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桶柑   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 そこは住用の森、晩冬の朝、ボロボロノキ(襤褸襤褸木)に降る雨で明けてゆくのをオオトラツグミ(大虎鶫)が見守っている。リュウキュウハナイカダ(琉球花筏)の葉の下では、雫の滴りを待っているかのように、錆びた甲冑姿のイボイモリ(疣井守)が何やら蕭然と佇んでいる。ツグミはイモリの気持ちを勝手に想った。彼は彼女を見て、イモリはハナイカダの小さい花びらをつつくルリカケス(瑠璃橿鳥)を見て、始原な姿のままの自分の怪胸と進化の先のカケスの青い胸、神々は、悠久の営みは、褐色の地上から瑠璃の晴天を望まれているのだろうか。それにしても曇天のまま風雨は舞っている。山霧は炊煙が払われるようになぎ切られて、夕べからの祝祭が続いているかのようにソテツ(蘇鉄)を光らせ揺らしている。
 山崎涼子(やまざき・りょうこ)は四十歳になっていた。商社勤めからは解放されていなかったが、指先が凍てつく永久凍土の無菌状態からは脱出して、倒木に生えたばかりの粘菌マメホコリに素手で触れられていた。その雨に濡れそぼっている豆袋に、未知の険しさが宿っているにせよ、涼子の指先には慄きも侮蔑もなかった。
 倒木を押しとどめていたのは錆びた鉄条網だった。見上げてみると、鉄条網に囲われた畑からタンカン(桶柑)の枝が垂れしだっている。そして橙よりも黄金に近い色の実が、絶対的な存在として雨に光り揺れていた。
「タンカンには「桶柑」(タンカン)の字があてられていて、中国で行商人が木桶で持ち歩いたがこん由来とされています
「タンカンには、オケ(桶)にカン(柑)で桶柑の字があてられていて、なんでん…中国で行商人が木桶で持ち歩いたのが、こん由来とされています」
 民宿の主人がどこか済まなそうに言っていた。
「ポンカン(凸柑)とオレンジの交配種なのよ」
 いつまでも聡明な母は電話の向こうで面倒そうに言っていた。
 昨日、涼子は郵便局で携帯を切ってから母へ五キロ箱の発送を済ませた。ベンチで送り状をしまいながらノートを取り出して検索した。
「タンカン、桶柑、短柑、ポンカン(凸柑)とネーブルオレンジの自然交配種タンゴール (tangor) の一種、学名はCitrus tankan、ミカン科の常緑樹、中国広東省が原産地で、一七八九年に台湾北部の新荘に導入…」
 そして今日、薄暗い森を抜けてきた涼子の前に渾然とオレンジ色がある。雨に濡れた果物が眼に刺さる。未だ遭遇していないハブの死毒、それもこんな色をしているのだろうか。紅い毒、辰砂は硫化水銀HgS、なんと始皇帝の不老不死薬、なんと愚かな彼や彼の時代。そしてその愚か者の末裔こそが、潘(ハン)や涼子ではないかと桶柑が苦笑している。
「奄美市の住用町…そこに何かあるのか?」
 潘世備(ハン・セイビ)GM(ジェネラル・マネージャー)は、日本の商社へ売却したMOX運搬権利の最終報告書を脇へやって首を傾げた。MOXとはプルトニウムとウランの混合酸化物燃料である。
「ご存知のようにハブという猛毒の蛇がいますので、あたしのこの少年のような胸を咬ませてみようかと」
 解任されたチーム・リーダーの涼子は、上司の机に置いていた右手を己が右胸において応えた。
「まったく、この十三年ほどの君の働き、この国の原発事故に際しての対応、何よりも東奔西走ぶりは、地中海を手玉にとったクレオパトラにも相当するだろうさ」
 大阪とボストンに学んで日本語と英語に流暢な潘GMは拝むような仕種で続けた。
「せめて、せめてだね、もう煙台の太陽光発電の話は一切出さないから、シンガポールのうちのワイフの話を聞いてみてくれないか」
 そう言われて涼子は飴細工のグラスを噛んだように絶句した。そして山東省出身の上司を前に呵々大笑を我慢できなかった。
「ごめんなさい、可笑しくって…ごめんなさい、そうね、ここでクレオパトラを持ってきたら、自棄になっていると思っちゃうか。やけ、自棄よ、やけくその自棄、可笑しい…潘さんは優しいから、マキャアベリじゃないからCEOにはなれないわ」
 涼子は思い出した笑みを呑み込むようにして額の滴りを払った。
「フランクフルトからプリピャチ、そしてイルクーツク、ノリリスク、あとは福島…どこに行っても寒かった。でもここは温かい。冬でも温かい。雨が冷たくてもタンカンの色は温かい」
 涼子は躊躇せずに少年のような手つきで桶柑をもぎとった。
 住用の森、晩冬の朝、茹ったように明けてゆく様を、ボロボロノキでオオトラツグミが見守っている。リュウキュウハナイカダの葉の下では、錆びた甲冑姿のイボイモリが、ハナイカダの花びらをつつくルリカケスに見蕩れていた。

                                       了
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