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幸如(シィンルゥ)   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 トオルは構内に展示されている翡翠の巨岩を一回りした後で改札口へ向かった。台南で見つけたシィンちゃんがここまでやって来る。糸魚川駅の哀愁に彼女への愛おしさは灼光を灯す。彼女は無論ほしいが王座も欲しい。何を言うとるねん。トオルは思わず舌打ちしてしまった。
 金野暢(こんの・とおる)は京都市の隣の向日市に生まれ育った二十五歳の囲碁棋士である。関西棋院所属だが年初に七段位、初夏には碁聖戦の挑戦権を得て、五番勝負まで食い下がって敵わなかったものの、初秋には王座戦の挑戦権を得ていて、次代を担う棋士の一人と目されている。シィンちゃんこと幸如の出会いは、ありがちではあるが台北での日台交友囲碁フェスティバル会場だった。
 張幸如(チャン・シィンルゥ)は台南に生まれ育った二十二歳の女子大生である。タイヤル族で宜蘭出身の父親を持つが、母親が大阪の池田の出身ゆえに不便ない関西弁を話せる。暢との出会いは、その流暢な日本語を期待されての、父方の伯母から要請されての囲碁フェスティバル会場だった。
 暢はビビアン・スーを彷彿とさせるシィンちゃんの愛らしさに真っ正直に魅了された。台南まで彼女を追いかけていって八日間ほど音信不通となるも、棋院の師匠と兄弟子に説得されて棋士廃業を撤回するに至る。むろんのこと、求愛を受け入れたシィンちゃんからの復活への発破があったことは言うまでもない。十月から王座戦に臨んで、先行されながらも二勝二敗の対にまで打ち抜いたとき、隠密に来日していたシィンちゃんから慰労の電話をもらって驚喜する。そして先週のこれまた唐突な電話は、母親が阿倍野に出しているジャージャー麺店を手伝い終わったので、これから暢が指導碁で立ち寄っている糸魚川へ向かう、というもので大いに慌ててしまった。
「そんな驚かんといて、今日と明日は糸魚川、二十三日には新潟でお仕事やったね」
「そう、村上の瀬波温泉で対局やけど…まさか、ここ糸魚川で若布みたいなもんを採るんか?」
「ワ・カ・メ…ワカメって?」
「そやかて、シィンちゃんは台南におるとき、なんや海藻のようなもん研究してること知っておるから」
「あんね、ヒスイ、翡翠、知っとる?」
「知っとるよ、宝石みたいなもんやろ…そうか、ここの海岸で時々、翡翠みたいな石が見つかるんは有名やからな」
「翡翠を見つけてみたいんよ、一緒に」
「見つけてみたい言われてもな…よっしゃ、構わんで、このホテルで今晩、待ち合わせしよか?待って、やっぱ駅まで迎えに行くわ」
 日本海の低気圧が凄まじく垂れこめてきている師走の夕の糸魚川駅である。暢は己のかじかむ指先に息を吐きかけながら、好奇心旺盛な幸如が浜の方の実況から翡翠採集を諦めてくれることを願っていた。
 暢は改札口に到着した幸如の温かい指先を両手で包みながら、彼女が翡翠を見つけてみたい海浜の荒天を呟くように言った。
「ヒスイ?ああ、翡翠ね、翡翠はええわ…トオルに会いたかったんよ」
 抱き寄せた幸如のこの言を聞いて、暢は明後日の王座戦最終局が手元に引き寄せられた実感を持った。

 平成二十八年十二月二十二日の午前、糸魚川市の中心繁華街にて大規模な火災が発生していた。耳目を大いに集めたのは約一四〇棟に及ぼうかという延焼の広がりである。老舗である酒造や割烹、そして金融機関も営業停止となって、緊急の払い戻し措置などが講じられていた。真南にあたる青海川上流の山中から北方を望むと、今は遠くになった中心街から上る黒煙が海風に揺らいでいた。
 幸如は鉱山の事務所があった跡にいた。
「シィンちゃん、頼むで、ほんまに。ほんで、火傷はしとらん?」
 暢は霜でしとど濡れた枯葉を蹴散らすように斜面に足をかけた。かつての橋立金山の坑道も冬枯れの葛葉に覆われて見当もつかない。職業柄とはいえ日頃から正座している膝にはかなり応える。碁石ばかり握っている軟い右手は寒気に蒼ざめている。しかし携帯電話を握っている左手からは、焦燥の名残りのような汗ばみの湯気が立っていた。
「火事が嫌いなんは、阿倍野でも聞いておったで、まぁ、分からんでもない…そやけどな、ここまで逃げんでもええとちゃうか?」
 暢はそう言った後で、シィンルゥの華奢なセーターの肩に触れるのを躊躇している自分に舌打ちした。
「タクシーに乗ったんか?金は持ってるからな、シィンちゃんは。そやけどな、僕とおった方が、逃げるんやったらな、僕と逃げた方がええと思わんかったぁ?」
 幸如は前髪と涙目だけを覗かせた紺マフラーの奥からやっと声を絞り出した。
「爸爸(父さん)…自己逃走了(一人で逃げた)。只有一个人逃走了(一人だけで逃げたの)。分かる?父さんは一人だけで逃げたんよ、生まれた宜蘭の山へ帰るて」
「それは聞いとるけど…」と言いかけて、暢は冷たい右指たちの先を唇においた。「そやかて一人で逃げたら…あかんて。ここはな、シィンちゃんにとって外国、日本やし、糸魚川も昨日初めて来たところやで」
「対不起、ごめん」
 暢は右手を男の子の背を叩くように振りかぶって軽く触れた。そして左手の携帯に点滅している急行の糸魚川発の時刻をちらり見た。
「もう電車に乗ろうや、ここはえらく寒いし」
「一緒に行っても…一緒に行ってもええの?」
「あたりまえや。シィンちゃんを一人になんかせん。まして今朝のこん火事やで…シィンちゃんを一人にしたら…その認知症いうか、病気で亡くなったお父はんに申し訳が立たんわ。ど突かれるわ、ほんま」
 暢はシィンちゃんがもらっていた領収書のタクシー会社へ電話した。
「おおきにな…明日はえらい大事な対局なんやろ?」
「そやからな、一緒にきて言うとるんや。王座になるとこを…もしもし、翠々タクシーさんでっか?」
 約一時間後、大火事で騒然としている駅前の混乱を掻き分ける二人の姿があった。
 それから三日後のローカル新聞の一面、当然ながら糸魚川大火の悲惨さを嫌がおうにでも追跡するものだった。しばらくは悠長な記事作りに気兼ねしたような三面、海豚に追われて柏崎の浜へ打ち上げられた鰯の大群の写真と、村上で迎えた囲碁の王座戦五番勝負の最終局の結果、本因坊が挑戦者の金野七段を退けて王座を防衛したとあった。

                                       了
微分位相幾何学

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