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撒き菱   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 慶長十四年八月二十二日、平戸にオランダ商館が設置された。往時のオランダにとっては極東における通商の一大成果であったことは言うまでもない。されど往時の日の本にとっては、紅毛人が居留することをお上がお許しになったほどのことである。それも大大名たる徳川の動静を窺うことに明け暮れている畿内では「堺やったらどないしよ思うとったわ」ほどに過ぎない。それも海浜遥かな富田林の寺内町ともなれば紅毛と南蛮の分別もあったものでなかった。
 富田林の寺内町は一向宗の勃興という時勢に乗じた宗教自治都市のひとつである。興正寺門跡十四世の証秀上人は、自治都市を築くにあたり石山本願寺に習って水利の好い土地を購入した。そして富田林御坊と呼ばれるようになる興正寺別院を中心に、門前四周に碁盤目状の町割を整備した。南北の通りを筋、東西の通りを町と呼称し、七筋八町の整然とした町割りとなる。さても町割りの中心となった富田林御坊の山門の通りは、秀吉が築城した京の伏見城の門が移築されたと伝えられていることから城ノ門筋という。その城ノ門筋の西へ一本隣が富筋という些か賑わしい通りであった。
「火を拝んどる?」
 油屋の己吉(こきち)は帳簿から眼を上げて筋の日向を訝しそうに見た。
「そうや、釜の火に向こうてな、こうしてきっちりと長々と拝んではるんや」
 指物師とは名ばかりの光好(みつより)は注意を喚起できたので膝をぽんと叩いた。
「護摩焚きの真似事かいな」
「護摩焚きいうは、偉い偉い、それこそ御坊の門跡さまあたりがおやりになる火柱を前にしてな、こうしてお経を唱えはるこつやろ」
「何を言うてんねん。護摩焚きいうはな、信貴山のお寺や山の向こう大和に古うからある密教のお寺でな、都や天子さまの疫病退散などを祈るもんや。御坊で護摩炊きしはったなんぞ聞いたこつあらへん」
「よう聴けや。ええか、火柱を拝む護摩炊きやなくて、竈の中の火を拝んではるんやで」
 己吉は相手よりも二つばかりの年かさと親譲りの実直さもあって溜息をつくしかなかった。腕のいい職人を抱えているおかげか、物差しで背中ばかり搔いていて女子衆の噂話にばかり乗じている光好がこのごろは煩く見えていた。
「あんなぁ、あこはな、味噌屋の二代目やで。麴を炊くのが商売やったらな、竈の火は竈の神さんやろ。竈の神さんを拝まんでどないするんや」
「それはそうやな…そやかてな、味噌屋のご両人さんは豊後から嫁いできはって未だ十七やで」
「そこや言うとるんじゃ。十七やそこらでもな、商いの竈の神さんにきっちりと手を合わせる性の根、そこに二代目治右衛門はんが目を留められたんや」
「そやったらな、話の落ち着きどころは面白うもなんともないやろ。女子衆の噂のもう一つはな、あの細腕のご両人さんがな、ここ富筋の先の桜の木の上の雀を石礫で落としたそうなんや」
 己吉は阿呆臭いとばかりに見る用もない帳簿へ手を伸ばした。光好にしても女子衆にしても、味噌屋のうら若いご両人さんの色白大睫に見とれて揶揄せんでは日も暮れん始末に過ぎない。やっと指物屋の阿呆が上がり框から腰を上げたようなので思わず言ってしまった。
「足腰が矍鑠でな、東へ西へ歩けるうちが商いの大本やて親父さんも言うとる。指物師も座ってばかりやったら緞子一枚もお届けできへんで」

 一昨日の一言が大当たりしたわけでもないだろうが、己吉が指物屋へ灯芯を届けたのが凶穴への嵌りはじめとなった。灯芯を受け取った丁稚が、目を白黒させて店土間から勝手口の方へ是非にもお回りくださいとの由。何やら若旦那の光好からの言いつけと聞いて、偉そうに何様のつもりやと丁稚の後に通り土間を行けば、昨夕から足を怪我して横になっていらっしゃる御身分。己吉の七面倒くさそうな顔を嬉しそうに迎えたのは、左足を風にさらして前をはだけた熱っぽそうな光好だった。
「亀が坂筋から林町を西へ曲がりよってな、ともかくえらい足早さかいな、なんやこう犬のように追いかけてしもたんや。ほんで右の方、堺筋の方へ曲がりよって姿が見えなくなったらこれや」
 光好はやり場のない赤ら顔で二個の菱の実を縁台へ放ってきた。
「これが足に刺さったん言うやな。うまそうな鬼菱やないか」
 茶化すようにそうは言ったものの、己吉にしても裸足の刺し傷が化膿して死に至った巷話はよく耳にしていた。
「よっしゃ、指物屋の若旦那が味噌屋の女将さんの後を酔狂でつけてな、犬に追いかけられたかのようにそれを振り切りたい言うてもやで、こない尖った撒き菱はないやろ、ということやな。明日の夕まず目、味噌屋へ油を届けるよって、別嬪のご両人さんに恥かきもんで直に聞いたるわ」
「あいや、そこまでせえへんでも…皆が噂しとる…豊後の忍びの術とかの…何やそのへんを聞いてみたかっただけなんや」
「そこや言うとるんじゃ。仕事せんとけったいな噂に絆された若旦那は、この油屋の上得意でんな。片や可哀想に追いかけまわされとる味噌屋のご両人さんもやで、この油屋の上得意なんやから、この油屋が油を届けるついでに丸く収めましょ言うことや」
 己吉もいささか啖呵を切り過ぎた感を自ずと持ちながら一両日、急流に流してしまった手拭いのように夕まず目の薄暗がりは落ちてきた。堺筋に入ってから大事な灯油桶のために足元を払うように確かめて苦笑する。味噌屋の方から夕餉の仕度か麴炊きか、夕暮れらしい匂いが漂ってきている。しかも娘のようなご両人さんが白い歯を薄闇に浮かべて出迎えてくれた。
「お待ちどうさんですな。まったく豊後の何やとか…」
「味噌屋の豊後の田舎もんだす。油屋さんが暮六つ言わはったら暮六つ、旦さんも商いの鏡いうは油屋さんのことやて」
 なるほど琴を搔いたような香しいご両人さんの声、石礫を喰らわそうが、忍びの術を心得ていようが、己吉は誰かの怪我の功名なんぞどうにでもよくなってしまった。
「重いでっせ、勝手口の方まで持って行っても駄賃はいらんよって」
「ほなら勝手口のあの辺まで持ってきてもろてもよろしいでっか」
 己吉は灯油桶の下をもう一度確かめて音もなく置き据えた。男は阿呆、油屋も指物屋もどこぞのご両人さんの前では阿呆そのものや。高揚して鼻歌にもならぬ息抜きのまま売掛帳をはらりと腰からまわす。ご両人さん呼ばわりされていたのは遥か昔の女房が見ていたら呆れていたろう。己吉はもそっと早い昼七つ頃ならば水の一杯も所望できたかなどと苦笑した。
「油屋さん、忙しゅうしてはるのに…お願いがあるんどす。夕餉の煮炊きをする前の竈を見てほしいんだす」
 己吉はさすがに緩んでいた頬から歯骸に力を込めた。ご両人さんは見たとおりの十九の女子衆ではないようだ。
「旦さんも職人さんも、御坊へ出仕事で五つまでは戻られやしませんよって、火を入れる前に竈を見てほしいんだす、原田の油屋さん」
 有無を言わせず手招くご両人さんに熟女の色香は窺う由もない。どうやら石礫の腕前も光好への撒き菱も、商い熱心な原田の油屋さんを竈まで招き入れる布石だったのだ。
 ご両人さんは並んだ大竈の奥の竈口に猫のように片膝をついた。用意してあった附木に石の二度打ちの手際で火を点した。そして柴も焚き木もない竈奥へ照らすように翳す。己吉を振り仰ぐ眼差しは懇願していた。
「原田甘絽(かるろ)さま、奥に見えるデウスさまは、思うに竈の鋳職と火柱を導かれた故と信じております」
 己吉は熱い息を吐いて店土間の方を窺ってから一瞬に十字を切った。
「黒山羊(こくさんよう)甘絽さま、十二のときからお名前は伯父の和田萬裏(ばんり)からお聞きしております。申し遅れました。空蝉尼慧葉(くうせんに・えば)と申します。豊後の父より、正月の冬、平戸のオランダ商館を焼きたい、との知らせを急ぎお伝えすべく味噌屋までご足労いただきました」

                                       了
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