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花筏   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 お久しぶりです。ここんところ忙しくてね、ほんと、私、カレンこと中田可蓮もお勤めしちゃっていてね。どこかっていうと地元、今となっては地元になってしまった住用のわき目に見てきたマングローブ・パーク。私がパークに就職すると決まった日、ママさんがいる横浜へ行ってしまった晃子は、複雑怪奇な眼差しで「蛙の子は蛙、なんてね、あたしも人のことは言えないっていうのは最近わかってきたけれど」と言いながらマングローブ林を徘徊している父の飲みっぷりに首をかしげていた。父である中田英雄(ナカタ・ヒデヲ)は、ヨーロッパ・アフリカを渡り歩いてきた林野庁の技術者で自称「サイコロ・エコロジスト」だそうな。よって「お父さまのご推薦(役人のごり押し)もあってマングローブ・パークにお勤めなのね」などと皮肉られても仕方ない状況にはあるけどね。しかし父は世界中どこへ行っても奇人変人まる出しで、一人娘の好みや志向なんぞには今でも全く関心がない。私をパークへ導き、こうしてパーク勤めに至るまで奔走してくれたのは母のクララ。シュツットガルト生まれの才媛が日本へ留学したばかりに、農工大でパーム椰子を育てながらボクシングばかりやっていたヒデヲに拉致されたドイツ人にしては小柄なクララ!今となっては英語教師の傍ら奄美の自然を世界中に発信しているドイツ人らしい賢母クララ。そう、このブロンドの巨乳女(殿方どうぞ想像を逞しゅう)のごり押し推薦によって私はお勤めしている。
 奄美群島の三月の雨も日によってはやはり氷雨っぽい。しかもウイルス蔓延を凌いで再開したばかりの今日この頃。先輩オットンガエルの「お客さまは神さまです、なんて言ってた人いたっけね~」などの呟きを聞きながら、粛々と(こんな言葉を使うようになってしまった)カヌーの手入れをしている毎日。夕方になって濡れそぼるままうちへ帰れば、いつものようにキッチンでは腕っぷし男と巨乳女の会話は絶好調!父はレント(黒糖焼酎)へタンカンを搾りこみながら窓辺の一輪挿しを睨んでいた。
「花っていうは、芽のできるところに作られるんだ」
「そりゃそうでしょう、って日本人の女みたいに言いたいけれど、ドイツ人の女はね、そのシンプルな言い方にやられちゃうの、聞き入っちゃう」
「だったら聞いてくれ、愛しのクララ、そもそも花っていうものは、一本の枝の先端に生殖用の葉が集まったものなんだ。だから普通は葉に花がつくなんてことはない」
 父は一輪挿しごと掴んで母の銀色の瞳の前に置いた。
「これは葉に花がついているから普通じゃないのね」
「Helwingia japonica、花筏(ハナイカダ)、北海道の北の方を除いて日本中どこにでもある。花が出る突端、花序が葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈とくっついてしまってこんな形に進化したらしい」
「花筏ね、さすが日本人ね、ハナイカダっていう名前は」
「別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)って言うんだ」
「ヨメノナミダ?さすが日本人ね、まったく、女の涙に騙されなきゃ気が済まないんでしょ」
 雨音が増したような沈黙が下りたので、私は「ハングリィ~」を呟きながら足音高くキッチンへ乗り出した。
「そうだ、愛しのカレン、明日ね、昼前にママの友だちがパークへ行くって言ってたからよろしくね」
「友だち?日本人なの?」
「そう、友だちっていうか、ティナの、ティナ叔母さんの同僚っていうのかな、山崎涼子(やまざき・りょうこ)さん。三年前に奄美に来て気にいったらしくて、パークも再開したと聞いて来たみたい。チキンは自分で温めなさいよ」

 涼子は一瞬の晴れ間のマングローブ群の厳つい幹と葉脈の照りを独占していた。川風というか海風というか、吹き抜けてくるそれは蟹たちの息吹を称えるように温んでいる。気がつけばたった一人の自分が悠長に先行しているだけで、後ろのスタッフの可蓮はさほど語らない。クララの娘さんとは言っても半分は寡黙な日本人の血ゆえか、それとも海水を黙々と吸い上げてろ過する木々の逞しさを彼女の若さに見ているのだろうか。
「あたしのこと、お母さんとか叔母さんから聞いてる?」
 可蓮はよく聞こえなかったのか、慌てて並漕すべく横についた。
「今さ、ロシアが大変なことになっているでしょう。だから危ういロシアから帰国したばかりの友だちにね、前沢牛、岩手の牛ね、前沢牛ですき焼きやらないかって誘われたんだけど、断ってこっちに来てよかった。カレンさん、カレンちゃんでいい?カレンちゃんはすき焼きって好きぃ?」
 可蓮は右舷に当たりそうな涼子のオールをかわしながら「好きです」を連呼した。
「そうなんだ、海外での生活経験があるわりには。あたしはね、すき焼きは牛肉の食べ方のワーストスリーに入れちゃってるんだ。しゃぶしゃぶも入っている。一番好きな食べ方は、やっぱりロースのグリルかな。ローストだったら腿のところ。ナイフを使いたいんだよね。切って焼け具合を見たくない?それがぺらぺらのすき焼きやしゃぶしゃぶだと台無しでしょ。日本人のくせに…嫌なオバサンでしょ?」
 可蓮は母や叔母のような弾けたような笑いを響かせるでもなかった。父親に似てちょっと変わっているのか、面白そうで不可思議なそれはそれは魅力的に過ぎるのか。
「あたしが最初に食べたお肉もグリルでした。ヤウンデの牛でした」
 涼子は不意を喰らったようにターンするオールづかいで振り返った。
「おっと、ヤウンデってカメルーンの?そうだそうだ、一家でカメルーンにいた時があったんだ。そうか~クララは、ママはシュニッツェルとかも上手だもんね~」
「父が牛の瘤をもらってきたんです」
「こぶぅ?ああ…ときどき南の方で見かける瘤のある牛ね。でもってその瘤を焼いて…美味しかった?」
 可蓮は髪をなびかせて首を振った。想像するに脂肪の塊だろうから、贅沢淡白な日本人の舌には難しそうだ。
「そうだよね、ヒデヲさんは魚米の民、あたしも本はって言えばそうなんだけど」
「父はヤウンデではライスって呼ばれていました。お米の、稲作の推進のために、こういった干潟の整備を進めている、って母が言ってました」
 可蓮は話すままにカヌーをさらりと干されたばかりの潟へ寄せた。座礁するように底へ着けてから涼子のへりをがっしり引き寄せる。筏上の中年女性はその手際に些か慌てさせられた。
「待って待って、そうか農業技師だったよね…やっぱり日本人はお米なのかな。カレンちゃんもお米が好き?」
「あたしは好きですが、父はパン好きなんです、母と同じく」
 涼子は嚙み合いそうで嚙み合わない会話に足がもつれた。それとも筏酔い?目を凝らすと泥を咀嚼する蟹たちが絨毯のように蠢いている。オスのシオマネキの見よがしに巨大な蟹ばさみは艶々している。なるほど蠢くことに人も蟹と大差ないわけだ。
「モラトワ、スリランカですが、スリランカでもカメルーンでも、父と母は喧嘩ばかりしていました」
「喧嘩?そうだったわね。ティナがよく言っていたわ、姉クララからの長距離電話には参ったって」
 可蓮は落下して刺さったばかりの漂木を指して初めて微笑んだ。
「帰国して、ここに来て、奄美に来て、母は父をもう一度好きになった、って言っています。ブレーメンで出会ったとき、府中の臭いアパートで抱かれたとき、その感覚が戻ってきているとか…」
「そっか、あの二人もここで再生しているってことだね。ところでさ、カレンちゃん、あたし今日はお客さんなんだけどね」
 涼子は舞うように蟹の求愛を避けながら高笑いした。
                                        了
数とは何かそして何であるべきか (ちくま学芸文庫)

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