SSブログ

武蔵野   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 虎能(とらとう)の三十九歳の夏は、夜ともなると井の頭公園での待ち合わせに費やされていた。彼は毎夜、二十時頃になると、中央線のガード下でタクシーから降りた。寝起きのような無精髭、八つ橋の絵柄のアロハ・シャツにサンダル。ゆっくりとした足取りで公園の方へ向かうが、ここでまず尾行の按配を確認することにしている。煙に巻くには煙のある焼鳥屋『いせや』が定番だった。小走りにしてみせて小路の脇口から焼鳥屋へ入る。そして昨夜と同じ注文を慣れた口調で言った。
「皮焼きと葱間を三本ずつにビール一本」
 小路の向かいの郵便局前で佇んだ若い女。ここのところ尾行し続けてくれている奴だが、あまり衣装持ちではなさそうで毎度の紺スーツ。苦笑いしながらビールを飲み下して煙草に火をつける。しかし葱間と皮の皿があがってくるまでに、彼は別の尾行者のことを思わずにはいられなかった。
(お勉強ができそうな背の高い警部補さん…最近どうしたんだろう) 
 残った葱間の串を摘みながら焼鳥屋の正面から出た。公園の入口で大通りの方へ振返ってみる。尾行の腕が上がったのか、彼女は慌てず自然に距離を置いてついて来ていた。坂を下って池へ向かって行くと、ぼんやりと柵に腰掛けていたガンバの5番のレプリカを着た若い男が顔を上げた。
「ツネ、降らなくて残念だったな」
 虎能がそう言うとツネと呼ばれた男は不意を突かれたかのように柵から降りた。そして鎖をじゃらつかせながら携帯電話を取り出して虎能に示した。
「青梅の三邸は完了しました。塗装は程々で、木目を生かしたものばかりですから、守りは容易いでしょう。ところで、余計なことかもしれませんが、キーパーの話では、守りの要にどうも問題がおきている様子なのです」
 虎能は微笑みながら抑えるようにして電話を戻させた。
「リベロのことは知っている。知り合って二ヶ月の女と結婚したがる…そういう男だ」
 気がつくと薮蚊が二人を取り巻いている。
「人が純粋なことはいいことだ。しかし、女を理解しようとして消耗するやつは…薮蚊よりも劣る」
 虎能は葱間の串で執拗な一匹を追いながら苦笑した。
「私も、これでも最近、気になっている女がいる。しかし、私の純情をいいことに、その女はいつも私の敵でいたがっている。私はそう思っている。しかし、私は幸せだ。何故なら、私は彼女を理解しようと思ったこともないからだ」
 ツネは縮れた髪へ続く耳元で薮蚊を叩いて頷いている。
「くりかえすが、私が次の土地へ移動する時は、キーパーは上海へ戻る。後の全てはおまえ次第だ。おまえなら勝ち続けることができる」
「俺なんかとても…」
「今は攻めている三人に、もっともっと気を配れ。くりかえすが、生産しない者にはゲイドーを自覚させるのだ…芸術を吹き込め」
 虎能は葱間の串をツネの鼻先へ翳した。
「さて、今晩はどうも薮蚊ばかりじゃなくて野良猫もこいつを狙っている」
 ツネは串を受け取りながら背後から池の方へ視線を流した。

「わかりました。ずぶ濡れの試合しか見に行かない俺を理解してくれているのは、あなただけだ」
 長すぎる脚を舞うように交差させて、風を孕んだ懐を押さえるようにして去っていった。
 虎能は長身の背中をしばらく見ていたが、彼とすれ違って坂を下ってくるカップルに、迎えるように目を細めていった。
 男側は薄鼠色のスーツをだらりと着てサングラスをつけていた。街灯が色白を際立たせている。ベージュ地に中濃ソースを滴らしたような模様の『ソニア・リキエル』のネクタイを、緩めたり締め直したりして気にしていた。
 女側はチノパンツと純白のTシャツを結ぶレモン色のベルトが目をひいた。肌は黒い方だ。あんぐりと夜空ばかり見ていた。
 虎能は会釈するような仕種で坂道に背を向けると、飼い猫と路上で出会った時の気持ちに似て小走りに橋を目指した。
 池面がざわつきはじめていた。台風が近づいているらしい。菩提樹の葉擦れは気まぐれな風によるものだった。
 欄干から黒々とした樹相を見ていると、フランクフルトの夜の窓辺に少年の自分が見えてきた。濃紺の表紙のヘルダーリンが風に閉じる。老人のように乾いた闇を愛していた。やはり薄らと街灯が菩提樹を照らしていて、遠い東へ帰ってしまった母を、風が襤褸切れのように枝へ架けてくれないものか、と思っていたものだ。母の国へ来る前の年に、菩提樹は雨に熔けてしまった。戦火や爆風にも耐えてきた老樹が、三日降り続いた雨に熔けてしまったのだ。木々の騒がしさがなくなれば、猿の国でも母の国でも行かざるをえなかった。
 欄干に鈴なりのアベックがもたれきった時、一瞬の強風で桜葉が菩提樹を蔽ったように見えた。
 虎能は弾けたように哄笑した。
「…だって、あなたは目立ちすぎますよ。バラバラ殺人の時は、制服姿だったと記憶しています。あなたのような素顔美人には酷な仕事だ…」
 いつのまにか反対側の欄干にもたれていた久美子は、Tシャツにはりつくような胸の汗を感じて振返った。短く刈った黒髪の下で、象牙色の環のイヤリングが涼しい。厳粛な諦観を秘めた少年のような眼は、完璧を形容して臆することなく美しかった。
「戴冠…代表取締役Torato von Schwarz…モーツァルトが大好きなフランクフルト生まれの社長が経営する北欧家具を輸入販売している会社、とは表向きのことで、資産家が所持する高級家具やピアノの傷を修理しているとか…」
 虎能が笑いを浮かべたまま振返ると、久美子は反射的にチノパンツから両手を抜いた。
「海苔はお好きですか?」
 一斉に葉桜の木々が突風になぶられはじめた。
「海で収穫され、あのように乾燥して作られていることを知った時、すぐに、フランクフルトにある庭園…ボッケンハイマー庭園の池を思い出しました」
 虎能は揺らめきながらそう言うと、渋い眉間のままアロハの裾で眼鏡を拭きはじめた。
「この池とあの池ではまったく似ていませんが、バラバラ殺人のあったこの公園にも池があると知ってから通っています」
 久美子の眉間に訝しさが浮かぶと同時に、能役者が登場するような手際で絵里子が現れた。
「こういう詩人のような話し方をする人なのよ、シュワルツは」
 サングラスとネクタイを内ポケットに押し込むと、虎能が『最後のリビア山猫』と形容した敵視が刺さってきた。
「海苔がどうかして?」
 四十代半ばにして目尻の小皺ひとつ残さぬには、嬉々たる二十、三十代を過ごさずに男性と対等に仕事をすることだ。
「警部補さん、半年以上も尾行されると、お互いに飽きてくるものだが…こちらの若い刑事さんのご登場で、なにやら、おもろしろくなってきた」
 絵里子は虎能にゆらりとにじり寄った。
「不謹慎な物言いはやめなさい。別件で如何様にも逮捕してよ。それに、バラバラ殺人とあなたは何の関係もない。そりゃそうでしょう。先攻と後攻があって、先攻に傷をつけさせて、後攻に修理させる…そんなことをやっている人ですもの」
 虎能は絵里子の首筋に蚊に刺された痕を見つけた。白さを際立たせるように血流が凝縮する。彼女の辛辣さに諧謔として動じるには、相手の腹の座った歩み寄り方を知りすぎていた。
「海苔の話はこうです。私が日本へ来るちょっと前のこと…幼なじみの女の子が、ボッケンハイマー庭園の池で発見されました。後から知ったことだが、強姦され、首を絞められていたらしい。第一発見者らしい…この私は、脚が竦んで、錆びた色に濁っていた水面の、ピカピカと言うか、テカテカと言うか、そう、鈍く光って見える彼女の黒い皮コートを見ていた、しばらくの間。それが…日本の海苔、醤油につけたあの海苔、海苔にそっくりに見えたのです」
 絵里子は打っ棄るようないつもの肩使いを揺らした。分からない久美子は幸いに女の魅力に足りていなかった。分かろうとしない絵里子に虎能は微小な殺意を憶える。それが唯一の女性への感情だと知ってからは幸福だった。
「多くのまともな女性たちは、同じ空気を吸いたくない男性の順位として、狂人の次に詩人を選ぶかもしれない」
 読み上げるように虎能の台詞が置かれた。
 絵里子は苦笑しながら振返って、久美子の真剣な眉間にかかる後れ毛を一瞥した。
「どうしても目立ってしまうドイツ人が、甘い感傷にばかり浸っている中年男が、こうも尻尾を捕まれずにやっていられるのは、やっぱり、部下ができているんでしょう。それしか考えられない」
 男は最初のときめきを手繰り寄せるように、女への微小な殺意を求めて目を伏せた。虎能が目を伏せたことは絵里子を饒舌にさせる。こうなれば男は経験豊富だった。
「それでも、社員が十四人ぐらいいれば、一人二人の泣き言は聞こえない。たとえ聞こえていても、鼻で笑って、代わりがきくとおっしゃる。それもこれも、まともな人間の集まりならともかく、世界中の屑の中から隅の方を摘まみあげたような集まり…代わりはきかないわ。一人が折れれば総崩れ。昨日、頼みにしている修理の名人が網にかかってきたわよ。ねえ、公園で部下の報告を待ちながら感傷的になっている暇はないのよ。言っちゃうね、あなた一人だけがご立派なドイツ人なのよ、シュワルツ。あとは日本の女を欲しがっているアジアの滓」
 虎能は鼓動を指先に感じたくて胸に右手を入れた。絵里子は構える。彼の眼は這い上がるように若い久美子を捉えていった。
「インゲボルクを殺した犯人は日本人でした」
 久美子の怜悧な顎先を凝視し続けた。
「小柄で、禿げあがっていて、極度の近眼で…青ざめた日本人でした。パリからの帰りに憧れのゲッチンゲンに立ち寄った、中年の数学者とか…。ともかく、警官達にヴェストエンド広場の花と言われていたインゲボルクは、日本人に殺されたのです」
 絵里子はさすがに久美子への視線を遮ることなく言い放った。
「さぞかし日本人が憎いでしょうね」
 虎能は背筋を伸ばして久美子へ近づいた。
「あのとき、私は、その日本人に感謝すべきだったのです。海苔のような黒髪を憐れむように見下すインゲ、金髪を靡かせて募金に走り回る長身のインゲ…私が殺したかった」
 久美子は反り返るようにして身をかわした。
「しかし、なにもやっていない」
 虎能は揺れるイヤリングを追った。
「私が日本に来て最初に憶えた言葉…なにもやっていない。それなのに逮捕したいと言うのですか?」
 久美子の肩に男の手がかかった瞬間、絵里子の手刀が首筋を打った。かなりの大声をあげてだらりと落ちた。久美子の額に後れ毛が張付いている。抱えあげられた男は不思議なほど軽かった。
 虎能は女に支えられてだらしなく見える男ではなかった。
「…暴力は大嫌いだ」
 虎能は喘ぎながら久美子のイヤリングに鼻を近づけた。
「ドイツでも女は追ってばかりいては駄目…女に捕まることもイッキョー(一興)」
 絵里子は野次馬に向かって凛とした声を響かせた。
「警察です。騒がないでください」

                                       了
ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 新書



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ: