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馬酔木   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 天智帝と天武帝の葛藤兄弟、あるいは帝室における兄弟にありがちな葛藤について気になっていたのは、白村江での百済の役についての斜め読みから思いついた挿話としての「猿梨狩り」、その拙文よりも遥か三十年近く前からのことだった。尤も、誰もが空覚えさせられる六四五年の大化の改新が、太古ロマンという甘味の舐め舐め記憶の最初だったことは言うまでもない。そして大津の理知的な天智帝を、颯爽とした純白のスニーカーを見るように遠望しながら、足元に鈍重に置かれた漆黒のスニーカーのような天武帝、吉野の山中を放浪する情念的な大海人皇子が気になっていた。それも日本人に生まれて弟分の立場にある者にとっては然りか。


六七九年(天武八年)五月七日 夕刻

場所
 吉野宮の深奥に設けられた腰ほどの高さの高床に酒盛りの台

登場人物
 天武帝
 皇后…鸕野讃良皇女
 草壁皇子
 大津皇子
 人豚A
 人豚B
 人豚C

(宴も終盤、高床上に身分を隔する段差はなく、中央に天武帝 左脇に皇后となった鸕野讃良皇女、右脇に草壁皇子、その隣に大津皇子、各々すでに手酌で飲んでいて、皇后は黍のような植物を噛んでいる。高床の真下には草壁皇子によって選抜されたという三人の人豚が、草壁皇子が放る食い残しにだけ反応している)
天武帝 吐き気がする。
皇后 ならばそろそろおやめなされ、大海人の兄、失礼、帝は、大津や川島の年頃から三日三晩とは飲めぬ質でいらっしゃったのですから
天武帝 ふんっ、狐の妹、失礼、皇后の三日前からの同じ口上、もう聞き飽きたわ。吐き気がするというのはだな…大津は先の妃、我が狐が産んでくれた子よろしく(にこやかな大津に目を細めて)白々とした顔で飲んでいる。しかしもう一人の川島、いや、一人ではない、そもそも高市と川島はどこへ行ったのだ?
草壁皇子 父上、失礼、御帝さま、そのう…高市の兄らは、とにもかくにも面白くないのでしょう。
大津皇子 兄上、その申されようでは…父上母上のお召しで
草壁皇子 とにもかくにもだ、父上母上ではなく、御帝さまと御妃さまを拝するに、この草壁とそなた大津の後に連なること、いいか、高市の兄らにとってはだな、それはそれは面白くないことなのだ。
大津皇子 いやいや、川島の兄などは大いに楽しみにしていると
草壁皇子 大津よ、そなたも、そろそろだな、いや、嫌がおうにでもだな、我らと彼らの見方の違いが分からんでか?
大津皇子 兄上、私が申しあげているのは、水入らずの親子だけのときゆえ、そうも露骨な申されようは
草壁皇子 (食い残した骨を叩きつけるように下へ放り、人豚三人が群がる)そうよ、水入らずの親子だけのときゆえ、このように正直に申し上げているまで(群がる三人に向かって盃の酒を放りかけて)仲良うせい兄弟は、いや、おまえらは、そうか兄弟ではなかったな。ふっふふふ(後に続く高笑い)
皇后 二人とも、水入らず水入らずと言いながら、そうして自分らは高市らを気にして…
草壁皇子 気になどしておりません。
大津皇子 気にしているのは兄上お一人で
皇后 (大津の方へ抑えるように骨を掲げて)草壁や、それはそうと、母を思うのであれば、次の宴からは、この豚の匂いはやめておくれ。(口元を押さえながら、食い残した骨を下へ放り、人豚三人は草壁の頷きの後に群がる)そもそもじゃ、席につかれた帝のお心がお乱れでいらっしゃるのは、この三匹の豚ゆえじゃ。
天武帝 (酌をさせようと盃を皇后へ突き付けて)皇后よ、それこそいらぬ気遣いというものじゃ。草壁よ。
草壁皇子 (持っていた盃を落として平伏、その盃をたまたま人豚Cが手にする)はっ、ははーっ。
天武帝 よいか、次の宴では、高市と川島、そして彼らが好みの侍女も必ずや列席させよ。これは草壁、大津も同じこと、最も好みの侍女を後ろに侍らせよ。
草壁皇子 好みの侍女と?(大いに皇后の横顔を窺ってうろたえる)好みの侍女とは
大津皇子 兄上、好みの侍女とはお側の侍女に他ならないではありませぬか。兄上ならばあの女子(暮れてきた空を仰いで月を探す)、あれあれあれ、あの女子ですよ。
天武帝 (盃を皇后へ突き付けて高笑い)大津よ、あれでは分からぬではないか。
皇后 (大津の方へ酒杓を掲げて)なんとした物言いよ、恥ずかしい!
(帝は皇后の手から酒杓を取り上げて自らの酌で飲みはじめ、しらけが伝播したように皇后は黍を食み皇子二人も手酌で飲みはじめる)
人豚A (手を伸ばして人豚Cから盃を取り上げる)俺には兄弟なんていなかった。兄弟ってなんだ?
人豚B どうしたんだ、豚の中の豚が。皇子に聞かれたら殺されるぞ。
人豚A 心配するな。草壁の皇子はよ、川で溺れてから耳の奥がただれてよ、聞こえが悪くなっている。おまえには兄弟がいたんだろう?
人豚C 大津の皇子は地獄耳だっていうぜ。
人豚B (人豚Cの口元を塞ぐように手を翳して)ああ、兄貴がいた。そうさな…敵だな、兄弟は。
人豚A ほう、敵か。それなら俺には敵がいなかったことになるが
人豚B 最初の敵だと言ってるのよ。
(人豚たちの会話が聞こえてか、たまたま酔いにまかせた連想によるのか、不愉快な顔に一変した帝が皇后を、同じく一変した大津が草壁を、睨みつける)
天武帝 そういえば川島は兄に似てきたと思わんか?
皇后 川島が兄に…兄とは、その、先の帝のことで
天武帝 そうよ、先の帝、神仏もひれ伏した天智帝、そうよ、そなたの御父上よ。
皇后 その…子が親に似るのは致し方なきこと
天武帝 その川島がだな、馬酔木に通じておって、大いに虫よけの薬を広めておるそうな。
皇后 虫よけの薬ですか…それはそれは草木に詳しい川島らしき行い、のう、草壁や。
草壁皇子 はぁ、詳しいらしいですな、その…
大津皇子 馬酔木でござるよ、馬酔木。
草壁皇子 アシビくらいは知っておる。(大津の笑みにいら立って)おまえはそうやって、いつも兄であるわしを見下げたような笑いを
大津皇子 ア・シ・ビであってアケビではござらんよ。
皇后 大津や、兄を笑うなどあってはならぬこと!
天武帝 声を張り上げるな。わしが言っているのは川島のことよ。草木に詳しい川島、歌詠みに秀でた川島、荒馬を難なく乗りこなす川島、はてはて、やがては川島が世に…などとは思いたくもないが…
(帝は大げさに嘆くしぐさで自らの酌で飲みはじめ、またしらけが伝播したように皇子二人も手酌で飲みはじめるが、皇后は険しい表情となり黍を掴んで人豚Aに投げつける)
人豚A これはこれは俺にくだされた。しかもあのような
人豚B やめておけ、殺されるぞ、我らは豚。ところで、(人豚Cに向かって)おまえにとっては兄弟ってなんだ?
人豚C 俺かい、そうだな、兄弟っていうのは二匹目の犬、ってとこかな。
人豚A 犬と、二匹目の犬と言ったか…(人豚Bに向かって)おまえは、たしか敵、と言ったよな?
人豚B ああ、敵も敵、最初の敵、と言っただろうが。
人豚A 最初の敵か…俺に兄弟はいなかったが、もしいたとすれば、(骨を翳しながら)食い物をこうやって取り合うわけだから、そうだな、そりゃそうだ、最初の敵だ。よく分かる。
人豚C (唐突に身を投げ出すように仰向けに横たわり、肘をついて帝の方を見上げる)俺には妹がいた。
人豚AB (声を揃えて)脅かすなよ。
人豚C 妹を敵だと思ったことはなかった。妹はよ、自分がもらった食い物をな、自分が食わずにな、俺にくれた。
人豚B そりゃあいい妹だな、分かったから、こっちへ引っ込めよ。殺されるぞ。
人豚C 上ではよ、馬酔木のことで騒いでいるようだが
人豚A 本当に殺されるぞ、おまえだけじゃなくてよ…こっちへ引っ込めったら。
(AとBはCを引っ張るようにして高床の下へ引き入れる)
人豚C 俺はよ、草壁の皇子とは違うから、小さい時から知っていた。
人豚B 小声で言えよ、殺されるのはおまえ一人だけでな…何を知っていたんだ?
人豚C 馬酔木の根っこを食わせた犬がな、ころっと死ぬことをな。
人豚A そりゃあ虫を殺すくらいだから、犬も殺すだろうよ。
人豚C (はたと思い出してくつくつと笑う)俺は馬酔木で殺した犬をな、親方の元へ持って行った。親方は喜んでくれたっけ。
人豚B 俺も今日まで犬は随分と食ってきたよ。
人豚C 話はここからさ、それまで俺には三匹ほどの犬がよくまとわりついていた。しかしだ、いつのまにか犬がいなくなっちまった。殺して食い尽くしたわけじゃねえ。
人豚A 犬はおまえよりも頭がいいからな、仲間や家族と同じように食われちゃならないと、逃げたんだろうよ。
人豚B 食っておきながらよ、こう言うのもおかしいが、犬は可愛かったよな。いつも俺たちのそばにいた、兄弟のように。
人豚C (また思い出してくつくつと笑う)だからよ、腹が減った親方はよ、二匹目の犬を食わせろと言ってきたのさ!
人豚AB (声を揃えて)二匹目の犬って?
(帝と大津が呼応するように盃を落として膠着する。皇后と草壁はそれを見て、不可思議な顔のまま互いに見合って微笑む)
天武帝 何たる世であることか、これが、人が人を喰らう兄の世であったわけだ。
皇后 おやめなされ、ご酒が過ぎておられる。
大津皇子 犬を馬酔木で殺して喰らうなど
草壁皇子 人豚が申しておることなぞを真に受けてどうする…そなたは国を仕切り
天武帝 聞くがよい、大津が申しておるのはだな、犬を喰らうことでさえも恥ずかしきこと。それは蝦夷や熊襲でも、稲作を知らず、ひたすらに狩ることで生きてきた者たちでも、狩りの鼻としての犬を喰らうことは、人として恥ずかしきことなのだ。
皇后 ですから、帝、人豚が申しておることゆえ
大津皇子 仰せの通り、文字を持ち、御仏の教えに習おうとする帝の護国にあって、犬を喰らうなどと
草壁皇子 ああ、なにゆえ、そなたは酔うとそうまで煩そうなるのじゃ!
天武帝 煩そうだと?わしが煩そうだと言うたか?
草壁皇子 いや、その、酔うと煩そうなるというのは大津のこと
天武帝 酒に酔うて煩そうなるのは然り!よいか、魏の武帝は、酒に酔うと戦死者のために詩を読んで音曲を絶やさなかったとか
皇后 おやめなされ、ご酒が過ぎて…大津や、そなたが、そなたが帝の酔いを煽っておるのじゃ!
天武帝 声を張り上げるな、と申しておるだろう。
大津皇子 まこと射られた雉でもあるまいに…
草壁皇子 なんと、大津よ、母上に無礼であろうが!
天武帝 草壁そなたもじゃ、声を張り上げるな。
(帝は苦笑したまま高笑いに乗じて後、皇后を一瞥してから膝を叩いて席を立って下手へ)
大津皇子 御通じてございますかな、ご一緒仕ります。
(大津も気分が良さそうにすっくと席を立って帝の後を追う)
人豚A 間違いなく殺されるぞ、俺たちは。
人豚B おまえを信じて来たんだぞ。おまえがよ、草壁皇子が下さる残りなら間違いねえって、そう言ったから
人豚C し、信じるだと?(くつくつと笑いだして哄笑となる)
人豚AB (声を揃えて)静かにしてくれ!
皇后 (自らの酌で盃を口にしながら)酔うと、ああまで煩そうなるのは、やはり血筋であろうか?
草壁皇子 母上、母上も母上で、下の人豚が申しておることなぞを
皇后 (飲み干してから盃を草壁へ突きつける)もそっと注いでおくれや、帝の次の帝。
草壁皇子 (仕方なく酒杓を取って)次の帝は高市の兄でござろうよ、誰もがそう
皇后 (苦笑しながら盃を落とす)先の誓いを忘れたのかえ?まったく、親の心を子は知らず…
草壁皇子 吉野宮での宣誓であれば
皇后 もうよい、もうよい。それよりもじゃ、明日早々に川島を呼びつけよ。何故、今宵の宴に参らなかったのか。
草壁皇子 それはやはり高市の兄と同様に
皇后 川島の気持など知らぬ。帝が、御父上が、娘である泊瀬部に会えるのを、それはそれは楽しみにされておったのに、何とも遺憾なことであったと。
草壁皇子 さすればですぞ、我らもですな、わたしは阿閉を、大津は山辺を、この席に
皇后 そこまで川島はそなたを問い詰めん!
草壁皇子 はぁ、おそらく、川島は「ご容赦くださりませ」とか
皇后 よいか、そなたがご容赦を取り次いでおこう、と言って、ここからじゃ…
草壁皇子 はぁ、言ってから…
皇后 よいか、帝が、川島が広めているという虫よけの馬酔木を耳にされて、根と葉と花を試してみたく、少しばかり所望されておられると。
草壁皇子 はぁ、わたしがその根と葉と花を貰い受けてきて…どうします?
皇后 まずは下におる豚たちにでも試してごらん。
(三人の人豚は目を丸くして三者互いに見合う)
人豚C この頭の中の虫、ずっと痒いからよ、とってくれねえかな。(くつくつと笑いだして哄笑となる)
人豚AB (声を揃えて)静かにしてくれ!

                                       幕

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