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プローチダ夜曳航   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

Procida Ch
 スキラッチ兄弟は、混み合うプローチダ水道をタグボートで曳航されていく白亜の旅客船を眺めていた。日がな漁船ばかりが悠長な借景になっている水平線。そこへ魔群の通過のごとく富と余裕の象徴たらんと優美な旅客船が現れる。兄弟は苦笑交じりに夢とやらを語り合うしかなかった。
「俺の夢はIOR、新聞を読んでいるおまえなら知っているだろう、バチカン銀行だ。あんな風に尊敬と金を一手にすること、そう、まったく夢だ」
 兄のエンリコは網の繕いを放りだすようにして言った。エンリコは港には週二ほどしか現れず、オリーブ畑の土手に寝転がっていることが多いので「土手のスキラッチ」と呼ばれていた。
「俺の夢は、そうだな、ポンペイの円形劇場の前にあるアンフィ・テアトロで、いい服を着て…」
 弟のアルは強制されたような夢語りを吞み込むようにして俯いた。アルは新聞を隅から隅まで読んでいる寡黙な青年で「老いたスキラッチ」と呼ばれていた。
「本当のところは日本へ行ってみたいんじゃないのか」
 エンリコは厳つい髭面を弟の剃り跡も艶やかな頬へ押しつけた。相変わらず嫌がりも逆らいもしない。子供の頃から自分以上に父や祖父を手伝い、なるが儘に潮臭い漁師になったアル。網の繕いや給油、船外モーターの調子を見る以外は、新聞読みの猫背な後ろ姿。あれは一種の偽装だな。エンリコは知っていた。夜ともなると、弟はベッドで低く唸りながら中古のノートパソコンでメールを交換し合っていて、最近の相手は日本人らしい。そう、観光客で偶に見る騙されやすそうな日本人だ。
「まあ日本人でもアメリカ人でも構わないが、付き合うなら、愛犬の餌を買いに行くにもセダンを乗り回している女にしな」
 アルは破顔しながら手繰り鉤を腰に仕舞った。兄貴はあの分じゃ繕いも半端に五分もしないうちに姿を消すだろう。あの飽きっぽさは、祖父でもない、むろん父でもない、誰に似たのだろう、という界隈の騒々しさには慣れている。女には珍しい言語障害があったとされる母の血統ではないか、などと訝っていた叔父や叔母も亡くなった。いずれにせよアルは考えたくもなかった、自分を産んですぐに逝ったらしい母、そして目の前で欠伸ばかりのエンリコのことなどは。アルは自分のことで精一杯だった。去年の春、ここプローチダの島に現れて、あの見晴台から飛び降り自殺を図った日本人。当時ほとんどイタリア語を話せなかった日本人の中年男性が、今や深夜の夜間飛行ばりに流暢なイタリア語のメールを降らせるのだった。
 プローチダは外周が約十六キロあまりの島である。小粒な美しさは「ナポリの真珠」などと謳われている。兄弟が住む漁村コッリチェッラでは度々、飽きもせずに映画撮影が行なわれていた。その世に言う真珠のようなコッリチェッラを映画さながらに見下ろそうと、体力と時間のある観光客は丘陵テッラ・ムラータまでニ十分ほど歩いていた。
 今から思い返せば、波浪の名残のような風鳴りに耳をかしてしまったことは、粛々と日常が急転することを想っていたアルにとっては啓示だったのかもしれない。彼の過敏さは子供の頃から喧騒のコッリチェッラからテッラ・ムラータへ逃れていた。あの日も何かと煩かった。荒天続きで漁に出るのは儘ならず、エンリコがミランを食ったレッジーナの勝利に一人酔い、隣のサルバトーレが癲癇の発作を起こして救急車を呼びつけていた。アルは救急車を見送った野次馬が散っていくとき、ふとテッラ・ムラータの方を見上げてしまった。風鳴りだろうか、見晴台で三流アルトが練習でもしているのか。気がつくと歩き慣れた坂道を上っていた。
 アルは上りつめて見晴台の瘦せた男を認めた。中国人のような平坦な面立ちだ。長々と歌っていたのか、怒鳴っていたのか、発声し終わったばかりに喘いでいる。波止場の孕んだ雌犬を追い立てる気持ちになる。アルは声をかけようとした。しかし男は辺りの気配など物ともせずに断崖を跳んだのだった。
 中途半端な飛び降りを敢行した旅行者を引き上げたアルは、父と同級生のティツィアーノ巡査と二度、三度と診療所へ足を運ぶ羽目となった。所持していたパスポートと本人の拙い英語から日本人「安田昇」四十八歳と知れた。ティツィアーノ巡査は案の定、日本大使館との煩雑なやり取りなどはすべてナポリ本庁まかせだった。そして日本人が望んでいること(自殺願望は除いて)を細に入り聞き出すことはアルまかせとなった。致し方ない、父が亡くなった折の騒動やエンリコの飲酒運転で巡査には大いに世話になっている。パソコンを少々、駆使した聞き取りまがいの手伝いを承知せざるえなかった。翻訳機能を使っての問答対話をイタリア語に成文化したものを読み直してみた。
「あなたの家族、および職業と連絡先を教えてください」
「私、安田昇の父親は他界していて、母親は存命していますが老人ホーム施設にいます。私の職業は郵便局員です。先月の三十日に有給休暇を申請しました。連絡先、局の電話番号は…」
「あなたはローマ観光のツアーに同行してプローチダ島に来られたのですね」
「私、安田昇はローマに着くと同時にツアーから離脱しました。旅行会社に違約金を払って…二十年前に行ったナポリへもう一度行きたかったのです」
「それでナポリからプローチダへ渡られたのですね」
 アルは遂に安田のナポリでの再会について成文化することはできなかった。安田が二十年前に知り合ったナポリの女性エルサは、はや六十歳近くになっていて警察病院に隔離されていた。十年以上前の次女殺しと度々の自虐行為は、精神鑑定と安定剤投与を要としたのである。聞くだに安田の失望から絶望に至る苦悩が見え隠れして、プローチダまでやって来ての彼の自殺行為はそれで説明がつくかと思った。否、ここから先が厄介だった、安田が真に愛している長女の行方において、それは未だに。
 安田がなんとか日本の四日市という町へ帰って半年もした頃、アルの銀行口座に一〇〇〇ユーロの謝礼金が振り込まれた。帰路に就くまで律儀に振込口座を書いてくれと執拗に追い立てられる。エンリコなどの耳に入る前に断ってきたが、明日はナポリに渡るという日に「書いてくれなければ、あのサンタ・マルゲリータ・ヌオーヴァ教会から新たに(ヌオーヴァ)飛び降りる」と脅された結果だった。
「アルは、偉大なるスキラッチは、単に私の命の恩人というばかりでなく、私を真正な生き方へと導かれた、あの聖フランチェスコにも比肩する方なのです。これは運命なのでしょう、アルが漁師であることと同様に」
 安田のイタリア語のメール文は驚異的に形を成していった。アルは「聖フランチェスコは漁師じゃない」を何度も反芻しながら、覚醒したような困難を知らないイタリア語の進捗に何かしら不気味なものを感じていた。医師は安田の転落時の頭部の外傷は認めながらも、再三にわたって判断能力を一とした脳の異常は認められないと断言していた。
「私をあの見晴台から跳び下ろさせた動機のようなもの、あえてアルなのでアルがゆえに言えば、長女のナナの前途を憂いてしまったのかもしれない。エルサ?母親のエルサ?エルサがこうなってしまったのは、あえて言うなら(E sufficiente dire)、エルサには最初からナポリ的な面はあったね。そう、ナポリ的な面、それは情熱的な面というよりも、あえて言うなら狂信的な面とでも言おうか。そう、私はアルも知っているとおり鈍い日本人。愛してくれと言われても、エルサを愛することはできなかったね」
 アルは四十九歳にならんとする男の渇淡で飾らない正直な語り口のメールに閉口した。
「私が二十年前にエルサを訪ねていったとき、ナナは六歳になったばかりだった。不愛想で無口、眼の輝きが強い子だった。エルサは日本人とメール交換していることをナナには黙っていたようだ。だからエルサからの最後のメールで、十六歳になったナナが柔道をやっている、という文には驚いちゃったよ。私という日本人の影響はありえない。ナポリっ子のナナばかりじゃないだろう。日本のアニメに見る正義感、そして柔道や空手に見る勇敢さ、こういったものに魅せられている少年少女が世界中にいるんだ」
 一昨日の夜半に何度も読み返したメールは尋常ではなかった。闇に紛れるようにして曳航されていく貨物船の船尾に安田の微笑みが見えるような気がした。
「アルがイタリア人だからというわけではないが、我々、日本人とイタリア人とドイツ人は、往時の三国の関係を全否定する歴史観に大いに疑問を呈しなければならない。先週末にメールしたアゾフ連隊のアンドリー・ビレツキーには信念がある。ビレツキーは「かつてのソ連邦を駆逐した解放者としてのナチス・ドイツの戦いを思い起こせ」と高らかに言って収監されたりもしたが、当時のポロシェンコ大統領に勲章を授与されて、今や立派なウクライナの国会議員だ。そのビレツキーとマクレイリとナナの師範、この三者は日本の武士道精神で繋がっている。私はミラノで道場師範をしている二十七歳のナナの意志が、ウクライナのドンバスへ義勇軍として参戦することにあると知ると、情けなくもこの日本人は絶望して飛び降りようとした。そしてアルが救ってくれた。アルとは毎夜毎夜、寝るのを忘れて話し込みたい。アルも地中海の温暖を出でてアルプスを越えてくれないか。大丈夫、オスロのマクレイリ先生がすべての手筈は整えてくれている。私にとってこの時代に生まれたことの絶望と喜びを教えてくれたのはナナなのだ」
 アルは自分よりもやや小柄な兄が波止場の方へふらふらと歩いて行く後ろ姿を見送った。もし弟の自分がこの島を出て行ったらエンリコはどうするだろうか。エンリコはエンリコのまま生きていくさ。そしてこの島を出て行ったアルの悪態神話を紡ぎ出すだろう。点景となったエンリコをウミウシのように潰すこと、一瞬の殺意がアルの口許を緩ませた。

                                            了
逃亡派 (EXLIBRIS)

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