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女運は踊る   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 ビーダーマイヤーというドイツ語を目にしたのは、七十年代の西ドイツの世相を看破した一文が最初だった。どこにでもありがちな俗物を揶揄した表現は、刺激的な暴言を求めていた十九歳の自分には、どこかバウムクーヘンに似たような耳障りと字並びに見えて一抹の倦怠を覚えていた。それがウィーン会議の時代に典型を見るとは、洛西の中年に至るまで知らなかった。そのような時代の金ぴか白塗りの舞台に、強引に日本人や薩摩弁を持ち込んでみるとは自分らしい酔狂だと、暫くは打っ棄っておいた。そして洛西の闇夜を徘徊しているうちに、後付らしい印象では能のような幽霊話を書くようになった。事ここに至っては、主役がメッテルニヒであれば怠惰な頬杖を打っ棄らねばなるまい。


一八七三年六月

場所
 ウィーンのプラーター公園、万博会場のメインパビリオンRotundeの前庭

登場人物
 利(とし)さん…岩倉使節団の一員として欧歴訪途上にあって万博を視察した四十二歳の大久保利通(一八三〇年九月二六日~一八七八年五月一四日)
 クレメンス…クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich、一七七三年五月十五日~一八五九年六月十一日)の幽霊
 エレン…メッテルニヒの最初の妻エレオノーレ・カウニッツの幽霊
 メラニー…メッテルニヒの三度目の妻メラーニエ・ジッチー・ファラリス

(パビリオンの回廊は、噴水の周りに配された四つのガス灯に照らされて闇夜に浮かんでいる。できれば下手上方に三日月が見える晴れた夜空から、三日月に暗雲たれこめて漆黒の闇となる幕までの、明暗の変容があることが望ましい)
(上手から追われるようにして、ハットなしに燕尾服姿の大久保利通が小走りにやってくる。ガス灯になるべく近い縁石に優雅を装って座るが、その実は走ってきたがゆえの呼吸整えである)
利さん あれでん女か、まっこて西洋人は女も大きくてかなわん。しかも牛のよな乳を押しつけてくるし…
(四つのガス灯のうち両端の灯が点滅しはじめて、利通は立って両端をそれぞれ振り仰ぎ、懐に右手を入れて短刀を取り出す)
利さん いざとなったら父祖伝来のこれがあるが…(抜き身を翳して、思い出したようにナイフを使う仕草をする)もうちっと肉の切り方を身につけねばならんな。
(両端のガス灯がついに消える。利通は慌てて抜き身を正眼に構えるが、すぐに恥らうようにして鞘に収めて、胸を張って堂々とした風を装って縁石に座る)
エレン (上手から黒ずくめで闇から這い出てきたように腰を伸ばして)Klemens,Er sagt, fühlt sich an wie Japan.クレメンス、日本語のような気がするわ。でも、おかしな日本語ね…クレメンス、これも日本人なの?
利さん (短刀を横一文字に抜く構えで小さく首をひねり)呉ぇ?呉の者ではあいもはん。おや薩摩の者、鹿児島の者ござんで。
エレン あいむぅ…はん?あなたはイングリッシュなの?
利さん こん気配の消し方…枕元に立たれとった島津公によう似て…
エレン クレメンス、彼も日本人なの?
利さん 幽霊か…あいやー、まこっにおいは幽霊に好かれとる。(短刀を懐に仕舞い込んで沸々と笑いながら数珠を取り出す)姿かたちは異国の女じゃあっしながら、おいにだけ聞いてくれんと言わんばかいの日本語(かたちばかり数珠を揉みながら念仏を唱える仕種をする)…幽霊にしても、あいやー、まこっに美しか。
エレン (諦めたように)Siehe auch japanische Recht?どう見ても日本人よね、クレメンスが夢中になっているインディアンのような日本人。
利さん インディアン?インディアンはたしか蛮族のこと、おいはインディアンではあいもはん。
エレン (訝しげに利通のまわりを一回りして)インディアンを知っている日本人…
利さん (苦笑しながら)ちっとは知識も持っとうと思っとう薩摩隼人じゃっでな。見たとこい…死神か?
エレン し・に・が・みぃ?
(利通の背後、噴水の縁石に這い上がってきたような手が掛かって、エレンは驚いて指し示し利通の方へ駆け寄ろうとするが、利通は数珠を振りかざすようにして手を合わせ下手の方へ下がる)
クレメンス 大久保君、日本の舵を執られる大久保君、待たれよ。
(白ずくめ装束に白マントを着けたクレメンス・メッテルニヒが噴水から現れて、利通は仰天して腰砕けに仰向けのような格好になる。クレメンスは縁石から優雅に出てきて裾を正して会釈する)
クレメンス 大久保利通君、お初にお目にかかる。その者は私クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒの妻エレオノーレ、正確には、この時間に私と日本語のみで会話することを許している最初の妻であったエレンの精霊です。生き身のあなたが怖れられるのは無理もありませんが、死神ではないので御安心を。
利さん くれめん・すぅ?
クレメンス メッテルニヒはご存じないか?ウィーンの女と静寂の敵、そう、私がメッテルニヒです。
利さん メッテルニヒ!あいやー、まこっにメッテルニヒ閣下で…(頭を振って自分の左右の頬を叩いて、恐る恐る立ってから正面を向いて背後を気にしながら薄ら笑う)兵助どん、なるほど、はんらしいやり方じゃっね…(数珠をかざして)広沢参議どの!
エレン (気味悪がってクレメンスに縋り寄る)Ist er verrückt(彼は狂っているの
)?
クレメンス 日本語しか聞こえないよ。この時刻に冥界で通用するのは、鴉が山犬に語りかけるような日本語…彼は狂ってなどいない。これから帰国して、大久保君はまだまだ働かなければならないのだ。どうやらこの様子では、我々のような霊を彼の目の前に立たしているのは、つまり自分をからかっているのは、亡くなっている同僚だと、そう思いたいのですよね、大久保君。
利さん (数珠を懐にしまい込んで、開き直ったように縁石に座り、クレメンスを斜に見る)おいが見うものは…
クレメンス (エレンに説明するように)大久保君が言っていた兵助、広沢参議とはね、一昨年に日本で暗殺された広沢真臣君のことでね…その広沢君も大久保君と同じく革命政府の要人の一人だったのだが
利さん おいが見うものは、まこっにメッテルニヒ閣下か…閣下の霊を騙る悪魔か?
クレメンス どっちでもいいだろう、日本人の君には…さて、エレン、猜疑心と同僚の亡霊に怯えている輩はさておいて
利さん 閣下!まこっにメッテルニヒ閣下、いや、まこっにメッテルニヒ閣下の幽霊とは申され、おいが亡霊に怯えるとは
クレメンス 分かったよ、興奮するな、と言ってもだよ、昼間あれだけ騒々しいウィーンの万博会場でだね、やっと静まったこの時刻でのメッテルニヒ夫妻のココアの語らいにお邪魔しているのは、元サムライの大久保君、君の方なんだよ。
利さん 閣下!この大久保利通、元も何もなく、根っからのサムライでん
クレメンス (煩そうに白マントを翻して利通を怯えさせる)こんな猿は放っておいてだね、エレン、十三年前に依頼されたレオンティーネの霊の行方だが、コブレンツの古池の隅の隅まで浚ってみたのだが
エレン (クレメンスの胸を突いて)依頼された、と仰ったわね?自分の娘の行方を、依頼されたと!
利さん いかにも、音に聞こえた閣下の傲慢さ、まこっここに見る
クレメンス (形相を変えて白マントを翻して利通に被せ、利通は撃たれたように静まる)燕尾服を着た猿が、不吉な鴉の言葉を解せるだけで、調子にのるな。(エレンに向いて顎を噴水の方へ振る)この辺りも騒々しくなったな。コブレンツの地下牢へ行こう。
(クレメンスはエレンを噴水へ誘って、二人揃って縁石に座る。利通は膝をついたまま気を失っている。クレメンスはエレンの後ろ髪を二度撫で下ろして、三度めで殴るようにしてエレンを噴水へ突き落とす、水音)
クレメンス (座ったまま両脚をひらりと正面へ戻して)すまないね。冥界にあってもメッテルニヒはメッテルニヒ、おまえと一分語らえば、次にはマリアと一分、次にはカタリーナ、そして次にはあのナポレオンの妹マッサウ(Ma soeur)…そうだ、奴の妹カロリーヌの別荘へ行ってみようか。そもそもは奴が失脚して、落ち込んでいる彼女のために私が作ってやった別荘、今じゃ銃と大砲で儲けたユダヤ人が使っているとか…よし、まずは金髪の伊達幽霊が豚どもを大いに怯えさせれば、慄く声を聞きつけてマッサウも現れるだろう。
(クレメンスは舞うような仕種で下手へ向かうが、利通がびくりと目覚める。クレメンスも利通と目を合わせるが、利通の両手だけが争って両脚が動かないのを見届けると声なく笑う仕種で下手へ向かう。間髪をいれずに上手からメラニーが騒々しく足を鳴らして登場)
メラニー おったおった、こん暗がりにおったんね。あいや!(大袈裟な身振りでクレメンスを指差して)万博会場に現れうとは、まこっにメッテルニヒ!あん世に行っても性分は性分ね、生身の女が蜜蜂のごと集まうと聞くと、そやそやまこっに我慢でけんクレメンス。
クレメンス (驚愕の面相を振って冷静を装いながら)メラニー、私の現世の心残り、冥府で君を思わないときはなく、今宵もまた
メラニー (おろおろしている利通の背を突き飛ばして正面を見据える)あんたなんかにに用はんわよ。
クレメンス その男に用はない?それはそうだが、たとえ極東の猿とはいえ、やがては日本の舵を執られる方ゆえ
メラニー ちっと!クレメンス、見かけだけの詐欺師野郎のお化け、あんたのこっぉ言ぅとうのよ。
クレメンス (メラニーへ近づいて彼女の周りを舞うようにまわる)本当にメラニーなのか?
メラニー あたしが追いかけて来たのは、こんサムライだど。あたしは生身だよ、お化けのあんたをいけんやって…おお、気持ち悪い、今になって。
利さん (両手を翳して嬉しそうに)そやそうだ、何しろ幽霊じゃって。とこいで、あん大きな乳の感触は、やはい生身じゃったわけだ。
クレメンス (メラニーから離れて訝しげに)なるほど、生身の酔っ払い同士か…とこいで、いや、ところで、何故、日本語を話せるのだ?しかも立派に薩摩弁とかではないか。
利さん おいが岩倉使節団の薩摩隼人、大久保じゃぁこっ
クレメンス (利通を払い除けるようにして)メラニー、何かにとり憑かれているんじゃないか?
メラニー とり憑かれとうって、お化けに言われてはお仕舞いじゃっどなぁ。
クレメンス (可笑しそうな利通の首に白マントを巻いて絞める仕種)メラニー、聞いてくれ。たとえウィーンの女と静寂の敵だろうが、詐欺師野郎のお化けだろうが、生前は君を正式に三度目の妻として迎えているこのメッテルニヒ、このメッテルニヒとこの時間に鴉の言葉で会話できるのは、冥界にあっても六人、もちろん六人とも女だがね。あとはこういう輩、いつでも腹切り覚悟の日本人だけなのだ。
メラニー (そ知らぬ風に上方を見ていたが急に吹き出し笑い、利通を可笑しそうに指差してから、正面を向いて見よがしに己が両の乳房を鷲掴む)ばれてしもたか、さすがはメッテルニヒ閣下どの。それにしても、こん乳の揉み心地の素晴らしかちゅうこつ、こんまま閣下の最後の女房に憑いていごとかな。
利さん やっぱい広沢参議、平助どんが憑いていたわけか…こげん地の果てまで、船いも乗らんと
メラニー 大久保、おまえの耳の裏に寝そべって快適な船旅じゃったど。最初はおいと同じくインドの蛮刀あたいで切い刻んでやろうと思ったのだが、手ごろなインドの小僧が見つからじ、あれよあれよちゅう間に小刀ひとつ持たんヨーロッパ。誰かに憑いておまえを殺めごとと思ってついて来て…よかった、もっと早く生きとっとうちに来ればよかった、倒幕だ、維新だと、何とも馬鹿騒ぎに乗じていたばかいに
利さん 参議どの、(また短刀を抜いて構える)馬鹿騒ぎは聞き捨てならん。
メラニー (驚いたように笑いながら舞うようにしてクレメンスの背後にまわる)閣下、聞きましたか?ゆうとも仲間を闇討ちしておいて、こん見かけだけの詐欺師野郎!
クレメンス (振り返って、メラニーの両肩を抱き寄せる)生前に何度も言ったじゃないか、だいたい政治家とはね、詐欺師野郎と呼ばれて本望なのだが、大久保君の見かけは、そう、猿だろう?
メラニー (クレメンスの胸を突き飛ばすようにして離れて)やめてくれ、たとえ体は大乳の女でん、やっぱい化けもんでん男は気持ち悪い!
利さん (目を閉じて短刀に念じる仕種の後にメラニーへ斬りかかる)いかいも詐欺師野郎は本望だが、維新が馬鹿騒ぎとは、故人の霊であっても言い過ぎだ!
(クレメンスがひらりとメラニーの前にまわって、利通の短刀を腹に受けて取り上げて微笑む)
クレメンス 残念でしたね、小刀ひとつ持たんヨーロッパでは、幽霊には痛くも痒くもない。いずれにせよ、会議は踊る、このメッテルニヒの女運もまた然り、死してもなお踊り続けねばならない。よって、カロリーヌの別荘へ急がねばならん身ゆえ、君たち猿どもの痴話喧嘩につきあってなどいられない。
メラニー (懐から十字架を取り出してクレメンスの背中に突き立てる)これで黙ってくいやんせな。
(メッテルニヒは少々大袈裟に舞うように倒れる)
利さん 死んだでしょうか?
メラニー 阿呆か、幽霊が死ぬか、たとえ生前は詐欺師野郎でん、生身でこれほどの乳ぶい謳歌しじぁ三番めの妻に刃を立てられてはと、そやそや死んでん女好きは女好き…
(利通ははたと思いついて数珠を取り出して後ろ手に握りこみ、倒れているクレメンスに見入っているメラニーへ同情顔で近づく)
メラニー 大久保、おまえに閣下のよな洒落た為政者は似合わん…(背後の大久保の胸倉を掴んで)じゃっでこん異国の地で女の腹の下で
利さん (メラニーの口の中へ数珠を押し込んで)参議どのに言われうまでんなく、薩摩の芋サムライのままで結構…(メラニーも少々大袈裟に倒れる)そいどん死ぬときは日本の女の腹ん上だ。
(吹き出したような水音、噴水の縁石に手がかかって乱れ髪のエレンが現れる。利通は下手へ逃げ出し去る)
エレン Klemens!Klemens! Metternich!

                                       幕
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