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乍椰   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 錦から戻ってみると乍椰(さや)はいなかった。
 夕飯の買い物にしては早い時刻だと思ったが、梅雨入りして間もない蒸し暑い日だったので、何か涼をとれるものでも欲しくて出掛けたのだろうと思っていた。僕も充分に乾いていたので自ずと台所へ向かった。流し台の上の扉が開いている。乍椰は几帳面な方ではないが、一緒に暮らして三年ちょっと、僕が開閉と整頓に煩いことは乍椰も嫌々ながら分かっていた。しかし扉ははらりと開けられたままで、爪先を立ててみると木箱の端が見えた。蛇にでも触れるように手を伸ばした。松尾の鶏鍋屋の主人から戴いた、武生の手打ちの出刃包丁、それが収まっていた空箱である。僕は出刃が収まっていた切れ込みのあたりを撫でながら膝をついた。一昨年の暮れだったろうか、鯛の兜を切るのに牛刀ではどうも、と勿体ない思いを引き摺りながら手にした記憶があった。あれを、乍椰はどうしたというのだろう。流し台の下の扉を開けると、彼女が使い込んでいる牛刀と果物ナイフはそのままあった、昼寝を起こされたように鈍く光って。
 僕は渓の最上流部に着いたかのように流し台に指を掛けた。まいったな、どないしよ。洗っていないコップで生温い水を二杯飲んだ。自分で包丁を持ち出したというよりも、誰かに唆され持ち出したんかな。膝這いしながら日焼けした畳に辿りついて、とりあえず仰向けになった。持っとくんやったな、携帯電話の一つくらい、素直に。いつもの午後なら、この時期はやんわりと眠くなる。書置き一枚を残して、東京は西荻窪の親友、嶋(しま)さんの処、伊丹からいっきに奄美大島の故郷、この辺に急に出掛けてしまう乍椰ではあるので、呼吸を整えて落ち着いてみれば眠くはなりそうだった。しかし一度しか握っていない出刃包丁の切っ先が、遥かな雪山の高峰のように凛々と目蓋に去来するのだった。

「彼女は普通の子じゃありませんからな。いや、代用教員ということで戻ってきたときも、とてもとても…そう、少々、変わっていますからね」
 扁平な輪郭に引き目鉤鼻といった古風な顔立ちの教頭は、黙っていればいかにも教育者らしいのに、浜風に呼応する日陰杪欏(ひかげへご)の葉擦れのようにしゃらしゃらと話し続けた。
「生まれながらの縄文人ですな。そして、縄文人は憧れていたのでしょう」
 大島郡龍郷(たつごう)町という場にあって、龍北(りゅうほく)中学校の教頭自身は些か不似合いな弥生顔なのにそんなことを言った。
「憧れていた…何に憧れていたのですか?」
 僕は汗まみれの顔を上げて教頭に聞いた。敵わんわ、頼むで、おっさん。急いでいる身には揶揄ともとれてしまうその喋り方、それに辟易してきていたから掴みかからんばかりに口先を尖らしていた。
「それにですよ、彼女が、乍椰が縄文人ってどういうことですか?」
 教頭は僕の近眼と右上腕二頭筋を見ながら、いくらか仰け反るようにして困り眉で説明しだした。
「どういうこともなにも、乍椰の実家がある秋名(あきな)というところはですな、奄美大島では随一の稲作地なのです。ご存知ありませんかな、そこでは毎年、九月の初旬、旧暦でいう八月の最初の丙の日、豊作祈願として『ショチョガマ』という行事が行われるのです」
「ショチョ…ショチョガマぁ?」
「そう、ショチョガマです。この行事はですな、夜明けに片屋根、日の出に向いた屋根の上で、西東の稲の霊『にいやだま』を招来して豊作を祈願するのですが、なんといっても盛り上がりは、この片屋根を大勢で揺すってばったりと倒すのですが…お急ぎですか?」
 僕はやっと降りてきた教頭の気配りに頷きながら右肩で右頬をぬぐった。
「そうですか、冷えたお茶でも出そうと思ったのですが、お急ぎですか。とはいえ、申しあげたように、乍椰の基(もとい)の家はなくなっていますからな、ここの他に彼女が訊ねてくるとしても…あとは海ですかな」
「平瀬っていうところは行ってみましたが、なにぶん海と一口に言われても周りは海ですから…戻りますと、乍椰が生まれながらの縄文人ということ、このあたり魚屋にも分かるように話してもらえますか?」
 なにを聞いとんねん、おっさん相手にしとる場合かぁ。鯔背(いなせ)な魚屋には程遠い僕の執拗さに、教頭はどこか安堵したように手招いて椅子をすすめた。
「基はですな、ここから奄高、奄美高等学校の家政科に進学して、そこで二人の友人に恵まれたんですな。夏休みに龍郷へ戻ってきたときに連れて来て、屋(おく)という天然パーマの子と、嶋というえらい背の高い子、彼女はモデルさんみたいでしたな…」
「それで、その二人が乍椰と縄文人と、どう関わるんですぅ?」
 教頭は矢継ぎ早を制するように骨っぽい手を振って給湯室の方へ向かった。そして冷蔵庫を開けてしんなりと項垂れた。
「体育の授業の後で飲みおったか…そのぅ、屋という娘、屋和枝とか言ってましたかな…私も若かったですから見た瞬間に、こう何というのか、鳥肌がたちました。彼女は正真のユタの家系で、小学生のときからカンダーリィ、つまり神倒れを日頃から起こしているような子だったのです」
 教頭はがくがくと膝をふらつかせながらペットボトル二本を抱えてきた。
「どうぞ、売り出したばかりの、え~と、奄色(あまいろ)とかいうミネラルウォーターですな…そのぅ、屋という娘が率先して、ここ龍郷に行きたい、基の先祖は典型的な縄文人で、鋸歯の文様のボウル状の土器、専門的には曽畑式土器とか言うそうですが、そのぅ、そういうものまでもが基の、乍椰の背後に見えると申して…」
「先生は、あの乍椰が、先生が知る子供の頃の乍椰が、そういった能力、友だちが持っていた能力、そのぅ…」
「ユタ、つまり巫女ですな」
「その巫女の能力が、乍椰にもあったと」
「思いませんな。基は変わった子でしたが、ユタの友人が語る、縄文の世界やらに憧れたりですな、度々帰ってくるここ、奄美の風土を愛していた、そういう普通の島娘ですな。そのぅ、京都では随分と変な娘に見えるかもしれませんが…」

 乍椰は西荻窪の嶋さんの処にいた。嶋さんが営んでいる店の常連客、それなりに名の通った経済学者らしいのだが、泥酔のまま嶋さんに迫って拒まれ、挙句に嶋さんの肩を脱臼させてしまった。病院の嶋さんから乍椰に電話がかかってきて「生真面目な男でさぁ、生まれは福井の武生、刃物で有名なところでね。知っている?そう、その武生で、彼の実家も鍛冶屋だったみたいね。だからさ、彼もひょろひょろの飲兵衛の学者だとばっかり思っていたらさ、けっこうな腕力でさ…乍椰ぁ?大丈夫ぅ、泣いてるのぉ?」などと拝聴したようである。僕は経済学者の痩せた姿を想像しながら、嶋さんの携帯番号をもう一度聞き直して受話器を置いた。なにをしとんねん、乍椰やなくて自分のことや。ほんで乍椰の様子も聞かんと、ほんまにええ格好しいやな、サゴシの小坊主が笑うとるで。サゴシはサワラ(鰆)の若魚のことだが、生意気に直視してくるサゴシが、出刃包丁について聞けなかった僕を苛立たせていた。

                                       了
トモスイ (新潮文庫)

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  • 作者: 高樹 のぶ子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 文庫



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