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セルゲイの午睡   Vladmir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

Сон Сергея 
 セルゲイ・イリイチ・アルマンド、これがシベリアの毒蛾アタカスの本名である。もっとも彼を「毒蛾」とか「CblHスィン(息子)」とか呼んでいたのは殆どがロシア人で、サハ共和国一帯ではヤクートの三番目の英雄「アタカス」で知られていた。一番二番ではない三番目の英雄ということは、華々しい経歴を携えた表舞台の英雄の姿には縁遠かったということである。本人もすでに高齢でヤクートらしい山野の歩猟を断念して久しいが、資源開発の波に乗って文化人類学者や生態学者などが訪ねてきていたので、再三にわたって連邦のヤクート自治共和国時代、とくにスターリンからフルシチョフの暗黒時代下の民族悲話を語って退屈することはなかった。
 その日の午後もフランスのTV局取材班を見送ったところだった。弁慶草の鉢を抱えながらベージュホート(難路無軌道車)上の女性取材員に手を振る。北極の朝鮮人参とも言われる弁慶草もフランス人には無視された。それにしても悲愴な面持ちばかりだった。彼らは放映する日程に追われていて、唐松や樅、所々に赤松が林立するタイガを確実に踏破すること以外に余念がない。何を畏れているのか、単独ならまだしも。蕎麦のカーシャ(粥)は意外に好評だった。フランス人とて元は農民だからな。蔓苔桃のジャムは売ってしまった、残り二瓶だったが。セルゲイは網戸の閉まりを確認してから遠吠えのような欠伸を響かせた。
 シベリアの夏は瞬きする間に初雪を見てしまうので、孫を連れてワタスゲや金鳳花が咲きゆれるツンドラ状のデルタを歩きたかった。しかし遥々遠方から小奇麗な連中が昔話を所望してミル8型ヘリに乗ってやって来るし、たった一人の孫は父親ヴァシリーが口うるさくてタイガやツンドラへ連れ出せないし、なによりセルゲイ自身がこのところは午睡に捕まっていた。
 正直に言えば歳をとっただけなのだ。撃たれて死んだ奴、癌になって死んだ奴、この二つの死に様ばかり見てきたセルゲイは、自分だけが午睡のまま死ねるとは思っていなかった。しかし宿命というものがありそうなのは少し感じてきている。やはり自分はエクセキュだったのか…幸運な双頭の烏だったのか…。そして日に日に午睡の入口に佇む自分の背が若々しく見えている。目覚めているときに語らされることが党の機関紙のように味気ないからだ。つまり被虐的な感覚が鮮烈で情けない若気の備忘録を語りたがっている。それもいいさ、息子夫婦と孫が帰ってきて俺が生きているかどうか揺すり起こすまで、誰に語ることもない痩せた若い狼の記憶を嗅ぎあてよう。
 セルゲイは犬のような匂いの毛布を引き寄せて呆けたように微笑んだ。
 夏なのに気がつくと心地よく寒くなっている。秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。この地を出て春秋を知れば焦燥を携えて長々と生きたくなる。あの時も生きようとして弾を咬んでいた。
 誰にでも生きるために競い合って堕し抜いて譲れないときがやってくる。セルゲイのそのときは赤軍兵士として召集された年と断言できる。それは誰もが記憶する忌わしい1941年の翌年だった。ドイツ軍の侵攻は戦線の拡がりを持ったせいか鈍重になっていて、必要な分だけしか狩をしない果敢なヤクートを厭かせる軍略争鳴の日々だった。初年兵セルゲイはエニセイ河以西、つまりクラスノヤルスクから西へ自分が銃を背負っていくとは思っていなかったので、西部戦線下の低緯度にしてキエフに近いところ、そう伝えられても自分がいる位置が分からなかった。一昨日見せてもらった大陸の地図の広大さに些か困惑してしまったということもある。そして異国で自分の位置が分かってみたところで、生きた我が身をヤクーツク方面行きの列車に乗せられるかどうか、という諦観が侵してきていた。
 あのときは敵も味方も居眠っている午後だった。セルゲイは塹壕の土壁を穿って舐めてみた。自分の村ミャンディギ周辺の土壌にある酸化鉄の味があまりしなかった。そこへ初年兵を自ずと統率しているミハイル・イヴァノフが寄り掛かってきた。
「何かの蛹でも見つかったか?何でも食っちゃだめだ」
 セルゲイはヤクートらしい馬面を睨みつけた。誰もが彼を好人物と口を揃える。ミハイルは苦笑しながら自分も土壁を穿って舐めた。
「セルゲイ・イリイチ、おまえがアルマンドの息子か、そうだな。機嫌がわるいな…おまえのことは鍛冶屋の息子が教えてくれたのさ」
「ガヴリエルを知っているのか?」
 ミハイルは頷きながら足下を穿って舐めてみせた。
「俺たちの土と違って老けこんでいる…ガヴリエルの父親、アレクサンドル・ザハロフに言われたのさ。エニセイ河から西は悪霊だらけだから若いエクセキュを見守ってやれと」
「若いエクセキュ?」
「何も知らないのもアレクサンドルが言ったとおりだな。エクセキュは我々ヤクートと他国に跨がって束ね治める双頭の鳥、おまえのことだ」
 セルゲイは御大層な古参兵から離れようと弾を装填しながら言った。
「…俺が知っているのは、俺が淫売の子だってことさ」
「巷ではそう言われているらしいな。俺達もそんなところで話を終えたかった」
 セルゲイは汗ばむ陽気の十月があることを知ったばかりだった。
「何を言っている…お前ら根っからのヤクートは古臭いくせにお節介野郎が多い」
「そうかもしれん。無事に帰れたら、もう一度、ミャンディギ村に寄っていこう」
「ミヤンディギ、あそこは俺の村だ」
「知っているさ」
 ミハイルは最初の招集で腕を見込まれて上官のアルマトゥイ行きに同行していた。北緯四十度以南の乾燥地帯も肌身で知っている。苛立って腰をあげたセルゲイを倒すように引き下げた。まだ小僧扱いされても仕方なかった。
「畜生!ミハイル・イヴァノフ様の言うことは聞け、聞け、聞けと」
「弾が飛んでこない今は聞いてもいいだろう、信じるかどうかは勝手だが」
「俺はガヴリエルだけを信じている。ガヴリエルはヤクートのなかで一番賢い奴だ!」
「ほお、それで?」
「いいか、ガヴリエルは俺と一緒にマルクスを読んでいる」
「それで?」
「奴は、あの親父さんのような…霊媒師の飾り物作りだけはしたくないと言っている。そうだ、奴はマルクスを読まなくちゃならない!」
 セルゲイの争う豹のような喋りに塹壕内が舌打ちしはじめた。
「分かった。ところで、おまえが読んでみてマルクスっていうのはどうだ」
「あの訳はなんとかしないと…マルクスはユダヤ人なのにドイツ人みたいな書き方で、ガヴリエルも失明しそうだって言っていた。ドイツ人はヤクートよりもお節介野郎なのかもしれない」
 ミハイルは褒め言葉と解してもいいと思いながら甲高い笑いを響かせた。
「分かった。ところで、昨日、今日と攻めてくるドイツ軍はどうだ。スターリン閣下や、あの青白い大尉が言ったとおりだったかい?」
 セルゲイは躊躇しながらも首を振った。直に交戦して二週間経っていたが、彼のドイツ軍の印象は皆が非難する精悍なお揃い制服とはまったく違っていた。彼等の死体のひとつひとつの顔は明らかに後悔していた。節度を持っていた強硬な野蛮さが、阿鼻叫喚ばかりの脆弱な野蛮さに囲まれて困惑している顔。ドイツ兵はヤクートのような酔っ払いの肉食獣ではなく、理性的で疑り深い移植したばかりの農夫のようだった。疑り深い農夫の奴らがヤクートのような猟師と撃ち合って……。
 セルゲイは耳元の蚊音に目覚めた。頬下に寄ってきたそれを叩き潰して満足そうな吐息を洩らす。しばらく血に滲んだ指腹を木肌のように見ていた。

 セルゲイは浮腫んだ右足首を気にしながらも、網戸を右爪先で蹴飛ばすようにして表へ出た。氾濫するように押し寄せてくる蚊雲を掻き分けて見上げる。やっぱりアントノフ24だ。ヤクーツクからチョクルダフへ向かっている双発機だ。晴天の頭上を行く銀翼の雄姿はいつも胸を高鳴らせていた。
「取材を受けていいわけだね?どこかに行かないでくれよ、この前みたいに」と言って息子ヴァシリーは背後で煉瓦大のトランシーバーを翳した。
「森林消防隊のアラキ、奴は本当にいい奴で日本人だから恥をかかせないでくれよ」
 セルゲイは「日本人」に反応するように振り向いたが、そのまま「スグリでも採ってくる」と呟くように言って柵の出口へ向かった。老い背を見守る息子の一丁前な嘆息も慣れたものだ。それもそのはずでヴァシリーも四十半ばになっていた。
 家の背後は下枝が少ないダフリア唐松なので見通しはよかった。しばらく明るい林床をよろよろ歩いていくと、ヤクート語でいうバイジャーラーヒー(凍土沈下地帯)に迎えられて意気消沈する。一昨年までの辺り一帯は、桐桧(とうひ)や樅が鬱蒼と構え寄ってくるタイガそのものだったが、夏前の火災でなぎ倒すように焼失してしまい、直射日光が永久凍土を融かして崩した痕である。立ち止まると右足甲の古傷が疼いてよろめかせた。そのまま左足下が小さなアラス(凹み)へ崩れかかったので、古傷を忘れて踏ん張ると叫ばんばかりの激痛が走った。泥の斜面を鼠のように抗ってみるが、終わっている膝はすぐに諦めて滑り落ちるに任せるしかなかった。痛みが鼓動に呼応していて息切れを誘うが、斜面の滑り痕を見上げていると可笑しくなる。しばらくして右足の痛みは泥に冷やされて退いていったが、白髪頭や頬、そして肩の泥飛沫に気づくと、トナカイの糞に転んだ幼時を思い出してまた笑った。
「転がった、トナカイのくそじゃあるまいし…しかし、この塩味はまずまずの塩がある証しだ」
 夏なのにアラスに転がれば心地よく寒くなる。秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。そしてアラスの一つ一つに塩原の予感を見ようとして泥を舐める。ドイツ軍とやりあっているときもこうして泥を舐めた。しかし日中の塹壕は蒸暑く生温い泥には塩味も感じなかった。あの茹ったような暑さこそ危うかった。
 あのときは援軍を待っていた。あそこはツーラというところだった。傍らには同い年のチュクチ族の奴の遺体が転がっていた。前日に慰問舞踏団と楽しく踊っていた奴だった。踊っていた奴の笑顔、運の良さそうな顔だと思った自分に、きりきりと苛立っていた。ついにキエフの大門は拝めなかったが、ツーラ郊外で遺体に石灰を撒きながら援軍を待っていた。
 援軍はなかなか到着しなかった。援軍は幽霊の援軍じゃないのか、の囁きに石つぶてが飛び交う。ナポレオンは幽霊の援軍に追い返されたわけだ、の呟きに押し殺した笑いが跳ねる。大尉が降ってきた雪に微笑んで、援軍が来たよ、と優雅に言ったとき、一斉に舌打ちが連打された。そして翌朝はヤクートにとっては清澄に凍てついていた。ドイツ人も同じ人間だとしたら、奴らは痛いほど凍てついて動けないだろう。弾を拾いに豹のように動けるのはヤクートだけだ。そんな考えたくもない現状から夢のような家族まで、兄貴分になっていたミハイルと性懲りもなく語り明かしていた。
「俺がエクセキュだっていうことは意味があるのか?」
「死ねば意味はないさ、足下に気をつけろ」
 セルゲイの両脚は狐のように敏捷で罠も死体も難なく跳び越えた。
「アルマンドっていう女が産み落とした子供だっていうことも死ねば…」
「ああ、意味がなくなる。もとより酔っ払いのロシア人が言ったことなど」
「子供ってそんなものなのか?」
「そんなものだ。しかし、子供にも言い分はある」
「そりゃそうだ。もし俺が親父だっていう奴に遭ってしまったら…」
「もし本当に国父さまの落とし種なら、会いたかったら党の機関誌を捲っていつでも会える。写真どころか、あちらこちらの銅像になっていて、いつでも会えるかもな」
「銅像?そんなものが立ったら前と何も変わりはしない」
「いや、銅像くらいは立つだろうな…ドイツ人を追っ払えばだが」
 ミハイルはそう言いながら火炎放射器で焦げた柳の枝を凝視していた。
「こんな今なら何でもいいさ。もう国父さまでも預言者でも、誰の子でもいいさ」
「随分と苛立っているな。はは、もっとも、二時間後には二人揃って肉の屑になっているかもしれないからな」
「そんなことを言いながら、よくも笑っていられるぜ」
「はは、苛立っているということは、諦めていないということだ」
 前方で戦争を忘れるなと言わんばかりに手榴弾が軽薄に炸裂した。
「俺がずっと何に苛立っているか分かるか?お前らヤクートの神がかった言い方だ」
「それがヤクートだ。仕方ないだろう」
「その…都合よく丸め込んでしまうっていうか、身近な自然を取り込んで、無意味な俺のような存在にまで、何かしら意味があるような言い方をする」
「存在、ときたか。マルクスを読んでいる奴は難しいことを言う、はは」
「笑うな、俺やあんたが生まれてきたことに意味があると思うか?」
「意味か…」
 ミハイルは塹壕の隘路で狙撃銃を構えた。嫌な呼吸音がした。音の方へ慎重に間合いを詰めると、はじめて見るロシア人少尉が鮮血まみれで息も絶え絶えだった。瞳孔が見通すように開いていて、今や全世界が彼の眼中にある。少々疲れたヤクートの中年ミハイルと、ここに至っても不審に燃えている青年セルゲイは、その憔悴へ付き合って最後を看取ることにした。
「おまえと銃を抱えて話していると、俺は親父を殴り倒したことを思いだす。親父はキュンディア村で若い女に貢いでいた」
「羨ましい、殴れる親父がいたのだから。俺くらいの歳かい?」
「もっと若かった…親父はアルコール中毒で死ぬまで、殴られた耳下を指しながら、ここがもとで死ぬだろう、とそればかり言っていた」
「ふっ、仲よく暮らしましたとさ…いい親父さんだったわけだ」
「そうさ、そんなものだろうさ、父親と息子なんて。脈は止まったか?」
「まだだよ、ひくひくしている。あっ…止まった。随分頑張ったな…」
 セルゲイは舌打ちしながら将校の銃から弾を抜きはじめた。
「人間はそう簡単に死なない…この俺にも去年、クジュムっていう息子ができた」
 ミハイル・イヴァノフはそう言いながら皿盛りするように死者の指を組ませた。
「あんたこそ死ねないじゃないか」
「死ぬものか、ロシア人とドイツ人のこんな戦争で」
 ミハイルがそう言って口端を歪めた瞬間、近い炸裂音が二人を少尉の胸元に伏せさせた。
 セルゲイは愕然と目覚めた。やっぱりアラスの泥底じゃないか。泥底から虚空を見上げる。右手はやはり銃を捜している。まだ猟をして駆け巡っていた頃は、大樅の寝床で目覚めてもまずは銃を捜した。そして抱えていた猟銃を擦りながら、何故か突撃銃の不在に戦慄していた。それがこんな醜態を晒すような歳になってみると、夢の中に突撃銃を忘れてきて微笑んでいた。
 
 セルゲイは湯が沸くまで、嫁タチアナと孫アレクの会話を聴いていた。タチアナは傍目には常態に見えていたが、母親らしい筋骨の奥に二人目を身篭っていた。小柄だが陽に翳した氷楔のような澄んだ眼を持っていて、亭主ヴァシリーの傍らを赤鹿のような機敏さで動きまわり、こうして面倒がらずに鉛筆を取って利発な息子に応えている。あの本の虫のヴァシリーが、こんな娘を見つけてくると誰が想像しただろう。確かに、貴石も人間も河の引きずりを待っているだけでは、驚くようなものには出会えない。知ることに旺盛な者は旅に出るべきだ。生意気盛りだった頃のヴァシリーの旅先、タチアナが生まれ育ってヴァシリーと出会ったフロヴディフ。ブルガリアのその町には、居眠っているような春があるらしい。セルゲイはフロヴィディフという町の軒下で、葡萄の酒を浴びるように飲んでやっと凍え死ぬ自分を想ってみた。
「その…フロヴィディフとモスクヴァでは、どっちが古いのかな」と呟くように口にしてしまった自分にセルゲイは些か恥じ入りながら座り直した。
「いや、ここからの距離だと、フロヴィディフとモスクヴアではどっちが遠いのかな」
「古いのはフロヴィディフ」とタチアナは義父の方へ一瞥もせずに言ってから蚊を叩いて微笑んだ。
「距離は直線にしたら、おそらくモスクヴァの方が近いでしょう。行くのだったら南の方へ、フロヴィディフへ、パリよりも南にあるのよ。いつか行こうね、紅い葡萄酒を飲みに」
「酒は透明なものがいい」と半ば照れながらセルゲイは右足を擦ろうとした。
「この足じゃ、クラスノヤルスクから先へは無理かもしれないが…そうさ、今のご時世、アントノフのような飛行機があるからな。そうさ、そのフロヴィディフとキョウトではキョウトの方が近いだろう。地図を見て知っている。古いのはどっちだろうな、またフロヴィディフなのか?」
「フロヴィディフは六〇〇〇年よ。キョウト?六〇〇〇年前のヤポン(日本)には、まだ人がいなかったと思うよ、ちょうどこの辺みたいな感じで」
 アレクが驚愕するほどに母と祖父は吹き出した。この辺りと比較された町という町は、憤りを越して気も狂わんばかりだろう。ロシア人のように身の程知らずな言い草だ。つまりロシア人も扱いによっては、こんなふうに可愛いものだということだ。葡萄の搾り滓でも透明で九〇パーセント以上があったら、毎日の法螺話の中で月まで行ってしまう。ロシア人も飲んでばかりいないで、風呂に入れば大法螺を押さえこめるのに。それにしてもヤポンは海へ落ちそうなほど人がいる島国らしいが、この辺りの部族によっては海を見ずに死ぬ女房や子供がいるというのに…。タチアナとセルゲイの笑いは、軽佻なまま輪唱のように広がっていった。
 セルゲイが残り香のような笑みをもって湯の中の右足を揉んでいるときに、ヴァシリーが珍しく酔ったような口調で賑やかに帰ってきたのが聞こえてきた。日本人がやって来ると言っていたな…確かに話せること話せないことの分別は猟師にとって大事だ。いくら坊やが、ブーグニアーフ(小山)ほど本を読んでいるといっても、近眼の日本人には敵わないだろう。それに日本人は、酒が弱いくせに飲んでも計算は間違えないらしい。そんな日本人がまたやって来る。しかし奴らの顔は好ましい、ロシア人はむろん、中国人よりも好ましい。セルゲイは我慢できなくなって髭剃り用の手鏡を取った。
 頬骨はまだしっかり突起していて、国父の落し胤伝説を彷彿とさせるが、顎先は細まって死に際の狼のように微々と戦慄いていて苦笑させた。この世の馬鹿馬鹿しさのすべてがここにある。誰の顔でもいいじゃないか。いっそうのこと、セルゲイ自身が日本へ行くべきだったのかもしれない。日本の京都…その古いという町にも、このような痩せ狐の顎が空に向いて、鳥を撃つしぐさをしているのだろうか。
「ガヴリエルよ、俺もやっと脚を切れそうだ」とセルゲイは呟いてから手鏡をタオルの上へ放った。そして落ちるように肩まで浸かって、両手で腹の上の湯を顔に浴びせた。
「ガヴリエル…ヤクートも嫌いだ、おまえらばかりが精霊と仲がよくて。さっさと脚を切って、さっさと死んでしまった、トナカイを捌くように」
 戦地から象皮のような背嚢を背負って無事に帰還できると、今だグルジア風革命劇に乗じてエニセイ河以西は騒々しかったので、虎の子であろうと狼の子であろうと、ヤクートの中に捨てられたことを感謝するしかなかった。時代の鍋を掻きまわす奴はもとより貪欲である。しかしヤクーツクにコサックの砦があった大昔と比べれば、時代の遣り過し方はまだあった。クレムリンの鉤爪がついた暴尾は、北極圏へ向けて乱雑に振りまわされていたが、ロシア人のために戦わなくていい日々のマローズ(吹雪)は頬に凪いで感じられた。
 村にはトナカイの角突きに追い立てるような若々しさが戻った。セルゲイはガヴリエルの脚のことだけを思い悩んでいた。しかしガヴリエル本人は、戦地に赴けなかった鬱屈を払い捨てるように華々しく振舞っていた。あの日は隣の婆さんが弁慶草の根のアルコール漬けをちょっと分けてくれた。セルゲイは最初に打ちあげた長刃ナイフの柄に、固有の紋章をあしらうべくガヴリエルを訪ねたのだった。
「大天使、脚の具合はどうだ」
「脚か…この脚は切ることにきめた」
「切るって…何とかならないのか」
「あそこで話し込んでいるニコンもお手上げだと言っている」
 幼い頃は仔狐のように可愛かったニコンも、真似ているのかトロツキーのような眼鏡を光らせていた。
「ニコン先生じゃなくて、ヤクーツクの医者は何とかできないのか?」
「ヤクーツクの医者…あのロシア人か、あの羆のような医者は、ニコンよりも早くから切るしかないと言っていた」
 世界中の男が彼のように日に三度、微笑めばいいのだ。ガヴリエルという男は、隣にいてそんなふうに思わせる男だった。足腰を無駄に踏ん張れて、魚影を一日追っては次の一日飲んだくれている奴よりも、我らがガヴリエル。笑い疲れたような眼で、使えなくなった脚を嘲る奴をそっと見守るガヴリエル。人間というものは、この手の雄が雌に気に入られると思いたい。レナ河の河口の筏住まいの女から、遥か南の船住まいの女まで、この手の男を気に入るのだ。
「セルゲイ、そんな顔をするな」
「俺一人で猟に行かせるつもりか」 
「猟?猟はもうできなくなるが…俺達はいつも一緒だ」
「だいたいニコンはおまえの右脚の精霊を見たのか?何故だ?何故笑う」
「嬉しいのだ、おまえが帰ってきて、こうして俺と話している…ニコンは精霊を呼び出せないそうだ」
「あの野郎、ポントーリャギンの再来だとか言われたものだから、調子にのって自分を天才だと思っていて、挙句は医者になろうなんて余計なことを考えるからだ」
「医者は必要だ、霊媒師はあちらこちらにいるが」
「まあ、そういうことなら、俺はスターリン閣下からまたお呼びがかかるまで猟に精をだすさ。俺の紋章はもう決まった」
「聞いてくれ、セルゲイ」
「俺の紋章もザハロフ一家と同じ山椒魚で、親父さんには俺から言っておく…そしてその山椒魚の背中に、おまえの右脚の血でおまえの名前を残そう」
 ガヴリエルは優雅に首を振って否定していた。すべてを見通しているような微笑と遠くへ投げかける繊細そうな指使い。その指の先には風変わりなあの男がいた。
「ヨノはここならスターリンの手も及んでこないだろうと言っている」
「ヨノ?ニコン先生の次はヨノか。たしかインドネシアとかから来たヨノ、本当は赤い星から来たかもしれないヨノ…」
 ヨノが蚊避けの干草を選別しながらニコンと話していた。預言者のように襤褸の薄着で剃髪していて、流離人らしく日に焼けた顔をいつも人の背後に置いていた。ヨノが村に来た本当の訳は誰も知らなかった。ガヴリエルが訊いたところでは、ずっと南のインドネシアの民ということだった。遥か南の船住まいの女の話も、ガヴリエルがヨノから聞いたことだ。ヨノ本人が語ったことでは、胡椒の木々と引き換えにオランダ人に売られ、オランダ人から物好きなロシア人商人へ売られて、ハバロフスクで逃げ出した時は十七歳くらいということだった。若いセルゲイがそのときに見たヨノは、肌艶のいい華奢な老人に見えていた。
「そしてヨノが言うには、スターリンの時代が終わったあとには、二〇年から弾圧されたイコンの宗主教の教父や学者の名誉も、それから特別収容所扱いになっている修道院も、すべて元どおりに回復するだろうと」
「イコンが何だって?…はは、どうしたんだ?ヤクートかエヴェンキの族長の言うことしか聞くに値しない、と言っていたのはおまえじゃないか」
「ヨノの言うことには、マルクスが書いたもののように説得力がある」
「説得力?戦争から帰った猟師に説得力…マルクスか…それを読むおまえは、イコンを拝むわけでもないのに大天使の名前を持っていて、今度は南から流れてきたヨノの昔語りに耳をかしている」
「笑うな、ヨノが言っていることは、ロシア人が信じてきた宗教が回復するくらいなら、ヤクートやエヴェンキ、その他の部族が生き甲斐にしてきた自然への信仰が…」
「笑うなと言ったって、はは…そんなことならサーシャ・ペトローヴナも俺に言っていた。ロシア人の血が混じるおまえなら、キリストがグルジアの閣下に鉄槌を下す日が近いことは分かるだろう、ってな」
「サーシャは今度の戦争でロシア人の旦那を亡くしているから…彼女も期待しなきゃ生きていけないんだ。それに知ってのとおりサーシャの母は優れた女の霊媒師だった」
「そしてヨノも、あの爺さんも霊媒師だと?」
「ヨノが言っているのは、自由な時代がくれば学問ができるっていうことだ。そして俺達が学問にまで作りあげることができるのは、自然への信仰を許にした部族の伝承だろう」
「部族の…伝承?俺はロシアの淫売女の置き土産だぞ」
「そんなことは徴兵官が酔っぱらって言ったことだ。俺は親父から聞いている、ロシア語を話せる若い日本人女性が、赤子を抱いてアルダン川の方から来たと」
「ああ、俺も何度かおまえから聞いたような…」
「そのときに乳母代わりの太ったロシア女を連れていて、そのロシア女がアルマンドという姓で、レーニンの愛人の姓と同じなだけだ」
「母親が日本人なんて信じられるか…鉄道を敷いている南の方には、アムール河(黒竜江)の向かうから連れられてきた日本人捕虜が、ざわざわトナカイのように群れているってさ」
「そうらしいな…日本が今度の戦争で降伏するとは思っていなかった。日本で学ぶことは…俺の夢のまた先の夢だった」
「日本人はヤクートにそっくりだっていうからな…おまえが行きたいのは日本のキョウトだっけ?」
「ああ、古い都市らしい。俺はおまえと本を読んだり、詩や言い伝えを書いてきて、分かったことがある。おまえの記憶力と知識を欲しがる性格は、母親、日本人の女性のものだ。それに、紋章のことを言っていたが、日本の木の葉は、南の方なので赤茶色になるらしいな」
「何を言いたいんだ?俺はもう戦地から帰ってから、ヤクートでもいいと腹を括ったんだ。だからおまえの一家ザハロフと同じく岩の奥の山椒魚を…」
「おまえはアタカスだ、俺達とは違う。おまえは、日本からこのシベリアの大地へ飛んできた蛾だ。赤茶の羽に烏の眼模様を入れた蛾だ。俺達のエクセキュにして、この上を舞う大いなる蛾アタカスだ」
 タイガに灯されたような野火に蛾が妖しく舞う夏の夜、それは凍土の上に選ばれた者の心象なのだろう。セルゲイは翌夕に渋々とアタカスを拝命して、親友が縋りつきながら懇願した大蛾を紋章とした。
 ガヴリエルはその年の十月に半ば笑いながら脚を切り、それから絵の才を買われてヤクーツクの民芸品工房で八年生きた。ミャンディギ村で死ぬためにガヴリエルが帰ってきた時、耳が聞こえなくなったヨノは、今でも思い出すと身震いするほどに感動的な降霊術を執り行なった。村人や周辺部族に賞賛されたヨノは、しばらくして後、芝居を書いたニコン先生に言わせれば、来た時のように樅の蔭にまぎれて消えてしまった。
 純粋なものだけが悠久であろうとして精霊や神格や権力、そして余命までをも一夜の祭壇に捧げる。だから秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。ヴァシリーが様子を見に風呂場の板戸を開けたとき、セルゲイは微苦笑を湯船の喫水に浮かべていた。

 冒険する者は、せめて足手纏いにならぬほどの息子一人はもうけておくべきだ。男の咬みつく先が、宿命にしろ腿肉にしろ、その気性は立派に遺伝する。父の反抗が優れていれば、残した爪跡は息子が成文化して白日に晒される。子の反抗が優れていれば、父の爪跡を辿る瞬間の喜悦は垂直下へ抜ける。男の本質がこういうものでなくて何であろう。セルゲイをこういう感慨に浸らせたのは、チュクチ族の作家ジョージ・アットイトと彼が持参した馬乳酒かもしれない。
 昼前にガヴリエルが書き残した「アラス詩集」を渋い顔で整理していたときだった。窓辺を長髪と顎鬚に埋もれたような迷彩服の男が笑顔で通った。しかも手首ほども太いタイヤの自転車を背翼のように担いでいた。絶滅したと噂されるヒッピーもどきの大概は、息子ヴァシリーの客である。案の定、しばらくすると頼み事があるときの上擦った声でヴァシリーが入ってきた。後ろには肩に泥をつけた特殊部隊の格好の奴が歯を見せている。セルゲイは紹介の中途に手を握りながら泥を摘み取った。
「父はイワン・アットイトです。あなたが息を殺して狙撃する瞬間は、何度も聴かされました。あれがその銃ですね。初めて見る銃だな、トカレフだとばかり思っていましたから」
 セルゲイは歯切れよい淀みない口調に少々落胆しながら、モシン・ナガンの改良銃M1891Гが架かる壁を眠そうに眺めた。
「親父さんとは一晩だけ飲んだことがある、二十年くらい前かな。テフニクムの教員とか言っていたから、ヴァシリーの大先輩じゃないか。そうそう、数学に秀でていたとかで…頭のいい親父さんが、あのときは何のためにこのあたりへやって来たものか」
「そのへんを聞きに来たのです」とジョージは襟を正すように楚々と隣へ座った。
「私は九八年にカナダのアルバータへ渡って生活をはじめて、翌年九九年に父の訃報を知らされました。クラスノヤルスクの自宅前の側溝にはまって凍死していたらしいのですが、別居していた母は故郷のポツダムの方へ戻っていましたから、死因も確認できないままチュクチの生まれ故郷へ、そのまま骨を送るしかなかったようです」
「チュトコの方から来てオムスクあたりまで…優れた人は気がつくと故郷からは遠くなる宿命なのだよ」
「銃はどうだったのでしょうか」とジョージは些か意気込んで聞いてきた。
「あなたほどじゃなくても、父の銃の腕も相当なものだったのでしょうか」
 大概の人は、記憶ほど厄介なものはないと思えるのは中壮年までだと高をくくる。それは経年の乾燥がフレスコ画を大々的に削るように、老いが誰にでも等しく享楽辛苦の記憶の剥がれを促がすという錯覚である。白けたフレスコ画ではない民族的な記憶というものがあるのだ。それは結して大袈裟ではない血を滲ませて刻んだ洞窟画のような記憶である。セルゲイは自分のそれが永久凍土のように頑徹なことを知っていた。
「わしは君の親父さんが銃を撃ったところを見ていない。それに、わしの狙撃がどうのこうのとか言っているが、わしは二、三人のヤクートが傍にいるときしか銃を撃っていない。親父さんは教師だったから子供たちに聴かせるために、映画みたいな派手なことを言い慣れていたのかもしれないな」
 ジョージは髭の下で興奮を増していって額を汗ばませていた。
「作家として父の時代にあったことを知りたいのです」とヴァシリーの方へ向いて懇願するように言った。
「いきなりお邪魔して不躾ですが、その手許のノートは『アラス詩集』となっているじゃありませんか。見せてくださいとは言いませんが、ガヴリエル・ザハロフが優れた詩人だったと知らせてくれたのは、あなた方親子じゃありませんか?私はヤクートの伝説の『赤斧のジュチ』のことなどを、もっと明らかにイメージしたいのです」
 セルゲイは震える左手を詩集のノートの上に置いてから窄まるように目を閉じた。分からん坊やだ、ヤクートの伝説を聴くのであればヤクートに限るのに、ロシア人もどきのセルゲイ・イリイチ・アルマンドのところへ来ている。それにアメリカ帰りの作家か何か知らないが、チュクチはチュクチのことを取材して書けばいいじゃないか。派手な話が欲しかったら、ヤクーツクやマガダンに幾らでも転がっているじゃないか。それこそ親父イワンが果てたクラスノヤルスクでも、そう、聡明で不思議な感じだった、イワン・アットイトは。ここはひとつ年寄りらしく賑やかに逃げ出すとするか。
「アレク、馬に乗せてやろうか…」とセルゲイは呟くように言ってから声を荒げた。
「駄目だ、ゼルキンのところへは行っちゃいかん!蚊も蝿も多すぎて、森の中と大差ないわ!ああタチアナ、コカ・コーラを飲ませてくれ…」
 ヴァシリーは手慣れた笑みをつくろって父の背後にまわった。アレクが母親タチアナと検診に行っていることを耳に吹きかける。そしてジョージの肩をたたいて自分の部屋の方を指さした。セルゲイは熱気が部屋を出ていくのを何年でも待つつもりだった。
 気がつくと言葉が黴のように周りを遠ざけて、夏なのに心地よくわが身を寒くしている。そして秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理。しかし記憶はこのまま独り眠らせてはくれない。ガヴリエルと話したい。チェーホフのどたばた劇のように、一時間は女の話がいいな。場所は馬小屋。蚊払いが厄介だが、夏の馬小屋はいいな、もう隣のエヴレエモフのところにしか馬はいないが。俺たちの楽しみは、夏の馬小屋とデルフィニウムが咲き揃う河岸までの遠乗りだった。まず女を馬小屋へ連れていって、鼻を膨らませたヤクート馬にご対面させる。大抵の女は、その長い睫毛と湯たんぽのような鼻に優しさを見てしまう。リューバもそうだった。跨りのって、一九〇五年も斯くのごときと叫び慄き、花園まで連れていかれて、一九一七年も斯くのごときと厳かにキスを下しめる。そうだ、マトリョーナもそうだった、ガヴリエルのマトリョーナも。
 その頃のセルゲイと村の日常はまさに愚かで劇的だった。知識人ガヴリエルも酔って奇声をあげることがままある日々だった。あの日のセルゲイは、ガヴリエルの親父アレクサンドルの昔話を一人聞きながら飲んでいた。ガヴリエルが都落ちの女に会いに行ったことを知っていたので口に油断はなかった。そして忘れもしない翌朝、蒼白のガヴリエルが堂々と金髪マトリョーナを連れて帰ってきたのには驚いた。
「親父を怒らせちゃったようだ」
「そりゃそうだ、羆のかわりに金髪の乳房を持ってきたのだからな」
「俺にもこんな度胸があったなんて…」
「おまえは度胸があるさ。度胸があって頭がいい」
「頭がよかったらロシア人の食道楽な女なんか連れてくるか」
「何を食らおうと、何を抱こうと、いつもおまえは俺の誇りだ」
「よくも言ってくれる。おまえは俺の、いや、俺達の双頭の鳥だ」
「やめてくれ、またエクセキュの話か」
「いや、誰も生まれついた系統系列にはさからえないさ。見ろ、この女を、マトリョーナ・スヴェトワっていう強欲で美しいロシア人の系列だ」
 網膜の裏で笑っていたガヴリエルの背後に火柱が上がった。また空騒ぎの夢だ。しかしエクセキュであるセルゲイは畏れない。それに立派に大人になった息子ヴァシリーが傍らにいる。客人はどうした?ヴァシリーは炎を樅の枯れ枝のように折り伏せてしまった。空騒ぎの夢ならではだ。そして骨灰のような埃をたてて古い新聞紙をひろげて読みあげる。
「クラトン4は一九七八年八月八日、ビリュイ河とレナ河が合流する近くのコバールにて実施された。使用されたのは六・一五キロトンクラスのプルトニウム型原子爆弾…」
 愕然として新聞に覆い被さるヴァシリー、愚かしい夢だ。ヴァシリーも世間も俺から何を聞きたいというのだ?それにアットイトの息子はどこへ行った?目覚めなければならない。しかし伝説のジュチの潰れ声が、雪のように降り落ちてくる。愚かしい悪夢だ。
「若いの、長生きしたかったら、俺を殺せそうなときには確実に殺しておくことだ」
「長生きなどする気はないさ」
「まだいい女に出会ってないようだな」
「そうでもないさ。先月、二週間前だったか、ここでいい女に会ったよ。なんでもモスクワ大学の研究員とか言っていた」
 ジュチが唸って斧を振り上げた。観念するしかなかった。シベリアの河川が浸食する河岸には、凄まじい断面美がある。凍土に落ちた指一本ほどの氷の楔。いつも氷楔はジュチの斧を思わせた。象牙ほどもある氷楔が、二百年越しだということを教えてくれたのもジュチだった。
「馬鹿な女もいたものだ。そのヤクートらしくない顔にまんまと騙されたんだろうよ」
「言ってくれるぜ。そう易々と俺になびいているわけじゃなくて、雷帝に似た小鹿顔の教授が煩く纏わりついているらしい、女房持ちのくせに」
「だったら、若いのはどうする」
「教授を殺すしかないか…」
「やめとけ。その教授とやらにサハリンにでも行ってもらいな」
 シベリアのすべての花を知るリューバの父親、それがジュチのもうひとつの顔だった。そのリューバが残した一粒種ヴァシリーがまた古新聞を広げる。
「一九八四年三月×日、ミールヌイ近郊のダイヤモンド鉱山にて、重金属廃水処理のための沈殿池ダムを建設するにあたり、二五キロトンクラスのプルトニウム型原子爆弾を使用…山塊斜面は崩壊したがダム造成は中止…」
 ご立派になったものだ、本の虫のヴァシリーが。しかしアタカスに話すことはない。悪夢などはない、苛む記憶が腐食し続けているだけで。
 博物館を出て野外に寝る研究者は、せめて足手纏いにならぬほどの息子一人はもうけておくべきだ。ロシア人にしろヤクートにしろ、虎や豹を美しいと思う気性は立派に遺伝する。茫然とするヴァシリーは、母リューバが残した言葉をどれほど実感するのだろうか。
 果たして残された時間、ヴァシリーにどれだけリューバのことを語れるか。
 リューバは遥か南でアムール豹を追うのに疲れ果てて、父親が虎のように徘徊するヤクートの山脈へ惹かれるように来てしまった。出会ったばかりの頃、赤茶けた髪を男の子のように短く刈上げていた。セルゲイが好んでいるのを知っていてか、両の鬢だけは口許をくすぐるほどのばしていた。金毛が輝いて氷楔を竦ませる怜悧な顎、緑青色の甲虫を捕りこんだ琥珀のような眼は凄ぶる知的で美しかった。背が高くてテフニクムの少年のように若々しく強壮で、機転がきいていて楽しむことを知っている可愛い女だった。
「穴を掘らせるために俺を連れてきたようだな」
 モスクワ大学永久凍土調査技官室の分室、二人だけのピンゴ研究所を建てるべく凍土に鉄楔を打ち込んでいた。ヤクートが言うブーグニアーフという凍上丘陵現象を、リューバたち専門家はイヌイット語のピンゴと言っていた。そして何の研究であれ小屋を建てる幸福に痺れそうなセルゲイがいた。
「底の底まで掘る気なら白熊のようなロシア人を連れてきていたわ」
「ヤクートの熊殺しを連れてきたのは?」
「さあね、あたしにも四分の一だけヤクートの血が入っていて、その血が、こんな所にまで呼びつけているのだとしたら…」
「分かった、こんな最果ての男なら誰でもよかったわけだな」
「そう、ヤクートであろうとなかろうと」
「残念ながら俺にはヤクートの血はない」
「聞いたわよ、何度も」
「淫売から出てきた子が、こんな山村にあずけられただけだってことも聞いたはずだ」
「淫売の子かどうか知らないけれど…お父さんは銅像の渋い顔をした人じゃないと思うよ、残念ながら」
「じゃあ誰だと思う」
「禿げ頭で…酒好きな…熊親父かな」
「それじゃあロシアの典型的な親父を言っているだけだ。もっとも、淫売が相手するのは典型的なロシアの親父だろうが」
「イワンがお父さんじゃないかな…」
 直感と自然にあれだけ付き纏われながらも、人間に対する分析を怠らなかったリューバがいた。なんていう女だったのか愛しいリューバ、この世界は相も変わらず凍土上で夢を見ているというのに。女の霊媒師は男を知ると精霊を呼べなくなると信じているロシア人がいて、女の霊媒師はソヴィエト崩壊後にジュノー(アラスカ)まで見通せるようになったと言いふらしているヤクートがいる。間違いなく言えることは、ヤクートの師サーシャ・ペトローヴナは科学者リューバを畏れているようなところがあったということだ。
「イワン?流れ者のイワン、密造酒造りのマセアセヴィッチの親父が?」
「互いに距離があるわ…あなたとイワンがカウンター越しに話していると、独特な距離があるわ。今にもピンゴがもこもことできあがりそう」
「難しいことを言ってくれる、イワンも俺も酔っ払いなだけなのだが」
 イワン・マセアセヴィッチという親父は、密造酒造りのままにしておいてくれないか。夏なのに寒い…がここは暖かい。酒を醸した水は三角沼の水だった。三角沼はリューバが望んだようなピンゴになっただろうか。女の笑い声と子供の笑い声、アレクが帰ってきたのか。いや、リューバが笑っているのだ。幾重もの蚊帳の向うにセルゲイの下着を掲げて半裸のリューバが笑っていた。
「二つしかないって言っていたわよね」
「何が?」
「人を殺すか、人を愛するか。あなたの生活にはこの二つしかない」
「今は人を愛している」
「あたしを忘れかけたら、ここに、この壜に鼻を近づけるのよ。この確かなジャスミンの匂いはあたしだけのもの。あたしの前であたしを忘れかける。古びた妻の前で古びた妻を忘れかける。それが普通にある長い人生だって言うひともいるけれど、あたしの気持は、それであれば殺してほしい。あなたの生活には二つのうちひとつ」
「今はジャスミンの匂いがここにある。随分と洒落た壜だ」
「あたしの唯一の贅沢、シャネルの五番。学会で教授についてパリへ行ったときに買ったの…」
「パリか…たしか教授は、シベリアのメタンガスを研究していながら、そのパリに亡命したがっていたんだよな。パリはそんなにいいところかい?」
「さあね、ヤクーツクの町をちょっと大きくしただけよ」
 パリの酸素やペテルブルグの二酸化炭素が、この辺のそれとどれだけ違うというのか。都とて誠実な魂が住まねば立ち行かない、とソルジェニーツィンが言って百年も経っていないというのに。しかも蛾は蛾のままで一瞬の夏に死ぬことばかり考えている。声にならない自ら締めつけるような哄笑がセルゲイの咽喉から吐き出された。
 この日の午後の目覚めはセルゲイを疲弊させた。ヴァシリーはイワン・アットイトの来訪が好ましいものではなかったことを反省して、鎮静剤で寝入ってしまった父の手を取って涙ぐんでいた。

                                       了
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