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淡水5時25分   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 月曜日の夕刻から行方不明になった周旦啓(チャウ・ダンチィ)が、新龍教のシンボルである南龍さまの腹から発見されたのは水曜日の朝だった。一報は張りこみ明けの淡水分局の林亞星(リン・ユシュン)にとっては不意打ち以外の何ものでもない。亞星は怒りのままに切った汗ばんだ携帯電話を、対岸の薄明に黒々と鎮座する観音山に向かって投げつけたい衝動に駆られた。凪いでいる河面には未だ街灯が似合う時刻である。亞星は熱い嘆息の後、いささか逡巡しながら彼女の番号へ発信した。延び延びとなっていた休暇の水曜日、昼食を八里左岸の「余家孔雀蛤大王」に予約していたのである。
「そう、南龍さまっていうのは龍の頭が載っかった…そう、塔で、そう灯台みたいな…そんなに怒らないでくれよ」
 亞星が哀訴する電話の向こうの彼女、三峡分局の張妙珊(チャン・ヨンシェン)はカーテンを殴るようにひいた。
「怒っていないわよ。まだ薄暗いじゃない…そんなの絶対に自殺に決まってるわよ、刑事さん」
「そう、自殺かもしれない、逮捕寸前の新興宗教の教祖ならね」
「だったら十一時ぐらいまでに処理すれば間にあうわよ、孔雀蛤大王には。あたしは山奥からそっちへ行くのよ」
「分かっているよ。だけどね、君がやっている交通隊の事故処理のようにはいかないよ」
 妙珊は金属音に似た唸りのままベッドへ倒れこんだ。
「いつもそうやって…いつも交通隊の勤務を誰にでもできることだと思って…」
 亞星はいつものように眼を閉じて右指を二本立てた。
「落ち着いて妙珊、俺は深呼吸をしているから君も深呼吸してくれる?いいかい、二つ方法があると思うんだ」
「一つは来週に延期するってのはなしよ」

 淡水には日輪を追うようにして錫の器が馴染んでくる。煩悶している梁さんには、その涼しくて鈍い輝きが、どこか怒り心頭に達したオランダ人の瞳に似ている、などという詩想が横行する。しかし薄明も覚束ない五時二十五分ではないか。己の逃げ腰にはいつもながら苦笑させられる。梁さんこと梁烏(リャン・ウー)は錫の杯を訝るように置いて書きだした。
「周の先祖が、巴賽(バサイ)族であるのか、雷朗(ルイラン)族であるのか、この二つの支族のどちらであるのか、それを特定することは周の祖父にあっても難しかったであろうと推察する」
 梁さんは退職したばかりの西園小学校の封筒で蝿をはらう仕種をする。
「致し方ない、周自身が語っているように、父方の先祖は、凱達格蘭(ケタガラン)族であろう、ということで稿を進めよう。本稿の目的が、貢寮(コウリョ)に建設が予定されている第四原子力発電所に対する」
 ここで梁さんのペンは断ち切られるように止まってしまった。正確には止めざるをえなくなった、西園小学校の教員である張先生からの電話によって。
「うちの娘は三峡分局に勤務していますから、交通隊ですけれど、その…淡水分局に知り合いがいるらしくて…まず間違いない情報でしょう」
「周旦啓が死んだ…自殺なのでしょうか?」
「さあ…検死報告の結果が公表されるのは午後になってからだろうと、娘の妙珊が言うには」
 梁さんは思わず原稿の上に置いたペンの下に二本の赤ボールペンを引き寄せた。
「いいですか、そもそも北投(ペイトウ)の山奥で始まった新龍教ですが、貢寮と淡水に建物を持つまでに至ったこの七年、いや八年ですか、この八年、周旦啓にとって追い風になったのは、何といっても凱達格蘭族の集落遺跡を破壊しての核四(ハースー)の着工、そして日本の三・一一東北地震、さらに台湾電力の工事上の事故に対する自力解決の断念などでしょうが…そうですね、私も起きてはいたのですが、些か眠気を引き寄せてはいたものですから正に寝耳に水です」
 張先生は取って着けたように大声で笑って娘の妙珊を手招いた。
「今晩、対岸の八里左岸、えーと、孔雀蛤大王っていう店で、食事をしながら話すっていうのはどうですか?」
「そちら三峡から?淡水までお見えになるのですか?」
 妙珊は父から携帯をさらりと取って右指を二本立てた。
「お久しぶりです。二つ方法があると思うんです。一つは週末に父と台北で会って、台湾中が知ってしまった周旦啓の死因を何度も復唱する。もう一つは今晩、淡水分局の林刑事から生々しいすべてを聞かしてもらう。大丈夫です、あたしは孔雀蛤を食べていますから…大丈夫です、あたしは誰にでもできる交通隊勤務で、しかも今日は非番、必ず約束を守ります」

                                       了
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