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小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka ブログトップ
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華菜   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 紀ノ川に沿った粉河寺の門前町に市がたつ。青々とした野菜ばかりが並ぶなかに柑橘が見えた。季節は春も盛りとはいえ、四季を問わずに柑菓が見出せる昨今にあって、唐突ではあるが鬼頭のような柑橘が見えた。拳大の山吹色のそれを三宝柑といった。
 市のおばちゃんが欠伸を続ける前で、色黒の娘がおもむろに歪なひとつを取り上げて、勾玉でも見出したように見つめていた。彼女は女子高生の佐々木華菜(ささき・かな)、十六歳である。眼差しはじっと右手の三宝柑にあるが、思いは左手の切頂二十面体のサッカーボールを模した小銭入れにあった。
「あのね、これを五個ほしいのだけれど、キロあたりから計算すると…五個で六百円くらいはするよね?さっき使っちゃって…五百二十円しかぁいのよ」
 おばちゃんは顎の先を掻きながら頷いて、スーパーのビニル袋に五個を放り入れた。小銭入れには五百円硬貨一枚と十円硬貨が十枚以上押し合っていて、華菜は息を呑んで五百二十円を渡した。これでお父ちゃんと兄ちゃんの分も確保できた、酒ばかり飲んでいて「わっしゃは食べたくないよ」と言うに決まっているが。
「ともかく、こういったもんのクエン酸は、細胞呼吸を促進して、疲労回復や造血作用に働いて、アセトアルデヒドを分解して二日酔いを防ぐ、とあるから食べた方がええって」
 華菜がそう言って、三宝柑を剥いた手の黄ばみを目にしたとき、お父ちゃんが兄ちゃんに向かって思い出したように聞いた。
「松本さんの奥さん、むかしぃ…ストリッパーだったんだってぁ?」
 柱時計の振り子がこのときとばかり硬質に振れたような気がした。兄ちゃんはコップ酒につけた唇を窄めて、一変に二十年は老けて五十前の矢沢栄吉のような顔になった。お母ちゃんは条件反射で正座し直した。不思議なもので、お母ちゃんの改まった正座は、風や虫を避ける仕種のように華菜へ伝播した。あとはいつものように、兄ちゃんが上の空で聞き流してくれれば、お母ちゃんも華菜も膝と腰を弛めていける。この晩の兄ちゃんは格好よかった。
「どなたはんが、そがなことを言ってあったんだ?」
「ああ、サッカー部の顧問の…」
「顧問の先生と言ったら、漢文の先生やろう?」
「ああ、そうなのか…」
「そがなことを、漢文の先生がお父ちゃんに教えてくれたのか?」
「ああ、いや…」
「お父ちゃんな、気を使ってな、むりにそがなことを話さないでもええんだよ」
 お母ちゃんは兄ちゃんが寄りきったと見るや、箸と茶碗を音もなく置いて、背筋を伸ばして顎をひいた伏目で首を横に振った。
「悟(さとる)、声が大きいちゅわけよ」
「大声を出さしちゃるのはどなたはんやろ?」
「みんながみんな、同じような気持ちかどうかは分からんよ」
「やしぃ、それを言ってるんだよ。無理にくだらんことを言わなくてもええ、そうやろ?」
 お母ちゃんの柔和な視線は、兄ちゃんのコップを掴む指先から側頭部辺りまでを辿る。そして兄ちゃんの首筋の赤らみ具合から、停滞してきたアセトアルデヒドの性質を読むのだった。
「怒らんでね、邦子ちゃんと何よあったの?」
「なぁんもないよ。なんで、うちの親は怒らせるようなことばっかり言うのやろうわ」
「やしぃ、怒らんでね、と言ったやないちゅわけ」
「やしぃ、そういう言い方は、俺が怒るのが分かってあるからやろう?」
「ええかい、おまえが理屈っぽくなってきたときは、外で何よあったときなのよ」
「それはそやろう、外に働きに出てあったら、何よ、ええこと、わるいこと、あるにきまってるちゅうわけよ」
 兄ちゃんはそこまで言うと、啜る滴もないコップを置いて、白々としている三宝柑に手を伸ばした。房を丸ごと頬張って酸味に顔を歪めた。華菜には益々格好よく見えた。
「華菜、まだ酸っぱいけれど、体には良さそうだな」
「そうやろ、兄ちゃんのためを思って買ってきたんやしぃ」
 お父ちゃんはそう聞くと、コップをかっつんと置いて柱時計の方を見上げた。そうそう、風呂に行ったほうがいい、と言わんばかりにお母ちゃんは素早く立って、お父ちゃんを促すように風呂場へ向かった。お父ちゃんも廊下を鳴らして向かって行った。
「兄ちゃんは、松本コーチの奥さん、ストリッパーやったのを知ってあったの?」
「松本さんの奥さんはな、ちっとかり男っぽくて、性格がストリッパーなんやろうな、きっと」
「性格がストリッパー…」
「そがなことより、三宝柑、やっぱり五個買ってきたのやしぃ、はやく摩魅(まみ)にもあげてきなよ」
 華菜は驚いた眼を上げた。兄ちゃんの合わせられない眼は、お母ちゃんに似た目蓋の下で泳いでいる。華菜は剥いていない三宝柑を持って仏壇へ向かうとき、少々生意気ながら妙な確信を持った。兄ちゃんと邦子さんは、そこそこ旨くいっている。そして小学生の姉、摩魅の顔写真の前に、なかなか居座らない山吹色の三宝柑を置いた。

                                       了
ハロルド・ピンター (2) 景気づけに一杯/山の言葉 ほか(ハヤカワ演劇文庫 24)

ハロルド・ピンター (2) 景気づけに一杯/山の言葉 ほか(ハヤカワ演劇文庫 24)

  • 作者: ハロルド・ピンター
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2009/09/30
  • メディア: 文庫



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蒼月猿芙庵   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 慶長二十年は夏に改元して元和元年となる。よって大阪城が陥落した豊臣滅亡、夏の陣はおよそ改元のふた月ほど前になる。一統を見たのも束の間、朝鮮半島への侵略が天下布武の駄賃戦争なら、民衆の訴求安堵は太閤の余命幾ばくかの指折りにあっただろう。そして権力の実際は民衆の感覚から疎遠なものだが、その権力の継承たる家督の存続ともなれば、王母の思いは民衆のそれと同様に頓挫などは許さない。終局の前年にあたる慶長十九年より、世は淀の方の意地に曳き摺られてか、十月の冬の陣から国家安康の勾配を真逆に転落して、かつて水上の坊舎の極みと称えられた石山御坊の地は、阿鼻地獄の牙城と化していった。畿内の武士町人はもとより、東西の耳聡い民衆誰もが大戦にして決戦であることを予感していた。
 さても折りも折りながら、未だその年の冬の陣の馬蹄など露知らない中春、京の二条の角倉(すみのくら)家では、嵯峨野の俊才甚だしいと噂された若旦那の与一が、甲高い放屁の後に溜め息をふうっと吐いたところだった。角倉の若旦那とはいえ、父の了以(りょうい)が急に寝込んだこともあって、店(たな)の隅から隅までをあずかる正真の旦那になっていた。遅咲き梅にかかる雲を見れば、遥か安南の船荷が思いやられ、雨滴を残したさざれ石を見れば、伏見の堤の曲がり石組みを思ってしまう。ならばと戦米と称した備蓄の近江米の台帳を手繰り寄せ、人目を憚るように裏表紙をめくり見てみる。裏表紙には「算法統宗」から写した検地の斜め割り図が鎮座していた。しかし考え込む前に眼が乾いたように思えてきて、放るように台帳を脇へおいた。それを見ていた御新造さん、肥えた猫が嗅ぎつけたように小走ってきて、台帳を拾うなり与一の右肩に手を添えた。
「また算術のこつで悩んではるん?」
「悩んではるというほどのこつでもおへんが」
「算術のこつでなければ…女子どすか?」
「昼間から大声で何を言うのかと思うたら」
「もそやけど、大旦那さまが徳川さま寄りになっておられたんで…」
「今度は仕事の話かい、忙しい女子やな」
「このまんま戦がはじまれば、前に伏見の城で見はった腰元の一人二人のことが心配とか?」
 与一は女房の手先から福々しい顎先まで辿って、感心したように頭を振って左脇腹を押さえた。
「よくもそこまで考えるもんやね、女子いうもんは」
「どうせ、女子いうもんどす。ところで、七兵衛が旦那はんと同じような顔をしていらしてますよ」
「それを先に言うてぇな」
 与一は軽く女房の膝を突いて立とうとした。勢い腹に力がこもって残り屁を低く出しきる。御新造さんは慣れたもので、台帳を鯨皮のように振って首をひねっていた。
「ちょい訳ありそうな女の人が一緒どすけれど」
「女?七兵衛が女を?」
「話の中身によっては適当に聞き流してやってくださいよ」
「分かっとるよ」
 与一はそう言って行きかけて、女房の腕を掴んで台帳を取りあげた。台帳はいつでも持ち歩かなければならない。口さがない女房に「仕事をしとるふりどすか?」と見透かしたような目で言われても、人足工夫を使う身であれば多忙そうに見せなければならない。実際のところ、頑健を彫りこんだような父が正月に倒れてからは、あらゆる台帳を持ち歩くかの如くであった。そして嵯峨の若輩の沈思へ戻れる瞬間が、裏表紙の「算法統宗」から写した地の割り図や立ち木測量の三角にひいた線引きだった。また女房に「算術なぞに凝っていては、そのうち狂いますよ」と揶揄されても、脳髄に巣食った好奇は削り落せない。しかも似た者同士の親類縁者にあって、吉田七兵衛は弟分というには十分若い十六歳だったが、外祖父にあたる角倉の家業から遊びまでに何かと早くから関わっていた。その日の午後も、紙束を持った七兵衛が呆けたような顔でやって来ると推察はしていた。しかし女が一緒と聞いて、与一は背筋を伸ばして歩みを緩めて敷居を跨いだ。
「おお、おいでやす」
「お忙しいとこ、邪魔します」
 七兵衛もいつもの挨拶をしながらいつもの呆け顔ではなかった。横で三つ指を立てて流行りの唐輪髷(からわまげ)が平伏すれば無理もない。上げた女の顔はたおやかだが、左耳の下に赤らんだ火傷痕があって、些か疲れているように見えた。
「うちのがね、七兵衛が女を連れてきた言うていて、えらい大騒ぎさ」
「普段の手前がどう思われとるのやら…こちらは、今は甲賀にやはる蔦女(つため)はんという方で、甲賀へ出されるまでは、新上東門院さまの女房のお一人でいらっしゃった方どす」
 与一は疲れ顔が昨今の宮中下がりなら無理もないと、思わず納得したように膝頭を叩いてしまった。
「こりゃこりゃ、そないなお方が、土足工夫も出入りする角倉へ、何でまた?」
「あのう、蔦女はんのお父上が…言うてもらえまっか?」
 七兵衛にあっさり投げられて、蔦女という女は襟元に落ち着かない指先を上下させてから呟くように言った。
「はい、このまえ、伊豆へ流された左近衛少将、難波宗勝(なんば・むねかつ)どす」
 与一は小さく仰け反って台帳を腰裏へまわした。少将にしろ中将にしろ、公家の零落に今更目を見張っているわけではないが、遡る慶長十四年のいわゆる猪熊(いのくま)事件に関わって流罪に処せられた難波宗勝、その名前が蔦女の父では「難儀を持ってきおったな」と七兵衛を睨むしかなかった。
「難波宗勝さま…そらまた驚きますな。難波さまは、たしか二年前に勅免されはったのでは?」
「はい、都へ戻ってからは屍同然に過ごしてやはるとか…」
 与一は頷きながら首を傾げて、七兵衛に話の流れを催促するものの、算術に夢中になっているときの闊達さはとんと影を潜めていた。
「ほして、七兵衛とはどないな関係で?」
 聞かれた蔦女はちらりと七兵衛を覗いたが、算術坊やは問題を持ってきていながら、例によって問題の流々たる開示は覚束ない。それでも少しは大人になったのか、惑する雑感を打っ棄って座り直すようにして話し出した。
「与一さま、若旦那さまには初めて申し上げることになりましょうかね?」
「何んを、内容が分らんさかいことには、初めてもしまいもへんやろう」
「へぇ、一昨年どすけど、大旦那さまが、わてに手代の庄吉はんについて行って、甲賀衆による八幡の水運工事を見てくるよう言わはりました」
「憶えとるよ」
「へぇ、そのとき、京への帰り道でどったん、となって…わての目の前に、こちらはんが、ばっさり落ちてきたさかい助けたんどす」
 七兵衛は両腕を広げて仰け反ってみせた。
「その、どったん、ちゅうのは何なん?」
「爆発どすかな」
「やったら爆発と言うたらええ、街道筋で…どったん、かえ?」
「ちゃいます…」と応えて七兵衛は改めて腕組みして蔦女の横顔を覗いた。
「庄吉はんの知り合いが、大筒よりも小さめの小筒ちゅうのか、長さ四尺で太さ三寸ほどの、武蔵あたりでは龍勢とかいう火筒の試し撃ちを、是非とも見ていってくれと言わはって…」
 蔦女は七兵衛の目を気にするように左の項を押さえた。
「そのときに、失敗か何やして、どったんか?」
「ちゃいます。その試し撃ちを見る前に、どったんで、こちらの蔦女はんが降ってきたんどす」
 与一は厭きれたように腕を組んで、しっかりと女の方へ向いて首を傾げた。
「振ってきたって…蔦女はんは樹の上にでもおられたんどすか?」
 蔦女は項の火傷から手を離して、恥じらうように上目遣いで微笑んだ。
「へぇ…おりました」
 与一は目のやり場に惑しているような七兵衛に微笑み返した。
「また驚きますわ。あんた女子やし、見たとこ三十もいってないやろうが、まあ立派な大人でっしゃろ?樹の上で何をしとったん?」
「へぇ、見張りを仰せつかっとったのどす」
「見張りぃ?甲賀衆の火筒撃ちを見張りでっか?なんで左近衛少将の娘はんが、そないなこつの見張りをしていなければならへんどしたん?」
 七兵衛が胸元を合わせて半歩前ににじり出たので、与一は慇懃な面持ちでさらりと右手を掲げて制した。
「ここは、ひとつ角倉のあきんど云々とかなく、もの好き人好き算術好きの七兵衛の伯父として承るんやさかい、気を使いまへんでとっくりと話してくれまへんか?」
 蔦女は大きく頷いて火傷に至るまでを話してくれた。
 少将難波宗勝の三女として、姉たちと同様に気苦労もなく新上東門院に仕えていたのも束の間、天下無双の美男、左近衛少将、猪熊教利(のりとし)が起こした乱行に、温厚で気弱な父、難波宗勝も連座していたということで、激怒された後陽成帝は関係者を厳罰に処するのみならず、その一族の者で朝廷に務めて日が浅い者まで見せしめに放免されてしまった。難波の家では、立ち回りの遅い長女と世間知らずの三女が形式的に、甲賀の近江国分寺へ下りおかれることになった。長女は歳と器量もあって素直に寺へ入ったが、三女は甲賀の山里で女性に生まれての喜楽に開眼して、傷ひとつなかった身を預けた先が、甲賀二十一家のひとつ杉谷家だった。甲賀の杉谷家は、信長を狙った善住坊を出した家柄としてすでに有名だった。そして天正年間のうちは睨まれるのを懼れて、あくまで甲賀を出奔した者として注目を凌いでいた。そもそも根来衆として雑賀の鉄砲術を会得した善住坊が、信長の狙撃に失敗して追われる身となり、湖対岸の阿弥陀寺に隠れているところを捕縛され鋸挽きに処せられた、というこの壮烈な事件は、杉谷家の他家同様に伝えられてきた火術を特別視扱いさせるものとなった。一口で言えば、太閤の世になってからは、鉄砲や火筒に敏い家柄として知る人ぞ大いに知ることとなった。その杉谷家の三男月笙(げっしょう)は、持ち運びに利便な火筒の小型化や短筒の調整工夫に長けていた。しかも月笙は猿骨敏捷な体躯と創意聡明な顔立ちゆえ、蔦女は一目見て惚れこんでしまい、雅な己が身分も育ちもさっさと捨ててしまった。月笙にしても、泥が着こうが火傷が着こうが、近江山野では見られぬ蔦女のたおやかさを無視できなかった。ともかく遅い妻となった蔦女は、戒律厳格な甲賀衆としての生活に貪るように馴染んでいった。すぐに長男をもうけて、一昨年には次男をも授かって、防備としての杉谷の火術を修めはじめて、昨年からは短筒も携帯するようになっていた。
「火筒の試し撃ちの披露の折、見張りで樹に上り…あの事故に遭いました。いいえ、暫くは事故やと思うていましたが…あら、事故ではおまへんどした。うちは七兵衛はんに助けてもろたけど、伊賀の仲間が来るのを待っとった夫月笙は…あの爆発で両目を失明してしまい…夫が顔を見てから婆に預けにいった次男は…あまりにも短い生どした」
 与一は返す返すも嘆くしかない息を、七兵衛の鼻面へ吹きかけるように吐いた。
「世の中、今もって治まってへんわけやけど…お子はせっしょうやな。で、事故おへん、ちゅうのは?」
「はい、七兵衛はん一行がお見えになる前どした。月笙が珍しく若い衆を叱っておったんどす。杉崎の者しか使いまへんその辺りに、雑な蓬火薬のようなんがあちらこちらに撒かれたようにあったからどす」
「よもぎ火薬か…本願寺でも作ってはったそうな」
 蔦女はひくりと鼻先を上げて幾らか涼やかな目つきを流した。
「へぇ、角倉の旦那はんは工事に使うで、火薬にお詳しいこつは七兵衛はんから聞いとります」
「詳しいのは寝込んではる親父の方で、大堰から富士川、天竜川の発破がけを先頭に立ってやってはって…わても硝石を扱うて一応、火薬がえらい危険なんは知っとるけどな。ほんで危険やから、その辺りに水でも撒いたんかな?」
「そうどした、水を撒けばよかったのどすが…試し撃ちの時刻も迫ってきてはったさかい、筒や的のまわり、ほんで各自の袖肩や足許をよく掃っておくよう月笙は言うてました」
 蔦女はまた項を押さえて、その瞬間に至る刻々を搾り出すように語った。
「伊賀衆はなかなか現れず、そのうちに七兵衛はんたちがお見えになったんで…後々に分かったことどすけど、伊賀衆は向かって来る途中で鉄砲に狙われて足止めをくっていたんどす」
「しはると、伊賀衆は爆発に遭わんとすんだわけや」
「へぇ、ほして、七兵衛はんたちがお見えにならはったさかい、月笙は試し撃ちの準備をしもって…うちに、風が淀んでいて油臭いような気がするさかい用心を怠るな、とたいそう厳しい顔で言いました」
「油臭かったんどすか?」
「そんときには…うちほどの修行ではまだ…」そう言いかけて、蔦女は項においていた指先をかつりと咬んだ。
「ほんで七兵衛はんたちが、うちが見張っとる樹の下あたりまで下がられたとき…右奥の蔦漆の辺りが発火して、それが火の縄みたいになって斜交いに走ったかと思ったら…どったん、どした」
「あんたまでどったんて…七兵衛やろ?」
「ちゃいます。御所の女房衆も、どったんて言うてます。難波の父は動くと堕ちるの二字をあててらっしゃいました」
「動堕はともかく、えらいめに遭わはったわな」
「へぇ、あの爆発で、何もかもが火の粉になって吹きとんでしまいました。月笙の眼二つに、月笙のまわりにあった火筒、木箱、皮袋、ほんで若い衆、ほんで…うちは落ちて耳が聞こえなくなっていました」
 与一は頷きながらつっと立って敷居を跨いだ。縁台が濡れだしたようで、雨雲に眉をひそめて言った。
「わても忙しい身やし、急かして申し訳ないが、ほんで七兵衛を訪ねるまでを…」
「へぇ…失明した夫月笙は、伊賀衆が足止めをくっていたことから、甲賀衆を、あるいは杉谷の一族を害しようとする敵がおると断しました。月笙は杉谷の父と話し合って、謀りごとにしてやられたんなら、その敵を知らなければと、山中家や黒川家の力を借りて敵の探索にあたりはじめました」
 与一は洛西の方から白々と下りてきた驟雨に目を細めていった。
「やくたい(無意味)な日々が過ぎていって、しんどかったんどすが…先だっての正月、屋敷裏で雪と遊んでおった長男が耳を撃たれました。幸い一命はとりとめました。月笙の弟が、撃った猪狩り格好を追いかけましたが、口封じやろけど、そん者はあんじょう(上手)な腕前で撃ち殺されました。ほんでも、弟がそん者の体を探ったら…十字を持っておったんで、敵に切支丹がおるいうこつは分かりました」
 与一はくるりと踵を返すと台帳で膝をひとつ叩いて、心なしか早足で座敷へ戻った。
「切支丹か…天主堂が焼かれたんは一昨年やったな」
「へぇ、一昨年に徳川さまがご禁制にしはったんで、切支丹は探そう思えば、見つけるのは甲賀衆よって簡単どした。日も置かんと黒川の者が嗅ぎつけてきて、杉谷家の敵が原田甘絽(かんろ)もしくは原田カルロ、という切支丹だと分かりました」
 蔦女の上目遣いは、腕を組んだ角倉の旦那の表情を見逃すまいといったものだった。
「そん原田カルロは、旦那はんもご存知の原田アントニオの義理の弟、妹の亭主にあたるそうなんどす」
 与一は目を合わせず鷹揚に頷いてさすがだった。
「ほんで納得したわ、前に会うたこつある七兵衛を介して、蔦女はんがこうして二条までお越しの訳が。そうでっか…慶長は十四年あたりでっしゃろか、嵯峨本のために、下京の原田アントニオに、活字を組み立てる伴天連式いうのか、あちらの印刷方を教わってな、わても大黒町の上木場まで通ったわ…そうでっか、原田に妹はんがおられたとは…妹はんいうても、えらいお歳とちゃうかな?」
「へぇ、とうに還暦を過ぎとるそうで…切支丹の筋ちゅうは間違うないさかい、広く探索してもろうてました。甲賀衆が近江から京まで、徳川さまに覚えがめでたい伊賀衆が大和から摂津の方まで、甲賀伊賀揃うて探索してもろうてましたが、原田アントニオと妹の行方はさっぱりどす。長崎の、何とかいう伴天連の許へ向かった後では、と杉谷の父と黒川の者が言うてます」
 与一は拍子抜けしたように鼻息を漏らして首を傾げた。
「わては知りまへんで、原田の兄妹の行方なんかは…そん原田カルロいう男も初めて耳にしたんやけど、肝心なんはそっちやな…ほんで、黒川はんはどないしてカルロに行き着いたんや?」
「へぇ、十字と鉄砲から堺で耳にして…そんなんしてるうちに、弥生の先月、甲賀の最勝寺に、カルロの方から月笙宛てに書状をよこしたんどすわ」
「やるこつが早いちゅうこつは、畿内の戦仕度がはじまったこつか…ほんで中は?」
「中はどすな…同じ甲賀衆の山中と黒川、この両家の今年一杯の火薬作りと試し撃ちをやめさせい…また伊賀衆の藤林と百地、そして服部にも同じことを伝えて、言うたとおりにならんかったら、杉谷の者と同じように甲賀伊賀の稚児と女子を…殺めると…」
「無茶苦茶やな、誰がどう見ても、徳川さまに加担すな、いうことやろ。どれだけの豊臣恩顧か分かりゃあしまへんけど…もとより、切支丹が太閤さまから直に恩顧を賜った話はよう聞かんから、ここに至れば、大阪方はデウスも仏も何でも使いはる気やろな」
「へぇ、甲賀伊賀が徳川さまにお付きするは、関が原前からどすのに…ほんで、いっとう大事なこつを申しあげんと…」
 蔦女は頷くようにして腹下の名護屋帯から紙切れを取り出した。
「うちはこれを持って、急ぎ嵯峨野の七兵衛はんを訪ねたんどす。ほんで七兵衛はんは、急ぎ二人で二条へと…一昨日、最勝寺の本堂にこれが…」
 与一は軽く訝ったような眼差しで、受け取った紙切れをからからと開いて声に出した。
「なんやて…くだん申しつけし伊賀衆の鉄砲火薬の扱い控えること、当方の意に反すれば伊賀卑命が所司代板倉勝重一命に成り変ること申しつけし候。さらにくだん申しつけし甲賀衆の鉄砲火薬の扱い控えること、当方の意に反すれば甲賀卑命が…嵯峨角倉吉田了以一命に成り変ること申しつけし候…えらいこっちゃな」
 七兵衛は小さく咳払いしてから前傾になって囁くように言った。
「大旦那さまが切支丹に恨まれるんは筋違いも筋違いや」
 与一は裏を確かめてから紙切れをさらりと返した。
「切支丹だか高野聖だかは知らんけど、そん原田カルロに、馬の一頭二頭なら早よう差し出させい言う、えらい高飛車な天下取り気分のお方が後ろにいらはるいうことやな。ほんで、そんお方は、角倉の了以が寝込んでおって、長くはおへんこつもご存知あらへんわけや。親父も、所司代板倉さまと並び置かれて、倅のわても喜んでええのか…」

 その頃は桂川の落ち込みや淵に小鮎が見えはじめる。嵯峨野の春の水際には、人の世の不穏な影など垣間見えようもない。角倉の別邸、吉田屋敷から不穏な音沙汰があったわけではないが、山崎の合戦あたりから、角倉の商いと甲賀衆あるいは伊賀衆の活動には、時勢に乗って互いに馴染み沿う了解があったので、蔦女は月笙の妹、椎葉(しいば)と供に、与一から警護の頭に任じられた七兵衛に就きしたがった。屋敷の周りは洛中の往来のような騒々しさからは遠かったが、やはり辺りは嵯峨野にして対岸は嵐山、夜ともなれば野良猫は我がもの顔で徘徊して、時として松尾山の方には野猿らしき枝さがりが見えるのだった。
 その日も折りも折りの申の刻、七兵衛は縁台で立ち木測量の線引きを半睡の眼で見ていた。屋敷表の警邏には了以の発破がけの弟子が三人、屋敷内には前日から蔦女が甲賀へ戻っていたので、七兵衛と椎葉の二人だけであった。義姉である蔦女からすれば、椎葉は夫月笙を幾らか華奢にしただけで、風貌はむろん無粋な言いまわしまで酷似している。そして火術の会得は兄任せだったようで、竹生島流半棒術に親しんでいたという祖父の影響もあって、兜割(かぶとわり)を扱うことに習熟していて甲賀随一と評されていた。椎葉は枝鉤がついた朴鉄に見える兜割を、些か渋い顔で眠気を払うように振っていた。
「えらい精が出ますわな、椎葉はん」
 椎葉は取ってつけたような大人びた言い草を無視していたが、栂野の方から雨雲が広がってきたのを見て肩を緩めた。
「七兵衛、歳はいくつて言うてた?」
「椎葉はんよりも幼い十六どすわ」
 椎葉は男のような自分の右肩口を一瞥して、吹いたように苦笑しながら縁台に座った。
「十六か…寝てるとな、背がみっしみっし言わんか?」
「みっしみっし?みっしみっしはよう分からんが…眠うて眠うてしゃあないときがありますわ」
「縁の下の猫と同じや、夜寝ないから、夜寝られないから、昼になって眠とうなっとる…十六やな」
「十六やから寝られんとちゃいます。爺さん、大旦那さまのこつが心配でな、とくにあの明け方の怒鳴らったような咳が…」
 椎葉は十六の後れ毛に目を細めながら、唐輪髷から細魚を模った簪風の目打ちを一本抜いて日に翳した。
「今夜はお湿りやろから、皆ゆっくり寝れるやろ、縁の下の猫のほかは。切支丹やら、蓬火薬を撒く奴らやらは分からんけど…」
 申の刻から酉の刻へ、薄明に闇が染み渡りはじめた頃だった。七兵衛はやっと粥を啜っている了以を見ながら夕餉を頂いていた。椎葉は天竜寺参道の方に足が向きかけていた。夜半の警邏をする爾輔(にすけ)と様子を確認してから屋敷へ戻ろうとすると、裏手の参道の方で火薬が弾ける音がしたのである。小花火ほどの音だったが、祭神事の季節でもなく、参道では忌むべきことである。椎葉が参道へ向かう軒下の闇へ肩を入れたときだった。
 屋敷内の方から悲鳴があがった。椎葉は「謀ったな」と呟いて勝手口へ急ぎ返した。表の角をまわって男姿が勝手口へ向かってくる。鬼のような形相の爾輔だった。
「戻れ、表から離れんと、中はわいがやる」
 椎葉は肩ごと怒突くようにそう言って勝手木戸をくぐった。土間に人気はなかったが、こちらへ向かってくる悲鳴は、世話をしている手代の内儀のような、ここのところ聞き慣れた盛り猫のような…廊下を転がるように来るのは内儀だったが、背後で奇声をあげているのは剛毛の四つ足だった。縋ってきた内儀を抱えるようにして、確と見えたのは濡れそぼった猿である。椎葉が唐輪髷に手をやると、さすがに威嚇の小牙を光らせて両脚を固くした。猿だと知れば、目打ちを撃ちこむ手が止まっていて…それにしれも猿の濡れ頭はどうしたことか、未だ小雨とて降っていないのに…背から尻尾にかけて小竹の筒を付けている。微風が油の臭いを嗅がせた。
「小ざかしいこつ…」
 椎葉はそう口中で呟いて目打ちの一本を咥えた。人など到底及ばぬ敏捷を捉えるには、放つ手振りが見えないほど小振りでなくてはならない。猿も殺気を察して庭の灯篭へ向いた。儘よとばかりに目打ちを撃った。続けて口の一本を灯篭めがけて撃った。さすがに一本めはかわしたが、灯篭上で跳足が油滑りに取られて二本めをくらった。椎葉は庭へ降りる勢いのまま兜割を振り下ろした。
「油やろか、油みたいなん撒かれてもうたわ…」
 七兵衛が呑気な口調で廊下を来るのが聞こえた。
「七兵衛、大旦那から離れたらあかん言うてるやろ!」
 椎葉は筒の油を一舐めしてから怒鳴った。さらに反転して外れた目打ちを拾うと、暗がりに猿を見ようと腰を屈めている内儀を睨みつけた。
「お内儀、油を拭かんと火つけられたら仕舞いや、小袖でも反物でも何でもええから、皆で拭いてや」
「ああ、小袖言うたかて…白い千早(ちはや)でも?」
「千早?千早でも打掛でもあるもん使うて拭いてや!」
 椎葉は言うなり藤の小棚囲いを蹴倒して、竹一本を掴むと縄を千切るようにして表側へ向かった。皮肉なことに豪商の屋敷ともなると庭にも拡がりがある。了以の許へ戻ろうと滑っている七兵衛、曲がりで夕餉の鍋を抱えて泣いている下女、不意を突かれて慌てふためく様子は見てとれたが、火の気は灯りひとつなかった。老梅の枝をまわると、表門では爾輔の他の弟子二人が構えていた。
「爾輔はんは?」
 爾輔よりも若い二人は興奮して裏の勝手口の方を指した。表を二人に任せて裏を見に向かった爾輔…椎葉は二人に火の気を念押しして裏へ右をまわった。表界隈は船着場に通ずる賑わいがあったので、折りよく隣家や串魚売りが集まり騒ぎだしている。それにしても、何故、敵は火をつけないのか、と椎葉は路地の人込みをよけながら思った。
 勝手口まで戻ったときに、今し方鼻先にあったけもの臭を感じて、参道に通ずる路地奥に目を凝らした。軒下の闇から息づかいが聞こえたような…左手で竹先を探り突いて、右手で兜割を上段に構えた。半歩もしないで竹先に小突かれての泣き声があがった。それこそ猿と見紛う黒目がちな童である。椎葉は兜割の棒先を正眼に収めた。
「爾輔、爾輔、どないしたんや…」
 椎葉は舌打ちして木戸をくぐった。木戸脇で内儀が爾輔を抱きかかえている。脈はまだあったが、腹部の血溜まりから殺傷の深さが知れた。
「爾輔はん、血ぃはとまる、血ぃはとまるから気張ってや」
 爾輔の苦みばしっていた頬は弛んで、肋間の傷を押さえる女の手に無骨な指をおいた。
「奴は…猿の顔にな、十字当てて泣いとったで…わいは阿呆や…声かけんと…後ろから叩くんやった…」
「爾輔はん、こんでええんや、よう真っ当に向き合ってやらはったな」
「奴は…目ん玉がな、つっきや…ごすぅのつっきやった…」
 椎葉の手にかかっていた男の指がはらりと落ちた。
 酉の刻も過ぎようとする頃、与一と手代は早くも二条から馬をとばして嵯峨の別邸へ姿を見せた。寝たきりの了以もかろうじて猿の油撒きを解している。女たちは灯りを使わずの油拭きに難渋していたが、椎葉と男たちは犠牲者の大柄な骸を前に黙していた。毎晩のように続いていた猫の交わりも、尋常ではない二足の駆けめぐりに鳴りを潜めているかのようだった。
「つきぃ?つきは月読社の月やろな。ごすの月、ごすの月いうてたか…」
 与一の推しての語りと応じたように、寝たきりの父親が幾らか首を上げて咳き込んだ。手招くような指先に手代の仙蔵(せんぞう)が耳を寄せる。仙蔵は聞き取った内容をさて置いて、未だ火花を散らしている大旦那の脳髄に恐れ入っていた。
「たいしたお方や、うちの旦那さまは…ごすは呉須の釉や、そない言わはってますわ。皿の絵によう使われとる藍色の釉、そん釉の呉須のこつですわ」
「釉の呉須…藍の蒼さか…」
「へぇ、爾輔は、こうして立派な五体のまま亡うなってしもたけど、丹波の生まれで小僧の頃から焼きもんに接してましたよって、丹波から信楽、伊賀、ほんで唐もんにまで詳しゅうして…」
 与一は手代の老肩に手を置いてから、若い衆の方に向いて座り直した。
「蒼い月や、爾輔を殺めおった奴は、蒼い月のような目ん玉をしとる。南蛮のもんか、南蛮のもんと交わってでけた奴や…昼はえらい目立つわな」
 椎葉はごっくりと喉を鳴らしてから、ゆっくりと恥じるままに伏して言った。
「夜に現われよる月の眼の猿使い、そん化けもんから大旦那さまをお守りするんは、わいと店の男衆二三人では…」
「わても甘う見ておった。蔦女はんが持ってきてくれはった原田の書状、商売柄、店先によう放りこまれる脅し文いう扱いしておったんが…しゃあない、親父は二条の方へ移ってもらう。同じ憂き目の由や、板倉さまから刀を差した四五人を交代でまわしてもらうわ」
「よろしゅう願います。しはると…わいも甘いよってな…」
「何や、何でも言うてみぃ?」
「へぇ、猿に油を撒かせて、ほんで火矢の一本も撃ってこなかったちゅうは…あくまで脅しだけのこつやったら、切支丹のほんまの狙いは若旦那さまやないか思うたんどす」
 与一は灯りに翳したような女のほつれた前髪に手を伸ばして薄ら笑った。
「大変やったな、わても脅しだけやて思うで…ほんでも、戦が近うなってくれば、わてが狙われるんはしゃあないわ」
 椎葉は男の憂いた手先を逃れながら放るように言った。
「京を、なんなら畿内を、お出になったらどうでっしゃろ?」
「おお、目打ちを撃つんと同じや、椎葉は昔のまんまや、おつむの回りもえろう早いわ。わてもさっさと出る気でおったところ…川のあるところ角倉ありや、親父の仕事やった木曽と富士、あとは大井の渡し場、ざっと按配を見てくれ言わはってな、大井の傍のお方がな」
「大井の傍いうとぉ?…駿府さまぁ」
 七兵衛は慌てて口許を押さえたが間に合わず、締め上げられたように天井の隅々を窺った。
「わてが近江を抜けるまでに襲われたら、七兵衛がよそでいらん口をきいたか、縁の下の猿使いに聞かれておったか…まあ、どっちでもええけんど」
 与一はへらへらとそう言いながら父の枕元まで膝を這わせた。
「お聞きのとおり、明日から発破がけ二人を連れて、近江を抜けて東海道へ参じますよって、角倉了以の仕事、確とこの目に残してきますわ。わてが戻るまで、洛中のかしましい枕どすが、仁王さんのような睨みのまんまで待ってておくれやす」
 与一は口上のようにさらりと言うと、父の視線をかわすように平伏した。了以は何か言いかけたように見えたが、俯いた手代の白髪頭がひくひくと下がるのを見て、可笑しそうに向こうへ寝返った。
「わては…わてはどないしましょう?」
 七兵衛らしい若い口調に灯りが揺らいだように見えた。
「とりあえず、嵯峨の守(かみ)の職は召し上げや」
 与一はそう呟くように言うと、ゆらりと背を立てて小さく咳払いした。
「ほんでな、わての名代で爾輔について曽根村まで行っとくれ。こないに騒々しくなければ、わてが爾輔について行って、塔婆に手を合わせて…あとは、爾輔の筋で使えそうな者がおったら、爾輔ほどの牛並びの足腰はようおらんやろが、もしおったらな、連れて帰るんやがな…」

 丹波は京の西方周山の陰盆と思われがちだが、近江と同様に京の騒乱変遷を避ける受け皿として、大いに哀歓を見てきた土地柄である。また出雲方面から畿内へ上る道柄でもあり、神事の交感や半島人の往来などを、笹を食む野鹿も茫洋と見てきたのであろう。亀山の法然寺あたりを過ぎると、半日前まで洛中にいたことなど俄かに苦笑してしまう、そんな七兵衛が伽半を手に先頭を歩いていた。五六歩遅れて棺桶を背負った爾輔の縁者である千次(せんじ)、その直ぐ後ろを亀山で落ち合った爾輔の弟、庫吉(こきち)が歩いている。最後尾で野芹をしゃきしゃきと噛んで来るのは、唐輪髷で藁巻きを抱えた遊女風体にしか見えない椎葉だった。
「庫吉はん、もういっぺん聞くけんど…庫吉はん!」
 七兵衛は振り返って棺桶の後ろに声をかけた。
「ほんまに、ほんまに鹿が角を突いてきたん?」
 庫吉は仕方なさそうに寝不足の目を上げて微笑んだ。十六の七兵衛からすれば、葬列そのもののような一行の黙りが気になって仕方ない。庫吉は小走って千次の前に出た。
「へぇ、ほんまもほんま、蕨を捨てんと尻を突かれるとこやった…」
「鹿は臆病やて聞いとるが…鹿の角は痛そうやな」
「角いうても、こう扇子に開いとらんで、百日紅の枝みたいなん、何やほろほろしとった角やった…」
「ほろほろしとったぁ?」
「へぇ、ああいうんは、老いて群れを追われたんかな…」
 庫吉がそう言って思わず佇むと、背負われた棺桶が黙々と抜いて行った。やはり想いは亡き兄へ繋がってか、弟は過ぐる棺桶に左手をおいた。
「あれが兄者やったんやろな…鹿の眼が泣いとった、角を突いてきたんやけど、鹿の眼がな、正月過ぎに京へ戻るときの兄者の眼やった…」
 庫吉の呟きは鳥鳴きひとつない森閑によく聞き取れた。先頭の十六の手代付きは、仰け反るように嘆息を吐いて前を向くしかない。後尾の女盛りの甲賀者は、萎れた芹の茎をやり場がなさそうに捨てた。
 京から八木まで来ると、各々の普段の足使いの差が露骨になる。致し方なく七兵衛は草餅茶屋で、徳川方に押さえられている城址を望みながら草鞋を替えた。そして兄に似ず小柄な庫吉がすすんで棺桶担ぎを交代した。椎葉は城址の上の掃天に目を細めて、誰にともなく言いよどんだような口調で言った。
「切支丹は死ぬと…天上に行くいうが…皆が皆、そうなんやろか…」
「切支丹で死ぬ奴だけいうんは、何やらからくりは一向宗の門徒とそっくりや…伏見ではな、杜氏の諸国話なんやけど、前田さまは今日にも明日にも、内藤如安を追い出したいそうや」
 千次が斯様に野太い声を発したので皆が驚いた。そして振り返った唐輪髷の女に訥々と話しかけだした。
「内藤…何やて?」
「あんた、内藤如安、ジョアン内藤を知らんのかい?あこを見てはったさかい、八木城の元の城主を知っていてのこつかと思うてな…あこの城主でこの辺りの領主やったんが、内藤如安ちゅう丹波の地侍で、根っからの切支丹らしいわ」
「今はどこにおるん?前田さまいうなら…金沢?」
「そうや。内藤如安はな、小西行長に仕えておったんが、関ヶ原で小西が石田側について負けおって、主の小西は斬首やったけど、内藤は同じ切支丹の肥前の有馬を頼って、ほんで今は前田利長の客人や…高山右近は知っとる?前田さまは、内藤なんぞよりも有名な切支丹、その高山右近も抱えてなさるよって…前田家も徳川さまには逆らえんやろうし、どこぞに追い出すしかないやろちゅうのが、わいら伏見の酒作りの敏い耳話や」
 椎葉は七兵衛を押しのけるように縁台に座った。
「しはるとやな、京から追い出された切支丹が最初に頼るんは、この辺りの隠れ切支丹いうこつかえ?」
 千次は周りを見まわす仕種をしながら苦笑まじりに声を潜めた。
「内藤がおるんやったらな、ほんで太閤さまの禁令がなかったらな、この辺りにも十字を持ったん奴が増えておったかもな…つまるところ、切支丹にしても、取り入って被れてくれた城持ちが、どれだけ天下さまに近いかに寄るわな」
 ここで頷きながら七兵衛が割り込んできた。
「切支丹にしても、一向宗にしても何にしてもやで、うまく取り入らんこつにはやってけへんやろが…わては徳川さまが禁制出された聞いて、どったんやった」
「何や、どったんて?」
「ひっくり返ってもうたんどす。わてには、切支丹の奴らいうか、伴天連が持ち込みおったもんで、十字の他にな、えらいおもろいもんが多すぎるんやわ」
「ほぅ、しはると若旦那は、徳川さまの禁令がなかったら、喜んで切支丹になっとる言わはってか?」
「ちゃう、ちゃいますわ。伴天連が持ち込みおった寸法や時数え、そんための道具や仕掛けがおもろいんや」
「同いなこつや、珍しいからおもろいんや」
「ちゃうて、わてにとっては、伴天連も比叡の御坊も同いなんや。ほんで、鉄砲…あれは遠眼鏡、そうや遠眼鏡なんちゅうのがおもろいんや」
「ほぅ、角倉の若だっ…」
 千次は犬鳴きのように口篭って後ろへ倒れた。
 椎葉は結び直そうとした草鞋の右足を蹴った。縁台の脚が折れて、雄叫びをひいた七兵衛が前に転がる。同時に椎葉は土埃をあげて二転していた。
「散れ、散るんや!」
 椎葉の叫びが繰り返されて街道筋が戦慄いた。庫吉はおろおろと棺桶に縋るしかない。それでも頭隠して尻隠さずの己が姿勢に気づいて辺りを見まわす。椎葉は仰向けに倒れた千次の耳元に這い寄ったところだった。
「庫吉はん、頭を低くしなはれ。撃ってきたんは城の方からや」
 横倒れた縁台の向こうから七兵衛の声だった。腹這いになって縁台を盾にしようとしている。庫吉はがくがくと頷きながら死角へまわった。
 椎葉は二発めの砲音を耳の後ろに聞いた。逆だと思って身を固くした瞬間、倒れた縁台の脚が吹き飛んで千次の爪先が揺れた。本人は顎を撃ち砕かれて絶命していた。
「庫吉はん、今のは後ろや!七兵衛、前の土手に這え、這って下れ!」
 椎葉は怒鳴るなり藁巻きを抱えて地を蹴った。そして街道を唐輪髷が大股で走りだす。これから向かう園部の方へ下っていった。老い松が目に入って腹を決めた瞬間、鎧帷子のような幹が弾けて白片をとばした。椎葉は根元の窪みへ転がり込んだ。息は揚がっているが、切れ切れに呟く口許に薄っすらと笑みがあった。
「へぇ、さよか…二匹で挟み撃ってきて…殺めたいんは…わいやな」
 椎葉は藁巻きを解く指先の震えに舌打ちしたが、取り出した兜割の枝鉤に指の腹を押しつけて呼吸を整えた。草餅茶屋の方に遠目を凝らすと、棺桶と千次の足先が辛うじて見える。なんとか半刻ほど時を稼げれば、田畑から戻る百姓連れ然り夕の往来が賑やかになる。ここは甲賀者らしく忍ぶしかない。椎葉は己に向けられた殺気のみを捉えようとした。
 半刻もしないうちに雨滴が唐輪髷を濡らしはじめた。こうなると火薬も鳥の糞だ。それにしても危うかった。草鞋を結ぼうと屈まなければ、日焼けた女の項を撃ちぬかれて…前のめりに突っ伏した面は二目と見られぬものだっただろう。もし二匹の鉄砲撃ちのうち、どちらかが猿使いなら…椎葉の思案顔に水をかけるような光景が眼を貫いた。
 大胆にも草餅茶屋の主が腰を屈めて出てきたのである。しかも千次の亡骸と縁台を淡々と離してかたづけている。そして街道上の棺桶を見とめるやいなや、やれやれと腰を伸ばして憮然と腕を組んだ。さらに険しい顔で辺りを見まわして、土手の河岸に向かってゆらりと手を上げて甲高い声を響かせた。
「お代をよろしゅう頼んまっせ…お代、お代どすわ!」
 どうやら七兵衛は一命を川べりに置いているようだった。そう思った矢先に土手から庫吉が膝這いで姿を見せた。根が悠長なのか、ここに至って開き直ったのか、皮袋から銭を取り出して手渡している。そして安堵顔で棺桶に向き直って手を合わせ、思いついたように茶屋の軒下の千次に手を合わせると、どうしたものかと土手下へ呼びかけた。
「七兵衛はん、どないしよう、千次はんの棺桶やけど…」

 草餅茶屋の主の飄々とした口利きで、近在の桶職人にもう一人分の棺桶を手当てさせることができた。千次も生まれ育ちは曽根とはいえ、同郷の爾輔の埋葬に同行して道連れとなったわけである。悲惨さに報いるには一刻でも早く曽根の安地に着くことだったが、如何せん、垂れこめてきた闇夜に先の観音峠を越えるのは危うすぎる。関ヶ原の残党崩れによる賊一派、そして大阪の情勢を窺いながら路銀の遣り繰りに焦る強力者、これらの悪鬼羅刹にとって夜半道中の女子供ほどの慰みがあろうか。よって茶屋の主の慣れた手配による園部での一宿となった。
 どう見ても女だてらの棺桶担ぎだったが、切支丹どもの鉄砲の的が己の唐輪髷だと知る椎葉は、黙々と千次の亡骸を背負って先頭を行った。兄の棺桶を背負った庫吉が興奮気味に続いて行き、最後尾で皆の荷物に両手を塞がれて来る七兵衛を気にしていた。
「七兵衛はん、そこで蕎麦がきでも食わしてもろて、たんと寝はったら、明日は日が真上に来んうちに、曽根で草鞋を脱げるよってな」
「おおきに…明日はわてが爾輔はんの桶を担ぐよって…庫吉はんの足腰の強さは、爾輔はんゆずりやな。そない言うても、兄弟やから然りやな…」
「何を言うてんねん。わいは兄者と違うてな、七兵衛はんくらいの折はな、よう寝込んで野良仕事にも出れん子でのう」
「そない言うてはるけど、何や、昼より脚が早うなってまっせ」
「鉄砲撃たれたんが効いたんかな…そいでな、何や、兄者の桶が軽うなったような気がするんやわ」
「軽うなった言うてか?」
「へぇ、兄者の御魂(みたま)が、先の曽根へと急いだんか、京に思い残しがあったんか…軽うなってしもたな」
 二つの棺桶を下ろせて一宿に与ったのは砦構えの百姓家だった。聞けば明智の丹波攻めに最後まで抗していた土豪の一族である。蕎麦がきどころか、自造の濁酒まで供されて大いに息をつけた。濁酒の竹筒を置いて、主に歓待の礼を言って下がろうとしたときだった。
「椎葉はん、待っとくんなはれ。庫吉はん、どないしたん?」
 囲炉裏の座を立ちかけた七兵衛が声をかけた。見れば囲炉裏から離れて横になっていた庫吉が、大層な脂汗を額からたらして熾き火をじっと見ている。誰もが濁酒と京からの難儀道中もあって、弟の庫吉も早々に眠くなったのだろうと解していた。
 椎葉は返事もしない庫吉の首筋に手を添えて脈をみた。走りきった後のように脈打っている。右を下にしていたので仰向けにしようとすると、両手が痙攣していて班が浮かんでいるのが見えた。
「何や、毒がまわっとるような…庫吉はん、庫吉はん!七兵衛、呼びかけ続けい。眠らせたらあかん」
 椎葉は言うやいなや竹筒をつかんで口にした。主夫婦は腰を抜かしたように身をひいている。
「あんじょうな酒どすわ」
 椎葉は呟くようにそう言って主に頷いた。すると七兵衛が女の胸を叩くように後ろ手を振ってきた。
「何や、後ろ、背中に手をまわしてまっせ」
 庫吉は抗うように自らうつ伏せると、痺れる手もまわらなくなった背中を見せようと形相を荒げた。小袖の左脇下に血痕が見える。急ぎ裾を捲ってみると、紫がかった腫れの真ん中に小豆ほどの孔傷があった。
「鉄砲があたってたんやろか…」
 椎葉は七兵衛の呟きに首を振るやいなや、黒ずんだ孔傷へ蝙蝠のように口をつけた。そして唾を己が左袖に吐き出した。
「毒や、強ようはないが青梅の芯に似とる味やし、何せ疲れとるから…わいは毒消しを採ってくるよって、呼びかけ続けて気ぃをはらせるんや」
 椎葉は庫吉の頬を軽くはってから膝を立てた。
「酒も毒のまわりをようしとるよって、七兵衛、引き摺り出して酒を吐かせるんや」
 椎葉はそう言い残して仰け反るように土間へ立った。そして土間の草鞋や二つの棺桶を見渡して、さほど急がずに思案顔でふらりと出ていった。
 椎葉は庫吉が吐ききらないうちに戻った。彼女の男勝りの目打ちや兜割の技を知る七兵衛も、甲賀衆として日頃から草木の扱いを秘して伝授されていることは知らなかった。庫吉に撃ちこまれた毒について聞こうとしたが、椎葉は辺りに視線を配りながら板石の上で之布岐(しぶき)の根を磨り潰しはじめていた。
「鉄砲の鉄丸に毒を塗るいうは…」
「阿呆か、毒なんぞ塗らんでも鉄砲やったら、あんたかて人を殺めるに易しや」
「そうやなぁ、火薬のええところちゅうか、早う使えるところがええわけや…毒を塗った矢のようなもんかのう?」
「ええから…やくたいなこつ言うとらんで、庫吉はんの顔でも拭きぃな」
 椎葉はそう言って手許の襤褸を放ると、潰した之布岐を摘まんで舌にのせた。そして毒消し汁の板石を七兵衛の方へ押しやってから、土間の羽虫を追うようにふらりと立つと、之布岐の苦味に浸っているかのように寡黙だった。七兵衛と主夫婦は慣れぬ手つきで庫吉に毒消しを飲ませきった。椎葉は主夫婦に礼を重ねて言ってから、一息ついたような七兵衛の肩を叩いた。
「寝る前にもう一仕事や。聞いたこつあるやろ、経をあげとらん仏さんの棺桶をな、土間にせよ家うちに置いとくとな、丑の刻になると仏さんが泣き出すんや」
「丑の刻に…聞いたこつなかね」
「ほなら京へ戻ったらな、若旦那、与一さまに聞いてみな。ほんで寝る前の一仕事…濁酒まで呑ましてもろうて、棺桶二つ並べておったら罰があたるよってな、二人でおもてに出しとこうかい」
 椎葉は大袈裟に欠伸をしてから土間へ下りると、灯りから遠くても真新しく見える千次の棺桶に手をかけた。七兵衛は追いかけるように手を出して、姉弟が仕込み樽を動かすように棺桶二つをおもてに出した。そして春の夜は花香死臭に敏感なものが多いので、棺桶それぞれに縄をかけ直した。
「庫吉はんが言うたとおりや…」
「庫吉はんが何か言うたぁ?わいのこつやったら、わいよりも背の低い男、あかん言うといて」
「そないなこつやなくて…」
「ほんで、あんたは庫吉はんの側に寝て、朝方まであんじょうに按配見張っとくれや」
「…庫吉はんが言うたとおり、爾輔はんの棺桶、軽うなった思わなんだかい?」
「あんな、庫吉はんが言うたとおり、御魂が先に行ってしもたんやろ。寝よ、寝よ」
 囲炉裏の残り熾きも暗くなって、庫吉の寝息が安らかそうに聞こえる丑の刻だった。七兵衛も往生したように寝入っている。しかし囲炉裏向う側に空の藁巻きはあっても、大柄な女の寝姿はなかった。
 椎葉は半刻前ほどから土間の隅にいた。爛々とした眼が積み臼の裏に光っている。しかし己が七兵衛にした仏泣きの話、それを思いだして微々と笑んでいる口許があった。与一が自慢するように話していた吉田の小僧、思っていたよりも風体は大人びていたが、才があるようには見えない放心した表情は聞いたとおりだった。大阪攻めも近そうな斯様な乱世には些か珍しい。いや、乱世には得がたい貴種なのかもしれない。奴が算術や遠眼鏡に夢中になれる日々がくれば…失明した兄月笙は、戦はなくならない、と言っていた。
 もはや寅の刻だった。何かが軒先にあたり、萱葺きを踏み上がっている。この刻にこの気配であれば、甲賀衆としてはなかなかの腕と頷かざるえなかった。嵯峨野の吉田屋敷での動きを想っても、野猿並みの身軽さがあって、野猿など遠く及ばない忍びが身についている。切支丹ゆえに忍ぶのか、忍びは切支丹ゆえなのか…南に向いた梁端が軋んだ。どうやら奴も蜘蛛足までには至っていない。思うまもなく、萱が一本一本開かれ弾ける音、それが案外に小気味よい。奴は見ている。囲炉裏周りを目の当たりにしている。なんと七兵衛が仰向けに寝返った。奴は臓腑を掴まれたような心地だろう。椎葉は兜割の枝鉤に唇を押しあてた。
 重ねて半刻が過ぎた。春ゆえか夜烏鳴きも随分と早々に思える。それに合わせて、萱葺きを踏み下っていく音がする。奴がどれほど待とうと、甲賀女の戻り寝姿は見せられない。今宵は諦めたのか、踏み音が苛々していた。気がつくと萱葺きの上の気配はなくなった。猿のごとき跳躍と猫のごとき忍び足、これほどの術者に相当する甲賀衆を辿ると、目明きの頃の兄月笙と山中の蔓(かずら)、そして黒川の右近…奴は失意を隠さずに降り立った。些か離れての着地と葉擦れからすると、軒先に近い栗の樹を伝ったようだ。
 椎葉は一息ついたようにうな垂れてると、そのまま羽目板に縋るように這いつくばっていった。顎先が土間につきそうなあたりに裂け目があって、かろうじて二つの棺桶の陰形が見える。そこへ栗の樹を下りた奴の影が現れた。いや、萱葺きに忍んでいた奴が棺桶に戻ってきたのである。黒の頭巾被りが深くて目鼻立ちは窺えない。奴は躊躇せずに元の隠れ蓑、爾輔が収まっていたはずの嵯峨の棺桶に片脚を入れた。そして街道向こうに梟鳴きを送ると、そのまま蓋と縄をずらしながら己が身も入れきった。土遁の鼬も舌を巻くだろう。猿のように身を屈めた小柄な切支丹…できれば爾輔が見た月のような眼を見てみたいと思った。
 暫くして梟鳴きに応じた草染めの頭巾が街道に現れた。長尺の鉄砲らしき鞘袋を背負っている。枯草の頭巾は爾輔の棺桶にひたと寄ると、蓋縁に口を寄せて事の首尾を話しているのか。そして棺桶の縄の弛みを締めあげて、桶を小突きながら薄ら笑いを浮かべている。あの背の鉄砲が千次を殺めて、その千次は並びの棺桶に収まり…椎葉は兜割を握り直して唇を咬んだ。やれる…鉄砲を背負いながら身が重そうで、八木での挟み撃ちに気をよくしている…千次と同じように後ろからやってやる。唐輪髷に指が這って目打ちが抜かれた。椎葉は冷ややかな目打ちを銜えて裏口へ後退していった。
 春の闇が霞へ散じるように明けた。遠くで明け六つが鳴らされている。忍ぶことなど知らぬ烏連れが、栗の枝から並んだ棺桶を大いに気にしはじめていた。
 卯の刻半ばの明るみに、夜烏に見紛われる五位鷺(ごいさぎ)の背藍と腹白が見分けられた頃、街道を丈のある女が下ってきた。椎葉が日中と変らぬ遊女の風体で、野芹を咥えてゆらゆらとやってくる。昨日と違って背筋が振られているのは、背に鉄砲と兜割を入れた鞘袋があるからだろう。加えてこの季の薄明が甘い睡魔を伴っていた。しかし事は片づいていない。七兵衛や主夫婦が起きぬうちに、些か丁重な仕業にはなるが、桶ごと焼いて奴もほとけにしなければならない。それも切支丹なら望むところか、と思うや野芹が苦々しく吹きだされた。
 七兵衛が打っ棄るように目覚めたとき、庫吉は塞ぐように背を向けていた。回復したらしき血の気のある横顔は、上がり框にへたり込んだ主夫婦を見ている。主たちは外の何を見ているのやらと、七兵衛は土間へ下りようとして焼け焦げた臭いに気づいた。そして唖然としている夫婦から目を外へ転じると、一つだけの棺桶を背にして座っている遊女ふうの女、椎葉の長い脛が並んで見える。傍らに焔を残して桶の残骸が白煙を上げていた。
「椎葉はん、その燃え残りは…」
「見てのとおり、切支丹を煙にして…上へ行かせてもうた」
 七兵衛は疲れきった女の言を反芻しながら、今更ながら恐々と遠巻きに近寄った。そして彼女が寄りかかる棺桶が千次のものであることを確認した。
「棺桶におったんか、爾輔はんの棺桶に…化けもんや…」
「同じや、切支丹いうてもわい等と同じ、血を流して死ぬ禿げ猿や…」
 七兵衛は中空を見上げる女を凝視するしかなかった。
「化けもんや…八木の茶屋で入れ替わりおったんや、庫吉はんが担ぐ棺桶に」
「化けもんでも何でもええが…夜中、山野を駆けまわる業とはいえ、奴も人並みに棺桶で逝けるとは思っておらんかったやろな。わいを追ってきたなれの果てや」
「何ちゅう奴等や…殺めたいんは与一さまや思うておったのに」
 椎葉は弾けたように呵々と笑いだした。洛中でも見かける狂女の乾いた笑い…戦国の世の朝映えに相応しい響きだった。
「丹波へ向こうてからは、奴はわい一筋やったんや。油撒きの猿、あれをあんじょう可愛がっておったそうな…」
「奴…その猿使いと話したんか?」
「諦めおったんやろな…切支丹は皆ああなんかのぅ…可愛がってきた猿をわいに殺められ、仇をとらんとわいを追って丹波行き…奴はわい一筋やったんや」
 椎葉の笑みが空疎になって、山麓の霞の彼方へ何か見たさの視線を放っていた。
「与一さまやったら、切支丹いうても、黒焦げの骨が残ったんよって、近くの寺に納めるよう言わはるやろな…」
「そやな…嵯峨野の西、化野の方やったら、唐や南蛮も引き受けるとか言わはってたわ」
 椎葉は笑いきった目尻のまま七兵衛を見上げた。
「あんた、読み書き算術に長けとるんやから、ひとつ字面を探ってほしいんやけど…切支丹としての名がな、フアンいうそうや」
「フアン?フアンに字をあてるんかいな…ほんで猿使い、フアンの顔は見たんか?」
 椎葉はふわりと唐輪髷の目打ちにふれてからうな垂れた。
「爾輔はんが言うてた月、呉須の月いう眼を見てみたかったんやけどな…わい等は武者とはちゃう。わい等の仕業はけものの業…殺めの要なんは、闇、陰、そして後ろや。顔も見んと焼き殺した…ええ声しとったわ」
 七兵衛は千次の棺桶を担いで曽根へ向かった。街道の賑わいを振りきるような足取りには、ここ数日で得た大人びた苦々しさと焦燥があった。
 椎葉は庫吉と共に八木へ戻った。たとえ亡骸を烏が突いていようと、弟庫吉が兄爾輔を拾うまで…再び手配した棺桶に遺骨を収めて、七兵衛が待つ曽根へ向かったのは一両日後だった。
 五位鷺がくわえた桂川の成り鮎、嵯峨野を行く者がその幅のある形(かた)に目を見張る頃だった。七兵衛は蔦女についてきた椎葉に一冊の短冊を渡した。与一の跳ねたような書で「芙庵」とあった。

                                       了
安土往還記 (新潮文庫)

安土往還記 (新潮文庫)

  • 作者: 辻 邦生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1972/04/27
  • メディア: 文庫



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ハンニバルのハリー・ホワイト   Vladimir Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 ハンニバルのトム・ソーヤ通りには、ダルトリー爺さんのマッチ箱細工ような枯葉色の歪んだ漆喰壁の店舗が多かった。そのうちの「ライス・リヴァー」の壁は、漆喰に塗り足された薄紫色の防水シリコンが蜘蛛の巣のように広がっている。そこにはトム・ソーヤに関する文字や飾りとて見当たらない。そもそも通りの名前は、三十年前の小学校の校長がつけたらしい。ウクライナ人の校長は研鑽してハックルベリで修士をとったのだが、すでにハックルベリ・フィン通りは存在するので、この昼下がりばかり続くような通りを仕方なくトム・ソーヤ通りと勝手に名づけた。
 今、その通りの終りの化粧煉瓦に慌しく黄色い爪がたった。何事やら、ずれたターバンを頭にのせて漆喰を伝って来るスバシの形相が凄まじい。彼は「ライス・リヴァー」へ向かって走りながら叫んだ。
「ハリー!助けてくれ!」
 ダルトリー爺さんは驚いて修復していた細工を膝に落とした。一九九四年の暮れまでになんとか完成させた「二度目のワールドカップのための」ハンニバル・フットボール・スタジアム。柳葉色の粗紙で作った人工芝をしっかり掴んで窓外を睨みかえすと、スバシの後をスクールバスの運転手のソニーが先頭に立って追いかけてくるのが見えた。
「あの河馬野郎が…」
 長身のハリーが足音もたてずにいつのまにか爺さんの背後に立っていた。
「しかしソニーの奴は瞬発力はあるから、スバシは追いつかれるな」
 爺さんの醒めた言い方にハリーは舌打ちしておもてに飛び出した。
 外の熱気を感じるまもなく青銅の筋肉像に見紛うハリーの背後に、シーク教徒で近視眼鏡の香辛料屋スバシがしがみついた。ソニーの走って揺れ続けてきた腹が止まると、後続のケーキ屋のフリッツと徒弟四人も構えながら足をとめた。
「朝からインド人いじめかい?」
 ハリーの余裕ある挨拶に過敏に反応したのは、ケーキ屋で一番若いミッチェルだった。
「終ってしまったゴールキーパーがよ、正義の味方にでもなったつもりか?」
 ミッチェルは町の野球チームのピッチャーだった。
「落ち着けないのか?先週から怒っているのは、お前たちだけじゃない」
「煩いんだよ、黒いホワイトさん…黙ってそのテロリストをこっちへ渡せよ」
 ハリーは事の発端が先週の事件ではないことを少なからず祈っていた。しかしどうも最近の諍いは子供の喧嘩のように単純明快だ。新世紀の残暑の初秋にあって、合衆国は隅々に到るまで怒りと困惑に震えていた。
「いいか、冷静に聞いてくれ。こいつは、スバシはターバンを巻いていてもシークだ。イスラームじゃない」
 親方の小柄なフリッツがやっと間に合ったようにミッチェルを制して言った。
「やあ、ハリー。その…なんだ、ハリー、俺たちだって馬鹿じゃない、それくらいは分かっている。しかし、すべてのキリスト教徒を陥れるために奴らが手段を選ばないことは、この前のこと以来、知っているだろう?」
 続けて呼吸が整ったソニーが言った。
「問題はだな、あんなことがあったにも関わらず、そいつの店にアラブ人が出入りしていることだ」
 ハリーは僅かに頷いてしまった。先週の事件以来、スバシの店先ですれ違うアラブ人に警戒の目を持ってしまう自分に気づいている。しかし振りきるようにして視線を上げた。
「だから、だからこそ慎重にならなければならない。あんたの『グラッセン』のジャーマン・ブレッドを買いにくるアラブ人もいるだろうし、ソニーが運転するバスにアラブ人の子供もいるだろうし…」
 父親に似て小柄なフリッツの息子ルーが陰険に言った。
「うちはアラブ人はお断りさ、百グラムに百ドル積まれたってアラブ人には売らない」
 ソニーは頷きながら一語一語ゆっくり発音した。
「乗っていた子がひとりいたが…あれ以来、学校へは行っていないようだ」
 ハリーはソニーが俯いた方向へひかれるようにうなだれた。
 背後ではスバシが訳の分からぬ言葉を繰り返しながら黒胡椒の汗の匂いをたてていた。
「しかし、合衆国は…」
 ハリーは「こういう国なんだ」と言いかけて澱み捨ててしまった。
 フリッツが二歩前へ出てきつく唇を噛んだ後に言った。
「ハリー、それじゃ事件との関連は別にしてみよう。問題をだな、スバシの店の商店連合会への非加盟に限れば…」
 ミッチエルが左手を後ろへ掲げて言った。
「店長、ハリーのお仲間が拳銃を持ってご登場ですぜ」
 ボルトン巡査長が額の汗を黒光りさせながら、漆喰の角を曲がってくるところだった。

 ハリー・ホワイトは三十九歳になっていた。
 ハリーの祖父にあたるダルトリー・ホワイトは、オキナワでの戦闘から無事に帰ってくると、当然に母親マム・ホワイトが女手ひとつで切盛りしてきたケイジャン料理の小さな店を手伝うことになった。店名を人気のある雑穀スープ「ライス・リヴァー」と変えてから運も巡ってきた。ダルトリーは小学校の女教師コニーとハロウィンの夜に知り合って結婚した。彼女の父親が牧師でもあったことから、店の評判はセントルイスにまで広がった。WASPに妬まれるほどすべてうまくいっているように見えた。不幸は息子チャーリー、ハリーの父が元凶だった。  
 チャーリーの暴力沙汰は日常茶飯事だった。加えて恐喝や窃盗をくりかえして、ハイスクールは二週間も通えなかった。母親コニーは心労のはてに覚えたての運転を誤まって亡くなった。しかし寡男になったダルトリーは絶望しなかった。できそこないのチャーリーにしても人並み以上に優れた点があった。脚だ。鯰のグリルと米入りのスープがつくったチャーリーの脚は、アメリカが誇るスポーツ、野球やバスケット・ボールからは意識的に敵意を持って遠ざかっていたが、一部のファンが集う酒場のTVで、ペレという偉大な脚を見て大いに興奮させられてしまった。チャーリーはフットボールをするために真摯に生きようと思いはじめた。そして、できそこないのチャーリーにしても恋をして子供を残した。ハリーの誕生だ。しかしチャーリーは落雷のようにインドシナのダナンへ送られた。ウェイトレスをしていた長身の恋人は、チャーリーが徴兵されてからすぐにニューヨークへ行ってしまった。祖父ダルトリーに引き取られてハリーが三歳になったとき、父チャーリーの戦死が実に事務的に報告された。
 ハリーは大学を好成績で卒業してそのまま家業に入った。そして幼馴染イザベルと結婚した。ハリーが小学校に行きはじめた年に裏手に引っ越してきたベネズエラ出身の一家、イザベルはその一家の長女だった。イザベルとの間に子供は男の子二人に女の子一人をもうけた。長男トムは曾爺さんダルトリーの語る祖父チャーリーのこと、そしてワールドカップの影響もあってフットボールづけの毎日だった。そして「ニューヨークのメトロスターズ」と言うトムの言が耳にこびり付ききったこの頃の先週、アメリカは震撼した。九月十一日、マンハッタン島の貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ。
 それでも一昨日あたりからトム・ソーヤ通りにも、夜に似合う音楽が少しずつもれ聞こえてきていた。昼の騒ぎが犬っころ同士の喧嘩のように思えてくる、やっと暮れて落ち着いた営業時間帯になっていた。
 ハリーの店では四組の黒人家族と二人の白人の男が食事を取っていた。もっとも白人の二人はカウンターの両端でバドワイザーばかり飲んでいる。外からほとんど見えないレジスターの脇にいるのは「グラッセン」の店主フリッツだった。ハリーは手を拭きながら隣りの椅子をひいて、布巾を翳すようにして茶目っ気たっぷりに言った。
「不味いケイジャンの『ライス・リヴァー』へようこそ」
 フリッツは思わず紙で口許を押さえて、しばらく言葉を発することができなかった。そして首を振りながら磨り潰したような声を吐いた。
「すまなかった…昼間は大人げなかった」
「俺もそうさ」
「金を借りている身でいながら…言いたいことは言う、だからドイツ人は嫌われるんだろうな」
「金か…どこの商売だって大変さ」
「すまない、息子やミッチェルにはよく言ってきかせておくよ。まったく誰に似たのか…」
 フリッツはそう言いながら無駄だと思うと天井を仰いで首を振った。
「それはいいんだ、ソニーにしても好い奴だってことは知っている」
 ハリーが幾分か心地よく顔をあげると、カウンターの中に妻のイザベルがいた。彼女は素晴らしい笑顔でビール・グラスとコーヒー・カップを掲げて言った。
「フリッツ、奢りだからもう一杯飲んでいってちょうだい。あなたは仕事中なんだからこっちね」
 ハリーは満足そうにカップを受け取って妻の後姿を見送った。そしてコーヒーをちょっと啜ってからフリッツの方へ向いて聞いた。
「ところで仕事の話だが…あれから銀行は何て言ってきたんだ?」
 フリッツは窄むように項垂れて小さく笑ってから言った。
「駄目だ。あいつ等はドイツ人を許さないのだろう。若い行員が言った、ベーグルを作るなら融資をしてくれるかもしれませんよ、だって」
 ハリーは合わせるように苦笑してから通りに目を移して言った。
「だったら…ベーグルでも何でも作るしかないだろう」
 フリッツはおもむろに布巾を掴んでなすすべもなかった。
「俺に爺さんを裏切れって言うのか?爺さんだって好きでウィーンを出てきたわけじゃない。あいつらユダヤの高利貸しに追われて…辿りついたところがここ、合衆国の毛穴のような町、ハンニバルだ」
 ハリーは何度も聞いた話が出てきたので、コーヒーを啜り続けながら店内を見まわすしかなかった。黒人一家の幼い娘が親指を立てて微笑んでくれた。
 カウンターの窓際の端、外からよく見える椅子に座っているのはミルト・キーンだった。剃りあげた坊主頭の細面に伏せ目がちなので、病みあがりのように沈んで見える。先月末から毎晩来ていた。

 イザベルはベッドを離れてガウンの袖に腕を通しながら言った。
「大統領は無理でも、商店連合会の会長ぐらいにはそろそろなれるんじゃないか、って言っていたわ」
 ハリーは寝返りをうちながら気だるく言った。
「爺さんが?ああ、そうか、フリッツだろう?フリッツが言ったんだろう?」
「いいえ、マイケルよ」
 ハリーはボルトン巡査長がゆっくり頷きながら言う様を想像して薄目をあけた。
 レースのカーテンの向こうにコスモスが咲き乱れる花壇が見えた。スバシがくれた種はあんなに軽やかな花びらのものだったのだ。花のさらに向こうのバーベキュー焜炉には野性化したカナリアがとまっている。マイケルを呼んでパーティーをしたいが、多忙な巡査長の都合はどうだろう。
 ハリーは起き上がって携帯電話を手に取った。
「ミルトも呼ぶの?」
 イザベルの声は低く澱んでいた。
 ハリーは素早くマイケルを呼び出していたので応えられなかった。巡査長は署にいなかった。ハックルベリ・フィン通りでテロ抗議デモの警備に向かったようだった。
「ミルト?彼を呼ぶのかって?」
 ハリーは否定するように小刻みに顎を振った。
 イザベルは安堵したように髪を梳かしはじめながら言った。
「白人だからっていうんじゃなくて…その…ちょっと気味が悪いって言うのかしら…」
 ハリーは妻が一瞥した寝室の隅に目を合わせた。陽光に黒光りする古代の墓石のようなものが寡黙に居座っていた。ミルト・キーンがくれたブロードウェイの路駐メーター、二十七年前のものだという。彼が師と仰ぐ日本人から譲り受けたもので、出所が盗難品か廃棄物かは、彼自身も知らしてもらっていないのだと言っていた。
 ハリーは子供を諭すようにメーターに手をかけて言った。
「おもしろい男さ。きれいで、家族的な雰囲気、そして何よりも美味しい料理、揃いも揃って繁盛している店には、お金に関係して冗談が効いたオブジェがいい、とか言ってくれてね、こんなものを持ってきた」
 イザベルは鏡台の上の髪の毛を摘まんで聞き取れぬほどの声で言った。
「あなたが…ニューヨークはお母さんがいるところだ…そう言ったら…」
 ハリーはまた言いよどんでいる妻の横顔に微笑んで言った。
「わかった。この魔法の石のようなオブジェは、この部屋から出して入り口の脇にでも置こう」
 ミルト・キーンは俗に言う前衛的な彫刻家だった。彼はかつてマンハッタン島の誰もが知る世界的な銀行の融資の窓口のひとつを担っていた。銀行員だった彼が、職を辞してから芸術家として歩き出すまでには十四年の歳月を要した。同僚との恋争いに敗れて、直後に女から言われた言葉に麻痺するまでに二年、ソーホーで知り合った日本人の銅版画家を追いかけて信捧することになり、気がつけばミシシッピ川沿いの町にいた。
 芸術にとっての変革は、手法よりもむしろ風俗との関わりにあるのだろうか。日本人の銅板画家は、保養を兼ねてニューヨークを出るなり「我々は合衆国の表象というものを明確に意識しなければならない。それは経済である」と言って一連の紙幣を背景にした作品を発表しはじめた。そして弟子のミルトは、様々な販売機や路駐メーターに芸術性を見出したようだった。新世紀のこの年、師とともにハンニバルの夏祭りで発表した「USA」という題目の作品群は、中西部の干草風にあっても慎ましく好評ではあった。

 雨雲の輪郭が明瞭な午後だった。
 ハリーが昼食後のコーヒーを啜っているミルトと談笑しているところへ、非番のマイケル・ボルトン巡査長が苺の篭を抱えて入って来た。カウンターの二人が背にしているテーブルの椅子をひいて座った。ミルトがいるのでいくらか憮然と切り出した。
「少しばかりだが…また酸っぱい苺を持ってきたよ」
「いつもすまないね」
 ミルトはハリーが受け取った籠の中に目を細めながら言った。
「巡査長が園芸の趣味をお持ちとは知りませんでした」
 マイケルは目を合わせずに自身を皮肉るように言った。
「悪党どもを追いかけまわしている俺にそんな趣味があるものか。女房の実家が郊外の農家なんだ」
 ハリーは膝を打って後に続いた。
「そうさ、苺だけじゃなくいろいろと素晴らしい素材を提供してもらっていて、去年のクリスマスに使わさせてもらった七面鳥とか…そうそうミルトがさっき食べていた玉葱もそうさ」
「ああ、さっきの…」
 ミルトは感嘆しかけたまま口許を押さえて俯いた。
「どうした?」
 ハリーがそう言って逆に絶句してしまうと、マイケルは些か憤怒を滲ませて厭きれたように言った。
「俺の女房のところの玉葱と聞いて気分が悪くなったんじゃないかな」
 ミルトは大きく首を振りながらゆっくりと顔をあげた。それは痩せた頬骨まで紅潮させて異様だった。
「素晴らしい人達だ…合衆国の食文化を支えている人たち…ひとつの王国だ。そして…そして遠征がはじまる。王国は拡大するだろう」
 ハリーとマイケルは返す言葉を探しながら顔を見合わせた。
「私のような造形作家の端くれも、合衆国の経済の上で遊ばしてもらっているのです。合衆国の経済を象徴するもの、それは食です。様々な人種がもち込み育んできた共存するための鍵となるもの、それは食です」
「随分と食い意地のはった芸術家だな」
 ミルトはマイケルの言葉を気にせず続けた。
「ケイジャンはもちろんアフリカーンスの食感なんでしょうけれども、それだけに米ひとつとってみても、アジアが、日本が身近かにあることを教えてくれます」
「ありがとう、先生によろしく言っといてくれ。たしかに俺の鯰のグリルを、あんなに絶賛した日本人はミルトの先生だけだ」
 ハリーの言葉に力を得たミルトは己の額を軽く小突いてさらに続けた。
「私にしても知る限り三代続いたアイリッシュの金融業一家の出ですが、アングロ・サクソンとしのぎを削り合うには、金銭のうえで優越するしかないと思っていました。まして芸術などに残されていることはセックスの他に何もなく、メトロポリタン美術館の造形で美しいものと言ったら、女の裸体の類いでしかないのか…違うのです。それは白人が見る合衆国の経済であり、白人が見る芸術の行き詰まった姿なのです」
 マイケルは背を向けていたが軽く拍手するのが聞こえた。
「文化や芸術といったものは、もはや都市のものではありません。何故なら都市には白人の風俗しかないからです。このハンニバルには…」
 窓外の騒ぎがミルトの耳にも煩くかかった。
 ハリーにとってビデオの再現のように信じられない光景が窓に走った。ちょうど店の前でソニーがスバシを捕まえたところだった。殴りかかってはいないが馬乗りになって怒鳴っている。消防士がどうのこうのと言うのが聞こえた。
「あの河馬野郎が…」
 ハリーはまた舌打ちをして椅子から立って踏み出した。しかし太い腕がせりあがってきて遮った。マイケルの押し黙った腕だった。
「俺は今日は非番なんだ」
「しかし…あれじゃスバシが袋叩きだ」
 マイケルは立ってハリーの正面に向いた。
「この前の騒ぎの時、俺はフリッツたちだけじゃなくスバシにも言った。しばらくは表を歩くときはターバンを取れ、しばらくはアラブ人の客を遠ざけろ、とね。しかし、あいつは言うことを聞かないんだ」
 ハリーは半歩ほどよろめくように後退した。すると背後のカウンターの中にイザベルを見て取ることができた。そしてハリーは彼女がこれほど素早く目を伏せる様をはじめて見るのだった。
「しかし…俺の店の前だ」
「分かった、おまえの店は俺にとっても大切なところだ。騒ぎは俺がなんとかする。しかし、おまえはここにいてくれ」
 マイケルは巡査長の三白眼になって大きく頷いた。
「いいな、トム・ソーヤ通りのハリー・ホワイトはもうあんな痴話喧嘩に出ちゃいけない」
 マイケルがそう言って出て行くと、ハリーは立ち眩んだようにカウンターに凭れかかるしかなかった。
 ミルトは目をいっそう細めながらハリーの左肩に手を置いて言った。
「素晴らしい人たちだ。あなたの王国は、いつもあなたの足許にある」
 ハリーには何も聞こえなかった。茫然とした視線の先に、ブロードウェイの路駐メーターが厳かにあった。

                                       了
ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)

  • 作者: マーク・トウェイン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1959/03/10
  • メディア: 文庫



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スヤート19号   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 只管ひたすら、大海上に連なる小笠原の島嶼の風物に魅了されている日々である。なかでも八丈島では、長年の八丈語の採集が照れ臭そうにも島民に寄り添えてきて、私という外来亜種に刺激されてか、島民の物語の記憶が少しずつ発酵してきたようである。言葉がある限り人は捨てたものではない。
「たしか定期潜艇『オジャリヤレ』の命名は先生によると、そう村長が言っていましたが…」
「オジャリヤレとは、いらっしゃい、ですから私じゃなくても、これしかないでしょう」
「それで…ご趣味がメタル・ポエムの収集…これは意外でした」
「そうですか、意外ですか。私の周りでは、性懲りもなく仕事と似たようなことをやっていては、息抜きにもならないだろうと、揶揄されていますよ」
「実は我々も、先生の八丈島へのご執着というのは、専門の八丈語の研究の他に、八丈の自然や名産品、顧問をされている飛魚の回遊調査ですとか、この壁一面にみごとに架かっている黄八丈ですとか…」
 そう言ってTV局の老けこんだ女性アナウンサーは、私の背後に架かる三反幅の黄八丈に目を細めてコーヒーを啜った。豆は八丈のものである。
「あなたも大変ですなぁ。最初にここへ来られたときは、まだ高速潜艇も運行していなかったころで、中国の大型客船『漢渡』が、月の『豊饒の海』に緊急着陸したニュースで騒いでいた日でしたね」
「そうです、辿り着くのに、月並みに時間がかかる八丈島へ行かせるのだったら、鰆のような若い女子アナを行かせろ、とかで…その鰆にも、来年には孫ができるんですよ」
 私は含み笑いながら慰めるように、錫のポットを彼女の八丈焼のカップへ向けた。
「メタル・ポエムのことなのですが…」
「そんなに意外なことでしたか…むしろ、人工頭脳の詩人もどきが、私が生きている間に、こうもぱっと話題になって、ぱっと衰退していくとは、それはそれで意外でした」
「言葉の研究をされている一方の旗頭」と彼女は暗誦するように言ってからバッグヘ左手を入れた。「そのように世間一般では見られている先生なので、我々のような有象無象が安易に思ってしまうのは、例えばランボーの商人時代の見積依頼の書簡とか、ボルヘスとロルカとの間の幻の四十七日間往復書簡とか、そういったものの探索発掘が趣味と仰るなら二つ返事で納得してしまうのですが…」
「それこそ息抜きにならんでしょう。それに、ボルヘスとロルカの書簡を探したほうが儲かりそうですね」
「そういう先生ならば、メタル・ポエムの絵画性に着目して…こういうものが開発されているのはご存知でしょうが」
 彼女は私の掌の上に、チタンのような鈍い艶の金属板を恐々とおいた。
「手から伝わる脈拍と、ミラー代わりのカメラが捉えた表情筋や光彩を分析して、日本語なら千字までの韻文、あるいは散文が創作される…ちょっと見てください」
 そう言いながら私の右に擦り寄ると、板に軽く爪をかけて化粧小鏡を開くように二つ折りを割った。私の乱れた白髪と窪んだ近眼が他人のようにある。噂には聞いてはいたので、手前面にするすると白紙の短冊画像が立ってきたことに驚かなかった。
「すみません、私用に俳句モードにしてあります」
 彼女が小さくはにかむと、墨汁がたれるように楷書体で「煌々と 宇喜多の島の 鴎ぶり」と書き下された。正直、私は好むところだった。
「宇喜多の島、ここが八丈だということを認識していて…いいんじゃないかな。商品としては、どうなんでしょう、売れているのですか?」
「売れているとは言えません。詩情素子『ソネット21』の最先端系で、コンパクト型の『ストゥーバ』という名前で売り出されたのですが」
「名前がどうも…『ストゥーバ』って卒塔婆のことでしょう」
「ええ、おそらく。この『ソネット21』の最新版を組み込んで、九十秒で作詞作曲し、そしてテーブル上で五人組み編成のアカペラ・コーラスを聞かせるドール・セット『ファイヴ』は、まずまず売れているそうです」
 私は思い出して迂闊にも甲高く上擦ってしまった。
「そうそう、あれはいいですね、あのパペット・サイズの五人組みは『ジャクソン・ファイヴ』ですね。あれはほしいなぁ。『ジャクソン・ファイヴ』は『マイケル・ジャクソン』の兄弟が一同に揃ったグループで…祖母が大好きだったのです、マイケルも兄弟も。よく聴かされたものです」
 彼女は私の一九七〇年代の音楽知識に唖然としながら、掌の上で揺らめく俳句を消して、些か気まずそうに別の画像を立ちあげた。
「すみません、この『ストゥーバ』に収録してきた画像なのですが…ちょっと先生に見ていただきたくて」
 夜の海浜の特設舞台、どうやらダーウィンの近郊らしかった。舞台中央のしなりくねった円柱の上方から、小気味のよいタップを鳴らして赤紫の伸縮状が下りてくる。百足型ロボットだった。百足型でも建設や鉱山の現場から距離をおいた特製の彼ら、彼らの詩は素晴らしい。「ソネット21」に似たポエム機能を組み込んだ彼ら、彼らの充分に地に近い農民目線の詩は、私の収集するメタル・ポエムの一群を成していた。円柱を下りきった百足型が、さて、やはり英語で赤茶けた大地のことでも吟じてくれるのか、と思いきや…それこそ殺虫剤を吹きつけられた百足のように、小さく痙攣微動して停止してしまった。そして撮っていたカメラが夜空へ向いた。噴射音を追ってライトがあたる。つや消し黒の粗タイル張りに見せかけた大きな人型。私らしく形容すれば、巨大な木偶人形、あるいは祖母がやはり好きだった観音菩薩、それに酷似した潜水ロボットの骨董品あたりではないかと思った。
「これが、今、警察、公安当局に睨まれているスヤート19号です」

 私はP(エル)。エウロパのこの基地で再起動してから20917日めの静かすぎる朝である。木星軌道上の目下の関心事は、やはりこちらへ向かって来ているというスヤート19号のことだろうか。
 中央管制のMM(マダム・マサコ)は、いつものように接近予測を発せられただけだが、流星で大破棄却したЖ(ジェー)の後継、浮遊探査のボンボリ(雪洞)は、誰彼構わず地球で起きた変事を話したくて仕方なかったようである。
「どこの首相かはあえて言いませんけれど、白虎の粉末、ホワイト・タイガーのミート・パウダーですよ、それが強壮剤で効くと思っている国の首相ですけれど、その首相が『信者が認識の究極形態として崇めている気持ちは分からないでもない』などと軽々しく言ったものですから、アジアでは修道系の学者や企業が、スヤート19号に対して少しずつ放任ないし理解を示すような発言も出てきています。もちろん興行や行事の妨害で死者二名を出しているので、彼の破壊行為を全面的に指示する発言はありませんが…そうです、相対的禁欲説法ロボット、もっとも相対的という言葉は彼自身が頻繁に唱えていて、警察などは単に禁欲説法ロボットと呼んでいるようです。おっとと、先輩がお笑いになるとは…いいえ、先輩ならこの発音するのも気恥ずかしい日本語にどう反応されるのか、実は少々興味があったのです。想像力の欠片もない命名、などと言うと、来年にはこの身が棄却処分されてしまいそうですが…禁欲説法、たしかに笑っちゃいます。しかし名前のスヤートは、およそ2700年前のサンスクリットによるもので、日本語にすれば『ある点からすると』という限定視点による相対的認識を…おっとと、その笑い方は、私の辞書の棒読みのような言い方に、想像力の欠如については他人をとやかくは言えまい、といった感じですね」
 私はボンボリの流暢な語りを笑った(正確には通信回線の過剰反応)わけではない。ジャイナ教という古美術のように残る古代インドの自由思想のひとつ、それを中枢に据えて真正面から人間に禁欲することを教え諭そうとするロボット。芸能に長じたロボットの舞台を急襲した事件は、最初は興行主の派手な企画の一端と思われていたが、ダーウィンにおいて観客二名の死者を出してから、やっと画像が見れたのは一昨日だった。MMの冷ややかな眼を気にしながら開けてびっくり!通信の詩情分析などあてにしていなかったものの、体型が「観音菩薩をモチーフとした美大生の傑作」とか、概形における「大いなる偶像回帰」という表現は、騒ぎの陰でちらほらと見えて気にはなっていた。そして画像を見てびっくり!西安の一年も作動しなかった巨大なだけの兵馬傭ロボットそっくり!これは笑うなと言っても、皮肉と俗悪の効果的な処理に手馴れている私にも困難なことだった。もっとも、私が形状を嘲るだけの衒学趣味の蟷螂型ロボットであれば、スヤート19号なる者は木星の軌道を目指して来ていないだろう。
「先輩の言われ様は、スヤート19号がこちらへ向かってくる目的は、先輩にあると…」
 私の予測は、それこそ、ある点からすれば、私という存在の宿命なのだろう。私の完成と、完成した私が人知も及ばぬ美しくも残酷な辺境へ送り出されること、それだけを願っていた日本人。そして彼の研究を見守るままに消耗していった彼の妻、おりしも彼女はスリランカの純情だったのである。彼女が彼の許を去れば、封印してきた研究を再開することは必然だった。それは「トリ・ラトナ」という日本語で言う三つの宝、反快楽と反感動、そして反関係、これらの極北ともいえる(彼女が言い残した意味での)正義機能。私に向かってくるスヤート19号、これは宿命なのである。おそらく、流暢にして陽気な友人、我がボンボリは停止、あるいは破壊されるだろう。
 私はP。スヤート19号か、私か、どちらか片方しか残れぬ運命ならば…私を完成させた日本人が、私のような詩吟の鉄くずの基礎体として、概形の機甲性、体型の蟷螂型に拘った気持ちが、いささか憂鬱なまま分かるような気がする。

                                       了
猫のパジャマ (河出文庫)

猫のパジャマ (河出文庫)

  • 作者: レイ・ブラッドベリ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/01/08
  • メディア: 文庫



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Eとサンライズ作戦   Jan Lei Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 予め言っておこう。彼ンナカは母国ジンバブエを愛してきたし、今もって愛しているようである。愛していなかったら、暑苦しい昼下がりに分厚いサミュエルソンの「経済学」なぞ腹の上に載せているはずがなかった。しかし国のために教養を身につけようと一念発起してみたものの、未だ義姉の関係になっているままの女が産んだ娘ラーミ、ラーミの凄まじい夜泣きによる不眠の反動は、休日の午後にビクトリア瀑布のように落下してくるのだった。それでも眠気に抗うのは、国を愛しているからで、国の未来、つまり子供を愛しているからで、ラーミが成長して粋な女としてハラーレの街中を闊歩するためには、と思うと起き上がって本を抱え直す。肝炎で寝たきりの兄の脇を抜けて、ベランダ隅のヌコモ爺さんがくれたゴムの樹の鉢の前に座り込んだ。そして両頬をぴしゃぴしゃ叩いて、銀箔をめくるように読みかけの頁を開いてみる。インフレの分析についてだった。インフレーションinflation、世紀末からやたらと耳にする英語だった。インフレとは、物資やサービスの全体の価格が、ある期間において持続的に上昇する経済現象である、とあった。早い話が物不足だっていうことは実感していた。これに対処しているのがゴノ…連邦準備銀行総裁、お金にかけちゃEだ、つまりエキスパートexpertだ。アメリカの大学に学んでいて、経済学の博士号だってもっている、と聞いたような…すると、勤める警備会社の上司と市街で出会ったときのことが思い出された。
「経済学博士号?ゴノが?さあね、俺は今日はじめて聞いたよ…大学はたしかハワイの方で…ンナカもハワイは知っているだろう?そこの大学らしいな」
 元税関職員で各国語を読めた上司は、そこまで言うとベンチを軋ませて仰け反った。そして持っていたアメリカの新聞をンナカへ放るように渡した。
「ハワイはどうだか分からないが、アメリカ本土の奴らは笑っているかもしれない…いや、笑っている。真ん中の経済欄にあるこの国を笑っている項目、ゴノ総裁による超インフレ経済学講義…奴らは間違いなく笑っている」
 ああ、母国の連邦準備銀行総裁が笑われている。この前まで端正な顔立ちの単なる銀行の親方だと思っていたゴノが笑われている。
 ゴノは笑われるような阿呆なのでしょうか?
 いや、笑われているのはロバートだ、山師のロバート・ムガベ大統領だ。奴の頭を占めているのは、ムガベ一族がコンゴに持っているダイヤモンド鉱山のことだけだ。
 しかし…しかしですよ、ロバートがムカベ家に生まれたのはロバートの運であって…奴じゃなければ、白人に対抗してここまで来れたかどうだか…例えば三年前の八月から始まったファスト・トラック、あれはいい政策じゃありませんか?
 ファスト・トラック…白人が持っていた大農場を取りあげて国営化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する。なんて感動的な政策なんだろう。アフリカ中の黒人の涙が止まらないほどの英雄的行為だ。まるでレーニン、まるで毛沢東、そして二十年後に果たして言われるだろうか?まるでムカベ…言われるはずがない。言われるとしたら、まるでアミンのイディ・アミン、まるでボカサのジャン=ベデル・ボカサ、これ等の黒い暴君どもに連なる名誉を拝してのまるでムカベ…ファスト・トラックなんて国民の目を欺いているだけだ。コンゴ派兵以降の失政への非難を避けるために決まっている。
 待って、待ってください。あれっ?また居眠りしてしまったのか…それにしても問題は未来だ、ムカベの後だ…だからラーミの先行きを思いやれる今のうちに学ばなければならない。
 ンナカは愛娘の未来を信じて、サミュエルソンの「経済学」を読み込まなければならない。隙間のような時間が見つかれば一頁でも一行でも、眠気を払って読まなければならない。そしてベランダは茹だるように暑かった。
 ンナカの読書の勢いが滑空しだすのは、やはりホワイト・ビルの受付警備に就いているときだった。ホワイト・ビルというのは通称だが、ユーロ企業の出先が集まっている雑居ビルで、最上階の七階には、後々に問題となってくるジンバブエ・ドルを印刷したドイツの印刷会社の事務所があった。大統領に就任した初期において、ムガベは黒人と白人の融和政策を進めていたので、街中や警備するビルの白人乃至外国人の往来を賑わせていた。しかしコンゴへの派兵とファスト・トラックによって非難、撤退の泥車が横行し、街中はむろんホワイト・ビルの出入りも随分と少なくなった。そうなると皮肉なもので、サボタージュといえばサボタージュだが(やはりこういうEじゃない言葉は英語じゃない)、ンナカの「経済学」読破の勢いは飛蝗の群れのように進んだ。そんなある日、受付警備のンナカの前にあの上司が立った。慌てて冊子を閉じた。元税関職員だった上司は、薄ら笑いながらンナカの手許を覗いた。
「気をつけることだ。言論統制が布かれてきているからな…サミュエルソンの本を読んでいる奴は米英の、白人のスパイだと言われかねない。それから…何かあっても地方へ、生まれ故郷の村とかへ逃げ出しちゃだめだ。ハラーレを離れない方がいい。噂だが…地方の貧困層の住宅地に強制退去をかけようとしている。噂だが、サンライズ作戦、とかいうそうで…ゴノ総裁による超インフレ経済学講義よりも酷いことになるかもしれない」
 ンナカが生唾を飲み下して「経済学」を管理表の下に隠すと、上司は自分の手を彼の手において眩しそうな眼で言った。
「俺は会社を辞める…独り者で身軽だから南へ出る。今度会うときには…インフレの講義をしてもらおうかな、俺にも分かるように」

                                       了
やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

  • 作者: エイモス・チュツオーラ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 文庫



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墨晒し   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 真帆の前に広がる風景は凡庸だった。牛の背を際立たせる山景が、日野のそれに随分似ているように思えた。伯父にとって近江の日野は、替えがたい草食みの広がりではなかったのか。琵琶湖の方へ向いての、大阪湾の彼方のハワイを夢想させる南国語りは何だったのか。真帆は軽くよろめいた。頑なを表象していた人物の殻、そのありふれた脆さに遭遇して呆然としていると、優柔な気だるさがとりなすように滲みてくる。それにしても、みちのくの浄法寺町とは遠すぎる。近江の牛飼いが、浄にして法なる教えがあった山寺へ逃げ込んできたにしても、ここは十分に遠すぎる。そして遠すぎる東北のここに、伯父が守りたかったものがある。陽気な表装の仮面が、ひたすらに南方指向を繕って守りたかったものがここにはあるのだった。
「伯母ちゃんのことは訊かんの?」
 伯父は逸らすでもなく大きく頷いて嘆息を吐いた。
「そうか、日曜の朝の美術番組に映ってしもうたか…」
「映っていたいうても、横顔の一瞬だけやけど…そこがいっつも歌ってた、ジョ♪ジョ♪ジョホジ、そのジョホジの浄法寺と知ってからは、あれよあれよと一本道やったわ」
「そうやったな、真帆は絵描きやった…椀塗りでも何でも関心持つわな」
 およそ十一か月前に蒸発した伯父の泰三(たいぞう)は、みちのく岩手の浄法寺町という処にいた。
 町名に由来する浄法寺は、藤原三代の栄華を印す平安時代に開基された天台宗の寺である。行基の開山以来、秀衡塗り、あるいは浄法寺塗りとして、漆工の技術は約一二〇〇年以上の歴史を持っている。そもそも秀衡が京より工人を招く以前から、技術は黙々と衆坊の手によって伝習されてきて、光沢を押さえた墨黒の漆塗り椀は二千年紀を迎えるに至っていた。今でも漆芸の地として知られていて、塗工技術もさることながら、原材料としての生漆は全国の六割を生産していて、木地の原木となる橅(ぶな)や栃も、その品質と適量を頑なに保っていた。
 幼い真帆が何気なく見てきて、何気なく見過ごしてきた真っ黒のお椀…伯父の手許にあったプラスチックに似たお椀、鮮やかな日野菜の浅漬けを盛ったあの黒い椀は、浄法寺塗りとして黙々と漆を塗り重ねられた一椀だった。

 浄法寺町の工房に泰三が確認されたとき、真帆は絵筆をキャンバスから離して素直に微笑んでいた。東北やら岩手やらは意外だったが、ともかく伯父は生きていてくれた。眼の前の黒ずんだバナナに微笑んだ。フィリピン産バナナを台湾のそれに変更したのも、泰三の語り口から羽ばたいた南洋への想像に寄っていた。台湾バナナを描かせていた陽気だった伯父が、北の漆塗り工房に身を潜めていたとは…気がつくと絵筆は熟したバナナの影を濃くしていた。
 六年前の心地よい団欒、伯父の口に上った台湾バナナは充分に甘そうだった。
「伯父ちゃん、お椀はお吸いもん入れはるもんやろ?」
「そうやな」
「何でお吸いもん入れはれんの?」
「入れたことあるで、つるつるした『じゅんさい』の温ぅいおつゆをな」
「何や、その温ぅいおつゆて」
「漆のお椀な、熱いお湯に弱いよってな、温ぅいおつゆ…まあ、こうした漬物あたりが丁度ええんや」
「熱いお湯に弱ぃ…大ぃ~事に扱ぉうてはるわけや」
「そな大ぃ~事に、とかいうわけやないけど…そうやな、何でも大事に扱わんとな」
 あのとき伯父は反り返って伯母の方へ向いた。いつになく凛々しく見えた。
「子供いうんは成長するもんやなぁ。怖ろしくなるほどはやい…まるで可愛さから逃げ出してくるようにはやいわ」
 あのときも今も、真帆は泰三から無碍に扱われたくなかった。
「ごめんな、伯父ちゃん、生意気言うてもうたら」
「生意気やない、真帆はな、うちのなんかと違ぉうて、産まれつきぴりっとしとるんや」
「ぴりっとしとるぅ?」
 うちのとは泰三の一人息子、真帆の従姉弟にあたる浩実(ひろみ)のことである。
「そうや、真帆のぴりっとしとる口は産まれつきや…台湾バナナの帽子の頃からな、えらい利発な子や思うておったわ」
「台湾バナナの帽子て?」
「忘れたんか、まだ小学生やったかな…ほら、うちら夫婦がな、写真のことで言い合いしておったやん」
「あぁ、台湾の女の人…アミ族や、アミ族の女の人と撮った写真や」
「そうや、よう詳しく憶えとるやん。そのアミ族の女とわしが写真撮ってきたこつで、なにやら言い合いしておったんや。そしたら真帆がな、浩実からバナナの皮を取って頭にのっけたんや」
「頭にのっけたぁ?」
「おぉ、のっけてな『こんな帽子どうや。大きゅうなったら、こんな帽子作ったろ』て言うておった」
「ほんまやったら阿呆や、あたし」
「ほんまやて、浩実が笑いながら言ったこつ憶えとらんけ?浩実の方が阿呆なくせに『やっぱ学校一の阿呆ちゅうはほんまや』てな」
「浩実が…阿呆に阿呆呼ばわりされとったら…浩実やからええけんど」
 真帆は皮膚下に走るものを感じて、放り出したように筆を水差しへ投げて、ベージュのコットン・パンツの膝の側面と、下着が擦れる背中を勢いよく掻いた。
「ジョ♪ジョ♪ジョホジ♪ジョホジの庭は♪…台湾とは逆の東北にあったんやね」
 真帆はすでにキャンバスの台湾バナナを見ていなかった。
 
 工房の坊棟から坊棟へ移る渡り廊下から山渓の残雪が見えた。近江ならば湖岸の初夏爽風を想わせる今日この頃、未だ一週間先ほどに流水になれるかどうかの雪渓が鈍白に目を射るのだった。
 真帆はさも観光客らしくそぞろ列についていった。塗り師が疑視を濡れ手の滴りのように飛ばしてくる静謐な坊から、電動工具の削音など許して余りある典雅な木香が満ちた坊へ足を踏み入れた。後ろの泰三は憂いを黙らせて柔和な表情を見せていた。
「浄法寺塗りの地はですな、蒔地法というものでしてな、漆が乾く前に珪藻土、大昔の藻の堆積物ですな、この土を蒔きつけてから漆を塗り固めるんですわ。他の下地の作り方は水を使うんですが、この方法ですとな、丈ぅ夫な下地を作れるんですな」
 真帆は工場長の説明を聞きながらも、帰ってから浩実や伯母に伝えるべき泰三の言葉を拾い直していた。
 当の伯父、泰三は締めなれぬネクタイを緩めながら開き直ったかのようだった。
「太閤はんも、同じ黒椀言うても、この木椀やったら喜びはったろなぁ。百姓でも、天下とっても、この黒椀やったら朝晩に落ち着いて使えるし…」
 伯父の脇で含み笑う女が応じた
「やっぱり関西弁だと楽しそうに話されますね」
「須美子さんやったら、どない思われますぅ?」
 須美子とよばれた柳腰で伏し目がちな女性は、艶やかな紅茶色のセーターの胸元を軽く抑えた。
「東北人、まして南部人は太閤秀吉さんのことは詳しく存じあげません」
「そうやな、太閤はんも東北までは足を伸ばしておらんから…利休がよう出した黒椀を嫌うておったことは知ってはるやろ?」
 須美子は頷くでもなく首を傾げた。
「最初に会うたんは、たしか天満橋でやっておった物産展やらだったわな」と紹介してくれたとき、泰三は木漏れ日に翳すようにポケットから卵大の墨塊を取り出した。物産展で買い求めたという半艶の楊枝入れである。真帆は初めて黒椀以外の浄法寺塗りを見せられた。「この楊枝入れな、肩の凝ったとこに押し当てるんや。名前は墨晒し、わしのような恥さらしがな、夜な夜な使う墨晒しや」と言って泰三は小さく苦笑した。
 伯父をこの地へ導いた初老の女、伯父を狂わせた背筋の立った女性、須美子には厄介事に対している悲哀の陰りなど見えなかった。
「やっぱり楽しそう…こちらのお嬢さんがご一緒だからかしら」
「あぁ、それはそうかも…なんでか、この子の前ではついつい落語家みたいになってしまうんですわ」
 須美子は近くの安代町で父祖以来の旅館を営んでいた。幼馴染みで早くに亡くなった婿との間に子はなく、真帆のニ歳上にあたる姪を養女として迎えていて、この春からごく自然な流れで女将を任せたところだった。
「お坊っちゃんと同い歳くらいでいらっしゃるの?」
「この子の方が二つ上、よってうちのなんかより早うから大人びておりましたわ」
「お坊っちゃんは素敵な方らしいですね。こちらのお嬢さんも近江牛みたいだって…ごめんなさい」 
「従姉弟やさかいに勝手言うとるわ。近江牛いうはもったいないが…この子、真帆には案の定、わしの尻尾もずっとつかまれとりますわ」
「近江牛の尻尾ぉ?」と須美子はまた首を傾げた。
「そうや、わしという近江牛の尻尾ですわ。真帆は…さすがの日野の女ゴリラや」
「そんな大きいからって…」
「この背丈だけやなくて、この子の絵の才能ですが、食いもんとか樹を描かせたら、ゴッホですわ。ゴッホ、ゴッホ、てなうちの阿呆息子がゴリラの真似するよって、この子が怒って青瓢箪の息子の首を絞めよったりしてなぁ。あの真帆が…こんな奇麗な娘になりおって」
 真帆は自分でも自然すぎると思ったほど軽快に振り返ってみせた。
「世辞はええから、おもてにあった夫婦椀とお盆のセット、あれ買ぉて、買ぉて」
「買ぉてぇ?買ぉて言われてもな、まぁ構わんけどな…あれは夫婦椀やでぇ?」
「阿呆やなぁ伯父さん、あたしが使うんや」
 伯父は肉牛の背を剛擦していた風もない、いくらか青白らんで見える指先で、真帆のトートバッグの縁を縋るように摘まんだ。
「結婚…するんか?」
 真帆は頷きながら反り返って、くびれたフリースの下腹をさすってみせた。
「お腹すいたわ。よう言うてた『じゅんさい』のおつゆは無理やろなぁ」
「真帆と一緒になるて、どこの誰やぁ」
「ゴリラやあらへんから安心して。生真面目でな、誠実な人やで。でもな…反面、奔放なとこもちょっとあってな、抜けめのない人かもしれん」
「そんな…仏さんみたいで、阿修羅みたいな男がおるわけないわ」
 真帆は聞き流して柔らかくなったような泰三の手をとった。
「お腹すいたて…ほんで『じゅんさい』が植物でよかった。つるつるぬるぬるしたもんで動物やったらかなわんわ」
 真帆は須美子の目線まで腰を落として微笑んだ。伯父の手を引き寄せるようにして突っ放す。そしてお腹の中の「じゅんさい」を確かめる。頷きながらバナナ色のシュシュを口端に咥えて、長い髪を束ねようとしている真帆の臍の下には、伯父の阿呆息子、従姉弟の浩実の種が息づいていた。

                                       了
雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

  • 作者: 川端 康成
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/05
  • メディア: 文庫



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未有をμとする   Mye Wagner [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 真冬の半月ほどではあったが、サント・クリメント聖堂へ行くと、祈るように呟きながら刺繍している日本人女性を見ることができた。長い黒髪を白組み紐のミサンガで後頭に結い上げていて、微かに見える後れ毛がかかる額は痘痕ひとつなく白々として広い。手入れしていない恵比須眉の下の醒めた瞳は、度の強い渋茶縁の眼鏡をとおして、日が舐めて褪せてしまった哀しげな肌色の窓枠と、メレンゲ細工のように波うっているジャバクロス(版布)の下書きの間を往復し続けている。彼女は越冬の岩燕のさえずりが騒々しく聞こえてくると、我に帰ったかのようにやっと疲れを実感しているようだった。
 サント・クリメント聖堂は、カタルーニャ州リェイダ県のボイ渓谷にある。スペインの北の境界を予感させる狭い谷間、その渓谷に連なるタウリ村からボイ村への道を行くと、中途の小高い丘に日を過ぎたお菓子のように建っている聖堂が見えてくる。お菓子の脆さが敬虔なロマネスクの壁面にとって侮辱であるなら、遠くピレネーの稜線からくだされた岩塩塊とでも言おうか。どうも古びた威容さばかり形容してしまうが、その芸術的な価値は相当なものなようだ。一一二三年に司祭ロダによって献じられたという堂は、実際に谷の聖堂群の中では最も保存状態の良いものと評されていた。バシリカ式聖堂の典型として三条の身廊が並ぶが、それぞれの身廊は柱が林立する厳かな拱廊で、来堂者を泰然と惑わすように仕切られている。そして南に向いた六階層の高さの鐘楼は、遠くからでも夕景などを背せば、それを見る者は郷愁に拉がれるに値することを知る。さらに半周の和みを見せる後陣の木製の屋根、それが建立以来だということを知れば神聖の想像はいや増す。後陣で待ち受けているイエスの御姿Pantocratorは、背後の蒼天が絶対の占拠としてあって、誰しもが稚気と聖性の惑乱に感慨の嘆息をもって拝していた。
 むろん耕すように刺繍している日本人女性は、本来のPantocratorが国立美術館に保存されていて、眼前の御姿が模写だということを知っていた。
 彼女の名前は米倉未有(よねくら・みう)。未有と書いて「ミウ」と読ませる。生まれ育ちは四日市である。米倉家は戦前の祖父の代から、地元四日市に君臨してきた財閥系の化成工業会社に勤めて禄を食んできた。二人の兄も多分にもれず理工系の大学を経て、見慣れてた工場着を纏って煙突の林立する方へ通い、休日も構造式が配された英文雑誌を枕に昼寝していた。末っ子の未有は、高校卒業後から市内の郵便局に六年間勤務した後、二十代半ばから名古屋の大学でスペイン文学を専攻してなんとか卒業した。そして一昨年から市内のスペイン料理店の受付とCajero(会計係)をこなしていた。
 未有は幼い頃からあまり人付き合いはせずに、自分の世界で遊ぶ性質だった。奇異に見られることは一向に気にせずに、例えば高校時代から手紙や寄せ書きの署名にギリシャ文字の「μ」を使いはじめた。μでも未有でも本人は私的な署名時以外は分別の意識をもっていなかったが、どうも日本国内の日常では自ら口許しっかりに「ミウ」と発音していて、未有の字も「すてきなお名前ね」と言われる矜持を幾らか持っていた。しかし海外へ出てみると、口許はすぼまって「Mi nombre es μ そう、グリィークのミュー」と言っていて、照れも加わって薄ら笑っている自分の顔を想像できた。
 そんな洒落た名前の未有であるが、白い吐息の下でせっせと針を翻して刺繍する契機となったのは、卒業旅行のときに魅せられた何枚かのタペストリーに因る。中でもカタルーニャはジローナ大聖堂の天地創造のタペストリーは圧巻だった。円環状の創造の犇めきは素朴で凄かった。スペインに恋した因縁が瞬間、予定調和をもって轟然と降ってきたかのようだった。
「…これを見せたかったのね、あたしにこれを」
 それこそはヨーロッパ最古のタペストリーであり、日本人などが修練を重ねても叶わないことを自覚させられた。さらに中国の端整な伝統刺繍を知った。針に糸を通した記憶も定かでない者に、天上から表現する呼惑の難題が降ってきたのである。しかし、兄たちの男物の雨具をさっさと羽織ったように、自分の時空を一瞬にして策定してしまう未有は、早計や軽薄などという日本語をさておいて、ともかく刺繍の基本的な技術を習得しなければと思った。今すぐにでも、この困難に触れてみたい。それが被さるように啓示するものは、自らが刺す糸で表現されうる開放感に違いないと思った。
 生来俯き加減で篭りがちに見られる未有が、ジャバクロスとドルフュスのアブローダー(刺繍糸)、PetitPoint(プチポワン)教習本と上海の顧繍を撮ったビデオテープなどに囲まれて、実際に魔女の手遊び宜しく部屋に篭るようになってしまった。拉致されたお針子のようにひたすら刺し続けた。部屋を出ても布という布を見れば刺したくなる。母や数少ない友人に熱狂ぶりを知られるや、シャツの胸元はむろん背中にまで薔薇や麦穂を描いてあげようか、正直なところ刺さしてほしい、と申し出るのだった。スペイン料理店に勤めるようになってからは、黒地のザックに銀糸でμの文字を遠目に豹斑に見えるように刺してみた。そしてμのザックを背負って、夏は上海で伝統刺繍を師事し、冬はフランドルやスペイン北部で凍てついた指を噛むようになっていた。
 謎めいた黒髪の日本人として気難しく見られがちな未有、それでもタウリ村では二度めの冬を過ごしていた。村ではニ、三日以上滞在する日本人はまだ珍しかった。未有はいつもボタンダウンの白シャツに着古した濃紺のセーターを重ねていて、白い蝶を刺し散りばめた桃太郎のジーンズを履いていた。そして常宿となっている雑貨屋兼料理店の主人アントニオ、彼の寝込んでいて店に顔を出せなくなっている老母が、暖をとるためにとくれたフェルト地の灰色の膝掛けを腰に巻きつけていた。
 最初の年にあたる一昨年、一週間経ってみると村民のうちの何人かは、教会とアントニオの店を傘もささず雨に濡れながら朝夕行き来する彼女を見かけるようになった。教会までの道程で村人に会わなければ、長い睫毛と一重瞼を中空に向けて赤銅色の唇から吶々と同じ日本語を呟いていた。
「蝶はあなたの指先を越えていく…蝶は炎を越えていく…蝶は氷雨の夜を越えていく…蝶は海原を越えていく」
 今年になって、アントニオは老人や子供が囁きだした噂、アジアから来て聖堂を模写している精神に異常をきたした娘、という口さがない暇な老人たちの作り話に憤慨して言った。
「彼女は俺たちよりも豊かな国から来ているお嬢さんだ。立派な教養も身につけている。名前のミウにしたって、無知な俺たちにも馴染ませようと、ギリシャ文字のμを使ってくれている。分かるか?ギリシャ文字のμだぞ。スペイン語も随分と上達していて、一昨年のμとは違う。今年もこの村まで来てくれて、我らの主イエスを刺繍して写し取っているのさ。分からないのかい、彼女は芸術家さ…何?バスクの言葉?μはニッポンからのお客さまだぞ、おまえも少しはまともなスペイン語を話すことだな」
 未有は確かにサント・クリメント聖堂の壁画を事のほか気に入っていた。それは困惑した日本語の呟きに見え隠れしていた。
「洗礼も受けていないけれど…イエスの見ている先にあるもの、それが地球の反対側の海上だとしたら…ここのイエスだけが正真のイエス、なんて言ったら叱られるかしら」
 にじり寄るように賞賛されて刺繍に写されはじめたイエス。それは遠望しているような全能のイエス。しかし未有が素朴な壁画を見た最初の素直な印象は不幸なものだった。それは不謹慎で村人にはとても語れない。主の背景はなんと悠長なまでに青いことだろう。無機質に清澄すぎる効果は、確かに絵画らしい絵画としては充分に成っている。しかし未有が瞬く間に連想してしまった先には、オーストラリアの原住民アボリジニーの赤銅顔があった。これは…十六歳の真冬、名古屋の展覧会で見たノーザン・テリトリーの幼虫食い男ではないか…そう思うと偉大に昂ぶらせる背後の青色は、あくまで荒野で生きる純朴と明朗の象徴そのものである。そして息を殺して幼虫食い男に重ねてイエスを見ようとすると、青年とはとても呼べない放浪のはてに捕まった大柄な罪人だけが残った。成層圏に繋がる青はすでに劇的な死を予感させる。これなら嬲られて物見高い女たちを擽るように虜にしただろう。この冒涜と違わない連想に次ぐ連想は、信仰をもたない未有を奇妙に興奮させたのだった。
「蝶と空色の聖衣に包まれた男…蝶は彼をどうする?すでに空色と化している男をどうする…」
 気がつくと、聖なる象徴から拡散しようとしているラピスズリの宙を、未有は黙々と刺繍で写しとっていた。異国の聖堂にあって言葉をかけられることがない、という異常さにたじろぐことがなかったわけではないが、晴天の厳かな暴威に呑みこまれていた。
 九日目の午後だった。いつも膝に擦り寄る黒縞の雌猫を朝から見ていないのが気になっていた。アントニオが済まなそうに刺繍を断ちきらせて告げた。
「μ、お友だちがお見えだよ」
「友だち…あたしに?友だちなんて、そんなものはいない、μにはいないわ」
 アントニオの優しさは感得していたが、思わず不愉快そうな頬を見せてしまった。未有は針を煌かせて笑顔に努めて言った。
「ごめんなさい、おそらく旅行代理店か何かじゃない?」
「Es una muchacha bonita. 彼女はまるでカタロニアの童女のようだよ」
「カタロニアの子供?」
 未有は首を捻って針を皮の収具に差し入れた。躊躇して見上げたさきには、煤けたようなイエスのくっきりした鼻筋がある。誰の来訪であろうと、今は右手を掲げた蒼衣の男が未有を虜にしていた、上海で見た憔悴しきった白馬の刺繍のように。
「ともかくμを知っているニッポニアだよ」
 アントニオは何と言葉を続けていいのか、壁画の真下で驢馬のように右踵を踏み確かめていた。
「ニッポンね…やっぱり」
 未有はそう言って膝を立たせながら小さく吹出した。「ニッポン」と発音した直後に、側頭葉にパスポートの不満そうな自分の顔が明滅したからだ。スペインの山村の聖堂の薄暗がりで、煙たい眼をしたモンゴロイドが何をやっているのだろう。いずれにせよ、優しいアントニオを待たせられない、と思って立ち仰いだ瞬間だった。悠長に教え説いているイエスが、離反に激して一喝する猛禽に見えた。
 未有は拘束を解かれたように、アントニオの後について小走りに聖堂を出た。
 誰だろう?雲の陰影を追いながら腑が重くなる。カタロニアの少女のような日本人って誰のことだろう?こんなところにまで、友だちを装ってわけの分からない詐欺師がやってくることもないだろう。暗雲が早く流れる一月の山中にやって来た友だち…嬉しくもなければ嫌悪もさほど見当たらない、という不意を突かれたわりに鷹揚になっていく自分の感情に笑みがもれた。
 アントニオが怒鳴って前方に注意を促した。小型トラックの運転手は怒憤の表情のまま未有の脇を避けていった。

 未有が朝夕に座っている席にいたのは、少年のように髪を刈上げた女性だった。
「あれ…タマキ、環ちゃん?」
 未有を待っていたのは郵便局に勤めていた頃の同僚、鷺宮環(さぎみや・たまき)だった。アントニオが形容した縄文の末裔らしい濃い目鼻立ちの相。黄壁色の防寒ジャケットの袖口から出た白人参のような手が口許を抑えている。未有が椅子を除けながら近づくまで呼吸も止んだようだった。
「米倉さん、未有さん、お元気でした?」
「環ちゃんよね…あたしは元気」
 環は記憶にある未有の物言いに頷いた。ツアーバスを降りるまでに、何度もこれから尋ねる未有の硬質な物言いを辿りきっていた。しかし三十二歳になっているはずの未有は、濃い口紅とメドゥーサのように豊富な結上げ髪を揺らしながら座って、その存在感は予想どおり環を圧倒した。
「コーヒーでいい?Déme dos tazas de café. …で、よくわかったわね、ここにいるって」
 環は素直に驚愕したまま茫然としていた。喉が膠着したようになって、未有の実家に問合せしたことを音に出せない。すると未有は自分の荒れた左人差し指を見下すようにして苦笑して見せた。
「見つかった犯人みたいなこと言っちゃった。四日市のうちの方へ電話すればわかることだよね」
「そう、おしえてもらっちゃいました」
「それにしても、普通の人はここまでくるのは大変でしょう?」
 環は云々と頷きながら、少女の頃から不思議だった先輩の威が増していることを感じていた。
「化粧が濃くなったので驚いた?あなたは変わらないね。髪は短かったけれど、そんなもんだったかな…ほんと、アントニオが言うようにカタロニアのMuchacha Bonitaだね」
「Bonita…ああ、ボニータ」
「Muchacha Bonitaカタロニアの女の子みたいだって。それにしてもよく来たよね、ここスペインだよ」
「思いきって…来ちゃいました」
「来ちゃいましたって、だって来ちゃったのが環ちゃんだから…あたしね、勤めているときの印象だけれど、環ちゃんは明るくて付合い好きで酒好きだったから、要領のいい温泉派かと思っていた。まして今は冬だし…バルセロナに来たんでしょ?」
「そう、バルセロナ・フリータイム四日間」
 未有はカウンター越しから濃醇な香りのカップを受け取りながら頷いた。
「今日は何日め?」
 環は自分に示すように二本指をおずおずと立てた。
「二日めか。ここのコーヒーは濃いからね。あなたってお茶じゃなかったぁ?もっとも、お茶はないけどね。ごめん、久しぶりの日本語だからさ、ばたばた話しちゃっているよ」
 環にとっては、ずっと寡黙な不思議少女だった先輩の未有、ややもすると周囲は眼鏡越しの上目遣いに睨まれると、見たままに「陰険を描いたような米倉のところの末娘」などと陰口をたたいていた。同じ女子高校のニ学年上で、成績が上位にも拘らず進学せずに郵便局に就職したこと、環の耳にも母親たちの立ち話から何かと偏屈さは漏れ聞こえていた。そして環自身は二年後に辛くも同じ局に就職できた。ところが黙りこくっている先輩は、六年間の勤務をあっさり打っ遣って大学へ進学する。やがて専攻したのがスペイン文学と聞いて、パソコンのメールに懲りだした環は遥か縁遠く感じていた。
「教会で刺繍をされているって、お母さんから聞きました」
 未有は眼鏡の奥の眦を微動だにせず言った。
「されているって…たいしたことやっていないわよ」
「刺繍って、あのぅ、キルトみたいなものですか?」
「流行っているね、キルト。あたしのは中国仕込みの地味ぃなやつ。そうね、あたしらしい遊びでしょう」
 環は頷くともなくコーヒーの苦味に逃げるように啜った。
「そうだ、ごめん、自分がひとりなものだから…バルセロナにはluna de miel(蜜月旅行)だったりしてぇ?」
「luna de…何のことでしょう?」
「ほら、彼氏とか旦那さんがご一緒なのかな、と思って」
 環は煙たさを掃うように首を振ってふかく座りなおした。
「そっちの方は、未有さんが局を辞めた翌年に結婚したんですけれど、すぐに別れちゃって…」
 未有は応ずるべき日本語を失った。もとより取り繕る言葉など備えている質ではない。しかし同じ町に生まれ育って見知った後輩、顔立ちに沿って内面までもが整然順風としていそうだった環、彼女が異国にある自分を尋ねてくれた驚き以上に、頑なではあるが明朗で美貌の彼女が、昨今ありがちな不慮に遭遇していたことは呆然とさせられた。
「そんなに驚かないでください…もう随分前のことなんですから」
「驚いちゃいないけれどさ、結婚も離婚も。ただ、あたしが想っていた、勝手に想っていた環ちゃんからすれば…やっぱり驚いているのかな」
 環は目を伏せて払うように胸元の下を押さえた。
「何か食べたほうがいいですよね、何も食べてきていないから…そうだ、未有さん、来ていきなりですけど、あたしって…幸せそうな日本人に見えますか?」
 未有は写生するときのように反り返って、左右に肩をひきながら四日市の後輩を凝視した。煤けたバシリカ式の石組アーチを模した壁紙を背にして、意志が強そうな眼光の…それも幸せそうに見えるかと聞かれれば、彼女が抱え秘め続けてきたものが、その白い咽喉元を破ってもぞもぞと出てくるかもしれない。なにしろここはカタルーニャの春まだ遠い山中なのだ。
「幸せそうに見えるよ。日本人はね、刺繍をしているときも、テレビでfútbolを見ているときも、愉快そうには見えないらしいんだけれど…環ちゃんはさ、Muchacha Bonitaだからね、四日市の郵便局でも楽しそうに見えたよ、あたしには」
 環は瞬きひとつしなかった。微動だにしないというより微動だにさせない数秒は、村の時間の中核を捉えたかのようだった。そんな彼女が空腹をさておいて、放るように 姫のようなことを問うている。たとえ咽喉元から蚕が二、三匹出てきても、やはり幸せそうに見える日本人だった。
「幸せそうに見える…そして、あたしもお腹空いていたんだ。ボカリィーリョでいいかな、辛いチョリソーを挟んだボカリィーリョでいぃ?」
 未有はそう言いながらアントニオに向かって左手を掲げた。
「あたしもそれで…未有さん、番場(ばんば)局長のこと、憶えています?」
「憶えているわよ、アル中局長でしょ。酔うと触り魔で…スペインじゃmolester(痴漢)って言うらしいけれど」
 環は注文を確認しにきたアントニオの横顔を一瞥した。四日市の伊太利料理店「ネアポリス」で辞表を書いているとき、宥めるように見上げてくれたナポリタン・マスチフ「イカスミ」に似ていると思った。
「あたしはマスタードいらないです…その局長から『鷺宮さんはね、しっかりしているから疲れちゃうんだよ』って言われました」
「しっかりはしていると思うけれど、疲れちゃうか…環ちゃん自身は実感があるの?」
 未有はsopa de espinacas(ほうれん草スープ)を追加しようとして、厨房に入ろうとするアントニオを呼びとめようとした。しかし向かいのBonitaは破裂している。青竹が折られ裂かれたように涙が滴っていた。
「実感っていうか…体のどこかわるいのぉ?」
 アントニオが低まった日本語の気配に感応して振り返った。
「疲れちゃうのは周り…周りの人たちが…あたしに疲れちゃうって…」
 未有は酸欠の鯉のような口許で肩を落とすように両肘をついた。そして一〇時の視界方向で窺っているアントニオにsopaを注文した。
「そうか、ご免なさいね…あたしって、人に対して見たままっていうか、配慮が足りないっていうか…やっぱり無神経なのかな」
「…未有さんが謝ることじゃないです…来る途中で分かりました、自分の旅の意味が、局を知っている人に、局を辞めたことを話したがっているんだって」
 未有は古樫の卓や椅子、そして壁紙の落書きを初めて見るように振り仰いだ。
「そうか、辞めちゃったんだ…環ちゃんらしいって言えば環ちゃんらしい…環ちゃんってさ、あたしと違って気配りができて、思いやりがあって…でもさ、意地っ張りだよね」
「それって未有さんのことじゃ…」
 未有は異国で不意のとどめを突かれた。そして素直に飽きれた頬骨から白光が照射される。環はそれを鼻梁で受容すると、厳かな視線を孕んだ大らかさを感じた。涙腺に別の興奮が走る。二人は同時に吹きだし笑った。
「環ちゃんたら、失礼よ、いきなりこんなとこまで来て」
「未有さんだって…そうだ、伽羅蕗(きゃらぶき)のこと、憶えています?」
 未有は眼鏡を外して笑い目尻にそえていた指先を硬直させた。
「憶えてる。あたしの弁当の伽羅蕗を見てさ、うちの父もね、お酒を飲んだ後は必ず伽羅蕗でお茶漬けなんですよ、とか言ったんだよねぇ?」
「そうそう、あのときも今みたいに笑っちゃった…急に自分の言ったことが可笑しくなっちゃって」
「だいたいさ、環ちゃんは失礼なのよ。あたしをオッサンに見ていたでしょう?」
 未有はそう言いながら腰を斜にずらした。驚愕の末に寛いでいる実感がある。日本語での会話が、氷雨を遣り過ごした後の温シャワーに似ていた。
「四日市の話はさ、またゆっくり聞くとして…昨日はお決まりのバルセロナ観光ぉ?」
「ええ、ガウディの何たらかんたらをぞろぞろ案内されて…夕食は、サッカー留学している子と会いました」
「サッカー留学ぅ?fútbolか、へぇ、次はfútbolの選手を追っかけているのぅ?」
「女の子ですよ、去年の九月からエスパニョールにきている」
「女の子?女子のfútbolか…へぇ、女の子のfútbolもそこまでやるようになったのね。エスパニョールの女子か…何かで見たわ、Espanyol Femenino とか」
 環も一転心なしか寛いできたようで、樫のテーブル上に丸い爪先で漢字を辿った。
「緋山(ひやま)っていう子です。赤い緋色の緋。もともと伊賀の『九ノ一』でやっていて…未有さんもサッカーをご覧になるの?」
「ご覧になるほどじゃないけれど…fútbolは見るよ、いやがおうでも」
 未有は薄ら笑いながらカップを掲げて、自分の唇痕を覗くふりをしながら、ほうれん草の自家製缶詰を取り出すアントニオを窺っていた。
「ここでもね、テレビでやっているのっていったらfútbol、それしかないけれど。彼にしたって、エスパニョールの試合だと人が変わっちゃうのよ」

 未有はタウリ村を案内することになるとは想像もしていなかった、まして一顧だにしなかった後輩の環を連れて。聖堂へ向かう道すがらに己の鼓動の高鳴りに気づいた。異邦人として死ぬのも自分らしい、などといつも苦笑している自分が喜々としている。高貴な掃天を刺すうえでの煩悶がどこかに逸れている。淡々とした直情径行な未有が、不意に惑いだした軽佻浮薄なμになっていた。
「あの渡り廊下のあたり…ういろう、っていう感じじゃないよね。柱が雨に濡れても、蜂蜜が滲みこんだカステラって感じかな」
「詩人だったんですね、未有さんて…そうか、あたしへのサービスですか?」
「こうなっちゃうのよ。だってさ、四日市でコンビナートの鉄パイプばっかり見ていたのにさ、いきなりこういった聖堂の風化しそうな柱でしょ…」
「ということは…村の人も、村の人が言っているスペイン語も、詩人ぶっているって言うか…失礼かもしれないけれど、大袈裟なんですか?」
「大袈裟よね。でもね、失礼じゃないわよ、自分の感想だもの。あたしが知っている環ちゃんは真正面の構図…そう、これから見てもらうPantocratorみたいな人」
「Panto…」
 環はスペイン語の音を聴き返そうとしてやめた。
「Pantocratorってね、ぱっと見にはピカソなんかの土壌っていうのか、カタルーニャらしい素朴な表現の全盛というのか…そして、あたしってやっぱり根性が悪いのか、四日市のママさんたちが、これから見るキリストに追いかけられて逃げだす姿を想像しちゃってさ…笑っちゃうのよね」
 環は腰を退くように立ち止まって、拱廊に林立する柱を訝しげに見つめた。
「こういうところで生活していると…失礼かもしれないけれど、物事に対して臆することとかなくなっちゃうのかしら…」
「だからね、失礼じゃないわよ、真正面から見たままの環ちゃんの感想だもの」
「見たままに感想を言ってきたら…周りの人たちが疲れちゃって…」
 未有は眉間を這いだしたBonitaの手を取った。
「疲れちゃうのは、元々疲れている日本人だけだよ。名古屋の栄町まで出掛けてさ、女の子のお尻を触っているmolesterだけ」
 環の眼は翻弄される慄きに瞠られた。
「どうして…どうして未有さんはそうなんです?孤立することに…失礼かもしれないけれど、独りでいることに慣れきっているんですか?」
 未有はびくんと硬直して鐘楼の上空を振り仰いだ。まるで飛翔体を見つけたかのように微笑む近眼の女。カタルーニャの画家であれ、四日市を引きずってきたBonita環であれ、誰であれ、素直に感情を表現させる土地の秘密を一瞬見たような気がした。
「言ってくれるわね、独りでいることに慣れきっているのかってぇ?」
「ご免なさい、だから失礼かもしれないけれどって…」
「だから失礼じゃないって…これからよ、これからが本番、あたしが知っている環ちゃんの言いたい放題は」
「そんなふうに言われると…」と口篭りながら環は手を振りほどいた。「あたしが言いたい放題に言ってきたから…みんな、遠いところへ逃げて行っちゃったのかな、とか言うと、あたしらしくないんでしょ…」
 未有は声のない笑いを薄い唇につくって、黒いザックから刺しかけのPantocratorをひっぱり出した。
「そうね…環ちゃんはさ、女も男のように意地を張って生活しなきゃならない、と思ってんじゃなぁい?」
 環は突きつけられたイエスらしき泥鰌髭の男に目尻を下げた。
「意地を張ってさ、こんなことをやっていると思ぉう?馬鹿なんだよ、あたしって。ここじゃVacaって牛の意味なんだけど、あたしは愚かな雌牛。確かにさ、馬鹿やってるとさ、女も白鳥のようには見られないけどね」
「それじゃ…言いたい放題のついでに言いますけれど、その愚かな雌牛って、どうやったらなれるんですか?」
 未有はその問いを予知していたように外光から目を逸らした。そして辿り着いた身廊の外側の柱の礎石を、やり場がないようにうな垂れて凝視する。その礎石は補強修復のためか、セメント材のようなものが補填してあった。
「追っかけているうちは…分かんないんじゃないかな」
「どういうことでしょう?…言ってください、局長の栄町通いと同じように、未有さんらしく」
「番場さんの栄町通いか…それと同じなのかな、こんなとこまで来てやっている、あたしの刺繍。逃げだよね、逃避、逃亡…周りや過去の煩わしさを忘れさせてくれる、払拭してくれる、無我夢中にさせてくれるものに逃げてる愚かな雌牛…」
 環は版布の上でひしゃげたイエスに合わせるように首を傾げた。
「逃げてみないと見えてこないものがあるって…だから、追いかけているうちは分からない…あたし、追いかけているんでしょうか?」
 未有は修復痕に指をおくと、眉間にぎゅっと縦皺をいれて頷いた。
「なるほどね、こういうひび割れ、そして接いだ痕…こういうのがいいと思うのは、あたしがジィーンズ世代だからなのかもしれない…」
「未有さん、あたしは追いかけているっていう意識がないんですが…もちろん、こうやって未有さんや緋山に会いに来ているわけですから、人を追いかけていることに変わりはないけれど…」
 未有は唇を尖らせて裾のインディゴの擦れ落ちを摘まんだ。
「そこまで分かっているなら…環ちゃんも試しに逃げてみればいいんじゃないかな。人から逃げてみる…凄く淋しいけれどね。自分をよく知っている人たちから、会話できる環境から、物事の方へ逃げてみること…たとえ、それが他愛もない対象、他愛もない作業、他愛もない表現だとしても、どうせ愚かな雌牛だもん。男のように人と競争して張りあったり、人とは違うって意地を張ったり…そんな格好いい孤独、凍りつくような孤独、そんなもんは嘘よ、少なくともあたしたち女にとっては」
 環は一月のボイ渓谷の吹き下ろしに指先を震わせはじめていた。
「そのキリストもうそ臭いでしょぉ?くっきりとした線描そのものは好きなんだけどさ…ひな壇みたいなところで水色のワンピース着ちゃって、弟子たちを従えて説教たれて、孤独なんてどこにも見えない。人が淋しいことは知っていたんだろうね、あたしたち女と一緒で…愚かな雌牛とは言わないけどさ」
 未有は虚空に戦慄くBonitaの手を取り直した。
「大丈夫、淋しくたって死にはしないよ。それに…高が知れているんだよ、きっと」
「…何がぁ?」
「あたしたちがね、女が孤独ぶってみたって、男のそれと比べてみれば、きっと高が知れているんだと思う。今日しっかりと分かったよ、その辺のことが。環ちゃんに会って…あたしはね、環ちゃんを待っていたんだと分かった」
 環は海驢のように嗚咽しながら濃紺のセーターの胸へ頬をあずけた。同じ冬の曇天とはいえ、カタルーニャのそれはより哺乳類の動態を促すのだろうか。環は大袈裟に乗る足許を踏まえたかのように、粛々としたロマネスクの古柱の下で破かれたように泣いた。
「もう奥へ行こうよ、寒いし…」
 未有は泣き乱れた髪を擦った手を嗅いだ。
「これって…カルソッツの匂いかなぁ…」
「カルソッ…ああ、昨夜ね…緋山と一緒に食べた葱のことぉ?」
「そう、葱を直火で真っ黒に焼いたやつ…環ちゃん、あんたさ、もしかして頭洗ってないでしょぉ?」
 環はやっと荒野に放りおかれたBonitaらしくこっくり頷いて舌を出した。
「飲み過ぎちゃって…二日酔いなのかな、こんなに興奮しちゃって…」
「二日酔いか…言ってくれるわね。環ちゃん、あんた、愚かな雌牛の見込みあるよ」
 未有は寒気を掃うように刺しかけのキリストを奪い取った。風はそれを彼女の旗のように、Pantocratorの青を時雨れてきそうな実空に翻させた。

                                       了
サッカーと11の寓話

サッカーと11の寓話

  • 作者: カミロ・ホセ セラ
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1997/04
  • メディア: 単行本



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九のフエ案内   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 曹文九(カォ・ヴァン・チィー)という漢字の姓名を、日本人は気軽に使って「チィーちゃん」などと呼びかけている。ベトナムでは胡志明(ホー・チ・ミン)ほどの偉人物を例外として、姓をもって「曹さん」などと呼びかけることはない。呼びかけるには馴れ馴れしい日本人の使い方どおりで、末字の名前だけを使って「九さん」「九ちゃん」と呼びかけるのが普通なのである。だから曹家の次男である九は、フエに到着した日本人に向かって「私はカォ・ヴァン・チィーです。どうぞ、チィーさん、チィー君、どちらかで呼んでください」と流暢な日本語を並べることになる。未だかつて日本人に漢字の姓名である曹文九を示したことはなかった。しかしながら曹家の九にとって、漢字の姓名は曹家の年代記を披瀝する標(しるし)だった。
 日本人が「チィーちゃん」と呼んでいる九が七歳のときである。ディエンビエンフーの戦いで名誉負傷した曹文琰(カォ・ヴァン・ジエン)、他家から「蛙釣りの琰(ジエン)さん」と呼ばれる祖父から「おまえも学校に行くようになれば、漢字の姓名は天井の北に仕舞ってしまわなければな」と言い渡された。どういうことかと縁側で煙草を吸っていた曹文順(カォ・ヴァン・トゥン)、他家から「夢の中の順(トゥン)さん」と呼ばれる父に聞くと、幾らか渋い顔をしながらゴロワーズの煙を吐いて「俺は中国人とアメリカ人が嫌いで、フランス人は友人もいて、さほど嫌いじゃない。しかし親父は、中国人もアメリカ人も、そしてフランス人も大嫌いなんだよ」と言った。これだけでは七歳の九には分からない。父は辺りに母のいる気配がないのを確認してから訥々と話してくれた。
「俺は親父から嫌というほど聞かされている。親父がだな、俺の母、つまりおまえの祖母ちゃんと出会ったのは、親父がフランス軍の捕虜になったときらしい。だから親父はフランス語だろうが、英語だろうが、ともかく横書きのアルファベットは大嫌いなわけだ」
 九は己が漢字の姓名について聞いているのである。
「分かっている、漢字の名前のことだから、要は中国人と親父の関わりだな、分かっている。そもそも、ここ、フエが阮(グェン)の都だってことが、親父をいつも苛々させてきたわけだ。一五五五年、阮の一族がこの辺りまで下がってきて広南国を建てる。どうだ、凄いだろう、お父ちゃんの記憶力…そうだ、一五五五年だ。この阮の一族、親父が言うにはだな、雲南の方から逃げ込んできた明朝の将軍の血が混じっている、というのさ」
 九が七歳でも感覚的に分かったことは、一五五五年という年号が憶えやすいということだった。
「明朝っていうのは中国の王朝で…まぁ簡単に言えば、阮の一族には、周りに対してすぐに親分面をしたがる中国人の血が混じっていた…」
 九は小便に行きたかったので、ともかく祖父は中国嫌いなので漢字嫌いなのだと納得した。父は股間を押さえて小走っていく息子に頷きながらも、二十世紀になって阮朝がベトナム帝国として復活する段を話そうとしていた。
 十七歳になった九は度々、自分が生まれた年に終結した戦争について父に聞いた。というより質問を投げかけた。しかし父はいつも仕事を理由に二言三言話して姿を消していった。その頃からフランス語を駆使して、映画監督や文化人類学者にフエ市内を案内していた。すると様子を窺っていたのか、無愛想なはずの祖父が入れ違いに背後に現れて、ちらりと外を見やってから大きく溜め息をつくのだった。
「あいつに、テト攻勢のことを聞いたって、そりゃあ話せないだろうさ。あいつが十一か十二のときだった。あいつは三月生まれだから、まだ十一だったのか…毎日、蟻の巣を踏み散らすような爆撃が続いてな…」
 九が父に問うたのは、テト攻勢時における米軍のフエへの爆撃、それを非難するフランス知識人の立場についてだった。さすがに理屈っぽい血筋ゆえか、十七歳の息子の質問ともなると親父も逃げ出したくなる。祖父は「蛙釣りの琰さん」らしくフランス人を軽蔑するしかなかった。
「最後は祖父ちゃんたちが勝ったことから分かるだろぉ?奴らは意気地がないのさ。図体ばかりでかくて意気地がない。たとえば…ジュネーヴ協定の調印の頃だった。祖父ちゃんが捕虜になったときに世話になった将校二人が、歴史好きでフエの王宮を見にやって来たとき、例の蛙を使った雷魚釣りに誘ってやった。祖父ちゃんは男の中の男だから、泥水を啜ったディエンビエンフーのことも一切口にしないで、針に蛙をつけるときから泳がせ方まで丁寧に教えてやった。しかし外堀のところで夕方までやってみたが、祖父ちゃんは大小二十二匹、奴らフランス人は一匹も釣れなかった。意気地がないのさ、居眠りをはじめて、最後は、晩飯は蛙の脚の葫炒めでいいよ、とかぬかしおった」
 九は祖父の勢いを抑えこむべく難題を放ってみた…確かに意気地なしのフランス人は二度も追い出したが、親分面をしたがる隣りの中国人との諍いが絶えないのはどうしてなのだろうと。祖父は肩を落として顎先を放るように外へ向けた。
「隣りとうまくいかないのは、お互い、生活をすることを諦めていないからだろうよ。隣の連中がうちを何て言っているか…理屈っぽいわりには漢字も横文字も会得していない釣り爺…もっとも順はフランス語も英語も話せるときている。煩い連中さ、放っておいてくれやしない。順の名前だって、あそこで居眠りしているあいつの親父が、師範面をした清朝贔屓の辮髪野郎で無理に押しつけてきたんだ。おまえの名前の九は、香港映画が大好きなあいつが、縁起がいいからと九龍からもってきて…」

 古都フエを観光案内する曹文九は、日本人に親しまれ「チィーちゃん」などと呼ばれている。日本語に堪能なことを褒められると素直に嬉しかった。
「一生懸命…そうです、一生懸命に勉強して日本語専攻の特待生に選抜されました」
 日本人観光客の半数は、朝の味噌汁を啜りながらTVニュースで「北爆」や「虐殺」を耳にしてきた世代だった。
「さぁ、私は七五年生まれなので…父はまだ子供で逃げまわっていたようですが…詳しいのはディエンビエンフーでフランス軍と戦った祖父の世代なのでしょうが、祖父は昨年、あちらの外堀の方で釣りをしながら亡くなってしまいました、眠るように」
 日本人の年配者は、城壁の黒ずみや運河の澱みに戦争を見ようとしていた。日本人が知りたい戦争とは、一九六五年二月七日の北爆によって始まり、一九七五年四月三十日のサイゴン陥落に至るTVニュースの実像だった。そして九はそれを断片として祖父から聞いていたが、未だ父から欠片ひとつも聞いていないことに眉を曇らせた。
「この運河は、舟を浮かべるための運河ではなくて、城内からの排水、そして城内に降った雨を溜めておく貯水池だったようです。爆撃されたとき…ぼうか…ああ、火を消す防火ですね…さぁ、私は七五年生まれなので…ところで、この運河はよく洪水になります。原因は、運河の底が泥でいっぱいになっているからです。だから雨水を溜められない…ああ、臭いますか…そこで、雨水を溜められるように、フエとパリ、フランスのパリと共同して、この運河の泥を取り除くプロジェクトが…ああ、そうです、フランスにはよくしてもらっています。もちろん日本にも…ああ、テト攻勢ですか…父や祖父は経験していますが…そうですね、戦争の話、もっと聞いておきましょう…」

                                       了
輝ける闇 (新潮文庫)

輝ける闇 (新潮文庫)

  • 作者: 開高 健
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1982/10/27
  • メディア: 文庫



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脱皮に不慣れな椰子蟹の肩こり2 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

Es gibt keine Möglichkeit, wie Galois sagen "Zeit ist nicht", sagte er.Bitte ein wenig zu hypnotisieren.
失踪者 (カフカ小説全集)

失踪者 (カフカ小説全集)

  • 作者: カフカ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2000/11
  • メディア: 単行本



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老黄CD   梁 烏 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

                             周樹人先生に捧げる

 朱塗りの入り口の「好新村酒家」では、水がたたく音の後に歓声があがっていた。
 珠江の河口に養殖池を持つ特約の漁業公司から、金褐色の甲羅を持つ亀が遂に入荷した。誰もが手にとって鈍く光る甲羅をなぞっている。料理長の蔡はさかんに肛門を突ついて臭いを嗅いでいた。
 黄沢青(ホワン・ツェチン)はマジックミラーになっている窓から開店前の客席をとおして、満足そうに金甲亀の入荷を見ていた。特にウェイトレスの王千林の笑顔は彼を微笑ませる。そして伸ばしはじめた髭を扱いて、買ったばかりのコンパクト・ディスクを挿入してスィッチをいれた。アバドが振るモーツァルトのK467は、秘め事が成就する予感に溢れている。なんと客のいない店にこうも典雅に合うのか…。奥の壁に貼ってある等身大のビールのポスターの破れも、いつもの朝には不愉快で目障りなひとつにしか見えないのだが、客の子供に悪戯されるままのそれが、今朝は白い大振りな花弁のように見えた。第二楽章と共に入り口の騒ぎから千林が離れて、テーブルを確認するふりをしながらスリットの脚線をこちらに向ける。三年前に背坪の熱帯林研究所の裏から父が拾ってきた十七歳。沢青はその白銀のチャイナ・ドレスの背中を見ながら呟いた。
「この黄さんの妻になりたい…がしかし、なれない。おまえはいつまでも黄さんのチャイナ・ドール…」
 鄧小平が亡くなって一年が過ぎていたが、改革開放の勢いは人民をして鼓腹撃壌たらしめていた。
 沢青の父、黄沢奇(ホワン・ツェチィ)は八年前まで茶山新村で稲作に従事していた。豚も五頭飼ってやっと生活していた。ところが改革開放政策で、茶山新村が面する五山路の周辺にも、化成品工場や縫製工場が林立しはじめる。黄は人民解放軍から戻ると、母親と共に師範大学の学生や教師を相手に、目敏く餅菓子や西瓜を売りはじめた。八年前に貯金を注ぎ込んで「好新村酒家」を開業すると、公司の社員住宅や理工大学、研究所の職員が挙って日夜来店して大繁盛となる。深圸の工事現場で働いていた息子の沢青を呼び戻して五年後、黄は実質上の経営を沢青に任して半ば引退していた。
 沢奇は遠く店の歓声を聞いていた。今日も朝から老妻の寝床の脇で、TVを見ながら西瓜の種を剥いている。妻の蔡玉は長年の無理が祟ってか、昨年から糖尿病を患っていた。二人の話題は決まっている。店に出す食材の善し悪しと沢青の嫁探し、そして市内で独り暮らしをしている娘の紘美(ホンマイ)のことだった。
「広州市開放北路867号…賑やかな所だ。このあたりは…一昨年に『広東チャイナ・ドリーム』の取材で行った中国大酒店の近くだよ」
「知っている所なら、明日にでも、行ってみてくださいよ」
「明日…明日か。生真面目な子だから驚かせては逆に…」
「今の月に入っている桂魚、一番美味しいから、持っていってくださいよ」
 母である蔡玉は、丁度一年前に天河体育センターで働いていた娘を訪ねて、従業員寮で桂魚を調理してあげた夜を思い出していた。痩せてよく日焼けした娘、紘美は気丈で、幼い頃から党に忠誠を尽くすことを唱えて、父と兄の酒家の繁盛話に顔を曇らせていたが、さすがに清蒸した桂魚の身を頬張ると嬉しそうだった。今の市内は上から下まで日本の芸能人のファッションに収まった紘美の年代の娘達で溢れている。しかし老親が知る限りでは、紘美はいつも髪が短く濃緑の解放軍ズボンに水色の開襟シャツだ。その生真面目な娘が何故…。紘美はいつものようにボールの手入れをしながら、体を張って少年少女サッカーを指導していた。ところが暖かくなって新入部員も増えたというのに、新設された南越王墓博物館へ転勤を命じられたのである。
 一徹で体を動かすことしか能がない娘が、博物館で何をやっているのだろうか。
 翌日、二匹の桂魚を泳がせた酸素入りのビニール袋を持って、黄沢奇はタクシーに乗りこんだ。中山路から開放路に曲がると二匹が暴れはじめる。沢奇は息子がわざと雄同士を入れたのでは、と疑いはじめていた。
 真新しい赤煉瓦風の正面の石段を上っていくと、解放軍の制服の青年がにこやかに招待票を買うように促した。沢奇は納得して石段を降りかけたが、彼の後ろで票を切っている娘と同い年くらいの女性に紘美のことを聞いてみる。南越王に殉死した夫人達の副葬品の部屋にいるらしい。沢奇がビニル袋の桂魚を見せると、紺のスカートに水色の開襟シャツを着た彼女は、笑いながら預かっておくと言ってくれた。沢奇はその笑顔と清潔さに嬉しくなって票を買いに走り下る。十二元の招待票の端を摘んでちぎってもらうと、人民解放軍に入隊したばかりの若き自分が急来して、二階三階へ通ずる大理石の階段を駆け上らんとしていた。
 副葬品の部屋を次々に娘の姿を探して巡っていると、第一夫人の金印が目に飛び込んできた。あの部屋にいる。保存状態がよかった第二夫人の副葬品の陳列室、そこでは団体が説明を受けていた。その人垣の向こうを妻に似た面立ちが通る。沢奇は小走りながら娘の名を呼んだ。
 紘美は相変わらず解放軍ズボンに開襟シャツの姿だったが、さらに痩せて髪を肩まで伸ばしていた。
「一緒にサッカーを子供に教えていた人には、奥さんがいる…分かっていたけれど、どうしようもなくて…」
 妻子ある惚れてはいけない男に惚れて、体育センターから博物館への転勤も依願だと言う娘は、眩い屋上で足許ばかりを見つめている。父はかける言葉が見つからなくて、取った娘の手の女らしく浮かぶ静脈を撫でさすった。
 沢奇は父親というものが、これほど娘を愛しがることに喜悦した。
 俺の沢奇の奇は、あの女たらしだったが義を語ることを重ねていた親父が、少奇将軍の名から一字をとってくれたそうだ。そして俺の娘は、俺の母のように頑なで、俺の妻のように愚かな男に尽そうとしている。この国は走っている。この国は止まれない。
 沢奇は涙まじりに小さく笑って、娘の解放軍ズボンの膝を強くさすった。
「人民解放軍に終わりはない」
 子供たちは立派に育ってくれた。沢青は沢青でそれなりにやっている。唆されて深圸の証券取引に手を出しているが、親父と同じで、金儲けの次には女遊びしか能がない奴だから必ず失敗するだろう。そして老いぼれと言われようが、俺は俺の店を再建しなければ…この紘美を、この娘たちを、こういった女達を守らなければならないのだ。
「おまえのCDは止まらない」
「CDってコンパクト・ディスク?」
「CDはチャイナ・ドリームだよ。おまえのCDは始まったばかりだ」
 大理石の階段を降りた沢奇は、ビニル袋の桂魚を紘美の前に掲げて大きく息を吐いた。
                                       
                                       了
リラの花散る頃―巴金短篇集 (発見と冒険の中国文学)

リラの花散る頃―巴金短篇集 (発見と冒険の中国文学)

  • 作者: 巴 金
  • 出版社/メーカー: JICC出版局
  • 発売日: 1991/04
  • メディア: 単行本



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