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Женщинでれぃ女たち   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 我々は何をしているのだろう、といった茫漠とした疑問を浮かばせる海原が眼下にあった。この膨大な水がやがて鬱蒼とした樹海に代わって、雄々しい緑木は夏のツンドラの前で情けなくも足踏む。しかし、そこは不毛ではない。熱砂のように断然と終わってはいない。むしろ終わっている砂漠ならば、地中深くの石油掘りも、人間だけの勝手なカーニバルとして刹那なままに掘りきればよい。しかし苔や湿性草に蓋われたツンドラは、化粧も知らない十代の少女のように始まってまもない土地なのだ。そして自分たちはその地中深くのガスやニッケルが正直に欲しい。金やダイヤモンドがたまらなく欲しいのだ。この正直な気持に、徒労という諦観の稜線を安易に辿らせることはできない。我々は何をしているのか、自分の眼で見極めなければならない、と涼子(りょうこ)は鳥肌立つ思いを持って白い綿パーカの両腕を抱えた。
「悪寒というのは、人間が正直になろうとしているときの反応なんだ」
 新潟空港を二人だけで発って四十五分、慣れて口調も優しくなくなった凱史(がいし)の言葉に、木肌ほどの温みを感じてしまった。これから踏みしめる地では、目に見えて高揚している凱史が頼りになる。彼の誠実な蛮性が頭をもたげはじめたのは、涼子が憂いた眼差しで口数少なく蒼白に見えたからかもしれない。
 山崎涼子は三十歳になった名古屋女、ドイツに本社を置く商社オクト・ワグネルの能源事業部の日本支社に勤務している。荒木凱史は新潟とウラジオストクを行き来する少々怪しいロシア通、ガイシ・ペトロヴィッチ・アラキとして低温科学研究所に籍を置きながらロシア航空森林消防隊の特別研修生らしい。かみ砕いて言えば、本来は商社の原子力エネルギーを取り扱っているチームの涼子と、ロシアにおける核の取り扱いを懸念しているシベリアンの凱史、核エネルギーと環境保護という一見水と油の範疇からこの二人が選抜されて、オクト・ワグネル・金属事業部の極東開発チームがにわかに立ち上げたメタラ(Металла)・ファンドを支援するかたちでシベリアへ渡ることになった。
「やっぱり153の方が岩手の田舎者には合ってるなあ。こんな綺麗なツポレフはロシアらしくないよ」
 足下の日本海を越えようとしているウラジオストク航空の旅客機は、新型のツポレフ200だった。
「何て言うのか、さっき言っていた海辺の町の中学校の理科の教師になる、というのはどうして諦めちゃったの?君らしくないっていうか…まあ、君のことをよく知っているわけじゃないけれど」
「諦めたわけじゃないわ」と涼子は彼の耳が息を感ずるように言った。
「あなたの真似をすれば、まあ何て言うのか、高レベル廃棄物を消滅処理する技術が完成する頃には、軽水炉でMOX(プルトニウムとウランの混合酸化物燃料)を燃やすようなこともなくなるだろうから、そう、お払い箱のあたしは、丹後半島の方へでも行って中学校に空きがあれば、と前向きに技術革新を願っているってこと」
「それならいいけれど」と言って凱史は揉み手をしながら主翼の反射光に目を細めた。
「急に黙ったから、竹之内さんが先にモスクヴァ経由でヤクーツクへ向かってしまったことで、何か思いあたることでもあるのかな、とか思ってね」
「投信会社の人とモスクワで事前に会うんでしょ。気にしていないわよ、ルビコンを渡ったんだもの。頼りがいのあるあなたもいることだしね」
 凱史は首を振ってから舌打ちして後部座席を一瞥した。二列後ろの通路側には、空港で二人を待ち迎えていたジョシュ・ケレンスキーがいる。読んでいる様子もないロシア語訳のケン・フォレットの冊子を顔に翳していた。
「日本人の見習い消防士よりも、海辺の教師の方がずっと頼りがいあるさ」
「海辺の教師か…それはそれで大変なんだろうね。若いときの父もそうだったらしいから、なんか遺伝子というか、ちょっと宿命を感じちゃったりするね」
 涼子はそう言って先週の母との会話に上った父を懐かしんだ。
「父は敦賀で教師をしながら、大学の助手の空きを待っていたらしいけれど…やっと教授に呼ばれて都に上洛できて、腕立て伏せと鴨川縁を走るだけの父は、教授から母も紹介されて結婚、可愛い娘も生まれて言うことなしだったんだけれどね…」
「研究生活をやめてサラリーマンになられて…急に亡くなったんだよね」
「そう、大学の派閥争いに嫌気がさしたのか、黒須の放浪する血が騒ぎだしたのか、母に相談もしないでドイツの製薬会社に勤めるようになって…二〇〇六年ワールドカップ真っ盛りのミュンヘン、そこで心不全を起こして五十五歳で逝っちゃった。定年後はやっぱり敦賀で釣り三昧をしたいなんてよく言っていたのに」
「宿命を持ち出すまでもなく」と言いかけて凱史は照れるように続けた。
「血筋なんだろうなぁ。僕もロシアに渡ったときから、大叔父の中凱の若かりし顔を忘れたことはない。そういう血筋が誇らしいと思えば誇らしいし、厄介と思えば厄介なわけだけれど…思うに何て言うのか、ロシアを嫌うにせよ好きになるにせよ、僕なんかは、ロシアと関わることに、何か意志的なものを感じるんだ。たとえストロンチウムの電池に殺されるにしても」
「それは駄目、殺されるのは意志的なものに反しているわ」
 そう言うなり涼子は華奢な手を火傷で白変色した凱史のそれに置いた。
「逃げるのよ。危機を回避しなければ、逃げ延びなければ、意思的なものは繋がらないでしょう。人間の意思だって、ストロンチウムの半減期、壊変の日数くらいは引っぱらなくちゃ」
「何の日数って?」
 凱史は絹触りを重ねられたような右手に左手を重ねようとして逃げられた。
「元素が壊れて変わる壊変、元素の原子数が半分に減るまでの時間よ。ちょっとは習ったでしょ、十代の終わりに。電池に使われているストロンチウム90なら約二十九年。危険なβ線を放射しつくすまで二十九年かかって、そしてイットリウム90になるの」
「二十九年か…微妙な年月だね。人間が地球上で逃げ果せるにそこそこの時間かもしれないな。ちなみにプロが集めているプルトニウムはどれくらい?」
「優しくないのね、これから女がシベリアに降り立つっていうときに」と言って涼子はぶつけるように額を窓へ振りあてた。
「あたしが高級スコッチのように集めているMOXのプルト239の半減期は、二万四千百十年よ」
 凱史はオセローが妻デズデモーナを疑ったときのように、芝居じみた両手を額に翳して卒倒するように仰け反った。
「そういう系列なんだから仕方ないでしょう。239にしたって244の八千五十万年に比べたら一瞬でしょうけれど」
 涼子はそう言って開き直ったようにパーカのジッパーを開いて携帯電話を取り出した。
「そんなことよりも、あなたって北海道へ行く前の大学生のとき、府中の大学生のときにテロリストみたいなことをやっているのね」
「テロリストはひどい」と凱史は顔を覆ったまま動じるふうもなく淡々と言った。
「何て言うのか、学生の悪戯だよ。レズビアンでサディスティックな助教授に悪戯して、同じセミナーで泣いていた女の子を助けた、よくある話じゃないかな」
「このメディナ虫って何なの?」と言いながら涼子は携帯へ送られてきたデータ写真を凱史へ突きつけた。
「場所はアフリカだよね…この子の膝に付いているのってサナダムシ?これってトリック写真なの?」
「マンソン裂頭条虫、裂ける頭の条虫」と呟くように言ってから凱史は写真を一瞥した。
「さすがはオクト・ワグネル、僕を調べたくらいで凄い写真を見つけてくるね。それは付いているんじゃなくて、膝の皮膚を破って頭を出したところを引っぱり出したのさ。寄生虫だよ。そいつの卵を持ったミジンコが飲料水として体に入って孵化するんだ。アフリカでは随分前から問題になっている。ただし、壊変とか半減期ほど難しくないし、プルトニウムほども怖くはないよ」
「どうやって日本へ持ち込んだのよ」
「またいつか機会があれば話してやるよ。そんなことより…」と口篭りながら凱史は火傷だらけの右肘を凝視した。
「後ろでずっと居眠りしているようなジョシュさん、新潟で我々を待っていて、竹之内さんが五日前にヨーロッパまわりでモスクワ経由でヤクーツクへ向かっている、とロシア語で僕に言ってきたんだが…君は現時点ではジョシュ・ケレンスキーという金属事業部のロシア人社員を知らない…僕もどうやらロシアの水に慣れてきたのかな」
「どういうこと?」
「心して口にしなければならないってことさ。しかし彼が日本語を話せないというのは、どうも本当みたいなんだ。通関するときに確認したんだ、ナホトカ仕込みの狼犬暴きで」
「狼犬暴きって?」
「よくあるロシア方式さ。にこやかな顔で確かめたい言葉、この場合だったら日本語で、君が契約している倍額を払うからこちら側になってくれないかな、三倍額を要求するなら指を三本、言っていることの意味が分からなかったら親指を立ててくれ、とね。彼は親指も立てなかった。しかし、砂糖大根を作っている馬鹿なイワンではないことは確かだ」
「彼が俗にいうマフィアだって言うの?」
「マフィアとは言わないが」
 そう言って凱史は後ろを窺おうとする涼子の肩を押さえた。
「ずっと考えていたんだが…そもそも先月の末だったな、消火活動を終えてヘリから降りると、隊長に呼ばれて久しぶりに知り合いのアルマンド先生と会った。先生曰く、日本の商社から環境に留意した資源調査のインタヴューを依頼されているのだが、知事にも隊長にも既に許可をもらったので、僕に商社側の案内役として、通訳を主業務にしばらく動いてくれないか、ということだったんだ。時間と経費は融通を利かせるから…そう言われても、最初は懸念してすぐには承諾しなかったんだ」
「それはそうよね」
「どうも商社のお手伝いとなると、ソヴィエト時代のような、軍事や技術の機密情報の橋渡しに利用されるのでないか、とか周りはよく言わないからね」
 涼子は携帯の受信を浚い直しながら嘆息を漏らした。
「確かに何でもありだからね。信じられるのはかろうじて親、そして仕事をしているうえでは致し方なくボス」
「先生は何故か日本人に親近感を持っているみたいだ…」と言ってから凱史は遠望するように座り直した。
 涼子もやがて握ることになる樹皮のような手の老人、あのイリイチ・レーニンが娼婦に産ませた忘れ形見、そして凱史が師として敬愛するシベリアの毒蛾アタカス、その本名はセルゲイ・イリイチ・アルマンド、である。もっとも彼を「毒蛾」とか「CblHスィン(息子)」とか呼んでいたのは殆どがロシア人で、サハ共和国一帯ではヤクートの三番目の英雄「アタカス」で知られていた。一番二番ではない三番目の英雄ということは、華々しい経歴を携えた表舞台の英雄の姿には縁遠かったということである。本人もすでに高齢でヤクートらしい山野の歩猟を断念して久しいが、資源開発の波に乗って文化人類学者や生態学者、凱史のような物好きなどが訪ねてきていたので、再三にわたって連邦のヤクート自治共和国時代、とくにスターリンからフルシチョフの暗黒時代下の民族悲話を語って退屈することはないとのことだった。
「二度目の先生の説得内容が、放射能汚染にしっかりと及んだので、とりあえず引き受けることにしたんだ。そのとき先生が帰りがけに、母国日本は天国だろうが、オクトのエネルギー事業部は、オクトの金属事業部の社員をあまり信頼していない、率直に言えば、竹之内さんがその仕事ぶりをオクトから良くも悪くも監視されている、そんな感じがするのでオクトの社員には気を許すな、と言ったんだ」
 涼子は小刻みに笑いだしながら携帯を閉じてパーカのフードを軽く被った。
「こっちだって気を許しちゃいないわよ、寄生虫を持ち込んで悪戯しているような野蛮人に。しかも気を許すも何も、ここまで来ちゃったら…うちの母を真似すれば、こんなところまで来て結構な御手前をいただけるとは思っちゃいないわよ」
「そのへんが君の系列なんだな」と言いながら凱史はフードの中で髪を乱して笑う涼子を見ていた。
「まあ何て言うのか、僕も中凱という親族と関わらなかったら、シベリアなんかを走りまわっていなかったわけだ。虎、豹、ヤクート馬、そしてマンモスの骨…それ以前に、いつも亡命していった中凱がいるんだ。だから疑ってしまう。環境関連のファンドの立上げに貢献してくれとか言われてみても、どうも耳障りのいい話はまず疑って、次は笑ってしまうんだ。ここは依然として普通の人を拒むシベリアだし、欲望に正直なロシアだからね」
「そう、商社が環境に留意するのはそのフィードバックが見込めるからよ」と言って涼子はフードを脱いで凱史の肩にもたれた。
「こう言っている間にも、ずっと北の夏のツンドラでは、放射能汚染はむろん、凍土が融けて基盤が傾いている原子炉なんかはごろんと倒れるかもしれない。それに、あたしも、どうしてあたしの祖父、黒須の繋がりでこうなったのか、っていうことに納得しているわけじゃないもんね。メタル・ファンドのために放射能汚染の問題を是正するだけなら、あたしのような小料理屋の娘よりも、科学アカデミーから息のかかった研究者の一人も同行させれば、と思うんだけれど…疑いだしたら切りがないけれど、これも性分、これも系列なのかな」
「プロっていうのはやっぱり楽じゃないんだな」
「まあね、また母の真似をすれば、蛇が出ようが虎が出ようが、知りたいことは知りたい、ってこと。それに日本海を渡っちゃったことだし、腹をくくるしかないから、最後のコーラでも飲みましょうよ」

 涼子は若かりし父次郎と関わったというマチコ・シャービンの写真を携帯電話で見ていた。一枚はマルクス・レーニン研究所時代の祝賀記念の居並びから抜き出してデジタル処理で補正したもので、お堅い研究所所員にしてはこちらが気恥ずかしくなるような愛想笑いを浮かべている。目鼻立ちがくっきりしている美人で、今なら青いコンタクト・レンズをはめこめば立派なスラブ人だ。歯をむき出した愛想笑いも、大柄で金髪照り返すロシアの才色兼備に雑じって必死だった彼女の焦燥とも見て取れる。私もこんなふうに笑っていたのかな、と涼子は思って小さく苦笑した。MOXの運搬の仮契約書を公団から受け取ったとき、おそらく父や母にも見せたことがなかったような愛想笑いを浮かべていたのだろうか。
 もう一枚は名古屋の母が面倒そうに携帯で撮って送ってきたもので、反射光を交えて暗いのは致し方ないが、マチコは知的選民といった感じで取澄ましていて、元々の顔立ちの輪郭が明瞭だった。隣で自然と微笑んでいる仲居姿の母は、中学生の頃の私にそっくりで一変に気分が和んでしまう。四十五年前後の昭和と化粧っ気のない仲居姿、何もかも経験することもない自分が、写真の母の屈託ない笑みで生きる微熱を胸元に灯してしまう。今更でもないのかもしれないが、若き母の姿を見て律せられるこの気分は、いつも素直に今更でよいのだろう。
 それにしてもレゲエ風な曲の繰り返しが(繰り返していないのかもしれないが)耳障りだ。ホテルのレストラン・バーの選曲に言い掛かりをつけるわけではないが、ここは紛れもなくウラジオストクのホテルで、外は冷たそうな雨が降っている。尤も、安穏とした柏の夜でも、蕪蒸しにウオッカとレゲエを合わせるのは至難ではあるが。
 そして幾らか和んだ酔いのところへ、竹之内からメールがきた。これからモスクワを発つ?案外に余裕がある先輩ね、と皮肉りたかった。
「新潟からあなた達に同行しているジョシュ・ケレンスキーは、わたしが鉄道の保線計画のプランで使っている地元エージェントで、正規のオクトの社員ではありません」
 この時刻にこういうお達しということは、端から嘗められている山崎涼子っていうことか。
 荒木凱史の友人のアルマンドが言っていたこと…オクトのエネルギー事業部がオクトの金属事業部の社員をあまり信頼していない。率直に言えば、竹之内さんがその仕事ぶりをオクトから良くも悪くも監視されている…能源の私のボスが、竹之内美恵の裏を取ろうとしている。まいったな、何を企んでいるのやら、あんな味噌煮込み屋の小母さんみたいな柔和な顔してさ。
 竹之内美恵がどのような晩餐会を望んでいるにせよ、今までロシア人の男たちに雑じって、ニッケルやモリブデンを買い漁ってきたでれぃ(大した)女だということは認めよう。しかし、ガスや褐炭ならキッチンはこっちで、マエストロは潘GM、私は滅多に原子炉には近づかないプルトニウム・ローバーだから、普通に考えれば邪魔も邪魔の大厄介者。環境関連のファンド?ユーコンやアラスカでそのための調査が始まるって言うのならともかくシベリアじゃ…、と言ってボスは高笑いしていた。
 涼子は小さく舌打ちした。もう一杯このチョリソーでちんたら飲んで、ボス潘世備さまからの連絡を待ちましょうか。荒木凱史はもう帰っているのかな、どうでもいいけれど。オルード・ウォッカが年代物のウオッカではなくて、ウィスキーとウオッカを単に合わせたもの、そんなことを今し方知ったばかりの涼子さんも、ちょっと開き直ってみますか。
 やっと来たボス猿からのメール!まともなスコッチとか飲みながらのメールじゃないでしょうね。
「ミハイル・アンドリィヴィチ・チューリン、一九八九年イルクーツク生まれのこの男性が、女優志望のリー・リン(李琳)という自称十九歳の女性を伴って、ヤクーツクで接触してくる可能性がある。すでに日本の芸能プロダクションへの橋渡しはできているようなので、紹介依頼というのは接触するための名目にすぎないことは察せられるが、本来の目的情報は得られていない」
 何よこれ?シベリアで女の子の売り込みに立ち会えっていうの?ジョシュもそっちの絡みとか言うんじゃないでしょうね。もう一杯飲まなくちゃ。
 涼子は安いグラスに歯をあてた。いったい何が何だって言うの?
「自分の憶測では、ミハイルの父親が政権側も一目置く輸送会社『エルマク・ロード』の社長で、トラック輸送を中心にシベリアの運輸全般に影響力を持つ男だから、君と接触して直接に能源事業部とビジネスをしたがっているのかもしれない。よって、エルマク側は金属事業部ないし竹之内を牽制しているきらいがある。竹之内が手配したジョシュ・ケレンスキーの正確な情報はまだ入手できていないが、竹之内がモスクワに入る前に、アントワープで貴金属商の知り合いと会っている事は確認できた」
 こうなると竹之内先輩も、露骨な動きは避けてほしいけれど、やりたいことはやりたい、欲しいものは欲しいシベリアだから仕方ないか。
 涼子は注ぎながら笑うしかなかった。これはこれは、ちょっと怖いかな。
「ミハイルの従兄妹のガーヴ・アレクセイヴィッチ・ザハロフは、二〇〇四年七月のウラジオストク市長選挙の立候補者が爆発事件で負傷した事件、これに絡んだ容疑で拘留された経歴がある。ミハイル自身の最近までの素行もあまり大人しいものではなく、父親のアンドレイ・チューリンは若い頃から銃火器に慣れ親しんでいる」
 あの凱史に守ってもらうにしても、彼も所詮は子供っぽさを残した学者肌だし、気をつけなくちゃ、と涼子は闇に向いて呟いた。

 寝息はむろん脈拍までが聞こえてきそうな静寂があった。ヴォトカと大蒜とニスのような防腐剤の匂いが充満している北辺の部屋で、涼子は少女のように夏の薄闇に爛々と目を凝らしている。腫れあがったような豪腕を出したまま寝入ってしまったメタル・ドッグの竹之内美恵。そして掻いて赤らんでしまった首筋を手鏡で見ている細腕のプルトニウム・ローバーの涼子。商社勤めとはいえ女子社員二人が、シベリアの最初の夜を疲れきった男のように迎えていた。気がつくと手帳の上でボールペンの頭を戦慄くように噛みながら、怒風に傾ぐ霜林の中を悠々と行く獣たちを想像しようとしていた。
 どこからこの混濁した頭を整理して書きだせるものか。こういうときは素直な言葉を下すに限るならば、若い奥さんタチアナは素晴らしく衝撃的だった。ここセルゲイ・イリイチ・アルマンドの息子、ヴァシリーの妻として望んで嫁いできたとか、本当かな?いや、本当だろう、彼女の私の倍もあるような手を見れば分かる。料理も口に合っていて美味しかった。あのタチアナならば、ロシア語を学んで手紙を交わしたくなる。タチアナとの関係だけに留まるロシア語ならば、充分にシベリアの美しさを伝えてくれて、先々に憂いたときの励みになるだろう。
 仕事上、凱史が間に立って通訳することに支障はないが、親しくなった凱史の悪戯な目が気になっていた。
 男たちは、タチアナの夫、ヴァシリーを除いて鬱陶しいと言っても過言ではない。黒須の孫である涼子に会いたがっていたはずのセルゲイ・イリイチ・アルマンドは、涼子を珍しい野菜を前にしたように覗き見しながら、流暢にロシア語を操れる竹之内と話してばかりいた。凱史によれば、戦時中と戦後の狩猟を交えた武勇伝らしい。ところが、黒須欣一郎の墓どころか、クロスの名前が出ると、使い古されたPCのようにフリーズしてしまう。もっとも、ここまでは想定していたとおり。そうだ、最悪なのが投信のアセット(資産)マネージャーのハンス・ヒルデブランド。あのドイツ人は何なの?ハンス君は何をしにきたのかしら。
 それにしても野獣共の饗宴というか、涼子を歓迎するためのちょっと田舎臭いセレモニーには閉口してしまった。田舎臭いという言葉が悪ければ、シベリアらしいデモンストレーションと言おうか。情けなくも娘をシベリアへ行かせたくない母の姿を追憶し、嵌められたという以前の寄せ餌としての兎になった気分だった。
 ヤクーツクの空港で起きたことは、暫くの間は空港という場所にあって涼子の頬を硬直させるだろう。
 搬送系絡が日本と比較にならないほど不安定なので、夏場でもあるので荷物は極力分散させずにリュックサック型の手荷物にすること。この凱史の忠告どおりの真新しいリュックサックを手早く背負って、せっかちな日本人らしく凱史も慌てるほどの早足で出口へ向かうと、まるで有名女優でも出迎えるかのような賑やかさで、長身の美女が手を握り込んできた。乳白という言葉しか見つからぬ潤んだ雪肌に、モンゴロイドらしい切れ長の眼が落ち着きなく上下していた。リー・リンだと直感した。実際の驚愕はその後にすぐやってきて、なんと凱史とリーが親し気に軽く抱擁して挨拶を交わした。早速に凱史を介して涼子とリーの紹介交歓となったが、凱史の若干の狼狽いを見ると、前夜のボスからの情報を締まっておいて様子を窺ったのは賢明だった。そしてリーの背後には、父親だといっても通用する同じような面立ちの顎髭の男がいた。それがガーヴ・アレクセイヴィッチ・ザハロフ。凱史と肩を並べる大柄だが、脂肪のつき具合で凱史よりも頼りがいありそうだった。やはり凱史と知り合いらしく互いに肩を抱き合って、ガーヴが笑いながら何か言いかけてふと凱史の背後を見た瞬間だった。
 森の中で狼にばったり出くわした狐のように、後ろに来ていたジョシュ・ケレンスキーが逃げ出した。それをガーヴが鼻息も荒く追いかけていった。瞬く間にガーヴは背後からジョシュを押さえ伏せて腕を捩りあげた。そしてリーは乱痴気騒ぎを見慣れているように笑いながら近づいて、力を緩めず唸りながら話すガーヴの言うことに頷いていた。彼女は笑顔のまま唖然としているこちらに振り返って甲高い声を響かせていた。
 凱史の困惑した額が涼子に向けられた。今になってみると、凱史は自らが理解し得た状況を話すことで、涼子が怯えて取り乱すのではと懸念したのだろう。
「出ると左にマイクロバスが停まっていて、中に僕も知っているミハイル・アンドリィヴィッチ・チューリンという青年が待っている。十分でいいから時間をくれないか、と言っている。父親のアンドレイ・チューリンから頼まれて、君に手渡したい物があるそうだ。竹之内さん達とヘリコプターに乗るまでにはまだ時間があるし…そんなに見た目よりも危ない連中じゃない。分かっているよ、待って、分かっているから落ち着いて。リーも落ち着かないだろうから、君に説明しているところだと話すから待って。もちろんジョシュが何者なのかも聞いてみるよ」
 涼子は神経を高ぶらせる間もなく観念したのだと今更ながら思った。傍らで寝息を立てている竹之内を信じていない涼子は、これだけの辺境にあれば、拘束されず、奪われず、傷つけられなければ、相手がヤクート族であれマサイ族であれ何事も了解するしかなかった。
「リーが言うには、ジョシュはウラジオストクやハバロフスクでは有名な情報屋で、どこにも属さない代わりに、日本人にも雇われるような言わば便利屋だな。実は大したことじゃないが、ウラジオストクの市長選挙のときに爆発事件があって、ガーヴの情報をジョシュが捏造して流したらしいんだ。それで御覧のとおりの騒ぎさ。それから僕はチューリンの親子とはアルマンド先生を通して知っている仲で、父親のアンドレイは、ウクライナ系ロシア人らしいが、随分と日本贔屓なんだ。信じてほしいのだが、今回のことや君のことは、僕の口からは一言も彼等親子に話していない。おそらく先生から情報を得ていて、アンドレイが娘のように面倒見てきたこのリーのことを、何て言うのか、相談したいんじゃないかな?日本の芸能界でデヴューしたいとか言っているから…」
 マイクロバスというよりは装甲車のような外観に改造された車両には、白熊のように小太りで柔和な金髪のミハイルが待っていた。彼は父親の日本好きに影響されているのだろうか、慇懃に言葉少なく授与式のような格調をもって、約二十センチ立方の木箱を涼子の胸元に捧げた。中には発泡シートに包まれて掌大の黒い縫いぐるみがあった。二つの頭を持った双頭の鷲ならぬ双頭の烏だという。黒貂の毛皮を丁寧に縫い込んであって毛艶が匂い立つように輝いている。ミハイルは囁くように縫いぐるみを耳許で振って音を聞いてほしいと言った。何か欠片状のものが入っているらしく、擦れて烏には程遠い虫の音のような可愛い音がした。
「父親のアンドレイが忙しくて会えないことを残念がっていたらしい。今やアンドレイ・チューリンは実業家だからな。ミハイルが父アンドレイから度々聞かされてきたのは、アンドレイが今日あるのはシベリアのツァーリことクロスのおかげだということらしい。もう一人のツァーリ、セルゲイ・アルマンドに会ったらよろしく言ってくれ、とも言っていたらしい。それから、甥にあたるガーヴがミャンディギまでの行きと帰りに同行するが、根は優しい奴なので怖がらないでほしい、だってさ。リーの日本デヴューについては何も言っていないな?あと、その縫いぐるみはくれぐれも大事にしてくれ、だってさ」
 涼子はリュックサックを手繰り寄せて木箱を取り出した。松の香りが部屋の臭いを弾いて払うように鼻孔に達する。この安堵させる香りがシベリアの入り口のそれなのだろうと思った。

 涼子が「シベリアの毒蛾アタカス」ことセルゲイ・イリイチ・アルマンドの集落に世話になって五日経とうとしていた。一昨日の午後、雲霞のような蚊の蟠りの中へ歩んでいった凱史を待っていた。三日前から忽然と消息を絶っていた竹之内美恵、彼女のことは今朝方、犬に奪われてしまった蔓苔桃のジャムの壜のように漠然と諦めていた。
 凱史が項垂れたハンスを伴って帰ってきたとき、涼子は抱いていた幼子アレクを勢いアルマンド老の膝へ押しつけるように渡した。端正に固めていた金髪を犬のように濡らしたハンスは、涼子の顔を見るなり支えていた凱史の手を横暴に払い落とした。涼子が英語で姿が見えない竹之内のことを問いただすと、ハンスは蔑視を漂わせてからその場に崩れ落ちた。そして自分の内懐を慌てて捜しはじめた。
「竹之内さんが郡警察に拘束されてしまった。僕と君だけがここに残って話を伺うという段階で…何か嫌な予感はしたんだ。竹之内さんがいくらロシア通でも、ここはシベリアだからね」
 凱史はこの二日間で髭が濃くなり冷静さを増していた観があった。
「何の容疑で捕まったの?だいたい竹之内さんとハンスはどこへ行っていたの?」
「場所は砲兵隊の演習地らしいが、そこでヤクーツクから一緒に来ていたガーヴの手引きで、ダイヤモンド公社の人間と接触するつもりだったようだ」
「接触できなかったのね。ガーヴはいったい…」
「落ち着いてくれ、一言で言えばこうだ。ガーヴの手引きによるダイヤモンド公社側との密会というのは、警察当局がガーヴを使っている地元業者と仕組んだ罠だったんだ。そして、前々からダイヤモンドや貴金属類の個人取引を目論んでいた竹之内さんは、その罠に嵌まってしまったんだ」
 涼子は半歩半歩と退きながら白い指を震わせた。
「どうしてすらすら話せるの。あなたも罠に加担していたから?」
「落ち着いてくれ、僕がついさっきガーヴから電話をもらって駆けつけて行ったのは、君も見ているじゃないか。そして現場でガーヴ本人からすべてを聞いたんだ」
「捕まったのは竹之内さんだけ?このハンスは?関係していないの?」
「連座している容疑はなくなっていないが、出国するまでにヤクーツクの警察に出頭する誓約で、今日のところは放免してもらえたんだ。それなのに、こいつ思っていたよりもゲルマン魂っていうか、根性のない奴だなぁ。携帯電話を捜しているんだろうが、さっき警察官に取り上げられているんだ」
「それは違法っていうか、彼は外国人なのだから越権行為じゃないの?」
「夕方までには返すと言っていたけれど、日本人の僕がいたからかもしれないが。まずフランクフルトの投信会社に本人確認をしたいって言っていた。竹之内さんのように、所属するオクト・ワグネルから見放されていれば話が早いんだろうけど」
「オクト・ワグネルから見放された?」
「これからまた警察がやってきて、オクトの君にも簡単に事情聴取するだろうが、郡警察じゃない背広姿の人が言うには…」
 涼子は舞うように窓枠を叩いた。
「いいから、全部話して」
「今回の件は、オクト・ワグネルの事業部の、社内査察というのか、それに基づいて行われたようなところがあるらしい」
 涼子は額に翳していた手を握りこんで、興奮を抑えるべく女らしく恨みがましく言った。
「クラウゼヴィッツ…使いたいだけ使っておきながら、それでもボスなの…」
「あの大きなエンジン音はきっとそうだ」と凱史はむしろ警察の到着を歓迎しているようだった。
「君は大丈夫、何も心配ないよ。現場で先生と話して、どこにでもある違法侵入の手違いが起きたということにするので、ともかく君は大丈夫だから落ち着いて。こちらのアルマンド一家には僕からそれとなく説明しておくよ」
 それにしても、ここはシベリアなのだ。涼子は兎でも寄せ餌でもなく、喜ばれそうなので、道すがら摘まれて携えられてきた草花。草花でなければ、村の手前で凱史が摘んでくれた甘酸っぱい蔓苔桃。
 涼子は気遣ってくれるタチアナから逃げるようにして外へ出た。そして装甲車のようなベージュホートを見たとき、はしたなくも「畜生」と呟いてしまった。

                                       了
ソーネチカ (新潮クレスト・ブックス)

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  • 出版社/メーカー: 新潮社
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