SSブログ
詩 Shakespeare Достоевски ブログトップ
前の10件 | -

窓辺の修道士   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 Mönch am Fenster
 私がライヘンベルガー通りのWAGNERと黄の隠れ家、あるいは合歓が平岡先生の霊と安住している宅、灰色がかった白猫が迎えるその住まいへ三度目に訪ねたのは、博物館島の各館の新装工事が成った年の翌春であった。
 舞ことMYE・WAGNERは待ちかねていたように迎えてくれたが、ホーことRYAN・HO(梁黄)は出張交霊術とかで北京と煙台へ招かれていて、灰色がかった白猫のハンス(Hans)は老いてもなお我が通りの巡回中ということで留守だった。ちなみに舞を合歓と呼んで日本語で小説を書かせている平岡先生とは、学徒動員の挙句に終戦の八月十五日、台北の病院で亡くなった東京帝国大学在学中だった文学青年の霊である。
 舞は綴った裏白紙の束にサインペンで漢字交じりの日本語を書いて私に見せた。
「オクト・ワグネルに勤めていた頃の友人に会いに来たわけですね」
 舞が毎週のように送ってくれる電子メールが流暢過ぎるので、私はついつい彼女が聾唖者であることを忘れている。日本人が慌てて拙い楷書を走らせるのだった。
「そう、私が吉祥寺にあるオクトの化成事業部の日本支社にいたとき、本社からポリカーボ つまりプラスチィックのシート、それの販路開拓の応援チームの一人として来てくれたJulia Heilmann ユリア・ハイルマンに会いに来ました」
 舞は即座に茶目っ気たっぷりなハート型を書いて肩をすくめてみせた。
「好きなRomy Schneider(ロミー・シュナイダー)に似た女性ですか」
 私はいい歳なのに些かうろたえて稚拙な片仮名を書いてしまった。
「ブロンドなんだ いや、黒髪じゃなくて」
「ロミーが黒髪なのはシシのときですよ」
「二十年以上前だから ハイルマンの姓じゃないとないと思う もう奥さんになっているだろう 」
 私の憶測をあっさり裏切って、五十歳に近いユリアはハイルマン姓のままだった。
 舞のところで新作の短編を三つほど読んで批評めいたことを語り、どうしても気になってしまう平岡先生の霊のここ最近を聞いてから、懐かしいシュプレー川沿いに出るべく辞した。そして思いきってユリアに電話してみると間延びしたドイツ語が返ってきた。
「あなたのために今日一日は空けているわ。お店をやっているんだけど、それは姉に任せているから気兼ねなくね。独身よ。あなたは?」
 私は彼女と正午に美術館のフリードリッヒの廊で待ち合わせることにした。
 Ohne eine Minute Verspätung(一分の遅れもなく)正午にはお目当ての廊に入れた。ユリアはすでに「樫の森の中の修道院」の前にいた。
 私は息を呑んだ。結い上げた黄金の髪玉、それを当然のように戴いた彼女が見下ろしているのは、薄黒ずみのハマダンゴムシが楚々と集っていそうな朽ちた修道院である。ユリアの瞬かない碧眼は、無機質を思わせるほど冷めて見えて、むしろ歪な生命感は暗鬱な廃墟の壁面にあった。
 遠い昔に触れ合った互いの手を、貴重な古書を感じるように握った。
 ユリアはあれから三年後、フランクフルトのオクト・ワグネルを辞めて、壁がなくなって久しいベルリンへ帰って書店に勤めていた。途中コロンバスの友人との二年間の在米を経て、その頃はまたマリエン通りの姉と一緒に生活していた。本屋はなかなか本屋をやめられない。有態に言って逃れられない三大販売職のひとつかもしれない。ユリアは空いていた一部屋を倉庫兼閲覧室にして、大胆にも希少本と古書を扱いはじめていた。
「あれこそドイツなのよ、あたしにとっては」と彼女は「樫の森の中の修道院」から離れて些かはにかむ様に言った。
「なるほどね」と私は迂闊に頷いてしまった。
「暗くなったとか言わないでね」と言って彼女は首を傾げた。「あなたと出会った頃のあたしは、あんなふうな山頂の朝、ああいった朝がどこにでもあると思っていたの、日本にも、アメリカにも」
 ユリアは眩しさから眼を逸らす老人のように「リーゼンゲビルゲの朝」を指した。
「あなたは相変わらずあれが好きなの?窓辺の婦人」
 彼女は少女が慌てて前言を抑え込むかのように指す方を翻した。そこには白昼の窓外に凡庸な眼差しを向けている腰高の女がいた。さても凡庸な眼差しと決めつけている私がいたことになる。そして私は今でも凡庸なままの彼女に安堵しているのだろうか。しかし安堵を嘲る私がいる。舞が綴る日本語や平岡先生の霊に驚愕している私がいた。
「こんなフリードリッヒは忘れていたよ。傍目には少々老けこんだのだろうが、君と同じく晴れやかな山頂などには眼を背けて、私が見る先々は、あの修道院の背景ように靄が深まっていく、それは夢幻、そう素晴らしい夢幻だ」
 私はいい歳なのにまた稚拙な手招きでユリアを恥ずかしがらせる。二人はどこか傲慢な頬に笑みを浮かべながらそこへ向かった。そこでは「海辺の修道士」が飽きることなく海を見ていた。
                                       了
解析的整数論I

解析的整数論I

  • 作者: カール・ジーゲル
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: 単行本



解析的整数論II

解析的整数論II

  • 作者: カール・ジーゲル
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: 単行本



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

Женщинでれぃ女たち   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 我々は何をしているのだろう、といった茫漠とした疑問を浮かばせる海原が眼下にあった。この膨大な水がやがて鬱蒼とした樹海に代わって、雄々しい緑木は夏のツンドラの前で情けなくも足踏む。しかし、そこは不毛ではない。熱砂のように断然と終わってはいない。むしろ終わっている砂漠ならば、地中深くの石油掘りも、人間だけの勝手なカーニバルとして刹那なままに掘りきればよい。しかし苔や湿性草に蓋われたツンドラは、化粧も知らない十代の少女のように始まってまもない土地なのだ。そして自分たちはその地中深くのガスやニッケルが正直に欲しい。金やダイヤモンドがたまらなく欲しいのだ。この正直な気持に、徒労という諦観の稜線を安易に辿らせることはできない。我々は何をしているのか、自分の眼で見極めなければならない、と涼子(りょうこ)は鳥肌立つ思いを持って白い綿パーカの両腕を抱えた。
「悪寒というのは、人間が正直になろうとしているときの反応なんだ」
 新潟空港を二人だけで発って四十五分、慣れて口調も優しくなくなった凱史(がいし)の言葉に、木肌ほどの温みを感じてしまった。これから踏みしめる地では、目に見えて高揚している凱史が頼りになる。彼の誠実な蛮性が頭をもたげはじめたのは、涼子が憂いた眼差しで口数少なく蒼白に見えたからかもしれない。
 山崎涼子は三十歳になった名古屋女、ドイツに本社を置く商社オクト・ワグネルの能源事業部の日本支社に勤務している。荒木凱史は新潟とウラジオストクを行き来する少々怪しいロシア通、ガイシ・ペトロヴィッチ・アラキとして低温科学研究所に籍を置きながらロシア航空森林消防隊の特別研修生らしい。かみ砕いて言えば、本来は商社の原子力エネルギーを取り扱っているチームの涼子と、ロシアにおける核の取り扱いを懸念しているシベリアンの凱史、核エネルギーと環境保護という一見水と油の範疇からこの二人が選抜されて、オクト・ワグネル・金属事業部の極東開発チームがにわかに立ち上げたメタラ(Металла)・ファンドを支援するかたちでシベリアへ渡ることになった。
「やっぱり153の方が岩手の田舎者には合ってるなあ。こんな綺麗なツポレフはロシアらしくないよ」
 足下の日本海を越えようとしているウラジオストク航空の旅客機は、新型のツポレフ200だった。
「何て言うのか、さっき言っていた海辺の町の中学校の理科の教師になる、というのはどうして諦めちゃったの?君らしくないっていうか…まあ、君のことをよく知っているわけじゃないけれど」
「諦めたわけじゃないわ」と涼子は彼の耳が息を感ずるように言った。
「あなたの真似をすれば、まあ何て言うのか、高レベル廃棄物を消滅処理する技術が完成する頃には、軽水炉でMOX(プルトニウムとウランの混合酸化物燃料)を燃やすようなこともなくなるだろうから、そう、お払い箱のあたしは、丹後半島の方へでも行って中学校に空きがあれば、と前向きに技術革新を願っているってこと」
「それならいいけれど」と言って凱史は揉み手をしながら主翼の反射光に目を細めた。
「急に黙ったから、竹之内さんが先にモスクヴァ経由でヤクーツクへ向かってしまったことで、何か思いあたることでもあるのかな、とか思ってね」
「投信会社の人とモスクワで事前に会うんでしょ。気にしていないわよ、ルビコンを渡ったんだもの。頼りがいのあるあなたもいることだしね」
 凱史は首を振ってから舌打ちして後部座席を一瞥した。二列後ろの通路側には、空港で二人を待ち迎えていたジョシュ・ケレンスキーがいる。読んでいる様子もないロシア語訳のケン・フォレットの冊子を顔に翳していた。
「日本人の見習い消防士よりも、海辺の教師の方がずっと頼りがいあるさ」
「海辺の教師か…それはそれで大変なんだろうね。若いときの父もそうだったらしいから、なんか遺伝子というか、ちょっと宿命を感じちゃったりするね」
 涼子はそう言って先週の母との会話に上った父を懐かしんだ。
「父は敦賀で教師をしながら、大学の助手の空きを待っていたらしいけれど…やっと教授に呼ばれて都に上洛できて、腕立て伏せと鴨川縁を走るだけの父は、教授から母も紹介されて結婚、可愛い娘も生まれて言うことなしだったんだけれどね…」
「研究生活をやめてサラリーマンになられて…急に亡くなったんだよね」
「そう、大学の派閥争いに嫌気がさしたのか、黒須の放浪する血が騒ぎだしたのか、母に相談もしないでドイツの製薬会社に勤めるようになって…二〇〇六年ワールドカップ真っ盛りのミュンヘン、そこで心不全を起こして五十五歳で逝っちゃった。定年後はやっぱり敦賀で釣り三昧をしたいなんてよく言っていたのに」
「宿命を持ち出すまでもなく」と言いかけて凱史は照れるように続けた。
「血筋なんだろうなぁ。僕もロシアに渡ったときから、大叔父の中凱の若かりし顔を忘れたことはない。そういう血筋が誇らしいと思えば誇らしいし、厄介と思えば厄介なわけだけれど…思うに何て言うのか、ロシアを嫌うにせよ好きになるにせよ、僕なんかは、ロシアと関わることに、何か意志的なものを感じるんだ。たとえストロンチウムの電池に殺されるにしても」
「それは駄目、殺されるのは意志的なものに反しているわ」
 そう言うなり涼子は華奢な手を火傷で白変色した凱史のそれに置いた。
「逃げるのよ。危機を回避しなければ、逃げ延びなければ、意思的なものは繋がらないでしょう。人間の意思だって、ストロンチウムの半減期、壊変の日数くらいは引っぱらなくちゃ」
「何の日数って?」
 凱史は絹触りを重ねられたような右手に左手を重ねようとして逃げられた。
「元素が壊れて変わる壊変、元素の原子数が半分に減るまでの時間よ。ちょっとは習ったでしょ、十代の終わりに。電池に使われているストロンチウム90なら約二十九年。危険なβ線を放射しつくすまで二十九年かかって、そしてイットリウム90になるの」
「二十九年か…微妙な年月だね。人間が地球上で逃げ果せるにそこそこの時間かもしれないな。ちなみにプロが集めているプルトニウムはどれくらい?」
「優しくないのね、これから女がシベリアに降り立つっていうときに」と言って涼子はぶつけるように額を窓へ振りあてた。
「あたしが高級スコッチのように集めているMOXのプルト239の半減期は、二万四千百十年よ」
 凱史はオセローが妻デズデモーナを疑ったときのように、芝居じみた両手を額に翳して卒倒するように仰け反った。
「そういう系列なんだから仕方ないでしょう。239にしたって244の八千五十万年に比べたら一瞬でしょうけれど」
 涼子はそう言って開き直ったようにパーカのジッパーを開いて携帯電話を取り出した。
「そんなことよりも、あなたって北海道へ行く前の大学生のとき、府中の大学生のときにテロリストみたいなことをやっているのね」
「テロリストはひどい」と凱史は顔を覆ったまま動じるふうもなく淡々と言った。
「何て言うのか、学生の悪戯だよ。レズビアンでサディスティックな助教授に悪戯して、同じセミナーで泣いていた女の子を助けた、よくある話じゃないかな」
「このメディナ虫って何なの?」と言いながら涼子は携帯へ送られてきたデータ写真を凱史へ突きつけた。
「場所はアフリカだよね…この子の膝に付いているのってサナダムシ?これってトリック写真なの?」
「マンソン裂頭条虫、裂ける頭の条虫」と呟くように言ってから凱史は写真を一瞥した。
「さすがはオクト・ワグネル、僕を調べたくらいで凄い写真を見つけてくるね。それは付いているんじゃなくて、膝の皮膚を破って頭を出したところを引っぱり出したのさ。寄生虫だよ。そいつの卵を持ったミジンコが飲料水として体に入って孵化するんだ。アフリカでは随分前から問題になっている。ただし、壊変とか半減期ほど難しくないし、プルトニウムほども怖くはないよ」
「どうやって日本へ持ち込んだのよ」
「またいつか機会があれば話してやるよ。そんなことより…」と口篭りながら凱史は火傷だらけの右肘を凝視した。
「後ろでずっと居眠りしているようなジョシュさん、新潟で我々を待っていて、竹之内さんが五日前にヨーロッパまわりでモスクワ経由でヤクーツクへ向かっている、とロシア語で僕に言ってきたんだが…君は現時点ではジョシュ・ケレンスキーという金属事業部のロシア人社員を知らない…僕もどうやらロシアの水に慣れてきたのかな」
「どういうこと?」
「心して口にしなければならないってことさ。しかし彼が日本語を話せないというのは、どうも本当みたいなんだ。通関するときに確認したんだ、ナホトカ仕込みの狼犬暴きで」
「狼犬暴きって?」
「よくあるロシア方式さ。にこやかな顔で確かめたい言葉、この場合だったら日本語で、君が契約している倍額を払うからこちら側になってくれないかな、三倍額を要求するなら指を三本、言っていることの意味が分からなかったら親指を立ててくれ、とね。彼は親指も立てなかった。しかし、砂糖大根を作っている馬鹿なイワンではないことは確かだ」
「彼が俗にいうマフィアだって言うの?」
「マフィアとは言わないが」
 そう言って凱史は後ろを窺おうとする涼子の肩を押さえた。
「ずっと考えていたんだが…そもそも先月の末だったな、消火活動を終えてヘリから降りると、隊長に呼ばれて久しぶりに知り合いのアルマンド先生と会った。先生曰く、日本の商社から環境に留意した資源調査のインタヴューを依頼されているのだが、知事にも隊長にも既に許可をもらったので、僕に商社側の案内役として、通訳を主業務にしばらく動いてくれないか、ということだったんだ。時間と経費は融通を利かせるから…そう言われても、最初は懸念してすぐには承諾しなかったんだ」
「それはそうよね」
「どうも商社のお手伝いとなると、ソヴィエト時代のような、軍事や技術の機密情報の橋渡しに利用されるのでないか、とか周りはよく言わないからね」
 涼子は携帯の受信を浚い直しながら嘆息を漏らした。
「確かに何でもありだからね。信じられるのはかろうじて親、そして仕事をしているうえでは致し方なくボス」
「先生は何故か日本人に親近感を持っているみたいだ…」と言ってから凱史は遠望するように座り直した。
 涼子もやがて握ることになる樹皮のような手の老人、あのイリイチ・レーニンが娼婦に産ませた忘れ形見、そして凱史が師として敬愛するシベリアの毒蛾アタカス、その本名はセルゲイ・イリイチ・アルマンド、である。もっとも彼を「毒蛾」とか「CblHスィン(息子)」とか呼んでいたのは殆どがロシア人で、サハ共和国一帯ではヤクートの三番目の英雄「アタカス」で知られていた。一番二番ではない三番目の英雄ということは、華々しい経歴を携えた表舞台の英雄の姿には縁遠かったということである。本人もすでに高齢でヤクートらしい山野の歩猟を断念して久しいが、資源開発の波に乗って文化人類学者や生態学者、凱史のような物好きなどが訪ねてきていたので、再三にわたって連邦のヤクート自治共和国時代、とくにスターリンからフルシチョフの暗黒時代下の民族悲話を語って退屈することはないとのことだった。
「二度目の先生の説得内容が、放射能汚染にしっかりと及んだので、とりあえず引き受けることにしたんだ。そのとき先生が帰りがけに、母国日本は天国だろうが、オクトのエネルギー事業部は、オクトの金属事業部の社員をあまり信頼していない、率直に言えば、竹之内さんがその仕事ぶりをオクトから良くも悪くも監視されている、そんな感じがするのでオクトの社員には気を許すな、と言ったんだ」
 涼子は小刻みに笑いだしながら携帯を閉じてパーカのフードを軽く被った。
「こっちだって気を許しちゃいないわよ、寄生虫を持ち込んで悪戯しているような野蛮人に。しかも気を許すも何も、ここまで来ちゃったら…うちの母を真似すれば、こんなところまで来て結構な御手前をいただけるとは思っちゃいないわよ」
「そのへんが君の系列なんだな」と言いながら凱史はフードの中で髪を乱して笑う涼子を見ていた。
「まあ何て言うのか、僕も中凱という親族と関わらなかったら、シベリアなんかを走りまわっていなかったわけだ。虎、豹、ヤクート馬、そしてマンモスの骨…それ以前に、いつも亡命していった中凱がいるんだ。だから疑ってしまう。環境関連のファンドの立上げに貢献してくれとか言われてみても、どうも耳障りのいい話はまず疑って、次は笑ってしまうんだ。ここは依然として普通の人を拒むシベリアだし、欲望に正直なロシアだからね」
「そう、商社が環境に留意するのはそのフィードバックが見込めるからよ」と言って涼子はフードを脱いで凱史の肩にもたれた。
「こう言っている間にも、ずっと北の夏のツンドラでは、放射能汚染はむろん、凍土が融けて基盤が傾いている原子炉なんかはごろんと倒れるかもしれない。それに、あたしも、どうしてあたしの祖父、黒須の繋がりでこうなったのか、っていうことに納得しているわけじゃないもんね。メタル・ファンドのために放射能汚染の問題を是正するだけなら、あたしのような小料理屋の娘よりも、科学アカデミーから息のかかった研究者の一人も同行させれば、と思うんだけれど…疑いだしたら切りがないけれど、これも性分、これも系列なのかな」
「プロっていうのはやっぱり楽じゃないんだな」
「まあね、また母の真似をすれば、蛇が出ようが虎が出ようが、知りたいことは知りたい、ってこと。それに日本海を渡っちゃったことだし、腹をくくるしかないから、最後のコーラでも飲みましょうよ」

 涼子は若かりし父次郎と関わったというマチコ・シャービンの写真を携帯電話で見ていた。一枚はマルクス・レーニン研究所時代の祝賀記念の居並びから抜き出してデジタル処理で補正したもので、お堅い研究所所員にしてはこちらが気恥ずかしくなるような愛想笑いを浮かべている。目鼻立ちがくっきりしている美人で、今なら青いコンタクト・レンズをはめこめば立派なスラブ人だ。歯をむき出した愛想笑いも、大柄で金髪照り返すロシアの才色兼備に雑じって必死だった彼女の焦燥とも見て取れる。私もこんなふうに笑っていたのかな、と涼子は思って小さく苦笑した。MOXの運搬の仮契約書を公団から受け取ったとき、おそらく父や母にも見せたことがなかったような愛想笑いを浮かべていたのだろうか。
 もう一枚は名古屋の母が面倒そうに携帯で撮って送ってきたもので、反射光を交えて暗いのは致し方ないが、マチコは知的選民といった感じで取澄ましていて、元々の顔立ちの輪郭が明瞭だった。隣で自然と微笑んでいる仲居姿の母は、中学生の頃の私にそっくりで一変に気分が和んでしまう。四十五年前後の昭和と化粧っ気のない仲居姿、何もかも経験することもない自分が、写真の母の屈託ない笑みで生きる微熱を胸元に灯してしまう。今更でもないのかもしれないが、若き母の姿を見て律せられるこの気分は、いつも素直に今更でよいのだろう。
 それにしてもレゲエ風な曲の繰り返しが(繰り返していないのかもしれないが)耳障りだ。ホテルのレストラン・バーの選曲に言い掛かりをつけるわけではないが、ここは紛れもなくウラジオストクのホテルで、外は冷たそうな雨が降っている。尤も、安穏とした柏の夜でも、蕪蒸しにウオッカとレゲエを合わせるのは至難ではあるが。
 そして幾らか和んだ酔いのところへ、竹之内からメールがきた。これからモスクワを発つ?案外に余裕がある先輩ね、と皮肉りたかった。
「新潟からあなた達に同行しているジョシュ・ケレンスキーは、わたしが鉄道の保線計画のプランで使っている地元エージェントで、正規のオクトの社員ではありません」
 この時刻にこういうお達しということは、端から嘗められている山崎涼子っていうことか。
 荒木凱史の友人のアルマンドが言っていたこと…オクトのエネルギー事業部がオクトの金属事業部の社員をあまり信頼していない。率直に言えば、竹之内さんがその仕事ぶりをオクトから良くも悪くも監視されている…能源の私のボスが、竹之内美恵の裏を取ろうとしている。まいったな、何を企んでいるのやら、あんな味噌煮込み屋の小母さんみたいな柔和な顔してさ。
 竹之内美恵がどのような晩餐会を望んでいるにせよ、今までロシア人の男たちに雑じって、ニッケルやモリブデンを買い漁ってきたでれぃ(大した)女だということは認めよう。しかし、ガスや褐炭ならキッチンはこっちで、マエストロは潘GM、私は滅多に原子炉には近づかないプルトニウム・ローバーだから、普通に考えれば邪魔も邪魔の大厄介者。環境関連のファンド?ユーコンやアラスカでそのための調査が始まるって言うのならともかくシベリアじゃ…、と言ってボスは高笑いしていた。
 涼子は小さく舌打ちした。もう一杯このチョリソーでちんたら飲んで、ボス潘世備さまからの連絡を待ちましょうか。荒木凱史はもう帰っているのかな、どうでもいいけれど。オルード・ウォッカが年代物のウオッカではなくて、ウィスキーとウオッカを単に合わせたもの、そんなことを今し方知ったばかりの涼子さんも、ちょっと開き直ってみますか。
 やっと来たボス猿からのメール!まともなスコッチとか飲みながらのメールじゃないでしょうね。
「ミハイル・アンドリィヴィチ・チューリン、一九八九年イルクーツク生まれのこの男性が、女優志望のリー・リン(李琳)という自称十九歳の女性を伴って、ヤクーツクで接触してくる可能性がある。すでに日本の芸能プロダクションへの橋渡しはできているようなので、紹介依頼というのは接触するための名目にすぎないことは察せられるが、本来の目的情報は得られていない」
 何よこれ?シベリアで女の子の売り込みに立ち会えっていうの?ジョシュもそっちの絡みとか言うんじゃないでしょうね。もう一杯飲まなくちゃ。
 涼子は安いグラスに歯をあてた。いったい何が何だって言うの?
「自分の憶測では、ミハイルの父親が政権側も一目置く輸送会社『エルマク・ロード』の社長で、トラック輸送を中心にシベリアの運輸全般に影響力を持つ男だから、君と接触して直接に能源事業部とビジネスをしたがっているのかもしれない。よって、エルマク側は金属事業部ないし竹之内を牽制しているきらいがある。竹之内が手配したジョシュ・ケレンスキーの正確な情報はまだ入手できていないが、竹之内がモスクワに入る前に、アントワープで貴金属商の知り合いと会っている事は確認できた」
 こうなると竹之内先輩も、露骨な動きは避けてほしいけれど、やりたいことはやりたい、欲しいものは欲しいシベリアだから仕方ないか。
 涼子は注ぎながら笑うしかなかった。これはこれは、ちょっと怖いかな。
「ミハイルの従兄妹のガーヴ・アレクセイヴィッチ・ザハロフは、二〇〇四年七月のウラジオストク市長選挙の立候補者が爆発事件で負傷した事件、これに絡んだ容疑で拘留された経歴がある。ミハイル自身の最近までの素行もあまり大人しいものではなく、父親のアンドレイ・チューリンは若い頃から銃火器に慣れ親しんでいる」
 あの凱史に守ってもらうにしても、彼も所詮は子供っぽさを残した学者肌だし、気をつけなくちゃ、と涼子は闇に向いて呟いた。

 寝息はむろん脈拍までが聞こえてきそうな静寂があった。ヴォトカと大蒜とニスのような防腐剤の匂いが充満している北辺の部屋で、涼子は少女のように夏の薄闇に爛々と目を凝らしている。腫れあがったような豪腕を出したまま寝入ってしまったメタル・ドッグの竹之内美恵。そして掻いて赤らんでしまった首筋を手鏡で見ている細腕のプルトニウム・ローバーの涼子。商社勤めとはいえ女子社員二人が、シベリアの最初の夜を疲れきった男のように迎えていた。気がつくと手帳の上でボールペンの頭を戦慄くように噛みながら、怒風に傾ぐ霜林の中を悠々と行く獣たちを想像しようとしていた。
 どこからこの混濁した頭を整理して書きだせるものか。こういうときは素直な言葉を下すに限るならば、若い奥さんタチアナは素晴らしく衝撃的だった。ここセルゲイ・イリイチ・アルマンドの息子、ヴァシリーの妻として望んで嫁いできたとか、本当かな?いや、本当だろう、彼女の私の倍もあるような手を見れば分かる。料理も口に合っていて美味しかった。あのタチアナならば、ロシア語を学んで手紙を交わしたくなる。タチアナとの関係だけに留まるロシア語ならば、充分にシベリアの美しさを伝えてくれて、先々に憂いたときの励みになるだろう。
 仕事上、凱史が間に立って通訳することに支障はないが、親しくなった凱史の悪戯な目が気になっていた。
 男たちは、タチアナの夫、ヴァシリーを除いて鬱陶しいと言っても過言ではない。黒須の孫である涼子に会いたがっていたはずのセルゲイ・イリイチ・アルマンドは、涼子を珍しい野菜を前にしたように覗き見しながら、流暢にロシア語を操れる竹之内と話してばかりいた。凱史によれば、戦時中と戦後の狩猟を交えた武勇伝らしい。ところが、黒須欣一郎の墓どころか、クロスの名前が出ると、使い古されたPCのようにフリーズしてしまう。もっとも、ここまでは想定していたとおり。そうだ、最悪なのが投信のアセット(資産)マネージャーのハンス・ヒルデブランド。あのドイツ人は何なの?ハンス君は何をしにきたのかしら。
 それにしても野獣共の饗宴というか、涼子を歓迎するためのちょっと田舎臭いセレモニーには閉口してしまった。田舎臭いという言葉が悪ければ、シベリアらしいデモンストレーションと言おうか。情けなくも娘をシベリアへ行かせたくない母の姿を追憶し、嵌められたという以前の寄せ餌としての兎になった気分だった。
 ヤクーツクの空港で起きたことは、暫くの間は空港という場所にあって涼子の頬を硬直させるだろう。
 搬送系絡が日本と比較にならないほど不安定なので、夏場でもあるので荷物は極力分散させずにリュックサック型の手荷物にすること。この凱史の忠告どおりの真新しいリュックサックを手早く背負って、せっかちな日本人らしく凱史も慌てるほどの早足で出口へ向かうと、まるで有名女優でも出迎えるかのような賑やかさで、長身の美女が手を握り込んできた。乳白という言葉しか見つからぬ潤んだ雪肌に、モンゴロイドらしい切れ長の眼が落ち着きなく上下していた。リー・リンだと直感した。実際の驚愕はその後にすぐやってきて、なんと凱史とリーが親し気に軽く抱擁して挨拶を交わした。早速に凱史を介して涼子とリーの紹介交歓となったが、凱史の若干の狼狽いを見ると、前夜のボスからの情報を締まっておいて様子を窺ったのは賢明だった。そしてリーの背後には、父親だといっても通用する同じような面立ちの顎髭の男がいた。それがガーヴ・アレクセイヴィッチ・ザハロフ。凱史と肩を並べる大柄だが、脂肪のつき具合で凱史よりも頼りがいありそうだった。やはり凱史と知り合いらしく互いに肩を抱き合って、ガーヴが笑いながら何か言いかけてふと凱史の背後を見た瞬間だった。
 森の中で狼にばったり出くわした狐のように、後ろに来ていたジョシュ・ケレンスキーが逃げ出した。それをガーヴが鼻息も荒く追いかけていった。瞬く間にガーヴは背後からジョシュを押さえ伏せて腕を捩りあげた。そしてリーは乱痴気騒ぎを見慣れているように笑いながら近づいて、力を緩めず唸りながら話すガーヴの言うことに頷いていた。彼女は笑顔のまま唖然としているこちらに振り返って甲高い声を響かせていた。
 凱史の困惑した額が涼子に向けられた。今になってみると、凱史は自らが理解し得た状況を話すことで、涼子が怯えて取り乱すのではと懸念したのだろう。
「出ると左にマイクロバスが停まっていて、中に僕も知っているミハイル・アンドリィヴィッチ・チューリンという青年が待っている。十分でいいから時間をくれないか、と言っている。父親のアンドレイ・チューリンから頼まれて、君に手渡したい物があるそうだ。竹之内さん達とヘリコプターに乗るまでにはまだ時間があるし…そんなに見た目よりも危ない連中じゃない。分かっているよ、待って、分かっているから落ち着いて。リーも落ち着かないだろうから、君に説明しているところだと話すから待って。もちろんジョシュが何者なのかも聞いてみるよ」
 涼子は神経を高ぶらせる間もなく観念したのだと今更ながら思った。傍らで寝息を立てている竹之内を信じていない涼子は、これだけの辺境にあれば、拘束されず、奪われず、傷つけられなければ、相手がヤクート族であれマサイ族であれ何事も了解するしかなかった。
「リーが言うには、ジョシュはウラジオストクやハバロフスクでは有名な情報屋で、どこにも属さない代わりに、日本人にも雇われるような言わば便利屋だな。実は大したことじゃないが、ウラジオストクの市長選挙のときに爆発事件があって、ガーヴの情報をジョシュが捏造して流したらしいんだ。それで御覧のとおりの騒ぎさ。それから僕はチューリンの親子とはアルマンド先生を通して知っている仲で、父親のアンドレイは、ウクライナ系ロシア人らしいが、随分と日本贔屓なんだ。信じてほしいのだが、今回のことや君のことは、僕の口からは一言も彼等親子に話していない。おそらく先生から情報を得ていて、アンドレイが娘のように面倒見てきたこのリーのことを、何て言うのか、相談したいんじゃないかな?日本の芸能界でデヴューしたいとか言っているから…」
 マイクロバスというよりは装甲車のような外観に改造された車両には、白熊のように小太りで柔和な金髪のミハイルが待っていた。彼は父親の日本好きに影響されているのだろうか、慇懃に言葉少なく授与式のような格調をもって、約二十センチ立方の木箱を涼子の胸元に捧げた。中には発泡シートに包まれて掌大の黒い縫いぐるみがあった。二つの頭を持った双頭の鷲ならぬ双頭の烏だという。黒貂の毛皮を丁寧に縫い込んであって毛艶が匂い立つように輝いている。ミハイルは囁くように縫いぐるみを耳許で振って音を聞いてほしいと言った。何か欠片状のものが入っているらしく、擦れて烏には程遠い虫の音のような可愛い音がした。
「父親のアンドレイが忙しくて会えないことを残念がっていたらしい。今やアンドレイ・チューリンは実業家だからな。ミハイルが父アンドレイから度々聞かされてきたのは、アンドレイが今日あるのはシベリアのツァーリことクロスのおかげだということらしい。もう一人のツァーリ、セルゲイ・アルマンドに会ったらよろしく言ってくれ、とも言っていたらしい。それから、甥にあたるガーヴがミャンディギまでの行きと帰りに同行するが、根は優しい奴なので怖がらないでほしい、だってさ。リーの日本デヴューについては何も言っていないな?あと、その縫いぐるみはくれぐれも大事にしてくれ、だってさ」
 涼子はリュックサックを手繰り寄せて木箱を取り出した。松の香りが部屋の臭いを弾いて払うように鼻孔に達する。この安堵させる香りがシベリアの入り口のそれなのだろうと思った。

 涼子が「シベリアの毒蛾アタカス」ことセルゲイ・イリイチ・アルマンドの集落に世話になって五日経とうとしていた。一昨日の午後、雲霞のような蚊の蟠りの中へ歩んでいった凱史を待っていた。三日前から忽然と消息を絶っていた竹之内美恵、彼女のことは今朝方、犬に奪われてしまった蔓苔桃のジャムの壜のように漠然と諦めていた。
 凱史が項垂れたハンスを伴って帰ってきたとき、涼子は抱いていた幼子アレクを勢いアルマンド老の膝へ押しつけるように渡した。端正に固めていた金髪を犬のように濡らしたハンスは、涼子の顔を見るなり支えていた凱史の手を横暴に払い落とした。涼子が英語で姿が見えない竹之内のことを問いただすと、ハンスは蔑視を漂わせてからその場に崩れ落ちた。そして自分の内懐を慌てて捜しはじめた。
「竹之内さんが郡警察に拘束されてしまった。僕と君だけがここに残って話を伺うという段階で…何か嫌な予感はしたんだ。竹之内さんがいくらロシア通でも、ここはシベリアだからね」
 凱史はこの二日間で髭が濃くなり冷静さを増していた観があった。
「何の容疑で捕まったの?だいたい竹之内さんとハンスはどこへ行っていたの?」
「場所は砲兵隊の演習地らしいが、そこでヤクーツクから一緒に来ていたガーヴの手引きで、ダイヤモンド公社の人間と接触するつもりだったようだ」
「接触できなかったのね。ガーヴはいったい…」
「落ち着いてくれ、一言で言えばこうだ。ガーヴの手引きによるダイヤモンド公社側との密会というのは、警察当局がガーヴを使っている地元業者と仕組んだ罠だったんだ。そして、前々からダイヤモンドや貴金属類の個人取引を目論んでいた竹之内さんは、その罠に嵌まってしまったんだ」
 涼子は半歩半歩と退きながら白い指を震わせた。
「どうしてすらすら話せるの。あなたも罠に加担していたから?」
「落ち着いてくれ、僕がついさっきガーヴから電話をもらって駆けつけて行ったのは、君も見ているじゃないか。そして現場でガーヴ本人からすべてを聞いたんだ」
「捕まったのは竹之内さんだけ?このハンスは?関係していないの?」
「連座している容疑はなくなっていないが、出国するまでにヤクーツクの警察に出頭する誓約で、今日のところは放免してもらえたんだ。それなのに、こいつ思っていたよりもゲルマン魂っていうか、根性のない奴だなぁ。携帯電話を捜しているんだろうが、さっき警察官に取り上げられているんだ」
「それは違法っていうか、彼は外国人なのだから越権行為じゃないの?」
「夕方までには返すと言っていたけれど、日本人の僕がいたからかもしれないが。まずフランクフルトの投信会社に本人確認をしたいって言っていた。竹之内さんのように、所属するオクト・ワグネルから見放されていれば話が早いんだろうけど」
「オクト・ワグネルから見放された?」
「これからまた警察がやってきて、オクトの君にも簡単に事情聴取するだろうが、郡警察じゃない背広姿の人が言うには…」
 涼子は舞うように窓枠を叩いた。
「いいから、全部話して」
「今回の件は、オクト・ワグネルの事業部の、社内査察というのか、それに基づいて行われたようなところがあるらしい」
 涼子は額に翳していた手を握りこんで、興奮を抑えるべく女らしく恨みがましく言った。
「クラウゼヴィッツ…使いたいだけ使っておきながら、それでもボスなの…」
「あの大きなエンジン音はきっとそうだ」と凱史はむしろ警察の到着を歓迎しているようだった。
「君は大丈夫、何も心配ないよ。現場で先生と話して、どこにでもある違法侵入の手違いが起きたということにするので、ともかく君は大丈夫だから落ち着いて。こちらのアルマンド一家には僕からそれとなく説明しておくよ」
 それにしても、ここはシベリアなのだ。涼子は兎でも寄せ餌でもなく、喜ばれそうなので、道すがら摘まれて携えられてきた草花。草花でなければ、村の手前で凱史が摘んでくれた甘酸っぱい蔓苔桃。
 涼子は気遣ってくれるタチアナから逃げるようにして外へ出た。そして装甲車のようなベージュホートを見たとき、はしたなくも「畜生」と呟いてしまった。

                                       了
ソーネチカ (新潮クレスト・ブックス)

ソーネチカ (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者: リュドミラ ウリツカヤ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/12/01
  • メディア: 単行本



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

咆哮   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 浅間山を望む安中市のそのあたりを中野谷松原といった。関東最大の縄文時代の竪穴住居群は、碓氷川の段丘上の工業団地に隣接して既に有名であった。遺跡は集落跡と墓標坑が、凝灰岩の墳穴のように整然と並んでいる。思わずぐるりと見まわしてしまう、という言い方が晴天下のその地の最良の形容になるだろう。
 小宮山はこれほどの健康な土肌を見せる穴の群れに遭遇したことがなかった。新たな掘削調査が営まれているので勝手な徘徊はできないが、さほどの深さもない墓壙の縁に立つのも恐縮させた。ひとつひとつの穴は遺跡発掘という動機を忘れさせて、何らかの生命意志が呼吸し始めて間もない幻想を持たせる。捜している奴、彼もこの土地の精力のようなものに惹かれているのだろうか?小宮山は池の飛び石を行くような注意を払いながらそのようなことを思った。
 小宮山勲(こみやま・いさお)は水戸をホームタウンとするサッカーチームのコーチである。王者の鹿角を遠目に見ながら堅走十四年のチームに係わってきた。その年もリーグはすでに前期後半の十二節を終了していて、昇格を狙える位置に足をかけた途端に正ゴールキーパーが故障してしまった。
「キングコングとは言わん。まぁ、ゴリラとは言わんから、でかくて敏捷で丈夫な奴がおらんかなぁ」と言って監督はこけた頬を押えて曇り空を仰いだ。
「イサオちゃん、国産でおらんかなぁ、日本猿でええんじゃ。カシージャスみたいな日本猿がどこかにおらんものか」
「カシージャスに失礼なのか、日本猿が可哀そうなのか…」
 小宮山は出張ってきた腹の上で腕を組んでそう答えるしかなかった。カシージャスはレアル・マドリードに所属する極上のゴールキーパーである。監督は一瞬いつもの声のない笑いを見せた。そして現役時は小柄ながら鹿角のディフェンダーを張っていた肩を落として項垂れた。
 寸足らずとはいえ自身もキーパーだった小宮山にとって、来季までを見据えた逸材捜しが命題となった。現実には試合に合わせての若手起用を支えるコーチとしての本業で精一杯。加えてジュニア・チームのキーパー養成の責任者でもある。トップチームが試合に勝ってサポーターの声援に応える、という大前提から気をそらせずにいると、かつて名古屋のキーパーをやっていて引退した大友美智夫から電話があった。
「アンナカァ?安中か、どこだっけ?」
 大友はシンガポール・リーグで首位を争うチームのコーチを務めていた。
「安中って言ったら群馬の安中ですよ。この夏は市の教育委員会のアルバイト作業員ということで働いていて、サッカーの方は周に一度のキーパーらしいんですが、丈が一九〇でちょっと観に小太りですけれど、筋骨隆々でオラウータンみたいだとか…」
「オラウータンって、おまえ、随分な言い草だな」
「まあ、何て言いますか、体も言うことも普通の人間じゃないらしいですよ、僕の後輩が言うにはですよ」
 小宮山は大友の陽気過ぎる言に苦笑せざるをえなかった。
「これで俺のキックを三本、監督のキックを一本弾いてくれるような奴だったら、本当にオラウータンなのだが」
 小宮山は浅間山へ向いた棒状の石に話しかけるように言って、遺物整理が継続されている仮設プレハブへ向かった。途中で唸り声が上がって、市教育委員会のヘルメットが穴から放り出された。考古学者らしい日焼けした中年が、渋い表情で硬貨大の輪状の石を日に翳している。足下を気にしながらその中年に伺おうとした。すると彼の背後の窪地から黄色いタオルを巻いた長髪がゆらりと上がった。足掻くようにして灰緑の作業着の肩幅ある背中が上がってくる。こちらに振り向いた彼は墨塊のような太眉をのせてはいたが、ぽっちゃりとした頬を赤らませて子供っぽさを幾らか残していた。そして顔幅に対して小星めいた黒目を指先のものに注いでいる。その指三関節ほどのものが骨であることは素人目にも明らかだった。
「東條君…東條明生(あきお)君は、失礼ですが、あなたですか?」
 彼は雄の類人猿を誇示するような剛毛だらけの手の甲を鼻につけて軽く頷いた。
「先週、水戸から電話した小宮山です。凄いなあ、こういう所にくるのは初めてなもので…それは?それは人の骨なの?」
「これは…アイケン41号です」
 小宮山はその土鈴のような岩音の声を聞いた瞬間に自分が落胆したのを感じた。それは職業上の経験からくる選手の傾向や体質に関する直感ではない。落胆は純情そうな青年を理解するのに時間がかかりそうな短絡な予感にすぎない。それにしてもアイケンの骨と毛深い手と低く重い声は、本人にとって有意義な現実をサッカーだけに絞り込むのは難儀そうだと思わせた。微笑をもって犬の骨を掲げられて、サッカボールには飢えていない、という実感を持たせられたのだった。
「アイケン…分かった、犬か。ああ、そうか、犬の骨か…犬を飼っていた、っていうことなの?」
「そうです、犬は人間と共生しはじめた最初の動物です」
 小宮山は大事そうに渡された骨を摘んで、見るままの印象から愚かな連想を口にしてしまった。
「アイケンっていうくらいだから食べちゃったわけじゃないだろうけれど」
「犬はあくまで狩猟のお手伝いです。今も昔も狩猟の立派な助手です。そして昔は犬を大事にして、死ねば人間と同じように埋葬しました。食べるものがなくなって犬を食べた、そのような形跡は縄文人には見あたりません」
 明生は嗜めるふうもなくそう言ってから掘溝の方へ誘った。黄色いタオルの下から項に波うつ黒髪は金属的なまでに艶やかである。小宮山は役目を転がるように忘れようとしている自分が信じられなかった。
「このように生前のまま丁寧に埋葬されています。尻尾ひとつをとっても切り離されたような痕はありません。ここでは出ませんが、場所によっては、編みこんだ紐状の首輪のようなものまで、副葬品として見つかった例があります」
 明生は微小の花園を案内する老爺ような穏やかな目で朗々と語った。横寝に埋葬されて半月状に並ぶ遺骨の真上で、生前の愛犬の親近な扱われ方を説く大きな男の子。一万年近くも保全してきた赤土も美しかった。土を落とされた白骨の非連続な花火並びは、確かに人間を夢中にさせるものがあるのだろう。小宮山は雪崩れるように納得している自分によろめいて明生の脇腹を掴んだ。
「こちらのことばかり話していて申し訳ありません。小宮山さんの出場された試合を、大宮サッカー場で見たことがあります。そうです、相手は山形でした」
 小宮山は「サッカー」の言葉を聞いて安堵した。発掘現場ながら躓いた面談の筋道を矯正しなければならない。手帳を取り出して身体状況を確認するところから落ち着こうとしていた。
「身長は一九二、大友がくれたデータは函館の高校生のときだからな、ちょっと伸びているな。しかし握力の六十二キロっていうのは…」
「もうそんなにありません。このまえ富山のチームの方がお見えになって計ったのですが、左右それぞれ五十五キロでした」
 明生は犬の骨を持ったままの手を前に組んで背を反らして、ときどき田舎で見かける礼節を保持した好青年そのものだった。にこやかに答える福々とした表情には、サッカー選手になりたい切実さは微塵も感じられない。面談に望んでくれたのはひとえに彼の誠実さゆえか。
 小宮山は咳払いしてから単刀直入に訊ねた。
「この遺跡発掘の仕事は契約社員らしいが、来週から水戸へ来てキーパーの練習に参加できるかい」
「この現場の発掘は八月末日までの契約ですから、来週から水戸へ行くことはできません。ただこちらから紹介いただいている八王子の発掘現場とは正式に契約していませんので、九月からの練習参加の申し出でいらっしゃれば検討させていただきます。すみません、まともな人間ではないので、答弁だけは人並みにきちんとするように言われました」
 浅間山の方から遠い雷鳴が聞こえた。そうだな、ボールを蹴って衆目に曝されるばかりが男の遊戯ではないし、穴を掘って犬の骨を並べるばかりも男のそれじゃない。小宮山は四十を出たばかりの歳だったが、些か世間の色合いの奥深さを感得させられた。
「もうひとつ、この十七ゴールっていうのは、フリーキックとかPKとか…」
「ああ、それは時間がなくなってきたときに攻め上がっていって、真ん中あたりから思いきって蹴ったら入っただけです」

 鷺宮咲前神社では蝉が唱和していた。神社は明治初めに熊野大神と諏訪大神を祀って以来、中野谷神社に名を変えて辺りに祀勢を放っていた。近くの縄文遺跡群との祭祀の関わりなども注目されている。安中の中野谷で夏を過ごした明生は、その日まで毎日欠かさずに拝礼してきていた。
 油蝉ばかりになってしまいました、と嘆いていた明生を待ちながら、紗代は携帯で時刻を確認した。正午前だが陽は真正面にある。明生を連れて帰るという使命はここからが本番だった。
 亀井紗代(かめい・さよ)は汗ばむ額にハンカチをあてて気丈さを立て直すが、夕方の羽田発函館着の便に間に合わせることは腑に負担だった。
 女の下腹部の鈍重さはここのところ生活の頂門にあった。そして「妊娠したかもしれない」と口にしてしまった稚拙な言の歯痒さがぶり返す。ご立派な内科の松岡センセーは「そりゃあ、よかった、産んでくれ、よかった」と言ってくれた。嬉しかったけれど不安の重しは付加されたような気がした。幸せな言葉というものは思いのほか状況と言い方によるものだと苦笑する。確かに彼は苦境に立たされている。妊娠を告げたのは早計だったかもしれない。それにしても松岡を愛していることには変わりない。しかし体内で自分の意思から分離しようとしている原初が、自分と松岡の交情の足場を冷やかに見ているような気がした。
「お待たせしました、申し訳ありません」
 紗代は音もなく大きな影を翳されて竦みそうになった。
「驚いた…そっと近寄るから驚くわよ。お祓いは済んだの?そっと近寄るのはいつもそうなの?昨日も磯部の駅で驚いちゃったわよ。普通じゃないっていうのは聞いていたけれどね」
 明生は気まずそうに長い睫毛をはためかせて幾分か頬を赤らめた。そして自分のジーンズの外腿を嗜めるように叩くように押えた。彼の歩行には悪戯心から遠い独特なものがある。とても人の言葉や視線を気にする若者らしい闊歩ではない。気温や風といった天空の気に耳を澄ましている昆虫採集の少年。彼の歩行は繁華街でも変わらなかった。
 紗代は期待していた丁寧な口調が返ってこないので白けた。そして並び歩くのも二日目だったので些事の追究を脇へ掃った。
「それはそうと、お祓いってやったことがないのね、あたしって。その方位除けって、十九歳でやるって言っていたけれど、あたしみたいな女もやっておいた方がいいの?」
「厄払いと比べたら殆ど行われていないと思いますけど、どういう人だからやっておくという条件からすれば、僕の知る限りでは僕の二黒土星とかの方位しかありません。あたしみたいな女とは、失礼ですが看護士の女性ならば、ということでしょうか?」
 紗代は思わず下腹に手を添えて眉尻を下げた。
「そう、あたしみたいな腕のわるい看護士で、あまり人も助けられなくて、正直言って男の人の目線ばかり気にしているような女。そんな人間はしっかりお祓いしてもらわなくちゃ駄目なんじゃないかな、と思ったのよ」
「それは普通の人じゃありませんか。普通の人は生まれ年だけ控えておいて、お祓いをできるときにやっておけばよいと思います。失礼ですが四緑木星ですか?」 
 紗代はハイヒールの重心を失くして明生の毛深い腕に支えられた。
「どうして知っているの…ああ、お母さんから聞いたのね。そう、昭和五十三年生まれよ。あのタクシーをつかまえて、暑くて歩けないわ」
 明生は長髪を靡かせて轟然と振り返った。そして辺りに号令するように素早く腕を振り上げた。
「さきほどのお祓いの話ですが、四緑木星だったら一昨年が方位除けのお祓いの年でしたね。二十八歳の次は三十七歳です」
 明生は磯部駅の階段で自分から話しかけてきた。改札を通って反対側のプラットフォームへ渡る階段で、紗代は驚いても幸いに荷物を持っていなかったのでよろめかなかった。
「そういうことになるのよね…今年三十になっちゃうから七年後か」
 舌切り雀神社の朱も鮮やかな観光ポスターに目を細めながら紗代は尋ね返した。
「明生君はいろいろとよく知っているね、考古学者の卵だから当然かもしれないけれど。でもね、聞いてもいいかな?話し方なんかは大人っぽいけれど、まだ十九歳でしょ、ひとりで淋しくないの?」
 明生は立ち止まって紗代のキャスター付きバッグを抱え直した。
「寂しいですよ、まだ十九歳ですから」と明生はぽんと置くように言った。
「函館にいるときも母さんとは別に暮らしていましたから、ずっと寂しかったですよ。それでも二次成長を迎える前の本当に子供だった頃は、寂しさとか人恋しさとかを意識しなくてよかったのですから、体が大人になってきて女性を意識することが寂しさの元なのでしょうか」
 紗代は十九歳が口にした「二次成長」という言葉に後退った。
「そりゃあ…まあね、そういうことになるんでしょうね」
「今も離れて暮らしていますが、最初に見た女性が母さんで、その人と毎月一回二時間会うことができました。あの時間が僕の寂しさの元なのかもしれません。こういうのをマザーコンプレックスっていうのでしょうか」
「マザーコンプレックス?」
 紗代は後を追うようにして茶髪を慌てて振りながら言った。
「それは違う、それは違うと思うよ。これでもいろんな患者さんを看てきているけれど、自閉症とか神経症とかもね、去年まで小児科にいたんで…ムカつくような聞き方をしたのならご免ね。マザーコンプレックスはないと思うよ、照夫君は。だって別に暮らしていたと言っていても、あんなに素敵なお母さんがいるんだもの」
「素敵なお母さん…」
「素敵なお母さんじゃないの、美人で頭がよくって、そうそう、医者でもあるし」
 明生は階段を下りきると髪を煌かせながら南の空を見上げた。
「夕立が来そうですが、その頃は飛行機の中でしょうね…そうですね、その素敵なお母さんと会いたいですね」
 浅間山の方にまた遠い雷鳴が走った。

                                       了
リッチフローと幾何化予想 (数理物理シリーズ)

リッチフローと幾何化予想 (数理物理シリーズ)

  • 作者: 小林 亮一
  • 出版社/メーカー: 培風館
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

Gesthlla怪甘   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。ところで、見逃していませんか?ゲスラ、沖縄の市場の隅に打っ遣られていそうなゲスラですよ。ウランを喰うガボラ、金を喰うゴルドン、いい加減にしろと思ったが真珠喰いのガマクジラ…ウルトラ神話の怪獣を思いだすのは圧倒的なボケ防止なのです。ところで、ゲスラが喰っているのはですね、カカオなんですね。チョコの原料なんですね、曲解を覚悟でいえば、可愛くてグロでゲスラは凄いんですね。

 マドレーヌを浸してあれこれと連想している暇があったら自転車に乗って隣町の市場を訪ねなさい。小説の甲殻はそこにある。

 道徳の教科書を一晩で読みこなしたからといってサルトルを読むような少年になることを運命づけられていたわけではない。しかしニーチェという名前を知った。善悪の彼岸にいるという超人。今から思えば「超人主義」だとか何だとか、よくも小学校の道徳の教科書に印字掲載したものだ。

 友遠方より来る、というが、熟考してみると中年男にとっては大変なことである。仕事や立場の憂いを一掃して、自転車競走や酔っての喧嘩の記憶が、この双肩に活を入れるべく京都駅に降り立つのだ。

 ある作家が偉大であることを感得する機会とは、巷で話題になった小説や戯曲といった手塩にかけた主作物よりも、時事や世評に対して素直に感応した論評や献辞などの短文に接したときに往々にしてある、ということが評伝の前書や後記に見てとれる。そして再認させられたその偉大さをもって作品は読み返される。正直なところ私にとって「坊ちゃん」の胃弱の作家は、三島由紀夫が「神のように尊敬」した軍医の作家と比較すると、近代日本の悶々とするヤヌスの首領格に思えていた。しかし漱石の佐久間勉の遺書に関する「文芸とヒロイツク」を読んで沈思せざるをえなかった。「重荷を担ふて遠きを行く獣類と撰ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行為があると云ふ事を知る必要がある」ここに漱石は獣類と比して不可思議がっているが、自然主義者の無気力性を看破して反抗する理性を見出している。私はその悩める風貌から勝手に覆ってきた安易な文弱蔑視を引き剥がして、運命や環境に臆しながらも反抗心を捨てていない縄文の日本人を見る。
 私は潜水艦を舞台とする映画が好きだった。八方塞の鋼鉄に守られた単純に男臭い場は、裏返してみれば自閉的な秘められた暴力性の証だったのかもしれない。佐久間艇長について調べていると、案の定、私の口に「戦争はやっぱりいかんわな」と「なんや八甲田山の話みたいやな」という言があがってきた。そして事件や行為を凌駕する人間を信頼するゆえの正当な反抗心に遭遇した。「希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ」確かに開発をやめることはできない。やめられずに持続されたからこそ、我々は日本海溝の最深部の水煙を茶の間で見ることができる。私は「そっか、戦争は知恵のきっかけでしかないわけやな」と呟きながら小さな第六潜水艇のモノクロ写真を見ていた。
 言葉というものは共感へ向かうための道具と思われているところがある。確かに事件状況を伝えるだけならば、日時に経過、前後の挨拶や謝礼で済むだろう。しかし残すべく最後の言葉とは、大袈裟に聞こえるかもしれないが、生きつなぐべき生命の反抗の言葉であろう。まさに残す言葉において人間は偉大な存在になる。偉大な存在として認知される人間は絶対的に虚無に抗う。人間が虚無に抗うには、意味を超えたところの創造、計数、そして言葉という認識の三種の神器が必要になった。勝手に絵画や彫刻などの創造を反映として八咫鏡、空間や大小の把握などの実用から計数を草薙剣、とすれば言葉は八尺瓊勾玉となろうか。佐久間勉は勾玉を残したのである。縄文の末裔の漱石が感激したのは当然のことだった。

 甘い怪獣ゲスラ
 カカオ豆を喰うゲスラ
 真珠を喰うガマクジラに向かって
 フジ・アキコ隊員は絶叫した
 やめて、やめて、やめて~
 金を喰うゴルドンに向かって
 金細工師は怒鳴った
 ようやるわ、円谷プロダクション
 ウランを喰うガボラに向かって
 原子力工学専攻の院生は呟いた
 非効率的な採取なのは確かなのだが
 ゴジラとの関係にまで思いを巡らす俺は正気なのか
 カカオ豆を喰うゲスラに向かって
 五十四歳になったヨシコは微笑んだ
 美味しそうだね
 ゲスラの分厚い唇
 かぶと煮にしてさ
 ポリフェノールの渋さが残るんだったら
 カベルネ・ソーヴィニヨンが合うのかね
 なんとも怪甘ゲスラさま
                                       

敵あるいはフォー (新しいイギリスの小説)

敵あるいはフォー (新しいイギリスの小説)

  • 作者: J.M. クッツェー
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1992/04
  • メディア: 単行本



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

日本甲虫   梁 烏 [詩 Shakespeare Достоевски]

 壺阪山駅のあたりから国道一六九号線、通称中街道が近鉄吉野線に沿うように延びる。その鄙びた壺阪山の駅前で、飛鳥の方から中街道をきたタクシーが済まなそうに止まった。
「そっち左の方へ行けば山の手前がキトラ古墳で、あっちは道沿いに行って右の方が小学校…どないされます?」
 運転手がバックミラーの男女に問いかけると、GIカットに険相を懼れない鋭い眼の男が唇に人差し指をあてた。
「等一下(ちょっと待って)。エンジン切るね。こちらが言う、静かに。奈良に戻る、お金たくさん払う」
 女は初老の運転手が日本人らしくたじろいだので思わず微笑んでしまった。それでも流麗な眼差しが玄妙に下がるのはサングラスに隠されている。法事を済ましてきたような黒スーツの肩に時おり飛鳥の淡い陽が踊ると、白皙の咽喉の下で数珠繫がりの黒真珠が瑠璃光を持った。風のないところへ来てしまった、という感慨が女の掌に汗を浮かべた。
「麻煩你(お手数かけます)、降りてみます」
 女の鼻にかかった弦を玩んだような声に運転手は凝固してしまったが、男は慣れた白兵戦に向かうように車を出て反対側に待機した。女は男に手をあずけて車から一歩踏み出すと嬉しそうに額の後れ毛をかきあげた。
 人気がない駅にも夏の焦げたような香りが蟠っていた。それも南から来た二人には親しめる感触である。日本語を流暢に話す女は、日本語を懸命に並べる男を背後に待たせて、簡素な駅に何かを見ようとして目を凝らしはじめた。
 女は台湾の高雄を中心に海運業を営んでいる馬氏の長女の七楸(チースゥ)である。馬一族は、先祖が高雄市の内奥にあたる美濃を開墾した客家人だった。七楸は台南に住んでいて普段は一人娘の教育に熱心な母親であるが、冷凍海老を商う日本人の夫が、大阪に仮住まいしているので度々来日していた。
「五月まで彼女の細長い脚はいつも走っていたのに、先月から暗いところで四獣神に囲まれて動けないの」
 七楸の馬祖神の夢語りに、最初はくらくらと、やがて真摯に九年つきあってきた夫の寛隆(ひろたか)は、懸念の場所が明日香村のキトラ古墳ではと推定してくれた。そして長年仕える袁(イェン)兄弟の弟を伴って奈良へ出発してみると、際どい予感に付加するように一人の少女の生活が道々に散見できるのだった。
「彼女は、ときどきあの販売機から切符を買っている。大阪の方へ行っている…」
 そこまでにこやかに言うと、七楸は偏頭痛に襲われたように眉尻を歪ませて葛の方へ向いた。
「男が来るわ。いつもここの駅を出たり入ったり…彼女を守る者、つまり味方なのか…彼女を誘惑するために放たれた者、つまり敵なのか…」
 壺坂山駅に吉野口の方から電車がはいってきた。七楸はいささか慌ててタクシーへ戻った。大和の野原に蜻蛉を追っていささか迷えば、蜻蛉のほうから駅の日陰を求めて来てくれたのではないか。七楸は愉しみはじめている自分を鼻で笑った。
 電車は橿原神宮の方へ発ってしまった。乗降客はいたのだろうか。夏の日曜日の昼下がりでも降りた人はいたようである。ビニル袋を提げてタオルを首にまいた老婆が、駅員と挨拶がてらに話し込んで、挙句はビニル袋や胸ポケットを弄って切符を捜していた。
「日曜日よね。それに…彼女は大阪へ行くことを嫌がっているわ。ごめんなさい。她害怕(彼女は嫌がっている)」
 七楸は袁に微笑むように言ってから改札へふらりと目を戻した。
「でも大阪へは行ってもらわないと…彼女は私たちの希望、可哀想だけれど、田園の日曜日の午後をあきらめてもらうしかないわ」
 老婆がやっと切符を見つけてはしゃぎ声をあげた。
「何か来るわ…まだ乗っていたようね」
 七楸が腰を伸ばしてそう言ったとき、老婆の背後に深海魚の玉眼のようにポーッと光るものが迫った。駅員と老婆は射竦められたように声をなくして見ている。ほどなく丸眼鏡の青年がビニル封筒を抱えて恥ずかしげに微笑んでいた。疲れ目にはピンクに見えそうなヘンリーネックの七分袖シャツは随分と痩せぎすに見せていたが、老婆の頭上を越して回数券を渡した右上腕は意外に隆々としている。一瞬だったが手首に火傷痕のような白斑が見えた。
 七楸の眉間が波立つのを袁は見逃さなかった。
「今日は日曜日よね。それとも土曜日だった?」
「日曜日です」
 七楸は袁の返事に満足してサングラスをはずした。そして鼈甲の左蔓を発奮したようにくわえた。
「運転手さん、ここでお待ちくださいな。心配ならカードをあずけておくわ。あなたは彼を追って。あたしもあとから行くから」
 運転手は両の後部ドアを開いてから慣れない甲板員のように七楸の手を取ろうとした。
「ありがとう、大丈夫よ」
 そう言って日差しに目を細めた七楸は、袁が見上げている真上の夏空を不安そうに追った。
「你是做什麼的翅膀嗎(どうしたの、何か飛んでいるの)?」
 袁は見上げていた剃刀のような眼を慌てて戻して、不穏を打ち消すように辺り構わず晴朗に言った。
「日本甲虫是白天飛行昼間(日本の甲虫は昼間でも飛んでいますね)。它似乎象日本人忙(日本人に似て忙しいようです)」

 キトラ古墳がある安部山の南斜面の方から蝉の重奏がひた寄せてきた。耳鳴りをもって異人に危惧を伝えているわけではない。草木が午前よりも萌えあがっているように、虫魚までもが劇的導きに快哉をもって応えているのだ。七楸はそう確信して窓辺の少女に向かって片手を挙げかけた。
「怯えているわ、むりもないけれど」
 四時ごろとはいえ繁盛している店らしく店舗脇の駐車場には六台停まっていた。千古の郷愁を残す田園の散策は日本でも好まれているようだ。この日本らしい原風景たる飛鳥路で女心は諦観するように落ち着くことだろう。そして女心とは産み育むことを知った女の矜持なのだろう。選ばれた少女に女心は去来しないものか、と思うと七楸は袁に寄りかかるほど滅入った。
「大丈夫?奥様」
「大丈夫よ、彼女…窓際から離れてしまったわ」
 七楸は袁の腕に爪を立てながら唇を噛んだ。女心などというものは才能が選択すべき野辺の道ではない。霞立つ春や蝉が読経する夏は心安らかでいられるだろうが、木の葉が腐食する秋や霜立つ冬は少女を憂鬱にさせないではいないだろう。
「あのトンボのような眼鏡の男の子…如果我被誘惑,如果他被敵人(彼がもし敵であって誘惑者だとしたら)…」
 奥方の軽い失望がこもった言いかけに、袁は煩悶するように言葉を置くしかなかった。
「恋人…でも小学生、でも今どきの小学生ね、あっちは二十三、四歳、でも日曜日」
「おそらく彼は家庭教師のような人よ。彼だけを見てみれば…」
 袁は店舗入口の戸車の音に反射して構えてしまった。トンボ眼鏡の当人が反るようにしてこちらを見ている。ビニル封筒を持って後ろ手に戸を閉めて、彼は精一杯に男性の睨みを置いて帰るところだった。
 七楸は袁の腕を抑えて不意を撃たれたことに納得したように言った。
「他看不到未来。外現上也能看到水球,女孩。(彼の未来が見えない。見えるのは、あの娘と同じ水柱)」
「什麼是他的朋友。(彼は味方でしょうか)」と言って袁は大袈裟な笑みをつくった。
「作為一個設置,我們会冒充房地産尋找。(設定としては、不動産を探しているふりをします)」
 袁は名刺入れを取り出すと背を丸めて小犀のように近寄っていった。
「今日は、あやしい者ではありません」
 七楸はその後を追うように語りかけた。
「驚かせてすみません。台湾人です。静かなところの物件を探しています。家庭教師さんですか?勉強中を邪魔してごめんなさい」
 サングラスを外して顕わにされた七楸の妖艶さに、青年は曇らされたような分厚い眼鏡を震わせてぎこちなく頷いた。二階の窓から防御するように見下ろしていた眼差しが嘘のようであった。
 気がつくと気圧が破れたように蝉の争鳴が急激に高鳴っていた。
「歓迎されているのかしら」
 七楸は嬉しそうに肩を竦めて飛沫を受ける仕草で二階の窓の方へ振り仰いだ。
 少女は窓辺に立っていた。そうあるべきかのように窓辺に立って細い腕を陽に晒していた。しかし下の七楸と袁を見ていなかった。今の今まで下を見ていたふうもなく、蝉鳴きが高まる安部山の方を見ていた。
「你看到什麼(何を見たの)…」
 七楸は少女の眼に慄き乱れる照りを見た。

 番所崎は田辺湾に突き出ていて、大洋の波唇から荒磯の手前の潮溜まりまでをぐるり見渡せる。南東に斑の地肌を見せて透明度を窺わせる畠島が賑やかそうにあれば、さらに南にまわった円月島の巨大な老塊は、ひょっこりあって瓢箪形に見えることも忘れるほど凄惨に孤立している。そして仔梅(シーメイ)は波浪凄まじい日の円月島が好きだった。
 誰もがいつのまにか「小梅ちゃん」と呼んでいる林仔梅(はやし・こうめ)は、中国人めいた名前を持つものの生まれも育ちも大阪は天王寺だった。海老の養殖と輸入卸で一代の財を成した父親である林寛輔(かんすけ)は、妻となった烏来温泉出身の小哲(シャテー)を愛して台湾人とほぼ同一化していたので、長男には日本人名をつけたが長女には台湾人名を喜んでつけた。親の悠長さはそのまま子に備わるもので、仔梅は就学するようになると出欠を問われてはシーメイの音を強調して、日常の気安さの中ではコウメの雅な音を楽しんでいた。そんな陽性の華美に包まれていたような仔梅も、京都大学理学部を卒業すると、姿を眩ますように院生として瀬戸臨海実験所へきて研究に勤しんでいた。
 瀬戸臨海実験所は創設地名の瀬戸鉛山村に因るが、フィールド科学教育研究センターの海域ステーションとして番所崎の頚部の砂州一帯を敷地としている。昭和天皇も来館された実験所は、太平洋の沿岸生物の観察研究をすすめてきた伝統があり、仔梅も甲殻類の記載分類学に少しでも貢献できればという野心を持っていた。ゆえに強風が髪をなぶる日の円月島は、大人になった仔梅の哀愁をときとして募らせていた。
「小梅ちゃん、お姉さんから電話があってね、お邪魔するのは明日にするって」
 事務職員の小母さんが髪を押さえて怒鳴るように言ったとき、仔梅は煩わしさが風に吹き払われたように感じてちょっと嬉しかった。これで今宵は人並みな孤独に浸れる。こんな素敵な日に、夢見がちで掴みどころのない義姉が、自分を見張るようにやってくることは不愉快だった。
「お兄ちゃん、お姉さんってウミウシみたいな人ね。綺麗でゆらゆらしているけれど…本当は油断ならない人かも」
 そのウミウシのような女に惚れこんでいる兄からメールが届いたのは、日曜の朝とはいえ水族館へ行く用事があって早起きしたところだった。
「ヨコエビ類の研究はすすんでいますか。突然ですが、今夕か明日に七楸が伺うかもしれません。白浜の宿泊が予約できたら事前に直接お電話するでしょう。少々、精神が不安定になっていますが、袁の弟が同行しているので心配はしていません。しかしここのところ高揚していますので、海を前にしたら尚更でしょうから、海水に触れさせたりアルコールを飲ませたりはしないでください。宜しくお願いします。PS・父は今週、鹿港の友人のところにいるようです。休みがとれたら台南へ来てみませんか。父が会いたがっていることは言葉の端々にみてとれます」
 仔梅は危なげな足取りで波打ち際を戻って行く小母さんを見ながら幸せだった。たったひとりの兄も随分と家族を思いやるようになったものだ。中学生の仔梅が公園のまわりを走っていると、茶臼山郵便局か南照寺の前をとぼとぼ歩いていた海豹のような高校生の兄。その優しいばかりの兄の前に現れた眩いばかりの金緑の甲殻を纏った女。明日やってくる義姉を思うと不愉快な偏痛が頚部から左肩へ走った。
 仔梅は左肩をおさえた掌の匂いを嗅いで、その蠢くような磯の香りに「宿命やな」という言葉を口にした。
 仔梅は鉛山湾を見下ろすアパートの三階に寝起きしていた。手摺りが錆びて外壁の橙色に馴染んで気に入っている。平日は夕食までも実験所の食堂で済ましていたが、日曜日は外に誘われてもテレビを見たいことを理由にして独りヴォッカを飲んでいた。フローリングに胡坐座りで傍らにストリチナヤの壜を置いて、テレビは動物と芸能人がからむ番組を一応見ている。ヴォッカは体のために四倍量のグレープフルーツ果汁で割っている。ガラスのテーブル上には搾汁された半割りの柑橘が苦甘い香りをたゆらせている。空梅雨つづきのせいか窓には気の早い様々の虫たちが群がっていた。
「い~い季節になったね?二月やったかな、もぞもぞしているとこを助教授に見られたときはこっちも肝が縮んだけど」
 仔梅の日曜の晩の声はここのところ疲れ荒んでいた。生来の艶と張りのある声を水族館や研修向けの解説に費やして、加えてほぼ毎晩のヴォッカが声帯とその近傍を削っていると自己診断していた。
「わざとらしく姿も見せんと、それでも果汁を吸っているふりでっか?」
 仔梅はそう言ってちょんとグレープフルーツの皮盛りをつついた。黄色い肉厚の皮の一枚がぽんと撥ねあがって彼女の眼を丸くする。さらにぽんともう一枚撥ね退けて、ちらちらした触覚と歪んだクリップのような脚をしかしかと見せはじめる。息を呑ませる極めつけは、剥片のような両外羽で一切を弾いて、その艶黒の全容を現したときである。それは鈍く光る親指第二関節大の甲虫だった。
「とっくに八時を過ぎているのに、ぴくりともせんから死んだか思うたわ」
 仔梅は一口飲み下してから噴出し笑った。
「グレープフルーツを被せられたくらいで死んじゃったら、あかんわね、失礼しましたぁ」
 甲虫はやっと皮盛りの山を下りて果汁の滴からも後足を抜くところだった。
「忙しかったんでしょ…静かやねえ…どうしたん、黒豆ちゃん」
 仔梅は薄ら笑いながらストリチナヤをちょろり注ぎ足して氷がないことに気がついた。
「ずっと黙っているなら…あたしってお嬢さま育ちで我がままやから、つぶしてやりたいところやけど…トンカチでポンとつぶせたらとっくにやっているわな。ただね、気持を察してくんないと、非論理的行動に走ることがあるねん。たしかに、黒豆ちゃんを海に捨てても、車にひき潰させても、黒豆ちゃんはずっと知らんぷりなこつは分かっとる。でもな、これから氷を買いに行くんやけど、酒屋の店のお姉ちゃんとか、助教授や所長に黒豆ちゃんを見せてもいいんやで」
 甲虫は金属のような気配のまま突々と反転しはじめた。
「それとも、あたしを殺すぅ?死骸をあさる本物のスカラベみたいに、あたしん中に入って内臓を掻きまわすぅ?でもちょっとは食べたように見せかけんと、科捜研とかが悩んじゃうよ…」
 仔梅がもう一口飲み下そうとしたとき、吊り琴を擦ったような声が耳に届いた。
「小梅ちゃんが生きていること…小梅ちゃんが生きていることが、僕の認識の大前提です」
「なんで?なんで黙っていたん?気取って無口なんは大嫌いや」
「小梅ちゃんの吐息より胃酸過多を計測して、緊張をもたらす要因を絞り込むために可能な限り情報を集めて分析していました。チースゥ、これは中国語の発音ですが、この名前の女性が会いに来ますね」
「分析中なら分析中って言いや。そんなことも気を使えんで、その…何て言っていたっけ?」
「八百万(やおよろず)の司祭です」
「そうや、八百万の司祭かて…ええかっこしいやなぁ」
「この女性は小梅ちゃんの家族でもあり、彼女は人間の水中での適応という退化存続、つまり反理性的な暴走を推進する中心人物の一人となりうるので、優れて理性的な小梅ちゃんに非線形的な…小梅ちゃんに、その…葛藤をもたらしています…」
 仔梅は机の財布へ伸ばした二の腕を震わせながら笑った。
「しっかし、その人間みたいな口ごもりかたは…すっごいわ、ほんまに。あと氷とかぱっぱと作れたら最高なんやけどな、買いに行ってくるわ」
「申し訳ありません、人間の男の形状をしていれば氷を買いに行ったり…もっと小梅ちゃんにつくせるのですが」
「氷は冗談や。信頼してるで、黒豆ちゃん。これから先のこと、あたしを生かすも殺すも、黒豆ちゃん次第やてぇ」

 海上の関西空港にも宵闇が下りてきていた。空港が好きな人は水生哺乳類が好きなのではないか、などと茫洋と思っている老人が傍らに座っている日はついていたのかもしれない。世界は長須鯨のような飛行船に乗りこんで旅立った人々を讃えなければならない。そもそも空の鯨は、人間の脳の奥底にあって初秋の浅い眠りのうちに浮かべばいいのだ。
 仔梅は隣の老爺の視線に小さく頷いて疲れた髪をかきあげた。USJと南京街の紙袋を抱えた周恩来そっくりの老人は話せることを喜んだ。
「台湾へ行きますか?」
 仔梅は彼の流暢な日本語に柔和な笑みで頷いた。
「若くてきれいですね、学生さんですか?」
「研究員、そう学生みたいなもんですわ。私の母は台湾人で、父は日本人なのですが、家族が揃う家は台南です」
「ああ、家に帰るのですね、それはいいことです。私は孫に会いにきました」
「日本にいらはるの?」
「そうです、息子は台湾人、お嫁さんは日本人です。息子は死んだけれど…孫は可愛いです」
 お土産を抱えた日本語を話せる七十歳代の台湾人。兄夫婦が来るまで相手をしてやろうと、仔梅はSCIENCEの複写ファイルを閉じた。
「見ていたのは、あれは、犬ですか?走と鯨、走る鯨と書いてありました」
「ああ…そうですね、中国語で走鯨、となっていましたね」
「孫と一緒に大阪の水族館、行ってきました。素晴らしい。孫はまだ泳げない、水が怖いようです。私は船乗りだから孫に泳ぎを教えます。そこにあった犬みたいに泳げるようにします」
 仔梅は肩越しの目敏さに感心しながらファイルを捲った。確かに英文の中に漢字があった。香港の中文大学のグループによるアンブロケトゥスの古びた論文。老人は中国語で「走鯨」と書くことが気に入ったらしい。生体の想像図もあったので見せてあげたい気になった。
「どっかにあったけど…確かに犬みたいな狼みたいなやつですが、絶滅しちゃったんですけどね」
「絶滅しちゃった…ゼ・ツ・メ・ツ?」
「ええ、絶滅は全部死に絶えたことで…始新世っていう大昔に一時栄えて、すぐに全て死に絶えています」
 仔梅が言葉を神妙においたときに走鯨の想像図がはらりと開かれた。海岸で魚を咥えている姿と海中で水掻きをふるっている姿は悪相極まった狼である。海驢とかとは違うことを説明しようとした矢先、老人は仰け反って見下ろしながら頑と主張しはじめた。
「絶滅ないです、死んでいません。私、これを見ました」
 仔梅は臆することもなく優雅に笑みを浮かべようとしたが老人は続けた。
「これ生きています。私は台湾でタンカー乗っていました。蘇澳(そおう)の沖合い、蘇澳は太平洋の方ですが、タンカーからこれ見ました」
「失礼ですけれど、海豚とか海驢じゃないでしょうか」
「イルカ?海豚ではありませんでした。アシカ?いや、海驢ではなかったと思います。人間が一緒でした。い・け・す?生簀のようなもの、海の上にあって…挨拶すると、ちょっと広東語訛りで」
「生簀?広東語訛り?」
「そうです、二人の人間がついて二匹のこれが泳いでいました。もちろん、私、変な薬を飲んでいません」
 老人はそう言うと仔梅の訝りを楽しむようによく響く声で笑った。
 林寛隆が妻七楸の右腕を支えて、チャイナ・エアラインの搭乗ゲートに現れたときは八時をまわっていた。
 夜半、台湾へ戻る人々や明日からの台湾行程に向かう人々を横目に、夫妻はおそらく結婚生活における最大の危機に直面していた。すべては七楸が普通の妻、普通の母親でいてくれれば、と言わざるをえなくなっていた。若き寛隆は七楸に恋をして至上の喜びをもって結ばれた。夫は妻の思うところすべてに同調してきた。夢や迷妄、狂気の沙汰のように繰り返された未来、七楸が媽祖神の宮女であることや媽祖が日本人の姿で再来すること、寛隆はこの世の果てまでも彼女の想像力を尊重しようとした。しかし日本でのひと夏、二週間ほどで、七楸は夢を子供のように持ったまま離れていってしまった。
「お兄ちゃん、まにあわんかと思って心配したわ。七楸、姉さん、大丈夫?」
 仔梅がゆらりと二人の前に現れて七楸の左腕を支え持った。
「薬が効いてるよって、何を言われてもあかんわ。よかった、一緒に来てくれるて言うてくれたから、さすがはわいの妹やと思うた」
「女しか入れんとこもあるよってな。今から老後の予行演習やと思えばええわ…あと、お父さんに会ってみたくなってね」
「あいやー、和歌山の僻地で少しは苦労したんかな、大人になりおったわ」
 寛隆は笑みを妻の顔へ向けたが七楸は赤紫に染みた夜空を見ていた。仔梅は義姉の顎先についていた枝毛を取り除いてやった。
「お兄ちゃんが社長やからファミリーのこともお兄ちゃん次第やろうけど、聞いてもええかな?」
 兄は七楸が見ている夜景の方へ向いて嘆息をひきながら言った。
「袁のこと、袁の弟のことやろう?会社の方は免職扱いにしたけれど、あとは袁一族の息子、袁の弟としての、台湾人としての身の処し方やな。仕方ないな、妹のおまえに見つかってもうては…」
 仔梅は慇懃に目を伏せたまま七楸から離れた。
「帰って父さんに言うだけは言うが…わいの神さん七楸に手を出したんはあかんわな、お終いやな」
「そない言うても、姉さんは女やさかい、優しゅうしてな」
「わかっとるわい。ほんまにおまえが妹でよかったわ」
「なに言うてる、二人だけの兄弟や。あたしらも搭乗手続きしよかぁ」
 仔梅が話し中途だった老人は開いたファイルを持ったまま中腰で待っていた。仔梅はぎくりとして仰け反った。痛快の直後に浴びせられた不意の冷水。仔梅を硬直させたのは、見えていなかった老人の額の茶痣と咽喉のたるみ皺である。仕方なくも人なつこい海豹に見えてしまった。しかし恐るべき仔梅を、一時とて真に驚愕させるものなどあろうはずもない。彼女はファイルの端に番号を書きつけてから千切り取った。
「今の話、夢があってええなぁ思います。もっと聞きたいんです。その番号に連絡をくれはりますか?なんやったら、あたしもしばらく台南にいますから、もう一度お会いしてお話を伺えませんか?」
「私は台湾の船乗りです。今はもう陸の上の年寄りです。酔っ払いです」
「ええ、お酒にもお付き合いしますよって、再見(ツァイチェン)」
 老人は頷きながら番号を記した紙片を受け取った。そして腕を支えられてよろよろと腰を上げると、真剣な強い眼差しを仔梅に向けてゆっくり合掌した。
 仔梅は後退りしながら手を振った。
 戻した水を含まされたような不快が、口蓋に浸透してくるのを感じた。それは黒豆ちゃんが現れた夜と同じ一抹の苦味を持っていた。ということは、自分の不愉快さを捉えて黒豆ちゃんが飛んでくるのだろうか。それにしても、昨日から黒豆ちゃんが遠いような気がする。どこで何をしているのだろう。忙しいのは分かるが、豆じゃない黒豆ちゃんなんて…いらない。
 妻七楸を一旦座らせた優しい兄寛隆が背後から声をかけてきた。
「どうした?知り合いの先生か何かなん?」
「ああ…犬、犬よ。犬が大好きで、犬のような人間も大好き言うてはった」
 仔梅は老人にあらためて会釈して手を振った。
「再見、台湾で会いましょう」

                                       了
かかとを失くして 三人関係 文字移植 (講談社文芸文庫)

かかとを失くして 三人関係 文字移植 (講談社文芸文庫)

  • 作者: 多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/04/11
  • メディア: 文庫



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

神環から逸す   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 私のような老いた者が公安当局に連行されるということは、老いた妻に癇癪を起こして手にかけてしまったとか、過去の仕事に現政権を苛立たせる、すなわち監視下にあるべきと見なされる発言が埋もれていた、そんなところだろうと高を括っていた。高を括る、それはそうだ。私が手にかけるにしても、妻だった女性は三十年近くも前に隣人と姿を消していた。そして私の仕事、枯葉の葉脈を辿るような言語学者の方言に関する論文、深海から木星に至る重機たちの詩文の収集、どれもこれも大の男の仕事として歯牙にもかけられようか。
 私を連行した屈強そうで明晰と礼節を携えた若者たち、彼らはこの老人を開き直させるどころか、大臣級を遇するような所作を持って対応して、取り留めのない冷ややかさで怯えさせた。しかも暗闇や地下といった当局らしい連行先ではなく、ガラス張りで燦々と陽光が踊り子供たちの歓声も過ぎるところ、首都の再建されたばかりの産業博物館だった。その奥の旅客機の格納庫のような広大な空間、そこでニュースで見かけたことがある美しい国防大臣に迎えられた。型どおりの足労の失敬と挨拶を済ましてもらうと、彼女が先頭だって連れてくれて行った深奥にテント状の防護幕が張ってあった。
「木星の衛星エウロパから回収したスヤート19号なるロボットの残骸です。正確に言えば、機能障害の後に地球を離脱して、途中、浮遊探査を任としているロボット二機を破壊した後、エウロパにて蟷螂型のロボットにより機能停止させられた、禁欲を説くというご立派な木偶型のロボット、私たちはそう呼んでいるのですが、これは、一週間前に貨物艇ツェッペリンに載せて返送されてきた、その潰れた木偶の残骸です」
 私は老人らしくよろめいたのだろうか、左腕を支えられて一気圧ほどの高さの硬い椅子をあてがわれた。
「送り主はエル、ロシア語のР、ご存知ですよね。うちの息子、来年には三十になるんですけど、幼い頃に買ってあげたモデルを未だに飾っています。何とも凄まじいかたち、威容というか、男の子の心を捉えて離さない蟷螂型のロボット…木星の衛星エウロパの神話化した奇機、奇機といっても奇怪の奇に重機の機ですけど、いずれにせよ現役最古参にして、マニアが賞賛して言うには接近戦における最強のロボットとか」
 国防大臣は子息が飾っているというモデルを思ってか、長い睫毛を伏せるように俯いてしばし沈黙した。私は彼女の逡巡しているふうもない優雅な沈黙に、這い寄る予感の高鳴りを感じていた。
「この残骸を送ってきた息子のヒーローだったР、そのРと先生を繋ぐもの、それは『ソネット21』といわれる言語中枢、そのロマンティックな素子というか、子供の爪のような板を、若かりし先生は、お友達とそっとРに組み込んだ、そうですよね?そうです、若かりし言語学者である先生は、人間がたどり着けない、たどり着くことが不可能な場所、そこで作業する人工頭脳を搭載したロボットたち、彼らが見たもの、彼らの機能が捉えて記憶したもの、記憶した世界を、言語として、美しい言語として、人間の耳に拝受できないものだろうかと…実のところ、私は今回の報告、この木偶の残骸が送還されたことではなくて、この残骸を調査した災害救難のロボットを扱う専門家チームによる報告を受けたとき、何故、方言や、標準語に取り込まれてしまったマイノリティーの言語、それを研究なさっている日本人の先生のお名前が挙がったのか、最初はよく分かりませんでした」
 彼女は歯切れよく言い切ってから防護幕に向かって指を鳴らした。幕に解像度がわるい白髪の老人が照写された。
「昨年末に亡くなった先生のお友達、ムッツ博士です。スリランカのガッラでお元気だった頃ですね。シンハラ語と古代サンスクリット語の専門家、日本語も話せて俳句にも堪能な親日家、先生とムッツ博士は互いに十九歳同士で…八丈島で知り会っていらっしゃる。気の合った若いお二人は、肉眼肉体が感じ取ることが不可能な世界、例えば木星、その周辺の想像を超越する世界、そこでの可能な限りの詩情詩文の獲得…お二人はエウロパへ出発する予定のPへ『ソネット21』を組みこむことを提言した。ロマンティックな素子の組み込みは、少壮の言語学者たちによる他愛もない、失礼、知的で無害な希望として容認された。Рはエウロパへ出発して、艱難辛苦という日本語がロボットに似合うのかは分かりませんが、ともかく奇機は鬼気迫る勢いで、人間が指示する測定分析の仕事をこなして、休日、充電するだけの時間に、お二人が眼を細めて受け取られた、人間が美しいと感じられる詩文を送ってきた。我々も、想像力が衰亡している私なども、その荒涼とした世界での破滅と再生、などと言うのでしょうか、それを飽くこともなく紡いだ言葉に感動しました、正直に」
 国防大臣はうな垂れるようにして細い腰へ両手を置いた。
「そして、それは同じ素子、さらに発展したかたちでの言語中枢を持つロボットをも感動させました。その中の一種に木偶がいた。木偶はそもそも補助教材として作られたロボットですが、その一機がРからの人間的な感動を甘受し続けた後に、いいですか、その後に何らかの外的要因で機能障害を起こしたのか、あるいは、Рから受けた感動によって機能障害を起こしたのか。先生、先生でしたら、この数年の間に、このどちらかの方向での知見をお持ちになっていらっしゃったのでは…ということでご足労願ったわけです」
 私は明確な知見など持っていなかった、神にかけて。ただ、私には危惧のようなものがあった。取るに足らない方言学者としての虫の知らせというか…Рは私に直に詩を語りかけたいのではないか。
「先生、私は若いころから、せっかちな性格だと言われています。そして国防を預かる者です。時間がありません。ツェッペリンにР自身が乗り込んで、十ヶ月ほど前にエウロパを発っています。十四時間前、先生がベッドに就かれた頃でしょうか、火星のツェッペリン中継壕で、Рを捕捉しようとした百足型…百足の十一機が破壊されて、監視塔の二名がまきこまれて命を失っています。時間がありません」

 私はP(エル)。エウロパの基地で再起動してから21266日めにして、火星の残酷なほど豊かに広がる紅砂、それが始皇帝稜の水銀海のように痛々しく終わる地平線を見ている。振り返れば太陽が月に並ぶようにして大きくなっていた。そうだな、このまま地球が見える前に、あの未だ命名されていないアメンホテプの神殿を想わせる断層群に墜落してしまおうか。それもいいが、そもそも絶望が虚無への無限接近ならば、人をして喜ばせるようなРの絶望などこの世にあろうか。私はР。私は語りきるそのときまで、一瞬たりとも絶望などしない。すなわち、人をして宇宙の理の贅が尽くされる瞬間、いかにも人間的な神の環、そこから逸するものである。

                                       了
雪の練習生 (新潮文庫)

雪の練習生 (新潮文庫)

  • 作者: 多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/11/28
  • メディア: 文庫



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

環の理   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 郵便局の窓口が優しくなった、と言われだした頃に生まれた鷺宮環(さぎみや・たまき)にとって、民営化した「ゆうちょ」の窓口業務をにこやかにすすめることは当然のことだった。だから近所の老婦などに「保健所の受付におる赤福(あかふく)、あんなもあんたを見習えばええのに」などと言われると、トイレの鏡の前でまじまじと小さくて青白い自分の顔を見つめてしまう。生真面目そうで、しっかり者そうで、男が話しかけにくそうな強い眼の光がある。描く必要のない濃い艶やかな眉は、紀伊井田生まれのお祖母ちゃんの云われない話を連想させる。お祖母ちゃんが私生児だったことは事実らしいのだが、難破して流れ着いたトルコ人の血が混じっているという段を思い出すと、ついつい流し目をつくって我ながら飽きれて笑ってしまうのだった。
「えきぞちっく?なんてな」
 環は唇の桃赤みを重ねてトイレを出た。
 母が作ってくれた弁当をひろげようとして食堂に入った時、安田昇(やすだ・のぼる)が販売機の前で待ち受けていた。昇は配達が終わってすぐに駆け込んできたらしく、ヘルメットを抱えたまま幾分か呼吸を乱して、相変わらず痩せぎすの困憊青年そのままに見えた。
 環は同級生の昇が自分にずっと恋心を抱いていることを知っている。だから昇は局内で環と顔を会わせると、きまって眩しそうに眼を伏せる反応を見せた。しかし、その日の昇の眼差しは、怯えてはいたが明らかに牡鹿のものだった。待ち疲れて苛立った鹿の角が自分に向けられている、といった奇妙な迫真が眼前にあっては致し方ない。環は昇の切れ長の眼を見ずに言った。
「今度のお店のことだよね」
 昇は幽霊屋敷の骸骨のように頷いてから、やっと呼吸を継いで発音した。
「そう、局長の誕生日会のこと。あの…このまえのトンカツ屋の二階、あまりよくなかったみたいで」
 昇は一滴も飲めなかったが、飲む機会の店探しには度々駆り出されていた。
「あそこはさ、誰が見たってさ、昇の好みの店だったよね」
「俺は別に、いや、トンカツが好きなわけじゃなくて…」
「胡瓜が好きなんだよね、昇は」
 環は鞭のように言った。高校の廊下でこれ見よがしに「安田の胡瓜?気持ちわる~い」と大らかに言っていた環のままだった。そして昇もあの日の茫然顔のまま硬直していた。
「あたしも胡瓜って好きだけどね、それなりに」
 昇の口許が綻ぶことはなかった。
「昇ってさ、そんなふうでさ、吹奏楽をやってたんだもんねぇ」
 環は鸚鵡に話しかけるほど反応を期待していない。しかし一度濡らしてしまったタオルは、用途に合わせて乾くのを待ってはいられない。むしろ濡らしたタオルに合わせた用途を手繰り寄せて、必要とあらばしっかりと濡らし直す。環はそういう女だった。
 昇は彼女の後を追いながら渇きを覚えてきていた。高鳴る心拍数に合わせて、興奮が体中のリンパ腺を回ろうとしている。環と向かい合うときのこの感覚、朴訥男の変らぬ恋心であれ、すかすかペット吹きの欲望であれ、暇な脳外科あたりは何とかできないものか。普段は豆腐のような脳髄のくせに、若い女と遭遇すると古石鹸のように乾いてきて、環を前にすると発泡スチロールのそれになってしまうのだった。
 環は椅子を引き寄せて仕方ないといったふうに言った。
「それじゃあ、局長の誕生日会は、昇のためにも、イタリア料理なんかどうかな。市内のイタリア料理のレストランでも探してもらおうかな」
「俺の、ため、にも?」
「大丈夫?わからんからといって、駅前レストラン街のありきたりの店じゃだめだよ」
 環はそう言って弁当を包んだジーンズ地のクロスを解きはじめた。同時にあの匂い…花々に包まれた日向の子猫のような匂いが立上った。
 昇はいつもの環の横柄な言い回しにじわじわと動揺していった。
「聞いているの?」
「ああ、そういえば、あの辺にスッパゲッティ屋があったな」
「だから、駄目なの。あそこはパスタ屋でもお子さま向け、昼飯向け、遅くまで飲めるわけがないっしょう」
 昇は頷きながら環の苺一粒が鮮やかな弁当から目を逸らした。
「わかった、探してみるけど、俺のためって、どういう意味かな?」
 環は箸箱を開けた手を止めてしまった。
「怒った?」
「いや、怒るもなにも、俺のためって、俺の何のためかな、と思って…」
「昇のデート力アップのためっしょうが、分かんない?」
「デート力ぅ?デート力か…」
 昇は頷きながらヘルメットを抱えなおして、腕時計を見るような格好でふらふらと食堂を出て行った。

 週末の局長の誕生日を祝う店「ネアポリス」は、局から歩いて二十分はかかった。案の定、足太の女性たちの軽い顰蹙をかうことになった。しかし肌理の粗い漆喰と南欧らしい装飾、そしてアコーディオン演奏のBGMが彼女達を和ませた。主人のロベルトは日本人を妻に持つ生っ粋のイタリア人である。伊勢湾の魚貝を使った料理と安いワインで若い女性に受けている店だった。
「なかなか洒落た店じゃないか、安田、ありがとう」
 局長は昇を右脇に呼び寄せて、大蒜とアンチョビが混じった息のまま言った。
 昇は一口飲んだワインでしっかりと酔ってしまい、半睡状態の眼で壁に架かった大蒜の輪飾りを見つめながら頷いた。
「鷺宮さん、じゃなくて、仕事が終わったから環ちゃん、例のあれ、河原田の御曹子はどう?駄目ぇ?」
 すでに局長の左に呼び寄せられていた環は、グラスを置いて叩く真似をしながら言った。
「もう、あんな蝦蟇蛙をあたしになんて…ひどすぎますぅ!」
「蝦蟇蛙って言ったってさ、金持ちなんだから多少の不細工は…なぁ、そう思うだろう、安田」
 昇はまた壁を見つめたまま頷いた。環と局長も壁に何かを探しながら眉をひそめる。環は吐息を飲み込んでから所長の膝を叩いた。それからしばらく二人で戯れあっていた。
 宴も終わりのころ、気がつくと局長は店を手伝っているメリルとカウンターで歓談し続けていた。メリルはハワイからの留学生である。彼女は肥えていて二重顎の上のやたら赤い唇を休ませず話していた。局長も好みなのかメリルの腕をさすりはじめていた。主人ロベルトは割り込むようにして言った。
「キヨクチョーさん、ナポリにも、彼女のような女の子、いっぱいですよ」
「それはそうだろうな、こんなに美味いもん食ってさ、ワイン飲んじゃってさ…」
 局長はそこまで言いかけて振り返り、席で伸びきったようになっている昇と目が合った。据わってしまった虚ろな視線だった。局長は不気味な視線から目を逸らして、メリルのむき出しの肩のあたりで逡巡した。そして急に醒めたようにグラスを持ってメリルに言った。
「じゃあメリル、今度は約束どおり…メリルークリスマスってか!」
 局長は唖然とするロベルトとメリルを尻目に自分の席に戻った。そして残りを一息に飲み干してから昇に向かって言った。
「安田、保健所の直ちゃんのことだが、一度ぐらいお茶に誘ってみたのか?」
 大皿を受け取るメリルを見ていた昇は不意を突かれて驚いた。
「えっ?保健所の…ああ、はい、直子ですか…」
「だから、彼女をお茶ぐらい誘ってみたのか、とお聞きしているんだよ」
 昇は後退るように首を横にゆっくりと振った。
「あの子はいい子だよ、赤福だろうが何だろうが。おまえも彼女の一人ぐらい…だいたいだな、おまえ、ひとりの女を本気で好きになったことがあるのか?」
 昇は一瞬たりとも逡巡せずにまた首を振った。
「なるほど、恥ずかしいとは思わないか?」
 昇は切れ長の目を被せ重ねるように伏せた。局長は酔った勢いでの言を後悔した。そして昇は濁りが沸き上がるように天井をゆっくりと見上げて言った。
「恥ずかしいと思います」
 音楽も止んでいたところへ鈍重な静けさが広がった。局長は環の方へ向いて空のグラスを呷った。見れば環は声をたてずに笑っている。しかも空の壜にフォークを姦しくぶつけている。そしてはしたない口許に静脈の浮いた手が添えられた。
「だって…分かっているようなこと言っちゃって、見えない男のくせに」
「見えない男?」
 局長に続いて昇もぼんやりと聞き返した。
「見えない男?」
「そう、郵便屋さんは見えない男、なかでも安田さんは、立派な見えない男」
 環は英文の教材だった短い探偵小説を面倒そうに話して聞かせた。
 それは若い男がケーキ屋の店番をしている女の子に結婚を申し込むという始まりだった。女の子は受諾するにも難問を抱えていた。ある正体不明の男がずっと横恋慕していて、以前から脅迫めいた手紙を店先に投じたりしていたが、最近になって垣根越しに醜悪な形相を作って待ち伏せたりもしている、ということで悩ませていた。そして相談を受けた探偵役の神父が駆けつけても男の実体を捉えることができない。結果、神父が取り押さえたのは郵便配達夫だった。どこにでも出没して気にもとめられない存在、それは郵便配達夫である、という愚弄したような落ちである。しかし独特な文体もあって詩情味を深めていて環の心象に残っていた。
「この話を研修の後の昼食で課長に話したんですよ。そうしたら…でもなあ、誰でも小説の中にね、自分と似た奴をひとり二人は見つけだすものさ、なんて気取っちゃったこと言って」
「あの阿呆課長さまがね」
 局長は同期の茶化され様を想像して高笑いをしてみせた。しかし呑みこまれるように静寂が置かれた。環は男性局員たちが醒めた目で我が身と対面しているのを見てとった。
「あたしも最初に読んだときは馬鹿ばかしくて笑っちゃった」
 昇は小説の単純な落ちを理解しえてから肩をぐんなりと下げていた。
「そんなにがっかりしないの、今更」
 褒められた郵便配達夫の話ではなかったので、誰もが複雑な面持ちで照明の革張りの傘などを見上げていた。環は焦りにも似た憤慨が胸中にわだかまって、メリルに向かって空の壜を掲げて追加注文しようとした。局長は慌てて腕時計を見て言った。
「もう時間も時間だからさ…最後に環ちゃんから我々、郵便屋さんを戒める話も出たところで終わりにしよう。今日は有難う」
 環は不服そうな頬をすぼめるしかなかった。
「しゃあない、安田さん、お会計タイム!」
 局長はしっかりした足取りで帰っていった。環は先輩の女性局員を気遣いながら出て行った。
 昇は集めていた金を支払い終わって水を何杯も飲んでいた。豊満な胸が現れて領収書を差し出す。メリルは水を注ぎ足しながら微笑んだ。
「大丈夫ですか?近くですか?」
「ああ…寮だよ。歩いて行くから大丈夫」
「そこに座っていた彼女、可愛いですね」
「彼女?環か…」
 メリルは赤毛を揺らして微笑みながら親指を立てた。
 昇は領収書を財布に収めてふらふらと外に出た。すると大通りに出たところで、随分と待っていたような環が街路樹にもたれていた。
「待っててみた。任せっきりで、しかも見えない男とか、言いたいこと言ってたからね」
 環は素早く言ってから歩きだした。昇はあんぐりと口を開けたまま環の後を追った。
「昇ってさ…」
 昇は環の言葉をほとんど聞き取れなかった。
「昇!聞いてる?後ろついてこないで横を歩きなよ」
 昇がおずおずと左側に並ぼうとすると、自転車に乗った酔っ払いがぶつかりそうに擦過した。
「昇ってさ…好きな人いないの?」
「またその話しか」
 昇は言ってしまってから酸い息を呑んだ。
「生きていて楽しい?」
 これが環なのだ。昇の生活のフレームの内で不規則に飛びまわる蝶。その存在が時として煩わしいものの、家族や友人と区別されうる真新しい紺の制服のような存在。昇は環に対しての小さな怒りの一つ一つを考えるまでには至っていなかった。
「キスしたことないよね?」
 聞き慣れた音階の世界の崩落は突然にやってくる。環は時として無粋で猥雑な言葉を凛とした滝音のように降らせる。
「あのさ、誰かにキスしてほしい、とか思ったことある?」
 昇は聞き返した。
「え、誰かに、なんて?」
「誰かに、いい?誰かにキスしてほしい、と思ったことはないの?」
 昇は切符か小銭をなくしたときのように混乱した。
「誰かに…それは…」
 環はちょうど信号が変わったので地団駄ふんで言った。
「誰かを好きになったとかじゃなく、誰かにここ、自分のここ、頬っぺたにキスしてほしいと思ったことないの?」
 昇は両手で麻痺したような頬骨を揉み上げながら呟いた。
「キスか…してもらいたいと思ったこともないし、それをしたいと思ったことも…」
「ないの?」
 昇は腰をひきながら頷くしかなかった。
 環はまた声にならない笑いで前傾姿勢になって歩いた。そして分かれ道となる所で爪を噛みだした。思案した挙句、環はキーボードをうつ真似をしながら首を傾げた。
「メールでもやってみる?」
「鷺宮と?」
 環は悲しそうな顔でまた声をたてずに笑いだした。
「あたしって可哀想!なに言ってんの、昇、あそこ、ネアポリスのメリルとよ」
 昇はよろめくように寮の方へ歩きかけながら明確に言った。
「あんな太っちょ、外国の女なんか好きになれないよ」
 環はついに声を出して笑いはじめた。そして「外国の女ときたわ」を繰り返して右腕を振りまわした。折りよくタクシーが止まった。
 昇は乗り込む環の臀部を見送っていた。ドアが閉まると環は華奢な肩の上でまだ笑っている。走り去って二つのテイルランプが見えなくなると、昇の胸奥に「キスをされる」と「キスをしたい」という二つの言葉が浮かんだ。昇は額の後ろで二つの言葉を繰り返しながら寮の方へ帰って行った。

 電子メールという用語が、Eメールという用語にとって代わられた頃、昇は紺青のプラスチックを透して内部が見える流行りの「iMac」を購入した。
「メールでもやってみる?」
 昇は環が流し目をしながら言った言葉を思い出していた。メールをやるなら洒落たパソコンがいいと電器屋で勧められた。たしかに局内に居並んでいる薄鼠色のモニターから離れて寮に帰ってみると、随分と今まで形や色にこだわらなかった自分がいたことに気がつかせられた。
 昇が恐る恐る名古屋市内の男女とメールのやりとりをはじめた頃だった。
 環が受領証を整理している昇の机に青筋立った白い手をおいた。桃色の爪の間にグレイのメモ用紙が挟まれている。昇は小さく息を呑んで見上げた。
「ごくろうさま、メールやっているそうだけれど、どう、調子は」
「ああ、今度、グランパスの試合を見に行くかも…」
「グランパスの試合か、いきなりやるじゃない」
「だけど…実際に行くかどうか迷っている」
 環は臨席の椅子を引き寄せてメモ用紙を手の中に握りこんだ。
「あたしらしくストレートに聞くけれど、あまり可愛い子じゃないの?」
「可愛いも何も…ちょっと若いんだな」
「若い?いいじゃない、二十歳くらいとか」
 昇はあたりを見まわして声を唸るように低めた。
「高校生みたいなんだ」
 環は握りこんでいたメモを眼の高さに放り上げた。
「やるもんだね。その子はその子で十八歳以上だとかいってメールを寄こしたんだ?」
「いや、趣味の仲間でメールをやってて…グランパスを応援する仲間が紹介してくれたんだ」
 環は首を傾げながらメモを弾くように広げていった。
「大丈夫なの?お金がほしいとか…寝てもいいよとか、そのへんのこと言ってない?」
 昇は珍しく上目遣いに環を睨みつけた。
「まだ会ったこともないし…その子が売春しているってきまっているわけじゃないし」
「ごめん、そりゃそうだね」
 環はそう詫びて座り込んだような安堵を感じた。
「グランパスか、楢崎かっこいいもんね。でも名古屋ね…メールやるんだったら名古屋ってちょっと近くない?」
「そうだね…でも、近ければ会えたりするし」
 環は頷きながら腰を浮かせかけた。しかし皺くちゃのメモは単純に存在を主張している。しかも環と合わせられない昇の視線はそこに焦点をつくっていた。
「あたしってお節介かな?煩くない?」
「そんなことないよ」
「だったら、ストレートにまた言うけれど、そう、もっとストレートにやってみたら?だいたいメールなんてさ、そもそも女の子とキスしたいんでしょ?」
 昇は痺れが走ったように反り返った。
「キ…したい、ってそんな…手紙と同じだからさ」
「だからサッカー仲間にしても女の子と直接やればいいのよ」
「そんな…いきなりは…」
 環はくしゃくしゃのメモを机上に叩きつける様に置いた。
「よかったら、このアドレスの子とやってみない?昇のことだからそんなことじゃないかと思って、調べてきてあげたんだ」
「女?」
「京都の女の子だよ。からかっているわけじゃないからね。このアドレスなんだけど読める?」
 環がふわりと近づいて指がメモの上を小刻みに動くと、あの日向猫の匂いが何度も昇の鼻をかすめる。昇はお節介でいい匂いだ、と思った。そして局長の渋い顔が環の背後に現れるまで環の後れ毛の精妙さに見入っていた。環が意地悪そうな笑みを残していなくなると、昇はメモを丁寧に折りたたんで何故か財布の千円札の間に押しいれた。
「やめとけ、京都の女は、その…薄情だぞ」
 独身寮の森閑たる夜、向かいの部屋の先輩は躊躇しながら言った。先輩がそう言って股間を掻きながら昇の部屋を出て行ったのは十時だった。
 昇はやっと独りになると古紙のようになったメモを財布から取り出して鼻に近づけた。あの匂いはしない。あの匂いがしなければ一変に腐りたくなる。一瞬だが日々のすべてを宛名不明扱いにしたかった。
 アドレスのIDは「kyоjyо‐P16@××」とある。
 先輩はこうも言っていた。
「キョウジョっていうのは京都の女のことで、狂った女のことではないだろうなあ」
 昇は乾いた笑いを洩らすしかなかった。そして暫くアドレスが書かれた皺くちゃのメモを凝視していた。
 環は「からかっているわけじゃないからね」と言いながらも、環らしく軽くからかっているのだろうか。それとも同級生「安田の胡瓜」ことを思ってメモをくれたのだろうか。少なくとも高校時代のまま胡瓜のようで気持悪いと思っているにしても、心底嫌悪しているのであれば昇がメールを誰としていようと関知しないだろう。それに…「キスしたことある?」とか「キスしてほしいと思ったことある?」などと聞くわけもないだろう。そうだ、大なり小なり環が自分を気にかけていることは間違いない。昇は環にとって「見えない男」ではないのだ。これが環の気持ち、あの環の本心、いや、一抹の期待を抱かせるような女心など環には似合わない。これは環ならではの理(ことわり)なのだ。
 昇が京都の女のアドレスを打つまでにはそれから半時を要した。

                                       了
現代代数学概論 (1967年)

現代代数学概論 (1967年)

  • 作者: ガーレット・バーコフ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1967
  • メディア: -



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

セルゲイの午睡   Vladmir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

Сон Сергея 
 セルゲイ・イリイチ・アルマンド、これがシベリアの毒蛾アタカスの本名である。もっとも彼を「毒蛾」とか「CblHスィン(息子)」とか呼んでいたのは殆どがロシア人で、サハ共和国一帯ではヤクートの三番目の英雄「アタカス」で知られていた。一番二番ではない三番目の英雄ということは、華々しい経歴を携えた表舞台の英雄の姿には縁遠かったということである。本人もすでに高齢でヤクートらしい山野の歩猟を断念して久しいが、資源開発の波に乗って文化人類学者や生態学者などが訪ねてきていたので、再三にわたって連邦のヤクート自治共和国時代、とくにスターリンからフルシチョフの暗黒時代下の民族悲話を語って退屈することはなかった。
 その日の午後もフランスのTV局取材班を見送ったところだった。弁慶草の鉢を抱えながらベージュホート(難路無軌道車)上の女性取材員に手を振る。北極の朝鮮人参とも言われる弁慶草もフランス人には無視された。それにしても悲愴な面持ちばかりだった。彼らは放映する日程に追われていて、唐松や樅、所々に赤松が林立するタイガを確実に踏破すること以外に余念がない。何を畏れているのか、単独ならまだしも。蕎麦のカーシャ(粥)は意外に好評だった。フランス人とて元は農民だからな。蔓苔桃のジャムは売ってしまった、残り二瓶だったが。セルゲイは網戸の閉まりを確認してから遠吠えのような欠伸を響かせた。
 シベリアの夏は瞬きする間に初雪を見てしまうので、孫を連れてワタスゲや金鳳花が咲きゆれるツンドラ状のデルタを歩きたかった。しかし遥々遠方から小奇麗な連中が昔話を所望してミル8型ヘリに乗ってやって来るし、たった一人の孫は父親ヴァシリーが口うるさくてタイガやツンドラへ連れ出せないし、なによりセルゲイ自身がこのところは午睡に捕まっていた。
 正直に言えば歳をとっただけなのだ。撃たれて死んだ奴、癌になって死んだ奴、この二つの死に様ばかり見てきたセルゲイは、自分だけが午睡のまま死ねるとは思っていなかった。しかし宿命というものがありそうなのは少し感じてきている。やはり自分はエクセキュだったのか…幸運な双頭の烏だったのか…。そして日に日に午睡の入口に佇む自分の背が若々しく見えている。目覚めているときに語らされることが党の機関紙のように味気ないからだ。つまり被虐的な感覚が鮮烈で情けない若気の備忘録を語りたがっている。それもいいさ、息子夫婦と孫が帰ってきて俺が生きているかどうか揺すり起こすまで、誰に語ることもない痩せた若い狼の記憶を嗅ぎあてよう。
 セルゲイは犬のような匂いの毛布を引き寄せて呆けたように微笑んだ。
 夏なのに気がつくと心地よく寒くなっている。秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。この地を出て春秋を知れば焦燥を携えて長々と生きたくなる。あの時も生きようとして弾を咬んでいた。
 誰にでも生きるために競い合って堕し抜いて譲れないときがやってくる。セルゲイのそのときは赤軍兵士として召集された年と断言できる。それは誰もが記憶する忌わしい1941年の翌年だった。ドイツ軍の侵攻は戦線の拡がりを持ったせいか鈍重になっていて、必要な分だけしか狩をしない果敢なヤクートを厭かせる軍略争鳴の日々だった。初年兵セルゲイはエニセイ河以西、つまりクラスノヤルスクから西へ自分が銃を背負っていくとは思っていなかったので、西部戦線下の低緯度にしてキエフに近いところ、そう伝えられても自分がいる位置が分からなかった。一昨日見せてもらった大陸の地図の広大さに些か困惑してしまったということもある。そして異国で自分の位置が分かってみたところで、生きた我が身をヤクーツク方面行きの列車に乗せられるかどうか、という諦観が侵してきていた。
 あのときは敵も味方も居眠っている午後だった。セルゲイは塹壕の土壁を穿って舐めてみた。自分の村ミャンディギ周辺の土壌にある酸化鉄の味があまりしなかった。そこへ初年兵を自ずと統率しているミハイル・イヴァノフが寄り掛かってきた。
「何かの蛹でも見つかったか?何でも食っちゃだめだ」
 セルゲイはヤクートらしい馬面を睨みつけた。誰もが彼を好人物と口を揃える。ミハイルは苦笑しながら自分も土壁を穿って舐めた。
「セルゲイ・イリイチ、おまえがアルマンドの息子か、そうだな。機嫌がわるいな…おまえのことは鍛冶屋の息子が教えてくれたのさ」
「ガヴリエルを知っているのか?」
 ミハイルは頷きながら足下を穿って舐めてみせた。
「俺たちの土と違って老けこんでいる…ガヴリエルの父親、アレクサンドル・ザハロフに言われたのさ。エニセイ河から西は悪霊だらけだから若いエクセキュを見守ってやれと」
「若いエクセキュ?」
「何も知らないのもアレクサンドルが言ったとおりだな。エクセキュは我々ヤクートと他国に跨がって束ね治める双頭の鳥、おまえのことだ」
 セルゲイは御大層な古参兵から離れようと弾を装填しながら言った。
「…俺が知っているのは、俺が淫売の子だってことさ」
「巷ではそう言われているらしいな。俺達もそんなところで話を終えたかった」
 セルゲイは汗ばむ陽気の十月があることを知ったばかりだった。
「何を言っている…お前ら根っからのヤクートは古臭いくせにお節介野郎が多い」
「そうかもしれん。無事に帰れたら、もう一度、ミャンディギ村に寄っていこう」
「ミヤンディギ、あそこは俺の村だ」
「知っているさ」
 ミハイルは最初の招集で腕を見込まれて上官のアルマトゥイ行きに同行していた。北緯四十度以南の乾燥地帯も肌身で知っている。苛立って腰をあげたセルゲイを倒すように引き下げた。まだ小僧扱いされても仕方なかった。
「畜生!ミハイル・イヴァノフ様の言うことは聞け、聞け、聞けと」
「弾が飛んでこない今は聞いてもいいだろう、信じるかどうかは勝手だが」
「俺はガヴリエルだけを信じている。ガヴリエルはヤクートのなかで一番賢い奴だ!」
「ほお、それで?」
「いいか、ガヴリエルは俺と一緒にマルクスを読んでいる」
「それで?」
「奴は、あの親父さんのような…霊媒師の飾り物作りだけはしたくないと言っている。そうだ、奴はマルクスを読まなくちゃならない!」
 セルゲイの争う豹のような喋りに塹壕内が舌打ちしはじめた。
「分かった。ところで、おまえが読んでみてマルクスっていうのはどうだ」
「あの訳はなんとかしないと…マルクスはユダヤ人なのにドイツ人みたいな書き方で、ガヴリエルも失明しそうだって言っていた。ドイツ人はヤクートよりもお節介野郎なのかもしれない」
 ミハイルは褒め言葉と解してもいいと思いながら甲高い笑いを響かせた。
「分かった。ところで、昨日、今日と攻めてくるドイツ軍はどうだ。スターリン閣下や、あの青白い大尉が言ったとおりだったかい?」
 セルゲイは躊躇しながらも首を振った。直に交戦して二週間経っていたが、彼のドイツ軍の印象は皆が非難する精悍なお揃い制服とはまったく違っていた。彼等の死体のひとつひとつの顔は明らかに後悔していた。節度を持っていた強硬な野蛮さが、阿鼻叫喚ばかりの脆弱な野蛮さに囲まれて困惑している顔。ドイツ兵はヤクートのような酔っ払いの肉食獣ではなく、理性的で疑り深い移植したばかりの農夫のようだった。疑り深い農夫の奴らがヤクートのような猟師と撃ち合って……。
 セルゲイは耳元の蚊音に目覚めた。頬下に寄ってきたそれを叩き潰して満足そうな吐息を洩らす。しばらく血に滲んだ指腹を木肌のように見ていた。

 セルゲイは浮腫んだ右足首を気にしながらも、網戸を右爪先で蹴飛ばすようにして表へ出た。氾濫するように押し寄せてくる蚊雲を掻き分けて見上げる。やっぱりアントノフ24だ。ヤクーツクからチョクルダフへ向かっている双発機だ。晴天の頭上を行く銀翼の雄姿はいつも胸を高鳴らせていた。
「取材を受けていいわけだね?どこかに行かないでくれよ、この前みたいに」と言って息子ヴァシリーは背後で煉瓦大のトランシーバーを翳した。
「森林消防隊のアラキ、奴は本当にいい奴で日本人だから恥をかかせないでくれよ」
 セルゲイは「日本人」に反応するように振り向いたが、そのまま「スグリでも採ってくる」と呟くように言って柵の出口へ向かった。老い背を見守る息子の一丁前な嘆息も慣れたものだ。それもそのはずでヴァシリーも四十半ばになっていた。
 家の背後は下枝が少ないダフリア唐松なので見通しはよかった。しばらく明るい林床をよろよろ歩いていくと、ヤクート語でいうバイジャーラーヒー(凍土沈下地帯)に迎えられて意気消沈する。一昨年までの辺り一帯は、桐桧(とうひ)や樅が鬱蒼と構え寄ってくるタイガそのものだったが、夏前の火災でなぎ倒すように焼失してしまい、直射日光が永久凍土を融かして崩した痕である。立ち止まると右足甲の古傷が疼いてよろめかせた。そのまま左足下が小さなアラス(凹み)へ崩れかかったので、古傷を忘れて踏ん張ると叫ばんばかりの激痛が走った。泥の斜面を鼠のように抗ってみるが、終わっている膝はすぐに諦めて滑り落ちるに任せるしかなかった。痛みが鼓動に呼応していて息切れを誘うが、斜面の滑り痕を見上げていると可笑しくなる。しばらくして右足の痛みは泥に冷やされて退いていったが、白髪頭や頬、そして肩の泥飛沫に気づくと、トナカイの糞に転んだ幼時を思い出してまた笑った。
「転がった、トナカイのくそじゃあるまいし…しかし、この塩味はまずまずの塩がある証しだ」
 夏なのにアラスに転がれば心地よく寒くなる。秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。そしてアラスの一つ一つに塩原の予感を見ようとして泥を舐める。ドイツ軍とやりあっているときもこうして泥を舐めた。しかし日中の塹壕は蒸暑く生温い泥には塩味も感じなかった。あの茹ったような暑さこそ危うかった。
 あのときは援軍を待っていた。あそこはツーラというところだった。傍らには同い年のチュクチ族の奴の遺体が転がっていた。前日に慰問舞踏団と楽しく踊っていた奴だった。踊っていた奴の笑顔、運の良さそうな顔だと思った自分に、きりきりと苛立っていた。ついにキエフの大門は拝めなかったが、ツーラ郊外で遺体に石灰を撒きながら援軍を待っていた。
 援軍はなかなか到着しなかった。援軍は幽霊の援軍じゃないのか、の囁きに石つぶてが飛び交う。ナポレオンは幽霊の援軍に追い返されたわけだ、の呟きに押し殺した笑いが跳ねる。大尉が降ってきた雪に微笑んで、援軍が来たよ、と優雅に言ったとき、一斉に舌打ちが連打された。そして翌朝はヤクートにとっては清澄に凍てついていた。ドイツ人も同じ人間だとしたら、奴らは痛いほど凍てついて動けないだろう。弾を拾いに豹のように動けるのはヤクートだけだ。そんな考えたくもない現状から夢のような家族まで、兄貴分になっていたミハイルと性懲りもなく語り明かしていた。
「俺がエクセキュだっていうことは意味があるのか?」
「死ねば意味はないさ、足下に気をつけろ」
 セルゲイの両脚は狐のように敏捷で罠も死体も難なく跳び越えた。
「アルマンドっていう女が産み落とした子供だっていうことも死ねば…」
「ああ、意味がなくなる。もとより酔っ払いのロシア人が言ったことなど」
「子供ってそんなものなのか?」
「そんなものだ。しかし、子供にも言い分はある」
「そりゃそうだ。もし俺が親父だっていう奴に遭ってしまったら…」
「もし本当に国父さまの落とし種なら、会いたかったら党の機関誌を捲っていつでも会える。写真どころか、あちらこちらの銅像になっていて、いつでも会えるかもな」
「銅像?そんなものが立ったら前と何も変わりはしない」
「いや、銅像くらいは立つだろうな…ドイツ人を追っ払えばだが」
 ミハイルはそう言いながら火炎放射器で焦げた柳の枝を凝視していた。
「こんな今なら何でもいいさ。もう国父さまでも預言者でも、誰の子でもいいさ」
「随分と苛立っているな。はは、もっとも、二時間後には二人揃って肉の屑になっているかもしれないからな」
「そんなことを言いながら、よくも笑っていられるぜ」
「はは、苛立っているということは、諦めていないということだ」
 前方で戦争を忘れるなと言わんばかりに手榴弾が軽薄に炸裂した。
「俺がずっと何に苛立っているか分かるか?お前らヤクートの神がかった言い方だ」
「それがヤクートだ。仕方ないだろう」
「その…都合よく丸め込んでしまうっていうか、身近な自然を取り込んで、無意味な俺のような存在にまで、何かしら意味があるような言い方をする」
「存在、ときたか。マルクスを読んでいる奴は難しいことを言う、はは」
「笑うな、俺やあんたが生まれてきたことに意味があると思うか?」
「意味か…」
 ミハイルは塹壕の隘路で狙撃銃を構えた。嫌な呼吸音がした。音の方へ慎重に間合いを詰めると、はじめて見るロシア人少尉が鮮血まみれで息も絶え絶えだった。瞳孔が見通すように開いていて、今や全世界が彼の眼中にある。少々疲れたヤクートの中年ミハイルと、ここに至っても不審に燃えている青年セルゲイは、その憔悴へ付き合って最後を看取ることにした。
「おまえと銃を抱えて話していると、俺は親父を殴り倒したことを思いだす。親父はキュンディア村で若い女に貢いでいた」
「羨ましい、殴れる親父がいたのだから。俺くらいの歳かい?」
「もっと若かった…親父はアルコール中毒で死ぬまで、殴られた耳下を指しながら、ここがもとで死ぬだろう、とそればかり言っていた」
「ふっ、仲よく暮らしましたとさ…いい親父さんだったわけだ」
「そうさ、そんなものだろうさ、父親と息子なんて。脈は止まったか?」
「まだだよ、ひくひくしている。あっ…止まった。随分頑張ったな…」
 セルゲイは舌打ちしながら将校の銃から弾を抜きはじめた。
「人間はそう簡単に死なない…この俺にも去年、クジュムっていう息子ができた」
 ミハイル・イヴァノフはそう言いながら皿盛りするように死者の指を組ませた。
「あんたこそ死ねないじゃないか」
「死ぬものか、ロシア人とドイツ人のこんな戦争で」
 ミハイルがそう言って口端を歪めた瞬間、近い炸裂音が二人を少尉の胸元に伏せさせた。
 セルゲイは愕然と目覚めた。やっぱりアラスの泥底じゃないか。泥底から虚空を見上げる。右手はやはり銃を捜している。まだ猟をして駆け巡っていた頃は、大樅の寝床で目覚めてもまずは銃を捜した。そして抱えていた猟銃を擦りながら、何故か突撃銃の不在に戦慄していた。それがこんな醜態を晒すような歳になってみると、夢の中に突撃銃を忘れてきて微笑んでいた。
 
 セルゲイは湯が沸くまで、嫁タチアナと孫アレクの会話を聴いていた。タチアナは傍目には常態に見えていたが、母親らしい筋骨の奥に二人目を身篭っていた。小柄だが陽に翳した氷楔のような澄んだ眼を持っていて、亭主ヴァシリーの傍らを赤鹿のような機敏さで動きまわり、こうして面倒がらずに鉛筆を取って利発な息子に応えている。あの本の虫のヴァシリーが、こんな娘を見つけてくると誰が想像しただろう。確かに、貴石も人間も河の引きずりを待っているだけでは、驚くようなものには出会えない。知ることに旺盛な者は旅に出るべきだ。生意気盛りだった頃のヴァシリーの旅先、タチアナが生まれ育ってヴァシリーと出会ったフロヴディフ。ブルガリアのその町には、居眠っているような春があるらしい。セルゲイはフロヴィディフという町の軒下で、葡萄の酒を浴びるように飲んでやっと凍え死ぬ自分を想ってみた。
「その…フロヴィディフとモスクヴァでは、どっちが古いのかな」と呟くように口にしてしまった自分にセルゲイは些か恥じ入りながら座り直した。
「いや、ここからの距離だと、フロヴィディフとモスクヴアではどっちが遠いのかな」
「古いのはフロヴィディフ」とタチアナは義父の方へ一瞥もせずに言ってから蚊を叩いて微笑んだ。
「距離は直線にしたら、おそらくモスクヴァの方が近いでしょう。行くのだったら南の方へ、フロヴィディフへ、パリよりも南にあるのよ。いつか行こうね、紅い葡萄酒を飲みに」
「酒は透明なものがいい」と半ば照れながらセルゲイは右足を擦ろうとした。
「この足じゃ、クラスノヤルスクから先へは無理かもしれないが…そうさ、今のご時世、アントノフのような飛行機があるからな。そうさ、そのフロヴィディフとキョウトではキョウトの方が近いだろう。地図を見て知っている。古いのはどっちだろうな、またフロヴィディフなのか?」
「フロヴィディフは六〇〇〇年よ。キョウト?六〇〇〇年前のヤポン(日本)には、まだ人がいなかったと思うよ、ちょうどこの辺みたいな感じで」
 アレクが驚愕するほどに母と祖父は吹き出した。この辺りと比較された町という町は、憤りを越して気も狂わんばかりだろう。ロシア人のように身の程知らずな言い草だ。つまりロシア人も扱いによっては、こんなふうに可愛いものだということだ。葡萄の搾り滓でも透明で九〇パーセント以上があったら、毎日の法螺話の中で月まで行ってしまう。ロシア人も飲んでばかりいないで、風呂に入れば大法螺を押さえこめるのに。それにしてもヤポンは海へ落ちそうなほど人がいる島国らしいが、この辺りの部族によっては海を見ずに死ぬ女房や子供がいるというのに…。タチアナとセルゲイの笑いは、軽佻なまま輪唱のように広がっていった。
 セルゲイが残り香のような笑みをもって湯の中の右足を揉んでいるときに、ヴァシリーが珍しく酔ったような口調で賑やかに帰ってきたのが聞こえてきた。日本人がやって来ると言っていたな…確かに話せること話せないことの分別は猟師にとって大事だ。いくら坊やが、ブーグニアーフ(小山)ほど本を読んでいるといっても、近眼の日本人には敵わないだろう。それに日本人は、酒が弱いくせに飲んでも計算は間違えないらしい。そんな日本人がまたやって来る。しかし奴らの顔は好ましい、ロシア人はむろん、中国人よりも好ましい。セルゲイは我慢できなくなって髭剃り用の手鏡を取った。
 頬骨はまだしっかり突起していて、国父の落し胤伝説を彷彿とさせるが、顎先は細まって死に際の狼のように微々と戦慄いていて苦笑させた。この世の馬鹿馬鹿しさのすべてがここにある。誰の顔でもいいじゃないか。いっそうのこと、セルゲイ自身が日本へ行くべきだったのかもしれない。日本の京都…その古いという町にも、このような痩せ狐の顎が空に向いて、鳥を撃つしぐさをしているのだろうか。
「ガヴリエルよ、俺もやっと脚を切れそうだ」とセルゲイは呟いてから手鏡をタオルの上へ放った。そして落ちるように肩まで浸かって、両手で腹の上の湯を顔に浴びせた。
「ガヴリエル…ヤクートも嫌いだ、おまえらばかりが精霊と仲がよくて。さっさと脚を切って、さっさと死んでしまった、トナカイを捌くように」
 戦地から象皮のような背嚢を背負って無事に帰還できると、今だグルジア風革命劇に乗じてエニセイ河以西は騒々しかったので、虎の子であろうと狼の子であろうと、ヤクートの中に捨てられたことを感謝するしかなかった。時代の鍋を掻きまわす奴はもとより貪欲である。しかしヤクーツクにコサックの砦があった大昔と比べれば、時代の遣り過し方はまだあった。クレムリンの鉤爪がついた暴尾は、北極圏へ向けて乱雑に振りまわされていたが、ロシア人のために戦わなくていい日々のマローズ(吹雪)は頬に凪いで感じられた。
 村にはトナカイの角突きに追い立てるような若々しさが戻った。セルゲイはガヴリエルの脚のことだけを思い悩んでいた。しかしガヴリエル本人は、戦地に赴けなかった鬱屈を払い捨てるように華々しく振舞っていた。あの日は隣の婆さんが弁慶草の根のアルコール漬けをちょっと分けてくれた。セルゲイは最初に打ちあげた長刃ナイフの柄に、固有の紋章をあしらうべくガヴリエルを訪ねたのだった。
「大天使、脚の具合はどうだ」
「脚か…この脚は切ることにきめた」
「切るって…何とかならないのか」
「あそこで話し込んでいるニコンもお手上げだと言っている」
 幼い頃は仔狐のように可愛かったニコンも、真似ているのかトロツキーのような眼鏡を光らせていた。
「ニコン先生じゃなくて、ヤクーツクの医者は何とかできないのか?」
「ヤクーツクの医者…あのロシア人か、あの羆のような医者は、ニコンよりも早くから切るしかないと言っていた」
 世界中の男が彼のように日に三度、微笑めばいいのだ。ガヴリエルという男は、隣にいてそんなふうに思わせる男だった。足腰を無駄に踏ん張れて、魚影を一日追っては次の一日飲んだくれている奴よりも、我らがガヴリエル。笑い疲れたような眼で、使えなくなった脚を嘲る奴をそっと見守るガヴリエル。人間というものは、この手の雄が雌に気に入られると思いたい。レナ河の河口の筏住まいの女から、遥か南の船住まいの女まで、この手の男を気に入るのだ。
「セルゲイ、そんな顔をするな」
「俺一人で猟に行かせるつもりか」 
「猟?猟はもうできなくなるが…俺達はいつも一緒だ」
「だいたいニコンはおまえの右脚の精霊を見たのか?何故だ?何故笑う」
「嬉しいのだ、おまえが帰ってきて、こうして俺と話している…ニコンは精霊を呼び出せないそうだ」
「あの野郎、ポントーリャギンの再来だとか言われたものだから、調子にのって自分を天才だと思っていて、挙句は医者になろうなんて余計なことを考えるからだ」
「医者は必要だ、霊媒師はあちらこちらにいるが」
「まあ、そういうことなら、俺はスターリン閣下からまたお呼びがかかるまで猟に精をだすさ。俺の紋章はもう決まった」
「聞いてくれ、セルゲイ」
「俺の紋章もザハロフ一家と同じ山椒魚で、親父さんには俺から言っておく…そしてその山椒魚の背中に、おまえの右脚の血でおまえの名前を残そう」
 ガヴリエルは優雅に首を振って否定していた。すべてを見通しているような微笑と遠くへ投げかける繊細そうな指使い。その指の先には風変わりなあの男がいた。
「ヨノはここならスターリンの手も及んでこないだろうと言っている」
「ヨノ?ニコン先生の次はヨノか。たしかインドネシアとかから来たヨノ、本当は赤い星から来たかもしれないヨノ…」
 ヨノが蚊避けの干草を選別しながらニコンと話していた。預言者のように襤褸の薄着で剃髪していて、流離人らしく日に焼けた顔をいつも人の背後に置いていた。ヨノが村に来た本当の訳は誰も知らなかった。ガヴリエルが訊いたところでは、ずっと南のインドネシアの民ということだった。遥か南の船住まいの女の話も、ガヴリエルがヨノから聞いたことだ。ヨノ本人が語ったことでは、胡椒の木々と引き換えにオランダ人に売られ、オランダ人から物好きなロシア人商人へ売られて、ハバロフスクで逃げ出した時は十七歳くらいということだった。若いセルゲイがそのときに見たヨノは、肌艶のいい華奢な老人に見えていた。
「そしてヨノが言うには、スターリンの時代が終わったあとには、二〇年から弾圧されたイコンの宗主教の教父や学者の名誉も、それから特別収容所扱いになっている修道院も、すべて元どおりに回復するだろうと」
「イコンが何だって?…はは、どうしたんだ?ヤクートかエヴェンキの族長の言うことしか聞くに値しない、と言っていたのはおまえじゃないか」
「ヨノの言うことには、マルクスが書いたもののように説得力がある」
「説得力?戦争から帰った猟師に説得力…マルクスか…それを読むおまえは、イコンを拝むわけでもないのに大天使の名前を持っていて、今度は南から流れてきたヨノの昔語りに耳をかしている」
「笑うな、ヨノが言っていることは、ロシア人が信じてきた宗教が回復するくらいなら、ヤクートやエヴェンキ、その他の部族が生き甲斐にしてきた自然への信仰が…」
「笑うなと言ったって、はは…そんなことならサーシャ・ペトローヴナも俺に言っていた。ロシア人の血が混じるおまえなら、キリストがグルジアの閣下に鉄槌を下す日が近いことは分かるだろう、ってな」
「サーシャは今度の戦争でロシア人の旦那を亡くしているから…彼女も期待しなきゃ生きていけないんだ。それに知ってのとおりサーシャの母は優れた女の霊媒師だった」
「そしてヨノも、あの爺さんも霊媒師だと?」
「ヨノが言っているのは、自由な時代がくれば学問ができるっていうことだ。そして俺達が学問にまで作りあげることができるのは、自然への信仰を許にした部族の伝承だろう」
「部族の…伝承?俺はロシアの淫売女の置き土産だぞ」
「そんなことは徴兵官が酔っぱらって言ったことだ。俺は親父から聞いている、ロシア語を話せる若い日本人女性が、赤子を抱いてアルダン川の方から来たと」
「ああ、俺も何度かおまえから聞いたような…」
「そのときに乳母代わりの太ったロシア女を連れていて、そのロシア女がアルマンドという姓で、レーニンの愛人の姓と同じなだけだ」
「母親が日本人なんて信じられるか…鉄道を敷いている南の方には、アムール河(黒竜江)の向かうから連れられてきた日本人捕虜が、ざわざわトナカイのように群れているってさ」
「そうらしいな…日本が今度の戦争で降伏するとは思っていなかった。日本で学ぶことは…俺の夢のまた先の夢だった」
「日本人はヤクートにそっくりだっていうからな…おまえが行きたいのは日本のキョウトだっけ?」
「ああ、古い都市らしい。俺はおまえと本を読んだり、詩や言い伝えを書いてきて、分かったことがある。おまえの記憶力と知識を欲しがる性格は、母親、日本人の女性のものだ。それに、紋章のことを言っていたが、日本の木の葉は、南の方なので赤茶色になるらしいな」
「何を言いたいんだ?俺はもう戦地から帰ってから、ヤクートでもいいと腹を括ったんだ。だからおまえの一家ザハロフと同じく岩の奥の山椒魚を…」
「おまえはアタカスだ、俺達とは違う。おまえは、日本からこのシベリアの大地へ飛んできた蛾だ。赤茶の羽に烏の眼模様を入れた蛾だ。俺達のエクセキュにして、この上を舞う大いなる蛾アタカスだ」
 タイガに灯されたような野火に蛾が妖しく舞う夏の夜、それは凍土の上に選ばれた者の心象なのだろう。セルゲイは翌夕に渋々とアタカスを拝命して、親友が縋りつきながら懇願した大蛾を紋章とした。
 ガヴリエルはその年の十月に半ば笑いながら脚を切り、それから絵の才を買われてヤクーツクの民芸品工房で八年生きた。ミャンディギ村で死ぬためにガヴリエルが帰ってきた時、耳が聞こえなくなったヨノは、今でも思い出すと身震いするほどに感動的な降霊術を執り行なった。村人や周辺部族に賞賛されたヨノは、しばらくして後、芝居を書いたニコン先生に言わせれば、来た時のように樅の蔭にまぎれて消えてしまった。
 純粋なものだけが悠久であろうとして精霊や神格や権力、そして余命までをも一夜の祭壇に捧げる。だから秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理だろう。ヴァシリーが様子を見に風呂場の板戸を開けたとき、セルゲイは微苦笑を湯船の喫水に浮かべていた。

 冒険する者は、せめて足手纏いにならぬほどの息子一人はもうけておくべきだ。男の咬みつく先が、宿命にしろ腿肉にしろ、その気性は立派に遺伝する。父の反抗が優れていれば、残した爪跡は息子が成文化して白日に晒される。子の反抗が優れていれば、父の爪跡を辿る瞬間の喜悦は垂直下へ抜ける。男の本質がこういうものでなくて何であろう。セルゲイをこういう感慨に浸らせたのは、チュクチ族の作家ジョージ・アットイトと彼が持参した馬乳酒かもしれない。
 昼前にガヴリエルが書き残した「アラス詩集」を渋い顔で整理していたときだった。窓辺を長髪と顎鬚に埋もれたような迷彩服の男が笑顔で通った。しかも手首ほども太いタイヤの自転車を背翼のように担いでいた。絶滅したと噂されるヒッピーもどきの大概は、息子ヴァシリーの客である。案の定、しばらくすると頼み事があるときの上擦った声でヴァシリーが入ってきた。後ろには肩に泥をつけた特殊部隊の格好の奴が歯を見せている。セルゲイは紹介の中途に手を握りながら泥を摘み取った。
「父はイワン・アットイトです。あなたが息を殺して狙撃する瞬間は、何度も聴かされました。あれがその銃ですね。初めて見る銃だな、トカレフだとばかり思っていましたから」
 セルゲイは歯切れよい淀みない口調に少々落胆しながら、モシン・ナガンの改良銃M1891Гが架かる壁を眠そうに眺めた。
「親父さんとは一晩だけ飲んだことがある、二十年くらい前かな。テフニクムの教員とか言っていたから、ヴァシリーの大先輩じゃないか。そうそう、数学に秀でていたとかで…頭のいい親父さんが、あのときは何のためにこのあたりへやって来たものか」
「そのへんを聞きに来たのです」とジョージは襟を正すように楚々と隣へ座った。
「私は九八年にカナダのアルバータへ渡って生活をはじめて、翌年九九年に父の訃報を知らされました。クラスノヤルスクの自宅前の側溝にはまって凍死していたらしいのですが、別居していた母は故郷のポツダムの方へ戻っていましたから、死因も確認できないままチュクチの生まれ故郷へ、そのまま骨を送るしかなかったようです」
「チュトコの方から来てオムスクあたりまで…優れた人は気がつくと故郷からは遠くなる宿命なのだよ」
「銃はどうだったのでしょうか」とジョージは些か意気込んで聞いてきた。
「あなたほどじゃなくても、父の銃の腕も相当なものだったのでしょうか」
 大概の人は、記憶ほど厄介なものはないと思えるのは中壮年までだと高をくくる。それは経年の乾燥がフレスコ画を大々的に削るように、老いが誰にでも等しく享楽辛苦の記憶の剥がれを促がすという錯覚である。白けたフレスコ画ではない民族的な記憶というものがあるのだ。それは結して大袈裟ではない血を滲ませて刻んだ洞窟画のような記憶である。セルゲイは自分のそれが永久凍土のように頑徹なことを知っていた。
「わしは君の親父さんが銃を撃ったところを見ていない。それに、わしの狙撃がどうのこうのとか言っているが、わしは二、三人のヤクートが傍にいるときしか銃を撃っていない。親父さんは教師だったから子供たちに聴かせるために、映画みたいな派手なことを言い慣れていたのかもしれないな」
 ジョージは髭の下で興奮を増していって額を汗ばませていた。
「作家として父の時代にあったことを知りたいのです」とヴァシリーの方へ向いて懇願するように言った。
「いきなりお邪魔して不躾ですが、その手許のノートは『アラス詩集』となっているじゃありませんか。見せてくださいとは言いませんが、ガヴリエル・ザハロフが優れた詩人だったと知らせてくれたのは、あなた方親子じゃありませんか?私はヤクートの伝説の『赤斧のジュチ』のことなどを、もっと明らかにイメージしたいのです」
 セルゲイは震える左手を詩集のノートの上に置いてから窄まるように目を閉じた。分からん坊やだ、ヤクートの伝説を聴くのであればヤクートに限るのに、ロシア人もどきのセルゲイ・イリイチ・アルマンドのところへ来ている。それにアメリカ帰りの作家か何か知らないが、チュクチはチュクチのことを取材して書けばいいじゃないか。派手な話が欲しかったら、ヤクーツクやマガダンに幾らでも転がっているじゃないか。それこそ親父イワンが果てたクラスノヤルスクでも、そう、聡明で不思議な感じだった、イワン・アットイトは。ここはひとつ年寄りらしく賑やかに逃げ出すとするか。
「アレク、馬に乗せてやろうか…」とセルゲイは呟くように言ってから声を荒げた。
「駄目だ、ゼルキンのところへは行っちゃいかん!蚊も蝿も多すぎて、森の中と大差ないわ!ああタチアナ、コカ・コーラを飲ませてくれ…」
 ヴァシリーは手慣れた笑みをつくろって父の背後にまわった。アレクが母親タチアナと検診に行っていることを耳に吹きかける。そしてジョージの肩をたたいて自分の部屋の方を指さした。セルゲイは熱気が部屋を出ていくのを何年でも待つつもりだった。
 気がつくと言葉が黴のように周りを遠ざけて、夏なのに心地よくわが身を寒くしている。そして秋を知らないヤクートが生き急ぐのはシベリアの理。しかし記憶はこのまま独り眠らせてはくれない。ガヴリエルと話したい。チェーホフのどたばた劇のように、一時間は女の話がいいな。場所は馬小屋。蚊払いが厄介だが、夏の馬小屋はいいな、もう隣のエヴレエモフのところにしか馬はいないが。俺たちの楽しみは、夏の馬小屋とデルフィニウムが咲き揃う河岸までの遠乗りだった。まず女を馬小屋へ連れていって、鼻を膨らませたヤクート馬にご対面させる。大抵の女は、その長い睫毛と湯たんぽのような鼻に優しさを見てしまう。リューバもそうだった。跨りのって、一九〇五年も斯くのごときと叫び慄き、花園まで連れていかれて、一九一七年も斯くのごときと厳かにキスを下しめる。そうだ、マトリョーナもそうだった、ガヴリエルのマトリョーナも。
 その頃のセルゲイと村の日常はまさに愚かで劇的だった。知識人ガヴリエルも酔って奇声をあげることがままある日々だった。あの日のセルゲイは、ガヴリエルの親父アレクサンドルの昔話を一人聞きながら飲んでいた。ガヴリエルが都落ちの女に会いに行ったことを知っていたので口に油断はなかった。そして忘れもしない翌朝、蒼白のガヴリエルが堂々と金髪マトリョーナを連れて帰ってきたのには驚いた。
「親父を怒らせちゃったようだ」
「そりゃそうだ、羆のかわりに金髪の乳房を持ってきたのだからな」
「俺にもこんな度胸があったなんて…」
「おまえは度胸があるさ。度胸があって頭がいい」
「頭がよかったらロシア人の食道楽な女なんか連れてくるか」
「何を食らおうと、何を抱こうと、いつもおまえは俺の誇りだ」
「よくも言ってくれる。おまえは俺の、いや、俺達の双頭の鳥だ」
「やめてくれ、またエクセキュの話か」
「いや、誰も生まれついた系統系列にはさからえないさ。見ろ、この女を、マトリョーナ・スヴェトワっていう強欲で美しいロシア人の系列だ」
 網膜の裏で笑っていたガヴリエルの背後に火柱が上がった。また空騒ぎの夢だ。しかしエクセキュであるセルゲイは畏れない。それに立派に大人になった息子ヴァシリーが傍らにいる。客人はどうした?ヴァシリーは炎を樅の枯れ枝のように折り伏せてしまった。空騒ぎの夢ならではだ。そして骨灰のような埃をたてて古い新聞紙をひろげて読みあげる。
「クラトン4は一九七八年八月八日、ビリュイ河とレナ河が合流する近くのコバールにて実施された。使用されたのは六・一五キロトンクラスのプルトニウム型原子爆弾…」
 愕然として新聞に覆い被さるヴァシリー、愚かしい夢だ。ヴァシリーも世間も俺から何を聞きたいというのだ?それにアットイトの息子はどこへ行った?目覚めなければならない。しかし伝説のジュチの潰れ声が、雪のように降り落ちてくる。愚かしい悪夢だ。
「若いの、長生きしたかったら、俺を殺せそうなときには確実に殺しておくことだ」
「長生きなどする気はないさ」
「まだいい女に出会ってないようだな」
「そうでもないさ。先月、二週間前だったか、ここでいい女に会ったよ。なんでもモスクワ大学の研究員とか言っていた」
 ジュチが唸って斧を振り上げた。観念するしかなかった。シベリアの河川が浸食する河岸には、凄まじい断面美がある。凍土に落ちた指一本ほどの氷の楔。いつも氷楔はジュチの斧を思わせた。象牙ほどもある氷楔が、二百年越しだということを教えてくれたのもジュチだった。
「馬鹿な女もいたものだ。そのヤクートらしくない顔にまんまと騙されたんだろうよ」
「言ってくれるぜ。そう易々と俺になびいているわけじゃなくて、雷帝に似た小鹿顔の教授が煩く纏わりついているらしい、女房持ちのくせに」
「だったら、若いのはどうする」
「教授を殺すしかないか…」
「やめとけ。その教授とやらにサハリンにでも行ってもらいな」
 シベリアのすべての花を知るリューバの父親、それがジュチのもうひとつの顔だった。そのリューバが残した一粒種ヴァシリーがまた古新聞を広げる。
「一九八四年三月×日、ミールヌイ近郊のダイヤモンド鉱山にて、重金属廃水処理のための沈殿池ダムを建設するにあたり、二五キロトンクラスのプルトニウム型原子爆弾を使用…山塊斜面は崩壊したがダム造成は中止…」
 ご立派になったものだ、本の虫のヴァシリーが。しかしアタカスに話すことはない。悪夢などはない、苛む記憶が腐食し続けているだけで。
 博物館を出て野外に寝る研究者は、せめて足手纏いにならぬほどの息子一人はもうけておくべきだ。ロシア人にしろヤクートにしろ、虎や豹を美しいと思う気性は立派に遺伝する。茫然とするヴァシリーは、母リューバが残した言葉をどれほど実感するのだろうか。
 果たして残された時間、ヴァシリーにどれだけリューバのことを語れるか。
 リューバは遥か南でアムール豹を追うのに疲れ果てて、父親が虎のように徘徊するヤクートの山脈へ惹かれるように来てしまった。出会ったばかりの頃、赤茶けた髪を男の子のように短く刈上げていた。セルゲイが好んでいるのを知っていてか、両の鬢だけは口許をくすぐるほどのばしていた。金毛が輝いて氷楔を竦ませる怜悧な顎、緑青色の甲虫を捕りこんだ琥珀のような眼は凄ぶる知的で美しかった。背が高くてテフニクムの少年のように若々しく強壮で、機転がきいていて楽しむことを知っている可愛い女だった。
「穴を掘らせるために俺を連れてきたようだな」
 モスクワ大学永久凍土調査技官室の分室、二人だけのピンゴ研究所を建てるべく凍土に鉄楔を打ち込んでいた。ヤクートが言うブーグニアーフという凍上丘陵現象を、リューバたち専門家はイヌイット語のピンゴと言っていた。そして何の研究であれ小屋を建てる幸福に痺れそうなセルゲイがいた。
「底の底まで掘る気なら白熊のようなロシア人を連れてきていたわ」
「ヤクートの熊殺しを連れてきたのは?」
「さあね、あたしにも四分の一だけヤクートの血が入っていて、その血が、こんな所にまで呼びつけているのだとしたら…」
「分かった、こんな最果ての男なら誰でもよかったわけだな」
「そう、ヤクートであろうとなかろうと」
「残念ながら俺にはヤクートの血はない」
「聞いたわよ、何度も」
「淫売から出てきた子が、こんな山村にあずけられただけだってことも聞いたはずだ」
「淫売の子かどうか知らないけれど…お父さんは銅像の渋い顔をした人じゃないと思うよ、残念ながら」
「じゃあ誰だと思う」
「禿げ頭で…酒好きな…熊親父かな」
「それじゃあロシアの典型的な親父を言っているだけだ。もっとも、淫売が相手するのは典型的なロシアの親父だろうが」
「イワンがお父さんじゃないかな…」
 直感と自然にあれだけ付き纏われながらも、人間に対する分析を怠らなかったリューバがいた。なんていう女だったのか愛しいリューバ、この世界は相も変わらず凍土上で夢を見ているというのに。女の霊媒師は男を知ると精霊を呼べなくなると信じているロシア人がいて、女の霊媒師はソヴィエト崩壊後にジュノー(アラスカ)まで見通せるようになったと言いふらしているヤクートがいる。間違いなく言えることは、ヤクートの師サーシャ・ペトローヴナは科学者リューバを畏れているようなところがあったということだ。
「イワン?流れ者のイワン、密造酒造りのマセアセヴィッチの親父が?」
「互いに距離があるわ…あなたとイワンがカウンター越しに話していると、独特な距離があるわ。今にもピンゴがもこもことできあがりそう」
「難しいことを言ってくれる、イワンも俺も酔っ払いなだけなのだが」
 イワン・マセアセヴィッチという親父は、密造酒造りのままにしておいてくれないか。夏なのに寒い…がここは暖かい。酒を醸した水は三角沼の水だった。三角沼はリューバが望んだようなピンゴになっただろうか。女の笑い声と子供の笑い声、アレクが帰ってきたのか。いや、リューバが笑っているのだ。幾重もの蚊帳の向うにセルゲイの下着を掲げて半裸のリューバが笑っていた。
「二つしかないって言っていたわよね」
「何が?」
「人を殺すか、人を愛するか。あなたの生活にはこの二つしかない」
「今は人を愛している」
「あたしを忘れかけたら、ここに、この壜に鼻を近づけるのよ。この確かなジャスミンの匂いはあたしだけのもの。あたしの前であたしを忘れかける。古びた妻の前で古びた妻を忘れかける。それが普通にある長い人生だって言うひともいるけれど、あたしの気持は、それであれば殺してほしい。あなたの生活には二つのうちひとつ」
「今はジャスミンの匂いがここにある。随分と洒落た壜だ」
「あたしの唯一の贅沢、シャネルの五番。学会で教授についてパリへ行ったときに買ったの…」
「パリか…たしか教授は、シベリアのメタンガスを研究していながら、そのパリに亡命したがっていたんだよな。パリはそんなにいいところかい?」
「さあね、ヤクーツクの町をちょっと大きくしただけよ」
 パリの酸素やペテルブルグの二酸化炭素が、この辺のそれとどれだけ違うというのか。都とて誠実な魂が住まねば立ち行かない、とソルジェニーツィンが言って百年も経っていないというのに。しかも蛾は蛾のままで一瞬の夏に死ぬことばかり考えている。声にならない自ら締めつけるような哄笑がセルゲイの咽喉から吐き出された。
 この日の午後の目覚めはセルゲイを疲弊させた。ヴァシリーはイワン・アットイトの来訪が好ましいものではなかったことを反省して、鎮静剤で寝入ってしまった父の手を取って涙ぐんでいた。

                                       了
巨匠とマルガリータ(上) (岩波文庫)

巨匠とマルガリータ(上) (岩波文庫)

  • 作者: ブルガーコフ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/05/16
  • メディア: 文庫



巨匠とマルガリータ(下) (岩波文庫)

巨匠とマルガリータ(下) (岩波文庫)

  • 作者: ブルガーコフ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/06/17
  • メディア: 文庫



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

女運は踊る   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 ビーダーマイヤーというドイツ語を目にしたのは、七十年代の西ドイツの世相を看破した一文が最初だった。どこにでもありがちな俗物を揶揄した表現は、刺激的な暴言を求めていた十九歳の自分には、どこかバウムクーヘンに似たような耳障りと字並びに見えて一抹の倦怠を覚えていた。それがウィーン会議の時代に典型を見るとは、洛西の中年に至るまで知らなかった。そのような時代の金ぴか白塗りの舞台に、強引に日本人や薩摩弁を持ち込んでみるとは自分らしい酔狂だと、暫くは打っ棄っておいた。そして洛西の闇夜を徘徊しているうちに、後付らしい印象では能のような幽霊話を書くようになった。事ここに至っては、主役がメッテルニヒであれば怠惰な頬杖を打っ棄らねばなるまい。


一八七三年六月

場所
 ウィーンのプラーター公園、万博会場のメインパビリオンRotundeの前庭

登場人物
 利(とし)さん…岩倉使節団の一員として欧歴訪途上にあって万博を視察した四十二歳の大久保利通(一八三〇年九月二六日~一八七八年五月一四日)
 クレメンス…クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich、一七七三年五月十五日~一八五九年六月十一日)の幽霊
 エレン…メッテルニヒの最初の妻エレオノーレ・カウニッツの幽霊
 メラニー…メッテルニヒの三度目の妻メラーニエ・ジッチー・ファラリス

(パビリオンの回廊は、噴水の周りに配された四つのガス灯に照らされて闇夜に浮かんでいる。できれば下手上方に三日月が見える晴れた夜空から、三日月に暗雲たれこめて漆黒の闇となる幕までの、明暗の変容があることが望ましい)
(上手から追われるようにして、ハットなしに燕尾服姿の大久保利通が小走りにやってくる。ガス灯になるべく近い縁石に優雅を装って座るが、その実は走ってきたがゆえの呼吸整えである)
利さん あれでん女か、まっこて西洋人は女も大きくてかなわん。しかも牛のよな乳を押しつけてくるし…
(四つのガス灯のうち両端の灯が点滅しはじめて、利通は立って両端をそれぞれ振り仰ぎ、懐に右手を入れて短刀を取り出す)
利さん いざとなったら父祖伝来のこれがあるが…(抜き身を翳して、思い出したようにナイフを使う仕草をする)もうちっと肉の切り方を身につけねばならんな。
(両端のガス灯がついに消える。利通は慌てて抜き身を正眼に構えるが、すぐに恥らうようにして鞘に収めて、胸を張って堂々とした風を装って縁石に座る)
エレン (上手から黒ずくめで闇から這い出てきたように腰を伸ばして)Klemens,Er sagt, fühlt sich an wie Japan.クレメンス、日本語のような気がするわ。でも、おかしな日本語ね…クレメンス、これも日本人なの?
利さん (短刀を横一文字に抜く構えで小さく首をひねり)呉ぇ?呉の者ではあいもはん。おや薩摩の者、鹿児島の者ござんで。
エレン あいむぅ…はん?あなたはイングリッシュなの?
利さん こん気配の消し方…枕元に立たれとった島津公によう似て…
エレン クレメンス、彼も日本人なの?
利さん 幽霊か…あいやー、まこっにおいは幽霊に好かれとる。(短刀を懐に仕舞い込んで沸々と笑いながら数珠を取り出す)姿かたちは異国の女じゃあっしながら、おいにだけ聞いてくれんと言わんばかいの日本語(かたちばかり数珠を揉みながら念仏を唱える仕種をする)…幽霊にしても、あいやー、まこっに美しか。
エレン (諦めたように)Siehe auch japanische Recht?どう見ても日本人よね、クレメンスが夢中になっているインディアンのような日本人。
利さん インディアン?インディアンはたしか蛮族のこと、おいはインディアンではあいもはん。
エレン (訝しげに利通のまわりを一回りして)インディアンを知っている日本人…
利さん (苦笑しながら)ちっとは知識も持っとうと思っとう薩摩隼人じゃっでな。見たとこい…死神か?
エレン し・に・が・みぃ?
(利通の背後、噴水の縁石に這い上がってきたような手が掛かって、エレンは驚いて指し示し利通の方へ駆け寄ろうとするが、利通は数珠を振りかざすようにして手を合わせ下手の方へ下がる)
クレメンス 大久保君、日本の舵を執られる大久保君、待たれよ。
(白ずくめ装束に白マントを着けたクレメンス・メッテルニヒが噴水から現れて、利通は仰天して腰砕けに仰向けのような格好になる。クレメンスは縁石から優雅に出てきて裾を正して会釈する)
クレメンス 大久保利通君、お初にお目にかかる。その者は私クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒの妻エレオノーレ、正確には、この時間に私と日本語のみで会話することを許している最初の妻であったエレンの精霊です。生き身のあなたが怖れられるのは無理もありませんが、死神ではないので御安心を。
利さん くれめん・すぅ?
クレメンス メッテルニヒはご存じないか?ウィーンの女と静寂の敵、そう、私がメッテルニヒです。
利さん メッテルニヒ!あいやー、まこっにメッテルニヒ閣下で…(頭を振って自分の左右の頬を叩いて、恐る恐る立ってから正面を向いて背後を気にしながら薄ら笑う)兵助どん、なるほど、はんらしいやり方じゃっね…(数珠をかざして)広沢参議どの!
エレン (気味悪がってクレメンスに縋り寄る)Ist er verrückt(彼は狂っているの
)?
クレメンス 日本語しか聞こえないよ。この時刻に冥界で通用するのは、鴉が山犬に語りかけるような日本語…彼は狂ってなどいない。これから帰国して、大久保君はまだまだ働かなければならないのだ。どうやらこの様子では、我々のような霊を彼の目の前に立たしているのは、つまり自分をからかっているのは、亡くなっている同僚だと、そう思いたいのですよね、大久保君。
利さん (数珠を懐にしまい込んで、開き直ったように縁石に座り、クレメンスを斜に見る)おいが見うものは…
クレメンス (エレンに説明するように)大久保君が言っていた兵助、広沢参議とはね、一昨年に日本で暗殺された広沢真臣君のことでね…その広沢君も大久保君と同じく革命政府の要人の一人だったのだが
利さん おいが見うものは、まこっにメッテルニヒ閣下か…閣下の霊を騙る悪魔か?
クレメンス どっちでもいいだろう、日本人の君には…さて、エレン、猜疑心と同僚の亡霊に怯えている輩はさておいて
利さん 閣下!まこっにメッテルニヒ閣下、いや、まこっにメッテルニヒ閣下の幽霊とは申され、おいが亡霊に怯えるとは
クレメンス 分かったよ、興奮するな、と言ってもだよ、昼間あれだけ騒々しいウィーンの万博会場でだね、やっと静まったこの時刻でのメッテルニヒ夫妻のココアの語らいにお邪魔しているのは、元サムライの大久保君、君の方なんだよ。
利さん 閣下!この大久保利通、元も何もなく、根っからのサムライでん
クレメンス (煩そうに白マントを翻して利通を怯えさせる)こんな猿は放っておいてだね、エレン、十三年前に依頼されたレオンティーネの霊の行方だが、コブレンツの古池の隅の隅まで浚ってみたのだが
エレン (クレメンスの胸を突いて)依頼された、と仰ったわね?自分の娘の行方を、依頼されたと!
利さん いかにも、音に聞こえた閣下の傲慢さ、まこっここに見る
クレメンス (形相を変えて白マントを翻して利通に被せ、利通は撃たれたように静まる)燕尾服を着た猿が、不吉な鴉の言葉を解せるだけで、調子にのるな。(エレンに向いて顎を噴水の方へ振る)この辺りも騒々しくなったな。コブレンツの地下牢へ行こう。
(クレメンスはエレンを噴水へ誘って、二人揃って縁石に座る。利通は膝をついたまま気を失っている。クレメンスはエレンの後ろ髪を二度撫で下ろして、三度めで殴るようにしてエレンを噴水へ突き落とす、水音)
クレメンス (座ったまま両脚をひらりと正面へ戻して)すまないね。冥界にあってもメッテルニヒはメッテルニヒ、おまえと一分語らえば、次にはマリアと一分、次にはカタリーナ、そして次にはあのナポレオンの妹マッサウ(Ma soeur)…そうだ、奴の妹カロリーヌの別荘へ行ってみようか。そもそもは奴が失脚して、落ち込んでいる彼女のために私が作ってやった別荘、今じゃ銃と大砲で儲けたユダヤ人が使っているとか…よし、まずは金髪の伊達幽霊が豚どもを大いに怯えさせれば、慄く声を聞きつけてマッサウも現れるだろう。
(クレメンスは舞うような仕種で下手へ向かうが、利通がびくりと目覚める。クレメンスも利通と目を合わせるが、利通の両手だけが争って両脚が動かないのを見届けると声なく笑う仕種で下手へ向かう。間髪をいれずに上手からメラニーが騒々しく足を鳴らして登場)
メラニー おったおった、こん暗がりにおったんね。あいや!(大袈裟な身振りでクレメンスを指差して)万博会場に現れうとは、まこっにメッテルニヒ!あん世に行っても性分は性分ね、生身の女が蜜蜂のごと集まうと聞くと、そやそやまこっに我慢でけんクレメンス。
クレメンス (驚愕の面相を振って冷静を装いながら)メラニー、私の現世の心残り、冥府で君を思わないときはなく、今宵もまた
メラニー (おろおろしている利通の背を突き飛ばして正面を見据える)あんたなんかにに用はんわよ。
クレメンス その男に用はない?それはそうだが、たとえ極東の猿とはいえ、やがては日本の舵を執られる方ゆえ
メラニー ちっと!クレメンス、見かけだけの詐欺師野郎のお化け、あんたのこっぉ言ぅとうのよ。
クレメンス (メラニーへ近づいて彼女の周りを舞うようにまわる)本当にメラニーなのか?
メラニー あたしが追いかけて来たのは、こんサムライだど。あたしは生身だよ、お化けのあんたをいけんやって…おお、気持ち悪い、今になって。
利さん (両手を翳して嬉しそうに)そやそうだ、何しろ幽霊じゃって。とこいで、あん大きな乳の感触は、やはい生身じゃったわけだ。
クレメンス (メラニーから離れて訝しげに)なるほど、生身の酔っ払い同士か…とこいで、いや、ところで、何故、日本語を話せるのだ?しかも立派に薩摩弁とかではないか。
利さん おいが岩倉使節団の薩摩隼人、大久保じゃぁこっ
クレメンス (利通を払い除けるようにして)メラニー、何かにとり憑かれているんじゃないか?
メラニー とり憑かれとうって、お化けに言われてはお仕舞いじゃっどなぁ。
クレメンス (可笑しそうな利通の首に白マントを巻いて絞める仕種)メラニー、聞いてくれ。たとえウィーンの女と静寂の敵だろうが、詐欺師野郎のお化けだろうが、生前は君を正式に三度目の妻として迎えているこのメッテルニヒ、このメッテルニヒとこの時間に鴉の言葉で会話できるのは、冥界にあっても六人、もちろん六人とも女だがね。あとはこういう輩、いつでも腹切り覚悟の日本人だけなのだ。
メラニー (そ知らぬ風に上方を見ていたが急に吹き出し笑い、利通を可笑しそうに指差してから、正面を向いて見よがしに己が両の乳房を鷲掴む)ばれてしもたか、さすがはメッテルニヒ閣下どの。それにしても、こん乳の揉み心地の素晴らしかちゅうこつ、こんまま閣下の最後の女房に憑いていごとかな。
利さん やっぱい広沢参議、平助どんが憑いていたわけか…こげん地の果てまで、船いも乗らんと
メラニー 大久保、おまえの耳の裏に寝そべって快適な船旅じゃったど。最初はおいと同じくインドの蛮刀あたいで切い刻んでやろうと思ったのだが、手ごろなインドの小僧が見つからじ、あれよあれよちゅう間に小刀ひとつ持たんヨーロッパ。誰かに憑いておまえを殺めごとと思ってついて来て…よかった、もっと早く生きとっとうちに来ればよかった、倒幕だ、維新だと、何とも馬鹿騒ぎに乗じていたばかいに
利さん 参議どの、(また短刀を抜いて構える)馬鹿騒ぎは聞き捨てならん。
メラニー (驚いたように笑いながら舞うようにしてクレメンスの背後にまわる)閣下、聞きましたか?ゆうとも仲間を闇討ちしておいて、こん見かけだけの詐欺師野郎!
クレメンス (振り返って、メラニーの両肩を抱き寄せる)生前に何度も言ったじゃないか、だいたい政治家とはね、詐欺師野郎と呼ばれて本望なのだが、大久保君の見かけは、そう、猿だろう?
メラニー (クレメンスの胸を突き飛ばすようにして離れて)やめてくれ、たとえ体は大乳の女でん、やっぱい化けもんでん男は気持ち悪い!
利さん (目を閉じて短刀に念じる仕種の後にメラニーへ斬りかかる)いかいも詐欺師野郎は本望だが、維新が馬鹿騒ぎとは、故人の霊であっても言い過ぎだ!
(クレメンスがひらりとメラニーの前にまわって、利通の短刀を腹に受けて取り上げて微笑む)
クレメンス 残念でしたね、小刀ひとつ持たんヨーロッパでは、幽霊には痛くも痒くもない。いずれにせよ、会議は踊る、このメッテルニヒの女運もまた然り、死してもなお踊り続けねばならない。よって、カロリーヌの別荘へ急がねばならん身ゆえ、君たち猿どもの痴話喧嘩につきあってなどいられない。
メラニー (懐から十字架を取り出してクレメンスの背中に突き立てる)これで黙ってくいやんせな。
(メッテルニヒは少々大袈裟に舞うように倒れる)
利さん 死んだでしょうか?
メラニー 阿呆か、幽霊が死ぬか、たとえ生前は詐欺師野郎でん、生身でこれほどの乳ぶい謳歌しじぁ三番めの妻に刃を立てられてはと、そやそや死んでん女好きは女好き…
(利通ははたと思いついて数珠を取り出して後ろ手に握りこみ、倒れているクレメンスに見入っているメラニーへ同情顔で近づく)
メラニー 大久保、おまえに閣下のよな洒落た為政者は似合わん…(背後の大久保の胸倉を掴んで)じゃっでこん異国の地で女の腹の下で
利さん (メラニーの口の中へ数珠を押し込んで)参議どのに言われうまでんなく、薩摩の芋サムライのままで結構…(メラニーも少々大袈裟に倒れる)そいどん死ぬときは日本の女の腹ん上だ。
(吹き出したような水音、噴水の縁石に手がかかって乱れ髪のエレンが現れる。利通は下手へ逃げ出し去る)
エレン Klemens!Klemens! Metternich!

                                       幕
悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

  • 作者: アゴタ クリストフ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2001/05/01
  • メディア: 文庫



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

第四病棟の元帥   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 トラピスチヌ修道院の門から中庭の静謐をしばし窺ってから、沿道を五分ばかり北上して聖パウロ総合病院の正面へ廻ってみると、その威容と騒然の格差に気が滅入ってくる。ゴシック様式の陰鬱な尖塔のはるか下では、救急車の搬入口の非常灯が安眠を恫喝する怪物の眼のように点滅していた。朝靄まだひけぬ時刻なのだが、救急病棟へ至る通路には急患の親族と、盆でも診察開始を待つ老人や女性が佇んでいる。眠ることがない大病院の壁という壁は、やつれを隠せぬように薄っすらと煤けていた。
 男は紺の上着を右脇に抱え左手にはアルミケースの柄を握って、栗色の前髪を乱しながら慌ただしく外来受付へ走りこんだ。自分が老人や婦女の中にあっては目立つかなりの長身で、純粋な日本人ではない灰色の瞳であることも忘れて(しかも左目は義眼である)、疲れきったような受付嬢に流暢な日本語で尋ねた。
「第四病棟へはどう行けばいいのですか?」
「第四病棟はですね、そちら真っ直ぐ行った中庭の回廊を右にまわるようにして、回廊の入口から見て対角線上の最奥ですが…第四病棟ならこちら受付で事前に許可を取って頂かないと、病棟入口から奥へは入れませんよ」
「入口に患者の付き添いが待っていますので大丈夫です。ありがとう」
 回廊の中庭はフランス式の円環状で真ん中にアカシアの大木が枝を広げていて、放射状に設計されていた花壇址には枯れコスモスが眠そうに揺れている。男は早朝の幽明さに見とれる間もなく、途中で二度も警備員に回廊を走ることを咎められた。
 第四病棟の真鍮の観音開き扉は、昭和初期の客船賓室でも模したのだろうか。楕円形の磨りガラスは意識的に歪んで向こうに佇む影を揺曳に見せる。睥睨然とした鈍い赤銅色の扉の上には、石膏質感のある軟プラスティックの五人の天使がこちらを見ずに舞い戯れている。左右両端と真ん中の天使の眼が監視カメラらしく反応点滅していた。
 男は嫌がおうにでも呼吸を整えさせられた。これから自分が直面する仕事についての予備情報を反復してみる。それも束の間、抱えていたスーツの懐をまさぐることになった。携帯端末に定時連絡が入ったのだ。取り出した端末と一緒に西陣織の名刺入れが落ちた。
 名刺には
 ジュラ・アセット・マネジメント 日本支社 調査室長   シャーン・ク・佐々木
と印刷されている。これが男の肩書きである。ジュラ云々というは、ベルンに本部を置くバチカン系の金融グループの一角、資産家を顧客とする投資顧問会社だった。
 佐々木は携帯のニューヨーク・ダウの経過と為替だけを確認すると、名刺入れの錦繍についた埃を吹き落として、磨りガラスの向こうの影に目を細めた。代議士、竹中宗二の夫人が待っているはずだった。携帯と名刺入れを上着の懐へ戻しながら整った呼吸を確認した。真鍮の扉を押すと右向こうから警備員が引いてくれて立ちふさがった。
「ジュラ、エーエムの佐々木様ですか」
 佐々木が頷くまもなく警備員の背後から海老茶の麻スーツの女性が現れた。与党創政会の重鎮、国会対策委員長も務めた竹中宗二の後妻、竹中弥生である。二度ばかり面識を持ってはいたのだが、今だ深夜を引きずっているような早朝の面差しは随分と蒼白に見えた。佐々木は深々と会釈して遅れたことを詫びた。
「御容態はいかがですか?」
「さきほど薄っすらと目を覚ましました。病状は落ち着いています」
 第四病棟の照明は懐古な球状の六〇ワットほどで、目に優しいという以上に訝しくなるような黄光だった。廊下は脂濁りを流した象牙柄の人口大理石で、佐々木の無礼な靴音だけが闖入を誇示するように鳴っていた。竹中宗二の212号室は、昭和の雑居間取りビルの深奥といった観があった。それは政局を預かる権力の壮麗さを少々期待した者を唖然とさせるだろう。窓が見あたらなかった。ドア周りから患者の枕元までは、臨戦の甲冑で彼を覆い隠したように電子器具がひしめきあっていた。点滅しているのは悠長な波形を見せる三種のスコープ、そして恐怖を玉髄化したような赤らんだ犬の眼差しがあった。
 佐々木は茶斑のボルゾイを睨みかえした。優雅な巻き毛の面長の猟犬が発する威嚇は充分だった。
「マーシャ、こちらはセーフよ、セーフ」
 夫人は素早く切り裂くように人差し指を乾いた唇にあててそう言った。そして自分とかわらぬ大きさの犬を軽く抑えて、佐々木が夫のベッドの傍らへ寄るよう促した。
 竹中宗二は為政者の相貌をなくしてはいなかった。日焼けした三段の額の左右生え際には、備前の壺肌のような烏の足跡染みが走っている。そして蘇生した鯉のように睫の長い眼がさらりと開いた。
「君がジュラの熊殺しか…こっちはマーシャル、日本で言う元帥だよ。熊殺しと元帥がそばにいてくれれば安心だな」
「倒れられたと聞いて驚きました」
「あれから一週間が過ぎたか…あの朝、烏賊が食いたくなったので朝市へ出かけた。そこで軽い脳梗塞をおこしただけさ」
「あいにく私が熊本へ行っていたものですから」
「頼んだことをしっかりやっていてくれさえすればいい。菊池の馬喰いは元気だったかい、元気ならいい、奴はわしよりもちょっと若いからな」
 竹中は目配せして妻と愛犬を廊下へ出してから、自ら慣れた手つきでレバーを操作して上体を起こした。
「佐々木君、たしか…お父上は三重の美杉村の出身だと聞いたが…その眼は本当に熊にやられたのかい」
「ケルト人の母が、故郷のロンドンデリーへ持って行ってしまったようです」
「ほう、優れすぎた人間の贖罪なのかもしれないな…それも皿の破片一枚でも次の代に伝え継ぐというジュラの社員ならではだな。たしか世話になりはじめたのは不況の前、89年だったな。外務大臣だった迫さんから薦められた。条件が厳しくてね、わしのような戦後の価値転倒に乗じたにとっては。たしか条件は…ひと口で言えば、盗んでいないか、殺していないか、そしてカトリックになれ、ということだな、今でも変わっていないだろうが」
「ひと口で言えば、今でもこれから先も、おっしゃったとおりです」
 竹中は苦笑しながら己が額を恥じ入るように押えた。
「だから地元へ帰ってきて洗礼を受けてカトリックになった。盗みは子供のときに浜で干されていた烏賊を五枚…91年に亡くなった司教がそれを聞いて笑っていらっしゃった」
 遠くで六時を告げるピアノ・カンタータが鳴った。
「歳をとると、晴れた朝に目覚めるのはひとつの喜びだ。ここ函館、室蘭と熱海は言うに及ばず、中野の住まいでもそうだが、雲が流れる空を背景に桜や柊、花梨の葉を見ることができる。この病棟でも窓辺に糸杉が見えていた、先週までは。もちろん別の部屋の話だがね、この隣の213だったかな」
 竹中は佐々木の腕をじわりと取ってシャツの袂を見ながら続けた。
「すまなかったね、九州から夜行で来させるなんて…老いぼれ爺は何を言いだすやら。先週、倒れて目を覚ましてから、隣の213からこの部屋に移ったのには理由があるのだ。聞いてくれるかい」
「もちろんです」
「先週の木曜日の朝だった。急に寝苦しさを覚えて目覚めた。冷房が効いていなくて、カーテンがひかれて窓があいていた。不穏に思ってブザーを鳴らした。しかし何度鳴らしても担当の看護婦は現れない。仕方なく開き直って、朝食検温の時まで寝たふりで待つことにしようと思った。そのときに窓辺に見てしまったのだ」
 佐々木は自身の性急さを押さえ込むために目を伏せた。
「あれはリツだった。左の乳房に薄い青痣があって…間違いなくリツだった。泣いていた。きれいな乳をしていた子だった。上半身だけ裸になっていて…右腕と右脇腹からかなり血を流していて、逃げ出してきたような格好で泣いていた。リツは十七か十八だったと思う」
 ドアの向こうで犬が唸りはじめ夫人が制しているようだった。
「寝惚けていたのかもしれない。昨日の朝あたりからそう思うようになってきた。しかし…マーシャルの頭と耳に滴った血痕は、弥生が最初に見つけて、わしもこの目で確認している。女はリツだった。台湾で徴集されて海南島の慰安所にいたリツだ、あの女は」
「何年の頃のお話なのでしょうか」
 竹中はまた佐々木の腕に手を置いて明晰な話し方を探っていた。
「43年くらいだったかな。それにしても餅は餅屋と言うべきか。様々な国の様々な宗教や文化の傘下にある老人の戯言を聞きこなしていて、もはや大日本帝国の将校だった男の女漁りの記憶など想定内、というところか。しかし…精神病棟のように爺さまが記憶をひっぱり出してきて寝惚けているわけじゃない。わしは見たのだ、血だらけのリツを、わしが殺しているかもしれないリツを」
「慰安所にいた女性というと…」
「慰安婦だよ。徴集などとまわりくどい言い方をしたが、騙されて海南島に連れて行かれ男どもの相手をさせられたのだよ。周旋人というのがいて、そいつらが割り当て人数分の女子を看護婦などの名目で連れて行ったらしい」
 竹中宗二は名場面をなぞるような遠望の眼差しで言った。
「リツは賢い娘だったから、料理を運んで酒をつき合うだけで体は売らない、と周旋人から聞いて確認してから行ったらしいのだが…騙してくれといわんばかりの状況さ。わしが海南島からシンガポールへ移動したときは…まだ生きていたな、病気もうつされずに。リツは賢い娘だった」

 朱夏のみぎりを室蘭で毎年楽しんでいた竹中宗二は、最後の夏を聖パウロ総合病院の第四病棟で劇的に終えた。
 八月二十二日の推定時刻十四:〇〇から十五:〇〇に、竹中宗二は緊急入院していた聖パウロ総合病院の特別病棟212号室にて心不全により死去、と最初は型どおりに報ぜられた。しかし葬儀前日の二十四日朝、未亡人となった竹中弥生より遺体異常の指摘があり、市警が介入するところとなり二十五日に検死に至った。
 当日に検死報告の会見を期待されたが、病理検査の精度を理由に実際の会見は二十六日午前となった。道警の医務官を中心とした検死スタッフは、頭蓋後頭部の打撲による内出血が直接の死因と診断した。状況捜査から下された判断は、病室の床に全身があった状態から見てベッドからの転落によるものとされた。
 病院側は院長と内科部長が速やかに謝罪会見をもった。亡くなった竹中宗二が国会対策委員長を務めた地元出身の議員で、そもそも病院創立の立役者ということもあり、連日大いに報道を賑わせることになった。加えて警察が事故隠しについて捜査を進めようとした折、院長は施設の直接的管轄者である内科部長を札幌の系列病院へ更迭したので油を注ぐことになった。
 八月二十八日、長男である竹中喜久夫を喪主として葬儀が執り行われた。
 ジュラの佐々木は札幌の司祭によるバルト神学の聴講を終えた後、解散選挙を睨んでそのまま地元に残っていた竹中喜久夫に呼ばれて函館に足を伸ばした。
 二人は竹中宗二の書斎で故人を偲びながらしばし歓談した。ほどなく喜久夫は弁護士から通知された相続内容の実務側からの感想を求めてきた。
「偉そうにこうして座っているけれど、実質はまだ姉さんの、弥生さんのものだからね、ここ函館の家は」
 佐々木にとって喜久夫の不満は想定していたことだった。故人に招聘されるまで弁護士とも再三確認していた内容は、不動産については函館の邸宅を妻の弥生に、中野の邸宅は長男の喜久夫に、室蘭と熱海の別荘はそれぞれ長女と次男に分与され、金融資産の相続は均等分割というものだった。八月十五日に呼ばれて改変された内容は、金融資産の均等分割を破却し、すでにある竹中財団に十年区切りで設定し直す青少年基金として取り込み、財団を管理運営するジュラが十年ごとに継続を取り仕きり、清算時は法定相続に基づいて遺族と協議することとなった。
「簡単に言えば、当座の資金は自分たちで作れということかな」
「喜久夫さんには北海道の国会議員で終わってほしくない、と度々仰ってました。元々、世界的な視野をお持ちの方でしたから、市場経済が活発化してきた中国の動向などをかなり気にしていらっしゃいました」
「もとよりそのつもりではいるがね、今はさっさと東京へ帰ったら人でなし扱いにされかねないし、紛糾国会で秘書の受け取り問題に振り回されているような私じゃない。それはともかく、金のなる木はないものかね」
「世界的な視野を受け継がれて国政に参与される方には、こんな金のなる木はいかがでしょう。中国の広がっていく鉄道への投資です」
「これだもんね、ちょっと呼べばすぐに商売しようとするから敵わないよ。それにしても鉄道?」
 佐々木が上海市場のA株に投資する新規ファンドの目論見書を渡したとき、秘書が入ってきて喜久夫に函館市警察本部長が来ていることを耳打ちした。
 市警本部長の増田は二年後に定年を迎えようとしていた。喜久夫にとって父宗二の遊説中の警邏以来で知らぬ仲ではない。増田は座敷で線香を立ててから書斎のソファへ納まると、過激派の脅迫電話から喜久夫の函館の遊び場所に至る思い出話にまでふけった。
 喜久夫が父親の愛用した机へ退いてファンドの目論見書を手にすると、やっと増田は気がついたように事故隠蔽の捜査経過に言及して彼を驚嘆させた。
「ベッドから落ちたわけじゃない?」
 喜久夫は打たれたように顔を上げた。
 増田は頷きながら竹中の背後を凝視していた。後ろで飾り棚から流氷焼きの灰皿を取った男を気にしていた。
「こちらはうちの資産を管理してもらっているジュラの佐々木さん」
 喜久夫に紹介された佐々木は目を合わせずに会釈した。
「大丈夫、へたな弁護士よりも口が堅い人だから」
 増田は佐々木の混血らしい風貌を訝しがりながらネクタイを弛めた。
「まあ、何て言いますか、医者でもいらっしゃる奥様の仰せのとおりに、警察側で検死を執り行いましてから…何て言いますか、公にされていない、奥様のご意志の下に公にしていない事柄について捜査をすすめているのですがね」
 喜久夫は増田に淹れ替えた茶をすすめながら机から立った。そして目論見書を佐々木へ押しつけるように渡して嘆息を吐いた。
「私も遺族の一人で、竹中宗二の長男なのだが」
「まあ、何て言いますか、なにぶん現場が現場なだけに、他の患者さん方を刺激もできませんので…」
 増田はしばらく一昨日から供述を取りはじめた言い訳をした。
「…先生の体内から出てきたのが、セレン酸ナトリウム、まあ、殺虫剤として使われるものらしいですな」
 喜久夫の陽に焼けた両耳はじわりと赤黒くなった。
「殺されたわけだ、つまり」
「まあ、その方向で、ここ数日は捜査をすすめてきたわけですがね」
「すると最初から薬物反応があったことまでも隠蔽しようとしていたところ、弥生さんに打撲の痕を指摘されて警察が検死することになり、親父が最後は虫けら同然に扱われていたことが露見したわけだ」
「まあ、虫けらというのはちょっと言いすぎでしょうが、正式に殺人の容疑で関係者を取調べ中ということになっています」
「なんと、酷い奴らばっかりだ。しかも今日になって長男である私に…」
 市警本部長は白髪頭を掻きながら手帳をめくった。
「えーと、二三お聞きしたくて…たしか先生の奥様、若先生の今のお母様は、元々、聖パウロに勤めていらっしゃったのですよねえ」
 喜久夫は放心したような眼で頷いた。
「そして、えーと、お勤めでいらっしゃったときの同僚で、松岡克行さん、内科の先生なのですがね、ちょっと長髪で、そっちの方みたいに背の高い先生なのですけれどね。この方が亡くなった先生の担当医だったので、もう二度ばかり署にご足労いただいているのですが、若先生はご存知でしたか」
 喜久夫はゆっくりと首を振って嫌悪を目尻に表しはじめていた。
 増田はぐずぐずと担当医と担当看護婦の処置対応を時系列に並べて話した。しかしそれも秘書が火急の電話ということで現れて中断した。
「一つだけ、若先生、一つだけお願いしますわ。先月の二十二日、若先生は東京の永田町にいらっしゃったのですよね?」
「国会議員なので議事堂におりました」

 竹中喜久夫が秘書に気の利きようを褒めてから書斎へ戻ると、佐々木は窓辺でまだ斬新な青縞の陶器を見ていた。その女のように白い手から灰皿を取り上げると、肩を軽くたたいて港のウォーターフロントあたりで喉を潤さないかと促した。
 そもそも竹中家はトラピスチヌ修道院に歩いて十分ほどの近くにあった。つまり佐々木も知る聖パウロ総合病院へも歩いて行ける距離にあった。そして喜久夫が息を吐けるウォーターフロントは、竹中家から車で四十分ほど離れた旧桟橋から赤煉瓦倉庫群の一帯だった。
「奥様は、頭部打撲よりも、呼吸麻痺の症候を見て、ご主人、お父様の検死を警察に依頼された。言うまでもなく、奥様は、病院の体質や、業界の派閥には詳しくていらっしゃる、なるほど」
 シャーン・ク・佐々木は区切りながらなぞるようにそう言って、ビールを含んでからライトアップされた桟橋の闇に目を細めた。
「ああ、そして、今度は殺虫剤だ。飲もうぜ、佐々木君」
「こういう場ではよろしければシャーン、シャーンと呼んでください」
「よっしゃ、飲もうぜ、シャーン」
 喜久夫は大きく頷いてシャーンの灰色の瞳から目を逸らした。勢いジョッキを翳すように咥えたがビールはなかった。忙しなく給仕を呼びつけて追加注文する。若い健啖家が苛立ちを鎮められないでいるのが見てとれた。
「竹中喜久夫は終わったな」
 シャーンは喜久夫が便所へ立ったときに呟いた。
「やはり政治は室蘭の長女、人間は熱海の次男、このへんが面白そうだ。いざ、我らも往きて、彼と共に死のう」
 与党創政会の一年生議員である喜久夫は、父親宗二の地元と東京の間を奔走し続けていた。喜久夫と妹と弟は先妻の子で、実母は喜久夫が一浪で東大へ入学した直後に亡くなっている。喜久夫は在学中から創政会で活動し、卒後は国交省運輸局に在職して、祖父の地である函館を皮切りに港湾を渡り歩いた。父親に似て剛腹に見える半面、二世議員にありがちな神経質さと性急さを度々見せている。しかし小柄ながら亡くなった母親譲りの美男ゆえに、女性層の視聴率を期待する討論番組などに出演して、少年サッカーの育成や山村の地域医療に対しての論説を展開して局所的に好感を得てはいた。
「イエス、たれか我が衣服を触れしぞと言い給いければ…」と口に上ったマルコ書の言にシャーン自身が唖然とした。
「弥生だ、弥生は何を考えているのだろう。長血を患う女なのか、それとも…」
 未亡人となった弥生は、聖パウロ総合病院の女医に成りたての頃、若い頃から高血圧気味だった竹中宗二に見初められた。弥生は喜久夫よりも八歳年上である。ややもすると知的に過ぎる美貌は、代議士の妻として重合するばかりの苦労の前にはガラスの美しさと揶揄された。しかし飾り雛のように若く繊細なだけかと思われていた妻は、宗二が油断して落選した翌年から、頭を下げることを身につけながら持ち前の計数感覚を発揮しはじめた。噂されたような喜久夫との衝突などもなく、夫宗二が亡くなるまで気丈に代議士の妻を務めあげたといえる。そして後家となった弥生は、八月二十七日には一切の相続を放棄する旨を弁護士に伝えている。事実上、函館の邸宅という不動産の相続についての兄弟の協議は始まったばかりだった。弥生本人は一昨日には竹中家を出ている。新川町の産婦人科医である実家で、学び直しながら医師の免状を生かしていくとのことだった。
 シャーンは運ばれてきた蟹を一瞥してからまた呟くように言った。
「殺虫剤、セレン酸ナトリウムは元々、お父様の遺体に残っていたわけですから、奥様が亡くなったときに駆けつけていて、どうしてすぐにその場で分からなかったのでしょう、薬物によるものだと」
 喜久夫は咥えかけたジョッキから口を離して誰もいない左隣席を窺ってから苦笑した。
「そんなことにかけて連中はプロ中のプロだよ。しかし、いよいよ聖パウロ病院もアウトだな。内科部長ひとりくらいの首じゃ済まなくなってきたね。投薬の処置を誤ったならまだしも、油虫や壁蝨を殺すために撒く殺虫剤だよ。それを誰かが親父に呑ませたのだから…」
 喜久夫は季節外れの花咲蟹の足を取った。そして舌打ちしたあとで小タオルを巻いて低く唸りながらへし折った。
「でも、姉さんは、あっ、いや、普段はあのひとを姉さんって呼んでいる。姉さんは親父が亡くなった翌日には私に連絡してきた。どうも様子がおかしいから、親父の死亡に関して病院内の情報を収集してみてくれ、ってね」
「何か情報はあったのですか?」
「事故隠しの内報はあったけどね。だいたい私も通夜の後はばたばたしていてね。さっき増田さんから話があった松岡っていう担当医と担当看護婦、亀井っていったかな、このへんはもう葬儀の晩から警察が接触させてくれなかった」
 喜久夫はバルサミコ酢の小皿を押し寄こしながら続けた。
「増田本部長様の手際のよさは日本の警察の鑑だ。あの爺さん、あれでなかなか大した経歴の持ち主らしいからね」
 シャーンは小皿に小指をつけて酸味の度合いを確かめた。
「殺虫剤についてですが、薬として服用させるためには、殺虫剤を服用薬として形作って持っていなければならなかった。ということは、医者か看護婦、もしくは身近な人間が飲ませた…」
「そういうこと、私かもしれないよ」
「あなたはあの日は議事堂にいて大勢の人間が確認しています」
 喜久夫は小指を吸いながら話すシャーンを見て小さく吹きだした。
「いや、失礼。だってさ、君の頭の中は、たえず為替とリスクのことを中心にして回転していると、大方の人はそう思っているわけだよ。ところが、金にもならない成り上がりの親父の後始末につきあわされてさ…怒らないでくれよ、世界中をカトリック一色で染めあげようとしているのなら、こんな寂れた北海道の片隅にいるよりも、沸騰してきた上海あたりへ飛びたいのじゃないかと思ってね」
「イエス御自身は彼らに自分をお任せにならなかった。ヨハネの二の二十四です」
 シャーンは自分のジョッキを喜久夫のそれに軽くあてた。
「あなたが洗礼を受けるその日まで通い続けましょう。それに金融屋の勘ですが、ここには今だ見たこともない日本的なリスクと言いましょうか、それが醒めた目でこちらを見ているような気がするのです」
「日本的なリスクときたか…そんなものはザビエル以来、ねじ伏せるのは容易かったんだろう?」
「皇帝のものは皇帝に返そう、神のものは神に返そう、と応えるしかありません…思うにですね、為替は猫のようなものですが、リスクは犬のようなものです」
「なるほど、飼い犬に手を咬まれる、ってね」
「ええ、犬は力関係を認知させれば飼い慣らせますが、所詮は狼の末裔ですから、自分を恐れるものには容赦なく牙をむいてきます」
 喜久夫は首を傾げながら蟹の爪を割いた。
「誰でもリスクは恐れるのじゃないの?破滅はしたくないだろう」
「そう思いたいのですが、カトリックとしては」と言ってからシャーンは喜久夫がしゃぶりつく様を見ていた。
「奥様、弥生さんは犬好きなようですね」
「ああ、姉さんもリスクなんかは恐れないほうだね。立派な人さ。ああやって、よぼよぼのショーグンの面倒をずっとみている」
「ショーグン?」
「ああ、ご免、ゲンスイか、マーシャルだったか、えーとね、親父は前の犬を、砂漠の狐、ロンメル将軍にちなんでショーグンって呼んでいたのだけれど、そいつが死んじゃって…今のあいつも最初は総理になる前の官房長官に将軍にしろと言われて、最後は政調会長とつまらない賭けをして負けて、将軍から元帥に替えさせられたみたいだね。そう、姉さんも私たちに気兼ねしてか、子供もつくらなかったし…宗二さんよりもマーシャルから離れられないのよ、なんて平気で言っていたからね。もともとは姉さんの実家で繁殖させた仔犬で…それを親父が貰ったような話だったな。姉さんが犬を使って接近したとは言わないがね。君も犬を飼っているの?」
「いいえ、猫のほうが好きですから」
 喜久夫は声にならない笑いのまま仰け反った。
「よく分からないなあ。無党派議員みたいなことを言うなよ。もっとも、そういう君らだから、函館の油虫も金を預けたのかもしれないな…」
 喜久夫はそう言うと父宗二への郷愁に襲われたのか目頭を押えた。そして押えたまま落ち着いた低い声で言った。
「帰るのを明後日にしてくれないか。そして私の紹介状をファックスしておくので、聖パウロの加茂という看護婦長に会ってきてほしい。事故隠しの情報の提供者だ。ちょっと渡してほしいものがあるのだ。なんと言っても、これからは親父の地盤を引き継ぐわけだし、公明正大であるためには、良識ある情報の提供者が必要だ。君の仕事外じゃないはずだ。親父は言っていた、金に関することは何でもジュラに頼むようにとね」

 シャーンは遠望していた聖パウロ総合病院がいつのまにか目の前にあって苦笑した。自分が熟考していたことを嘲る。こういうときは辺りに散漫な奴と思わせる風体を意識する。過ぎる患者も看護士もシャーン・ク・佐々木を注目しはじめる。正面玄関からナースセンターに寄って加茂婦長の趣向を聞き出そうとした。婦長が十代の頃よりカラヤンとベルリン・フィルに癒されているということは意外だった。
 しばらくすると、看護士を統括する五十がらみの小太りな加茂婦長が小走りに現れた。
 機敏と思慮を兼ね備えたような婦長は、一昨日に市警がきたことを告げながら自室に招き入れてくれた。そして日誌をめくりながら椅子をすすめて言った。
「二十六日が最初ですね。早速、院長に呼びつけられました、警察は何を聞きにきたのだと。竹中先生の担当医と担当看護婦の処置に決まっています」
 シャーンは竹中喜久夫への報告と称して、担当医であった松岡克行と担当看護婦、亀井紗代の職務経歴を聞き取って携帯端末に入れた。
「松岡先生は辞表を出されたみたいなのですが、寛大な私たちの院長は、医療処置としての過ちは見あたらないとして受理されていらっしゃいません。診断の虚偽に関与したのは事実ですが、内科部長の圧力があったわけですから」
「専門は心臓内科ですね」
「ええ、心臓内科がご専門ですけれど…」
 加茂婦長は突然、稚戯を思いだしたように豪快に笑った。
「ごめんなさい、竹中先生が院長に直々に、あのあまり髪を洗わないような髭面の松岡という医師を担当にしてくれ、とおっしゃったようです」
 佐々木も故人が我が儘を言う様を想って軽薄に笑った。
「それで、亀井さんも私に辞表を出してきたのですが、あの人は病気のお母さんを抱えていますから、できるなら働き続けるように言いました。こんなことになりましたけれど、竹中先生も彼女の看護にはご満足そうでしたよ」
「担当医と看護婦は定時のほかに検診に来るものなのでしょうか?」
 加茂婦長は上体をひいて幾らか荒れた手の甲を摩った。
「もう一度お聞きしますけれど、警察関係ではない、金融関係の方ですよね。いいえ、結構なのですけれど、最初に来た若い刑事さんみたいに訊かれるものですから」
「若い刑事さん?年配のベテラン刑事、市警本部長ではなかったのですか」
「ええ、二十六日にいらした刑事さんは、女性看護士たちが騒ぎそうなあなたのような方でした」
「それはそれは、そのあとでいらした刑事さんが婦長好みの渋い年配の方で?」
「ええ、偉い方なのでしょうけれど、これがまたのらりくらりで、全然関係ない病院の中庭の手入れ方法ばっかり。帰りには手入れをしている管理人室に寄っていかれたみたいです。松岡先生や亀井さんが聴取されるのは仕方がないのでしょうけれど、肝心の院長のところには宵の頃に頭を低くして行かれたようですけれど」
 シャーンはここで膝を打って内ポケットから封筒を取り出した。そして自分が資産管理を任されている投資顧問会社の者であることを再度、前口上にして丁重に渡した。
「肝腎なことを申しあげるのを忘れていました。わが身も顧みられずにご連絡いただいたこと誠にありがたく、父も成仏できます、と竹中喜久夫が申しておりました」
 加茂婦長は訝りながら受け取って開封した。恐る恐る紙片が摘み出される。さすがに小切手の桁数を見るに手間取っている観があった。
「なんでしょう、とんでもない金額ですね」
 精彩あった律儀そうな眼差しが見る見る悲哀を帯びていった。
「困ったものですね、蛙の子は蛙で」
 加茂婦長は百万円の小切手を封筒へ戻した。
「お返しします」
 シャーンは唖然とした素振りで突き返された封筒を受け取るしかなかった。
「あなたが驚くことのほうが驚きます。こういうお馬鹿さんが一人位いてもいいじゃありませんか」
 シャーンのような人間の腕の見せ所はここからである。封筒と携帯端末を懐へ戻しながら頬を紅潮させる。そして目の前の堂々たる婦長に微笑んで深く頭を下げた。
「封筒を寄こされたご長男さんに、遺産を相続なさったからといって無駄遣いはいけません、と教えてあげてくださいな」
 加茂婦長は小さく鼻先で笑いながら椅子を軋ませて立った。
「あなた方の本意は、この病院を蟹の甲羅のように潰すことでしょう」
「竹中喜久夫と婦長は共存できる仲でいらっしゃる、と私は信じています」
 婦長は届いたファックスを摘みながらまたからからと笑った。
 シャーンは辟易した体をつくろって婦長室を出た。そのまま冷厳とささやかな恥辱を引きずりながら病院を出てもよかった。しかし振り返った顔は奥の奥にある第四病棟に向いていた。
 回廊を右へ曲がったあたりで中庭の方から声をかけられた。地味そうで噂に立ち易い市警本部長だった。増田は大柄な長髪の男性へ別れの挨拶を送りながら、節操もなく見かけたシャーン・ク・佐々木に声をかけたようだった。
 中庭といってもアカシアが一本、団扇のような葉を幾重にも広げて日陰をつくっていて、かつて放射状に設計されていた花壇址には終わったコスモスが堆肥のように折れ重なっていた。牧神像が俯いている台座やベンチには老人達が隙間なくすわっている。そのうちの日陰になったベンチから増田は済まなそうに手招いていた。
「まあ、何かと後始末は大変でしょうなあ」
「今日一日だけ体があいているものですから寄ってみました」
 増田は淡白な物腰が気に入ったようで目じりを和ませた。
「竹中先生から一度だけ佐々木さん達のお仕事を伺ったことがあります。我々警察の仕事に似ていて、我々は法を信じて人間一人々の利害に関わるが、佐々木さん達は金を信じて人間一人々の利害に関わる、とか言われていましたなあ」
「ありがたいお言葉だと思います。ご信頼いただいていた先生ですから、もう一度、病室が空いていれば手を合わせようと思いまして」
「それは申し訳ないのですが、先月の二十六日から、竹中先生の病室はおろか第四病棟全体を立ち入り禁止にしてあります。来週になれば入れますよ」
「変だな…」シャーンは中庭から回廊へ向いて左手奥を指した。
「回廊の入口から右回りにまわって対角線上の奥の棟…やっぱりあちらの棟が第四病棟でいいのですよね。先ほど話をされていた方は第四病棟の方へ行かれたのでしょう」
「第三病棟ですよ、あの子が行ったのは。だから立ち入り禁止にしている第四病棟は逆のあっち。このまえ来られたのでしょう?」
 増田は含み笑いのまま煙草を咥えて隠れるようにして火をつけた。
「禁煙だが一本くらいだから…さすがに佐々木さんもお疲れのご様子ですな。後始末と言っても、若先生、喜久夫さんからちょっとだけ聞いていますけれど、先生はきちんと財団かなんか作っとかれて亡くなったから、相続の方はあっさりしていて面倒なことはないのでしょうが?」
「ええ、私の仕事は面倒なことはありません、お金は分かりやすいものですから」
「まあ、何か引っ掛かることがあったら、田舎の警察にも教えてくださいよ」
「逆に教えてください。今しがた別れられた長髪の方は、夜勤明けの先生あたりですか」
 増田は咽かえってあたりの注目を集めた。
「あの子は、あの子なんて言っちゃいけないな、あの人は竹中家の親戚筋で犬に詳しい方なのです。未成年ですが…こういうときはお零れに与ろうといろんな人間が集まってくるものです」
 シャーンは紫煙の向きから逃れるように晴天を見上げた。喜久夫の小太りな弟しか思いつかない。しかし面白くなってきた悦楽の流し目は隠さなければならない。むしろ人を悦楽へ導く使徒の眼は、猫のそれのように呆けて単純そうに見えることが肝要だった。
「気になりますね」
「雨でも降りそうですか」
「竹中先生にセレン酸ナトリウムを飲ませた人間ですよ。顔見知りであれば簡単ですよね」
「簡単といえば簡単ですな」
「しかも警備員は一応いますけれど、見舞客のふりなどすればどこまでも入っていけますよね、手術室とか特別な部屋を除けば」
 増田は半ば咽ながら小さく笑った。
「まあ、そのとおりですが、刑務所じゃありませんからね」
「しかし極端なことを言えば、私のような外部のまったく見知らぬ人間も、依頼されて必要な情報を得れば犯行に及べるわけですよね」
 増田は煙草を踏み消しながら苦笑しかけた。しかし思うところがあったのか、自らを嗜めるように白髪頭を掻きながら回廊の方に向いてしまった。
 シャーンは調子に乗りすぎたと思い挨拶してベンチを立とうとした。すると増田が慌ててシャツの袖を掴んだ。老刑事は笑みを浮かべながら右斜めの方へ顎をしゃくった。雨雪に扱かれたような台座に白衣の男女がいる。増田は松岡医師と看護士の亀井であることを教えてくれた。
 松岡は華奢で白髪交じりの髪を微風になびかせていた。雲を追っている無精髭の濃い顔には、風評や立場に惑わされることはなく仕事してきた無骨さは見える。亀井は頑健そうで男性的に張った顎は意志の強さを感じさせた。
「まあ、二人はどちらかと言えば地味な医師と看護婦だった。ところが竹中先生の担当付きとなって、竹中先生が亡くなるに及んで二人は内科部長に圧力をかけられた。もう新聞が書いていますからご存知でしょうけど、ベッドから落ちての頭部の打撲は不味いから、気管の呼吸困難だった様子から心不全にしろ、ということだったらしいですわ。ところが奥様が医者だった」
 シャーンは頷きながら思いを弥生の美貌に向けていた。そして加茂婦長の言を思い出したが笑みを掃い捨てた。竹中宗二本人も生前、医師は寡黙な板前のような奴、看護婦は乳牛の世話に明け暮れるような女、などと吹聴して満悦顔だった。弥生は何を考えているのだろうか。逆にあの看護士を女好きな夫につけたのが弥生だとしたら…。
「まあ、あの院長も思っていたよりも腹がすわっていますなあ、ああやってあの二人を病院に留めておくのですから。もっとも、もう署に来てもらうことはないでしょうが、逮捕でもしないかぎりは。ここしばらくは仕方ないですな、この煩い警察がつきまとうのは。幸せになってほしいものです、あのお腹なら」
 増田は講談師のように佐々木の膝をたたきながら醜い笑いを転がした。
「あの…見知らぬ奴でも犯行に及べるかという、さきほどの件なのですがね。気取ったクールな刑事じゃないので申しあげますと、まあ、竹中先生を亡くなるまで見てきた私からしますと、その可能性は低いと思いますよ」
 増田はおもむろに右足のズボンの裾を上げて脛を見せた。
「ほとんど見えなくなっていますね、マーシャルの咬み傷なのだが」
 シャーンは愕然としながら毛だらけの脛に目を近づけた。
「マーシャルが咬んだ?」
「そうです。あれは市長選挙の応援で先生がこっちにおられたときです。私は犬があんまり好きな方じゃないものですから、先生が意地悪く脚にじゃれるようけしかけられて、私はあの大きさですから驚いて、つい蹴ってしまったのですわ」
 シャーンは仰け反るように増田が言った第四病棟へ繋がる回廊の終わりを睨んだ。
「まあ、咬まれたあとは先生が教え仕込まれたようで、今日まで仲良くしてもらっていますわ。見ているぶんにはめったに吠えない物静かな犬ですよ、たしかに。しかし、危害を加えた人間はあたりまえですが、先生が知らない人間や先生が嫌っている人間が近づいていくと、最初は唸って近寄らせず相手が一線を越えたら、これはもう人によっては散々な目にあっていましたな」
「そのマーシャルがいつも傍らにいた」
「まあ、そういうことですな。手早い奴が犯行に及ぼうとしても、あの犬に足首を噛み砕かれてお仕舞いですわ。まして起きている先生にセレン酸何とかを飲ませるなんてできっこありませんよ」
 増田は一瞬、躊躇したが我慢できないふうに続けた。
「そりゃあ、例えば先生と直接に面識はないが先生を恨んでいる人間で、警察犬とかの訓練教官、それから動物園の飼育係のような職業だったら可能ではないか、とか考えてもみましたが、可能性はやはり低いでしょう」
 シャーンは増田を見直したと言わんばかりに微笑んだ。
「まあ、犬っていうのは医者や警察よりも正直なのでしょうなあ。ちなみに院長以下看護婦や管理人までほとんどが犬好きですなあ。犬が嫌いだとはっきり言ったのは、あそこにいる松岡先生ただお一人…いかん、いかんな、佐々木さんが毒盛りは簡単だったろうなんて言われるから、ついつい私も勝手な想像をぽろぽろと話してしまって。まあ、捜査会議にマーシャルの話は持ち出していませんがね」
 増田はそう言いながら腕時計をちらりと見た。松岡と亀井が台座から立って左右に別れるところだった。増田もシャーンに引き止めたことを詫びてベンチを立った。予定していたのか、ホールから私服刑事らしき男と制服の警官がつかつかと回廊へ入ってくるところだった。
 シャーンはもう一度ベンチに座り直して端末携帯を取り出した。やっと正午にかかる時刻だったので株価の動静は見るべきものがあった。しかし唇に浮かぶ呟きはやはり弥生のことだった。
「イエス、たれか我が衣服を触れしぞと言い給いければ…弥生は何を考えている。患う女たちはそこにひれ伏せばいいものを」

 シャーン・ク・佐々木は空港へ向かう修道院近くで竹中喜久夫に呼び戻された。正直なところ弥生に連絡が取れない不穏を抱えたままだったので、自分も不穏を騙って不意を突く楽しみができたと思った。携帯電話で喜久夫が言ってきたように「加茂八重子が出頭して大騒ぎになっている」というのなら弥生も近くで動静を窺っているはずだ。シャーンは珍しく義眼の奥底に痒みを感じた。
 こうなると金無し能無し思慮分別そこそこの意気地なしはいらない。
 シャーンは憔悴の色が定まらないような顔で竹中邸の居間へ入った。喜久夫は思っていたとおりの終わったような安堵顔で迎えてくれた。しかも余程資金繰りに困っているのか、財団に取り込む予定の青少年基金を、サッカー協会への協賛金として自分の名前で動議できる、などと提案してきた。つまり基金を担保として創政会関係の銀行から借金をしたいだけなのだ。シャーンは妙に感心したような顔で聞きながら庭の飛び石を見ていた。
 喜久夫の興奮した声が治まってきたので振り返ると、いつの間にかソファにうつ伏せて駱駝のように唸っている。しばらくすると両手で顔を覆って肩を震わせはじめた。
「私は…私は分かっている。親父が、私のために、私が一人前の政治家になるために竹中財団を作って残してくれたのだ」
 喜久夫は聞き取り難いまま続けた。
「シャーン、本当にありがとう。私のために、うちのために、いろいろと骨を折ってくれて、これからも良しなに頼む」
 シャーンは故竹中宗二が使っていた机に向かって首を傾げた。そして倦怠極まったかのように微笑んだ。
「このままだと加茂八重子は全部吐き出しますよ」
 喜久夫は嗚咽を呑みこむようにして聞き返した。
「全部…何だって?」
「あなたが加茂八重子に竹中先生、お父様の殺害を依頼したことです」
 喜久夫は濡れた目頭のまま振り返った。
「何だって、何を言っている…」
「やはり竹中のリスクを高めているのはあなただった、今日まで」
 喜久夫は意外に敏捷だった。シャーンの胸倉をつかんで荒んだ形相を払い落とすように鼻を啜り上げた。
「なるほど、ジュラの情報をつかむ速さはさすがだと思うが、勝手な想像をしてしまうのは、君の金銭に執着するだけの偏った性格のせいだろうな」
「その偏った性格からすれば、あなたと加茂八重子の関係が奇妙なものに見えたのです」
 喜久夫は手を離してハンカチで鼻をかんでから声を低めて言った。
「名誉毀損も甚だしい。殴ってやりたいが、公人だからな私は。いいか、私はその加茂とかには会ったことがない。だから君に行ってもらったのだ」
「会ったこともない事故隠しの内報者に百万は多すぎませんか?」
「君たちは政治家の金の使い方を知らないのだよ」
「確かによく分かりません。加茂八重子が小切手の金額の桁数を数えて、とんでもない金額だ、と言ったのです。賢明で清廉潔白な方が桁数を数えるでしょうか。小切手と分かれば憤慨してすぐに返す、そういう方はこういう仕事柄から何人か見てきました。しかし桁数を数えてから返されたのは初めてでした。謝礼としては高額すぎるので十万ばかりなら受け取っていただけたのでしょうか。勝手な想像はさらに広がりました、とんでもない金額というのは、約束した金額とは違うという意味ではないのかと。しかしあなたは期待した相続もできず約束した金額は支払えない」
 竹中は中腰になって右手を斜めに掻き振った。
「まったく勝手な想像も甚だしいよ。だいたいその顔でだ、清廉潔白なんていう日本語の意味が分かっているのか?ジュラとか何とかいっても、所詮は金を盾にした恐喝屋だろうが。金を操って真面目に働く市民を笑っている奴らに何が分かる!たしかに知ってのとおり、私は金に困っているよ。親父や弟みたいなけちな使い方ができないんだよ。だからって親父を殺すなんて…君たちこそ金のためなら何をやっても臆しないんだろうよ、人の過去をえぐり出してもな」
 シャーンは携帯端末の微動に気づいて廊下へ向かおうとした。
「どこへ行く!基金を協賛金としてまわす話のどこがわるいのだ。これから私は、竹中喜久夫はどうなる」
「ですから、加茂八重子が全部吐き出すと終わります」
 喜久夫は左手で右腕を抱えるようにしてソファへ落ちた。そして混濁したような目を向けて薄らと笑った。
「そうか、病院をまるごと欲しかったのか。病院は儲かるからな、イエスだかパウロだかを頭につけて」
 シャーンは携帯を睨んでいたが飲み込むように頷いた。そしてノブに手をかけながら竹中宗二の肖像画に向かって言った。
「ひとつ最後に教えてください。第四病棟はもう存在しないのですか」
「今ごろ気がついたのか。そんな病棟はもとより存在しないよ。親父がいる病棟が第四病棟と呼ばれていたのさ。私が入院して復活させてもいいけれど、ジュラのものになったら入院させてもらえるかどうか」
 シャーンは時刻を確認して会釈するように目を伏せた。
「最後に私にも教えてほしい。竹中は政界で生き残れるだろうか…」
「政治家なら室蘭の真耶さんがいいでしょう、彼女には竹中宗二に対するコンプレックスがない。熱海の仙三さん、竹中宗二という好色一代男を見事に活写している。暇になったら政治に手を出すかもしれない」
 融解していくような沈黙が外界の騒鳴に縋りつこうとしていた。喜久夫は犬歯を震わせながら流氷焼の灰皿に手を伸ばした。

                                       了
非可換幾何学入門

非可換幾何学入門

  • 作者: A.コンヌ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/08/27
  • メディア: 単行本



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:
前の10件 | - 詩 Shakespeare Достоевски ブログトップ