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鹿野米   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 日本人の辺見さんが見つかったのは鹿野(ルーイェ)村の和平天主堂の前だった。台中の鹿港(ルーカン)ではなくて、日本人にはまだ馴染み薄い台東の鹿野(ルーイェ)である。
 台東のルーイェ(鹿野)って何処?
 太平洋側の都市では花蓮が有名だが、そこから左に水平線を見ながら客運(バス)に四時間ちょっと乗れば台東である。鉄道では鹿野駅は台東駅の二つ手前になる。場所がまだまだ観光地としては認知遠い台東とはいえ、異邦人である日本人が四日ばかり行方不明になってみると、失踪や誘拐の類の事件扱い寸前まで行って少々騒がせてしまった。
 辺見さんって何者?
 辺見駿一郎は岐阜県高山市に生まれ育って、市の水道局浄水部管理課に勤めていた。過去完了形なのは、二〇〇八年の三月をもって退職しているからである。一身上の都合をよくよく聞いてみると「台湾の台東で釜飯屋をやりたい」とのこと。駿一郎は三男坊の三十一歳の独身、元来言い出したら周囲の助言も揶揄も馬耳東風の質なので、親兄弟は東京の台東区あたりの気持ちで「台湾の台東」へ旅立たせたようである。
 そもそも半年前に当たる昨年の八月、海外研修と称して台北の浄水施設から台南の烏山頭水庫までを視察した辺見さんは、帰国後に体調不良を覚えて友人医師の検診を受けた。
「胸がどうの言っておったな…見てくだせえよ、何もないから」
「こんなん見せられても…周りが煩いから診てもらっただけで…この歳になればよ、このもやもやの原因くらい分かってるって」
「おめえの自己診断には慣れてるって…胸のもやもやは飲み過ぎってか?」
「ああ、食い過ぎってとこかな…一口でもペンタリナを食ってみりゃおめえも分かるって…こりゃ恋の病だ」
 辺見さんはそう言って振り返り上着の内ポケットから財布を取り出した。そしてラミネートした写真を免許証のように突き出した。
「これだ、どうだ、もの凄くいい女だろう。李賢綺、李はその…ブルース・リーなんかのリーで、賢綺は賢くて綺麗…」
「怪しいところで知り合ったんだろ」
 辺見さんは医師の手から写真をひったくって財布へ戻した。上着を掴むと椅子を蹴るように立った。
「陶芸家だよ、女流陶芸家。瀬戸と美濃で修行していて、俺は彼女が焼いた鼠志野の茶碗を持っている」
「ああ、あの白っぽいのか、あれは台湾で買ったのか」
「あのな、台湾に行く前からあっただろうが!有名な陶芸家なんだよ!」
 辺見さんはそう怒鳴ったものの、やっぱり友人である医師には突っ込んで聞いてほしかったのだろうな。
「その…陶芸家『李賢綺』と台湾でやりたいことがあるんだ」
「ああ、聞いてるよ、弁当屋だろ」
「弁当屋じゃない、釜飯屋だ。って誰に聞いた?」
「おめえの母ちゃんにきまってるだろが。うちの駿一郎は台湾の女に引っかかって弁当、釜飯屋をはじめるとかぬかしておるが、台湾あたりでそんな商売がうまくいくはずはないだろと」
 辺見さんは案の定、子供のように憤慨して膝を叩いた。
「まあまあ、聞け。おめえの性分もよく知っている俺だ…俺なりに調べてみた、台湾のその辺の商売事情ってのを。まあ…戦前、日本が治めていた時代に持ち込まれた弁当の文化は残っているようだな」
「弁当じゃなくて釜飯だって」
「分かっている、その奇麗な陶芸家が焼いた陶器の釜に…おめえは飯を盛ってみたいんだろ。違うか?」
 辺見駿一郎は男の可愛さを露呈するのに躊躇しない、それが異性にとっても魅力的なのだろうなと友人は思った。
「実は…先週、横川に行ってきたんだ。そう、信越本線の横川駅まで行ってきたんだ、釜飯を買いに。あれは…あれは凄いな、やっぱり日本の技術は凄いな」
「凄いか…まあ、俺は知ってのとおり、大学はもちろんインターン時代もあっち、関東の方で過ごしてきたから、あそこの釜飯を買って食ったら御多分にもれず持ち帰って、うちの母ちゃんが捨てていなけりゃまだあるんだろうな」
「凄いって言うのは…あのお釜のあの質で大量に焼き上げているってことで」
「待てよ、あんな風な商売をするつもりなのか?あんな風な釜をいっぱい焼かせるつもりなのか、奇麗な陶芸家に」
「できたら釜も、いいや、釜だけじゃなくて、賢綺の他の作品、皿も壺も買ってもらえたら…」
「待てよ、最近まで高山の水道屋だったおめえがだな、何を言うかと思えば…いいか、釜飯を売る駅弁屋はやめろ。当面はだな、日本人が奇麗な陶芸家とはじめた釜飯屋、これで行くんだ!」
 辺見さんは案の定、感極まってタックルするように医師に抱きついた。
「ありがとう、それを聞いて俺も踏ん切りがついた。賢綺は…池上で少女時代を送っているから『全美行』や『正一飯包』に親しんでいて、それで弁当屋で構わないとか言ってくれて…でも元々は池上と台東の間にある鹿野の生まれなんだ。その鹿野には日本人が入植していた跡があって…鳥居も残されていて…俺は鹿野(ルーイェ)の米がいいと思うんだ」
「そうか…ルーイェの米か。行ってきな。おめえの母ちゃんに聞かれたら何と言ったらいいか…」

 李賢綺が鹿野に新たに工房を構えたのは二〇〇九年九月、辺見さんが鹿野で最初の米を収穫したのは、日本が震災で揺らぐ二〇一一年三月のことであった。

                                       了
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