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凧   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 礼庸(リィヨン)はずっと女攫いをやってきた。それも目の前の養殖池を任される一年前のことだ。だから稚海老を人の娘を見るような目で見守っていると、攫ってきた女の両手を縛ったり背中を鞭で叩いたりしたことが夢のようである。しかも実際の夢に出てきて礼庸を殺しにくるのは、攫われてきて泣き腫らした女たちではない。きまって一機の爆撃機だった。誰でもそうだ。自分の悪逆を棚に上げて幼い頃の鬼を懐で飼っている。礼庸が生まれてまもなく壮族の一家は、文革から逃れるべく桂平を出て北越南(ベトナム)へ渡った。赤子の礼庸は二年ばかり田圃を切り裂く爆撃機の群れを見た。そのうちの一機が明け方に見る夢の中で、轟音を立てて黒布のように被さってきて腹に爆弾を突き刺す。それだけだ。今となっては逃げまわっていた父母も病死して、姉は新興の越南で外貨を獲得するために働いている。礼庸も米仏を逆恨んでいたわけでもない。しかし早々に英語を学ぶことを断念して、女たちと夜な夜な遊び耽ってしまった。怠惰の先には女攫いという人でなしの所業が待っていた。母にしても姉にしても攫ってきた女たちにしても、礼庸を残虐にするだけの記憶などは微塵もなかった。しかし人を泣かせることだと知りながら日々の糧のために女攫いをやってきた。無人島で仲間とウイスキーを呑みまわして何度もやめることを想った。その頃に見た明け方の夢は、攫ってきた女たちがいない浜辺で痙攣して動けない自分だった。仕事らしい仕事というものが欲しかった。
「雪非(シュエフィエ)の弟、礼庸だな。私の北京語が分かるなら頷きなさい。君を頭目から譲り受けた」
 海老王が島に上陸した。女攫いを教えてくれた兄貴がひれ伏した親分。その親分がひれ伏したインドネシア人。そのインドネシア人が握手した台湾人のような男が海老王だった。姉の雪非が世話になっているのか、妾の一人になっているのか、どちらにしても通称、海老王と言われる台湾在住の日本人、彼が礼庸を人攫い島から引きずり出してくれた。
「ブラックタイガーをずっと見ていた。そして気がついた。海老でも豚でも子供でも、育めばこうして何も恐れることなく生きていける。あとは土地の霊に感謝する」
 海老王は礼庸に説き続けて目まぐるしく連れ回した。バリの養殖池からスラウェシ島の養殖池。そして海老と関わらない中部の山岳地帯へ踏み入った。そこは険しく鬱蒼とした山々に囲まれているサダントラジャ。バリの養殖池を統轄しているラナンが峠で出迎えてくれた。海老王はラナンの父の葬儀に列席しようとしていた。ラナンは道すがら声を上げて泣いた。息子を一旦は勘当同然に扱った父親の死。しかし地元トラジャの人々は葬送儀礼において悲しまなかった。彼らは死を新たな世界への旅立ちと考えて盛大な祭礼のごとく執り行う。葬儀は三日間に及んだ。連日連夜、踊りあり闘鶏あり闘牛あり。そして岩壁の高所に掘った風葬墓に棺を納めた後、その入口の正面に故人を表す木偶が立てられて高揚は極まった。
「俺の妻、小哲はタイヤル族だ。妻の父が亡くなったときも立派な葬式だった。俺は生前に会ったこともない父親の遺骸の前で泣いた。そして日本へは戻らないことを誓った」
 海老王が礼庸に見せてくれたのは海老を育む風土だけではなかった。床の高い船倉のような優美な家。ラナンの生家もそのひとつだった。そして葬式の前日にラナンの従姉弟に出会った。ラナンの叔父は等身大の椅子に座った人形タウタウを作っていた。十八歳の娘ネリと七歳の息子ミンケは父を手伝っていた。タウタウは選定された生木を彫刻して、煌びやかな衣服や装身具をまとわせて故人を形どっている。ネリは金色の布地を貼っていた。礼庸を待っていたかのような微笑。ネリは何ひとつ臆することもなくタウタウを正面に向けた。故人と見なされるはずの木偶は、彼女に抱かれて目の明かない仔犬に見えた。礼庸に二つの自然な問いが錯綜する。ネリには恋人がいるのだろうか?礼庸はいつだって中国人じゃないのか?ネリの姿が礼庸の網膜に点いて剥がれなくなると、葬式の三日間は山頂の雲のように過ぎていった。
「ネリが気に入ったか。いい娘だ。しかし今日しかないぞ。ネリと話してこい。何かして遊んでくればいいのだ。弟のミンケと遊んでこい。このあたりは時折、つよい風が吹くから凧がいいな。凧を作れるか?作れない。女、子供を攫うのは簡単だ。しかし女、子供と遊ぶのはなかなか難しい。余っているビニル袋と転がっている竹を持ってこい」
 海老王は小刀で竹を割いて凧の骨を作った。そして燻らしていた蚊取り線香を引き寄せる。切り開いた袋を竹骨に架けて線香の熱で張り合わせた。手並みに感心していると肝心の糸がない。タウタウ用に薄緑の化繊を切り束ねていたことを思い出した。しかしネリは家に戻って昼寝をしている。ミンケは小川へ飛びこんでいる。礼庸は上着を脱ぎ捨てて小川の方へ向かって行った。
「日本人は言う、台湾にも越南にもバリにも、そしてスラウェシにも自然が残っている、と。俺は聞き飽きているから、男は度胸で女は愛嬌ということなら残っている、と言ってやる」
 海老王は帰りの船の中でエンジン音に負けず大声で礼庸に言った。礼庸はそのときネリが編んだ煙草入れを見つめていた。
 あれから一年経った。明日には海老王がネリとミンケを連れてやってくる。礼庸は一昨日の電話を思い出して微笑んだ。
「ミンケは凧に夢中だ。俺はそっちに行ったらもっと大きい凧を作る。俺とミンケは凧を作ってから浜まで出て凧をあげる。おまえはネリと一緒にタイガーを見張っていろ。そしてネリの手を握って、男らしく言うんだ」

                     了
足跡 (プラムディヤ選集)

足跡 (プラムディヤ選集)

  • 作者: プラムディア・アナンタ トゥール
  • 出版社/メーカー: めこん
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 単行本



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