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球根の袋   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 日が傾くまで欄干にもたれて風車を見ていたヘンドリッケは、夜になったらヨハンへ手紙を書こうと決心していた。
 老木のような風車が見渡せる花畑で、他愛もない事で憂喜する農民達の歳月を書こうとしていたヨハン・リンデルも、失業保険とヴィレムⅡのスタディオンの売店で働く女の稼ぎに頼りながら生きているらしい。結婚する前から分かっていたことだ。ヨハンに書けることは生活することへの呪い。生活できない弱さというものを表象できるこの時代への謝恩。それに引き換え、あの風車の寡黙さはどうだ。生活することは掃天の下にある。球根を採取するために花を摘み、妻子のために食えない才能というものを見ず、花祭りのその日の泥酔のために酒場へは通わない…彼等に共鳴し、彼等の死に涙する人生。あの老人もそうだ。この緩やかな坂を上れずに自転車を押してくるあの老人も、かつてはノルドウィックの「風車男」のひとりとして、ハーレムの電力会社へ招請されながらも、妹達と僅かな豚の世話をする生活に留まったそうだ。過ぎたことを学びとしてはいけない。備えることにたじろいではいけない。美しい人間を見てはいけない。あのヨハンに彼等を書けるわけなどなかったのだ。
 風車が嘲笑うように大らかにまわる。あれは二百五十年前から回っている。そして白昼の凡様のままで、地上での確たる生を強要してきたのだ。
 ヘンドリッケの移ろわない目には、黄色い花弁の群生は荒涼な中春を想わせ、風車の背後の真紅の団塊は歓喜の初夏を想わせた。今、この瞬間に、あの吐き出された卵黄のような稜線に、真新しい白いコートを着たヨハンが現れてくれたら、どんなに素晴らしいだろう。彼の人のよい笑顔が視界に入るまでに、彼女はこう言って彼が来た道を指すだろう。
「来た道を戻って。あたしが署名した離婚届けは、あなたのティルブルフのアパートへ今朝、送ったわ、返信用の封筒も一緒に。切手もちゃんと貼ってある。戻って。あたしは従姉弟と結婚するの。そして明日は花祭り…母さんと兄さん夫婦、甥のエド、あたし、そして従姉弟。あなたの分のシューコはないわ。だから戻って」
 ヨハンのことだから明日の祭りの真最中に、何気なく広場あたりにふらりと現れるだろう。貧困を知るがゆえの自尊心は灼熱や寒風に危うい。彼は草臥れた濃緑のコートを着て、通り掛かりの旅人のように、花絵のひとつひとつを夢見がちな子供っぽい表情で見るだろう。演じていると自覚している人間には、世界は仮構されていると見えるのだろうが、彼が身を滅ぼすべきであった芸術は、おそらく故郷の花祭りなどに彼を向かわせるほど恥知らずなものではないと信じたかった。
 ヘンドリッケは欄干の剥げた赤ペンキが付いた膝を軽くたたいて、足早に用水路の淀みへ向かった。暗くならないうちにギドを見ておきたい。ギドは今日も通行人が落としてくれるパン屑を待っているはずだ。ギドの眼は虚ろだが強かだ。パン屑を飲みこんで深く翻っていくときの、甲冑のような後ろ姿は愚鈍なまでに堅固そうで見惚れていた。
 ギドと名づけた大きな鏡鯉が見れる淀みに誰かの後姿があった。ヘンドリッケの掌が一瞬にして汗ばんだ。
 鯉と話しているのは男か女か。少々太っているがヨハンに見えなくもない。自分がかつて編んだ乾土色の帽子をふかく被っている。自分が今着ているコーデュロイ地の上下のサフラン色がそこにもあった。これもあれも、あの頃「レッド・ツエッペリン」のコンサートを見に出発する前日に買ったものだ。そのコーデュロイの上下で、もう一度チューリップ畑に出たい、などと言い出したらあたしは彼を必ず殺すだろう。その前にこのまま突き落としてもいい。あの帽子だけは、あの帽子ぐらいは、この手に置いていっても構わない。
 立ち上がって帽子が取られると、間隔を置いて脱色された長い髪が背に落ちた。女だ。焦げた肌で恰幅のよい女は大きな紙袋を持っていた。ヘンドリッケに気づいたふうもなく風車を見上げはじめる。精悍な横顔に日の名残が照射していた。
「サスキア…でしょう?」
 ヘンドリッケは口に出した自分がほとんど信じられなかった。
 サスキアと呼ばれた女は、目を合わせずに小刻みに頷き続けた。
「ヨハンに何かあったの?」
 サスキアは唇をかんで首を振った。
「自分の代わりにあなたをよこしたの?」
 手紙に書いてあったマラッカの血をひく女は、長い苦笑の合間に点々と鳴咽を伴わせて口元を押さえた。
「死んだの?」
 サスキアは鼻水を垂らしながらよろめいていた。大きな紙袋が足許に転がる。
「はっきり言いなさいよ、英語でも構わないから。ヴィレムのお店じゃ毎日毎日笑っているのでしょう?あの作家くずれが書いていたわ。そしてあなたはショコラのようだって。ブリュージュの出なんですってね」
 ヘンドリッケは自分が時として風景にそぐわない傲慢な女だということは知っていた。
「ヨハンは、書くのをやめた」
 サスキアの幼子のような発音が落ちた。この女もスペインの黒豚のようにやり場がないようだ。
「知っているわよ、何年も前から書いていないことは。鼻を拭いたら?」
 サスキアは帽子で撲るように拭いた。そして勢い帽子を捨てて大きな紙袋を抱えて差し出した。
「ヨハンはヴィレムⅡの広報誌でちょっと書けるようになるの。あたしが橋渡してきたようなものだわ。それなのに、あたしはこの黄色い服を着て、この紅いワンピースをあなたに渡してくれって。言うべきことは言うわ、約束だもの」
 この時期には珍しい厚紙の球根の袋には、蹄のようなチューリップのデザインが垣間見れた。
 ヘンドリッケは自分の頬の微笑しているような痺れが信じられなかった。
「あたしには、白い肌の人間の誇りなんてないの。お金さえちゃんとくれれば黄色い服でも何でも着るのよ」
 サスキアはそう言って縋るようにもたれてきた。白い荒れた肌の女は泣きじゃくる焦げた肌の女からワンピースが入った紙袋を受け取った。
「あたしには働けない父がいるから、ヨハンは契約金の半分をくれるわ。そのうちの手付けは昨日、それを渡したから残りは明日の正午…」
 ヘンドリッケは歓喜と失念に震えながら老婆のように座り込んだ。しかしワンピースが入った紙袋は手放さなかった。
「言うわよ。明日の夕方五時、迎えに行くから、これを着て広場で待っていろ、だって。伝えたわよ、いいわね」
 サスキアは言い放って座り込んだヘンドリッケに背を向けた。この疲れた農婦も戻らないものを手繰るように追憶している。そう思うと、夕闇を振り払うように苦笑して、明日も会えるような別れを言ってしまった。
「さようなら。きれいにして来るのよ」
 ヘンドリッケも片手を上げて親しい友に請合うように言った。
「さようなら。きれいにして行くけれど、合う靴があるかしら…」
 女は世話の行き届いた花のように足許まで着飾らなければならない。まして花祭りの夜のためとあれば、別れ話も匂やかで洒落ていることだろう。気がつくと二人には風車が見えなくなっていた。
 
                                       了
阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)

阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)

  • 作者: 朝井 まかて
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/11/15
  • メディア: 文庫



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武蔵野   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 虎能(とらとう)の三十九歳の夏は、夜ともなると井の頭公園での待ち合わせに費やされていた。彼は毎夜、二十時頃になると、中央線のガード下でタクシーから降りた。寝起きのような無精髭、八つ橋の絵柄のアロハ・シャツにサンダル。ゆっくりとした足取りで公園の方へ向かうが、ここでまず尾行の按配を確認することにしている。煙に巻くには煙のある焼鳥屋『いせや』が定番だった。小走りにしてみせて小路の脇口から焼鳥屋へ入る。そして昨夜と同じ注文を慣れた口調で言った。
「皮焼きと葱間を三本ずつにビール一本」
 小路の向かいの郵便局前で佇んだ若い女。ここのところ尾行し続けてくれている奴だが、あまり衣装持ちではなさそうで毎度の紺スーツ。苦笑いしながらビールを飲み下して煙草に火をつける。しかし葱間と皮の皿があがってくるまでに、彼は別の尾行者のことを思わずにはいられなかった。
(お勉強ができそうな背の高い警部補さん…最近どうしたんだろう) 
 残った葱間の串を摘みながら焼鳥屋の正面から出た。公園の入口で大通りの方へ振返ってみる。尾行の腕が上がったのか、彼女は慌てず自然に距離を置いてついて来ていた。坂を下って池へ向かって行くと、ぼんやりと柵に腰掛けていたガンバの5番のレプリカを着た若い男が顔を上げた。
「ツネ、降らなくて残念だったな」
 虎能がそう言うとツネと呼ばれた男は不意を突かれたかのように柵から降りた。そして鎖をじゃらつかせながら携帯電話を取り出して虎能に示した。
「青梅の三邸は完了しました。塗装は程々で、木目を生かしたものばかりですから、守りは容易いでしょう。ところで、余計なことかもしれませんが、キーパーの話では、守りの要にどうも問題がおきている様子なのです」
 虎能は微笑みながら抑えるようにして電話を戻させた。
「リベロのことは知っている。知り合って二ヶ月の女と結婚したがる…そういう男だ」
 気がつくと薮蚊が二人を取り巻いている。
「人が純粋なことはいいことだ。しかし、女を理解しようとして消耗するやつは…薮蚊よりも劣る」
 虎能は葱間の串で執拗な一匹を追いながら苦笑した。
「私も、これでも最近、気になっている女がいる。しかし、私の純情をいいことに、その女はいつも私の敵でいたがっている。私はそう思っている。しかし、私は幸せだ。何故なら、私は彼女を理解しようと思ったこともないからだ」
 ツネは縮れた髪へ続く耳元で薮蚊を叩いて頷いている。
「くりかえすが、私が次の土地へ移動する時は、キーパーは上海へ戻る。後の全てはおまえ次第だ。おまえなら勝ち続けることができる」
「俺なんかとても…」
「今は攻めている三人に、もっともっと気を配れ。くりかえすが、生産しない者にはゲイドーを自覚させるのだ…芸術を吹き込め」
 虎能は葱間の串をツネの鼻先へ翳した。
「さて、今晩はどうも薮蚊ばかりじゃなくて野良猫もこいつを狙っている」
 ツネは串を受け取りながら背後から池の方へ視線を流した。

「わかりました。ずぶ濡れの試合しか見に行かない俺を理解してくれているのは、あなただけだ」
 長すぎる脚を舞うように交差させて、風を孕んだ懐を押さえるようにして去っていった。
 虎能は長身の背中をしばらく見ていたが、彼とすれ違って坂を下ってくるカップルに、迎えるように目を細めていった。
 男側は薄鼠色のスーツをだらりと着てサングラスをつけていた。街灯が色白を際立たせている。ベージュ地に中濃ソースを滴らしたような模様の『ソニア・リキエル』のネクタイを、緩めたり締め直したりして気にしていた。
 女側はチノパンツと純白のTシャツを結ぶレモン色のベルトが目をひいた。肌は黒い方だ。あんぐりと夜空ばかり見ていた。
 虎能は会釈するような仕種で坂道に背を向けると、飼い猫と路上で出会った時の気持ちに似て小走りに橋を目指した。
 池面がざわつきはじめていた。台風が近づいているらしい。菩提樹の葉擦れは気まぐれな風によるものだった。
 欄干から黒々とした樹相を見ていると、フランクフルトの夜の窓辺に少年の自分が見えてきた。濃紺の表紙のヘルダーリンが風に閉じる。老人のように乾いた闇を愛していた。やはり薄らと街灯が菩提樹を照らしていて、遠い東へ帰ってしまった母を、風が襤褸切れのように枝へ架けてくれないものか、と思っていたものだ。母の国へ来る前の年に、菩提樹は雨に熔けてしまった。戦火や爆風にも耐えてきた老樹が、三日降り続いた雨に熔けてしまったのだ。木々の騒がしさがなくなれば、猿の国でも母の国でも行かざるをえなかった。
 欄干に鈴なりのアベックがもたれきった時、一瞬の強風で桜葉が菩提樹を蔽ったように見えた。
 虎能は弾けたように哄笑した。
「…だって、あなたは目立ちすぎますよ。バラバラ殺人の時は、制服姿だったと記憶しています。あなたのような素顔美人には酷な仕事だ…」
 いつのまにか反対側の欄干にもたれていた久美子は、Tシャツにはりつくような胸の汗を感じて振返った。短く刈った黒髪の下で、象牙色の環のイヤリングが涼しい。厳粛な諦観を秘めた少年のような眼は、完璧を形容して臆することなく美しかった。
「戴冠…代表取締役Torato von Schwarz…モーツァルトが大好きなフランクフルト生まれの社長が経営する北欧家具を輸入販売している会社、とは表向きのことで、資産家が所持する高級家具やピアノの傷を修理しているとか…」
 虎能が笑いを浮かべたまま振返ると、久美子は反射的にチノパンツから両手を抜いた。
「海苔はお好きですか?」
 一斉に葉桜の木々が突風になぶられはじめた。
「海で収穫され、あのように乾燥して作られていることを知った時、すぐに、フランクフルトにある庭園…ボッケンハイマー庭園の池を思い出しました」
 虎能は揺らめきながらそう言うと、渋い眉間のままアロハの裾で眼鏡を拭きはじめた。
「この池とあの池ではまったく似ていませんが、バラバラ殺人のあったこの公園にも池があると知ってから通っています」
 久美子の眉間に訝しさが浮かぶと同時に、能役者が登場するような手際で絵里子が現れた。
「こういう詩人のような話し方をする人なのよ、シュワルツは」
 サングラスとネクタイを内ポケットに押し込むと、虎能が『最後のリビア山猫』と形容した敵視が刺さってきた。
「海苔がどうかして?」
 四十代半ばにして目尻の小皺ひとつ残さぬには、嬉々たる二十、三十代を過ごさずに男性と対等に仕事をすることだ。
「警部補さん、半年以上も尾行されると、お互いに飽きてくるものだが…こちらの若い刑事さんのご登場で、なにやら、おもろしろくなってきた」
 絵里子は虎能にゆらりとにじり寄った。
「不謹慎な物言いはやめなさい。別件で如何様にも逮捕してよ。それに、バラバラ殺人とあなたは何の関係もない。そりゃそうでしょう。先攻と後攻があって、先攻に傷をつけさせて、後攻に修理させる…そんなことをやっている人ですもの」
 虎能は絵里子の首筋に蚊に刺された痕を見つけた。白さを際立たせるように血流が凝縮する。彼女の辛辣さに諧謔として動じるには、相手の腹の座った歩み寄り方を知りすぎていた。
「海苔の話はこうです。私が日本へ来るちょっと前のこと…幼なじみの女の子が、ボッケンハイマー庭園の池で発見されました。後から知ったことだが、強姦され、首を絞められていたらしい。第一発見者らしい…この私は、脚が竦んで、錆びた色に濁っていた水面の、ピカピカと言うか、テカテカと言うか、そう、鈍く光って見える彼女の黒い皮コートを見ていた、しばらくの間。それが…日本の海苔、醤油につけたあの海苔、海苔にそっくりに見えたのです」
 絵里子は打っ棄るようないつもの肩使いを揺らした。分からない久美子は幸いに女の魅力に足りていなかった。分かろうとしない絵里子に虎能は微小な殺意を憶える。それが唯一の女性への感情だと知ってからは幸福だった。
「多くのまともな女性たちは、同じ空気を吸いたくない男性の順位として、狂人の次に詩人を選ぶかもしれない」
 読み上げるように虎能の台詞が置かれた。
 絵里子は苦笑しながら振返って、久美子の真剣な眉間にかかる後れ毛を一瞥した。
「どうしても目立ってしまうドイツ人が、甘い感傷にばかり浸っている中年男が、こうも尻尾を捕まれずにやっていられるのは、やっぱり、部下ができているんでしょう。それしか考えられない」
 男は最初のときめきを手繰り寄せるように、女への微小な殺意を求めて目を伏せた。虎能が目を伏せたことは絵里子を饒舌にさせる。こうなれば男は経験豊富だった。
「それでも、社員が十四人ぐらいいれば、一人二人の泣き言は聞こえない。たとえ聞こえていても、鼻で笑って、代わりがきくとおっしゃる。それもこれも、まともな人間の集まりならともかく、世界中の屑の中から隅の方を摘まみあげたような集まり…代わりはきかないわ。一人が折れれば総崩れ。昨日、頼みにしている修理の名人が網にかかってきたわよ。ねえ、公園で部下の報告を待ちながら感傷的になっている暇はないのよ。言っちゃうね、あなた一人だけがご立派なドイツ人なのよ、シュワルツ。あとは日本の女を欲しがっているアジアの滓」
 虎能は鼓動を指先に感じたくて胸に右手を入れた。絵里子は構える。彼の眼は這い上がるように若い久美子を捉えていった。
「インゲボルクを殺した犯人は日本人でした」
 久美子の怜悧な顎先を凝視し続けた。
「小柄で、禿げあがっていて、極度の近眼で…青ざめた日本人でした。パリからの帰りに憧れのゲッチンゲンに立ち寄った、中年の数学者とか…。ともかく、警官達にヴェストエンド広場の花と言われていたインゲボルクは、日本人に殺されたのです」
 絵里子はさすがに久美子への視線を遮ることなく言い放った。
「さぞかし日本人が憎いでしょうね」
 虎能は背筋を伸ばして久美子へ近づいた。
「あのとき、私は、その日本人に感謝すべきだったのです。海苔のような黒髪を憐れむように見下すインゲ、金髪を靡かせて募金に走り回る長身のインゲ…私が殺したかった」
 久美子は反り返るようにして身をかわした。
「しかし、なにもやっていない」
 虎能は揺れるイヤリングを追った。
「私が日本に来て最初に憶えた言葉…なにもやっていない。それなのに逮捕したいと言うのですか?」
 久美子の肩に男の手がかかった瞬間、絵里子の手刀が首筋を打った。かなりの大声をあげてだらりと落ちた。久美子の額に後れ毛が張付いている。抱えあげられた男は不思議なほど軽かった。
 虎能は女に支えられてだらしなく見える男ではなかった。
「…暴力は大嫌いだ」
 虎能は喘ぎながら久美子のイヤリングに鼻を近づけた。
「ドイツでも女は追ってばかりいては駄目…女に捕まることもイッキョー(一興)」
 絵里子は野次馬に向かって凛とした声を響かせた。
「警察です。騒がないでください」

                                       了
ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 新書



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乍椰   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 錦から戻ってみると乍椰(さや)はいなかった。
 夕飯の買い物にしては早い時刻だと思ったが、梅雨入りして間もない蒸し暑い日だったので、何か涼をとれるものでも欲しくて出掛けたのだろうと思っていた。僕も充分に乾いていたので自ずと台所へ向かった。流し台の上の扉が開いている。乍椰は几帳面な方ではないが、一緒に暮らして三年ちょっと、僕が開閉と整頓に煩いことは乍椰も嫌々ながら分かっていた。しかし扉ははらりと開けられたままで、爪先を立ててみると木箱の端が見えた。蛇にでも触れるように手を伸ばした。松尾の鶏鍋屋の主人から戴いた、武生の手打ちの出刃包丁、それが収まっていた空箱である。僕は出刃が収まっていた切れ込みのあたりを撫でながら膝をついた。一昨年の暮れだったろうか、鯛の兜を切るのに牛刀ではどうも、と勿体ない思いを引き摺りながら手にした記憶があった。あれを、乍椰はどうしたというのだろう。流し台の下の扉を開けると、彼女が使い込んでいる牛刀と果物ナイフはそのままあった、昼寝を起こされたように鈍く光って。
 僕は渓の最上流部に着いたかのように流し台に指を掛けた。まいったな、どないしよ。洗っていないコップで生温い水を二杯飲んだ。自分で包丁を持ち出したというよりも、誰かに唆され持ち出したんかな。膝這いしながら日焼けした畳に辿りついて、とりあえず仰向けになった。持っとくんやったな、携帯電話の一つくらい、素直に。いつもの午後なら、この時期はやんわりと眠くなる。書置き一枚を残して、東京は西荻窪の親友、嶋(しま)さんの処、伊丹からいっきに奄美大島の故郷、この辺に急に出掛けてしまう乍椰ではあるので、呼吸を整えて落ち着いてみれば眠くはなりそうだった。しかし一度しか握っていない出刃包丁の切っ先が、遥かな雪山の高峰のように凛々と目蓋に去来するのだった。

「彼女は普通の子じゃありませんからな。いや、代用教員ということで戻ってきたときも、とてもとても…そう、少々、変わっていますからね」
 扁平な輪郭に引き目鉤鼻といった古風な顔立ちの教頭は、黙っていればいかにも教育者らしいのに、浜風に呼応する日陰杪欏(ひかげへご)の葉擦れのようにしゃらしゃらと話し続けた。
「生まれながらの縄文人ですな。そして、縄文人は憧れていたのでしょう」
 大島郡龍郷(たつごう)町という場にあって、龍北(りゅうほく)中学校の教頭自身は些か不似合いな弥生顔なのにそんなことを言った。
「憧れていた…何に憧れていたのですか?」
 僕は汗まみれの顔を上げて教頭に聞いた。敵わんわ、頼むで、おっさん。急いでいる身には揶揄ともとれてしまうその喋り方、それに辟易してきていたから掴みかからんばかりに口先を尖らしていた。
「それにですよ、彼女が、乍椰が縄文人ってどういうことですか?」
 教頭は僕の近眼と右上腕二頭筋を見ながら、いくらか仰け反るようにして困り眉で説明しだした。
「どういうこともなにも、乍椰の実家がある秋名(あきな)というところはですな、奄美大島では随一の稲作地なのです。ご存知ありませんかな、そこでは毎年、九月の初旬、旧暦でいう八月の最初の丙の日、豊作祈願として『ショチョガマ』という行事が行われるのです」
「ショチョ…ショチョガマぁ?」
「そう、ショチョガマです。この行事はですな、夜明けに片屋根、日の出に向いた屋根の上で、西東の稲の霊『にいやだま』を招来して豊作を祈願するのですが、なんといっても盛り上がりは、この片屋根を大勢で揺すってばったりと倒すのですが…お急ぎですか?」
 僕はやっと降りてきた教頭の気配りに頷きながら右肩で右頬をぬぐった。
「そうですか、冷えたお茶でも出そうと思ったのですが、お急ぎですか。とはいえ、申しあげたように、乍椰の基(もとい)の家はなくなっていますからな、ここの他に彼女が訊ねてくるとしても…あとは海ですかな」
「平瀬っていうところは行ってみましたが、なにぶん海と一口に言われても周りは海ですから…戻りますと、乍椰が生まれながらの縄文人ということ、このあたり魚屋にも分かるように話してもらえますか?」
 なにを聞いとんねん、おっさん相手にしとる場合かぁ。鯔背(いなせ)な魚屋には程遠い僕の執拗さに、教頭はどこか安堵したように手招いて椅子をすすめた。
「基はですな、ここから奄高、奄美高等学校の家政科に進学して、そこで二人の友人に恵まれたんですな。夏休みに龍郷へ戻ってきたときに連れて来て、屋(おく)という天然パーマの子と、嶋というえらい背の高い子、彼女はモデルさんみたいでしたな…」
「それで、その二人が乍椰と縄文人と、どう関わるんですぅ?」
 教頭は矢継ぎ早を制するように骨っぽい手を振って給湯室の方へ向かった。そして冷蔵庫を開けてしんなりと項垂れた。
「体育の授業の後で飲みおったか…そのぅ、屋という娘、屋和枝とか言ってましたかな…私も若かったですから見た瞬間に、こう何というのか、鳥肌がたちました。彼女は正真のユタの家系で、小学生のときからカンダーリィ、つまり神倒れを日頃から起こしているような子だったのです」
 教頭はがくがくと膝をふらつかせながらペットボトル二本を抱えてきた。
「どうぞ、売り出したばかりの、え~と、奄色(あまいろ)とかいうミネラルウォーターですな…そのぅ、屋という娘が率先して、ここ龍郷に行きたい、基の先祖は典型的な縄文人で、鋸歯の文様のボウル状の土器、専門的には曽畑式土器とか言うそうですが、そのぅ、そういうものまでもが基の、乍椰の背後に見えると申して…」
「先生は、あの乍椰が、先生が知る子供の頃の乍椰が、そういった能力、友だちが持っていた能力、そのぅ…」
「ユタ、つまり巫女ですな」
「その巫女の能力が、乍椰にもあったと」
「思いませんな。基は変わった子でしたが、ユタの友人が語る、縄文の世界やらに憧れたりですな、度々帰ってくるここ、奄美の風土を愛していた、そういう普通の島娘ですな。そのぅ、京都では随分と変な娘に見えるかもしれませんが…」

 乍椰は西荻窪の嶋さんの処にいた。嶋さんが営んでいる店の常連客、それなりに名の通った経済学者らしいのだが、泥酔のまま嶋さんに迫って拒まれ、挙句に嶋さんの肩を脱臼させてしまった。病院の嶋さんから乍椰に電話がかかってきて「生真面目な男でさぁ、生まれは福井の武生、刃物で有名なところでね。知っている?そう、その武生で、彼の実家も鍛冶屋だったみたいね。だからさ、彼もひょろひょろの飲兵衛の学者だとばっかり思っていたらさ、けっこうな腕力でさ…乍椰ぁ?大丈夫ぅ、泣いてるのぉ?」などと拝聴したようである。僕は経済学者の痩せた姿を想像しながら、嶋さんの携帯番号をもう一度聞き直して受話器を置いた。なにをしとんねん、乍椰やなくて自分のことや。ほんで乍椰の様子も聞かんと、ほんまにええ格好しいやな、サゴシの小坊主が笑うとるで。サゴシはサワラ(鰆)の若魚のことだが、生意気に直視してくるサゴシが、出刃包丁について聞けなかった僕を苛立たせていた。

                                       了
トモスイ (新潮文庫)

トモスイ (新潮文庫)

  • 作者: 高樹 のぶ子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 文庫



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淡水5時25分   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 月曜日の夕刻から行方不明になった周旦啓(チャウ・ダンチィ)が、新龍教のシンボルである南龍さまの腹から発見されたのは水曜日の朝だった。一報は張りこみ明けの淡水分局の林亞星(リン・ユシュン)にとっては不意打ち以外の何ものでもない。亞星は怒りのままに切った汗ばんだ携帯電話を、対岸の薄明に黒々と鎮座する観音山に向かって投げつけたい衝動に駆られた。凪いでいる河面には未だ街灯が似合う時刻である。亞星は熱い嘆息の後、いささか逡巡しながら彼女の番号へ発信した。延び延びとなっていた休暇の水曜日、昼食を八里左岸の「余家孔雀蛤大王」に予約していたのである。
「そう、南龍さまっていうのは龍の頭が載っかった…そう、塔で、そう灯台みたいな…そんなに怒らないでくれよ」
 亞星が哀訴する電話の向こうの彼女、三峡分局の張妙珊(チャン・ヨンシェン)はカーテンを殴るようにひいた。
「怒っていないわよ。まだ薄暗いじゃない…そんなの絶対に自殺に決まってるわよ、刑事さん」
「そう、自殺かもしれない、逮捕寸前の新興宗教の教祖ならね」
「だったら十一時ぐらいまでに処理すれば間にあうわよ、孔雀蛤大王には。あたしは山奥からそっちへ行くのよ」
「分かっているよ。だけどね、君がやっている交通隊の事故処理のようにはいかないよ」
 妙珊は金属音に似た唸りのままベッドへ倒れこんだ。
「いつもそうやって…いつも交通隊の勤務を誰にでもできることだと思って…」
 亞星はいつものように眼を閉じて右指を二本立てた。
「落ち着いて妙珊、俺は深呼吸をしているから君も深呼吸してくれる?いいかい、二つ方法があると思うんだ」
「一つは来週に延期するってのはなしよ」

 淡水には日輪を追うようにして錫の器が馴染んでくる。煩悶している梁さんには、その涼しくて鈍い輝きが、どこか怒り心頭に達したオランダ人の瞳に似ている、などという詩想が横行する。しかし薄明も覚束ない五時二十五分ではないか。己の逃げ腰にはいつもながら苦笑させられる。梁さんこと梁烏(リャン・ウー)は錫の杯を訝るように置いて書きだした。
「周の先祖が、巴賽(バサイ)族であるのか、雷朗(ルイラン)族であるのか、この二つの支族のどちらであるのか、それを特定することは周の祖父にあっても難しかったであろうと推察する」
 梁さんは退職したばかりの西園小学校の封筒で蝿をはらう仕種をする。
「致し方ない、周自身が語っているように、父方の先祖は、凱達格蘭(ケタガラン)族であろう、ということで稿を進めよう。本稿の目的が、貢寮(コウリョ)に建設が予定されている第四原子力発電所に対する」
 ここで梁さんのペンは断ち切られるように止まってしまった。正確には止めざるをえなくなった、西園小学校の教員である張先生からの電話によって。
「うちの娘は三峡分局に勤務していますから、交通隊ですけれど、その…淡水分局に知り合いがいるらしくて…まず間違いない情報でしょう」
「周旦啓が死んだ…自殺なのでしょうか?」
「さあ…検死報告の結果が公表されるのは午後になってからだろうと、娘の妙珊が言うには」
 梁さんは思わず原稿の上に置いたペンの下に二本の赤ボールペンを引き寄せた。
「いいですか、そもそも北投(ペイトウ)の山奥で始まった新龍教ですが、貢寮と淡水に建物を持つまでに至ったこの七年、いや八年ですか、この八年、周旦啓にとって追い風になったのは、何といっても凱達格蘭族の集落遺跡を破壊しての核四(ハースー)の着工、そして日本の三・一一東北地震、さらに台湾電力の工事上の事故に対する自力解決の断念などでしょうが…そうですね、私も起きてはいたのですが、些か眠気を引き寄せてはいたものですから正に寝耳に水です」
 張先生は取って着けたように大声で笑って娘の妙珊を手招いた。
「今晩、対岸の八里左岸、えーと、孔雀蛤大王っていう店で、食事をしながら話すっていうのはどうですか?」
「そちら三峡から?淡水までお見えになるのですか?」
 妙珊は父から携帯をさらりと取って右指を二本立てた。
「お久しぶりです。二つ方法があると思うんです。一つは週末に父と台北で会って、台湾中が知ってしまった周旦啓の死因を何度も復唱する。もう一つは今晩、淡水分局の林刑事から生々しいすべてを聞かしてもらう。大丈夫です、あたしは孔雀蛤を食べていますから…大丈夫です、あたしは誰にでもできる交通隊勤務で、しかも今日は非番、必ず約束を守ります」

                                       了
奇商クラブ【新訳版】 (創元推理文庫)

奇商クラブ【新訳版】 (創元推理文庫)

  • 作者: G・K・チェスタトン
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: 文庫



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プレスコット・カップ   Vladmir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 レフ・キニスキーの半生は、ベースボール愛至上の合衆国にあっては、いささか欧州動向に寄ったフットボール浸りの半生だった。
 長い黒髪を靡かせてボールを追っていた「ジェロニモ」という綽名の小学生は、高校生になると隣国メキシコのサッカーファンからロシア系ゆえに「雷帝」と呼ばれるようになっていた。実際に岩をちぎり投げそうな上半身の筋骨に加えて、下半身は別の神が創造したように重心が低く、すでに剛毛に被われた脚は凄まじく回転する。そして存在感のあるミットフィルダーとしては、何はともあれ充分に若かった。レフはハイ・スクールの全米選手権試合において、ロシア人の血統としての倒され強さを、ヨーロッパのクラブチームの監督やコーチ達に見せつけた。そして記者達にとりかこまれては、ポルトガル人らしい憂いを含んだ瞳を輝かせて、いささか大人びた受け答えをした。
「僕の母はポルトガル人ですから、父がフィッシングのガイドとしてハインズシティーの方へ行って留守にしていると、必ずと言っていいくらいポルトガル・リーグに熱狂している友人から貰った塩っ辛い鱈、干した鱈、これをミルク煮にして食べさせられました」
 レフは母方の祖母が作った鱈のミルク煮を一度だけ口にしたことがあった。
「今日のゴールは、母が生きていればとても喜んでくれたでしょう」
 レフはマーリンズの日本人外野手に夢中になっていた母の野球帽を葬儀の翌日に捨てていた。
「ええ、そうです、父の方は純粋なロシア人の家系です」
 レフは父方の祖母が「グルジアニ」のための葡萄を栽培していたことを本人から聞いていた。
「父のガイドとしての記憶力とサーヴィス精神は抜群です。クーラーにはフライパンとバターとパプリカがいれてあって、ニューヨークのレスリングのヘビー級チャンピオンなどをもてなしてきました。父ほどバス料理に堪能なガイドもいないでしょう」
 レフは父が捌くバスの胃袋から出てきた緑色の蛙を思いだすと何時でも嘔吐できた。
「え?その質問はひどいな。いくら父が釣り馬鹿なアメリカ人でも、内面には文学好きなロシア人の血が隠れているのですよ」
 レフは無論、父親ミハイルとて「カラマーゾフの兄弟」の英訳の一行とて読んでいなかった。
「ゼニト?ああ、サンクトペテルブルクですよね。ゼニトから呼ばれたら…よく考えて返事をします。ポルトかスポルディングから呼ばれたら、喜んで行きますけれども」
 二週間後にオランダのPSVと契約した時、レフは十代のアメリカ人のサッカー選手としては最高の契約金を手にしていた。
「セントピータースバーグの父の店に全部注ぎ込みます。ええ、まだ始めたばかりの店ですからね。これから儲けさせてもらいますよ」
 レフ・キニスキーの半生は、消費と享楽の合衆国にあっては、いささか堅実でストイックに見えるフットボール浸りの半生だった。

 八月に開店したミハイル・キニスキーのビア・レストランは、タンパ湾を望める高層ビルの八階にあった。連日の盛況に気を良くしていたところに、一粒種の自慢の息子が顔を出すということで、父親としては上機嫌極まりなかった。PSVのキャンプ地は、前年までは主にスペイン南部だったが、レフの人気を当て込んだのか、急遽マイアミに変更されたのである。さらにレフのお披露目ともなる練習試合が二日後に行われる予定だった。相手はボストンの「リヴォルーション」とかいうチーム。遥々、北から飛んで来てくれるメジャーリーグ・サッカーのチームだったが、PSVのお相手に選ばれたならば願ってもないとのことだった。
 父ミハイルはレストランの入口の歓声を耳にして狂喜した。伝えられていた時刻より早く息子レフが姿を現したのだった。
「レフ!ちょっと来てくれ」
 真紅のブレザーのキニスキー氏は顎鬚に泡をつけて息子を呼んだ。
「こちらは、フロリダ…えーと、フロリダ牛肉振興協会の会長でいられるスレイター氏ご夫妻だ。そして、美しい、とても美しい、お嬢様たちお二人」
 レフはパインナップルの輪切りがのったハンバーグ越しに、太りすぎた夫妻の脂ぎった手を握った。
「おまえも見てくれ。この分厚いハンバーグに『キニスキー・ゴール』か『雷帝の朝食』という名前をつけようと思っているんだ」
 息子は感激して父に抱きついた。朝から満腹ではトレーニングの障害になる、と内心は飽きれている。姉妹のうちの姉らしき辛辣そうな金髪の方は、ナイフを外科医のように操って焼け具合を気にしていた。さらに煩そうな妹は、冷めた一切れをレフに食べてもらおうと差し出す。レフはやっと飲み込んで、いまだテレビ局にもサービスしたことのない「ゴール!」を連呼した。
「次にこちらは下の…六階と七階のアスレチックジムのオーナーで、セントピータースバーグ青少年非行防止推進会の会長もしていらっしゃるブラックウェル氏だ。そしてジムのトレーナーのワイスコフさん。ブラックウェル氏の奥さまは、なんとアイントホーフェン生まれということで、あちらでボールを蹴っているおまえをとても注目されていらっしゃるそうだ」
 指先と目使いがやたらと落ち着きのないブラックウェル氏は、顎鬚に滓をつけながら猛烈な勢いで人参をかじっていた。まるで出走前の駄馬だ。トレーナーは流し目が気味悪いだけの金髪の短足男。どうやら二人はかなり深い仲らしい。レフもすすめられるままに人参をかじって言った。
「アイントホーフェンにはこんなに甘い人参はありませんよ」
 ブラックウェル氏はすでにかじるのを止めて、レフのジィーンズの下の大腿筋に思いを馳せているようだった。
「こちらの美しい方、こちらは南米サッカーに御詳しく、世の男なら誰でも知っているスーパーモデルのパティ、パトリシア・ソーンさん。こんなに近くで拝見できるなんて…素晴らしい。そして、こちらはリチャード・ボウルズさん」
 パティはあたりを睥睨するように堂々としていて、褐色の右手にシャンペンの煌きを委ねながら、左手の銀のマニュキアを噛んでいた。仏領ギアナで発見されたパティ・ソーンは、金属的な感触を想わせる両脚をかなり色落ちしたジィーンズに覆わせて、純白のシーツが勝手に絡みついてきたようなブラウスで女神然としている。ブレスレットの黄金とスニーカーの金紐が、人間のものとは思えない艶やかな赤褐色の腕と脛を際立たせている。並んで座っているボウルズ氏は、ヘミングウェイばりの髭をたくわえていたが、眼が柔和なことを除けば、貧相なブレザーの袖にタルタル・ソースを付けた小柄な老人だった。
「明日の朝、ドン・セザールの前のビーチを走ってみない?」
 パティが他の客の視線を弾き飛ばすようにテノールを響かせた。レフは少年めいた困惑
をあえて繕ってみる。ロシア人は権力と美女の前では農夫の様でなければならない、やがてくるアメリカ的な勝利のために。そして彼女は意外に賢明だった。同じスーパーモデルのジャンヌ・アルベルトーニを話題にして椅子をすすめる。ところが、いつのまにか父ミハイルが充分に魅せられたらしく、彼女の左側の椅子に象のような腹を置いて話しはじめた。
「ミス・ソーンは何歳でデヴューなさったのですか?」
「御子息『雷帝』と同じくらいでしょう。テラスに出て十三歳のジャンヌの記事をながめていたら、母とフランス語のクリスティバ先生が息を切らせて上がってきたの」
 ボウルズ老人はステッキで右側の椅子の脚を軽く小突いてレフにすすめた。老人は孫が席に着いたのを確認したかのように微笑んだ。そして予想だにしなかった囀り声で、まずは自己紹介をはじめるやいなや、蛇口をひねったように話し出した。
「…『雷帝』はまだ御若いからご存知ないだろうが、戦後のドイツのフットボール、失礼、サッカーの再生に、私はこれでもかなり奔走したと思っている。あの頃は、やがて『皇帝』と呼ばれるようになる男も『雷帝』とかわらぬ年頃だった。今日までいろいろあったが、こうしてタンパ湾の風とシャンパンを楽しんでいても、サッカーはやはりドイツさ。そう言えば、この前、地元のローカル新聞が、ドン・セザールに常泊している私をナチス扱いしてくれた。たしか…『本名、リヒャアルト・ボルグ、逃げ込んだペルーで金塊を発見した男』とね。たしかにアマゾンで僅かばかりのオパールを掘り当てたこともあるが、私は山師ではないし…母方の祖母は歴然としたユダヤ人だ。それと、私がフットボール、失礼、サッカーを好きだからといってアメリカ人らしくないとか言う人もいるが、サッカーのほかに女と…このチキンよりも繊細なこの肉、この肉が大好きなどこにでもいる助平爺さんにすぎない」
 老人は卵白に包れて揚げられた木の葉のような物にタルタルソースをつけて微笑んだ。
「蛙の優美な脚だよ。この店では唯一、人気のないビールの肴さ」

 アトランタで行われたメトロスターズとの福祉募金を兼ねた交流試合で、嘗めてかかっていたレフは執拗なレフトバックと交差して左膝の骨にひびを入れてしまった。試合中は冷静を保っていたような父キニスキーは、引分けに終わってはしゃぐ帰りの観客の群集の中で突然に爆発して、バスに乗り込むブラジル出身のレフトバックを追い掛け回した。すかさず地元紙の記者が、狂った白熊の父にインタヴューしたものだから「教えてやるよ。少々専門的になるがね、合衆国でサッカーの人気がいまひとつなのは、ヨーロッパ型のコンビネーションと品格を導入しないからだよ。そもそも小技がきくからといって、教養の欠片もないような黒んぼ小僧まで集めているのが間違いだ。そのうちナイジェリアの奴とか、イランの奴とかまでやってくるだろう」と激白して、スポーツ紙三面記事の週末の顔になった。
 レフ自身も「コーラル・ピンクに遊ぶパティの若い恋人」として騒がれはじめていたから、マスコミは無論、父親やトレーナーやファンの慰めにも辟易せざるをえなかった。
 パティはいつものように賢明だった。彼女は乱暴者キニスキー氏の店で、地元名士夫妻を招いてニューヨークの若手デザイナーによるファッション・ショーを開催した。「モデルは金玉混合のアメリカ人に限る」いうフレーズも彼女の案。親馬鹿ミハイル・キニスキーも、パティに教え込まれた言葉を苦笑しながら繰り返すばかりだった。
「私も典型的なアメリカの父親のひとりにすぎません。つまり、ひとり息子への愛情は露骨で、セントピータースバーグでの毎日に追われ、フロリダで釣るバスが世界一だと自慢して、毎日毎日、合衆国を、この国を理解しようと短絡な頭を悩ませています」
 黒檀に彫像されたようなパティ自身がオープニングを飾ると、嫌みな姉妹を伴った牛肉振興協会会長夫妻と、ブラックウェルとワイスコフの青少年非行防止推進会のカップルが、ボウルズ氏からのそれぞれの会への多額の寄付金とファッション・ショーへの賛助金について礼の言葉を述べた。肝心のボウルズ老人はテーブルの下を捜してもいない。心不全が思わしくなく療養中だと聞いていくつかの嘆息が漏れ聞こえた。
 リチャード・ボウルズは、ファッション・ショーが開催されていた同時刻、ドン・セザールの前浜で見知らぬ幼児とボールを蹴りあっていた。
 老人は陽が傾きはじめるとドン・セザールのテラスへ戻った。そして空輸されてきた白桃の皮を苛々と自ら剥きだした。やっと剥き終わって鼻歌まじりにミキサーを回していると、少々うな垂れたレフ・キニスキーが左脚を庇いながら入ってきた。テラスの椅子をすすめながら、老人はシャンパン壜へ手を伸ばして上機嫌だった。
「ビールばかりではいけない。私の長寿の黄金液にお付き合いしなさい。ゴールデン・フリクシール…熟しきった桃のジュースとシャンパンを混ぜただけのものにすぎないがね」
 レフは差し出された黄金液のグラスを、老人と同じように夕陽に翳して彼方を見ようとした。
 タンパ湾には曳航する船が少なかった。小さなハリケーンが接近していることは確かだった。ちくちくと合図するように鋭角な白波が立ちはじめる。浜辺に人影がまばらになり雲が濁りはじめると、いつも見過ごしているはずの波の稜線が人を沈思させる。ドン・セザールの前海であろうと危険なものはやってくる。予測できない彼方はすぐそこにあるのだ。
 風がドン・セザールのピンクの壁面を嬲りはじめていた。嵐の夜がやってくる。カリブ海の生臭い雨が滝のようにピンクの老婆に降り注ぐことは間違いない。そしてうら若くデヴューして間もない男が傷を負ってここにいた。
 レフは若くて惨めな自分もあることをはじめて知った。自分は老人に招かれてグラスを握らされて陰りゆく海を見ている。多少の傷は栄光にはつきものだ。しかし怪我の際は見舞いの花束に埋もれていて、ブルーネットの恋人が付き添ってくれているはずだった。そもそも狂いはじめたのは帰国してからだった。この海風のように無礼で、この壁面のように破廉恥極まりないこの国に帰ってきてからだった。
 誰が「雷帝」などと場違いな名前をつけたものか。レフの夢はヨーロッパではない、南米でもない、ただ合衆国のフットボールにあった。それはすべての肌の色と、すべてのチーム戦略と、すべての個人能力とを融和させた夢だった。
 二人の前の風景が諦観に似た安らぎに塗りつぶされようとした時、一隻のクルーザーが猛烈な勢いで波を蹴散らしながら湾から出ていった。自殺行為だ。それとも追われているのだろうか。いずれにせよ、あれも徒労なのだろうか、ボールを蹴るように。
 レフは黄金液を飲み下して沁みるように落ち着いていった。自分の膝は誰よりも愛おしい。そして賞賛も罵倒もただの潮騒でしかなかった。やがて割れた膝の嘶きが生来のもののように思われてくるから不思議だった。
 老人が桃の皮を摘みながら言った。
「中へ入ったほうがいいんじゃないかな。額の曇り具合が『雷帝』の肖像画そのものだ」

「僕も彼女もあなたに期待しているのはお金だけなんですよ」
 レフは黄金液をかみ砕くように飲み干した。
「彼女、パトリシアは君が思っているような女性ではない」
 老人は難題を作成する教師のように上目遣いに見上げた。
「財産を持った哀れな老人が、モデルの若い娘に食い物にされ続けてきて…、娘は娘で年下の若い男が現れるやいなや…、とよくある話もそれなりにいいけれどもね。怒らないでくれよ。少年というものは、ボールばかり蹴っていると想像力の成長が止まるものらしい。そして、うまい具合に怪我をしたものだ。落ち着いて聞きなさい。そもそもパトリシアは私の娘だ。そう驚くこともない。ペルーという国がある。退屈な話なので、聞き流してもらっても結構なのだが…ペルーの南東部の町クスコ、そのクスコの町で、クアルトネス通りにグラナダ通りが突き当たる所、そこにスプリングフィールド出身で、奴隷の子孫にあたるソーン医師の診療所があった。サミュエル・ソーンは頭脳明晰だったので、恩師の伝手もあって、ロチェスターで医学を修めることができたらしい。そして周囲は地元でとは言わないまでも、ミズーリで開業するものとばかり思っていたのだが、医師に言わせれば神のお導きによってペルーに渡ってしまった。さて…その頃、君と同じくらいの年齢だった私は、チチカカ湖を渡ってプカラの地下神殿を調査し終わっていた。もちろん一人だった。同行して出発した友人二人は、パラナ川とアタカマ砂漠で事故と衰弱で死んでしまっていた。狂ったような私一人が、噂のマチュピチュをひたすら目指していた。つらいの一語につきた。栄養失調が祟って、腰が痛み視力が落ちていた。何のためにだって?有名になりたかったのさ。アメリカ大陸をもっともっと掘り尽くしたかったのさ 。どこまで話した?そうだ、プカラの市場で出会ってケチュア語を教えてくれた少女、その少女と朝寝していた時だった。少女の兄にいきなり槍で脇腹を刺された。軽症だったが、炎天下の山中を逃げ回っている間に膿を持ちはじめていた。加えて飢えも追っかけてくる。サントスに上陸して以来、一年半が過ぎようとしているのに、密林の食に適するような果実をも見極められなかった。そして川岸で完全に気を失いかけている時、水際で鳴き声を聞いた」
「鳴き声?」
「そうだ、蛙の鳴き声を聞いたんだ。切なくなるほど清涼な蛙の鳴き声だった。あれは両脚の間にいっぱいの卵を抱えていて、手のひらほどもない小さい蛙だった。それを捕まえて食べた。それが最初の蛙だった」
 レフは口中に苦みを想像して顔を背けた。
「…なんとかクスコへたどり着いた。記憶が断片的だが、そのままソーン医師の診療所へ担ぎ込まれた。そこで医師の娘、父親の助手として小児患者を診ているパトリシアの母に出会った。アダという名前だったが…パトリシアは、娘はアダに生き写しだ。さて、生涯最良の日々がはじまる。私は療養しながら少しずつ診療所を手伝いはじめていた。休日には三人でサルカンタイ山を目指したこともある。山中でアダは皮膚に毒を持つ蛙を教えてくれた。もはやマチュピチュなどはどうでもよかった。そうさ、蛙を食いはじめてからすべてが変わりはじめた」
 レフはシャンペンの壜を取りに行って窓外の風雨に驚いていた。
「…そのサルカンタイ山の麓に湧き水を囲った廃墟があって、辺りをアダも医師も『プレスコット・アベニュー』と呼んでいた。プレスコットの遠縁で、ピサロの信任が厚かった大隊長がいて、やはり姓はプレスコットといって、その辺りが大隊長プレスコットと一族の邸宅と墓地があった所らしい。廃墟跡は荒れ果てて瓦礫も何もあったものではないが、墓地周辺は広大ゆえに、山里から移住して芋畑を耕している一家の小屋があちらこちらに見受けられた。診療所の休日の午後は素晴らしかった。私はそこでフットボールに、サッカーに出会ったのだ」
 レフは痛めた左膝を庇いながら振り返った。
「これからが愛すべきサッカーの話だ。そこ『プレスコット・アベニュー』には赤土の立派な競技場があった。アダに馴染んでいた子供たちが、チャピマルカから移住してきた子供たちとの試合観戦に招待してくれた。彼らは裸足、裸足でボールを蹴ったことがあるかい?そうか、裸足どころか、赤土の上でなどボールを蹴ったことがないのか…彼らの裸足の足は木靴のような音をたてた。ヘッディングの音はゴールデンホーンの雄同士の頭突きそのものだ。私は試合が始まってすぐにボールが異常なことに気づいた。アダは知っていて黙っていた。蹴ってもあまり飛ばない。重そうで意外な方向へ転がって子供達を沸かせる。歪なのだ。何だと思う?」
 レフはグラスを握りかけたまま老人を凝視していた。
「大隊長プレスコットの頭蓋骨だよ。そう教えてくれた時のアダ…彼女の無邪気な愛らしさといったら…今、思いだしても、例えようもない幸福な時間だった、私にとって。ボールの話をするとだな、頭蓋の顎を外し、目鼻の窪みにはコルク屑のような木屑を埋め込んで、周りを漆喰のようなもので球形に仕上げてあった。これだけではせいぜい一試合しかもたないから、全体に麻布を貼りあわせて、天然ゴムに似た樹脂を表面に塗っていた。よくできていたよ。私自身、プレスコットの孫らしい頭蓋骨の修理をしたことがある。そう、頭蓋骨そのものではなくボールの修理をね」
 レフはつられて小さく笑った。
「楽しかったよ。そのうちに昼間は医師とアダを手伝って、夕方からは子供たちと頭蓋骨ボールを追った。やがて私やアダと同年齢層までもが集まりはじめた。閑農期には隣村から一日がかりで試合に来る一団もあった。プレスコットの子孫だという者まで見に来るようになった。そして『プレスコット・カップ』という六チームによる年齢制限なしの総当たりカップ戦を催したんだ。素晴らしかった。評判になりすぎた。私もアダも少々はしゃぎすぎた…」
 レフは言いかけてシャンペンが一滴もないことに気がついた。
「もう一本持ってこさせるまえに話を締めくくろう。中傷と言えば中傷だったのだろうが、若者にとっては信じ難い狭量な世界の圧力が、墓地まがいの競技場から子供たちの楽しみを追いやってしまった。想像してごらん、あれだけ歪なボールを、大変な才能で苦もなく操る少年もいたんだ、君のように。まったく酷い中傷だった。だから、頭蓋骨ボールを大々的に取り上げた新聞社の新聞だけは今もって読まない。それから?それからは私とアダの蜜月逃避行さ。アマゾンを下ってギアナ高地へ辿り着くまでに六年を費やした。アダの父、ソーン医師はフジモリが大統領に就任した翌年に亡くなった。妻?アダはダカールの海岸で療養している。乳癌の手術の後は、年に二、三度しか会ってくれない。何だって?大きい声で言いなさい。孤独?私の孤独…そんなものは裸足の少年の可能性からすれば無能な大人の傲慢でしかない。私のような悪党老人が賛美するものは才能と黄金だ。老いてこそ強欲でなければならない」
 レフは遮るように言った。
「僕の考えている将来の合衆国のフットボール、いや、サッカーは、その『プレスコット・カップ』のような大会の開催にあると思うのです」
 ボウルズ氏は覚めた眼差しでレフを見据えた。
「五十年後に同じことをほざくがいい。『プレスコット・カップ』とはな、残虐と殺戮の果てに頭蓋をボールにして無知な者が遊べただけのことさ。そもそも『プレスコット・アベニュー』には才能も黄金もなかった。あったのは貧困と焦燥だけだった。しかし、今やこの世界では、頭蓋骨に似ても似つかないボールと芝生の上には才能と黄金が吸い寄せられる。君もあの程度の契約金に満足しているようなら、サッカーなどやめたまえ」

 レフは凪の前で居眠っているように寡黙だった。浜辺はトルコ石の朦朧とした中に取り込まれたように人気がなかった。父ミハイルは傍らで缶ビールを握ったまま寝ている。老けた顎鬚の上、塗れ乾いた砂が目尻から頬へ辿り附いていた。
 トレーナーとの約束の時間だった。
 レフは砂をはらって左の素足をシューズに押し込んだ。全霊をもって感謝すべく膝にくちづけする。父親を一瞥して、ドン・セザールの最高階を見上げてもみる。髪をかきあげると、指先に血を豊満させた若い頭蓋が確実にあった。

                                       了
楽園への道 (河出文庫)

楽園への道 (河出文庫)

  • 作者: マリオ バルガス=リョサ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 文庫



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アベル、そして瀬に羽と霧   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 正直なところ、セリーヌは格好いい、と四十代半ばにもなって思った。ろくに読みもしないで「なしくずしの死」や「城から城」という題名を格好いいと思った。なんとか「夜の果てへの旅」を読みきって、医者としての実体験からくる、剝き出しの白い腕の鳥肌を見たような気がした。格好いい男は駄目男だが、駄目男は格好いい男ではない、厄介なことに。


 一九四二年 晩秋

場所
 フランス ル・アーブル港に係留するUボートを見下ろす招待所

登場人物
 アベル…アベル・ボナール、文部大臣
 シャルル…シャルル・モーラス
 クルト…クルト・フォン・ワイツゼッカー少将
 ベルント…ベルント・フォン・ワイツゼッカー、広報将校
 艦長
 副艦長
 給仕

(Uボートが係留されている港は正面客席側、父祖伝来の小奇麗だったビストロの二階、戦時下にあって洒落た調度品、退廃的な絵画、蓄音機などにはみよがしに灰色の布が掛けられている。純白のテーブル・クロスの正面首座には文部大臣になったばかりのアベル・ボナール、アベルの右側下手にシャルル・モーラス、左側上手にクルト・フォン・ワイツゼッカー少将、その横すなわち正面手前にベルント・フォン・ワイツゼッカーがすでに居座っていて、ベルントは誰かを探して窓の外、すなわち正面を忙しなく見ている。デザートが済もうとしていてシャルル一人がパイプを燻らし始めている)
アベル 私は頭の古い文人で軍隊のことはよく知らないのですが、その…酒場の女のような言い方で申しわけありませんが、叔父さまが有名な少将でいらっしゃれば、その…
ベルント (殴られたように振り返って)私も文人でいたいのです。できれば、おこがましいのですが、大臣のように永遠なる紀行文を書きたいと思っています。
シャルル そしてアカデミーの文学大賞を受賞!
ベルント それは今話している言語で書き上げればでしょうが、(窓の外に探していた人物を見つけて手招く仕種)総統は大層お嫌いなようで、フランス語が。
シャルル それは…(大きく咽かえって咳き込みはじめる)
アベル 私が思うにですよ、お国の言葉、ドイツ語でお書きになられては…そして、こちらアクション・フランセーズの編集長に翻訳していただくとか。
(シャルルは水をかけられたように咳き込みを止めるが、席を立って窓の外、すなわち正面を向いてパイプをくわえる)
ベルント アクション・フランセーズですか、なるほど。(叔父のクルトの横顔を見つめて目が合うまで続く)しかしモーラス先生は、ドイツと我々ドイツ人が大層お嫌いでいらっしゃるとか
アベル (大袈裟に吹き出し笑って)彼も、シャルルも子供じゃありませんから…
(シャルルが仏頂面でアベルの方へ振り返るのと同時に、上手ビストロ二階入り口からUボートの艦長と副艦長が入ってくる)
艦長 Ich lade Sie ein.
ベルント お招きに参上いたしました、とのことです。Setzen Sie sich neben Dr. Morras(モーラス先生の隣へ座りたまえ)
(シャルルは慌てる様子を隠すように席へ戻り、艦長はその横へ些か横柄に、副艦長はその横へ静々と座る)
ベルント Wir sind fast fertig, aber man muss langsam essen(我々は殆ど済ましてしまったが、君たちはゆっくり食事してくれたまえ)
艦長 Vielen Dank(ありがとうございます)
副艦長 Kapitän, kannst du einen Flunder essen(艦長、ヒラメは食べられますか?)
(艦長がゆっくりと副艦長を睨みつけて、副艦長が慌てて給仕を手招く)
副艦長 時間がないので…艦長は魚が駄目なので塩漬け豚肉を、そして若い赤を。
給仕 かしこまりました、そちらは(と目を伏せがちに副艦長を伺う)
副艦長 私はヒラメにシャルドネを…待って、ソースを塩辛めにしてくれるかな。
給仕 かしこまりました。
ベルント 副艦長は随分とフランス語に堪能なようだね、どちらで学ばれたのかな?
副艦長 はい、母がブルターニュのオーレーの出身ですのでドイツ語並みに教え込まれました。
(ベルントは右肩を落としてクルトへ囁く仕種)
副艦長 あの…父は、父は生粋のバイエルン人です。(少々慌てて左の艦長を見るが、艦長は無視)この辺りからブルターニュには詳しいので、必ずや総統閣下のお役に立てるものと信じております。
クルト (両腕をテーブルへおいて身を傾けて)それは殊勝なこと、しかし無駄な言動は慎みたまえ。
シャルル なめらかなフランス語じゃありませんか、ワイツゼッカー少将
アベル シャルル、皮肉屋の君なら世辞はドイツ語で言うべきじゃないかな。ところで…フランス語に堪能な副艦長、シャルドネとヒラメがくるまでに伺いたいのですが、無駄な言動ではないところで。
副艦長 (シャルルを睨みつけているクルトを窺って、ベルントの優しい頷きを得てから)どうぞ、私がお答えすることができることでしたら…
アベル もちろん、君と艦長が磨きこんでいる海峡の霧、Uボートのことを伺おうとしているわけじゃない。その…私が伺いたいのは、海峡の羽というか…
シャルル 鷗好きがやっぱり我慢できずに鷗について話したい。
ベルント それはそれは、詩人にとって水と鳥は欠かせない霊感への賜物だとか、ラインには断崖の鷲、ドーバーには断崖の鷗、素晴らしいですね、私たちのヨーロッパは。
副艦長 はい、仰るとおりで、ブルターニュの断崖の鷗が巣作りする様子も
クルト 君の故郷、ブルターニュはここからずっと遠い、そんな遠くの断崖の鷗を見に行ってるほど悠長な時代ではない。
副艦長 はい、仰るとおりで…
クルト 閣下がご覧になりたがっていらっしゃるのは、ここル・アーブルを離着陸する鷗なのでございませんか?
ベルント 少将、閣下は詩集「親しき人々」で知られる文部大臣ですよ、ここを離着陸する鉄の羽にご興味をお持ちとは思いません。
アベル そのとおり、小心の詩人の記憶にあるのは、その…生まれたポワティエ郊外の小川の瀬、そう、眠気を誘うような穏やかな小川の瀬なのです。
ベルント ポワティエの小川の瀬ですか、ブルターニュの海浜の荒波ではなく、すばらしいフランス語ですな。
クルト (呼応するように甥のベルントを睨みつけて大きく頷きながら)なるほど、ここが「大西洋の壁」と言われるほどの鉄壁の要塞港なれば、敵が大胆にも上陸しようとすれば、そうだ、ブルターニュあたりかも…
(一同沈黙、シャルルの落ち着かない顔を見てアベルが苦笑する。給仕が塩漬け豚肉の皿を二皿と赤ワインの壜を持ってきて艦長と副艦長の前へ配する)
給仕 申しわけございません、ヒラメがきれましたもので、ご勘弁ください。赤は若くもありませんがカベルネですので
副艦長 待て、ヒラメがきれた…ヒラメがきれた…
クルト (副艦長を嗜めようとするベルントを制するように左手をあげて)ヒラメは我々の分で最後だったのだよ、副艦長。キールの食堂の給仕ならあるものはある、ないものはない、と言うところだが、ここはル・アーブル、給仕の気遣いも(シャルルの方をちらと窺って)アクション・フランセーズの編集長並み、そんなところですかな?
シャルル (咽かえってから殴るようにアベルの顔を睨みつける)それは…フランスは…争うことが嫌いな農夫の国ゆえ…
ベルント 我々とて争いが嫌いな農夫ですよ。閣下、しかしポワティエは知る限りでは大きなコミューンじゃありませんか?
アベル コミューン…今となってはそう呼べるかどうか…
副艦長 これはヒラメじゃない…ヒラメじゃない
ベルント ブランシュヴァイクをご存知ですか?我々ワイツゼッカー家の父祖伝来の領地はブランシュヴァイクにあります。そうです、誰もが知るガウスが生まれ育った地ですが
副艦長 ヒラメじゃない…ヒラメ…
(クルトが副艦長を睨んで反り返ると、艦長は静かにナイフとフォークを置いてから、右隣の副艦長の胸倉を掴んで椅子から立たせる)
艦長 Zurück zum Schiff!(艦へ戻れ!)
副艦長 これはヒラメじゃない…
長 Ich esse Frankreich Schweine!(フランスの豚は俺が食う!)
シャルル (愉快そうにアベルの方へ顔を近づけて)いやはや何とも、彼は屈強な潜水艦乗り、しかも副艦長なのに、どこまでもブルターニュのヒラメがお懐かしいとは
アベル 大人気ないよ、シャルル。誰もが…今は疲れているんだ。
(艦長は副艦長を入り口へ押し出しきると、踵を鳴らし揃えてクルトの方へ向けて右手を上げてナチス式の敬礼をしてから、アベルの方へ軽く前傾する)
艦長 閣下、純粋なゲルマンであれば疲れを知らず、かような醜態をお見せすることはありません。お招き戴きありがとうございました。失礼します。
(アベルは艦長のフランス語に動じた風もなく頷き、シャルルは口をあんぐりと開けて驚愕のまま硬直、艦長は速やかに上手へ退出する)
ベルント (可笑しさを堪えるように口許へ手を添えて)アクション・フランセーズの編集長殿は、Uボートの乗組員に対して漁師であるかのような偏見をお持ちだったようですかな。
(シャルルは不愉快を隠さずに正面窓の方へ立って行ってパイプをがちがちと噛む)
クルト (シャルルの後姿を追うように憂い顔でベルントの前の窓辺に立つ)ヒラメ、ヒラメとそれこそ飢えた鷗のように言っていた。あれもまた総統に仕える神兵の一人か…
アベル 彼らが優秀な神兵であることは一目瞭然ですよ。彼が言っていたラインの鷲、それがご自慢のメッサーシュミットだとすると、もうひとつのご自慢のUボートは
クルト (遮るように)霧でよろしい。閣下が歌うように例えられた霧、我らのボートは霧なのですよ。
アベル 静かに彼方の波間より粛々と近寄ってきて…生死の淵を垣間見せる、そんなところですかな。
クルト 閣下が仰ったように、戦争は誰をも疲れさせます。ムッシュ・モーラス、あの艦長をキールの技術学校の教師として復帰させること、そしてあの副艦長を鷗舞うブルターニュへ里帰りさせること、それが数多の霧を見送っている私の願いなのです。
シャルル (正面から目を背けてふらふらと布の掛けられた絵画の前に立つ)私とて霧の濃いル・アーヴルよりも晴れ渡ったル・アーヴルの方が好きです。そして港町ル・アーヴルよりも、十七歳の私はパリを愛していた。どこよりも愛していた、パリを。
クルト (シャルルをちらと見やって両手を広げながら)いただきましたよ、その愛されていたパリを。
ベルント ヒラメのように、焼き加減はあくまで焦がさずに。
(しばしの沈黙と張りきった静寂)
ベルント Im Norden klingelt der Alarm(北の方で警報が鳴っている)
クルト 相変わらず耳がいいな。しかし北なら地雷の絨毯の広がりに対戦車砲が待ち構えている。
ベルント (アベルをちらと見やって)羽、それもブリタニアの鷗なら少々厄介かもしれません。
(アベルが面倒そうに席を立って俯くシャルルの方へ向いたとき、明確な警報音が鳴る)
ベルント (立って正面窓辺に近寄り舌打ちする)行ってみますか…(軽く右手を上げて)Sieg Heil!(勝利万歳!)
クルト Sieg Heil.
(ベルントは踵を返して足早に上手へ退出、クルトは正面窓辺へ寄って腕を組む)
クルト Wenn du deinen Mut verlierst, bist du am Ende Mensch(勇気を失ったとき人間であることが終わる)閣下、ゲーテはお好きですか?
アベル そうですね、ゾラなんぞよりは好むところですかな。
クルト ゾラ?ああ、エミール・ゾラですか、ユダヤ人であるドレフュスを擁護していたとか。
シャルル (嘲るような笑みを浮かべながら振り返る)アベル、いや文部大臣閣下、下衆なフランス人の作家に偉大なるファウストの作家を並べるとは…ゾラのような、彼らのような作家がいることが、恥辱の極み、パリ陥落に繋がっていることが
アベル 落ち着きたまえ、シャルル。ワイツゼッカー少将、気にしないでください。彼はユダヤ人という言葉、加えてドレフュスなどという名前が出てきたら、アクション・フランセーズの編集長としてご覧のように興奮してしまう。まして警報なんぞ鳴りだしたら…座ってくれないか、頼むから。
シャルル (翻るようにして自分の席へ戻り)アベル、私は落ち着いているよ。
クルト (窓辺から離れて上手の給仕を手招きながら)ムッシュ・モーラス、作家といえば…(給仕に向かって)ベルントは軍帽を忘れていかなかっただろうね、あいつは冷静そうに見えていて慌て者だから…失礼、私がお聞きしたかったのはセリーヌという作家のことなのですが?
シャルル セリーヌ?ああ、ルイ=フェルディナン・セリーヌですか。彼もまた反ユダヤ主義者と言ってよいでしょう、ですよね、文部大臣閣下?
アベル 私はセリーヌは嫌いです、そう、「夜の果てへの旅」の作家は嫌いです。
(一同沈黙、シャルルはまた落ち着きをなくしてアベルとクルトを見比べる。給仕はクルトの軍帽とコートを持ってきて上手の出入り口際に立つ)
シャルル 待ってくれ、あんなものは流行り病みたいなもので、彼もまた未来のフランス文学を担う者だよ。
クルト (アベルの方へ軽く前傾して)閣下、まだ警報が鳴っているようなので、私は私の現場へ戻ります。ムッシュ・モーラス、この続きは永遠の都パリでお話ししたいものですな、失礼。
(クルトは正面窓辺の空をちらと見てから軍帽とコートを給仕から受け取って退場して、給仕はクルトの姿が見えなくなったのを見計らって食堂に足早に入り、気の抜けたように呆然と居座っているアベルとシャルルを横目に正面窓辺に近寄って上空を窺う仕種)
シャルル (給仕の後姿に苦笑まじりに)ナチスの連中もご苦労なことだな、ブリタニアの鷗が飛んでくれば飛んでくるで
アベル ありえないね、そう、ありえない。ここには霧が寄りつくことがあっても、羽が舞い降りることはありえない。
給仕 仰るとおり、ありえません。
シャルル 無礼じゃないか、ナチスの連中がいなくなったとはいえ、こちらは文部大臣閣下で
アベル 彼らが、彼の仲間が、何やら画策して警報を鳴らさせているんだよ。
シャルル 何のために?
アベル (爆発したように哄笑した後に)フランスのためさ、フランスのために決まっているじゃないか、飲み過ぎだよ、シャルル。
シャルル 飲み過ぎてなどいない!アベル、だいたいだね、君は文部大臣などになってから
アベル (給仕を手招きながら)いいや、飲み過ぎたんだよ、我々は。

                                    幕
ユゴー文学館 8 海に働く人びと (ヴィクトル・ユゴー文学館)

ユゴー文学館 8 海に働く人びと (ヴィクトル・ユゴー文学館)

  • 作者: ヴィクトル・ユゴー
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/03/22
  • メディア: 単行本



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ティティエット   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 マカッサルはウジュンパンダンと名を変えてはいたが、魚の開きイカン・スノウや他の干物の奇矯な仰々しさと、太陽に恵まれ過ぎた確実な死の匂い、それらは何ら変わらなかった。人の微笑みも訝しさも変わらなかった。しかし青年は同じように派手なシャツを着ていて、四十年前よりも随分と愛想がよくなった気がする。大森市場の一画と見紛うような中、荷物を扱う様は少々乱雑で、危なげなハンドルさばきが目について仕方ない。相変わらず毅然として見えるのは、帽を被った老爺と若い女性である。脂汗を感じさせない痩身に、窺うこちらに冷静を強いるような眼差しがある。かつて大学へ戻った戦友は、回教の教理や寺院の潔癖さがそのまま身についているのだろう、と感慨深く呟いていた。我々の身勝手な戦争が終わって四十年、たしかに今や余裕を持って回教の潔癖さに身を置けるのだろう。やはり少々変わりはてたのは、こちら太鼓腹の日本人なのだろうか?
 コカ・コーラの看板の彼方に、毒や激痛が潜む草木の緑を探してみれば、車の窓まで黄緑色の細い蛇を持ってきて、日本語混じりの英語で安くしておくと言い放つ。日本語に目尻を下げて、英語に威嚇された捕虜の焦りを思い出してしまう。日本人らしく潔く見せてもみたが、英兵ないし豪兵の手中にある蛙の口は正直に渇いていた。しかし口が渇くような危険はもはや見あたらない。蒲田駅前のような渋滞も見あたらない。渋滞のあげくに大声で歌いだしたくなるような焦燥、そんなものはここにはない。天地英雄(あまち・ひでお)、当年とって五十九歳、遥々やってきての第一印象だった。
「心の病とは、ありがたいものだ」
 島への旅の道すがら、英雄は何度も同じように呟き続けていた。そう呟きながらも、彼の視線は居並ぶタクシーや小型トラックのハンドルを一瞥している。手垢で汚れたハンドルがどうしても目についた。彼が先週まで握っていたのは、都バスの黒珊瑚のように磨きあげてきたハンドルゆえ無理もない。あれだけ、ハンドルひとつバスの道具の隅々まで磨いてきて…渋滞中にちょっと歌ったら、心の病、とかにされてしまった。鼻歌や文句のひとつも口にしないでどうする?組合の対応に向けて、若者の運転に向けて、ソ連やらアメリカやらに向けて、とにかく苦言を呟きながら運転してきた都バスの運転手、それが同僚にとってのマチさんこと天地で、蒲田のサントリー館のヒーローこと英雄だった。
 ぽつりぽつりと降ってきたような呟きは、やがて冬の終わりの叩き雨のように勇壮になり、先月の絶唱、加藤登紀子の「知床旅情」を朗々と歌ってしまった。優しい世間さまが見過ごしてくれるはずがない。いつも乗り降りしている顔見知りの乗客四人が、狂気寸前の運転手について会社に訴え出てくれた。数日を置かずして、妻の美智子がいつもの夫婦の摩擦を、夫の労働と脳髄の不均衡にすりかえて愁訴してくれたものだから、ついには健康診断にかこつけた精神鑑定を受ける事になった。挙げ句の果てにこれである。東邦医大病院の精神科医が、安定剤の投与と一ヶ月ばかりの休養を決定づけてくれた。
 万歳三唱、いや、一度だけ万歳!やった、やった、やったの休暇だ…欲しくて欲しくて堪らなかったものじゃないけれど、何が欲しかったのか、何がしたかったのか、いずれにせよ神経衰弱な運転手には、考える時間が必要だということだろう。
 あと十ヶ月も経ずに定年退職だというのに、何が契機で、逃亡と追放の綯い交ぜが、現実のものとなって旅に引き摺り出してくれるものか、分からないものである。まさに「スラウェシ島」の方からこちらへやってきた、という語感がぴったりだった。
 歳ゆえに辛かったのは、五十を過ぎてからできた末娘、産まれつき脚の不自由な恒子との別れだった。インドネシアの地図を見せながら、極楽鳥や鸚鵡の類いの青い鳥なんぞを、鉄砲の弾が飛んでいないジャングルで観察するのが夢だったとか言って、今生の別れのように幼さを残す顔を隅々まで見納めてきた。
 親しくしている同僚の立原にも、勢いのまま無責任なことを言い残してしまった。彼の息子が勤めるシンガポールの電線会社に時間があれば寄ってくる、などと…我が身だけでも来るのがやっとのこと、帰るのもやっとのことは大いに想像できた。
 妻の美智子には、随分と夫婦らしくない別れの言葉を投げつけたものだ。男としてはちょっと反省している。美智子も最後まで美智子らしかったというか、診断書が付いた休暇という逃亡を認めてくれなかった。だから言ってしまった、生意気盛りだった十代の頃の長男も言わなかったようなことを。妻の弟、憲一が、心身症から勤めに復帰して三日後に辞表を出した件について、小皺が増えてきた目尻を憎々しげに見下ろして言い放った。
「はっきり言ってやる。憲ちゃんが悪いのではなくて、笑顔で俺を見送ったことなどないおまえ、そうさ、そういう姉のおまえが悪いんだよ」
 それにしても逃亡していると思うには、少々歳をとってしまった。妻と妻の男関係から逃げること、そして仕事を立派に放り出して逃げること、それを情けないと揶揄する人もいるだろう。そんな世間の思惑を笑い飛ばすべく、離陸してからずっと高揚の一端を探してもみた。そのような高揚は座席の下をどう探してみても見あたらず、子供ような落ち着きなさをスチュワーデスに見咎められて苦笑に継ぐ苦笑ばかり。眼下に島々が見えてきたとき、逃亡とは真逆な高揚がやってきた。忘れていた忌まわしい高揚…悠長な天空からではない、暗鬱な船底から這い出して凶暴さを示せる高揚、それが波頭や椰子の揺れに任せるまま浮上してきた。あの餓鬼のような一兵卒が、今更、逃亡とは笑わせる。ジャカルタの地に足が着くと、美智子や憲一の疲れた目尻はむろん、恒子の桃のような頬まで忘れている自分がいた。
 逃亡した帝国陸軍よりも、追放された都バス運転手でいいではないか。スラバヤからウジュンパンダンに渡るとき、ふと薄ら笑いの後でそう思った。追放されたのである、滑走路の外れでうろうろしていた老犬ように、都合よく追放されたのである。少尉殿、伍長殿、あるべきしてあるように、願ったり叶ったりで島へ追放されて参りました。悠々として追放を受けとめることは、老いの便に乗った自覚に喉を鳴らすようなものだった。
「心の病はありがたいが、犬のように渇いてしまっている」
 容赦ない炎暑にやっと耐えている白豪の老肌など、喜劇の最終章に向かっての狂態からすれば当然なことだ。いっそホテルなどに着く前に、あれが落下してくれたら全てが楽になるかもしれない。
 あれは確かに生きた牛だった。ヘリから吊るされた黒毛の牛が、尿とも涎ともつかない粘りをまき散らしながら、この島の夕暮れに降りてきた日があったのだ。
 しかし今日という日の夕暮れには、あれは贅沢すぎるだろう。あれじゃなくても半ば枝肉になった牛でもかまわない。パイ皮を押し貫くように小気味いい音で、枝肉がこの日本車の上に落ちてくれたら…世界は蚊が叩き潰されるように突然終わる。
「ホテル・キングダムへ行ってくれ」
 座席での死ぬの生きるの終わりたがりの妄想も、運転手と目が合った瞬間に遣りきれぬ酸い吐息に変わる。無事故を誇りとしてきた英雄は、乗客の虚実忙しない眼差しを観察してきて知っていた。
 タクシーを降りて斧のような灼光が頬にあたった瞬間に、素人芝居の大根役者が皮肉るような台詞が口端にのった。
「グッド・ドライヴィング!原住民、いや、インドネシア人の皆さんには分からないだろうが、俺には分かる。なぜなら俺は東京の、花の都の東京のバス運転手なのさ。分かるかい?言葉は勝手なもの、しかし言葉は金銭のように楽々と通用しない、だから言葉には価値があるのさ」
 キングダムは少尉殿が手配してくれた。九州帝大の助手のまま招集された少尉殿、戦後の今では福岡とシンガポールを拠点に中古トラックを豚肉のように売り捌いている。ホテルは少尉殿の取引先の客家人の親族が経営しているとのことだった。しかし予想していた目眩を誘うほどのタイガー・バーム・ガーデン様式には程遠いものだった。一見すれば洒落た警察署である。硬質感を高める艶のある雨雲色のタイルが、外壁に丁寧に張り詰められていた。冷房は肌に感じられるほどではなかったが、隅に配された花入れや小さいバルコニーに置かれたベンチの背の竹が、自然な青々さを保っていて涼しげだった。

「作家だとか言っていたけれど、本当かしら?話せるのは日本語だけみたい。英語は『グッド』と『ビューティホー』ばっかり、あとはそうだ『オッケー』の繰り返しよ」
 ティティエットは何故か可笑しくなって、机上にふわりと突っ伏せて低く笑った。
「ニッポン語まで聞き取れるの?英語とオランダ語だけかと思っていた」
 クニンは目覚めたばかりのような頬で抑揚なく言った。
 二人が話す言葉はアチェ語だった。彼女たちが生まれ育ったのはスマトラ島のサバンである。そこはかつてのイスラームのアチェ王国であり、アラビア語でイスラームの幸福に満ちたという意味の「ダルサラーム」を十年後に冠するアチェ州にあった。インドネシアの中でもイスラーム信仰が強い地域にあってイスラーム教学の拠点の地であった。
「娘がいるらしいの、指をこう並べてね、何歳だと思う?」
 ティティエットは左手の五指に右手の親指と指し指をそえて翳した。
「七歳の娘がいるなんて」とクニンは吐き捨てるように言った。「戦争を知らない世代が観光で来ているわけね、この危険なインドネシアへ」
 ティティエットは翳していた両手を胸元ではらはらと揺らして笑いを呑んだ。
「戦争をご存知のお爺ちゃんよ、スカルノ世代よ、あたしの話を聞いていないから」
 クニンは苦笑しながらホテルの老爺が持ってきたファクシミリを突きつけた。
「あたしはね、あの爺ちゃんが持ってきたこれをずっと解読していたのよ」
「了解、ご苦労様、でもあの爺ちゃんが持ってくると知っていたら、そんなマレーシアの宝飾店の案内なんかにしなくてもよかったのに」
 クニンは小さく舌打ちしてからバルコニーの方へ愛嬌ある丸鼻を向けた。
「その作家さん、また出てきたようね、あなたのことが気になって。四十年くらい前か、彼はどこで銃をぶら下げていたの?」
「ここよ、ここウジュンパンダンがマカッサルだった頃、あの死人のような白い腕で、銃をぶら下げていたらしいわ」とティティエットは味わうように上唇を舐めた。「オランダを追い出してくれたニッポンの恩人気取りで、戦争に負けた去り際に撒いて、すぐに大輪に咲いた花がスカルノ、そしてスカルノという花が散って残った大粒の実が、そう、彼だと思っている」
「ティエンの犬ね」
 ティティエットはクニンへ向かって素早く左手を振って、隣のバルコニーで乾いた音を立てているスリッパに目を細めた。白骨のように晒された日本人の脛の先に蒲色のスリッパが揺れている。従軍して日焼けしていた青年時代を懐かしんでいるのだろうか。屋内で涼んでいればよいものを、こちらの小鳥のようなさえずりが気になって仕方ない、男が日本人だろうと、ティエンの犬、スハルトと大差ないだろう。ティティエットは、また机上にふわりと突っ伏せて低く笑った。
 クニンはティティエットのスター・フルーツの背中へ被さって追い笑った。
「その作家さん、週末に、犬がウジュンパンダンへ来ることは知っているの?」
 ティティエットは優しくクニンの重さをのけてから考える仕種をした。
「どうかしら…ただ、よく見えなかったのだけれど、犬かスカルノか…どっちかの写真を表紙にした本を開いていたわ」
「見せてもらえばよかったのに」
「隠すように背中の方へ仕舞ってしまったので…そうね、無邪気なジャカルタ娘のまま見せてもらえばよかった」

 英雄は震える手で閉じた雑誌の表紙を一瞥した。日本人の成功者のように自信満々のスハルトがいる。今更ながら驚いている旧帝国陸軍の兵卒だった自分がいる。あのスハルトが、日本軍に加担する義勇軍の隊長にすぎなかったスハルトが、日本にとっての終戦の日以降はオランダとの間の独立戦争の大隊長に、鳶が鷹になった。英雄は自分の稚拙な例えに笑わざるえなかった。
「シンガポールなら案内がてら色々と話ができたのに、あの蛭だらけのジャングルのセレベスとはね、遺骨収集団じゃあるまいし」
 乗り継いだ空港で、少尉殿はそう言って端正な横顔を聳やかしていた。ひたすら記憶してきたセレベスは、スカルノが独立を勝ち取って、後を引き受けた反共のスハルトの時代の今、スラウェシと日本人には発音しにくい島名になっていた。確かに少尉殿に首を傾げられるまでもなく、ホテルに腰を落ち着けた今でも、自分の内に沸き続けてきたスラウェシに対する感慨、そのひりつくような懐かしさ、それは明瞭にかたちをもって納得させるものではなかった。
「懐かしい、それでいいじゃないか。人は、誰もが各自の島に戻るのだ。だから俺はスラウェシ島に戻ってきた」
 バルコニーからは、意外に二階建て、三階建てのコンクリートの点描が望めた。真下にはホテルの建築の際に足場として使用された竹が積まれている。一段落したような中国人コックが、ボーイから口中刺激の実をすすめられて、喧嘩をしているかのように広東語をならべて断っていた。
「あいつらの父親や母親、いや、爺さん婆さんにも、銃を向けていたわけか」
 英雄はそう呟きかけて、誰かの抉るような視線を感じた。隣のバルコニーからだった。緑星状のスター・フルーツのプリント柄のシャツが見えた。
 縁無し眼鏡の奥で睫を伏せてしなやかに恥じらい笑んだ娘は十代を思わせた。そのときティティエットは、既に三十歳だった。随分と痩せていて、怜悧を直感させる広い額に後れ毛がかかる。怯えるように部屋の中へ戻る時に、束ねられた長い髪が、乱舞するスター・フルーツの背中を柔らかく打った。
 英雄は彼女の背筋に直感した。その翻ったしなやかな背は、放たれたばかりの弓反り、待ち受けていたかのような殺意だった。そうだった。熱帯にあっての若い女の殺意、両生類が察過したばかりのような甘苦い殺意、英雄が求めていた懐かしさはこれだった。

                                       了
セノ・グミラ・アジダルマ短篇集 (アジアの現代文学―インドネシア)

セノ・グミラ・アジダルマ短篇集 (アジアの現代文学―インドネシア)

  • 作者: セノ・グミラ・アジダルマ
  • 出版社/メーカー: めこん
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: 単行本



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桶柑   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 そこは住用の森、晩冬の朝、ボロボロノキ(襤褸襤褸木)に降る雨で明けてゆくのをオオトラツグミ(大虎鶫)が見守っている。リュウキュウハナイカダ(琉球花筏)の葉の下では、雫の滴りを待っているかのように、錆びた甲冑姿のイボイモリ(疣井守)が何やら蕭然と佇んでいる。ツグミはイモリの気持ちを勝手に想った。彼は彼女を見て、イモリはハナイカダの小さい花びらをつつくルリカケス(瑠璃橿鳥)を見て、始原な姿のままの自分の怪胸と進化の先のカケスの青い胸、神々は、悠久の営みは、褐色の地上から瑠璃の晴天を望まれているのだろうか。それにしても曇天のまま風雨は舞っている。山霧は炊煙が払われるようになぎ切られて、夕べからの祝祭が続いているかのようにソテツ(蘇鉄)を光らせ揺らしている。
 山崎涼子(やまざき・りょうこ)は四十歳になっていた。商社勤めからは解放されていなかったが、指先が凍てつく永久凍土の無菌状態からは脱出して、倒木に生えたばかりの粘菌マメホコリに素手で触れられていた。その雨に濡れそぼっている豆袋に、未知の険しさが宿っているにせよ、涼子の指先には慄きも侮蔑もなかった。
 倒木を押しとどめていたのは錆びた鉄条網だった。見上げてみると、鉄条網に囲われた畑からタンカン(桶柑)の枝が垂れしだっている。そして橙よりも黄金に近い色の実が、絶対的な存在として雨に光り揺れていた。
「タンカンには「桶柑」(タンカン)の字があてられていて、中国で行商人が木桶で持ち歩いたがこん由来とされています
「タンカンには、オケ(桶)にカン(柑)で桶柑の字があてられていて、なんでん…中国で行商人が木桶で持ち歩いたのが、こん由来とされています」
 民宿の主人がどこか済まなそうに言っていた。
「ポンカン(凸柑)とオレンジの交配種なのよ」
 いつまでも聡明な母は電話の向こうで面倒そうに言っていた。
 昨日、涼子は郵便局で携帯を切ってから母へ五キロ箱の発送を済ませた。ベンチで送り状をしまいながらノートを取り出して検索した。
「タンカン、桶柑、短柑、ポンカン(凸柑)とネーブルオレンジの自然交配種タンゴール (tangor) の一種、学名はCitrus tankan、ミカン科の常緑樹、中国広東省が原産地で、一七八九年に台湾北部の新荘に導入…」
 そして今日、薄暗い森を抜けてきた涼子の前に渾然とオレンジ色がある。雨に濡れた果物が眼に刺さる。未だ遭遇していないハブの死毒、それもこんな色をしているのだろうか。紅い毒、辰砂は硫化水銀HgS、なんと始皇帝の不老不死薬、なんと愚かな彼や彼の時代。そしてその愚か者の末裔こそが、潘(ハン)や涼子ではないかと桶柑が苦笑している。
「奄美市の住用町…そこに何かあるのか?」
 潘世備(ハン・セイビ)GM(ジェネラル・マネージャー)は、日本の商社へ売却したMOX運搬権利の最終報告書を脇へやって首を傾げた。MOXとはプルトニウムとウランの混合酸化物燃料である。
「ご存知のようにハブという猛毒の蛇がいますので、あたしのこの少年のような胸を咬ませてみようかと」
 解任されたチーム・リーダーの涼子は、上司の机に置いていた右手を己が右胸において応えた。
「まったく、この十三年ほどの君の働き、この国の原発事故に際しての対応、何よりも東奔西走ぶりは、地中海を手玉にとったクレオパトラにも相当するだろうさ」
 大阪とボストンに学んで日本語と英語に流暢な潘GMは拝むような仕種で続けた。
「せめて、せめてだね、もう煙台の太陽光発電の話は一切出さないから、シンガポールのうちのワイフの話を聞いてみてくれないか」
 そう言われて涼子は飴細工のグラスを噛んだように絶句した。そして山東省出身の上司を前に呵々大笑を我慢できなかった。
「ごめんなさい、可笑しくって…ごめんなさい、そうね、ここでクレオパトラを持ってきたら、自棄になっていると思っちゃうか。やけ、自棄よ、やけくその自棄、可笑しい…潘さんは優しいから、マキャアベリじゃないからCEOにはなれないわ」
 涼子は思い出した笑みを呑み込むようにして額の滴りを払った。
「フランクフルトからプリピャチ、そしてイルクーツク、ノリリスク、あとは福島…どこに行っても寒かった。でもここは温かい。冬でも温かい。雨が冷たくてもタンカンの色は温かい」
 涼子は躊躇せずに少年のような手つきで桶柑をもぎとった。
 住用の森、晩冬の朝、茹ったように明けてゆく様を、ボロボロノキでオオトラツグミが見守っている。リュウキュウハナイカダの葉の下では、錆びた甲冑姿のイボイモリが、ハナイカダの花びらをつつくルリカケスに見蕩れていた。

                                       了
太陽の帝国 (創元SF文庫)

太陽の帝国 (創元SF文庫)

  • 作者: J・G・バラード
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2019/07/30
  • メディア: 文庫



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森で迷う   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 範疇という漢字は厳めしいが、CATEGORYカテゴリーという片仮名は随分と洒落ていると思っていた十代の私。どこにでもいた昭和五十年の春に受験を失敗した少年Bだった。気楽な文系志望で、先々は教師にでもなって田舎へ戻って、焦がれていた探偵小説でも書いてみようと安易に夢想していた。そして典型的な十代の危機だったのか、備わっていた厄介な気質なのか、それは客観的な感想にまかせるにしても、私は捉えられてしまった。何に?お座なりにいえば数学に捉まってしまった。具体的には、土手を自転車でのんびりと走っていながら、額の裏では金団雲に跨って滑空している数学者という人種に魅せられてしまった。たとえば誰?フーリエとか、ポアンカレとか、ヴェイユとか…どうも小説家の好みもそうなのだが(バルザックとかフロベールとかサルトルとか)ちょっと癖のあるフランス人が好きな質であるらしい。
 昭和五十年の暮れ、浪人生は本屋でふと森毅先生の「異説数学者列伝」に目をとめてしまった。人間は憧れていたり憎んでいたり、つまり気になっている存在からは逃げられない。恐る恐るその本に指をかける私の横顔は、初めて春本を手にしたときのように蒼白だったに違いない。まず森先生らしい前書の「よくあるヘンな奴だけれどもエライところもある」とか「ボロボロたちによって数学は作られる」のボロボロ史観にやられた。皆どこにでもいる生活に追われた駄目男じゃないか。野心満々で孤独に苛まれていた一人に「矮小な哲学から偉大な数学は生まれるのか」のポアンカレがいた。彼は危うい試験の綱渡りの末にエコール・ポリテクニクを経て鉱山技師になる。想像してみたまえ、世間知らずで不器用な青年が、日中は坑内に入ったり測量したりして、夜半には鉱夫たちの酔唄を聞きながら偏微分方程式を書き連ねている姿。二十世紀初頭の懐古趣味と言うなかれ、ここに人間の神々しさを見ないでどうする。誰か映画にしてくれないものか(フランス人だったら企画しているのではないか)。レーニンは「唯物論と経験批判論」でポアンカレを攻撃したらしいが、矮小にしろ偉大にしろ、哲学は時代の制約を受けがちで体系化が難しいだろう、と私は浅学ながら言いたい。今や偉人の理想郷とされた連邦国家は100年も保たれず、数学大国ロシアはポアンカレ予想を解決するほどの人材を輩出している。いずれにせよ、未来への不安愁訴で蒼ざめきっていた私は、近眼の狸のようなポアンカレに「気軽にやってみたら?月のデコボコとか林檎の皮剥きの数学を、気軽にね。森で迷ってみなよ」と耳元で囁かれてしまった。
 それから後は、おかげさまで受験は理系志望へ一応変更となり、いっぱしの数学者の卵気分に皮膚疾患のように被われてしまった。中学時代に唾した三角関数がフーリエ級数の幼姿だったと知り懺悔して、求積計算に疲れてふと目にしたルベーグ積分の概念構築に急いで逃げ込んだ。見ているもの、聞いていること、読んでいること、全ての存在事象を数学的範疇といったような風呂敷の上にちょっとの間でも転がしておかないでは気がすまなくなった。日々の危うい認識の中で確実なのは、代数と解析と幾何という三つの定規のような剣のような棒切れで、触れられ小突かれ叩けるもののみとなっていった。三本の如意棒は、女性からの優しい言葉を撥ねつけ掃い、シェイクスピアの古英語を泣く泣く粉微塵に粉砕し、酒でとばすはずの憂いに酒以前に頂門の一針の代わりとして刺したものである。傍目から見れば、居直り浪人生の立派な現実逃避。そして、あっさりと受験勉強そのものが放逐された。窓の下の通りから「あいつはやっぱり狂ったみたいだね」という声を何度か聞いたような気がした。生活しなければならないので、運送会社の助手、メッキ工場やガラス工場などでアルバイトとして働いた。正社員にならなかったのは、就業以外の時間を拘束されずに思索や創作に使いたかった。こう書いていても、若気の至りとはいえ随分と立派な冠をかぶった野良猫だった、と肌を泡立て大苦笑にならざるをえない。そんなことで、日常における浮世の認識とやらは、三本の如意棒を構えたような気になっていれば、発狂する手前でなんとか踏ん張って擦過していった。はたして数学そのものとの関係はどうなっていたのか?カッコよさとか知的憧れのような観念の爛れの裏に隠れていただけのことじゃないのか?正直なところ、小説を書いているということと同様に、例えば「リーマン・ヴェイユ予想の解決」という活字を凝視している自分を、他人に見られることは身の毛もよだつことだった。謙虚な自分がいたわけではない。午前にフーリエ変換のひとつを読解しきってみても、午後には他人がくれる缶ビールの一缶のためならば級数の収束など喜んで捨てる自分を実感していたからだ。確かに恵まれた今生の私は、人はパンのみによって生きるにあらず、と呟くことはできる。しかしこのパンのみによらない世界は、憧れるだけの中途で計算を投げ出して呪詛してばかりいる輩に辟易しきってもいる。そういう輩はだいたい「ぽわーん」とした田舎者が多い。ガウスやワイエルシュトラースが寒村出身だと知って、清貧さが修道院僧のような彼らの数学の練磨を導いたと想っていた。しかしアーベルは…ノルウェーの寒空の下での若い死は想うも嫌だった。北欧の美しい白皙の数学者の死などは、極東の都会で神経症に陥っている浪人崩れの田舎者の妄想だと言い聞かせた。「もう頼むから俺を放っておいてくれ」と言いたくなっていった。思索や創作は麻疹のような一時的な病で、ポアンカレ狸の「森で迷ってみなよ」とした耳元の囁きも、大人ぶった苦笑に強引に投げ遣りにかき消されていった。
 それでもポアンカレは、数学は私から離れなかった。平成七年、曲がりなりにも小さな商事会社の大阪支店長になっていた私は、フランクフルトの化学メーカーへの出張の帰りにパリへ寄った。初めてのパリだった。中年男が痺れたように東京はむろんドイツの都市とは違う別世界だと痛感していた。ひたすら歩きまわった。その頃はバルザックに心酔していたのだが、革命の記念碑とかエッフェル塔などの名所はどうでもよかった。この石畳を蒼ざめたガロアや気取ったコーシーが歩いたのだ。学士院へ向かう橋の上では、小太りなフーリエがぶつぶつと独り言を呟いていたかと想うと、若者のように小躍りして擦れ違う人にハイタッチしたかった。そうだ、この歓喜はエコール・ポリテクニクのパリ、数学の都パリにいるからだ。ポアンカレは「科学と方法」で「突如として啓示を受けることはある。それは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示している」と言っている。ポアンカレが言うこの「数学的発見における精神活動の関与」と、日本人の中年男の感激を一緒にしては甚だ申し訳ないが、人にはそれぞれ神仏のごとく尊崇する認識があるのだとしたら、私は数学にポアンカレ狸(いい加減な日本人だから狸のままでいいのだ)に感謝しなければならないと思った。調子にのってナンシーまで行ってみようか、とまで思案しはじめていた。医科大学教授ポアンカレの放心息子アンリが、そこで産声をあげて不器用さをからかわれながら育った大聖堂の町なのだ。ああ、しかしセールの「数論講義」を途中で投げ出したニッポンの猫背な小父さんには一日とて猶予はない。そして私は何とか大人の男になっていたのだろうか。学士院の方からセーヌを渡り戻るときに言葉が浮かんだ。
「無意識だったかどうかは分からんが、アンリよ、若いときに夢中になるなら数学だよなあ、実存主義もいいけれど、やっぱりトポロジー、やっぱり数学だよなあ」
 平成十五年、グリゴリー・ペレルマンは一連の論文でポアンカレ予想を解決した。私の耳の端にも解決のニュースは引っ掛かったが忙しさにかまけていた。すると検証後に与えられた平成十八年のフィールズ賞受賞をペレルマンが無視しているニュースが追いかけてきた。暇なときに関係する情報を集めていると、二十歳の自分が「3次元ホモトピー球面は3次元球面に同相だ、なんていう直感的に分かりそうなことを証明できないわけだから、人間っていうのは本当に厄介な生き物だなあ」と言っていたことを思い出して独り笑ってしまった。しかし一連の騒動のおかげで私はサーストンの幾何化予想を知ることができた。具体的に幾何化できるものを、組んず解れずしながら甲虫を一匹一匹拾うように「ぽわーん」と提示しちゃったのだから凄い、と久々に寝つくまで興奮していた。そしてペレルマンよ、たまには湿気たロシアの森から出て来なさいよ。君が頑張ったことは君が思っている以上に多くの人間が知っているのだ。そして君は先々、森の茸にはなれるかもしれないが、数学そのものには、神々にはなれないのだ。神々に近づくには、アンリのように市中にあって衆愚の傍らで思考し続けるしかないのだ。おそらくそれは世紀の問題を解決した数学者から、世紀の問題を提起した大数学者へ変貌する道だろう。そして天才じゃない私たちは、あんまり苛立たずに、時として大人ぶらずに、数学の森で迷ってみましょうよ。

                                       了
現代の古典解析―微積分基礎課程 (ちくま学芸文庫)

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窓辺の修道士   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 Mönch am Fenster
 私がライヘンベルガー通りのWAGNERと黄の隠れ家、あるいは合歓が平岡先生の霊と安住している宅、灰色がかった白猫が迎えるその住まいへ三度目に訪ねたのは、博物館島の各館の新装工事が成った年の翌春であった。
 舞ことMYE・WAGNERは待ちかねていたように迎えてくれたが、ホーことRYAN・HO(梁黄)は出張交霊術とかで北京と煙台へ招かれていて、灰色がかった白猫のハンス(Hans)は老いてもなお我が通りの巡回中ということで留守だった。ちなみに舞を合歓と呼んで日本語で小説を書かせている平岡先生とは、学徒動員の挙句に終戦の八月十五日、台北の病院で亡くなった東京帝国大学在学中だった文学青年の霊である。
 舞は綴った裏白紙の束にサインペンで漢字交じりの日本語を書いて私に見せた。
「オクト・ワグネルに勤めていた頃の友人に会いに来たわけですね」
 舞が毎週のように送ってくれる電子メールが流暢過ぎるので、私はついつい彼女が聾唖者であることを忘れている。日本人が慌てて拙い楷書を走らせるのだった。
「そう、私が吉祥寺にあるオクトの化成事業部の日本支社にいたとき、本社からポリカーボ つまりプラスチィックのシート、それの販路開拓の応援チームの一人として来てくれたJulia Heilmann ユリア・ハイルマンに会いに来ました」
 舞は即座に茶目っ気たっぷりなハート型を書いて肩をすくめてみせた。
「好きなRomy Schneider(ロミー・シュナイダー)に似た女性ですか」
 私はいい歳なのに些かうろたえて稚拙な片仮名を書いてしまった。
「ブロンドなんだ いや、黒髪じゃなくて」
「ロミーが黒髪なのはシシのときですよ」
「二十年以上前だから ハイルマンの姓じゃないとないと思う もう奥さんになっているだろう 」
 私の憶測をあっさり裏切って、五十歳に近いユリアはハイルマン姓のままだった。
 舞のところで新作の短編を三つほど読んで批評めいたことを語り、どうしても気になってしまう平岡先生の霊のここ最近を聞いてから、懐かしいシュプレー川沿いに出るべく辞した。そして思いきってユリアに電話してみると間延びしたドイツ語が返ってきた。
「あなたのために今日一日は空けているわ。お店をやっているんだけど、それは姉に任せているから気兼ねなくね。独身よ。あなたは?」
 私は彼女と正午に美術館のフリードリッヒの廊で待ち合わせることにした。
 Ohne eine Minute Verspätung(一分の遅れもなく)正午にはお目当ての廊に入れた。ユリアはすでに「樫の森の中の修道院」の前にいた。
 私は息を呑んだ。結い上げた黄金の髪玉、それを当然のように戴いた彼女が見下ろしているのは、薄黒ずみのハマダンゴムシが楚々と集っていそうな朽ちた修道院である。ユリアの瞬かない碧眼は、無機質を思わせるほど冷めて見えて、むしろ歪な生命感は暗鬱な廃墟の壁面にあった。
 遠い昔に触れ合った互いの手を、貴重な古書を感じるように握った。
 ユリアはあれから三年後、フランクフルトのオクト・ワグネルを辞めて、壁がなくなって久しいベルリンへ帰って書店に勤めていた。途中コロンバスの友人との二年間の在米を経て、その頃はまたマリエン通りの姉と一緒に生活していた。本屋はなかなか本屋をやめられない。有態に言って逃れられない三大販売職のひとつかもしれない。ユリアは空いていた一部屋を倉庫兼閲覧室にして、大胆にも希少本と古書を扱いはじめていた。
「あれこそドイツなのよ、あたしにとっては」と彼女は「樫の森の中の修道院」から離れて些かはにかむ様に言った。
「なるほどね」と私は迂闊に頷いてしまった。
「暗くなったとか言わないでね」と言って彼女は首を傾げた。「あなたと出会った頃のあたしは、あんなふうな山頂の朝、ああいった朝がどこにでもあると思っていたの、日本にも、アメリカにも」
 ユリアは眩しさから眼を逸らす老人のように「リーゼンゲビルゲの朝」を指した。
「あなたは相変わらずあれが好きなの?窓辺の婦人」
 彼女は少女が慌てて前言を抑え込むかのように指す方を翻した。そこには白昼の窓外に凡庸な眼差しを向けている腰高の女がいた。さても凡庸な眼差しと決めつけている私がいたことになる。そして私は今でも凡庸なままの彼女に安堵しているのだろうか。しかし安堵を嘲る私がいる。舞が綴る日本語や平岡先生の霊に驚愕している私がいた。
「こんなフリードリッヒは忘れていたよ。傍目には少々老けこんだのだろうが、君と同じく晴れやかな山頂などには眼を背けて、私が見る先々は、あの修道院の背景ように靄が深まっていく、それは夢幻、そう素晴らしい夢幻だ」
 私はいい歳なのにまた稚拙な手招きでユリアを恥ずかしがらせる。二人はどこか傲慢な頬に笑みを浮かべながらそこへ向かった。そこでは「海辺の修道士」が飽きることなく海を見ていた。
                                       了
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