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窓辺の修道士   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 Mönch am Fenster
 私がライヘンベルガー通りのWAGNERと黄の隠れ家、あるいは合歓が平岡先生の霊と安住している宅、灰色がかった白猫が迎えるその住まいへ三度目に訪ねたのは、博物館島の各館の新装工事が成った年の翌春であった。
 舞ことMYE・WAGNERは待ちかねていたように迎えてくれたが、ホーことRYAN・HO(梁黄)は出張交霊術とかで北京と煙台へ招かれていて、灰色がかった白猫のハンス(Hans)は老いてもなお我が通りの巡回中ということで留守だった。ちなみに舞を合歓と呼んで日本語で小説を書かせている平岡先生とは、学徒動員の挙句に終戦の八月十五日、台北の病院で亡くなった東京帝国大学在学中だった文学青年の霊である。
 舞は綴った裏白紙の束にサインペンで漢字交じりの日本語を書いて私に見せた。
「オクト・ワグネルに勤めていた頃の友人に会いに来たわけですね」
 舞が毎週のように送ってくれる電子メールが流暢過ぎるので、私はついつい彼女が聾唖者であることを忘れている。日本人が慌てて拙い楷書を走らせるのだった。
「そう、私が吉祥寺にあるオクトの化成事業部の日本支社にいたとき、本社からポリカーボ つまりプラスチィックのシート、それの販路開拓の応援チームの一人として来てくれたJulia Heilmann ユリア・ハイルマンに会いに来ました」
 舞は即座に茶目っ気たっぷりなハート型を書いて肩をすくめてみせた。
「好きなRomy Schneider(ロミー・シュナイダー)に似た女性ですか」
 私はいい歳なのに些かうろたえて稚拙な片仮名を書いてしまった。
「ブロンドなんだ いや、黒髪じゃなくて」
「ロミーが黒髪なのはシシのときですよ」
「二十年以上前だから ハイルマンの姓じゃないとないと思う もう奥さんになっているだろう 」
 私の憶測をあっさり裏切って、五十歳に近いユリアはハイルマン姓のままだった。
 舞のところで新作の短編を三つほど読んで批評めいたことを語り、どうしても気になってしまう平岡先生の霊のここ最近を聞いてから、懐かしいシュプレー川沿いに出るべく辞した。そして思いきってユリアに電話してみると間延びしたドイツ語が返ってきた。
「あなたのために今日一日は空けているわ。お店をやっているんだけど、それは姉に任せているから気兼ねなくね。独身よ。あなたは?」
 私は彼女と正午に美術館のフリードリッヒの廊で待ち合わせることにした。
 Ohne eine Minute Verspätung(一分の遅れもなく)正午にはお目当ての廊に入れた。ユリアはすでに「樫の森の中の修道院」の前にいた。
 私は息を呑んだ。結い上げた黄金の髪玉、それを当然のように戴いた彼女が見下ろしているのは、薄黒ずみのハマダンゴムシが楚々と集っていそうな朽ちた修道院である。ユリアの瞬かない碧眼は、無機質を思わせるほど冷めて見えて、むしろ歪な生命感は暗鬱な廃墟の壁面にあった。
 遠い昔に触れ合った互いの手を、貴重な古書を感じるように握った。
 ユリアはあれから三年後、フランクフルトのオクト・ワグネルを辞めて、壁がなくなって久しいベルリンへ帰って書店に勤めていた。途中コロンバスの友人との二年間の在米を経て、その頃はまたマリエン通りの姉と一緒に生活していた。本屋はなかなか本屋をやめられない。有態に言って逃れられない三大販売職のひとつかもしれない。ユリアは空いていた一部屋を倉庫兼閲覧室にして、大胆にも希少本と古書を扱いはじめていた。
「あれこそドイツなのよ、あたしにとっては」と彼女は「樫の森の中の修道院」から離れて些かはにかむ様に言った。
「なるほどね」と私は迂闊に頷いてしまった。
「暗くなったとか言わないでね」と言って彼女は首を傾げた。「あなたと出会った頃のあたしは、あんなふうな山頂の朝、ああいった朝がどこにでもあると思っていたの、日本にも、アメリカにも」
 ユリアは眩しさから眼を逸らす老人のように「リーゼンゲビルゲの朝」を指した。
「あなたは相変わらずあれが好きなの?窓辺の婦人」
 彼女は少女が慌てて前言を抑え込むかのように指す方を翻した。そこには白昼の窓外に凡庸な眼差しを向けている腰高の女がいた。さても凡庸な眼差しと決めつけている私がいたことになる。そして私は今でも凡庸なままの彼女に安堵しているのだろうか。しかし安堵を嘲る私がいる。舞が綴る日本語や平岡先生の霊に驚愕している私がいた。
「こんなフリードリッヒは忘れていたよ。傍目には少々老けこんだのだろうが、君と同じく晴れやかな山頂などには眼を背けて、私が見る先々は、あの修道院の背景ように靄が深まっていく、それは夢幻、そう素晴らしい夢幻だ」
 私はいい歳なのにまた稚拙な手招きでユリアを恥ずかしがらせる。二人はどこか傲慢な頬に笑みを浮かべながらそこへ向かった。そこでは「海辺の修道士」が飽きることなく海を見ていた。
                                       了
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