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プレスコット・カップ   Vladmir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 レフ・キニスキーの半生は、ベースボール愛至上の合衆国にあっては、いささか欧州動向に寄ったフットボール浸りの半生だった。
 長い黒髪を靡かせてボールを追っていた「ジェロニモ」という綽名の小学生は、高校生になると隣国メキシコのサッカーファンからロシア系ゆえに「雷帝」と呼ばれるようになっていた。実際に岩をちぎり投げそうな上半身の筋骨に加えて、下半身は別の神が創造したように重心が低く、すでに剛毛に被われた脚は凄まじく回転する。そして存在感のあるミットフィルダーとしては、何はともあれ充分に若かった。レフはハイ・スクールの全米選手権試合において、ロシア人の血統としての倒され強さを、ヨーロッパのクラブチームの監督やコーチ達に見せつけた。そして記者達にとりかこまれては、ポルトガル人らしい憂いを含んだ瞳を輝かせて、いささか大人びた受け答えをした。
「僕の母はポルトガル人ですから、父がフィッシングのガイドとしてハインズシティーの方へ行って留守にしていると、必ずと言っていいくらいポルトガル・リーグに熱狂している友人から貰った塩っ辛い鱈、干した鱈、これをミルク煮にして食べさせられました」
 レフは母方の祖母が作った鱈のミルク煮を一度だけ口にしたことがあった。
「今日のゴールは、母が生きていればとても喜んでくれたでしょう」
 レフはマーリンズの日本人外野手に夢中になっていた母の野球帽を葬儀の翌日に捨てていた。
「ええ、そうです、父の方は純粋なロシア人の家系です」
 レフは父方の祖母が「グルジアニ」のための葡萄を栽培していたことを本人から聞いていた。
「父のガイドとしての記憶力とサーヴィス精神は抜群です。クーラーにはフライパンとバターとパプリカがいれてあって、ニューヨークのレスリングのヘビー級チャンピオンなどをもてなしてきました。父ほどバス料理に堪能なガイドもいないでしょう」
 レフは父が捌くバスの胃袋から出てきた緑色の蛙を思いだすと何時でも嘔吐できた。
「え?その質問はひどいな。いくら父が釣り馬鹿なアメリカ人でも、内面には文学好きなロシア人の血が隠れているのですよ」
 レフは無論、父親ミハイルとて「カラマーゾフの兄弟」の英訳の一行とて読んでいなかった。
「ゼニト?ああ、サンクトペテルブルクですよね。ゼニトから呼ばれたら…よく考えて返事をします。ポルトかスポルディングから呼ばれたら、喜んで行きますけれども」
 二週間後にオランダのPSVと契約した時、レフは十代のアメリカ人のサッカー選手としては最高の契約金を手にしていた。
「セントピータースバーグの父の店に全部注ぎ込みます。ええ、まだ始めたばかりの店ですからね。これから儲けさせてもらいますよ」
 レフ・キニスキーの半生は、消費と享楽の合衆国にあっては、いささか堅実でストイックに見えるフットボール浸りの半生だった。

 八月に開店したミハイル・キニスキーのビア・レストランは、タンパ湾を望める高層ビルの八階にあった。連日の盛況に気を良くしていたところに、一粒種の自慢の息子が顔を出すということで、父親としては上機嫌極まりなかった。PSVのキャンプ地は、前年までは主にスペイン南部だったが、レフの人気を当て込んだのか、急遽マイアミに変更されたのである。さらにレフのお披露目ともなる練習試合が二日後に行われる予定だった。相手はボストンの「リヴォルーション」とかいうチーム。遥々、北から飛んで来てくれるメジャーリーグ・サッカーのチームだったが、PSVのお相手に選ばれたならば願ってもないとのことだった。
 父ミハイルはレストランの入口の歓声を耳にして狂喜した。伝えられていた時刻より早く息子レフが姿を現したのだった。
「レフ!ちょっと来てくれ」
 真紅のブレザーのキニスキー氏は顎鬚に泡をつけて息子を呼んだ。
「こちらは、フロリダ…えーと、フロリダ牛肉振興協会の会長でいられるスレイター氏ご夫妻だ。そして、美しい、とても美しい、お嬢様たちお二人」
 レフはパインナップルの輪切りがのったハンバーグ越しに、太りすぎた夫妻の脂ぎった手を握った。
「おまえも見てくれ。この分厚いハンバーグに『キニスキー・ゴール』か『雷帝の朝食』という名前をつけようと思っているんだ」
 息子は感激して父に抱きついた。朝から満腹ではトレーニングの障害になる、と内心は飽きれている。姉妹のうちの姉らしき辛辣そうな金髪の方は、ナイフを外科医のように操って焼け具合を気にしていた。さらに煩そうな妹は、冷めた一切れをレフに食べてもらおうと差し出す。レフはやっと飲み込んで、いまだテレビ局にもサービスしたことのない「ゴール!」を連呼した。
「次にこちらは下の…六階と七階のアスレチックジムのオーナーで、セントピータースバーグ青少年非行防止推進会の会長もしていらっしゃるブラックウェル氏だ。そしてジムのトレーナーのワイスコフさん。ブラックウェル氏の奥さまは、なんとアイントホーフェン生まれということで、あちらでボールを蹴っているおまえをとても注目されていらっしゃるそうだ」
 指先と目使いがやたらと落ち着きのないブラックウェル氏は、顎鬚に滓をつけながら猛烈な勢いで人参をかじっていた。まるで出走前の駄馬だ。トレーナーは流し目が気味悪いだけの金髪の短足男。どうやら二人はかなり深い仲らしい。レフもすすめられるままに人参をかじって言った。
「アイントホーフェンにはこんなに甘い人参はありませんよ」
 ブラックウェル氏はすでにかじるのを止めて、レフのジィーンズの下の大腿筋に思いを馳せているようだった。
「こちらの美しい方、こちらは南米サッカーに御詳しく、世の男なら誰でも知っているスーパーモデルのパティ、パトリシア・ソーンさん。こんなに近くで拝見できるなんて…素晴らしい。そして、こちらはリチャード・ボウルズさん」
 パティはあたりを睥睨するように堂々としていて、褐色の右手にシャンペンの煌きを委ねながら、左手の銀のマニュキアを噛んでいた。仏領ギアナで発見されたパティ・ソーンは、金属的な感触を想わせる両脚をかなり色落ちしたジィーンズに覆わせて、純白のシーツが勝手に絡みついてきたようなブラウスで女神然としている。ブレスレットの黄金とスニーカーの金紐が、人間のものとは思えない艶やかな赤褐色の腕と脛を際立たせている。並んで座っているボウルズ氏は、ヘミングウェイばりの髭をたくわえていたが、眼が柔和なことを除けば、貧相なブレザーの袖にタルタル・ソースを付けた小柄な老人だった。
「明日の朝、ドン・セザールの前のビーチを走ってみない?」
 パティが他の客の視線を弾き飛ばすようにテノールを響かせた。レフは少年めいた困惑
をあえて繕ってみる。ロシア人は権力と美女の前では農夫の様でなければならない、やがてくるアメリカ的な勝利のために。そして彼女は意外に賢明だった。同じスーパーモデルのジャンヌ・アルベルトーニを話題にして椅子をすすめる。ところが、いつのまにか父ミハイルが充分に魅せられたらしく、彼女の左側の椅子に象のような腹を置いて話しはじめた。
「ミス・ソーンは何歳でデヴューなさったのですか?」
「御子息『雷帝』と同じくらいでしょう。テラスに出て十三歳のジャンヌの記事をながめていたら、母とフランス語のクリスティバ先生が息を切らせて上がってきたの」
 ボウルズ老人はステッキで右側の椅子の脚を軽く小突いてレフにすすめた。老人は孫が席に着いたのを確認したかのように微笑んだ。そして予想だにしなかった囀り声で、まずは自己紹介をはじめるやいなや、蛇口をひねったように話し出した。
「…『雷帝』はまだ御若いからご存知ないだろうが、戦後のドイツのフットボール、失礼、サッカーの再生に、私はこれでもかなり奔走したと思っている。あの頃は、やがて『皇帝』と呼ばれるようになる男も『雷帝』とかわらぬ年頃だった。今日までいろいろあったが、こうしてタンパ湾の風とシャンパンを楽しんでいても、サッカーはやはりドイツさ。そう言えば、この前、地元のローカル新聞が、ドン・セザールに常泊している私をナチス扱いしてくれた。たしか…『本名、リヒャアルト・ボルグ、逃げ込んだペルーで金塊を発見した男』とね。たしかにアマゾンで僅かばかりのオパールを掘り当てたこともあるが、私は山師ではないし…母方の祖母は歴然としたユダヤ人だ。それと、私がフットボール、失礼、サッカーを好きだからといってアメリカ人らしくないとか言う人もいるが、サッカーのほかに女と…このチキンよりも繊細なこの肉、この肉が大好きなどこにでもいる助平爺さんにすぎない」
 老人は卵白に包れて揚げられた木の葉のような物にタルタルソースをつけて微笑んだ。
「蛙の優美な脚だよ。この店では唯一、人気のないビールの肴さ」

 アトランタで行われたメトロスターズとの福祉募金を兼ねた交流試合で、嘗めてかかっていたレフは執拗なレフトバックと交差して左膝の骨にひびを入れてしまった。試合中は冷静を保っていたような父キニスキーは、引分けに終わってはしゃぐ帰りの観客の群集の中で突然に爆発して、バスに乗り込むブラジル出身のレフトバックを追い掛け回した。すかさず地元紙の記者が、狂った白熊の父にインタヴューしたものだから「教えてやるよ。少々専門的になるがね、合衆国でサッカーの人気がいまひとつなのは、ヨーロッパ型のコンビネーションと品格を導入しないからだよ。そもそも小技がきくからといって、教養の欠片もないような黒んぼ小僧まで集めているのが間違いだ。そのうちナイジェリアの奴とか、イランの奴とかまでやってくるだろう」と激白して、スポーツ紙三面記事の週末の顔になった。
 レフ自身も「コーラル・ピンクに遊ぶパティの若い恋人」として騒がれはじめていたから、マスコミは無論、父親やトレーナーやファンの慰めにも辟易せざるをえなかった。
 パティはいつものように賢明だった。彼女は乱暴者キニスキー氏の店で、地元名士夫妻を招いてニューヨークの若手デザイナーによるファッション・ショーを開催した。「モデルは金玉混合のアメリカ人に限る」いうフレーズも彼女の案。親馬鹿ミハイル・キニスキーも、パティに教え込まれた言葉を苦笑しながら繰り返すばかりだった。
「私も典型的なアメリカの父親のひとりにすぎません。つまり、ひとり息子への愛情は露骨で、セントピータースバーグでの毎日に追われ、フロリダで釣るバスが世界一だと自慢して、毎日毎日、合衆国を、この国を理解しようと短絡な頭を悩ませています」
 黒檀に彫像されたようなパティ自身がオープニングを飾ると、嫌みな姉妹を伴った牛肉振興協会会長夫妻と、ブラックウェルとワイスコフの青少年非行防止推進会のカップルが、ボウルズ氏からのそれぞれの会への多額の寄付金とファッション・ショーへの賛助金について礼の言葉を述べた。肝心のボウルズ老人はテーブルの下を捜してもいない。心不全が思わしくなく療養中だと聞いていくつかの嘆息が漏れ聞こえた。
 リチャード・ボウルズは、ファッション・ショーが開催されていた同時刻、ドン・セザールの前浜で見知らぬ幼児とボールを蹴りあっていた。
 老人は陽が傾きはじめるとドン・セザールのテラスへ戻った。そして空輸されてきた白桃の皮を苛々と自ら剥きだした。やっと剥き終わって鼻歌まじりにミキサーを回していると、少々うな垂れたレフ・キニスキーが左脚を庇いながら入ってきた。テラスの椅子をすすめながら、老人はシャンパン壜へ手を伸ばして上機嫌だった。
「ビールばかりではいけない。私の長寿の黄金液にお付き合いしなさい。ゴールデン・フリクシール…熟しきった桃のジュースとシャンパンを混ぜただけのものにすぎないがね」
 レフは差し出された黄金液のグラスを、老人と同じように夕陽に翳して彼方を見ようとした。
 タンパ湾には曳航する船が少なかった。小さなハリケーンが接近していることは確かだった。ちくちくと合図するように鋭角な白波が立ちはじめる。浜辺に人影がまばらになり雲が濁りはじめると、いつも見過ごしているはずの波の稜線が人を沈思させる。ドン・セザールの前海であろうと危険なものはやってくる。予測できない彼方はすぐそこにあるのだ。
 風がドン・セザールのピンクの壁面を嬲りはじめていた。嵐の夜がやってくる。カリブ海の生臭い雨が滝のようにピンクの老婆に降り注ぐことは間違いない。そしてうら若くデヴューして間もない男が傷を負ってここにいた。
 レフは若くて惨めな自分もあることをはじめて知った。自分は老人に招かれてグラスを握らされて陰りゆく海を見ている。多少の傷は栄光にはつきものだ。しかし怪我の際は見舞いの花束に埋もれていて、ブルーネットの恋人が付き添ってくれているはずだった。そもそも狂いはじめたのは帰国してからだった。この海風のように無礼で、この壁面のように破廉恥極まりないこの国に帰ってきてからだった。
 誰が「雷帝」などと場違いな名前をつけたものか。レフの夢はヨーロッパではない、南米でもない、ただ合衆国のフットボールにあった。それはすべての肌の色と、すべてのチーム戦略と、すべての個人能力とを融和させた夢だった。
 二人の前の風景が諦観に似た安らぎに塗りつぶされようとした時、一隻のクルーザーが猛烈な勢いで波を蹴散らしながら湾から出ていった。自殺行為だ。それとも追われているのだろうか。いずれにせよ、あれも徒労なのだろうか、ボールを蹴るように。
 レフは黄金液を飲み下して沁みるように落ち着いていった。自分の膝は誰よりも愛おしい。そして賞賛も罵倒もただの潮騒でしかなかった。やがて割れた膝の嘶きが生来のもののように思われてくるから不思議だった。
 老人が桃の皮を摘みながら言った。
「中へ入ったほうがいいんじゃないかな。額の曇り具合が『雷帝』の肖像画そのものだ」

「僕も彼女もあなたに期待しているのはお金だけなんですよ」
 レフは黄金液をかみ砕くように飲み干した。
「彼女、パトリシアは君が思っているような女性ではない」
 老人は難題を作成する教師のように上目遣いに見上げた。
「財産を持った哀れな老人が、モデルの若い娘に食い物にされ続けてきて…、娘は娘で年下の若い男が現れるやいなや…、とよくある話もそれなりにいいけれどもね。怒らないでくれよ。少年というものは、ボールばかり蹴っていると想像力の成長が止まるものらしい。そして、うまい具合に怪我をしたものだ。落ち着いて聞きなさい。そもそもパトリシアは私の娘だ。そう驚くこともない。ペルーという国がある。退屈な話なので、聞き流してもらっても結構なのだが…ペルーの南東部の町クスコ、そのクスコの町で、クアルトネス通りにグラナダ通りが突き当たる所、そこにスプリングフィールド出身で、奴隷の子孫にあたるソーン医師の診療所があった。サミュエル・ソーンは頭脳明晰だったので、恩師の伝手もあって、ロチェスターで医学を修めることができたらしい。そして周囲は地元でとは言わないまでも、ミズーリで開業するものとばかり思っていたのだが、医師に言わせれば神のお導きによってペルーに渡ってしまった。さて…その頃、君と同じくらいの年齢だった私は、チチカカ湖を渡ってプカラの地下神殿を調査し終わっていた。もちろん一人だった。同行して出発した友人二人は、パラナ川とアタカマ砂漠で事故と衰弱で死んでしまっていた。狂ったような私一人が、噂のマチュピチュをひたすら目指していた。つらいの一語につきた。栄養失調が祟って、腰が痛み視力が落ちていた。何のためにだって?有名になりたかったのさ。アメリカ大陸をもっともっと掘り尽くしたかったのさ 。どこまで話した?そうだ、プカラの市場で出会ってケチュア語を教えてくれた少女、その少女と朝寝していた時だった。少女の兄にいきなり槍で脇腹を刺された。軽症だったが、炎天下の山中を逃げ回っている間に膿を持ちはじめていた。加えて飢えも追っかけてくる。サントスに上陸して以来、一年半が過ぎようとしているのに、密林の食に適するような果実をも見極められなかった。そして川岸で完全に気を失いかけている時、水際で鳴き声を聞いた」
「鳴き声?」
「そうだ、蛙の鳴き声を聞いたんだ。切なくなるほど清涼な蛙の鳴き声だった。あれは両脚の間にいっぱいの卵を抱えていて、手のひらほどもない小さい蛙だった。それを捕まえて食べた。それが最初の蛙だった」
 レフは口中に苦みを想像して顔を背けた。
「…なんとかクスコへたどり着いた。記憶が断片的だが、そのままソーン医師の診療所へ担ぎ込まれた。そこで医師の娘、父親の助手として小児患者を診ているパトリシアの母に出会った。アダという名前だったが…パトリシアは、娘はアダに生き写しだ。さて、生涯最良の日々がはじまる。私は療養しながら少しずつ診療所を手伝いはじめていた。休日には三人でサルカンタイ山を目指したこともある。山中でアダは皮膚に毒を持つ蛙を教えてくれた。もはやマチュピチュなどはどうでもよかった。そうさ、蛙を食いはじめてからすべてが変わりはじめた」
 レフはシャンペンの壜を取りに行って窓外の風雨に驚いていた。
「…そのサルカンタイ山の麓に湧き水を囲った廃墟があって、辺りをアダも医師も『プレスコット・アベニュー』と呼んでいた。プレスコットの遠縁で、ピサロの信任が厚かった大隊長がいて、やはり姓はプレスコットといって、その辺りが大隊長プレスコットと一族の邸宅と墓地があった所らしい。廃墟跡は荒れ果てて瓦礫も何もあったものではないが、墓地周辺は広大ゆえに、山里から移住して芋畑を耕している一家の小屋があちらこちらに見受けられた。診療所の休日の午後は素晴らしかった。私はそこでフットボールに、サッカーに出会ったのだ」
 レフは痛めた左膝を庇いながら振り返った。
「これからが愛すべきサッカーの話だ。そこ『プレスコット・アベニュー』には赤土の立派な競技場があった。アダに馴染んでいた子供たちが、チャピマルカから移住してきた子供たちとの試合観戦に招待してくれた。彼らは裸足、裸足でボールを蹴ったことがあるかい?そうか、裸足どころか、赤土の上でなどボールを蹴ったことがないのか…彼らの裸足の足は木靴のような音をたてた。ヘッディングの音はゴールデンホーンの雄同士の頭突きそのものだ。私は試合が始まってすぐにボールが異常なことに気づいた。アダは知っていて黙っていた。蹴ってもあまり飛ばない。重そうで意外な方向へ転がって子供達を沸かせる。歪なのだ。何だと思う?」
 レフはグラスを握りかけたまま老人を凝視していた。
「大隊長プレスコットの頭蓋骨だよ。そう教えてくれた時のアダ…彼女の無邪気な愛らしさといったら…今、思いだしても、例えようもない幸福な時間だった、私にとって。ボールの話をするとだな、頭蓋の顎を外し、目鼻の窪みにはコルク屑のような木屑を埋め込んで、周りを漆喰のようなもので球形に仕上げてあった。これだけではせいぜい一試合しかもたないから、全体に麻布を貼りあわせて、天然ゴムに似た樹脂を表面に塗っていた。よくできていたよ。私自身、プレスコットの孫らしい頭蓋骨の修理をしたことがある。そう、頭蓋骨そのものではなくボールの修理をね」
 レフはつられて小さく笑った。
「楽しかったよ。そのうちに昼間は医師とアダを手伝って、夕方からは子供たちと頭蓋骨ボールを追った。やがて私やアダと同年齢層までもが集まりはじめた。閑農期には隣村から一日がかりで試合に来る一団もあった。プレスコットの子孫だという者まで見に来るようになった。そして『プレスコット・カップ』という六チームによる年齢制限なしの総当たりカップ戦を催したんだ。素晴らしかった。評判になりすぎた。私もアダも少々はしゃぎすぎた…」
 レフは言いかけてシャンペンが一滴もないことに気がついた。
「もう一本持ってこさせるまえに話を締めくくろう。中傷と言えば中傷だったのだろうが、若者にとっては信じ難い狭量な世界の圧力が、墓地まがいの競技場から子供たちの楽しみを追いやってしまった。想像してごらん、あれだけ歪なボールを、大変な才能で苦もなく操る少年もいたんだ、君のように。まったく酷い中傷だった。だから、頭蓋骨ボールを大々的に取り上げた新聞社の新聞だけは今もって読まない。それから?それからは私とアダの蜜月逃避行さ。アマゾンを下ってギアナ高地へ辿り着くまでに六年を費やした。アダの父、ソーン医師はフジモリが大統領に就任した翌年に亡くなった。妻?アダはダカールの海岸で療養している。乳癌の手術の後は、年に二、三度しか会ってくれない。何だって?大きい声で言いなさい。孤独?私の孤独…そんなものは裸足の少年の可能性からすれば無能な大人の傲慢でしかない。私のような悪党老人が賛美するものは才能と黄金だ。老いてこそ強欲でなければならない」
 レフは遮るように言った。
「僕の考えている将来の合衆国のフットボール、いや、サッカーは、その『プレスコット・カップ』のような大会の開催にあると思うのです」
 ボウルズ氏は覚めた眼差しでレフを見据えた。
「五十年後に同じことをほざくがいい。『プレスコット・カップ』とはな、残虐と殺戮の果てに頭蓋をボールにして無知な者が遊べただけのことさ。そもそも『プレスコット・アベニュー』には才能も黄金もなかった。あったのは貧困と焦燥だけだった。しかし、今やこの世界では、頭蓋骨に似ても似つかないボールと芝生の上には才能と黄金が吸い寄せられる。君もあの程度の契約金に満足しているようなら、サッカーなどやめたまえ」

 レフは凪の前で居眠っているように寡黙だった。浜辺はトルコ石の朦朧とした中に取り込まれたように人気がなかった。父ミハイルは傍らで缶ビールを握ったまま寝ている。老けた顎鬚の上、塗れ乾いた砂が目尻から頬へ辿り附いていた。
 トレーナーとの約束の時間だった。
 レフは砂をはらって左の素足をシューズに押し込んだ。全霊をもって感謝すべく膝にくちづけする。父親を一瞥して、ドン・セザールの最高階を見上げてもみる。髪をかきあげると、指先に血を豊満させた若い頭蓋が確実にあった。

                                       了
楽園への道 (河出文庫)

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