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第四病棟の元帥   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 トラピスチヌ修道院の門から中庭の静謐をしばし窺ってから、沿道を五分ばかり北上して聖パウロ総合病院の正面へ廻ってみると、その威容と騒然の格差に気が滅入ってくる。ゴシック様式の陰鬱な尖塔のはるか下では、救急車の搬入口の非常灯が安眠を恫喝する怪物の眼のように点滅していた。朝靄まだひけぬ時刻なのだが、救急病棟へ至る通路には急患の親族と、盆でも診察開始を待つ老人や女性が佇んでいる。眠ることがない大病院の壁という壁は、やつれを隠せぬように薄っすらと煤けていた。
 男は紺の上着を右脇に抱え左手にはアルミケースの柄を握って、栗色の前髪を乱しながら慌ただしく外来受付へ走りこんだ。自分が老人や婦女の中にあっては目立つかなりの長身で、純粋な日本人ではない灰色の瞳であることも忘れて(しかも左目は義眼である)、疲れきったような受付嬢に流暢な日本語で尋ねた。
「第四病棟へはどう行けばいいのですか?」
「第四病棟はですね、そちら真っ直ぐ行った中庭の回廊を右にまわるようにして、回廊の入口から見て対角線上の最奥ですが…第四病棟ならこちら受付で事前に許可を取って頂かないと、病棟入口から奥へは入れませんよ」
「入口に患者の付き添いが待っていますので大丈夫です。ありがとう」
 回廊の中庭はフランス式の円環状で真ん中にアカシアの大木が枝を広げていて、放射状に設計されていた花壇址には枯れコスモスが眠そうに揺れている。男は早朝の幽明さに見とれる間もなく、途中で二度も警備員に回廊を走ることを咎められた。
 第四病棟の真鍮の観音開き扉は、昭和初期の客船賓室でも模したのだろうか。楕円形の磨りガラスは意識的に歪んで向こうに佇む影を揺曳に見せる。睥睨然とした鈍い赤銅色の扉の上には、石膏質感のある軟プラスティックの五人の天使がこちらを見ずに舞い戯れている。左右両端と真ん中の天使の眼が監視カメラらしく反応点滅していた。
 男は嫌がおうにでも呼吸を整えさせられた。これから自分が直面する仕事についての予備情報を反復してみる。それも束の間、抱えていたスーツの懐をまさぐることになった。携帯端末に定時連絡が入ったのだ。取り出した端末と一緒に西陣織の名刺入れが落ちた。
 名刺には
 ジュラ・アセット・マネジメント 日本支社 調査室長   シャーン・ク・佐々木
と印刷されている。これが男の肩書きである。ジュラ云々というは、ベルンに本部を置くバチカン系の金融グループの一角、資産家を顧客とする投資顧問会社だった。
 佐々木は携帯のニューヨーク・ダウの経過と為替だけを確認すると、名刺入れの錦繍についた埃を吹き落として、磨りガラスの向こうの影に目を細めた。代議士、竹中宗二の夫人が待っているはずだった。携帯と名刺入れを上着の懐へ戻しながら整った呼吸を確認した。真鍮の扉を押すと右向こうから警備員が引いてくれて立ちふさがった。
「ジュラ、エーエムの佐々木様ですか」
 佐々木が頷くまもなく警備員の背後から海老茶の麻スーツの女性が現れた。与党創政会の重鎮、国会対策委員長も務めた竹中宗二の後妻、竹中弥生である。二度ばかり面識を持ってはいたのだが、今だ深夜を引きずっているような早朝の面差しは随分と蒼白に見えた。佐々木は深々と会釈して遅れたことを詫びた。
「御容態はいかがですか?」
「さきほど薄っすらと目を覚ましました。病状は落ち着いています」
 第四病棟の照明は懐古な球状の六〇ワットほどで、目に優しいという以上に訝しくなるような黄光だった。廊下は脂濁りを流した象牙柄の人口大理石で、佐々木の無礼な靴音だけが闖入を誇示するように鳴っていた。竹中宗二の212号室は、昭和の雑居間取りビルの深奥といった観があった。それは政局を預かる権力の壮麗さを少々期待した者を唖然とさせるだろう。窓が見あたらなかった。ドア周りから患者の枕元までは、臨戦の甲冑で彼を覆い隠したように電子器具がひしめきあっていた。点滅しているのは悠長な波形を見せる三種のスコープ、そして恐怖を玉髄化したような赤らんだ犬の眼差しがあった。
 佐々木は茶斑のボルゾイを睨みかえした。優雅な巻き毛の面長の猟犬が発する威嚇は充分だった。
「マーシャ、こちらはセーフよ、セーフ」
 夫人は素早く切り裂くように人差し指を乾いた唇にあててそう言った。そして自分とかわらぬ大きさの犬を軽く抑えて、佐々木が夫のベッドの傍らへ寄るよう促した。
 竹中宗二は為政者の相貌をなくしてはいなかった。日焼けした三段の額の左右生え際には、備前の壺肌のような烏の足跡染みが走っている。そして蘇生した鯉のように睫の長い眼がさらりと開いた。
「君がジュラの熊殺しか…こっちはマーシャル、日本で言う元帥だよ。熊殺しと元帥がそばにいてくれれば安心だな」
「倒れられたと聞いて驚きました」
「あれから一週間が過ぎたか…あの朝、烏賊が食いたくなったので朝市へ出かけた。そこで軽い脳梗塞をおこしただけさ」
「あいにく私が熊本へ行っていたものですから」
「頼んだことをしっかりやっていてくれさえすればいい。菊池の馬喰いは元気だったかい、元気ならいい、奴はわしよりもちょっと若いからな」
 竹中は目配せして妻と愛犬を廊下へ出してから、自ら慣れた手つきでレバーを操作して上体を起こした。
「佐々木君、たしか…お父上は三重の美杉村の出身だと聞いたが…その眼は本当に熊にやられたのかい」
「ケルト人の母が、故郷のロンドンデリーへ持って行ってしまったようです」
「ほう、優れすぎた人間の贖罪なのかもしれないな…それも皿の破片一枚でも次の代に伝え継ぐというジュラの社員ならではだな。たしか世話になりはじめたのは不況の前、89年だったな。外務大臣だった迫さんから薦められた。条件が厳しくてね、わしのような戦後の価値転倒に乗じたにとっては。たしか条件は…ひと口で言えば、盗んでいないか、殺していないか、そしてカトリックになれ、ということだな、今でも変わっていないだろうが」
「ひと口で言えば、今でもこれから先も、おっしゃったとおりです」
 竹中は苦笑しながら己が額を恥じ入るように押えた。
「だから地元へ帰ってきて洗礼を受けてカトリックになった。盗みは子供のときに浜で干されていた烏賊を五枚…91年に亡くなった司教がそれを聞いて笑っていらっしゃった」
 遠くで六時を告げるピアノ・カンタータが鳴った。
「歳をとると、晴れた朝に目覚めるのはひとつの喜びだ。ここ函館、室蘭と熱海は言うに及ばず、中野の住まいでもそうだが、雲が流れる空を背景に桜や柊、花梨の葉を見ることができる。この病棟でも窓辺に糸杉が見えていた、先週までは。もちろん別の部屋の話だがね、この隣の213だったかな」
 竹中は佐々木の腕をじわりと取ってシャツの袂を見ながら続けた。
「すまなかったね、九州から夜行で来させるなんて…老いぼれ爺は何を言いだすやら。先週、倒れて目を覚ましてから、隣の213からこの部屋に移ったのには理由があるのだ。聞いてくれるかい」
「もちろんです」
「先週の木曜日の朝だった。急に寝苦しさを覚えて目覚めた。冷房が効いていなくて、カーテンがひかれて窓があいていた。不穏に思ってブザーを鳴らした。しかし何度鳴らしても担当の看護婦は現れない。仕方なく開き直って、朝食検温の時まで寝たふりで待つことにしようと思った。そのときに窓辺に見てしまったのだ」
 佐々木は自身の性急さを押さえ込むために目を伏せた。
「あれはリツだった。左の乳房に薄い青痣があって…間違いなくリツだった。泣いていた。きれいな乳をしていた子だった。上半身だけ裸になっていて…右腕と右脇腹からかなり血を流していて、逃げ出してきたような格好で泣いていた。リツは十七か十八だったと思う」
 ドアの向こうで犬が唸りはじめ夫人が制しているようだった。
「寝惚けていたのかもしれない。昨日の朝あたりからそう思うようになってきた。しかし…マーシャルの頭と耳に滴った血痕は、弥生が最初に見つけて、わしもこの目で確認している。女はリツだった。台湾で徴集されて海南島の慰安所にいたリツだ、あの女は」
「何年の頃のお話なのでしょうか」
 竹中はまた佐々木の腕に手を置いて明晰な話し方を探っていた。
「43年くらいだったかな。それにしても餅は餅屋と言うべきか。様々な国の様々な宗教や文化の傘下にある老人の戯言を聞きこなしていて、もはや大日本帝国の将校だった男の女漁りの記憶など想定内、というところか。しかし…精神病棟のように爺さまが記憶をひっぱり出してきて寝惚けているわけじゃない。わしは見たのだ、血だらけのリツを、わしが殺しているかもしれないリツを」
「慰安所にいた女性というと…」
「慰安婦だよ。徴集などとまわりくどい言い方をしたが、騙されて海南島に連れて行かれ男どもの相手をさせられたのだよ。周旋人というのがいて、そいつらが割り当て人数分の女子を看護婦などの名目で連れて行ったらしい」
 竹中宗二は名場面をなぞるような遠望の眼差しで言った。
「リツは賢い娘だったから、料理を運んで酒をつき合うだけで体は売らない、と周旋人から聞いて確認してから行ったらしいのだが…騙してくれといわんばかりの状況さ。わしが海南島からシンガポールへ移動したときは…まだ生きていたな、病気もうつされずに。リツは賢い娘だった」

 朱夏のみぎりを室蘭で毎年楽しんでいた竹中宗二は、最後の夏を聖パウロ総合病院の第四病棟で劇的に終えた。
 八月二十二日の推定時刻十四:〇〇から十五:〇〇に、竹中宗二は緊急入院していた聖パウロ総合病院の特別病棟212号室にて心不全により死去、と最初は型どおりに報ぜられた。しかし葬儀前日の二十四日朝、未亡人となった竹中弥生より遺体異常の指摘があり、市警が介入するところとなり二十五日に検死に至った。
 当日に検死報告の会見を期待されたが、病理検査の精度を理由に実際の会見は二十六日午前となった。道警の医務官を中心とした検死スタッフは、頭蓋後頭部の打撲による内出血が直接の死因と診断した。状況捜査から下された判断は、病室の床に全身があった状態から見てベッドからの転落によるものとされた。
 病院側は院長と内科部長が速やかに謝罪会見をもった。亡くなった竹中宗二が国会対策委員長を務めた地元出身の議員で、そもそも病院創立の立役者ということもあり、連日大いに報道を賑わせることになった。加えて警察が事故隠しについて捜査を進めようとした折、院長は施設の直接的管轄者である内科部長を札幌の系列病院へ更迭したので油を注ぐことになった。
 八月二十八日、長男である竹中喜久夫を喪主として葬儀が執り行われた。
 ジュラの佐々木は札幌の司祭によるバルト神学の聴講を終えた後、解散選挙を睨んでそのまま地元に残っていた竹中喜久夫に呼ばれて函館に足を伸ばした。
 二人は竹中宗二の書斎で故人を偲びながらしばし歓談した。ほどなく喜久夫は弁護士から通知された相続内容の実務側からの感想を求めてきた。
「偉そうにこうして座っているけれど、実質はまだ姉さんの、弥生さんのものだからね、ここ函館の家は」
 佐々木にとって喜久夫の不満は想定していたことだった。故人に招聘されるまで弁護士とも再三確認していた内容は、不動産については函館の邸宅を妻の弥生に、中野の邸宅は長男の喜久夫に、室蘭と熱海の別荘はそれぞれ長女と次男に分与され、金融資産の相続は均等分割というものだった。八月十五日に呼ばれて改変された内容は、金融資産の均等分割を破却し、すでにある竹中財団に十年区切りで設定し直す青少年基金として取り込み、財団を管理運営するジュラが十年ごとに継続を取り仕きり、清算時は法定相続に基づいて遺族と協議することとなった。
「簡単に言えば、当座の資金は自分たちで作れということかな」
「喜久夫さんには北海道の国会議員で終わってほしくない、と度々仰ってました。元々、世界的な視野をお持ちの方でしたから、市場経済が活発化してきた中国の動向などをかなり気にしていらっしゃいました」
「もとよりそのつもりではいるがね、今はさっさと東京へ帰ったら人でなし扱いにされかねないし、紛糾国会で秘書の受け取り問題に振り回されているような私じゃない。それはともかく、金のなる木はないものかね」
「世界的な視野を受け継がれて国政に参与される方には、こんな金のなる木はいかがでしょう。中国の広がっていく鉄道への投資です」
「これだもんね、ちょっと呼べばすぐに商売しようとするから敵わないよ。それにしても鉄道?」
 佐々木が上海市場のA株に投資する新規ファンドの目論見書を渡したとき、秘書が入ってきて喜久夫に函館市警察本部長が来ていることを耳打ちした。
 市警本部長の増田は二年後に定年を迎えようとしていた。喜久夫にとって父宗二の遊説中の警邏以来で知らぬ仲ではない。増田は座敷で線香を立ててから書斎のソファへ納まると、過激派の脅迫電話から喜久夫の函館の遊び場所に至る思い出話にまでふけった。
 喜久夫が父親の愛用した机へ退いてファンドの目論見書を手にすると、やっと増田は気がついたように事故隠蔽の捜査経過に言及して彼を驚嘆させた。
「ベッドから落ちたわけじゃない?」
 喜久夫は打たれたように顔を上げた。
 増田は頷きながら竹中の背後を凝視していた。後ろで飾り棚から流氷焼きの灰皿を取った男を気にしていた。
「こちらはうちの資産を管理してもらっているジュラの佐々木さん」
 喜久夫に紹介された佐々木は目を合わせずに会釈した。
「大丈夫、へたな弁護士よりも口が堅い人だから」
 増田は佐々木の混血らしい風貌を訝しがりながらネクタイを弛めた。
「まあ、何て言いますか、医者でもいらっしゃる奥様の仰せのとおりに、警察側で検死を執り行いましてから…何て言いますか、公にされていない、奥様のご意志の下に公にしていない事柄について捜査をすすめているのですがね」
 喜久夫は増田に淹れ替えた茶をすすめながら机から立った。そして目論見書を佐々木へ押しつけるように渡して嘆息を吐いた。
「私も遺族の一人で、竹中宗二の長男なのだが」
「まあ、何て言いますか、なにぶん現場が現場なだけに、他の患者さん方を刺激もできませんので…」
 増田はしばらく一昨日から供述を取りはじめた言い訳をした。
「…先生の体内から出てきたのが、セレン酸ナトリウム、まあ、殺虫剤として使われるものらしいですな」
 喜久夫の陽に焼けた両耳はじわりと赤黒くなった。
「殺されたわけだ、つまり」
「まあ、その方向で、ここ数日は捜査をすすめてきたわけですがね」
「すると最初から薬物反応があったことまでも隠蔽しようとしていたところ、弥生さんに打撲の痕を指摘されて警察が検死することになり、親父が最後は虫けら同然に扱われていたことが露見したわけだ」
「まあ、虫けらというのはちょっと言いすぎでしょうが、正式に殺人の容疑で関係者を取調べ中ということになっています」
「なんと、酷い奴らばっかりだ。しかも今日になって長男である私に…」
 市警本部長は白髪頭を掻きながら手帳をめくった。
「えーと、二三お聞きしたくて…たしか先生の奥様、若先生の今のお母様は、元々、聖パウロに勤めていらっしゃったのですよねえ」
 喜久夫は放心したような眼で頷いた。
「そして、えーと、お勤めでいらっしゃったときの同僚で、松岡克行さん、内科の先生なのですがね、ちょっと長髪で、そっちの方みたいに背の高い先生なのですけれどね。この方が亡くなった先生の担当医だったので、もう二度ばかり署にご足労いただいているのですが、若先生はご存知でしたか」
 喜久夫はゆっくりと首を振って嫌悪を目尻に表しはじめていた。
 増田はぐずぐずと担当医と担当看護婦の処置対応を時系列に並べて話した。しかしそれも秘書が火急の電話ということで現れて中断した。
「一つだけ、若先生、一つだけお願いしますわ。先月の二十二日、若先生は東京の永田町にいらっしゃったのですよね?」
「国会議員なので議事堂におりました」

 竹中喜久夫が秘書に気の利きようを褒めてから書斎へ戻ると、佐々木は窓辺でまだ斬新な青縞の陶器を見ていた。その女のように白い手から灰皿を取り上げると、肩を軽くたたいて港のウォーターフロントあたりで喉を潤さないかと促した。
 そもそも竹中家はトラピスチヌ修道院に歩いて十分ほどの近くにあった。つまり佐々木も知る聖パウロ総合病院へも歩いて行ける距離にあった。そして喜久夫が息を吐けるウォーターフロントは、竹中家から車で四十分ほど離れた旧桟橋から赤煉瓦倉庫群の一帯だった。
「奥様は、頭部打撲よりも、呼吸麻痺の症候を見て、ご主人、お父様の検死を警察に依頼された。言うまでもなく、奥様は、病院の体質や、業界の派閥には詳しくていらっしゃる、なるほど」
 シャーン・ク・佐々木は区切りながらなぞるようにそう言って、ビールを含んでからライトアップされた桟橋の闇に目を細めた。
「ああ、そして、今度は殺虫剤だ。飲もうぜ、佐々木君」
「こういう場ではよろしければシャーン、シャーンと呼んでください」
「よっしゃ、飲もうぜ、シャーン」
 喜久夫は大きく頷いてシャーンの灰色の瞳から目を逸らした。勢いジョッキを翳すように咥えたがビールはなかった。忙しなく給仕を呼びつけて追加注文する。若い健啖家が苛立ちを鎮められないでいるのが見てとれた。
「竹中喜久夫は終わったな」
 シャーンは喜久夫が便所へ立ったときに呟いた。
「やはり政治は室蘭の長女、人間は熱海の次男、このへんが面白そうだ。いざ、我らも往きて、彼と共に死のう」
 与党創政会の一年生議員である喜久夫は、父親宗二の地元と東京の間を奔走し続けていた。喜久夫と妹と弟は先妻の子で、実母は喜久夫が一浪で東大へ入学した直後に亡くなっている。喜久夫は在学中から創政会で活動し、卒後は国交省運輸局に在職して、祖父の地である函館を皮切りに港湾を渡り歩いた。父親に似て剛腹に見える半面、二世議員にありがちな神経質さと性急さを度々見せている。しかし小柄ながら亡くなった母親譲りの美男ゆえに、女性層の視聴率を期待する討論番組などに出演して、少年サッカーの育成や山村の地域医療に対しての論説を展開して局所的に好感を得てはいた。
「イエス、たれか我が衣服を触れしぞと言い給いければ…」と口に上ったマルコ書の言にシャーン自身が唖然とした。
「弥生だ、弥生は何を考えているのだろう。長血を患う女なのか、それとも…」
 未亡人となった弥生は、聖パウロ総合病院の女医に成りたての頃、若い頃から高血圧気味だった竹中宗二に見初められた。弥生は喜久夫よりも八歳年上である。ややもすると知的に過ぎる美貌は、代議士の妻として重合するばかりの苦労の前にはガラスの美しさと揶揄された。しかし飾り雛のように若く繊細なだけかと思われていた妻は、宗二が油断して落選した翌年から、頭を下げることを身につけながら持ち前の計数感覚を発揮しはじめた。噂されたような喜久夫との衝突などもなく、夫宗二が亡くなるまで気丈に代議士の妻を務めあげたといえる。そして後家となった弥生は、八月二十七日には一切の相続を放棄する旨を弁護士に伝えている。事実上、函館の邸宅という不動産の相続についての兄弟の協議は始まったばかりだった。弥生本人は一昨日には竹中家を出ている。新川町の産婦人科医である実家で、学び直しながら医師の免状を生かしていくとのことだった。
 シャーンは運ばれてきた蟹を一瞥してからまた呟くように言った。
「殺虫剤、セレン酸ナトリウムは元々、お父様の遺体に残っていたわけですから、奥様が亡くなったときに駆けつけていて、どうしてすぐにその場で分からなかったのでしょう、薬物によるものだと」
 喜久夫は咥えかけたジョッキから口を離して誰もいない左隣席を窺ってから苦笑した。
「そんなことにかけて連中はプロ中のプロだよ。しかし、いよいよ聖パウロ病院もアウトだな。内科部長ひとりくらいの首じゃ済まなくなってきたね。投薬の処置を誤ったならまだしも、油虫や壁蝨を殺すために撒く殺虫剤だよ。それを誰かが親父に呑ませたのだから…」
 喜久夫は季節外れの花咲蟹の足を取った。そして舌打ちしたあとで小タオルを巻いて低く唸りながらへし折った。
「でも、姉さんは、あっ、いや、普段はあのひとを姉さんって呼んでいる。姉さんは親父が亡くなった翌日には私に連絡してきた。どうも様子がおかしいから、親父の死亡に関して病院内の情報を収集してみてくれ、ってね」
「何か情報はあったのですか?」
「事故隠しの内報はあったけどね。だいたい私も通夜の後はばたばたしていてね。さっき増田さんから話があった松岡っていう担当医と担当看護婦、亀井っていったかな、このへんはもう葬儀の晩から警察が接触させてくれなかった」
 喜久夫はバルサミコ酢の小皿を押し寄こしながら続けた。
「増田本部長様の手際のよさは日本の警察の鑑だ。あの爺さん、あれでなかなか大した経歴の持ち主らしいからね」
 シャーンは小皿に小指をつけて酸味の度合いを確かめた。
「殺虫剤についてですが、薬として服用させるためには、殺虫剤を服用薬として形作って持っていなければならなかった。ということは、医者か看護婦、もしくは身近な人間が飲ませた…」
「そういうこと、私かもしれないよ」
「あなたはあの日は議事堂にいて大勢の人間が確認しています」
 喜久夫は小指を吸いながら話すシャーンを見て小さく吹きだした。
「いや、失礼。だってさ、君の頭の中は、たえず為替とリスクのことを中心にして回転していると、大方の人はそう思っているわけだよ。ところが、金にもならない成り上がりの親父の後始末につきあわされてさ…怒らないでくれよ、世界中をカトリック一色で染めあげようとしているのなら、こんな寂れた北海道の片隅にいるよりも、沸騰してきた上海あたりへ飛びたいのじゃないかと思ってね」
「イエス御自身は彼らに自分をお任せにならなかった。ヨハネの二の二十四です」
 シャーンは自分のジョッキを喜久夫のそれに軽くあてた。
「あなたが洗礼を受けるその日まで通い続けましょう。それに金融屋の勘ですが、ここには今だ見たこともない日本的なリスクと言いましょうか、それが醒めた目でこちらを見ているような気がするのです」
「日本的なリスクときたか…そんなものはザビエル以来、ねじ伏せるのは容易かったんだろう?」
「皇帝のものは皇帝に返そう、神のものは神に返そう、と応えるしかありません…思うにですね、為替は猫のようなものですが、リスクは犬のようなものです」
「なるほど、飼い犬に手を咬まれる、ってね」
「ええ、犬は力関係を認知させれば飼い慣らせますが、所詮は狼の末裔ですから、自分を恐れるものには容赦なく牙をむいてきます」
 喜久夫は首を傾げながら蟹の爪を割いた。
「誰でもリスクは恐れるのじゃないの?破滅はしたくないだろう」
「そう思いたいのですが、カトリックとしては」と言ってからシャーンは喜久夫がしゃぶりつく様を見ていた。
「奥様、弥生さんは犬好きなようですね」
「ああ、姉さんもリスクなんかは恐れないほうだね。立派な人さ。ああやって、よぼよぼのショーグンの面倒をずっとみている」
「ショーグン?」
「ああ、ご免、ゲンスイか、マーシャルだったか、えーとね、親父は前の犬を、砂漠の狐、ロンメル将軍にちなんでショーグンって呼んでいたのだけれど、そいつが死んじゃって…今のあいつも最初は総理になる前の官房長官に将軍にしろと言われて、最後は政調会長とつまらない賭けをして負けて、将軍から元帥に替えさせられたみたいだね。そう、姉さんも私たちに気兼ねしてか、子供もつくらなかったし…宗二さんよりもマーシャルから離れられないのよ、なんて平気で言っていたからね。もともとは姉さんの実家で繁殖させた仔犬で…それを親父が貰ったような話だったな。姉さんが犬を使って接近したとは言わないがね。君も犬を飼っているの?」
「いいえ、猫のほうが好きですから」
 喜久夫は声にならない笑いのまま仰け反った。
「よく分からないなあ。無党派議員みたいなことを言うなよ。もっとも、そういう君らだから、函館の油虫も金を預けたのかもしれないな…」
 喜久夫はそう言うと父宗二への郷愁に襲われたのか目頭を押えた。そして押えたまま落ち着いた低い声で言った。
「帰るのを明後日にしてくれないか。そして私の紹介状をファックスしておくので、聖パウロの加茂という看護婦長に会ってきてほしい。事故隠しの情報の提供者だ。ちょっと渡してほしいものがあるのだ。なんと言っても、これからは親父の地盤を引き継ぐわけだし、公明正大であるためには、良識ある情報の提供者が必要だ。君の仕事外じゃないはずだ。親父は言っていた、金に関することは何でもジュラに頼むようにとね」

 シャーンは遠望していた聖パウロ総合病院がいつのまにか目の前にあって苦笑した。自分が熟考していたことを嘲る。こういうときは辺りに散漫な奴と思わせる風体を意識する。過ぎる患者も看護士もシャーン・ク・佐々木を注目しはじめる。正面玄関からナースセンターに寄って加茂婦長の趣向を聞き出そうとした。婦長が十代の頃よりカラヤンとベルリン・フィルに癒されているということは意外だった。
 しばらくすると、看護士を統括する五十がらみの小太りな加茂婦長が小走りに現れた。
 機敏と思慮を兼ね備えたような婦長は、一昨日に市警がきたことを告げながら自室に招き入れてくれた。そして日誌をめくりながら椅子をすすめて言った。
「二十六日が最初ですね。早速、院長に呼びつけられました、警察は何を聞きにきたのだと。竹中先生の担当医と担当看護婦の処置に決まっています」
 シャーンは竹中喜久夫への報告と称して、担当医であった松岡克行と担当看護婦、亀井紗代の職務経歴を聞き取って携帯端末に入れた。
「松岡先生は辞表を出されたみたいなのですが、寛大な私たちの院長は、医療処置としての過ちは見あたらないとして受理されていらっしゃいません。診断の虚偽に関与したのは事実ですが、内科部長の圧力があったわけですから」
「専門は心臓内科ですね」
「ええ、心臓内科がご専門ですけれど…」
 加茂婦長は突然、稚戯を思いだしたように豪快に笑った。
「ごめんなさい、竹中先生が院長に直々に、あのあまり髪を洗わないような髭面の松岡という医師を担当にしてくれ、とおっしゃったようです」
 佐々木も故人が我が儘を言う様を想って軽薄に笑った。
「それで、亀井さんも私に辞表を出してきたのですが、あの人は病気のお母さんを抱えていますから、できるなら働き続けるように言いました。こんなことになりましたけれど、竹中先生も彼女の看護にはご満足そうでしたよ」
「担当医と看護婦は定時のほかに検診に来るものなのでしょうか?」
 加茂婦長は上体をひいて幾らか荒れた手の甲を摩った。
「もう一度お聞きしますけれど、警察関係ではない、金融関係の方ですよね。いいえ、結構なのですけれど、最初に来た若い刑事さんみたいに訊かれるものですから」
「若い刑事さん?年配のベテラン刑事、市警本部長ではなかったのですか」
「ええ、二十六日にいらした刑事さんは、女性看護士たちが騒ぎそうなあなたのような方でした」
「それはそれは、そのあとでいらした刑事さんが婦長好みの渋い年配の方で?」
「ええ、偉い方なのでしょうけれど、これがまたのらりくらりで、全然関係ない病院の中庭の手入れ方法ばっかり。帰りには手入れをしている管理人室に寄っていかれたみたいです。松岡先生や亀井さんが聴取されるのは仕方がないのでしょうけれど、肝心の院長のところには宵の頃に頭を低くして行かれたようですけれど」
 シャーンはここで膝を打って内ポケットから封筒を取り出した。そして自分が資産管理を任されている投資顧問会社の者であることを再度、前口上にして丁重に渡した。
「肝腎なことを申しあげるのを忘れていました。わが身も顧みられずにご連絡いただいたこと誠にありがたく、父も成仏できます、と竹中喜久夫が申しておりました」
 加茂婦長は訝りながら受け取って開封した。恐る恐る紙片が摘み出される。さすがに小切手の桁数を見るに手間取っている観があった。
「なんでしょう、とんでもない金額ですね」
 精彩あった律儀そうな眼差しが見る見る悲哀を帯びていった。
「困ったものですね、蛙の子は蛙で」
 加茂婦長は百万円の小切手を封筒へ戻した。
「お返しします」
 シャーンは唖然とした素振りで突き返された封筒を受け取るしかなかった。
「あなたが驚くことのほうが驚きます。こういうお馬鹿さんが一人位いてもいいじゃありませんか」
 シャーンのような人間の腕の見せ所はここからである。封筒と携帯端末を懐へ戻しながら頬を紅潮させる。そして目の前の堂々たる婦長に微笑んで深く頭を下げた。
「封筒を寄こされたご長男さんに、遺産を相続なさったからといって無駄遣いはいけません、と教えてあげてくださいな」
 加茂婦長は小さく鼻先で笑いながら椅子を軋ませて立った。
「あなた方の本意は、この病院を蟹の甲羅のように潰すことでしょう」
「竹中喜久夫と婦長は共存できる仲でいらっしゃる、と私は信じています」
 婦長は届いたファックスを摘みながらまたからからと笑った。
 シャーンは辟易した体をつくろって婦長室を出た。そのまま冷厳とささやかな恥辱を引きずりながら病院を出てもよかった。しかし振り返った顔は奥の奥にある第四病棟に向いていた。
 回廊を右へ曲がったあたりで中庭の方から声をかけられた。地味そうで噂に立ち易い市警本部長だった。増田は大柄な長髪の男性へ別れの挨拶を送りながら、節操もなく見かけたシャーン・ク・佐々木に声をかけたようだった。
 中庭といってもアカシアが一本、団扇のような葉を幾重にも広げて日陰をつくっていて、かつて放射状に設計されていた花壇址には終わったコスモスが堆肥のように折れ重なっていた。牧神像が俯いている台座やベンチには老人達が隙間なくすわっている。そのうちの日陰になったベンチから増田は済まなそうに手招いていた。
「まあ、何かと後始末は大変でしょうなあ」
「今日一日だけ体があいているものですから寄ってみました」
 増田は淡白な物腰が気に入ったようで目じりを和ませた。
「竹中先生から一度だけ佐々木さん達のお仕事を伺ったことがあります。我々警察の仕事に似ていて、我々は法を信じて人間一人々の利害に関わるが、佐々木さん達は金を信じて人間一人々の利害に関わる、とか言われていましたなあ」
「ありがたいお言葉だと思います。ご信頼いただいていた先生ですから、もう一度、病室が空いていれば手を合わせようと思いまして」
「それは申し訳ないのですが、先月の二十六日から、竹中先生の病室はおろか第四病棟全体を立ち入り禁止にしてあります。来週になれば入れますよ」
「変だな…」シャーンは中庭から回廊へ向いて左手奥を指した。
「回廊の入口から右回りにまわって対角線上の奥の棟…やっぱりあちらの棟が第四病棟でいいのですよね。先ほど話をされていた方は第四病棟の方へ行かれたのでしょう」
「第三病棟ですよ、あの子が行ったのは。だから立ち入り禁止にしている第四病棟は逆のあっち。このまえ来られたのでしょう?」
 増田は含み笑いのまま煙草を咥えて隠れるようにして火をつけた。
「禁煙だが一本くらいだから…さすがに佐々木さんもお疲れのご様子ですな。後始末と言っても、若先生、喜久夫さんからちょっとだけ聞いていますけれど、先生はきちんと財団かなんか作っとかれて亡くなったから、相続の方はあっさりしていて面倒なことはないのでしょうが?」
「ええ、私の仕事は面倒なことはありません、お金は分かりやすいものですから」
「まあ、何か引っ掛かることがあったら、田舎の警察にも教えてくださいよ」
「逆に教えてください。今しがた別れられた長髪の方は、夜勤明けの先生あたりですか」
 増田は咽かえってあたりの注目を集めた。
「あの子は、あの子なんて言っちゃいけないな、あの人は竹中家の親戚筋で犬に詳しい方なのです。未成年ですが…こういうときはお零れに与ろうといろんな人間が集まってくるものです」
 シャーンは紫煙の向きから逃れるように晴天を見上げた。喜久夫の小太りな弟しか思いつかない。しかし面白くなってきた悦楽の流し目は隠さなければならない。むしろ人を悦楽へ導く使徒の眼は、猫のそれのように呆けて単純そうに見えることが肝要だった。
「気になりますね」
「雨でも降りそうですか」
「竹中先生にセレン酸ナトリウムを飲ませた人間ですよ。顔見知りであれば簡単ですよね」
「簡単といえば簡単ですな」
「しかも警備員は一応いますけれど、見舞客のふりなどすればどこまでも入っていけますよね、手術室とか特別な部屋を除けば」
 増田は半ば咽ながら小さく笑った。
「まあ、そのとおりですが、刑務所じゃありませんからね」
「しかし極端なことを言えば、私のような外部のまったく見知らぬ人間も、依頼されて必要な情報を得れば犯行に及べるわけですよね」
 増田は煙草を踏み消しながら苦笑しかけた。しかし思うところがあったのか、自らを嗜めるように白髪頭を掻きながら回廊の方に向いてしまった。
 シャーンは調子に乗りすぎたと思い挨拶してベンチを立とうとした。すると増田が慌ててシャツの袖を掴んだ。老刑事は笑みを浮かべながら右斜めの方へ顎をしゃくった。雨雪に扱かれたような台座に白衣の男女がいる。増田は松岡医師と看護士の亀井であることを教えてくれた。
 松岡は華奢で白髪交じりの髪を微風になびかせていた。雲を追っている無精髭の濃い顔には、風評や立場に惑わされることはなく仕事してきた無骨さは見える。亀井は頑健そうで男性的に張った顎は意志の強さを感じさせた。
「まあ、二人はどちらかと言えば地味な医師と看護婦だった。ところが竹中先生の担当付きとなって、竹中先生が亡くなるに及んで二人は内科部長に圧力をかけられた。もう新聞が書いていますからご存知でしょうけど、ベッドから落ちての頭部の打撲は不味いから、気管の呼吸困難だった様子から心不全にしろ、ということだったらしいですわ。ところが奥様が医者だった」
 シャーンは頷きながら思いを弥生の美貌に向けていた。そして加茂婦長の言を思い出したが笑みを掃い捨てた。竹中宗二本人も生前、医師は寡黙な板前のような奴、看護婦は乳牛の世話に明け暮れるような女、などと吹聴して満悦顔だった。弥生は何を考えているのだろうか。逆にあの看護士を女好きな夫につけたのが弥生だとしたら…。
「まあ、あの院長も思っていたよりも腹がすわっていますなあ、ああやってあの二人を病院に留めておくのですから。もっとも、もう署に来てもらうことはないでしょうが、逮捕でもしないかぎりは。ここしばらくは仕方ないですな、この煩い警察がつきまとうのは。幸せになってほしいものです、あのお腹なら」
 増田は講談師のように佐々木の膝をたたきながら醜い笑いを転がした。
「あの…見知らぬ奴でも犯行に及べるかという、さきほどの件なのですがね。気取ったクールな刑事じゃないので申しあげますと、まあ、竹中先生を亡くなるまで見てきた私からしますと、その可能性は低いと思いますよ」
 増田はおもむろに右足のズボンの裾を上げて脛を見せた。
「ほとんど見えなくなっていますね、マーシャルの咬み傷なのだが」
 シャーンは愕然としながら毛だらけの脛に目を近づけた。
「マーシャルが咬んだ?」
「そうです。あれは市長選挙の応援で先生がこっちにおられたときです。私は犬があんまり好きな方じゃないものですから、先生が意地悪く脚にじゃれるようけしかけられて、私はあの大きさですから驚いて、つい蹴ってしまったのですわ」
 シャーンは仰け反るように増田が言った第四病棟へ繋がる回廊の終わりを睨んだ。
「まあ、咬まれたあとは先生が教え仕込まれたようで、今日まで仲良くしてもらっていますわ。見ているぶんにはめったに吠えない物静かな犬ですよ、たしかに。しかし、危害を加えた人間はあたりまえですが、先生が知らない人間や先生が嫌っている人間が近づいていくと、最初は唸って近寄らせず相手が一線を越えたら、これはもう人によっては散々な目にあっていましたな」
「そのマーシャルがいつも傍らにいた」
「まあ、そういうことですな。手早い奴が犯行に及ぼうとしても、あの犬に足首を噛み砕かれてお仕舞いですわ。まして起きている先生にセレン酸何とかを飲ませるなんてできっこありませんよ」
 増田は一瞬、躊躇したが我慢できないふうに続けた。
「そりゃあ、例えば先生と直接に面識はないが先生を恨んでいる人間で、警察犬とかの訓練教官、それから動物園の飼育係のような職業だったら可能ではないか、とか考えてもみましたが、可能性はやはり低いでしょう」
 シャーンは増田を見直したと言わんばかりに微笑んだ。
「まあ、犬っていうのは医者や警察よりも正直なのでしょうなあ。ちなみに院長以下看護婦や管理人までほとんどが犬好きですなあ。犬が嫌いだとはっきり言ったのは、あそこにいる松岡先生ただお一人…いかん、いかんな、佐々木さんが毒盛りは簡単だったろうなんて言われるから、ついつい私も勝手な想像をぽろぽろと話してしまって。まあ、捜査会議にマーシャルの話は持ち出していませんがね」
 増田はそう言いながら腕時計をちらりと見た。松岡と亀井が台座から立って左右に別れるところだった。増田もシャーンに引き止めたことを詫びてベンチを立った。予定していたのか、ホールから私服刑事らしき男と制服の警官がつかつかと回廊へ入ってくるところだった。
 シャーンはもう一度ベンチに座り直して端末携帯を取り出した。やっと正午にかかる時刻だったので株価の動静は見るべきものがあった。しかし唇に浮かぶ呟きはやはり弥生のことだった。
「イエス、たれか我が衣服を触れしぞと言い給いければ…弥生は何を考えている。患う女たちはそこにひれ伏せばいいものを」

 シャーン・ク・佐々木は空港へ向かう修道院近くで竹中喜久夫に呼び戻された。正直なところ弥生に連絡が取れない不穏を抱えたままだったので、自分も不穏を騙って不意を突く楽しみができたと思った。携帯電話で喜久夫が言ってきたように「加茂八重子が出頭して大騒ぎになっている」というのなら弥生も近くで動静を窺っているはずだ。シャーンは珍しく義眼の奥底に痒みを感じた。
 こうなると金無し能無し思慮分別そこそこの意気地なしはいらない。
 シャーンは憔悴の色が定まらないような顔で竹中邸の居間へ入った。喜久夫は思っていたとおりの終わったような安堵顔で迎えてくれた。しかも余程資金繰りに困っているのか、財団に取り込む予定の青少年基金を、サッカー協会への協賛金として自分の名前で動議できる、などと提案してきた。つまり基金を担保として創政会関係の銀行から借金をしたいだけなのだ。シャーンは妙に感心したような顔で聞きながら庭の飛び石を見ていた。
 喜久夫の興奮した声が治まってきたので振り返ると、いつの間にかソファにうつ伏せて駱駝のように唸っている。しばらくすると両手で顔を覆って肩を震わせはじめた。
「私は…私は分かっている。親父が、私のために、私が一人前の政治家になるために竹中財団を作って残してくれたのだ」
 喜久夫は聞き取り難いまま続けた。
「シャーン、本当にありがとう。私のために、うちのために、いろいろと骨を折ってくれて、これからも良しなに頼む」
 シャーンは故竹中宗二が使っていた机に向かって首を傾げた。そして倦怠極まったかのように微笑んだ。
「このままだと加茂八重子は全部吐き出しますよ」
 喜久夫は嗚咽を呑みこむようにして聞き返した。
「全部…何だって?」
「あなたが加茂八重子に竹中先生、お父様の殺害を依頼したことです」
 喜久夫は濡れた目頭のまま振り返った。
「何だって、何を言っている…」
「やはり竹中のリスクを高めているのはあなただった、今日まで」
 喜久夫は意外に敏捷だった。シャーンの胸倉をつかんで荒んだ形相を払い落とすように鼻を啜り上げた。
「なるほど、ジュラの情報をつかむ速さはさすがだと思うが、勝手な想像をしてしまうのは、君の金銭に執着するだけの偏った性格のせいだろうな」
「その偏った性格からすれば、あなたと加茂八重子の関係が奇妙なものに見えたのです」
 喜久夫は手を離してハンカチで鼻をかんでから声を低めて言った。
「名誉毀損も甚だしい。殴ってやりたいが、公人だからな私は。いいか、私はその加茂とかには会ったことがない。だから君に行ってもらったのだ」
「会ったこともない事故隠しの内報者に百万は多すぎませんか?」
「君たちは政治家の金の使い方を知らないのだよ」
「確かによく分かりません。加茂八重子が小切手の金額の桁数を数えて、とんでもない金額だ、と言ったのです。賢明で清廉潔白な方が桁数を数えるでしょうか。小切手と分かれば憤慨してすぐに返す、そういう方はこういう仕事柄から何人か見てきました。しかし桁数を数えてから返されたのは初めてでした。謝礼としては高額すぎるので十万ばかりなら受け取っていただけたのでしょうか。勝手な想像はさらに広がりました、とんでもない金額というのは、約束した金額とは違うという意味ではないのかと。しかしあなたは期待した相続もできず約束した金額は支払えない」
 竹中は中腰になって右手を斜めに掻き振った。
「まったく勝手な想像も甚だしいよ。だいたいその顔でだ、清廉潔白なんていう日本語の意味が分かっているのか?ジュラとか何とかいっても、所詮は金を盾にした恐喝屋だろうが。金を操って真面目に働く市民を笑っている奴らに何が分かる!たしかに知ってのとおり、私は金に困っているよ。親父や弟みたいなけちな使い方ができないんだよ。だからって親父を殺すなんて…君たちこそ金のためなら何をやっても臆しないんだろうよ、人の過去をえぐり出してもな」
 シャーンは携帯端末の微動に気づいて廊下へ向かおうとした。
「どこへ行く!基金を協賛金としてまわす話のどこがわるいのだ。これから私は、竹中喜久夫はどうなる」
「ですから、加茂八重子が全部吐き出すと終わります」
 喜久夫は左手で右腕を抱えるようにしてソファへ落ちた。そして混濁したような目を向けて薄らと笑った。
「そうか、病院をまるごと欲しかったのか。病院は儲かるからな、イエスだかパウロだかを頭につけて」
 シャーンは携帯を睨んでいたが飲み込むように頷いた。そしてノブに手をかけながら竹中宗二の肖像画に向かって言った。
「ひとつ最後に教えてください。第四病棟はもう存在しないのですか」
「今ごろ気がついたのか。そんな病棟はもとより存在しないよ。親父がいる病棟が第四病棟と呼ばれていたのさ。私が入院して復活させてもいいけれど、ジュラのものになったら入院させてもらえるかどうか」
 シャーンは時刻を確認して会釈するように目を伏せた。
「最後に私にも教えてほしい。竹中は政界で生き残れるだろうか…」
「政治家なら室蘭の真耶さんがいいでしょう、彼女には竹中宗二に対するコンプレックスがない。熱海の仙三さん、竹中宗二という好色一代男を見事に活写している。暇になったら政治に手を出すかもしれない」
 融解していくような沈黙が外界の騒鳴に縋りつこうとしていた。喜久夫は犬歯を震わせながら流氷焼の灰皿に手を伸ばした。

                                       了
非可換幾何学入門

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  • 作者: A.コンヌ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/08/27
  • メディア: 単行本



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