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ティティエット   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 マカッサルはウジュンパンダンと名を変えてはいたが、魚の開きイカン・スノウや他の干物の奇矯な仰々しさと、太陽に恵まれ過ぎた確実な死の匂い、それらは何ら変わらなかった。人の微笑みも訝しさも変わらなかった。しかし青年は同じように派手なシャツを着ていて、四十年前よりも随分と愛想がよくなった気がする。大森市場の一画と見紛うような中、荷物を扱う様は少々乱雑で、危なげなハンドルさばきが目について仕方ない。相変わらず毅然として見えるのは、帽を被った老爺と若い女性である。脂汗を感じさせない痩身に、窺うこちらに冷静を強いるような眼差しがある。かつて大学へ戻った戦友は、回教の教理や寺院の潔癖さがそのまま身についているのだろう、と感慨深く呟いていた。我々の身勝手な戦争が終わって四十年、たしかに今や余裕を持って回教の潔癖さに身を置けるのだろう。やはり少々変わりはてたのは、こちら太鼓腹の日本人なのだろうか?
 コカ・コーラの看板の彼方に、毒や激痛が潜む草木の緑を探してみれば、車の窓まで黄緑色の細い蛇を持ってきて、日本語混じりの英語で安くしておくと言い放つ。日本語に目尻を下げて、英語に威嚇された捕虜の焦りを思い出してしまう。日本人らしく潔く見せてもみたが、英兵ないし豪兵の手中にある蛙の口は正直に渇いていた。しかし口が渇くような危険はもはや見あたらない。蒲田駅前のような渋滞も見あたらない。渋滞のあげくに大声で歌いだしたくなるような焦燥、そんなものはここにはない。天地英雄(あまち・ひでお)、当年とって五十九歳、遥々やってきての第一印象だった。
「心の病とは、ありがたいものだ」
 島への旅の道すがら、英雄は何度も同じように呟き続けていた。そう呟きながらも、彼の視線は居並ぶタクシーや小型トラックのハンドルを一瞥している。手垢で汚れたハンドルがどうしても目についた。彼が先週まで握っていたのは、都バスの黒珊瑚のように磨きあげてきたハンドルゆえ無理もない。あれだけ、ハンドルひとつバスの道具の隅々まで磨いてきて…渋滞中にちょっと歌ったら、心の病、とかにされてしまった。鼻歌や文句のひとつも口にしないでどうする?組合の対応に向けて、若者の運転に向けて、ソ連やらアメリカやらに向けて、とにかく苦言を呟きながら運転してきた都バスの運転手、それが同僚にとってのマチさんこと天地で、蒲田のサントリー館のヒーローこと英雄だった。
 ぽつりぽつりと降ってきたような呟きは、やがて冬の終わりの叩き雨のように勇壮になり、先月の絶唱、加藤登紀子の「知床旅情」を朗々と歌ってしまった。優しい世間さまが見過ごしてくれるはずがない。いつも乗り降りしている顔見知りの乗客四人が、狂気寸前の運転手について会社に訴え出てくれた。数日を置かずして、妻の美智子がいつもの夫婦の摩擦を、夫の労働と脳髄の不均衡にすりかえて愁訴してくれたものだから、ついには健康診断にかこつけた精神鑑定を受ける事になった。挙げ句の果てにこれである。東邦医大病院の精神科医が、安定剤の投与と一ヶ月ばかりの休養を決定づけてくれた。
 万歳三唱、いや、一度だけ万歳!やった、やった、やったの休暇だ…欲しくて欲しくて堪らなかったものじゃないけれど、何が欲しかったのか、何がしたかったのか、いずれにせよ神経衰弱な運転手には、考える時間が必要だということだろう。
 あと十ヶ月も経ずに定年退職だというのに、何が契機で、逃亡と追放の綯い交ぜが、現実のものとなって旅に引き摺り出してくれるものか、分からないものである。まさに「スラウェシ島」の方からこちらへやってきた、という語感がぴったりだった。
 歳ゆえに辛かったのは、五十を過ぎてからできた末娘、産まれつき脚の不自由な恒子との別れだった。インドネシアの地図を見せながら、極楽鳥や鸚鵡の類いの青い鳥なんぞを、鉄砲の弾が飛んでいないジャングルで観察するのが夢だったとか言って、今生の別れのように幼さを残す顔を隅々まで見納めてきた。
 親しくしている同僚の立原にも、勢いのまま無責任なことを言い残してしまった。彼の息子が勤めるシンガポールの電線会社に時間があれば寄ってくる、などと…我が身だけでも来るのがやっとのこと、帰るのもやっとのことは大いに想像できた。
 妻の美智子には、随分と夫婦らしくない別れの言葉を投げつけたものだ。男としてはちょっと反省している。美智子も最後まで美智子らしかったというか、診断書が付いた休暇という逃亡を認めてくれなかった。だから言ってしまった、生意気盛りだった十代の頃の長男も言わなかったようなことを。妻の弟、憲一が、心身症から勤めに復帰して三日後に辞表を出した件について、小皺が増えてきた目尻を憎々しげに見下ろして言い放った。
「はっきり言ってやる。憲ちゃんが悪いのではなくて、笑顔で俺を見送ったことなどないおまえ、そうさ、そういう姉のおまえが悪いんだよ」
 それにしても逃亡していると思うには、少々歳をとってしまった。妻と妻の男関係から逃げること、そして仕事を立派に放り出して逃げること、それを情けないと揶揄する人もいるだろう。そんな世間の思惑を笑い飛ばすべく、離陸してからずっと高揚の一端を探してもみた。そのような高揚は座席の下をどう探してみても見あたらず、子供ような落ち着きなさをスチュワーデスに見咎められて苦笑に継ぐ苦笑ばかり。眼下に島々が見えてきたとき、逃亡とは真逆な高揚がやってきた。忘れていた忌まわしい高揚…悠長な天空からではない、暗鬱な船底から這い出して凶暴さを示せる高揚、それが波頭や椰子の揺れに任せるまま浮上してきた。あの餓鬼のような一兵卒が、今更、逃亡とは笑わせる。ジャカルタの地に足が着くと、美智子や憲一の疲れた目尻はむろん、恒子の桃のような頬まで忘れている自分がいた。
 逃亡した帝国陸軍よりも、追放された都バス運転手でいいではないか。スラバヤからウジュンパンダンに渡るとき、ふと薄ら笑いの後でそう思った。追放されたのである、滑走路の外れでうろうろしていた老犬ように、都合よく追放されたのである。少尉殿、伍長殿、あるべきしてあるように、願ったり叶ったりで島へ追放されて参りました。悠々として追放を受けとめることは、老いの便に乗った自覚に喉を鳴らすようなものだった。
「心の病はありがたいが、犬のように渇いてしまっている」
 容赦ない炎暑にやっと耐えている白豪の老肌など、喜劇の最終章に向かっての狂態からすれば当然なことだ。いっそホテルなどに着く前に、あれが落下してくれたら全てが楽になるかもしれない。
 あれは確かに生きた牛だった。ヘリから吊るされた黒毛の牛が、尿とも涎ともつかない粘りをまき散らしながら、この島の夕暮れに降りてきた日があったのだ。
 しかし今日という日の夕暮れには、あれは贅沢すぎるだろう。あれじゃなくても半ば枝肉になった牛でもかまわない。パイ皮を押し貫くように小気味いい音で、枝肉がこの日本車の上に落ちてくれたら…世界は蚊が叩き潰されるように突然終わる。
「ホテル・キングダムへ行ってくれ」
 座席での死ぬの生きるの終わりたがりの妄想も、運転手と目が合った瞬間に遣りきれぬ酸い吐息に変わる。無事故を誇りとしてきた英雄は、乗客の虚実忙しない眼差しを観察してきて知っていた。
 タクシーを降りて斧のような灼光が頬にあたった瞬間に、素人芝居の大根役者が皮肉るような台詞が口端にのった。
「グッド・ドライヴィング!原住民、いや、インドネシア人の皆さんには分からないだろうが、俺には分かる。なぜなら俺は東京の、花の都の東京のバス運転手なのさ。分かるかい?言葉は勝手なもの、しかし言葉は金銭のように楽々と通用しない、だから言葉には価値があるのさ」
 キングダムは少尉殿が手配してくれた。九州帝大の助手のまま招集された少尉殿、戦後の今では福岡とシンガポールを拠点に中古トラックを豚肉のように売り捌いている。ホテルは少尉殿の取引先の客家人の親族が経営しているとのことだった。しかし予想していた目眩を誘うほどのタイガー・バーム・ガーデン様式には程遠いものだった。一見すれば洒落た警察署である。硬質感を高める艶のある雨雲色のタイルが、外壁に丁寧に張り詰められていた。冷房は肌に感じられるほどではなかったが、隅に配された花入れや小さいバルコニーに置かれたベンチの背の竹が、自然な青々さを保っていて涼しげだった。

「作家だとか言っていたけれど、本当かしら?話せるのは日本語だけみたい。英語は『グッド』と『ビューティホー』ばっかり、あとはそうだ『オッケー』の繰り返しよ」
 ティティエットは何故か可笑しくなって、机上にふわりと突っ伏せて低く笑った。
「ニッポン語まで聞き取れるの?英語とオランダ語だけかと思っていた」
 クニンは目覚めたばかりのような頬で抑揚なく言った。
 二人が話す言葉はアチェ語だった。彼女たちが生まれ育ったのはスマトラ島のサバンである。そこはかつてのイスラームのアチェ王国であり、アラビア語でイスラームの幸福に満ちたという意味の「ダルサラーム」を十年後に冠するアチェ州にあった。インドネシアの中でもイスラーム信仰が強い地域にあってイスラーム教学の拠点の地であった。
「娘がいるらしいの、指をこう並べてね、何歳だと思う?」
 ティティエットは左手の五指に右手の親指と指し指をそえて翳した。
「七歳の娘がいるなんて」とクニンは吐き捨てるように言った。「戦争を知らない世代が観光で来ているわけね、この危険なインドネシアへ」
 ティティエットは翳していた両手を胸元ではらはらと揺らして笑いを呑んだ。
「戦争をご存知のお爺ちゃんよ、スカルノ世代よ、あたしの話を聞いていないから」
 クニンは苦笑しながらホテルの老爺が持ってきたファクシミリを突きつけた。
「あたしはね、あの爺ちゃんが持ってきたこれをずっと解読していたのよ」
「了解、ご苦労様、でもあの爺ちゃんが持ってくると知っていたら、そんなマレーシアの宝飾店の案内なんかにしなくてもよかったのに」
 クニンは小さく舌打ちしてからバルコニーの方へ愛嬌ある丸鼻を向けた。
「その作家さん、また出てきたようね、あなたのことが気になって。四十年くらい前か、彼はどこで銃をぶら下げていたの?」
「ここよ、ここウジュンパンダンがマカッサルだった頃、あの死人のような白い腕で、銃をぶら下げていたらしいわ」とティティエットは味わうように上唇を舐めた。「オランダを追い出してくれたニッポンの恩人気取りで、戦争に負けた去り際に撒いて、すぐに大輪に咲いた花がスカルノ、そしてスカルノという花が散って残った大粒の実が、そう、彼だと思っている」
「ティエンの犬ね」
 ティティエットはクニンへ向かって素早く左手を振って、隣のバルコニーで乾いた音を立てているスリッパに目を細めた。白骨のように晒された日本人の脛の先に蒲色のスリッパが揺れている。従軍して日焼けしていた青年時代を懐かしんでいるのだろうか。屋内で涼んでいればよいものを、こちらの小鳥のようなさえずりが気になって仕方ない、男が日本人だろうと、ティエンの犬、スハルトと大差ないだろう。ティティエットは、また机上にふわりと突っ伏せて低く笑った。
 クニンはティティエットのスター・フルーツの背中へ被さって追い笑った。
「その作家さん、週末に、犬がウジュンパンダンへ来ることは知っているの?」
 ティティエットは優しくクニンの重さをのけてから考える仕種をした。
「どうかしら…ただ、よく見えなかったのだけれど、犬かスカルノか…どっちかの写真を表紙にした本を開いていたわ」
「見せてもらえばよかったのに」
「隠すように背中の方へ仕舞ってしまったので…そうね、無邪気なジャカルタ娘のまま見せてもらえばよかった」

 英雄は震える手で閉じた雑誌の表紙を一瞥した。日本人の成功者のように自信満々のスハルトがいる。今更ながら驚いている旧帝国陸軍の兵卒だった自分がいる。あのスハルトが、日本軍に加担する義勇軍の隊長にすぎなかったスハルトが、日本にとっての終戦の日以降はオランダとの間の独立戦争の大隊長に、鳶が鷹になった。英雄は自分の稚拙な例えに笑わざるえなかった。
「シンガポールなら案内がてら色々と話ができたのに、あの蛭だらけのジャングルのセレベスとはね、遺骨収集団じゃあるまいし」
 乗り継いだ空港で、少尉殿はそう言って端正な横顔を聳やかしていた。ひたすら記憶してきたセレベスは、スカルノが独立を勝ち取って、後を引き受けた反共のスハルトの時代の今、スラウェシと日本人には発音しにくい島名になっていた。確かに少尉殿に首を傾げられるまでもなく、ホテルに腰を落ち着けた今でも、自分の内に沸き続けてきたスラウェシに対する感慨、そのひりつくような懐かしさ、それは明瞭にかたちをもって納得させるものではなかった。
「懐かしい、それでいいじゃないか。人は、誰もが各自の島に戻るのだ。だから俺はスラウェシ島に戻ってきた」
 バルコニーからは、意外に二階建て、三階建てのコンクリートの点描が望めた。真下にはホテルの建築の際に足場として使用された竹が積まれている。一段落したような中国人コックが、ボーイから口中刺激の実をすすめられて、喧嘩をしているかのように広東語をならべて断っていた。
「あいつらの父親や母親、いや、爺さん婆さんにも、銃を向けていたわけか」
 英雄はそう呟きかけて、誰かの抉るような視線を感じた。隣のバルコニーからだった。緑星状のスター・フルーツのプリント柄のシャツが見えた。
 縁無し眼鏡の奥で睫を伏せてしなやかに恥じらい笑んだ娘は十代を思わせた。そのときティティエットは、既に三十歳だった。随分と痩せていて、怜悧を直感させる広い額に後れ毛がかかる。怯えるように部屋の中へ戻る時に、束ねられた長い髪が、乱舞するスター・フルーツの背中を柔らかく打った。
 英雄は彼女の背筋に直感した。その翻ったしなやかな背は、放たれたばかりの弓反り、待ち受けていたかのような殺意だった。そうだった。熱帯にあっての若い女の殺意、両生類が察過したばかりのような甘苦い殺意、英雄が求めていた懐かしさはこれだった。

                                       了
セノ・グミラ・アジダルマ短篇集 (アジアの現代文学―インドネシア)

セノ・グミラ・アジダルマ短篇集 (アジアの現代文学―インドネシア)

  • 作者: セノ・グミラ・アジダルマ
  • 出版社/メーカー: めこん
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: 単行本



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