日本のロックに詳しいんでついつい…近くに住んでいます、日本を追われてから。乾杯。
マクレイリ 乾杯。私はこの子たち、店主のギュリや弟のソリィミンツたちを教えていた英語教師です。英語で話しましょうか?いや、やめましょう。今は退官して、日がな一日、TVと新聞三昧です。
カレン 先生が仰った、ノルウェー人は生活することに飽きて南下していった、それって具体的にはどういうことなのでしょう?
マクレイリ 具体的も何もないですよ。お国の合衆国に例えれば、私の勝手な考え方ですが、開拓時代に西部へ西部へと目指していたのは生活するためだけだったのでしょうか?もう一度、誤解を覚悟で言いますが、私の勝手な考え方すれば、東海岸のマンハッタン島などで生活することに飽きて、そう、西部を目指したのでは?
カレン つまり日常に飽きて危険な冒険へ乗り出したと仰るわけですね。
外交官(小さく舌打ちしてギュリへグラスを掲げる)今日はスーシルがねれているだろう。あとこれをお代わり。
マクレイリ スーシル?私もいただきたいな。
カレン あたしもいただきたいわ。そして話が弾んできたからお代わり。
(ギュリはカウンター下に屈んでスーシルらしきもの三皿を取り出して配してから、アルコールらしき透明なものを外交官とカレンのグラスへ注ぐ)
マクレイリ スーシルを肴に飲まれるとはさすがに日本の方ですね。あらゆる魚貝類を酢でしめたスゥシ(鮨)の国…でも私は鰊のスゥシはトッキョー(東京)では食べませんでした。
外交官 私も半世紀以上、あの国で鮨を食べてきましたが、この北の海の魚、鰊の鮨などにはお目にかかっていません。
カレン 何でもビネガーをかけてマリネにしちゃうってのはフランス人じゃない?
外交官(鼻で笑ってカレンのグラスに自分のグラスを軽く当てる)仰っているスゥシの料理の仕方ではお目にかかっていませんが…私の母は山村部、そう、(カレンをチラ見して)フロムのような山村で生まれ育ったものですから、同じですよ、保存食として乾燥させた鰊を煮たりして食べていたようです。
マクレイリ(呷ってから深く頷き)私があなたに、あなたの国に抱く尊敬と親近感は、そこから発していると言っても過言ではないでしょう。まったく食は体質を決定して、食は意志を決定して、食はおそらく思想をも決定しているのでしょう。
外交官 何とも大げさな物言いですな。
マクレイリ あなたのような国際人には大げさで古風な言い方に聞こえるかもしれませんが、ここは王国、あなたの国もたしかテンノー(天皇)という皇帝を頂点となさっている。
外交官 天皇が出てきてこんにちは(カレンを可笑しそうに睨んで)王だ、皇帝だ、天皇だ、と猿山のボス猿のようにね、オスだ、雄だ、と男社会を押し付けられてはねぇ?
カレン 茶化すのはやめて、言っとくけど、アフリカ象やシャチ(鯱)なんかは最高齢の雌がボス扱いなの。
(マクレイリが割り込むように言いかけた時、入口が金属音を立てて開いて、息を切らしてソリィミンツが現れる)
マクレイリ おお、待っていたぞ、フレドリクの末裔にして、王国の誇り。
ソリィミンツ お待たせしました、我らが英会話教室にして、スヴォボーダの檻に誘うくたびれたサタン。
マクレイリ なんとも過激な物言いは血筋だな。しかし外国からのお客さまには、市場での疲れを兄の店で癒そうとする下品な弟の雄叫びだな。まあ、いいさ。奥のラウンジへ行こうか。
(マクレイリは悠々と席を立って、睨みつけるソリィミンツをかわす様に肩へ手をかけて、ラウンジのある下手の方へ軽く押しやる。マクレイリはギュリへ指を立てて二個のグラスを要求しカウンター内のボトルを掴んで、外交官とカレンに向かって軽く会釈してラウンジへ向かう)
ギュリ(マクレイリの後ろ姿から目を離さずに自分のグラスに口をつける)あれでも、昔は、俺と同じように、無口で陰険な先生だったんですよ。いや、陰険なままなのか。
(カウンターのライトが徐々に落ちて暗くなり、ラウンジのライトが徐々に明るくなる)
マクレイリ(ボトルからグラスへ注ぎながら)今日の市場はどうだった?トナカイの胸腺、あれば下あごの唇もいいな、あったら押さえておいてくれ。金はいくらでも払う。
ソリィミンツ (乾杯をする仕草で)羽振りがいいね、ここのところの先生は。
マクレイリ(勢いよく呷って軽く咽る)何度も言っただろう、金は英語と日本語、そして、この腕についてくる。
ソリィミンツ 柔術やら空手の話しだったら聞き飽きてる、帰るよ。
マクレイリ 短気なのは、美人だったが世間知らずのヒステリー女の血かな。
ソリィミンツ 組み伏せられるのは覚悟で一発くらわせようか。
マクレイリ フレドリクも凄みをもって冷静に語れる人だったようだ。そう、イェンセンの兄弟は子供の頃から祖父譲りの寡黙、ときとして冷静な語り口だった。しかしギュリは落ち着いた家長を演じることで精一杯だ。とても祖父のようにモスクワを攻略すべく「現代的なヨーロッパ軍」に志願入隊することなど思いもよらないだろう。おまえは違う。
ソリィミンツ 先生は俺をどうしたいんだ?
マクレイリ 1944年十二月七日、第5SS装甲師団ヴィーキングの第9SS装甲擲弾兵連隊ゲルマニア第7中隊長として黄金ドイツ十字章を授与された、祖父フレドリク・イェンセンの冷徹な気概の血統を私に預けてくれ。
ソリィミンツ だから会ったこともない爺さんがナチスの元中隊長だったとしても、今のウクライナのスヴォボーダ(全ウクライナ連合「自由」)とかいうのが、遠いオスロの市場の腕っぷしもさほどじゃない俺に何を期待するって言うんだ?
マクレイリ 私はおまえの英語教師だった。今は週に二度ばかり日本語と格闘技を教えている。
ソリィミンツ だから二、三人を教えているだけのあんな教室で、随分と羽振りがいいもんだって言ってるのさ。
マクレイリ 私に投資する人間は、私が育てる才能に投資してくれているのさ。おまえの血統はお飾りにすぎない。私が言いたいことは、おまえの一四九もある高いIQを預けてくれ、ということだ。
ソリィミンツ 血統がどうの、IQがどうの、先生は俺を猟犬に育てたいだけだろう。
マクレイリ 猟犬か、なるほど、いや、猟犬は飼い主を裏切らない。血統の誇りもIQを背負った宿命についても分かっていない。
ソリィミンツ だから遠いウクライナの極右政党の連中が俺にどうしてほしいって言うんだ。
マクレイリ 聞いてくれ、おまえがよく引っ張り出すスヴォボーダよりも、ウクライナ国家親衛隊の中核をなすアゾフ大隊の方がはるかに分かりやすい。酔う前に頭に浸み込ませることだ。
ソリィミンツ 聞いているよ。
マクレイリ アゾフ大隊も今はアゾフ連隊だが、そのアゾフ連隊のアンドリー・ビレツキー、彼はかつて「白人による十字軍を率いてユダヤ人に率いられた劣等人種と戦う」と宣言したり、テロリストとして収監されたりしていた。しかし当時のポロシェンコ大統領に勲章を授与されて、今やウクライナの国会議員だ。彼は少年時代から「ソ連を駆逐した解放者」としてのナチス・ドイツの戦いに、ナポレオンの会戦を寝物語のように聞いていたバルザックのように心酔してきた。そのアンドリーと私は日本の武士道精神で繋がっている。
ソリィミンツ おかげで俺も兄貴も、日本語で歌う日本人のバンドや瓶を叩っ切る空手に夢中なおかしなノルウェー人と相成りました。
マクレイリ アンドリーはおまえが作って流した誹謗中傷を大変気に入っている。一昨年の「黒い太陽尼」だよ。カンヌ国際映画祭でルイユ・ドール審査員特別賞とかを受賞した「バビ・ヤール」の監督セルゲイ・ロズニツァを叩いたあれさ。あのデマ、いや、あの闘争の号砲の構成力、そして何と言っても悪魔のようなコンピュータ知識、つまりはその不機嫌そうな額の裏のIQをアンドリーはご所望なのさ。
ソリィミンツ(嘆息を漏らしてから暗いカウンターの方をちらりと見て)日本の武士道精神で繋がっているって言ったけど…あそこにも日本人らしい客がいるけど、どう見ても頭は良さそうでも獰猛なバイキングには見えない。
マクレイリ あの繰り返される曲、バンド=メイドの「スリル」とかいうらしいな。あれこそ正にかつての日本の海賊「倭寇」の曲、すなわちバイキングの曲じゃないか。
ソリィミンツ(頭を抱える仕草)俺は兄貴が好きなんだ。兄貴はあの市場で、この店で、俺をずっと食わしてくれた。俺たちはもう兄弟二人だけなんだ。
マクレイリ 兄弟二人だけが残った、私もそうだった。そして、今日も、今晩も、この瞬間にも、ウクライナのドンバス地方では兄と弟、あるいは姉と弟が破砕された瓦礫の下に取り残されている。
ソリィミンツ(グラスを勢いよく呷って)たしかフレドリクはスウェーデンのイースタッドで没したんだよな。
マクレイリ 墓参りでもしていくつもりか。
ソリィミンツ まさか…先生に言われるまでもなく、ここオスロが俺にとって危険になってきているのは感じている。マラガあたりまで南下する資金繰りをしてくれ。
(マクレイリが満足そうに頷いてソリィミンツの肩を叩いて、そして席を立つとラウンジのライトが徐々に落ちて暗くなり、カウンターのライトが徐々に明るくなって、マクレイリは「スリル」に合わせて揚々とスツールへ戻る)
マクレイリ ソリィミンツも酒が強くなったな、一人で飲ましてくれとさ。こっちも飲みなおすか。日本人の方とアメリカ人のレディへも一杯ずつ差し上げてくれ。
外交官(鼻で笑ってカレンに目配せして)もう帰ろうと思っているとこれだ。
カレン このスーシルだっけ?これは危険だわ、爽やかで、海の男っぽくて。
外交官 私のようだって言っているのかい?
カレン 茶化すのはやめて、老いてもなお盛ん、って日本語でどう言うのか知らないけれど、スーシルはあなたが言ったような乾燥させた鰊じゃなくて、見なさいよ、若々しい(ギュリをちらり見て)弟さんのような鰊なんだから。
マクレイリ アメリカの方、この私も、もはや乾燥鰊ですかな?
外交官 先生、ご同輩、ここノルウェーの干し鱈と同様、我が日本では乾燥させた鰊の方がはるかに高級品なのです!乾杯!
カレン 何だかよく分からないけれど、乾杯。
マクレイリ(ギュリをしっかり見据えて)歳は取りたくないもんさ、乾杯。

                                          幕

楕円関数論 (シュプリンガー数学クラシックス)

楕円関数論 (シュプリンガー数学クラシックス)

  • 出版社/メーカー: シュプリンガージャパン
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本



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ゴルメサブズィ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 2019年7月21日、ウクライナのキエフ(後にキーウと発音するようになってキエフという響きが懐かしくなるとは誰が想像しただろう)で最高議会選挙が行なわれて、ウォロディミル・ゼレンスキーが率いる新党「スルハ・ナロード党」が、424議席中240議席以上を占める圧勝で議席ゼロから一気に第一党になった。
 僕はこの正午のニュースを桜木町の「シン」のTVで茫洋と見ていた。ロシアとかの国が日本と朝鮮半島のように腫れ物突っつき愛憎史の間柄とはね。普通にTVをつけていればロシアに近い黒海寄りで何やらキナ臭いことは知っていた。それにしてもウクライナといえば京都のあの店だ。
 僕の記憶は閃光のごとく、北山通に沿ったウクライナ料理の店を手繰り寄せてしまう。五十を過ぎたばかりのラーボチニク(店主)であるイーゴリとハジェイカ(女将さん)ターニャのボブリャノフ夫婦、そして一人娘カーチャの親子三人が営む十三席ほどの可愛い店「イリヤІлля」のことである。僕はロシア語学科の友人の紹介で一日四時間ほどアルバイトとして二年ばかりお世話になっていた。 母娘に「梅太郎冠者」などと呼ばれて悦に入っていた自分がもはや気恥ずかしい。今から思えば薄給の極みながらも夢のように楽しかった。サンクトペテルブルク生まれの店主イーゴリは、夏になると仕入れや避暑を兼ねて奥方ターニャの故郷キエフへ帰省していたので、男は自分だけの火照る飛び交う夜。京都での日々は店の三和土に根付いた紫御殿のように愛おしいものだった。
 就職活動とかで「イリヤ」を辞めてからは幸せ過ぎた反動そのものだった。なんとか卒業して生まれ育った東大阪に帰ったものの、根っからのナマケモノには金型工場や化成加工の営業などさっぱり身につかず、今は流れ着いた先の横浜で不動産会社の総務部で欠伸ばかりしている。そこへキエフでの騒乱ときて僕は大いに刮目していた。
 話を一触即発じみてきたウクライナへ戻す前に「シン」について言及しなければならない。横浜だからというわけではないが、一見、フライパンを煽っている町中華のような外見の「シン」は、一口で言えば中近東風味の無国籍料理店である。レバノン帰りの大友伸輔(おおとも・しんすけ)が一人できりまわしている屋台のような七席の店だ。僕がここで週二から三で食しているのがゴルメサブズィ。これが嵌るんだ。
 ゴルメサブズィはイランの具沢山の黒豆スープである。パセリやコリアンダーの煮込まれた葉緑は見方によっては毒々しいが、葱類や乾燥レモンなどの香辛料が効いているのでカレーのように白飯(チェロウ)にかけて食されているらしく、すぐに○△ライスとかに飛びつく日本人なら一度はお試しあれ。
「日本へ帰ってくると決めた半年ほど前かな、前から気になっていたイランに立ち寄ってレシピを得てきたわけよ。この前も言ったように、磯子に生まれ育ってずっと横浜、でもって、あそこの弁天橋の際にあった銀行に勤めていたらさ、何かこう体調を壊しちゃってさ、銀行をさっさと辞めた。辞めた時がさ、ホメイニがちょうどイランへ戻った時でさ、イスラム革命とか言っちゃってさ、イランに何故か興味を持ったわけよ」
 僕のような平穏と金髪とミルク肌が大好きな者にとっては、大友さんのように危険信号が鳴りっぱなしのイランへ勢い行ってしまう病み上りの気が知れない。そしてヴィザが下りないと知ると、帰るでもなく一旦エルサレム着でシナイ半島を数年ぶらぶら…やがてレバノンのベカー高原で、観光客相手のトルコ料理も恐れをなすような繫盛店のシェフになったとさ。
「今でもこうして鍋をかき混ぜていてさ、ふと目を上げると日本人ばかりでさ、何かこう夢でも見てるんじゃないかって気分じゃん。八百屋に行くとリークやフェヌグリーク、黄えんどう豆が見当たらなくて焦っている俺がいるわけよ」
 僕はゴルメサブズィがけライスをかき込みながら唯一の飲食店体験、京都のウクライナ料理の美味しさをぶつけようとしたが、ターニャの二頭筋とカーチャの後れ毛うなじのミルク肌ばかりが去来して「あれ、ボルシチとヴァーレニキしか記憶にない」という始末。ゴルメサブズィとボルシチじゃ異種格闘技のようなと言ったら言い過ぎだろうか。大方の日本人はボルシチがロシア料理だと思っていて、一見水餃子のようなヴァーレニキがペリメニだと思っている。店主イーゴリはサンクトペテルブルク出身だがキエフを宇宙の根源のように羨望崇敬していた。そこへもってきて昨今の一触即発じみてきたニュース。検索してみれば「イリヤ」は営業しているようだが、あの日本贔屓で明朗だった娘カーチャが簡単なホームページひとつを作っていないことが気になった。
「若くて馬鹿野郎だった俺はさ、アメリカに盾突くイランがどうも格好良く見えたんだろうな。でもって、馬鹿なまんまだとすると、大国ロシアに盾突こうとしているウクライナが格好良く見えそうなんだけれど…ウクライナのユダヤ人虐殺とかのネオナチっぽい報道だとかさ、イスラム教徒への侵害の報道とか見聞きしちゃうとさ、どうも格好良く見えるだけじゃ馬鹿まる出しかな、とか思っちゃうじゃん」
 ここで第二次世界大戦前からのウクライナに対する知識不足、ミルク肌のカーチャの記憶に惑う優柔不断な僕は、皿底のゴルメサブズィを啜ることに逃げ込もうとした。それを見計らったようにガラ鳴り引き戸が開けられる。見つけたと言わんばかりに翡翠ばりのラメがかったジャケットのエイコのご登場。
「あたしも梅太郎と同じのちょーだい。カルピスソーダも一緒にね。二人で難しい顔してるから何かと思ったら、やっぱゼレンスキーじゃん。戦争が始まっちゃうね。だってゼレンスキーが大統領になったらさ、あの小っこいプーチンは黙ってないっしょ」
 僕は彼女の訝んだ美しい眉から真っ赤な唇を忙しく観察した。今や神戸っ子も憧れる浜っ子言葉(勝手にそう判断させてもらえば)を流暢に捲し立てるエイコがいた。
 四年前の春先のことだった。市内の女子大学の中近東講座へアラビア語講師として招聘されたエイコ・ハジャル、イラン系アメリカ人だという三十二歳の彼女を見分したいアパートへ案内する役目を暇な僕が仰せつかった。社名ロゴが入ったレモン色のウィンドブレーカーを着た僕は、伊勢佐木町の蛇の看板の前で些か緊張しながら彼女を待っていた。小春日和に上着を脱いだ女たちが行きかう。アラビア語の先生は未だ厚着のまま冬の様相だろうと思っていたら、過ぎる人も羨むこと然りな背の高い青林檎色のブラウス姿の美女に声をかけられた。
「初めまーして…ヨコハマ知りません…よーろぅしぃく」
 エイコが案内したアパートを気に入ったのか、案内し終わった後の僕との映画談議に乗ったのか、はたまた案内した僕のフェミニストぶりに参ったのか。京都でボルシチ皿を運んでいたころの僕は戯曲家志望だったので、美貌をドキドキちら見しながら偶々、場末で観たナギーブ・マフフーズの脚本による「カルナック・カフェ」なんぞを話題にした。後にも先にもアラビア語に顔を顰めながら映画を見たのはあれが最後だろう。いずれにせよ「ヴァイオレント・ムービー私見ないです」と恥ずかしそうな上目遣いだったエイコが四年経ったら「二人で難しい顔してるから何かと思ったら、やっぱゼレンスキーじゃん」と横浜に生きるアラビア語講師にさっさと大変身。
 僕がわざとらしく腕時計を見ながら席を立とうとすると、エイコがゴルメサブズィの皿を受け取りながら溜息混じりに言った。
「こうなっちゃうとね、梅太郎は芝居好きで映画好きじゃん?だったらウクライナ人の監督の『ドンバス』は観たいじゃん?」
 僕は観念して座り直した。そして彼女のカルピスソーダを一口飲んで、午後の予定を問題の多いアパートのクレーム処理へ転換する。エイコが悪いわけじゃない。もちろんウクライナが悪いわけでもない。大友さんのゴルメサブズィが悪いのだ。
 三年後、ロシアがドンバス地方に侵攻してから、やっと僕とエイコは「シン」で待ち合わせてセルゲイ・ロズニツァ監督の「ドンバス」を観に行った。

                                       了
聖トマス・アクィナス (ちくま学芸文庫 チ-7-1)

聖トマス・アクィナス (ちくま学芸文庫 チ-7-1)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2023/08/09
  • メディア: 文庫



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開幕   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 四匹の猫 Se levanta el telon 開幕

 マドリッド駅に着いた。
 マックことマキシモ・ガルシア・ヴァレンティンは、これほど素晴らしい駅を他に知らない。燃え残った遺跡のように不敵な威容の外観。様式がどうのこうのと語る前に、黙壁の弾痕のような小穴をなぞってみたくなる。マックはもちろん内乱を肌身に知らない。しかし駅構内に入ってから斬新な植樹と彫塑を見ると、自分の国が内面の高まりを抑えきれない正直な農夫のように思えるのだった。昼のうちは陽に感謝して生きればいいのだ。疑惑、些細な悪態、躓き、悪いことは夜のほんの一時にすぎない。そしてこの駅はスペインそのものだ、などと高揚してくる自分。マックは小さく吹き出してから首を傾げる、不可思議なほどに純情な国民性について。やめよう、そもそも首都を去るにあたって国民性を云々言うのは感傷からなのだろうか。いずれにせよ、マックはこれからAVEに乗って遥かなビィゴ(Vigo)を目指している。豚の丸焼きを饗しないではいられない農夫の都から、カンタブリア海の鰯を愛でる漁師の都へ旅立つのだった。
「あんたはレイガダにいる頃から、子供の頃から、釣りが好きで、魚や蟹や石ころが好きな変な子だった。ホテルに魚貝を納めているそのお店、レコンキスタ(Reconquista)の社長も釣りが好きで、本当かどうか冗談なのか、十六歳まで海賊になろうと思っていたとか言ってるよ」
 マックは誰よりも姉を敬愛していた。姉アンジェリカが紹介してくれた海鮮卸売レコンキスタのことを想うと、音もなく動き出したAVEの硬質な窓外に、青黒い海老が弾けるように見え隠れした。そうだった、大洋と海老と神に唾する海賊は、マックがレイガダの葡萄畑で雲間に見ようとしていたものだった。
 レイガダ、そこはモンフォルテ市内からファンモンテス通りを東北へ行った村である。ヴァレンティン家は葡萄と豚で生計を立てて四世代を経てきた。それ以前の祖先についての噂、英国の海賊、成り上がりフランシス・ドレークの手下ながら、スペイン女に騙されてドレークから離反した奴だったなどと。
「あたしもさ、最初は田舎娘らしくマドリッドに憬れていた、正気なところさ。でもビィゴに来て吹っ切れた、Vicus の娘にはVigo あたりが楽園だってね」
 マックは姉が洒落たラテン語のVicus(村)の言いまわしが、早口で機転が利くダビドからの影響だと最近になって知った。姉は小才をどこか玩んでいる夫を敬愛していた。姉アンジェリカは、思考の果ての断崖で躊躇している男たちに、桟橋で荷を積み込み始めた運命に抗う帆船を毅然と指差すような女だった。そんなアンジェリカが弟マキシモに愛されていたことは、単なるありがちな姉弟の愛情という以上に父性的な放任主義が見え隠れしていた。
「都落ちじゃない。そもそもガリシア人からすればだね、マドリッドなどはアメリカのワシントン扱いじゃないか。つまり単なる首都、つまらない中央の豚小屋さ。何を言いたいのかというとね、アメリカなら海に向いたニューヨーク、それは同じく海に向いたビィゴに当てはまる。そうさ、マドリッドでのセールスマンごっこは終わりだ。幕が上がる(Se levanta el telon)のはここ、ビィゴからさ」
 バスク語Urzaiz駅なるVigoUrzaizで迎えてくれた義兄ダビドは自慢げにそう言った。
 ダビドは俗に言う苦労人だった。ヘレス・デ・フロンテーラの料理店、トリハとアヒージョを売りものにしている飯屋の三男として生まれたが、三歳のときに母親が他界したので父と長兄夫婦に育てられた。だからというわけでもないが、辛口のシェリーを大事そうに飲む以外は、とても歌って踊るアンダルシアの男からは遠い憂いが見え隠れした。
「憂い?リア・デ・ビィゴ(Ría de Vigo)あたりを男が一人で散歩すれば、誰だって寂しそうないい男に見えるものさ。ダビドがずっとビィゴにいるのはね、別に故郷のヘレスに嫌な思い出を持っているわけじゃなくて、敬遠しているのさ、今もって彼と妹のフアナに金の無心をしてくる長女のカタリーナを」
 姉のアンジェリカはそう言うと、それこそ憂いた少女のようにボーザスの浜辺の壜を重そうに蹴ったのだった。
 アンジェリカは高校を卒業後、ビィゴのホテルに勤めて、二十三歳のときにホテル内の宴会場に勤務していた十歳上のダビドと結婚した。よってマックがヴィゴに到着したとき、姪たちは五歳と二歳になっていて、姉夫婦は子供の教育とレイガダの老父母について話すことしきりだった。ヴァレンティン家のことを真摯に思いやる姉アンジェリカ、そして開幕したばかりのヴィゴ戦に未だ夢見る弟マキシモがいた。
 マックは姉アンジェリカとダビドが住まうカルメ地区の中層アパート、その同じ棟の一階になんとか腰を落ち着けた。一階といっても半地下であり窓目線が地上であるのは致し方ない。未だ少壮たるマックにとって日々はまさにレコンキスタでなければならない。ガリシア州最大の港湾都市ビィゴは、マックにとってひたすら海へ向いた懲りない開幕の地でなければならなかった。

 レコンキスタは湾岸道路に沿ったコンサートホールを望める通りにビルを構えていた。「レコンキスタ」という商号はヴィゴは無論、スペインではありふれている。フランスから解放されたレコンキスタの日は言うまでもなく三月二十八日であるが、酒場や流行りのスポーツジムにはありがちな「レコンキスタ」も加工卸売業では珍しい。この辺りではありふれたスペイン継承戦争に従軍してヴィゴ湾の海戦で散っているガリシア人、社長一族の祖先もその根っからのガリシア人故であろうか。
「ここはだな、ヴァイキング、海賊ドレーク、そしてトルコ、フランス、といった連中に随分と食いものにされたってわけだ。だからマドリーがどうにかなろうとヴィゴは逞しく強かに生き続けるしかないのさ」
 社長のセルカ・セグンド・モラレスはそう言いながらレアルの白シャツの脇腹に脂をなすりつけた。シャツの年季の入り様を見て微笑むマック。淡白な鮫のフライは初めての味わいだったが、マドリッドを遠く離れても隠れたレアル・ファンを見るのは初めてではなかった。豪快な鮪延縄漁師を想わせるような日焼けした横顔のセルカ。しかしセルカの豪放磊落さは歓迎会の夜だけで、勤務中は銀糸を混ぜたメタリック色のスーツを着こなした、お洒落で沈着にして果断を見せつける社長だった。
 セルカのようなキャプテン、セルカのような五十男になること、と三十四歳になるマックは少年のように憧れだしていた。
「モラレス家っていうのはだな、おまえが聞いているように、北の海賊なんかと戦ってきたガリシア人の古い家系らしいけど…社長、セルカはだな、あれは先代の養子なんだよ、実はな」
 加工場の場長ハメロ・アセンシオは、魚貝の選別と加工、帳票と納期確認まで、マックに手取り足取り懇切丁寧に指導してくれた。優柔な親父然としているハメロが、行きつけのバルでピンチョスの串を舐りながら「セルカは養子」だと言ったとき、マックのほろ酔いを裏返すような感覚があった。あの颯爽とした社長が養子?だからといってハメロの後の言動はセルカを揶揄するものでもなかった。むしろ養子セルカは先代に見出された者、ここ十年ほどで会社を飛躍させた救世主。マックは港を出航しポルト沖を南下しての地中海挿話に聞き入った。
「なんだセウタも知らないのか、ジブラルタルはドレークのもので、セウタはアフリカ。先週の新聞にもちらっとあったけど、モロッコから国境の柵を乗り越えてセウタに入ろうとしてる奴らが今でも絶えない。そのセウタ市の出身らしい、セルカは。もちろん、モロッコ人でもアルジェリア人でもない。本人はサブサハラの血が混じっているのかも、とか冗談を言っている。しかし場所柄と言おうか、セルカの生まれつきの頭の良さもあって、あの通り、フランス語でも英語でも、最近は鮪を買い付けに来る日本の商社のために日本語まで話そうとしている。大した奴さ、うちの社長は」
 マックは一段落したところでカウンターの向こうの金髪娘を一瞥しながら聞いた。
「社長のお子さんはまだ十代ですか?」
「セルカに子供はいないよ。見ての通り男っぷりがよくて仕事ができるから女どもは蟻のように群がる。今の奥さん、とは言っても正式に結婚していないようだけどな、あれで三人目かな。つまり二度、離婚しているっていうことか。俺かい?俺はあんなことは一度で沢山。イベリコみたいな女房とカマス鰆みたいな眼鏡をしている娘が一人。おまえは?」
 マックはどこか聞こえよがしにマドリッドでの結婚と離婚を披瀝した。
「なるほどな、いい男はいい男なりに大変だっていうわけだな。だったらセルカに、社長に二番目の女がいそうな所を教えてもらうといいさ」
 ハメロは目を細めて羨望とも嘲笑ともつかない微笑のまま項垂れるのだった。

 海水浴には早すぎるボーザスの海水浴場で大竿を振るって投げ釣りをしている男。金髪を靡かせてサングラスのフレーム曲線がどこか懐かしい。近づいてみると顎髭も胸毛も灰白色にわだかまっていて、弛んだ咽喉や胸元の夥しい染みから老齢なのが見て取れた。刻一刻と投げる度に背中が曲がっていった。何も釣れていない、外洋から流れ着いた木切れひとつも。その繰り返される徒労そのものを見続けているマックは気づいていない、自分以上に孤独に見える有り様を貪っていることを。そして孤独を共有したいという欲望ほど傲慢なことはない。
「もしかしてマキシモ・ヴァレンティンじゃないかい?」
 海水浴場に沿った背後の湾岸道路、そこに日がな縦列駐車して午後を貪っているタクシー群の方から声が掛かった。
「俺だよ、フリオ・グラン・プエンテ、忘れたかい?まだ忘れちゃいないだろう」
 マックはその病的に肌白い小柄な中年男のバスク訛りを忘れるはずがなかった。田舎者の自分をそれなりのセールスマンに仕立て上げてくれた班長、英会話教材販売の「マテオ商会」のグランではなかった上司フリオ・プエンテである。どうして班長がここにいるのだろう?思う間もなく机を並べた先輩が言っていた「あれはヴィゴ出身さ」の言が下りてきた。
「おまえが辞めた次の次の年かな、上の分裂に次ぐ分裂で滅茶苦茶、お袋を一人こっちへ残していたんでな、女房と娘を連れて里帰りして、タクシーの運転手ってこと。カルメンはどうしたんだ?」
 マックは言葉を探しながら腋下に汗を浮かべた。逃げるようにして辞した会社の上司に、子供ができなかった夫婦生活の喜劇というものを話すことは、初めて書き上げた戯曲をレイガダの大人たちの前で読みあげた気分だった。
「ほう、やるじゃないか、もてもてマック、あんな美人をあっさり手放すなんて。それはともかく、おまえはたしかモンフォルテじゃなかったっけ?だよな、そうそうモンフォルテからファンモンテスを北へ行ったところ」
「レイガダ村です」
「そうそうレイガダだっけ、若い時に遠乗りして行ったことがある。今となっちゃヴィゴ市内を適当に流しているけどな。仕事は?レコンキスタって?城下のマルカタ通りあたりかい?もっと湾岸道路寄りね…あの辺の魚介卸売業って言ったらドン・マカリョンが有名だけれど…あれほど大きくはない加工場ね。それはともかく、憶えているかい、ホセの奴のことなんだけど…」
 フリオは聞かれもしていないマテオ商会への恨み言を散々言い散らかして車へ戻っていった。
 気がつくと投げ釣りの老人は、投げたままの竿を砂地に差し置いて座り込んでいた。
 背を丸めて塞いで、何を思っているのだろう。断じて釣れていないことを憂いてはいない。自分と同じように「あの時に勇気をもって続けていれば」とか逆に「あの時に勇気をもって転向していれば」とかの記憶の糸を手繰り寄せては、頑なな結び目を解いた故の惨めなほつれがいつまでも愛おしいのではないか。馬鹿馬鹿しい、ゴリオ親父のように娘からの無碍な頼みに苛まれているだけかもしれない。あの人の孤独は自分の孤独ではない。そもそも言葉を棄てては生きていけないが、己の孤独を都合よく言葉に便乗させるな。マドレーヌを口にして家族への思いに浸っているフランス人じゃあるまいし。マキシモ・ヴァレンティン、優しくなるには早すぎる。浜辺で独り見るもの聞くものに詩人ぶっているのは、虚空に未だ溺れそうなほど自分が若いからだ。
 マックは元上司がだらしなく左腕を垂らしている古びたホンダへ向かった。
 世間は執拗に狭くできている。そうだ、マルカタ通りのバルへ行こう、ハメロの親父も休日のこの時間にはいないはずだ。スサーナとか呼ばれていたな、あの金髪、いなかったらいないで飲むだけだ。

 スサーナがいるバルの前でホンダを降りた。フリオが「昔のよしみ」とか言って運賃を取らなかったとき、感謝よりもフリオとまた出会うという現実に倦怠を覚えた。ワインが酢になるのを待てるのも待てないのも己の気分次第。いつも入り口近くにいるスサーナがいない。こうまで熱くなったらカニャ(生ビール)しかないだろう。
「マキシモ!背中にいい汗をかいているじゃないか」
 一口飲んでから声をかけてほしかったような不貞腐れ面で、マックがテーブル席へ振り返るとハメロの姿はなかった。ずっと奥にグラスを掲げたセルカがいる。そして背を向けて笑っていたスサーナが振り向いた。
「ちょっと話がある。仕事の話じゃない」
 セルカはレアルの上下で膝出し腕まくりながら、仕事中の社長然とした表情で頷いた。スサーナへの目配せに彼女は自分のグラスをもって席を立つ。金髪がマックの胸元を過ぎたとき、力学の授業中に感じた整然とした味気なさが去来した。仕事の話じゃなければ、モンフォルテの奥からやってきたマキシモ、こんな若造なぞ放っておいて彼女と笑いあっていればいいじゃないか、自分ならそうする。
「今日は何をしていたんだ?下着の洗濯なんて言わないでくれよ」
「ボーザスの浜を歩いていたら…マドリッドにいた時の知り合いに声をかけられて…その人はここの出身でタクシーの運転手をやっているんです」
 セルカはサングリアらしき飲み物を照明に翳して最もそうに頷いている。この聞き上手そうな仕草が人望に繋がっているのだとしたら、レイガダの豚飼いの息子も見習って吃り口調を抑えこまねばならない。それにしてもレアルの白が似合っていた。
「工場長がここに入り浸っていることは誰でも知っているよ。マキシモもお付き合いなら大変だな」
 スサーナがカニャの中ジョッキの傍に音もなくサングリアのグラスを置いた。
「おしゃべりなアセンシオ工場長だから君の耳にも早速、入っているだろうが、私はモラレス家の養子で、海の向こうの飛地セウタで生まれて十三歳までそこで育った。アフリカにあるセウタとは言っても、今でもそうだが、セウタ市内で生活している限りでは、ここヴィゴや弟がいるマラガと何も大差はない。ただ背後にモロッコが控えている。カサブランカのモロッコだ。どうだ、地の果てのようなセウタでも一度は行ってみたいだろう」
 マックはカニャをさておいて喉を鳴らしながらサングリアを呷った。
「そんな大層な話じゃない。まして仕事の話じゃない。あの子知っているかい?ここではスサーナ。このバルへよく来ているなら知っているか」
 マックの脳裏では歓喜と落胆が交差する、社長から彼女を与えられるのか、彼女が社長のものだと断じられるのか。
「あの子ももう二十六歳、生まれ育ちはアルジェだが、詳しく聞いてみるとカディスの海商、私に言わせれば海賊だな、そのカディスの男とサブサハラの一族の女の混血さ」
 マックはカウンターの向こうで立ち働く金髪に思わず眼を細めるしかなかった。
「フランクフルトあたりから流れてきたドイツ女だとか思ったのか」
 セルカは初めて無邪気そうに笑ってみせた。
「マドリッドにだって金髪に染めた女は沢山いるだろう。アクアマリンのように銀色がかった青い眼のドイツ女を見たことないのかい、残忍そうな眼の。最近じゃ日本人にも金髪に染めている女がうろうろしている」
 セルカは笑いに嵌る質なのかしばらくレアルの腹を押さえていた。
「一度、海の向こうへ連れていってやるよ。さて、ここからがさらにロマンティックな話だ」
 好みはラテンで金髪は二の次と言いたかったマックは瞳孔を開くしかなかった。
「いいか、スサーナは難民として受け入れられた。正確にはアルジェリアの難民であってモロッコの難民ではない。そうさ、不穏で険悪な間柄のモロッコの難民だったら私も受け入れる筋合いはなかった。あれは十一年前だ、セウタの大学病院に勤務する親友、奴は私の命の恩人でもある、その親友の妻がアルジェリア人で、フランスはもちろんスペインにも受け入れてもらえない縁者の娘、つまりスサーナを、私が身元引受人として受け入れ対処してもらえないだろうか、と言ってきた」
 セルカが尾羽は優美なのだがくちばしが凶悪な猛禽のように思えた。
「マキシモ、私が今ここにあるのはセウタの親友のおかげなのだ。金のことはあまり言いたくないが、セウタとアルジェの役人たちにはそれなりに使ったよ」
 マックは渇きを覚えてカニャの残りを飲んだ。ハメロの親父の語り口じゃこうも刺激的ではない。それでスサーナの今現在はそのままセルカと同期なのか。
「勘違いしないでくれ。あの子がヴィゴに来た時は十五歳、同い年のヴィゴの娘たちと比べたら全くの子供、瘦せ細った子供だった。私もあの子を自分の女にするほど人生に飽きているわけじゃない」
 後になってセルカのこの時の間の置き方が絶妙すぎたように記憶している。
「先週、セウタの大学病院から連絡をもらって、私を少々悩ませているのは、彼女の、スサーナの十九歳の妹なのだ」
 マックはサングリアのグラスを取って、自分も猛禽として飛翔しなければと覚悟した。

                                       了
ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2000/09/26
  • メディア: 単行本



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アルシング   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 ハトルドゥルは議事堂の煉瓦積みの佇まいが好きだった。その集会所らしい佇まいからは、祖国の会議場たる威風は微塵も感じられなかった。凡庸な煉瓦積みの佇まいである議事堂、そしてアイスランドの誇りといえる荒涼とした自然、これらは実に好対照で小気味よかった。
「ところで、あなたは鯨は好きですか?」
 シンこと大友伸輔は、カメラのファインダーから眼を離して、唐突に背後の「オーディン」の店主に訊ねた。
 ハトルドゥルはシンの英語を聞き取るのに難儀していた。ひとつには七十を過ぎるあたりから耳が遠くなったこと、もうひとつは、店で金持ちのアメリカ人を相手にするようになってから、アメリカ英語なる米語が老いた鼓膜を冒しだしてきたこと、などが挙げられた。
「お若い日本人、その質問は、保護に躍起になっている連中が言っているような意味での鯨のことかな」
 シンは思わず左頬の傷に手をやり微笑んだ。ベカー高原でシーア派に敵対する輩から闇討ちされた痕である。その折は二十代も終わろうかとしていたが、気がつけば中東を離れてレイキャヴィクに立った今は三十四歳になっていた。
「もう若くもなくなったが…ただ海外での生活が長くなると、伝統的な日本人、そういったことにいつのまにか拘っていて、日本人ならおそらく言うだろう、聞くだろうということを聞いてしまう。肉ですよ、鯨の肉は好きですか?」
 ハトルドゥルは反り返って笑みを晒して、蜘蛛の巣を掴んできたような毛むくじゃらの右手を議事堂の方へ振った。
「あそこで決まったんだ。鯨が好きで好きで堪らない連中が、鯨を食べたくて仕方のない連中が、あそこでオーディンが下された恵みを喜んでいただくことを決めたんだ、四年前には調査捕鯨を再開すること、そして去年、商業捕鯨を再開することを」
 シンは頷きながら議事堂の簡素な正面をもう一度カメラのファインダーにはめ込んでみた。
「あなた達のアルシングは…手続きというよりも、そこに決定がある、というわけか…」
 ハトルドゥルは腕時計をちらと見てから、苦笑まじりな顎を北東の山麓の方へ悠然としゃくった。
「我々のアルシング、しかし、そこはヴィグディスやエリンのような美女が顔合わせする所さ。曇ってこないうちにシンクヴェトリルに向かおう。我々のアルシングは、いつもそこにある」

 かつてアルシングが開催されていたシンクヴェトリル、記録に残る九三〇年、ノルウェーからの移住者によって、そこでアルシング(Alþingi)と称される民主的な全島集会が開催された。およそ千年前から具体的に立法と司法が機能していたのである。膿み疲れて皮肉しか口にできなくなった方々が、どう見ても丘陵での原始的な集会ではないか、と言ってしまえば鯨捕りの自治に対して無礼であろう。すでに中世の身分制議会ではなく、近代議会が存在していたことになるのだ。そもそも、そこは只ならぬ場所なのである。ユーラシアプレートが東に、北米プレートが西に裂け広がっている様子が目にできる、大西洋中央海嶺の地上の露出部分なのである。よって現在は国旗が掲揚されているシンクヴェトリルこそは、オーディンに祝福された鯨捕りが集う聖地に他ならない。
「商業捕鯨を再開することに反対した人はいなかったのですか?」
 シンの捕鯨に対する拘りは、海外からの視点で伝統的な日本人を見直そうという思考の一環だった。
「いただろうさ。特に四年前の調査捕鯨の再開そのものを反対していた連中は、天地がひっくり返ったようになって、真っ赤になって反対していただろうな、溶岩の塊みたいになって」
 ハトルドゥルの子供っぽい口調は、裂けた地表が見せる岩塊の壁廊に沿って共鳴しているかのようだった。
「聞いていいかい。日本人は、そもそも何を恐れているんだね?」
 シンは両手の中指でこめかみを突く仕草をして渋面になった。異邦人になってから身についてしまった悩ましいモンゴロイド面である。
「それなんです。日本人が恐れているものが何なのか、それが、ずっと日本へレバノン情勢を打電してきた…ヒズボラを中心にして中東情勢を送ってきた自分が、日本人として拘って触れようとしているもののようなんです」
 ハトルドゥルは息子のような華奢な肩に手を置いて首を小さく傾げた。
「イングリッシュで話していながら、未だ掴みどころのないイングリッシュとして…アイデンティティー(identity)という言葉がある」
「identity…確かに厄介な言葉ですね、日本人にとっても」
 項垂れる二人を不意打つように、太い雨がとつとつと岩壁を叩きはじめた。
「思うに…年寄りの経験上、アルシングで決定される事は、このアイデンティティーという、その何て言うのか、鍋みたいなものの中で煮詰められた結果だと思うんだ」
「アイデンティティーという鍋…」
「我々は捕鯨について、いや、鯨そのものについて、我々のアイデンティティーという鍋で煮詰めたんだ。Pan(鍋)はアイスランドでもPanだがね。どうだろう、君たちの捕鯨にしても、いや、君たちの鯨そのものを、君たちのアイデンティティーという鍋で煮詰めてみたら…いかにも酒場の親父らしい話し方になってしまったがね」
 ハトルドゥルはそう言って聖地から出る方向を指した。シンは頷きながらidentityとPanを口中で繰り返していた。

                                        了
インドラの真珠: クラインの夢みた世界

インドラの真珠: クラインの夢みた世界

  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2013/03/08
  • メディア: 単行本



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仏蘭西海岸松   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 マノンが目の前を粛々と流れるジロンドについて言っていること、ガロンヌとドルドーニュが合流してできる川で、遥かビスケー湾に注いでいることなど、それは高槻生まれで十三育ちの越生信望(おごせ・しんぼう)を緩やかに感傷的にしていった。チンボ(少年時代の信望を知る女たちの呼名)が原付のとろとろハスラーに跨って、中途の淡路でマノンの痩せ肩にそっくりな女子高生の彼女を拾って、川べりに出たいがために十三から淀川まで走っていた日々があった。あの子は食っていなかったから痩せ肩だった。マノンはしっかりと食っていて淡い雀斑だらけの痩せ肩だ。運動している様子もないから受け継いだ痩身の質なのだろう。
「あたしね、マノン・ファティマ・O・D・N、になろうと思っているの」
 チンボはマノンが何かに「なろうと思っている」ことに驚愕してしまった。名前の後ろにラテン語のO・D・Nを付けるのは聖マリア修道女会、それくらいのことはボルドーに二年もいれば知っている。まったく何を考えているのだ。先週までの感傷に過ぎた破滅志向はどこへいった。
「何かいいことが、なんて言うのか、マノンを喜ばせるようなことがあったの?」
 マノンは縮れた長い髪を掻き揚げて灰色の瞳に軽蔑を滲ませた。
「シンボーこそ何を言っているの?あなたは日本人、花鳥風月に無常を読み取る日本人なのでしょう」
 これだから日本ないし日本人を知ったつもりでいるフランス人は話にならない。正確には、ナイロビ生まれの父親とパリっ子の母親を持つ英国籍にしてボルドー住まいのマノンなのだが。シャンソンの風土と日本の平安時代を勝手に同じ鍋に放り込んでいる。
「テレーズはどこへいったの?アランを毒殺する、って言っていたのは誰?」
 マノンもまた己の気まぐれに辟易しているのだろうか。そしてそれを指摘されることに痒みに似た憎悪を待機させている。わがままというよりは血筋なのだろう。マノンの実姉エイプ、ロンドンの下水道管理会社の事務をしているエイプも、実生活と性生活に情熱をたぎらせた言葉を並べながらも、現実の行為においては淡白で幻滅していた。
「日本人の無常の果てのSacerdoce bouddhiste(出家)、そう、僧侶になることは自然なのでしょう?」
 これだから日本ないし日本人を知ったつもりでいる白人は話にならない。チンボは今更ながらソルボンヌでの専攻の早計を悔やむしかなかった。おまえにとってモーリアックが何だという。テレーズが旦那に砒素を盛った、だからどうした。
「だったら、なればいいじゃないか、そのO・D・Nに」
 チンボはそろそろパリへ戻ろうと思っていた。
「あたしがアランのことを忘れられないと思っているのね」
 これだから日本ないし日本人を知ったつもりでいる高慢ちきな文学少女は、日本人の留学生すべてを気遣いのできる箸使い男だと勘違いしている。いや、フランスに来てからのチンボの遣りきれぬ憤慨こそは、自分こそが高慢ちきな文学少年だったと自覚させられることにあった。
 およそ文学少年が生え出る環境というものは、隔離されていて渇きと水やりに絶妙な場所である。私鉄王の妾の子だった彼の父親は、早々と郊外電車の役員となって高槻に豪奢な居を構えていた。女子社員だった彼の母は、十三の盛り場を相手にしてきたスーパーマーケットへ脱皮しようとする八百屋の長女だった。両親はチンボが生まれて九年後に離縁する。越生姓を継ぐことを条件に十分すぎる養育費を雨水のように受けて育った。あれよあれよという間に不良と恋愛に憧れる文学少年が生え出でる。淡路の拒食症の娘は、今にして思えば配役としては劇的に過ぎたかもしれない。つまり求めれば与えられないことはなかった、鎖骨の浮いた女も、フランスへの留学も。
「ねえ、アランのことを忘れられないと思っているのね」
 マノンは嫉妬されている女として繰り返し言っていた。さぞかし幸福なことだろう。可哀そうだが、表立った情熱よりも隠れがちな倦怠をつまびらかにする時だった。
「アランか。美男はやっぱり得だな」
 モンゴロイド男が溜息混じりにこんなことを言えば、世間知らずのコーカソイド女の返しは大体決まっている。
「シンボー、あたしが見た目だけでその人を判断するような軽薄な女だと思わないでね」
 見た目だけでの判断はともかく、チンボは突然訪ねてきた姉エイプと会話していく中で、モーリアックを読み解く仲間として交遊してきた妹マノンに、夏の淀みに繫茂する水草のように渇きを知らない軽薄さが見えていた。
「マノンがアランと別れ、そして日本人とも別れて、ボルドーのO・D・Nになろうとしている。そうだね、花鳥風月に無常を読み取る日本人はマノンを見送るしかないよ」

 ランドの森を形成しているのは日本語で言うカイガンショウ(海岸松)という松の木である。古来では森の一部に繫茂する松の一種という扱いだったが、羊飼いが暮らす広汎な湿地から羊飼いを追い出して、海岸砂丘の伸張を阻止するためと松脂抽出の用途をもって政府奨励のもと植林され続けてきた。しかし抽出された松脂を原材料としたテレビン油やロジンが珍重されたのもつかの間、もはや誰もが身近なものとしている石油製品との競争に敗れて、殆どがパルプの原材料にまわされている昨今である。
 それでもランドの森を巡るということは、カイガンショウの樹海に迷って揺籃することである。砂塵や潮風に向き続けてきた爬虫類のような樹皮にそっと手を置くと、帰ろうとしているソルボンヌでの生活の浮薄、そのような戻れる都市生活者の一時の逃避に対して、鈍重な懺悔を迫っているように感ずるのは自分だけではないだろう。チンボは最後に再び訪れたランドに、日本人には遂には理解できぬフランス、憧れるままに終わる地中海というものへの痛恨を置換していた。 
 マノンが気まぐれのようにO・D・Nになろうと、無骨な製材所の敬虔なカトリックの妻で一生を終えようと、かつてカトリック作家という証明書を携えて渡仏した遠藤周作の往時の情熱は及ばないのだ。そうだ、やがて仏として焼香の先にある日本人は現実的な経済人となろう。そうだ、テレーズが感傷にすぎたわけではなく、この地に生まれた作家が自律神経を弄びすぎたのだ。
 チンボはカイガンショウの樹皮からふやけた手を離した。どこにでもありそうなランドの海岸の松は、祖国では外来の侵略植物として警戒されているそうな。しかしながら死ぬには相応しい森ではある。そうだ、陽光はおびただしく、この盛夏にあって、全てが腐乱し果ててしまおうと、決して北国の清涼な形ある死を選ばぬことだ。あの松の隆々たる根に取り込まれて、彼の滋養となり、風になぶられる幹の陰に、脂の一滴として、この朦朧を幾度となく迎えるのだ。ボルドーの町を離れすぎたようだ。ジロンドのほとりへ戻ろう。ひとつばかり罪を加えたところでもはや何も変わらない。
 チンボはランドの森から逃れてパリへ戻ろうと決心していた。

「それからは高槻の親父も喜ぶほどに品行方正となって勉学に励みましたよ。お遊びをやめてからはソルボンヌで経営学修士となって、何とかパリバに入れたと思ったら、トウキョー、あのトウキョーですよ。それでシンジュクへ行けって言われて行ってみたら、パリバも方針転換や合併に巻き込まれて、結局はシンジュクのある銀行になっちゃって…中小企業向けの融資は回収不能が続いて…またまた、こうして甘い甘いフランスへ逃げ出しちゃいました」
 チンボは仏領の天国のような島の浜辺でそう言ってから胸の十字架にキスした。
「そういえば、姉のエイプがくれた手紙には、手紙ですよ、メールなんていうものじゃなくて手紙、その手紙には妹のマノンが一昨年、マノン・ファティマ・O・D・Nになったってありました。大したもんだ。我々もこの歳ですから、いいじゃないですか、罪を重ねた後に修道女なんて、さすがだ」

                                       了
いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

  • 作者: 飯高 茂
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/09/10
  • メディア: 新書



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花筏   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 お久しぶりです。ここんところ忙しくてね、ほんと、私、カレンこと中田可蓮もお勤めしちゃっていてね。どこかっていうと地元、今となっては地元になってしまった住用のわき目に見てきたマングローブ・パーク。私がパークに就職すると決まった日、ママさんがいる横浜へ行ってしまった晃子は、複雑怪奇な眼差しで「蛙の子は蛙、なんてね、あたしも人のことは言えないっていうのは最近わかってきたけれど」と言いながらマングローブ林を徘徊している父の飲みっぷりに首をかしげていた。父である中田英雄(ナカタ・ヒデヲ)は、ヨーロッパ・アフリカを渡り歩いてきた林野庁の技術者で自称「サイコロ・エコロジスト」だそうな。よって「お父さまのご推薦(役人のごり押し)もあってマングローブ・パークにお勤めなのね」などと皮肉られても仕方ない状況にはあるけどね。しかし父は世界中どこへ行っても奇人変人まる出しで、一人娘の好みや志向なんぞには今でも全く関心がない。私をパークへ導き、こうしてパーク勤めに至るまで奔走してくれたのは母のクララ。シュツットガルト生まれの才媛が日本へ留学したばかりに、農工大でパーム椰子を育てながらボクシングばかりやっていたヒデヲに拉致されたドイツ人にしては小柄なクララ!今となっては英語教師の傍ら奄美の自然を世界中に発信しているドイツ人らしい賢母クララ。そう、このブロンドの巨乳女(殿方どうぞ想像を逞しゅう)のごり押し推薦によって私はお勤めしている。
 奄美群島の三月の雨も日によってはやはり氷雨っぽい。しかもウイルス蔓延を凌いで再開したばかりの今日この頃。先輩オットンガエルの「お客さまは神さまです、なんて言ってた人いたっけね~」などの呟きを聞きながら、粛々と(こんな言葉を使うようになってしまった)カヌーの手入れをしている毎日。夕方になって濡れそぼるままうちへ帰れば、いつものようにキッチンでは腕っぷし男と巨乳女の会話は絶好調!父はレント(黒糖焼酎)へタンカンを搾りこみながら窓辺の一輪挿しを睨んでいた。
「花っていうは、芽のできるところに作られるんだ」
「そりゃそうでしょう、って日本人の女みたいに言いたいけれど、ドイツ人の女はね、そのシンプルな言い方にやられちゃうの、聞き入っちゃう」
「だったら聞いてくれ、愛しのクララ、そもそも花っていうものは、一本の枝の先端に生殖用の葉が集まったものなんだ。だから普通は葉に花がつくなんてことはない」
 父は一輪挿しごと掴んで母の銀色の瞳の前に置いた。
「これは葉に花がついているから普通じゃないのね」
「Helwingia japonica、花筏(ハナイカダ)、北海道の北の方を除いて日本中どこにでもある。花が出る突端、花序が葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈とくっついてしまってこんな形に進化したらしい」
「花筏ね、さすが日本人ね、ハナイカダっていう名前は」
「別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)って言うんだ」
「ヨメノナミダ?さすが日本人ね、まったく、女の涙に騙されなきゃ気が済まないんでしょ」
 雨音が増したような沈黙が下りたので、私は「ハングリィ~」を呟きながら足音高くキッチンへ乗り出した。
「そうだ、愛しのカレン、明日ね、昼前にママの友だちがパークへ行くって言ってたからよろしくね」
「友だち?日本人なの?」
「そう、友だちっていうか、ティナの、ティナ叔母さんの同僚っていうのかな、山崎涼子(やまざき・りょうこ)さん。三年前に奄美に来て気にいったらしくて、パークも再開したと聞いて来たみたい。チキンは自分で温めなさいよ」

 涼子は一瞬の晴れ間のマングローブ群の厳つい幹と葉脈の照りを独占していた。川風というか海風というか、吹き抜けてくるそれは蟹たちの息吹を称えるように温んでいる。気がつけばたった一人の自分が悠長に先行しているだけで、後ろのスタッフの可蓮はさほど語らない。クララの娘さんとは言っても半分は寡黙な日本人の血ゆえか、それとも海水を黙々と吸い上げてろ過する木々の逞しさを彼女の若さに見ているのだろうか。
「あたしのこと、お母さんとか叔母さんから聞いてる?」
 可蓮はよく聞こえなかったのか、慌てて並漕すべく横についた。
「今さ、ロシアが大変なことになっているでしょう。だから危ういロシアから帰国したばかりの友だちにね、前沢牛、岩手の牛ね、前沢牛ですき焼きやらないかって誘われたんだけど、断ってこっちに来てよかった。カレンさん、カレンちゃんでいい?カレンちゃんはすき焼きって好きぃ?」
 可蓮は右舷に当たりそうな涼子のオールをかわしながら「好きです」を連呼した。
「そうなんだ、海外での生活経験があるわりには。あたしはね、すき焼きは牛肉の食べ方のワーストスリーに入れちゃってるんだ。しゃぶしゃぶも入っている。一番好きな食べ方は、やっぱりロースのグリルかな。ローストだったら腿のところ。ナイフを使いたいんだよね。切って焼け具合を見たくない?それがぺらぺらのすき焼きやしゃぶしゃぶだと台無しでしょ。日本人のくせに…嫌なオバサンでしょ?」
 可蓮は母や叔母のような弾けたような笑いを響かせるでもなかった。父親に似てちょっと変わっているのか、面白そうで不可思議なそれはそれは魅力的に過ぎるのか。
「あたしが最初に食べたお肉もグリルでした。ヤウンデの牛でした」
 涼子は不意を喰らったようにターンするオールづかいで振り返った。
「おっと、ヤウンデってカメルーンの?そうだそうだ、一家でカメルーンにいた時があったんだ。そうか~クララは、ママはシュニッツェルとかも上手だもんね~」
「父が牛の瘤をもらってきたんです」
「こぶぅ?ああ…ときどき南の方で見かける瘤のある牛ね。でもってその瘤を焼いて…美味しかった?」
 可蓮は髪をなびかせて首を振った。想像するに脂肪の塊だろうから、贅沢淡白な日本人の舌には難しそうだ。
「そうだよね、ヒデヲさんは魚米の民、あたしも本はって言えばそうなんだけど」
「父はヤウンデではライスって呼ばれていました。お米の、稲作の推進のために、こういった干潟の整備を進めている、って母が言ってました」
 可蓮は話すままにカヌーをさらりと干されたばかりの潟へ寄せた。座礁するように底へ着けてから涼子のへりをがっしり引き寄せる。筏上の中年女性はその手際に些か慌てさせられた。
「待って待って、そうか農業技師だったよね…やっぱり日本人はお米なのかな。カレンちゃんもお米が好き?」
「あたしは好きですが、父はパン好きなんです、母と同じく」
 涼子は嚙み合いそうで嚙み合わない会話に足がもつれた。それとも筏酔い?目を凝らすと泥を咀嚼する蟹たちが絨毯のように蠢いている。オスのシオマネキの見よがしに巨大な蟹ばさみは艶々している。なるほど蠢くことに人も蟹と大差ないわけだ。
「モラトワ、スリランカですが、スリランカでもカメルーンでも、父と母は喧嘩ばかりしていました」
「喧嘩?そうだったわね。ティナがよく言っていたわ、姉クララからの長距離電話には参ったって」
 可蓮は落下して刺さったばかりの漂木を指して初めて微笑んだ。
「帰国して、ここに来て、奄美に来て、母は父をもう一度好きになった、って言っています。ブレーメンで出会ったとき、府中の臭いアパートで抱かれたとき、その感覚が戻ってきているとか…」
「そっか、あの二人もここで再生しているってことだね。ところでさ、カレンちゃん、あたし今日はお客さんなんだけどね」
 涼子は舞うように蟹の求愛を避けながら高笑いした。
                                        了
数とは何かそして何であるべきか (ちくま学芸文庫)

数とは何かそして何であるべきか (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/07/10
  • メディア: 文庫



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ムアンマル   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 干されたばかりのシャツの間から、姉は午後の多忙にあるアルジェ湾を見ていた。
「やめましょう、母さんの話は」
 姉はいつも自分の方から過去を傍らに押しやってきた。弟のムアンマルはその気丈さにいつも苛立つ。この日の午後も、姉の閃くような毅然さから逃れるようとして、憮然な頬のまま何度も頷いて手摺にもたれた。
 真下の坂を、アモン老人が二羽の鳩を持って上がっていくところだった。生きている時の陶片のような忙しない首は、もはや安堵したように垂れ下がっている。この頃では羽根付きのままの鳩を買ってくる姿は珍しい。餌の悪そうな小さな鳩だった。
 どんな奴だってアモン爺さんよりはましだった。母なら言っただろう…見なよ、あれが不潔な動物まで食ってしまう連中の忌まわしい後ろ姿…とりわけ忌まわしく見えてしまうのは、静脈が浮き出た老人の大きな白い手のせいだった。遥かパリのカルチェ・ラタンで、同棲していた教え子に裏切られ、挙句は殺めた数学教授という噂が定着しきっていた。そして羽根付きのままの二羽の鳩、羽根を毟ってもらうだけなら大した金額でもないのだが、何を買うにも店主や農婦にも嫌がられていた。
 姉は老人の覚束ない足取りを凝視している弟の肩に手を置いて促した。ガイド・マリカ通りで茄子とサフランを売っている父を手伝わなければならない。姉は深い吐息のまま海風をものともせずに、緑色のスカーフを頭に巻いて顎で括る。ムアンマルは脇腹を掻きながら後を追って階段を下った。

 カスバは迷宮そのものだ。かつての太守の居城は、フェニキア人が残した侮蔑の瓦礫の山の上に、トルコ人が丹念に積み上げた煉瓦を礎石代わりにしている。さらに独立戦争の後に、歴層まがいに鉄骨で補強した白塗りの漆喰が続き、鳥小屋のようなプレハブ作りが申し訳なさそうにのっている。暗くて狭い路地は、拮抗するように競り合った壁と壁の隙間でしかない。迷宮が礼儀をわきまえぬ喩なら、この年の夏は遥かなアジアの競り合う水際である香港が、英国から中国へ返還された年であったから、真に独立した民衆の聖なる未来巣窟、と集散を余儀なくされ続けている広東人なら称えただろう。
 カスバには三つのモスクがある。ベシーヌとケトショーアとドジャマ・ドジェディドの三つのモスクの背後に、人殺しと噂されるフランス人やサフランを売るアラブ人が、慎ましくしたたかに生きていた。タイヤを切り裂く練習をしている餓鬼どもがたむろしている競技場の脇を抜けて、ガイド・マリカ通りに出て北東へ辿っていくと、やがて通りはハダ・アブデラザーク大通りと名前を変えるのだが、ちょうどカスバの下で放射状に四散するような交差点がある。この交差点の手前からラ・ビクトワール通りの一帯にかけて、一区切りが約三坪程の野菜と魚、そして雑貨の店が整然と並んでいた。

 売られている野菜に季節感を見ているのはやはり老人達だが、鮪の紡錘形が切り分けられる様子に固唾を飲んでいたり、岩塩焼きにしてみてくれと鱸を推しつけられて困惑しているのは、フランス語や英語で断って苦笑している外国人である。
「じゃが芋があって、キャベツも立派にあるから、あなたも暫くは生きていけそうね」
 アンヌはゲオルグの肩に凭れるようにして言ってから小さく笑った。
「ケーテ、昨夜の鳩のローストに添えられていたグリンピースはきっとここのものだわ」
 アンヌはさらにオットーと前を歩いていたゲオルグの一人娘の肩へ手をかけて囁いた。
 オットーは不機嫌そうにそら豆とアスパラガスと蕪を次々に指して、その小振りなことと萎びていることを嘆きながら振返った。
 ゲオルグはそれに頷きながらアンヌの肩を抱き寄せて言った。
「どうやら、あの冷凍倉庫は日本人の鮪のためにだけ使われそうだ」
 アンヌは反りかえって大らかに笑った後で明確なドイツ語を並べた。
「諸君、前向きに取り組もうではないか」
 ド・ラ・リール市場に隣接した冷凍倉庫の新設交換を落札したのは、かつての占領国だったが、技術的な側面の補佐と保全は、大臣のフランス嫌いが作用してゲオルグ・ホーネッカー博士とオットー・カラテオドリ技師が召請された。二人は通常は、ハンブルグのレーパーバーン通りの電力会社の研究所に勤務している。博士は二度目の結婚でケーテをもうけるが、妻が勤務先の上司と恋仲になったために現在は別居中だった。
 ケーテは夏休み中だったが、海外出張、それも北アフリカと聞いて同行することに決めたのだった。
 アンヌ・シュバリエは、エコール・ポリテクニク出の才媛で、尚早の三十二歳だったが、アルジェとオランの都市計画顧問に抜擢されたばかりだった。表情が分かりやすい広東人の女優のような風貌は、ゲオルグとオットーを初対面から魅了していた。

「海軍省の真下でそっと種を流してやる……三日もすれば沖合いの種を呑み込んだ『茄子の石』が、鳥のようにぽこりぽこりと産んでくれて、俺はそれを波打ち際で掬い取る」
 父は子連れの客達を笑わせていた。自分の息子の名前に、ケトショーアの師の名前をそのまま頂戴するような男だ。十一年前、身重の妻にさほど気にかけることもなく、ティパサの郊外へズッキーニを買い出しに行って戻って、「勢いは思慮が大嫌いなのさ」の口癖どおりに一人息子をムアンマルと揚々に命名してしまった。滑稽話で野菜を売る痩せた男はカスバでも有名だった。愛敬のある眦は若々しく落ち着きなかったが、顎鬚は随分と白いものが混じりはじめている。雑把な人間という印象を与える反面、一昨年に亡くした妻の友人にシナモンを勧めながら昔話に涙を拭うような男だった。
「旦那さん、サフランの色こそはこの世で最も残酷な色だ」
 屋根代わりの幌の下で二軒のビストロの主人達が、クロッカスの花弁の品定めをしていたのを見逃す父ではない。手にされている今日の黄金が良質ではないと見切っていたので、自ら先手を打って安値を匂わせる。その機転を見ていると、姉はいつも眉をひそめて横を向いてしまうが、ムアンマルは近所の老人達が回想する期待されていた若かりし父の鋭敏さを見る想いがしていた。
 ムアンマルは売れ残りすぎている乾燥した金色の花弁を摘み上げた。父はすかさずその手をたたいて話し続ける。手伝わなければ、夕刻になって姉の言い聞かせ方が悪い、と怒鳴る。手伝えば手を出すなと親父ぶる。ムアンマルは仕方なく姉と共に競技場の方へ水を汲みに行くのだった。
 姉の後を追って坂を下っていくと、姉が立ち止まってこちらを見ていた。ムアンマルを待っているのではなく、こちらへ上ってくる擦れ違ったばかりの二人の後姿を凝視しているのだった。
 大人の女は長い黒髪を後ろで束ねて、長身で骨っぽい上半身をよく反射するタイベックス地の白いジャケットで覆い、胸元の黒真珠のネックレスを気にかけながら朝鮮人かと思わせる玲利そうな顎を見せていた。
 少女の方は眩いばかりの金髪を肩まででとどめているが、美しい碧眼は白地のTシャツの雌牛「ママ・ムー」のおどけた表情を気にしているかのように伏せられていた。
 ムアンマルもまた歩調を緩めて二人に見とれていると、姉は坂の突き当たりを曲がったらしく見えなくなっていた。

 旧約聖書でいうアベルは羊飼いであり、兄カインは耕作する者である。呼吸をするようにキーボードに触れてばかりいるケーテのような少女でも、人間が具体的に羊や土に触れるものであることは知っている。しかし調理された牛肉やパンになった小麦しか知らないケーテにとっては、羊飼いにしても耕す者にしても、重油臭い機械を操作する赤ら顔の農民に重ねてしまうことは容易にして当然なことだった。
 ドイツでは羊の毛を刈ったり時として彼等の頭骨に穴をあけることや、肥沃な大地を掘削し泥塗れの根菜を掘り出すことは、モーター音を唸らせる機械がやることだった。しかしそこは北アフリカ…ハンブルグで生まれ育った少女が、砂嵐の去ったガルダイアで見たものは壮烈だった。
 深長な黒い瞳で、東洋人と見紛う雰囲気を持ったフランス人女性アンヌは、ホテルで最初に食事を供にしたときから利発そうなケーテに興味を覚えていた。
「あなたと二人だけだからこんなことを話せるのよ」
 アンヌはエムルク広場へ向いたロビーのソファでケーテの華奢な肩を抱いて話しはじめた。
「あの女性を見て…この国の宗教はイスラーム…この国の女性たちは、あの子のように未婚の女性は顔を出していて、既婚の御婦人はあのおばさんのように頭からあんなふうに白衣にくるまっていて…ああして隙間からこっちを覗いているの」 
 ハイクという白衣の材質には、絹あり木綿あり化学繊維ありといったところで、ケーテが感心しきっているので、アンヌは仕方なく簡単にオランが祖母の故郷ゆえに知識があることを言わざるえなかった。
「あのハイクの下…オットーもあなたのお父さんも同じことをあたしに聞いていたわ…何を着ているんだってね」
 アンヌはケーテの髪の感触を楽しみながら、ハイクの下に着ているドレスの刺繍の緑の美しさを称えた。
「本当のアフリカを見てみない?」
 ケーテはアンヌがすでに砂漠の入り口へ父とオットーを誘っていたことを知って、茫洋と天井のシャンデリアを見上げている彼女から静かに離れた。
「北アフリカだから来てみたかったんでしょう?」
 父親とその同僚を少年のようにはしゃがせた隊商都市は、ケーテにとっては苛酷と悲惨を予感させるに充分なものだった。
 アンヌが誘ったガルダイアの郊外…そこは砂の波が押し寄せる最前線だった。熱さは痛みなく襲い大方を諦めさせるが、疾風は痛みを持って視界を遮り度々後悔させる。汲み上げられた水が脅えるようにこの時とばかりナツメ椰子にかかっていた。その飛沫の下をかいくぐって大人の女の指先が少女を促す。誰もが東に向かって祈っている時刻に、一人の精悍なベルベル人が無言で羊の首筋に刃を落とした。砂漠では出血も断末もゆるやかに吸い込まれるのだろうか。それにしても嘶きはか弱くて素直すぎる。見よとばかりに男は蒼ざめた彼女たちの方へ体を大きく開いた。
 人間の最も残酷な瞬間は、自分以外の生命を試す時だ。諧謔に突き出された両の掌にある鮮血は逆光のために見えず…痙攣さえなければ見る者も苦しまず、劇的な夕暮れに顔を背けることもないだろう。しかし顔を背けたのは苦笑する大人の女であって、鼻先ばかり日焼けした蒼白な少女ではなかった。
 ケーテは静寂の内にあるひりつくような光景から目が離せなかった。美貌の象徴として与えられたゲルマンの睫は、後悔の網膜の重さに耐えられず呼応するかのように痙攣していた。赤々、砂に吸い込まれて黒々としている畏怖すべき血…それもまた草を食むものの無償のひとつ。幼いケーテとて、血の熟成された味は祖父の好みのソーセージで知っている。しかしそれはすでに黒々としていて何の血…如何なる四つ足の血かも想像できようはずもなかった。あのときに奉仕したものはイスラムにとっては最悪の汚辱動物だったのだ。そしてこの強烈な灼光の下で確実に奉仕されるものは、アベルの時代から堂々と何ら変わっていないように見える。痩せた草を食んで乾いた血を捧げる痩せた一匹の羊。北国のイコンの顔となっているあの劇的な男も、淡々と羊の血が砂に吸い込まれていくさまを見ていたのだろうか。
 母娘のような二人は寄り添って黙ったまま繁華街へ戻っていった。
「ショルバ…この国のおいしいスープよ。さっきの羊の頭もきっと彼等、ムザブ族のスープ鍋に浮かぶのよ」
 呼びかける男達の中に女の探し物は待機していた。砂礫の小山のようなテントの入口で、珍しく髭の薄い人の良さそうな青年が、使い古した大鍋の前で二人を手招いていた。女は些か誇らしげに黒髪をかきあげて、胸元に頬を寄せていた少女に肉と血の顛末を開示した。金属の縁を叩く音の許に、剥き出された羊の歯並びがあった。誰のものともつかなくなった肉は脂輪をつくり、血は誰もが信じ難いように凝灰岩のような泡に変わっている。踊るような炎だけが忙しく揺れていた。
「それでも、あなたにはとても分からないでしょうけれど、砂漠はある種の人間にとっては、花園なのよ、きっと…例えば奇態な喜悦にだけ捕らわれた知的な都市生活者とか」
 アルジェのホテルに戻るときにアンヌは呟くように言った。
 ケーテは、自分の白い手の動脈とも静脈ともつかぬ青黒い糸流を、まじまじと辿ることになった。

 古い「ル・モンド」をかぶって居眠りしていたムアンマルを姉が小突いた時、日は真上にあって姉の脇の下からは柑橘の香りがたちこめていた。
「寝かせておけばいいじゃないか。読書家で 計算のはやい弟はこの国の未来だ」
 姉の幼なじみのワジムはオラッシー・ホテルの近くで織物を売っていた。誰もが兄貴と慕う長身で弁舌巧みな男。ワジムはムアンマルに小銭を握らせて微笑むと、自分から目を離せないでいる姉の手を優しく引いていった。
「俺のことなら大丈夫だ。おまえのワジムはカバイール族の王なのだから…」
 若い王だけが自らを王だと口にしないではいられない。
 記憶の限りにムアンマルが最初にワジムを見たのは、父を捜しに出た母を幼さゆえの危なげな脚で追った時だった。彷徨したあげくに早朝の真下の波止場ではじめて鋼のようなワジムを見た。明るんできた波間を茫洋と見ていた横顔は、伸ばしはじめた髭が点在していて精悍そのものだった。背筋が不満な鉄筋ように見えるほど痩せていて、漁船が出ていった後は遠くの波間ばかりを見ていた。そして右手に握られた小竿から糸がゆるやかに垂れていた。
「その子なら大丈夫だ」
 ワジムの自信に満ちた声の断片は、ムアンマルの記憶と姉の嘆きに度々遮られた。
 あの時、ワジムが釣ろうとしていたのは鱸だった。オラッシー・ホテルに長期滞在していたアメリカ人に貰ったという鱸釣り専用の仕掛け…鰯に似せた鈎付きの棒が何度も何度も投げられた。幼すぎるムアンマルは魚を釣る道具だとは知らずに見入っていた。
 それから数年たってムアンマルも分別がついた頃、波止場への路地で膝を抱えているワジムを姉が見つけて走り寄っていった。酔った観光客が、トレムセンの刺繍の束にワインをかけたとか。小切手の支払が駄目なら後でホテルまできてくれと言うので、行ってみれば行方不明の始末。店主に酷く殴られて端正な頬が黒ずんでいた。
「そうだ、釣りも昼寝も、時には祈りをも忘れて、俺は親父達のフランスとの戦争についてむさぼり読んだ」
 自信に満ちて言いきる今のワジムの頬からは想像もできない。それでもアッラーの御加護はワジムに降りた。横暴さに嫌気がさした店主の妻が、子供を連れてティパサの実家へ戻ってしまった。滅入って自宅に引き篭もるようになってしまった店主は、今でも寝たきりに近い状態にある。気がつけばワジムは完全に商売をあずかるようになっていた。あれからワジムは波止場に立つこともなくなったが、言葉は自信に満ち溢れている。
「ちょっと黙って聞いてくれ。犠牲は必要だが、英雄はもはや必要な時代ではない」
 姉はいつものように泣き出す一歩手前なのだろう。ワジムを追いかけ疲れたような姉は、日増しに度量が深まっていくような彼の振る舞いに恐ろしさを感じている、ともらしていた。
「特に技術者だ。奴等の見下した態度は…許せない」
 姉はすでに声を洩らさずに泣いていた。

 紡錘形の枝肉が無表情に列をなして吊り下げられている中、ケーテは顎と肩を忙しなく掻きながら談笑している父に縋りついた。
「ここは冷えすぎるし、表は『太陽の賛歌』なのだから、そこにいればいいものを…」
 ホーネッカー博士はやっと愛娘の指先が震えていることに気がついた。ケーテにとって父のドイツ語はいつも冷静を装っていて芝居じみている。結果として頼り甲斐がないことは母から嫌というほど聞かされた。そして娘の露な脅えに声をなくしていた。
 博士から質問を受けていたアルル生まれの冷凍技術者が、ケーテの右肩に滲みを見つけた。黄色いポロシャツにプチ・トマトほどの鮮やかな血痕がある。脚羊の群下がる中で、男達は射抜くような黄地の鮮血に言葉をなくした。
 ホーネッカー博士はケーテの泣き言を聞き取り終わらぬうちに、操作教程書を冷凍技術者の手袋に押し付けて、制御室の方へ娘の金髪を抱きしめながら小走りに駆け出した。親子の後を追おうとした冷凍技術者のさらなる驚愕は聞き取りにくいフランス語に変わった。
「顧問が…マドモアゼル・シュバリエが血まみれだ」
 アンヌが薄ら笑いを浮かべて子羊の肉塊を押しのけて現れたのだ。
 誰もがアンヌの左手が抑える出血の夥しさを見とめる。白地のパンツの左腿が黒ずみがかっていた。
 ゲオルグが女二人を支えながら開けはなたれている装甲扉のハンドルに手をかけた時、ケーテは冷蔵室から出ることを拒むように細い首を小刻みに振った。
「アラブ人がナイフを持って追いかけてきたのよ。オットー?オットーはあたしとアンヌを置いて港の方へ行ってしまったわ…」
 ゲオルグが舌打ちした時、小柄なベルベル人の掃除夫がタオルを持って扉の入口に立った。笑ってばかりいるアンヌがやっと病院へ送られていったのはそれから十分ほどしてからだった。ゲオルグは豊満な中年の女性事務員に肩の手当てを受けている娘の両膝が、痛々しく擦り剥けていることに気が付かさせられた。黄色いポロ・シャツの背中と、白いサファリ・パンツの右腰には、赤茶けた錆が点々と擦れ付いていた。
 包帯が巻き終わると、ケーテはもはや充分に観賞し尽くしたように呟いた。
「帰りたい…アラブ人はやっぱり泥棒ばかり…アンヌは魔女…」
 ゲオルグは優しくハンカチで娘の汚れを払いながら…アンヌ・シュバリエのことを考えていた。

 翌週になってみると、騒然としていた冷凍倉庫にも冷徹な仕事ぶりが戻っていた。しかし午後の事務室では、カバイール族とオラン生まれのフランス人の事務員が激論中だった。
「観光がなによ!フランス人が、空港からホテルまでそっくり持ち込んで、あとは裸になっていただけじゃない」
「フランス人ばかりじゃなかったわ。ドイツ人だって…また廊下をこっちにむかってくるわ」
「どうせ…いまに逃げだすわよ」
「あの女はまだいるわ、傷を負っても」
「あの女…仕事をしないで、あのドイツ人と裸になることばかり考えているからよ」
「いいこと、あなたのお母さんの時代の本当のイスラームは、裸なんて口が裂けても言わなかったでしょうよ、聞いているの?」
「聞いているけれど…どう見てもファティマのお父さん…」
「ファティマのお父さん?あら…野菜を売っている親父さんじゃない」
「背広なんか着ちゃって…」
 カバイール族の事務員がムアンマルとファティマの父親、アブドゥルをつれて応接室に入ってきた時、ケーテの小さな悲鳴が呑みこまれたことは疑いない。ケーテは早々と包帯をとって剥けた膝をさらしていた。彼女は残りの日々を父親から離れずにいることを宣言して、応接室の隅で諦めたようにキーボードを打っていた。
 アブドゥルは丁重にフランス語で挨拶してから、白髪混じりの眉を掻きながら座ってもいいか尋ねた。
「ドイツ語が話せるなんて…」
 ケーテはあきれた呟きをもらした。
 初老のアラブ人は事務員に付き添われるようにしてソファの端に座った。
「ハンブルグはいい街です」
 アブドゥルは立ったままのケーテと口を半開きにした事務員を横目に話しつづけた。
「四年前に、ハンブルグに住む友人に斡旋してもらって、二ヶ月ばかり道路工事をしていたことがあったんです。短い間だったが、いい街でした。下手なドイツ語は通じていますか?お願いですから座ってください。ドイツ語をどこで憶えたか、ですか?これでも大学に行って学んでいた時期がありましてね…化学染料に興味を持っていまして…先生が紹介してくれた先がドルトムントの研究者と学生でして、皆さん、こんなアルジェの私にとても親切にしてくれました」
 ケーテは聞き取りにくいドイツ語が逡巡とした後で軽く咳き込んでみた。
 アブドゥルは息子よりも少々幼さそうな少女に向かってゆっくり発音した。
「ワジムは口先だけの奴ですが、娘が…娘がそのワジムに惚れこんでいる。分かりますか?あなたともう一人のフランス人の女性を傷つけた、ということになっている若者は…わたしの娘が惚れこんでいる男なのです。本当の…本当の事を言ってもらえませんか」
 父親アブドゥルは、娘ファティマと息子ムアンマルを交互に思いつくかぎりドイツ語で表現した。
「ワジムがイスラーム以外の人に暴行をくわえるような若者ではない、と言っているのではありません」
 アブドゥルは少々強面にケーテを見据えて、聞きたがっている事務員の手を払いのけて言った。
「私は自分が見ていることを放ってはおけないのです、ワジムではない男がフランス人の女性に暴行をくわえていたことを」

 アンヌとケーテが負傷した翌日の夕方、祈りを終えて刺繍の縫い目を確認していたワジムが、警察官三人に路上へ引き出された。くりかえし怒鳴りつけられた容疑は誘拐未遂だった。車へ押し込められるまでガイド・マリカ通りの騒然とした中で、当のワジムは不敵以上に嬉々たる笑いを浮かべていた。
 晩にはアンヌがゲオルグに付き添われて直に顔を確認することになった。彼女はカバイール族の顔に微笑んで頷いた。ワジムも満足そうに何度も頷いた。アンヌは嬉しそうに、ナイフを翳して斬りつけてきた本人であると、ゲオルグの耳にかすかに聞き取れるドイツ語を吹き入れた。容疑者は心持ち額を曇らせると、苦笑しながら言葉を一言も漏らさなかった。
 留置されてから五日経った今でも、ワジムは何も話していなかった。
 ワジムの顔からふてぶてしさがひいた頃の午後、ムアンマルは補習を見てくれた教師と窓辺で話し込んでいた。コルシカ島生まれの教師に大学行きを強くすすめられて、帰りの濡れそぼる小雨が気持ちよかった。
 やがてはムアンマルも感傷をもって帰るだろう迷宮の奥の隅の我が家…彼が口笛を吹きながら扉を後ろ手に閉めると、暗がりのなかに呼吸を聞いて恐る恐る電灯を点けた。
 父がすでに睨みつけていた。なんとまたサフランをばら撒いてしまったらしい。父に言わせれば、何がぶつかったわけでもなく、サフランが路上に散乱した直後に滝のような雨が降ってきたこともふくめて、あらゆる不祥事の発端は、商売も手伝わないフランスにかぶれている息子と、織物商の色男のことばかり考えている娘にある、と吐きたてられる。
 ムアンマルは慣れたような失意を覚えて家を出たのだった。

 ケーテはモガール通りの角で上がっている湯気に目を細めた。
 テーブルの向こう側には柔和そうに繕っているアブドゥルと、強いて連れてこられた息子の怪訝そうな顔があった。
「あなた達も…ショルバって好きなの?」
「もう何年も食べていません、ここはアルジェですから」
 ムアンマルは夢でも見ているかのようだった。父が背広を着て学校の校門前で待っていたのだ。そのことだけでも普通には逃げ出したい凶事であるのに、ダ・アングルテールに宿泊している人に食事を誘われたと言うのだ。
「父の方から誘っていながら来ないなんて、どんな理由があるにせよ」
「構いません、我々も祈る時には祈りますから」
 ムアンマルは父とケーテが会話しているさまから目を逸らしていたが、嘔吐の後に卒倒することばかりを思っていた。
 食事がはじまって静謐が広がると、ムアンマルはスープ皿の向うにこれほど白い人を見ることが初めてであることを確信した。ケーテの鼻先は幾分赤みがかっているが、ポニィ・テイルに束ねられた金髪の生え際は象牙のような額に吸い込まれている。ムアンマルはわずかにのぞく少女の鎖骨から目を離した。
 アブドゥルは息子の前では飲んで見せたこともないワインを啜ったあとで、ケーテのありきたりの質問に些か気取って答えた。
「…好きなものは鱸…パイ皮で包んで焼いた鱸です」
 ケーテはわざとらしく背筋を伸ばした。
「まるでフランス人だわ」
 ムアンマルはサフラン売りの父ではない父がもうひとりいることに、自分が喜んでいないことをついに見出された絶望のように感じていた。
「我が息子よ、食っているか?」
 父のフランス語はいつもおどけている。しかしここにはサフラン売りの父も茄子売りの父もいない。一日だけ酩酊している父がいる、とムアンマルは自分へ言い聞かせた。
 アブドゥルは揺れながら椅子から立った。
「おまえの得意なフランス語で言ってやってくれ」
 父親は息子に向かって歌うようにアラビア語を突きつけた。
「アルジェリアのカバイール族っていうゲルマンとは全然違う人間だってことをな」
 店の奥から誰かが呼応するように正午になったことを告げた。
 ケーテは自分と殆ど同背丈のムアンマルと二人だけになると、午前中の事情聴取を思い出して目頭が熱くなった。
「本当のことしか言ってないわ…」
 ムアンマルにはケーテがもらしたドイツ語が分からなかった。彼女の頬が下がりながら歪むのを見ているしかなかった。母とも姉とも似つかぬ女の泣き顔は、金とも銀ともつかない後れ毛に覆われる。うなじが気づかぬくらいに赤らんでいるのが見えた。
「姉は信じてくれないだろう、父さんがドイツ語を話すなんて」
 ムアンマルが呟いたフランス語はそれだけだった。

 アンヌは下着姿に咥え煙草でキーボードの前に戻っていった。
「夕食の時に御立派な方達へ渡さなくちゃならないのよ」
 ケーテは自分の部屋へ戻りかけたが、洗濯袋からもれ落ちていた父親の靴下を見て唇を噛んだ。
「ゲオルグと…あなたのお父さんとあたしのこと?」
 ケーテはアンヌのベッドへ落ちるように座って問いただした。
「ケーテ、傷を負わされたのはあたしなのよ?あなたもちょっとだけ怪我をしたみたいだけれども」
 アンヌはいとも軽快にこの国で受ける危害はこの国の誰もが償うべきだという詭弁を弄した。
「もちろん、ワジムなんて知らなかったわ、ちょっと見は可愛かったけれどね。だいたいワジムとあの狂った駱駝みたいな土産物屋が知り合いだって言うし…それに、あのワジムもずっと警察から睨まれているって言うじゃない」
 ケーテは堰を切ったように泣き出して、アンヌの丸められたストッキングを持ち主に投げつけた。
「帰りなさいよ、自分の部屋でもハンブルグでも」
 大人の女は咥えていた煙草の灰が股間に落ちるとさらに形相を変えた。
「ゲオルグがあたしに近寄ってきたのよ!あたしはね、ゲオルグだろうがオットーだろうが構わなかった!そうよ、ドイツ人だろうがベルベル人だろうが、あたし、アンヌ・シュバリエは構わないのよ」
 セント・オーガスティン教会の前で膝小僧を抱えていたケーテのまわりには、気がついて見まわしてみると四、五人の子供が遠巻きにいつもの強い眼光で金髪の様子を覗っている。同じように笑ったり泣いたりしているだけなのに、そんなに異邦人のケーテが珍しいものなのか。ケーテは疲れきってしまい、日が沈みきるまでの僅かな間ぐらい見せ物になってあげても構わない、と大人びた笑いをもらして観念する。
 それにしても、祖母の血をオランに持つアンヌが、何故、この土地の人々を総じて憎まなくてはならないのだろうか。
 羊が絶命する様を、その羊の頭がショルバとして煮詰められる様を、誇らしげに見せてくれたアンヌがなぜ…そして彼女は刺されて笑っていたではないか。
 その時、カスバのモスクの方から淀んだ雷鳴のように祈りが降りてきた。

 雲間から日が射すと、苛立っているように見える黒波が陽気な緑青に変わる。波止場には昨夜の雨が涼しげに幾つかの小さな溜りを残していた。
 突端で白髪を靡かせながら小竿を握っているオレンジ色のウェーダー姿がある。呪われたアモン爺さんだった。
 湿った木箱に座っていたムアンマルは、空腹を感じて『ル・モンド』をたたんだ。Aide financière(奨学金)という言葉が渚の煌きの間に点滅した。
 茄子売りの父もかつては奨学金を貰って、ボルドー埠頭のあたりからずっと入っていった大学で学んでいたらしい。しかし今では茄子売りだ。アモン爺さんだって噂が本当なら若いときは大学教授だったことになる。ワジムは留置所から戻ってまた英雄気取りだ。とても先のことは…御意志のままだ。
 ムアンマルはすべての問題が貧しさにあると考えるには感受性が強すぎた。
 背後で罵声があがったので振り返ると、純白のシトロエンが、バスから降りて波止場へ続く観光客の蛇行を断ち切るところだった。サングラスの男女の後ろにケーテ・ホーネッカーがいた。
 ムアンマルはトロエンの後部座席の金髪を凝視しながらふらりと立った。「ル・モンド」が風にあおられる。丸めるように抱えた時、ケーテは不機嫌そうに何か言って降りるところだった。若い漁師や酔った観光客が口笛を鳴らす中、黄色いポロ・シャツと白いサファリ・パンツの少女が俯きながら波止場の突端へ歩き出した。すでにムアンマルを確認しているようだった。
 ケーテは水溜まりに踏み込みそうになった時、固く結ばれていた唇に笑みを浮かべてフランス語を叫んだ。
「お姉さんに聞いて来たわ」
 ムアンマルは聞こえないので両腕を広げるしかなかった。
「お姉さんが言っていたわ、子供らしくないムアンマルはここにいるって」
 ムアンマルはケーテが充分に近づくと、面倒そうに「ル・モンド」を木箱に敷いてすすめた。彼は随分後になってから自分の仕種にはにかんだ。陽光の下のケーテは、己が輝きに熔けいりそうだった。
「ここを見て」
 右肩にL字形の小さな鉤裂きがあった。
「あの魔女はナイフで指されたけれど、あたしのここはナイフじゃないの」
 あの日はアンヌとオットー、そしてケーテは、カスバ周辺をまわっていた。オットーは博士に気遣いしながらもアンヌの言いなりである。アンヌはガイド・マリカ通りの土産物屋で、格安なトレムセンの刺繍反物を見つけた。駱駝顔の店主はさらなる値引きに快く応じてくれた。しかも裏通りの友人の喫茶店でカフェを御馳走すると言う。折りも折り、小雨も降ってきて、アンヌのはしゃぎ様に苛立ちも頂点に達したケーテは、ガイド・マリカ通りを逆に走り出した。そして野菜を売っていた男が、呼び込みをやめて小雨からサフラン籠を守ろうとした時、ポニィ・テイルの少女が勢いよくぶつかった。男は籠を抱えたまま花弁を撒くようにして転がる。ケーテは男の怒りから逃げようとして隣の金物細工に接触した。彼女の右肩を切ったのは、下がっていた真鍮のランプのひとつ、痛みに驚いて傍らの屑鉄に転がってしまった。
 籠を抱えて転がった男アブドゥルは、次の悲鳴で振返ることになった。アンヌはイスラームを大いに侮辱したのだった。
 ケーテはワジムが保釈されたことを告げてまた謝罪した。
「そして、あのサフランを売っていた人がドイツ語で話しかけてきたの。でも、ばら撒かれたサフランのことは何も言わなかったわ、売り物を台無しにしたでしょうに…」
 ムアンマルは父が転がる様を想像して、哀しい笑いに顔を両手で覆った。
「知らない、知らない、そんな間抜けなサフラン売りなんて」
 ムアンマルは潤むなかで困惑しはじめたケーテの瞳を見ていた。
「随分笑わせる親父だ…フランス語なんか使わないよ」
 少年は押しやるように少女の肩に手をかけて何度も言った。
「そんなことよりも、はやく帰ったほうがいいよ」
 少女は少年から呆けたように目を逸らせて、首を振りながら後れ毛を白い指でかきあげた。
 ムアンマルは海の方へ後退りながら言った。
「やっぱり、今日も…ワジムは君を…君たちを狙っている」
 雲が切れ切れに遠くなって陽射しが満ちてきた。アモン爺さんが突端から帰ってくるようだった。よろよろとしていていつもの鬼気迫る表情ではない。右手で竿を擦り引きながら左手に壜を持っていた。

                                       了

曲線と曲面の現代幾何学――入門から発展へ (Iwanami Mathematics)

曲線と曲面の現代幾何学――入門から発展へ (Iwanami Mathematics)

  • 作者: 宮岡 礼子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本



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幸如(シィンルゥ)   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 トオルは構内に展示されている翡翠の巨岩を一回りした後で改札口へ向かった。台南で見つけたシィンちゃんがここまでやって来る。糸魚川駅の哀愁に彼女への愛おしさは灼光を灯す。彼女は無論ほしいが王座も欲しい。何を言うとるねん。トオルは思わず舌打ちしてしまった。
 金野暢(こんの・とおる)は京都市の隣の向日市に生まれ育った二十五歳の囲碁棋士である。関西棋院所属だが年初に七段位、初夏には碁聖戦の挑戦権を得て、五番勝負まで食い下がって敵わなかったものの、初秋には王座戦の挑戦権を得ていて、次代を担う棋士の一人と目されている。シィンちゃんこと幸如の出会いは、ありがちではあるが台北での日台交友囲碁フェスティバル会場だった。
 張幸如(チャン・シィンルゥ)は台南に生まれ育った二十二歳の女子大生である。タイヤル族で宜蘭出身の父親を持つが、母親が大阪の池田の出身ゆえに不便ない関西弁を話せる。暢との出会いは、その流暢な日本語を期待されての、父方の伯母から要請されての囲碁フェスティバル会場だった。
 暢はビビアン・スーを彷彿とさせるシィンちゃんの愛らしさに真っ正直に魅了された。台南まで彼女を追いかけていって八日間ほど音信不通となるも、棋院の師匠と兄弟子に説得されて棋士廃業を撤回するに至る。むろんのこと、求愛を受け入れたシィンちゃんからの復活への発破があったことは言うまでもない。十月から王座戦に臨んで、先行されながらも二勝二敗の対にまで打ち抜いたとき、隠密に来日していたシィンちゃんから慰労の電話をもらって驚喜する。そして先週のこれまた唐突な電話は、母親が阿倍野に出しているジャージャー麺店を手伝い終わったので、これから暢が指導碁で立ち寄っている糸魚川へ向かう、というもので大いに慌ててしまった。
「そんな驚かんといて、今日と明日は糸魚川、二十三日には新潟でお仕事やったね」
「そう、村上の瀬波温泉で対局やけど…まさか、ここ糸魚川で若布みたいなもんを採るんか?」
「ワ・カ・メ…ワカメって?」
「そやかて、シィンちゃんは台南におるとき、なんや海藻のようなもん研究してること知っておるから」
「あんね、ヒスイ、翡翠、知っとる?」
「知っとるよ、宝石みたいなもんやろ…そうか、ここの海岸で時々、翡翠みたいな石が見つかるんは有名やからな」
「翡翠を見つけてみたいんよ、一緒に」
「見つけてみたい言われてもな…よっしゃ、構わんで、このホテルで今晩、待ち合わせしよか?待って、やっぱ駅まで迎えに行くわ」
 日本海の低気圧が凄まじく垂れこめてきている師走の夕の糸魚川駅である。暢は己のかじかむ指先に息を吐きかけながら、好奇心旺盛な幸如が浜の方の実況から翡翠採集を諦めてくれることを願っていた。
 暢は改札口に到着した幸如の温かい指先を両手で包みながら、彼女が翡翠を見つけてみたい海浜の荒天を呟くように言った。
「ヒスイ?ああ、翡翠ね、翡翠はええわ…トオルに会いたかったんよ」
 抱き寄せた幸如のこの言を聞いて、暢は明後日の王座戦最終局が手元に引き寄せられた実感を持った。

 平成二十八年十二月二十二日の午前、糸魚川市の中心繁華街にて大規模な火災が発生していた。耳目を大いに集めたのは約一四〇棟に及ぼうかという延焼の広がりである。老舗である酒造や割烹、そして金融機関も営業停止となって、緊急の払い戻し措置などが講じられていた。真南にあたる青海川上流の山中から北方を望むと、今は遠くになった中心街から上る黒煙が海風に揺らいでいた。
 幸如は鉱山の事務所があった跡にいた。
「シィンちゃん、頼むで、ほんまに。ほんで、火傷はしとらん?」
 暢は霜でしとど濡れた枯葉を蹴散らすように斜面に足をかけた。かつての橋立金山の坑道も冬枯れの葛葉に覆われて見当もつかない。職業柄とはいえ日頃から正座している膝にはかなり応える。碁石ばかり握っている軟い右手は寒気に蒼ざめている。しかし携帯電話を握っている左手からは、焦燥の名残りのような汗ばみの湯気が立っていた。
「火事が嫌いなんは、阿倍野でも聞いておったで、まぁ、分からんでもない…そやけどな、ここまで逃げんでもええとちゃうか?」
 暢はそう言った後で、シィンルゥの華奢なセーターの肩に触れるのを躊躇している自分に舌打ちした。
「タクシーに乗ったんか?金は持ってるからな、シィンちゃんは。そやけどな、僕とおった方が、逃げるんやったらな、僕と逃げた方がええと思わんかったぁ?」
 幸如は前髪と涙目だけを覗かせた紺マフラーの奥からやっと声を絞り出した。
「爸爸(父さん)…自己逃走了(一人で逃げた)。只有一个人逃走了(一人だけで逃げたの)。分かる?父さんは一人だけで逃げたんよ、生まれた宜蘭の山へ帰るて」
「それは聞いとるけど…」と言いかけて、暢は冷たい右指たちの先を唇においた。「そやかて一人で逃げたら…あかんて。ここはな、シィンちゃんにとって外国、日本やし、糸魚川も昨日初めて来たところやで」
「対不起、ごめん」
 暢は右手を男の子の背を叩くように振りかぶって軽く触れた。そして左手の携帯に点滅している急行の糸魚川発の時刻をちらり見た。
「もう電車に乗ろうや、ここはえらく寒いし」
「一緒に行っても…一緒に行ってもええの?」
「あたりまえや。シィンちゃんを一人になんかせん。まして今朝のこん火事やで…シィンちゃんを一人にしたら…その認知症いうか、病気で亡くなったお父はんに申し訳が立たんわ。ど突かれるわ、ほんま」
 暢はシィンちゃんがもらっていた領収書のタクシー会社へ電話した。
「おおきにな…明日はえらい大事な対局なんやろ?」
「そやからな、一緒にきて言うとるんや。王座になるとこを…もしもし、翠々タクシーさんでっか?」
 約一時間後、大火事で騒然としている駅前の混乱を掻き分ける二人の姿があった。
 それから三日後のローカル新聞の一面、当然ながら糸魚川大火の悲惨さを嫌がおうにでも追跡するものだった。しばらくは悠長な記事作りに気兼ねしたような三面、海豚に追われて柏崎の浜へ打ち上げられた鰯の大群の写真と、村上で迎えた囲碁の王座戦五番勝負の最終局の結果、本因坊が挑戦者の金野七段を退けて王座を防衛したとあった。

                                       了
微分位相幾何学

微分位相幾何学

  • 作者: 田村 一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: ペーパーバック



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