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ムアンマル   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 干されたばかりのシャツの間から、姉は午後の多忙にあるアルジェ湾を見ていた。
「やめましょう、母さんの話は」
 姉はいつも自分の方から過去を傍らに押しやってきた。弟のムアンマルはその気丈さにいつも苛立つ。この日の午後も、姉の閃くような毅然さから逃れるようとして、憮然な頬のまま何度も頷いて手摺にもたれた。
 真下の坂を、アモン老人が二羽の鳩を持って上がっていくところだった。生きている時の陶片のような忙しない首は、もはや安堵したように垂れ下がっている。この頃では羽根付きのままの鳩を買ってくる姿は珍しい。餌の悪そうな小さな鳩だった。
 どんな奴だってアモン爺さんよりはましだった。母なら言っただろう…見なよ、あれが不潔な動物まで食ってしまう連中の忌まわしい後ろ姿…とりわけ忌まわしく見えてしまうのは、静脈が浮き出た老人の大きな白い手のせいだった。遥かパリのカルチェ・ラタンで、同棲していた教え子に裏切られ、挙句は殺めた数学教授という噂が定着しきっていた。そして羽根付きのままの二羽の鳩、羽根を毟ってもらうだけなら大した金額でもないのだが、何を買うにも店主や農婦にも嫌がられていた。
 姉は老人の覚束ない足取りを凝視している弟の肩に手を置いて促した。ガイド・マリカ通りで茄子とサフランを売っている父を手伝わなければならない。姉は深い吐息のまま海風をものともせずに、緑色のスカーフを頭に巻いて顎で括る。ムアンマルは脇腹を掻きながら後を追って階段を下った。

 カスバは迷宮そのものだ。かつての太守の居城は、フェニキア人が残した侮蔑の瓦礫の山の上に、トルコ人が丹念に積み上げた煉瓦を礎石代わりにしている。さらに独立戦争の後に、歴層まがいに鉄骨で補強した白塗りの漆喰が続き、鳥小屋のようなプレハブ作りが申し訳なさそうにのっている。暗くて狭い路地は、拮抗するように競り合った壁と壁の隙間でしかない。迷宮が礼儀をわきまえぬ喩なら、この年の夏は遥かなアジアの競り合う水際である香港が、英国から中国へ返還された年であったから、真に独立した民衆の聖なる未来巣窟、と集散を余儀なくされ続けている広東人なら称えただろう。
 カスバには三つのモスクがある。ベシーヌとケトショーアとドジャマ・ドジェディドの三つのモスクの背後に、人殺しと噂されるフランス人やサフランを売るアラブ人が、慎ましくしたたかに生きていた。タイヤを切り裂く練習をしている餓鬼どもがたむろしている競技場の脇を抜けて、ガイド・マリカ通りに出て北東へ辿っていくと、やがて通りはハダ・アブデラザーク大通りと名前を変えるのだが、ちょうどカスバの下で放射状に四散するような交差点がある。この交差点の手前からラ・ビクトワール通りの一帯にかけて、一区切りが約三坪程の野菜と魚、そして雑貨の店が整然と並んでいた。

 売られている野菜に季節感を見ているのはやはり老人達だが、鮪の紡錘形が切り分けられる様子に固唾を飲んでいたり、岩塩焼きにしてみてくれと鱸を推しつけられて困惑しているのは、フランス語や英語で断って苦笑している外国人である。
「じゃが芋があって、キャベツも立派にあるから、あなたも暫くは生きていけそうね」
 アンヌはゲオルグの肩に凭れるようにして言ってから小さく笑った。
「ケーテ、昨夜の鳩のローストに添えられていたグリンピースはきっとここのものだわ」
 アンヌはさらにオットーと前を歩いていたゲオルグの一人娘の肩へ手をかけて囁いた。
 オットーは不機嫌そうにそら豆とアスパラガスと蕪を次々に指して、その小振りなことと萎びていることを嘆きながら振返った。
 ゲオルグはそれに頷きながらアンヌの肩を抱き寄せて言った。
「どうやら、あの冷凍倉庫は日本人の鮪のためにだけ使われそうだ」
 アンヌは反りかえって大らかに笑った後で明確なドイツ語を並べた。
「諸君、前向きに取り組もうではないか」
 ド・ラ・リール市場に隣接した冷凍倉庫の新設交換を落札したのは、かつての占領国だったが、技術的な側面の補佐と保全は、大臣のフランス嫌いが作用してゲオルグ・ホーネッカー博士とオットー・カラテオドリ技師が召請された。二人は通常は、ハンブルグのレーパーバーン通りの電力会社の研究所に勤務している。博士は二度目の結婚でケーテをもうけるが、妻が勤務先の上司と恋仲になったために現在は別居中だった。
 ケーテは夏休み中だったが、海外出張、それも北アフリカと聞いて同行することに決めたのだった。
 アンヌ・シュバリエは、エコール・ポリテクニク出の才媛で、尚早の三十二歳だったが、アルジェとオランの都市計画顧問に抜擢されたばかりだった。表情が分かりやすい広東人の女優のような風貌は、ゲオルグとオットーを初対面から魅了していた。

「海軍省の真下でそっと種を流してやる……三日もすれば沖合いの種を呑み込んだ『茄子の石』が、鳥のようにぽこりぽこりと産んでくれて、俺はそれを波打ち際で掬い取る」
 父は子連れの客達を笑わせていた。自分の息子の名前に、ケトショーアの師の名前をそのまま頂戴するような男だ。十一年前、身重の妻にさほど気にかけることもなく、ティパサの郊外へズッキーニを買い出しに行って戻って、「勢いは思慮が大嫌いなのさ」の口癖どおりに一人息子をムアンマルと揚々に命名してしまった。滑稽話で野菜を売る痩せた男はカスバでも有名だった。愛敬のある眦は若々しく落ち着きなかったが、顎鬚は随分と白いものが混じりはじめている。雑把な人間という印象を与える反面、一昨年に亡くした妻の友人にシナモンを勧めながら昔話に涙を拭うような男だった。
「旦那さん、サフランの色こそはこの世で最も残酷な色だ」
 屋根代わりの幌の下で二軒のビストロの主人達が、クロッカスの花弁の品定めをしていたのを見逃す父ではない。手にされている今日の黄金が良質ではないと見切っていたので、自ら先手を打って安値を匂わせる。その機転を見ていると、姉はいつも眉をひそめて横を向いてしまうが、ムアンマルは近所の老人達が回想する期待されていた若かりし父の鋭敏さを見る想いがしていた。
 ムアンマルは売れ残りすぎている乾燥した金色の花弁を摘み上げた。父はすかさずその手をたたいて話し続ける。手伝わなければ、夕刻になって姉の言い聞かせ方が悪い、と怒鳴る。手伝えば手を出すなと親父ぶる。ムアンマルは仕方なく姉と共に競技場の方へ水を汲みに行くのだった。
 姉の後を追って坂を下っていくと、姉が立ち止まってこちらを見ていた。ムアンマルを待っているのではなく、こちらへ上ってくる擦れ違ったばかりの二人の後姿を凝視しているのだった。
 大人の女は長い黒髪を後ろで束ねて、長身で骨っぽい上半身をよく反射するタイベックス地の白いジャケットで覆い、胸元の黒真珠のネックレスを気にかけながら朝鮮人かと思わせる玲利そうな顎を見せていた。
 少女の方は眩いばかりの金髪を肩まででとどめているが、美しい碧眼は白地のTシャツの雌牛「ママ・ムー」のおどけた表情を気にしているかのように伏せられていた。
 ムアンマルもまた歩調を緩めて二人に見とれていると、姉は坂の突き当たりを曲がったらしく見えなくなっていた。

 旧約聖書でいうアベルは羊飼いであり、兄カインは耕作する者である。呼吸をするようにキーボードに触れてばかりいるケーテのような少女でも、人間が具体的に羊や土に触れるものであることは知っている。しかし調理された牛肉やパンになった小麦しか知らないケーテにとっては、羊飼いにしても耕す者にしても、重油臭い機械を操作する赤ら顔の農民に重ねてしまうことは容易にして当然なことだった。
 ドイツでは羊の毛を刈ったり時として彼等の頭骨に穴をあけることや、肥沃な大地を掘削し泥塗れの根菜を掘り出すことは、モーター音を唸らせる機械がやることだった。しかしそこは北アフリカ…ハンブルグで生まれ育った少女が、砂嵐の去ったガルダイアで見たものは壮烈だった。
 深長な黒い瞳で、東洋人と見紛う雰囲気を持ったフランス人女性アンヌは、ホテルで最初に食事を供にしたときから利発そうなケーテに興味を覚えていた。
「あなたと二人だけだからこんなことを話せるのよ」
 アンヌはエムルク広場へ向いたロビーのソファでケーテの華奢な肩を抱いて話しはじめた。
「あの女性を見て…この国の宗教はイスラーム…この国の女性たちは、あの子のように未婚の女性は顔を出していて、既婚の御婦人はあのおばさんのように頭からあんなふうに白衣にくるまっていて…ああして隙間からこっちを覗いているの」 
 ハイクという白衣の材質には、絹あり木綿あり化学繊維ありといったところで、ケーテが感心しきっているので、アンヌは仕方なく簡単にオランが祖母の故郷ゆえに知識があることを言わざるえなかった。
「あのハイクの下…オットーもあなたのお父さんも同じことをあたしに聞いていたわ…何を着ているんだってね」
 アンヌはケーテの髪の感触を楽しみながら、ハイクの下に着ているドレスの刺繍の緑の美しさを称えた。
「本当のアフリカを見てみない?」
 ケーテはアンヌがすでに砂漠の入り口へ父とオットーを誘っていたことを知って、茫洋と天井のシャンデリアを見上げている彼女から静かに離れた。
「北アフリカだから来てみたかったんでしょう?」
 父親とその同僚を少年のようにはしゃがせた隊商都市は、ケーテにとっては苛酷と悲惨を予感させるに充分なものだった。
 アンヌが誘ったガルダイアの郊外…そこは砂の波が押し寄せる最前線だった。熱さは痛みなく襲い大方を諦めさせるが、疾風は痛みを持って視界を遮り度々後悔させる。汲み上げられた水が脅えるようにこの時とばかりナツメ椰子にかかっていた。その飛沫の下をかいくぐって大人の女の指先が少女を促す。誰もが東に向かって祈っている時刻に、一人の精悍なベルベル人が無言で羊の首筋に刃を落とした。砂漠では出血も断末もゆるやかに吸い込まれるのだろうか。それにしても嘶きはか弱くて素直すぎる。見よとばかりに男は蒼ざめた彼女たちの方へ体を大きく開いた。
 人間の最も残酷な瞬間は、自分以外の生命を試す時だ。諧謔に突き出された両の掌にある鮮血は逆光のために見えず…痙攣さえなければ見る者も苦しまず、劇的な夕暮れに顔を背けることもないだろう。しかし顔を背けたのは苦笑する大人の女であって、鼻先ばかり日焼けした蒼白な少女ではなかった。
 ケーテは静寂の内にあるひりつくような光景から目が離せなかった。美貌の象徴として与えられたゲルマンの睫は、後悔の網膜の重さに耐えられず呼応するかのように痙攣していた。赤々、砂に吸い込まれて黒々としている畏怖すべき血…それもまた草を食むものの無償のひとつ。幼いケーテとて、血の熟成された味は祖父の好みのソーセージで知っている。しかしそれはすでに黒々としていて何の血…如何なる四つ足の血かも想像できようはずもなかった。あのときに奉仕したものはイスラムにとっては最悪の汚辱動物だったのだ。そしてこの強烈な灼光の下で確実に奉仕されるものは、アベルの時代から堂々と何ら変わっていないように見える。痩せた草を食んで乾いた血を捧げる痩せた一匹の羊。北国のイコンの顔となっているあの劇的な男も、淡々と羊の血が砂に吸い込まれていくさまを見ていたのだろうか。
 母娘のような二人は寄り添って黙ったまま繁華街へ戻っていった。
「ショルバ…この国のおいしいスープよ。さっきの羊の頭もきっと彼等、ムザブ族のスープ鍋に浮かぶのよ」
 呼びかける男達の中に女の探し物は待機していた。砂礫の小山のようなテントの入口で、珍しく髭の薄い人の良さそうな青年が、使い古した大鍋の前で二人を手招いていた。女は些か誇らしげに黒髪をかきあげて、胸元に頬を寄せていた少女に肉と血の顛末を開示した。金属の縁を叩く音の許に、剥き出された羊の歯並びがあった。誰のものともつかなくなった肉は脂輪をつくり、血は誰もが信じ難いように凝灰岩のような泡に変わっている。踊るような炎だけが忙しく揺れていた。
「それでも、あなたにはとても分からないでしょうけれど、砂漠はある種の人間にとっては、花園なのよ、きっと…例えば奇態な喜悦にだけ捕らわれた知的な都市生活者とか」
 アルジェのホテルに戻るときにアンヌは呟くように言った。
 ケーテは、自分の白い手の動脈とも静脈ともつかぬ青黒い糸流を、まじまじと辿ることになった。

 古い「ル・モンド」をかぶって居眠りしていたムアンマルを姉が小突いた時、日は真上にあって姉の脇の下からは柑橘の香りがたちこめていた。
「寝かせておけばいいじゃないか。読書家で 計算のはやい弟はこの国の未来だ」
 姉の幼なじみのワジムはオラッシー・ホテルの近くで織物を売っていた。誰もが兄貴と慕う長身で弁舌巧みな男。ワジムはムアンマルに小銭を握らせて微笑むと、自分から目を離せないでいる姉の手を優しく引いていった。
「俺のことなら大丈夫だ。おまえのワジムはカバイール族の王なのだから…」
 若い王だけが自らを王だと口にしないではいられない。
 記憶の限りにムアンマルが最初にワジムを見たのは、父を捜しに出た母を幼さゆえの危なげな脚で追った時だった。彷徨したあげくに早朝の真下の波止場ではじめて鋼のようなワジムを見た。明るんできた波間を茫洋と見ていた横顔は、伸ばしはじめた髭が点在していて精悍そのものだった。背筋が不満な鉄筋ように見えるほど痩せていて、漁船が出ていった後は遠くの波間ばかりを見ていた。そして右手に握られた小竿から糸がゆるやかに垂れていた。
「その子なら大丈夫だ」
 ワジムの自信に満ちた声の断片は、ムアンマルの記憶と姉の嘆きに度々遮られた。
 あの時、ワジムが釣ろうとしていたのは鱸だった。オラッシー・ホテルに長期滞在していたアメリカ人に貰ったという鱸釣り専用の仕掛け…鰯に似せた鈎付きの棒が何度も何度も投げられた。幼すぎるムアンマルは魚を釣る道具だとは知らずに見入っていた。
 それから数年たってムアンマルも分別がついた頃、波止場への路地で膝を抱えているワジムを姉が見つけて走り寄っていった。酔った観光客が、トレムセンの刺繍の束にワインをかけたとか。小切手の支払が駄目なら後でホテルまできてくれと言うので、行ってみれば行方不明の始末。店主に酷く殴られて端正な頬が黒ずんでいた。
「そうだ、釣りも昼寝も、時には祈りをも忘れて、俺は親父達のフランスとの戦争についてむさぼり読んだ」
 自信に満ちて言いきる今のワジムの頬からは想像もできない。それでもアッラーの御加護はワジムに降りた。横暴さに嫌気がさした店主の妻が、子供を連れてティパサの実家へ戻ってしまった。滅入って自宅に引き篭もるようになってしまった店主は、今でも寝たきりに近い状態にある。気がつけばワジムは完全に商売をあずかるようになっていた。あれからワジムは波止場に立つこともなくなったが、言葉は自信に満ち溢れている。
「ちょっと黙って聞いてくれ。犠牲は必要だが、英雄はもはや必要な時代ではない」
 姉はいつものように泣き出す一歩手前なのだろう。ワジムを追いかけ疲れたような姉は、日増しに度量が深まっていくような彼の振る舞いに恐ろしさを感じている、ともらしていた。
「特に技術者だ。奴等の見下した態度は…許せない」
 姉はすでに声を洩らさずに泣いていた。

 紡錘形の枝肉が無表情に列をなして吊り下げられている中、ケーテは顎と肩を忙しなく掻きながら談笑している父に縋りついた。
「ここは冷えすぎるし、表は『太陽の賛歌』なのだから、そこにいればいいものを…」
 ホーネッカー博士はやっと愛娘の指先が震えていることに気がついた。ケーテにとって父のドイツ語はいつも冷静を装っていて芝居じみている。結果として頼り甲斐がないことは母から嫌というほど聞かされた。そして娘の露な脅えに声をなくしていた。
 博士から質問を受けていたアルル生まれの冷凍技術者が、ケーテの右肩に滲みを見つけた。黄色いポロシャツにプチ・トマトほどの鮮やかな血痕がある。脚羊の群下がる中で、男達は射抜くような黄地の鮮血に言葉をなくした。
 ホーネッカー博士はケーテの泣き言を聞き取り終わらぬうちに、操作教程書を冷凍技術者の手袋に押し付けて、制御室の方へ娘の金髪を抱きしめながら小走りに駆け出した。親子の後を追おうとした冷凍技術者のさらなる驚愕は聞き取りにくいフランス語に変わった。
「顧問が…マドモアゼル・シュバリエが血まみれだ」
 アンヌが薄ら笑いを浮かべて子羊の肉塊を押しのけて現れたのだ。
 誰もがアンヌの左手が抑える出血の夥しさを見とめる。白地のパンツの左腿が黒ずみがかっていた。
 ゲオルグが女二人を支えながら開けはなたれている装甲扉のハンドルに手をかけた時、ケーテは冷蔵室から出ることを拒むように細い首を小刻みに振った。
「アラブ人がナイフを持って追いかけてきたのよ。オットー?オットーはあたしとアンヌを置いて港の方へ行ってしまったわ…」
 ゲオルグが舌打ちした時、小柄なベルベル人の掃除夫がタオルを持って扉の入口に立った。笑ってばかりいるアンヌがやっと病院へ送られていったのはそれから十分ほどしてからだった。ゲオルグは豊満な中年の女性事務員に肩の手当てを受けている娘の両膝が、痛々しく擦り剥けていることに気が付かさせられた。黄色いポロ・シャツの背中と、白いサファリ・パンツの右腰には、赤茶けた錆が点々と擦れ付いていた。
 包帯が巻き終わると、ケーテはもはや充分に観賞し尽くしたように呟いた。
「帰りたい…アラブ人はやっぱり泥棒ばかり…アンヌは魔女…」
 ゲオルグは優しくハンカチで娘の汚れを払いながら…アンヌ・シュバリエのことを考えていた。

 翌週になってみると、騒然としていた冷凍倉庫にも冷徹な仕事ぶりが戻っていた。しかし午後の事務室では、カバイール族とオラン生まれのフランス人の事務員が激論中だった。
「観光がなによ!フランス人が、空港からホテルまでそっくり持ち込んで、あとは裸になっていただけじゃない」
「フランス人ばかりじゃなかったわ。ドイツ人だって…また廊下をこっちにむかってくるわ」
「どうせ…いまに逃げだすわよ」
「あの女はまだいるわ、傷を負っても」
「あの女…仕事をしないで、あのドイツ人と裸になることばかり考えているからよ」
「いいこと、あなたのお母さんの時代の本当のイスラームは、裸なんて口が裂けても言わなかったでしょうよ、聞いているの?」
「聞いているけれど…どう見てもファティマのお父さん…」
「ファティマのお父さん?あら…野菜を売っている親父さんじゃない」
「背広なんか着ちゃって…」
 カバイール族の事務員がムアンマルとファティマの父親、アブドゥルをつれて応接室に入ってきた時、ケーテの小さな悲鳴が呑みこまれたことは疑いない。ケーテは早々と包帯をとって剥けた膝をさらしていた。彼女は残りの日々を父親から離れずにいることを宣言して、応接室の隅で諦めたようにキーボードを打っていた。
 アブドゥルは丁重にフランス語で挨拶してから、白髪混じりの眉を掻きながら座ってもいいか尋ねた。
「ドイツ語が話せるなんて…」
 ケーテはあきれた呟きをもらした。
 初老のアラブ人は事務員に付き添われるようにしてソファの端に座った。
「ハンブルグはいい街です」
 アブドゥルは立ったままのケーテと口を半開きにした事務員を横目に話しつづけた。
「四年前に、ハンブルグに住む友人に斡旋してもらって、二ヶ月ばかり道路工事をしていたことがあったんです。短い間だったが、いい街でした。下手なドイツ語は通じていますか?お願いですから座ってください。ドイツ語をどこで憶えたか、ですか?これでも大学に行って学んでいた時期がありましてね…化学染料に興味を持っていまして…先生が紹介してくれた先がドルトムントの研究者と学生でして、皆さん、こんなアルジェの私にとても親切にしてくれました」
 ケーテは聞き取りにくいドイツ語が逡巡とした後で軽く咳き込んでみた。
 アブドゥルは息子よりも少々幼さそうな少女に向かってゆっくり発音した。
「ワジムは口先だけの奴ですが、娘が…娘がそのワジムに惚れこんでいる。分かりますか?あなたともう一人のフランス人の女性を傷つけた、ということになっている若者は…わたしの娘が惚れこんでいる男なのです。本当の…本当の事を言ってもらえませんか」
 父親アブドゥルは、娘ファティマと息子ムアンマルを交互に思いつくかぎりドイツ語で表現した。
「ワジムがイスラーム以外の人に暴行をくわえるような若者ではない、と言っているのではありません」
 アブドゥルは少々強面にケーテを見据えて、聞きたがっている事務員の手を払いのけて言った。
「私は自分が見ていることを放ってはおけないのです、ワジムではない男がフランス人の女性に暴行をくわえていたことを」

 アンヌとケーテが負傷した翌日の夕方、祈りを終えて刺繍の縫い目を確認していたワジムが、警察官三人に路上へ引き出された。くりかえし怒鳴りつけられた容疑は誘拐未遂だった。車へ押し込められるまでガイド・マリカ通りの騒然とした中で、当のワジムは不敵以上に嬉々たる笑いを浮かべていた。
 晩にはアンヌがゲオルグに付き添われて直に顔を確認することになった。彼女はカバイール族の顔に微笑んで頷いた。ワジムも満足そうに何度も頷いた。アンヌは嬉しそうに、ナイフを翳して斬りつけてきた本人であると、ゲオルグの耳にかすかに聞き取れるドイツ語を吹き入れた。容疑者は心持ち額を曇らせると、苦笑しながら言葉を一言も漏らさなかった。
 留置されてから五日経った今でも、ワジムは何も話していなかった。
 ワジムの顔からふてぶてしさがひいた頃の午後、ムアンマルは補習を見てくれた教師と窓辺で話し込んでいた。コルシカ島生まれの教師に大学行きを強くすすめられて、帰りの濡れそぼる小雨が気持ちよかった。
 やがてはムアンマルも感傷をもって帰るだろう迷宮の奥の隅の我が家…彼が口笛を吹きながら扉を後ろ手に閉めると、暗がりのなかに呼吸を聞いて恐る恐る電灯を点けた。
 父がすでに睨みつけていた。なんとまたサフランをばら撒いてしまったらしい。父に言わせれば、何がぶつかったわけでもなく、サフランが路上に散乱した直後に滝のような雨が降ってきたこともふくめて、あらゆる不祥事の発端は、商売も手伝わないフランスにかぶれている息子と、織物商の色男のことばかり考えている娘にある、と吐きたてられる。
 ムアンマルは慣れたような失意を覚えて家を出たのだった。

 ケーテはモガール通りの角で上がっている湯気に目を細めた。
 テーブルの向こう側には柔和そうに繕っているアブドゥルと、強いて連れてこられた息子の怪訝そうな顔があった。
「あなた達も…ショルバって好きなの?」
「もう何年も食べていません、ここはアルジェですから」
 ムアンマルは夢でも見ているかのようだった。父が背広を着て学校の校門前で待っていたのだ。そのことだけでも普通には逃げ出したい凶事であるのに、ダ・アングルテールに宿泊している人に食事を誘われたと言うのだ。
「父の方から誘っていながら来ないなんて、どんな理由があるにせよ」
「構いません、我々も祈る時には祈りますから」
 ムアンマルは父とケーテが会話しているさまから目を逸らしていたが、嘔吐の後に卒倒することばかりを思っていた。
 食事がはじまって静謐が広がると、ムアンマルはスープ皿の向うにこれほど白い人を見ることが初めてであることを確信した。ケーテの鼻先は幾分赤みがかっているが、ポニィ・テイルに束ねられた金髪の生え際は象牙のような額に吸い込まれている。ムアンマルはわずかにのぞく少女の鎖骨から目を離した。
 アブドゥルは息子の前では飲んで見せたこともないワインを啜ったあとで、ケーテのありきたりの質問に些か気取って答えた。
「…好きなものは鱸…パイ皮で包んで焼いた鱸です」
 ケーテはわざとらしく背筋を伸ばした。
「まるでフランス人だわ」
 ムアンマルはサフラン売りの父ではない父がもうひとりいることに、自分が喜んでいないことをついに見出された絶望のように感じていた。
「我が息子よ、食っているか?」
 父のフランス語はいつもおどけている。しかしここにはサフラン売りの父も茄子売りの父もいない。一日だけ酩酊している父がいる、とムアンマルは自分へ言い聞かせた。
 アブドゥルは揺れながら椅子から立った。
「おまえの得意なフランス語で言ってやってくれ」
 父親は息子に向かって歌うようにアラビア語を突きつけた。
「アルジェリアのカバイール族っていうゲルマンとは全然違う人間だってことをな」
 店の奥から誰かが呼応するように正午になったことを告げた。
 ケーテは自分と殆ど同背丈のムアンマルと二人だけになると、午前中の事情聴取を思い出して目頭が熱くなった。
「本当のことしか言ってないわ…」
 ムアンマルにはケーテがもらしたドイツ語が分からなかった。彼女の頬が下がりながら歪むのを見ているしかなかった。母とも姉とも似つかぬ女の泣き顔は、金とも銀ともつかない後れ毛に覆われる。うなじが気づかぬくらいに赤らんでいるのが見えた。
「姉は信じてくれないだろう、父さんがドイツ語を話すなんて」
 ムアンマルが呟いたフランス語はそれだけだった。

 アンヌは下着姿に咥え煙草でキーボードの前に戻っていった。
「夕食の時に御立派な方達へ渡さなくちゃならないのよ」
 ケーテは自分の部屋へ戻りかけたが、洗濯袋からもれ落ちていた父親の靴下を見て唇を噛んだ。
「ゲオルグと…あなたのお父さんとあたしのこと?」
 ケーテはアンヌのベッドへ落ちるように座って問いただした。
「ケーテ、傷を負わされたのはあたしなのよ?あなたもちょっとだけ怪我をしたみたいだけれども」
 アンヌはいとも軽快にこの国で受ける危害はこの国の誰もが償うべきだという詭弁を弄した。
「もちろん、ワジムなんて知らなかったわ、ちょっと見は可愛かったけれどね。だいたいワジムとあの狂った駱駝みたいな土産物屋が知り合いだって言うし…それに、あのワジムもずっと警察から睨まれているって言うじゃない」
 ケーテは堰を切ったように泣き出して、アンヌの丸められたストッキングを持ち主に投げつけた。
「帰りなさいよ、自分の部屋でもハンブルグでも」
 大人の女は咥えていた煙草の灰が股間に落ちるとさらに形相を変えた。
「ゲオルグがあたしに近寄ってきたのよ!あたしはね、ゲオルグだろうがオットーだろうが構わなかった!そうよ、ドイツ人だろうがベルベル人だろうが、あたし、アンヌ・シュバリエは構わないのよ」
 セント・オーガスティン教会の前で膝小僧を抱えていたケーテのまわりには、気がついて見まわしてみると四、五人の子供が遠巻きにいつもの強い眼光で金髪の様子を覗っている。同じように笑ったり泣いたりしているだけなのに、そんなに異邦人のケーテが珍しいものなのか。ケーテは疲れきってしまい、日が沈みきるまでの僅かな間ぐらい見せ物になってあげても構わない、と大人びた笑いをもらして観念する。
 それにしても、祖母の血をオランに持つアンヌが、何故、この土地の人々を総じて憎まなくてはならないのだろうか。
 羊が絶命する様を、その羊の頭がショルバとして煮詰められる様を、誇らしげに見せてくれたアンヌがなぜ…そして彼女は刺されて笑っていたではないか。
 その時、カスバのモスクの方から淀んだ雷鳴のように祈りが降りてきた。

 雲間から日が射すと、苛立っているように見える黒波が陽気な緑青に変わる。波止場には昨夜の雨が涼しげに幾つかの小さな溜りを残していた。
 突端で白髪を靡かせながら小竿を握っているオレンジ色のウェーダー姿がある。呪われたアモン爺さんだった。
 湿った木箱に座っていたムアンマルは、空腹を感じて『ル・モンド』をたたんだ。Aide financière(奨学金)という言葉が渚の煌きの間に点滅した。
 茄子売りの父もかつては奨学金を貰って、ボルドー埠頭のあたりからずっと入っていった大学で学んでいたらしい。しかし今では茄子売りだ。アモン爺さんだって噂が本当なら若いときは大学教授だったことになる。ワジムは留置所から戻ってまた英雄気取りだ。とても先のことは…御意志のままだ。
 ムアンマルはすべての問題が貧しさにあると考えるには感受性が強すぎた。
 背後で罵声があがったので振り返ると、純白のシトロエンが、バスから降りて波止場へ続く観光客の蛇行を断ち切るところだった。サングラスの男女の後ろにケーテ・ホーネッカーがいた。
 ムアンマルはトロエンの後部座席の金髪を凝視しながらふらりと立った。「ル・モンド」が風にあおられる。丸めるように抱えた時、ケーテは不機嫌そうに何か言って降りるところだった。若い漁師や酔った観光客が口笛を鳴らす中、黄色いポロ・シャツと白いサファリ・パンツの少女が俯きながら波止場の突端へ歩き出した。すでにムアンマルを確認しているようだった。
 ケーテは水溜まりに踏み込みそうになった時、固く結ばれていた唇に笑みを浮かべてフランス語を叫んだ。
「お姉さんに聞いて来たわ」
 ムアンマルは聞こえないので両腕を広げるしかなかった。
「お姉さんが言っていたわ、子供らしくないムアンマルはここにいるって」
 ムアンマルはケーテが充分に近づくと、面倒そうに「ル・モンド」を木箱に敷いてすすめた。彼は随分後になってから自分の仕種にはにかんだ。陽光の下のケーテは、己が輝きに熔けいりそうだった。
「ここを見て」
 右肩にL字形の小さな鉤裂きがあった。
「あの魔女はナイフで指されたけれど、あたしのここはナイフじゃないの」
 あの日はアンヌとオットー、そしてケーテは、カスバ周辺をまわっていた。オットーは博士に気遣いしながらもアンヌの言いなりである。アンヌはガイド・マリカ通りの土産物屋で、格安なトレムセンの刺繍反物を見つけた。駱駝顔の店主はさらなる値引きに快く応じてくれた。しかも裏通りの友人の喫茶店でカフェを御馳走すると言う。折りも折り、小雨も降ってきて、アンヌのはしゃぎ様に苛立ちも頂点に達したケーテは、ガイド・マリカ通りを逆に走り出した。そして野菜を売っていた男が、呼び込みをやめて小雨からサフラン籠を守ろうとした時、ポニィ・テイルの少女が勢いよくぶつかった。男は籠を抱えたまま花弁を撒くようにして転がる。ケーテは男の怒りから逃げようとして隣の金物細工に接触した。彼女の右肩を切ったのは、下がっていた真鍮のランプのひとつ、痛みに驚いて傍らの屑鉄に転がってしまった。
 籠を抱えて転がった男アブドゥルは、次の悲鳴で振返ることになった。アンヌはイスラームを大いに侮辱したのだった。
 ケーテはワジムが保釈されたことを告げてまた謝罪した。
「そして、あのサフランを売っていた人がドイツ語で話しかけてきたの。でも、ばら撒かれたサフランのことは何も言わなかったわ、売り物を台無しにしたでしょうに…」
 ムアンマルは父が転がる様を想像して、哀しい笑いに顔を両手で覆った。
「知らない、知らない、そんな間抜けなサフラン売りなんて」
 ムアンマルは潤むなかで困惑しはじめたケーテの瞳を見ていた。
「随分笑わせる親父だ…フランス語なんか使わないよ」
 少年は押しやるように少女の肩に手をかけて何度も言った。
「そんなことよりも、はやく帰ったほうがいいよ」
 少女は少年から呆けたように目を逸らせて、首を振りながら後れ毛を白い指でかきあげた。
 ムアンマルは海の方へ後退りながら言った。
「やっぱり、今日も…ワジムは君を…君たちを狙っている」
 雲が切れ切れに遠くなって陽射しが満ちてきた。アモン爺さんが突端から帰ってくるようだった。よろよろとしていていつもの鬼気迫る表情ではない。右手で竿を擦り引きながら左手に壜を持っていた。

                                       了

曲線と曲面の現代幾何学――入門から発展へ (Iwanami Mathematics)

曲線と曲面の現代幾何学――入門から発展へ (Iwanami Mathematics)

  • 作者: 宮岡 礼子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本



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