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Gesthlla怪甘   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。ところで、見逃していませんか?ゲスラ、沖縄の市場の隅に打っ遣られていそうなゲスラですよ。ウランを喰うガボラ、金を喰うゴルドン、いい加減にしろと思ったが真珠喰いのガマクジラ…ウルトラ神話の怪獣を思いだすのは圧倒的なボケ防止なのです。ところで、ゲスラが喰っているのはですね、カカオなんですね。チョコの原料なんですね、曲解を覚悟でいえば、可愛くてグロでゲスラは凄いんですね。

 マドレーヌを浸してあれこれと連想している暇があったら自転車に乗って隣町の市場を訪ねなさい。小説の甲殻はそこにある。

 道徳の教科書を一晩で読みこなしたからといってサルトルを読むような少年になることを運命づけられていたわけではない。しかしニーチェという名前を知った。善悪の彼岸にいるという超人。今から思えば「超人主義」だとか何だとか、よくも小学校の道徳の教科書に印字掲載したものだ。

 友遠方より来る、というが、熟考してみると中年男にとっては大変なことである。仕事や立場の憂いを一掃して、自転車競走や酔っての喧嘩の記憶が、この双肩に活を入れるべく京都駅に降り立つのだ。

 ある作家が偉大であることを感得する機会とは、巷で話題になった小説や戯曲といった手塩にかけた主作物よりも、時事や世評に対して素直に感応した論評や献辞などの短文に接したときに往々にしてある、ということが評伝の前書や後記に見てとれる。そして再認させられたその偉大さをもって作品は読み返される。正直なところ私にとって「坊ちゃん」の胃弱の作家は、三島由紀夫が「神のように尊敬」した軍医の作家と比較すると、近代日本の悶々とするヤヌスの首領格に思えていた。しかし漱石の佐久間勉の遺書に関する「文芸とヒロイツク」を読んで沈思せざるをえなかった。「重荷を担ふて遠きを行く獣類と撰ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行為があると云ふ事を知る必要がある」ここに漱石は獣類と比して不可思議がっているが、自然主義者の無気力性を看破して反抗する理性を見出している。私はその悩める風貌から勝手に覆ってきた安易な文弱蔑視を引き剥がして、運命や環境に臆しながらも反抗心を捨てていない縄文の日本人を見る。
 私は潜水艦を舞台とする映画が好きだった。八方塞の鋼鉄に守られた単純に男臭い場は、裏返してみれば自閉的な秘められた暴力性の証だったのかもしれない。佐久間艇長について調べていると、案の定、私の口に「戦争はやっぱりいかんわな」と「なんや八甲田山の話みたいやな」という言があがってきた。そして事件や行為を凌駕する人間を信頼するゆえの正当な反抗心に遭遇した。「希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ」確かに開発をやめることはできない。やめられずに持続されたからこそ、我々は日本海溝の最深部の水煙を茶の間で見ることができる。私は「そっか、戦争は知恵のきっかけでしかないわけやな」と呟きながら小さな第六潜水艇のモノクロ写真を見ていた。
 言葉というものは共感へ向かうための道具と思われているところがある。確かに事件状況を伝えるだけならば、日時に経過、前後の挨拶や謝礼で済むだろう。しかし残すべく最後の言葉とは、大袈裟に聞こえるかもしれないが、生きつなぐべき生命の反抗の言葉であろう。まさに残す言葉において人間は偉大な存在になる。偉大な存在として認知される人間は絶対的に虚無に抗う。人間が虚無に抗うには、意味を超えたところの創造、計数、そして言葉という認識の三種の神器が必要になった。勝手に絵画や彫刻などの創造を反映として八咫鏡、空間や大小の把握などの実用から計数を草薙剣、とすれば言葉は八尺瓊勾玉となろうか。佐久間勉は勾玉を残したのである。縄文の末裔の漱石が感激したのは当然のことだった。

 甘い怪獣ゲスラ
 カカオ豆を喰うゲスラ
 真珠を喰うガマクジラに向かって
 フジ・アキコ隊員は絶叫した
 やめて、やめて、やめて~
 金を喰うゴルドンに向かって
 金細工師は怒鳴った
 ようやるわ、円谷プロダクション
 ウランを喰うガボラに向かって
 原子力工学専攻の院生は呟いた
 非効率的な採取なのは確かなのだが
 ゴジラとの関係にまで思いを巡らす俺は正気なのか
 カカオ豆を喰うゲスラに向かって
 五十四歳になったヨシコは微笑んだ
 美味しそうだね
 ゲスラの分厚い唇
 かぶと煮にしてさ
 ポリフェノールの渋さが残るんだったら
 カベルネ・ソーヴィニヨンが合うのかね
 なんとも怪甘ゲスラさま
                                       

敵あるいはフォー (新しいイギリスの小説)

敵あるいはフォー (新しいイギリスの小説)

  • 作者: J.M. クッツェー
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1992/04
  • メディア: 単行本



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