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咆哮   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 浅間山を望む安中市のそのあたりを中野谷松原といった。関東最大の縄文時代の竪穴住居群は、碓氷川の段丘上の工業団地に隣接して既に有名であった。遺跡は集落跡と墓標坑が、凝灰岩の墳穴のように整然と並んでいる。思わずぐるりと見まわしてしまう、という言い方が晴天下のその地の最良の形容になるだろう。
 小宮山はこれほどの健康な土肌を見せる穴の群れに遭遇したことがなかった。新たな掘削調査が営まれているので勝手な徘徊はできないが、さほどの深さもない墓壙の縁に立つのも恐縮させた。ひとつひとつの穴は遺跡発掘という動機を忘れさせて、何らかの生命意志が呼吸し始めて間もない幻想を持たせる。捜している奴、彼もこの土地の精力のようなものに惹かれているのだろうか?小宮山は池の飛び石を行くような注意を払いながらそのようなことを思った。
 小宮山勲(こみやま・いさお)は水戸をホームタウンとするサッカーチームのコーチである。王者の鹿角を遠目に見ながら堅走十四年のチームに係わってきた。その年もリーグはすでに前期後半の十二節を終了していて、昇格を狙える位置に足をかけた途端に正ゴールキーパーが故障してしまった。
「キングコングとは言わん。まぁ、ゴリラとは言わんから、でかくて敏捷で丈夫な奴がおらんかなぁ」と言って監督はこけた頬を押えて曇り空を仰いだ。
「イサオちゃん、国産でおらんかなぁ、日本猿でええんじゃ。カシージャスみたいな日本猿がどこかにおらんものか」
「カシージャスに失礼なのか、日本猿が可哀そうなのか…」
 小宮山は出張ってきた腹の上で腕を組んでそう答えるしかなかった。カシージャスはレアル・マドリードに所属する極上のゴールキーパーである。監督は一瞬いつもの声のない笑いを見せた。そして現役時は小柄ながら鹿角のディフェンダーを張っていた肩を落として項垂れた。
 寸足らずとはいえ自身もキーパーだった小宮山にとって、来季までを見据えた逸材捜しが命題となった。現実には試合に合わせての若手起用を支えるコーチとしての本業で精一杯。加えてジュニア・チームのキーパー養成の責任者でもある。トップチームが試合に勝ってサポーターの声援に応える、という大前提から気をそらせずにいると、かつて名古屋のキーパーをやっていて引退した大友美智夫から電話があった。
「アンナカァ?安中か、どこだっけ?」
 大友はシンガポール・リーグで首位を争うチームのコーチを務めていた。
「安中って言ったら群馬の安中ですよ。この夏は市の教育委員会のアルバイト作業員ということで働いていて、サッカーの方は周に一度のキーパーらしいんですが、丈が一九〇でちょっと観に小太りですけれど、筋骨隆々でオラウータンみたいだとか…」
「オラウータンって、おまえ、随分な言い草だな」
「まあ、何て言いますか、体も言うことも普通の人間じゃないらしいですよ、僕の後輩が言うにはですよ」
 小宮山は大友の陽気過ぎる言に苦笑せざるをえなかった。
「これで俺のキックを三本、監督のキックを一本弾いてくれるような奴だったら、本当にオラウータンなのだが」
 小宮山は浅間山へ向いた棒状の石に話しかけるように言って、遺物整理が継続されている仮設プレハブへ向かった。途中で唸り声が上がって、市教育委員会のヘルメットが穴から放り出された。考古学者らしい日焼けした中年が、渋い表情で硬貨大の輪状の石を日に翳している。足下を気にしながらその中年に伺おうとした。すると彼の背後の窪地から黄色いタオルを巻いた長髪がゆらりと上がった。足掻くようにして灰緑の作業着の肩幅ある背中が上がってくる。こちらに振り向いた彼は墨塊のような太眉をのせてはいたが、ぽっちゃりとした頬を赤らませて子供っぽさを幾らか残していた。そして顔幅に対して小星めいた黒目を指先のものに注いでいる。その指三関節ほどのものが骨であることは素人目にも明らかだった。
「東條君…東條明生(あきお)君は、失礼ですが、あなたですか?」
 彼は雄の類人猿を誇示するような剛毛だらけの手の甲を鼻につけて軽く頷いた。
「先週、水戸から電話した小宮山です。凄いなあ、こういう所にくるのは初めてなもので…それは?それは人の骨なの?」
「これは…アイケン41号です」
 小宮山はその土鈴のような岩音の声を聞いた瞬間に自分が落胆したのを感じた。それは職業上の経験からくる選手の傾向や体質に関する直感ではない。落胆は純情そうな青年を理解するのに時間がかかりそうな短絡な予感にすぎない。それにしてもアイケンの骨と毛深い手と低く重い声は、本人にとって有意義な現実をサッカーだけに絞り込むのは難儀そうだと思わせた。微笑をもって犬の骨を掲げられて、サッカボールには飢えていない、という実感を持たせられたのだった。
「アイケン…分かった、犬か。ああ、そうか、犬の骨か…犬を飼っていた、っていうことなの?」
「そうです、犬は人間と共生しはじめた最初の動物です」
 小宮山は大事そうに渡された骨を摘んで、見るままの印象から愚かな連想を口にしてしまった。
「アイケンっていうくらいだから食べちゃったわけじゃないだろうけれど」
「犬はあくまで狩猟のお手伝いです。今も昔も狩猟の立派な助手です。そして昔は犬を大事にして、死ねば人間と同じように埋葬しました。食べるものがなくなって犬を食べた、そのような形跡は縄文人には見あたりません」
 明生は嗜めるふうもなくそう言ってから掘溝の方へ誘った。黄色いタオルの下から項に波うつ黒髪は金属的なまでに艶やかである。小宮山は役目を転がるように忘れようとしている自分が信じられなかった。
「このように生前のまま丁寧に埋葬されています。尻尾ひとつをとっても切り離されたような痕はありません。ここでは出ませんが、場所によっては、編みこんだ紐状の首輪のようなものまで、副葬品として見つかった例があります」
 明生は微小の花園を案内する老爺ような穏やかな目で朗々と語った。横寝に埋葬されて半月状に並ぶ遺骨の真上で、生前の愛犬の親近な扱われ方を説く大きな男の子。一万年近くも保全してきた赤土も美しかった。土を落とされた白骨の非連続な花火並びは、確かに人間を夢中にさせるものがあるのだろう。小宮山は雪崩れるように納得している自分によろめいて明生の脇腹を掴んだ。
「こちらのことばかり話していて申し訳ありません。小宮山さんの出場された試合を、大宮サッカー場で見たことがあります。そうです、相手は山形でした」
 小宮山は「サッカー」の言葉を聞いて安堵した。発掘現場ながら躓いた面談の筋道を矯正しなければならない。手帳を取り出して身体状況を確認するところから落ち着こうとしていた。
「身長は一九二、大友がくれたデータは函館の高校生のときだからな、ちょっと伸びているな。しかし握力の六十二キロっていうのは…」
「もうそんなにありません。このまえ富山のチームの方がお見えになって計ったのですが、左右それぞれ五十五キロでした」
 明生は犬の骨を持ったままの手を前に組んで背を反らして、ときどき田舎で見かける礼節を保持した好青年そのものだった。にこやかに答える福々とした表情には、サッカー選手になりたい切実さは微塵も感じられない。面談に望んでくれたのはひとえに彼の誠実さゆえか。
 小宮山は咳払いしてから単刀直入に訊ねた。
「この遺跡発掘の仕事は契約社員らしいが、来週から水戸へ来てキーパーの練習に参加できるかい」
「この現場の発掘は八月末日までの契約ですから、来週から水戸へ行くことはできません。ただこちらから紹介いただいている八王子の発掘現場とは正式に契約していませんので、九月からの練習参加の申し出でいらっしゃれば検討させていただきます。すみません、まともな人間ではないので、答弁だけは人並みにきちんとするように言われました」
 浅間山の方から遠い雷鳴が聞こえた。そうだな、ボールを蹴って衆目に曝されるばかりが男の遊戯ではないし、穴を掘って犬の骨を並べるばかりも男のそれじゃない。小宮山は四十を出たばかりの歳だったが、些か世間の色合いの奥深さを感得させられた。
「もうひとつ、この十七ゴールっていうのは、フリーキックとかPKとか…」
「ああ、それは時間がなくなってきたときに攻め上がっていって、真ん中あたりから思いきって蹴ったら入っただけです」

 鷺宮咲前神社では蝉が唱和していた。神社は明治初めに熊野大神と諏訪大神を祀って以来、中野谷神社に名を変えて辺りに祀勢を放っていた。近くの縄文遺跡群との祭祀の関わりなども注目されている。安中の中野谷で夏を過ごした明生は、その日まで毎日欠かさずに拝礼してきていた。
 油蝉ばかりになってしまいました、と嘆いていた明生を待ちながら、紗代は携帯で時刻を確認した。正午前だが陽は真正面にある。明生を連れて帰るという使命はここからが本番だった。
 亀井紗代(かめい・さよ)は汗ばむ額にハンカチをあてて気丈さを立て直すが、夕方の羽田発函館着の便に間に合わせることは腑に負担だった。
 女の下腹部の鈍重さはここのところ生活の頂門にあった。そして「妊娠したかもしれない」と口にしてしまった稚拙な言の歯痒さがぶり返す。ご立派な内科の松岡センセーは「そりゃあ、よかった、産んでくれ、よかった」と言ってくれた。嬉しかったけれど不安の重しは付加されたような気がした。幸せな言葉というものは思いのほか状況と言い方によるものだと苦笑する。確かに彼は苦境に立たされている。妊娠を告げたのは早計だったかもしれない。それにしても松岡を愛していることには変わりない。しかし体内で自分の意思から分離しようとしている原初が、自分と松岡の交情の足場を冷やかに見ているような気がした。
「お待たせしました、申し訳ありません」
 紗代は音もなく大きな影を翳されて竦みそうになった。
「驚いた…そっと近寄るから驚くわよ。お祓いは済んだの?そっと近寄るのはいつもそうなの?昨日も磯部の駅で驚いちゃったわよ。普通じゃないっていうのは聞いていたけれどね」
 明生は気まずそうに長い睫毛をはためかせて幾分か頬を赤らめた。そして自分のジーンズの外腿を嗜めるように叩くように押えた。彼の歩行には悪戯心から遠い独特なものがある。とても人の言葉や視線を気にする若者らしい闊歩ではない。気温や風といった天空の気に耳を澄ましている昆虫採集の少年。彼の歩行は繁華街でも変わらなかった。
 紗代は期待していた丁寧な口調が返ってこないので白けた。そして並び歩くのも二日目だったので些事の追究を脇へ掃った。
「それはそうと、お祓いってやったことがないのね、あたしって。その方位除けって、十九歳でやるって言っていたけれど、あたしみたいな女もやっておいた方がいいの?」
「厄払いと比べたら殆ど行われていないと思いますけど、どういう人だからやっておくという条件からすれば、僕の知る限りでは僕の二黒土星とかの方位しかありません。あたしみたいな女とは、失礼ですが看護士の女性ならば、ということでしょうか?」
 紗代は思わず下腹に手を添えて眉尻を下げた。
「そう、あたしみたいな腕のわるい看護士で、あまり人も助けられなくて、正直言って男の人の目線ばかり気にしているような女。そんな人間はしっかりお祓いしてもらわなくちゃ駄目なんじゃないかな、と思ったのよ」
「それは普通の人じゃありませんか。普通の人は生まれ年だけ控えておいて、お祓いをできるときにやっておけばよいと思います。失礼ですが四緑木星ですか?」 
 紗代はハイヒールの重心を失くして明生の毛深い腕に支えられた。
「どうして知っているの…ああ、お母さんから聞いたのね。そう、昭和五十三年生まれよ。あのタクシーをつかまえて、暑くて歩けないわ」
 明生は長髪を靡かせて轟然と振り返った。そして辺りに号令するように素早く腕を振り上げた。
「さきほどのお祓いの話ですが、四緑木星だったら一昨年が方位除けのお祓いの年でしたね。二十八歳の次は三十七歳です」
 明生は磯部駅の階段で自分から話しかけてきた。改札を通って反対側のプラットフォームへ渡る階段で、紗代は驚いても幸いに荷物を持っていなかったのでよろめかなかった。
「そういうことになるのよね…今年三十になっちゃうから七年後か」
 舌切り雀神社の朱も鮮やかな観光ポスターに目を細めながら紗代は尋ね返した。
「明生君はいろいろとよく知っているね、考古学者の卵だから当然かもしれないけれど。でもね、聞いてもいいかな?話し方なんかは大人っぽいけれど、まだ十九歳でしょ、ひとりで淋しくないの?」
 明生は立ち止まって紗代のキャスター付きバッグを抱え直した。
「寂しいですよ、まだ十九歳ですから」と明生はぽんと置くように言った。
「函館にいるときも母さんとは別に暮らしていましたから、ずっと寂しかったですよ。それでも二次成長を迎える前の本当に子供だった頃は、寂しさとか人恋しさとかを意識しなくてよかったのですから、体が大人になってきて女性を意識することが寂しさの元なのでしょうか」
 紗代は十九歳が口にした「二次成長」という言葉に後退った。
「そりゃあ…まあね、そういうことになるんでしょうね」
「今も離れて暮らしていますが、最初に見た女性が母さんで、その人と毎月一回二時間会うことができました。あの時間が僕の寂しさの元なのかもしれません。こういうのをマザーコンプレックスっていうのでしょうか」
「マザーコンプレックス?」
 紗代は後を追うようにして茶髪を慌てて振りながら言った。
「それは違う、それは違うと思うよ。これでもいろんな患者さんを看てきているけれど、自閉症とか神経症とかもね、去年まで小児科にいたんで…ムカつくような聞き方をしたのならご免ね。マザーコンプレックスはないと思うよ、照夫君は。だって別に暮らしていたと言っていても、あんなに素敵なお母さんがいるんだもの」
「素敵なお母さん…」
「素敵なお母さんじゃないの、美人で頭がよくって、そうそう、医者でもあるし」
 明生は階段を下りきると髪を煌かせながら南の空を見上げた。
「夕立が来そうですが、その頃は飛行機の中でしょうね…そうですね、その素敵なお母さんと会いたいですね」
 浅間山の方にまた遠い雷鳴が走った。

                                       了
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