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一丈珍珠   梁 烏 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

               周樹人先生に捧げる

私は彼女を「一丈珍珠(イジャン・チェンチュ)」と呼んでいた。先の二文字「一丈」は、意味は単独でなら身長を指すが、水滸伝に詳しい方なら、即座に梁山泊第五十九位の女傑、扈三娘(こさんじょう)が縄網で敵をからめ捕る段に思い至れるであろう。この女山賊にして好漢たる扈三娘も、彼女と同様に長身な痩躯で、渾名が「一丈青」となっていたのが、我が珍珠を揶揄するに冠した所以である。「珍珠」はもちろん彼女の中国名「賽珍珠(サィ・チェンチュ)」による。使い分けとしては、普段の会話として距離が近く親しみあっているときには「珍珠」を多用し、些細なことで仲違いした日の別れ際には「再見、一丈」と嫌味に言ったのだった。そして彼女の「伝道の家」の前で、母親の背後から現れた二十二歳の彼女、私は抜けるような白皙の彼女を「パールPearl」と呼んでいた。
 珍珠がパールとして帰国してしまう二年前の夏だった。日曜日の礼拝の後、いささか余裕がある大人たちの会話では、頻繁に「袁世凱」の名前が飛び交っていた。曽祖父の代から名酢「鎮江香醋」を扱って、鎮江の有力者の子弟として短期のアメリカ留学も経験していた私の父は茶談の中心だった。
「第一に名前がよくない。皆さんが中華の歴史の細部に至ってご存じないのは致し方ありませんが、古来より、袁の者が政治に関わることは度々なのですが、袁の者が天下に号令を発するまでになると、一年保てた記述が史記やら何やら捜しても見当らないのです。例えば三国志はご存知かと思うが、袁紹とか袁術とかはご存知ですか?」
 英国人を祖父に持つシンガポールの蔡舜(サイ・シュエン)さんは肩をすくめていた。
「南の島の我々が知っている三国志は、劉備と関羽と諸葛孔明、しかも私は読書嫌いな坊やでしたから…その袁の者は、まさか袁世凱の先祖ではないのでしょうな」
「さあ…なにぶん袁姓を名乗る中国人は、漢民族だけに限らないほど膨大な人数ですからね、白髪三千丈の国では辿りきれません。ところで、袁氏は後漢時代には汝南袁氏と呼ばれた名門豪族だったのですが、この袁紹と袁術、彼らは従兄弟同士で、二人とも歴史の表舞台に立とうとした矢先、曹操に虫食い黍のように弾かれてしまう」
「曹操?」と野苺のような唇でパールは呟いた。
「袁術は転がり込んできた玉璽を種に皇帝を称するのですが、遠大に中華の行く末を考えていた曹操にとって、吠え立てている野良犬の一匹にしかすぎなかったのです」
「彼もその野良犬の一匹」と言って蔡さんは俯いていた賽牧師、パールの父サイデンストリッカー師を窺った。「そうだとすれば、この暑い中、自らが皇帝となる帝政の復活に躍起になっているようだが、所詮は犬の遠吠えにすぎず、今の世の曹操に弾かれる…はて、曹操とは誰のことを仰っているのです?」
 父は碧玉のような眼を上げたパールに見とれながら溜め息をつかれた。
「そこなのです…思いあるいは人品としては陳独秀、行いあるいは工作としては蒋介石、もしくは…未だ雌伏する者ですかな」
「日本にいるとされている孫文は?」
「孫文が曹操では…」と珍しく父は言い淀んだ。「彼を乱世の姦雄としてしまっては…礼を失してしまうでしょう」
「であれば、日本から帰国したと噂される陳独秀あたりにしておきますかな」
 こうしていつもの談話の難渋のくすぐりが、鼻毛のそれのように日常の片隅へ捨ておかれた。父はいかにも渋い顔になって椅子から立ち上がり、蔡さんは懐中時計をパールと彼女の母に示して片目を瞑ってみせた。一言も発しなかった賽牧師は、父の後について辞しようとした私の肩に手をおかれた。師は父に話があるので、私にそのまま残るよう言われた。自らが「私の桃大真珠」と呼んでいたパール、彼女ともう少々話していかれては、と気遣いしていただいたと記憶している。
「曹操は楽しそうな人よね?」
 私も未だ「三国志演義」による姦雄しか知らなかったので返事に窮した。
「都市作りに武器の考案、医術や料理への執着、楽器を奏で囲碁の達人、そして何よりも詩文を宝として女に目がない、と誰かが書いていたわね」
「我々、中国人の信心は都合のいいもので、こうやって度々、伝道の家にお邪魔していても、ときとして信仰に疎遠な者を聖人ないし英雄として傍らにおきたくなる」
「もしかして、中国人は複雑なのかしら?」
「ああ、そうだね、間違いなく言えることは、複雑でなければ漢人ではない、ということかな」
 パールはいくらか苛立ったように窓辺へ立った。そして毎朝、河岸に集う老人たちの南拳の仕種を舞って見せた。蝶のような手のひらをかわしながら、音楽のような珍珠の鎮江訛りが続いていた。
「曹操は魅力的だけれど…水滸伝よ、やっと四十回を越えたところで、あなたのいう美貌の大女、一丈青はまだ見当らない。四十八回?もうちょっとね…盗賊あがりの女の将軍が実際にいたの?ああ、だめよ、やっぱり話さないで」
 パール・バック、旧姓サイデンストリッカーが、水滸伝の第四十八回を翻訳したのはずっと先のことである。この年の記憶が鮮明なのは、暮れの十二月十二日から八十三日間だけ皇帝になっていた袁世凱と、朝靄の河岸で白鳥のように白い腕を揺らめかせていた珍珠のおかげと言ってよいだろう。

                                       了
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