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一乗谷   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 元亀四年は後に改元して天正元年、八月十八日という朱夏の極み候のことである。越前は一乗谷の惨状もここに極まり、檜皮葺は言うに及ばず瓦土塀も劫火に焦がされ灰燼と化した。応仁の大乱以降、砕かれた散った亀甲のような日の本を破片粉塵ごと搔き集める大挙に出た信長という男、数百年後の史跡知らずをも刮目させたその男の壮挙いやさ暴挙の一つがここに見られる。夜半まで一乗谷を渡る強暴な火柱は、改暦されて天正となる元号の更なる凶変を予感させるような赤々とした灼炎となった。
 明けて八月十九日、焼け残った一乗谷城の三の丸から項垂れ下る二人の武将がいた。信長から若狭一国を任されて三の丸へ陣を敷いた丹羽長秀の許へ、昨日からの戦果報告として参上した若狭武田氏家臣の松宮清長と粟屋勝久である。両人の疲弊した心中に容赦なく去来する思いは、長らく朝倉に捕らわれている当主孫犬丸(後の武田元明)への忠義、今や仇敵だった朝倉を一掃しようとしている強大過ぎる信長への恐慌にあった。
「叶わんのう、この焦げ臭さは。おぬしはここをやると仰せなら有難く拝領するか?」
 清長はこれまた疲れ切ったような馬の鞍を寄せて苦笑交じりに聞いた。
「奴の首を取ってからじゃ」
 勝久は正直なところ馬首を抱えて眠り込んでしまいたかった。
「奴の首だと、義景の首など、そのうち平泉寺の生臭坊主が持参することだろうよ」
「違う。平泉寺の坊主やら大野の武者狩りやらが巣食っている中へ追い込んだ奴の首のことよ」
 清長は打たれたように背筋を立てて項垂れるように頷いた。
「朝倉衆筆頭の朝倉景鏡(かげあきら)、あの狐か」
 越前と武田家の命運に狐を据えてくるとはさすがの粟屋勝久である。五代続いた朝倉本家が途切れようと、あの狐の景鏡が狐よろしく丹羽殿の辺りを立ち回れば、孫犬丸さまを奉じるも我らの戦続きは途方もない。清長は自棄じみて振り返った。
「ならばじゃ、いっそのこと、お狐さまに馬の轡を繋ごうかのう」
 勝久は手綱を息子に預けて馬上酔揺の体で眠りに沈みはじめていた。
「聞いておったか?そうか、お前も眠そうじゃのう」
 清長は己の疲労の果ての寡黙な足軽列を止めて、それに勝るとも劣らず疲れて鈍重な粟屋の一行を先に行かせた。槍先にふらつかせられているものの足軽あっての軍勢である。その足軽も尻下の馬も、そして己も、飲んでも飲んでも乾いてしまう夏の盛りだ。どこか焼け燻っていない邸跡、すなわち早々にここ一乗谷を見限った空き家然と見紛う構えなら井戸があるだろう。見当たらない。見えるのは二町ほど先の下城戸あたりにはためく織田の桐旗だけである。兎にも角にも、春までは讃えて昨夜は焼き払った一乗谷を出ようか。ふと子の泣き声が右耳についた。清長は赤子が蝉のように鳴り泣く崩れ門の奥を覗いてみる。門柱の軒下裏で乳をやっていた女と嫌がおうにでも目が合った。
 清長は安寧を知らぬ戦国武将という自覚は毛頭なかった。
「さても、己の身を案じるばかり、女子供を置き捨てて、さっさと平泉寺へ逃げてしもうた朝倉義景、この様を御覧じられ」
 女は呆けていたような柳目を猫の光彩をもってこちらへ向けた。赤子の吸い口から乳を残した乳首が弾ける。赤子が驚き泣き出すと薄ら笑いながら女が吠えた。
「この子はのう、義景さまの従弟で、朝倉衆筆頭、大野郡司であらせられる朝倉景鏡さまの三男、犬丸さまじゃ」
 清長は思わず手綱をひいて仰け反った。
「女、気がふれてしもうたか」
 女の笑いは呵々と大笑になって、泣いている赤子を叱咤の末に愚弄しているように見えた。乳が垂れる乳首をさらけ出しながらの鬼気迫る女の笑い顔、殺戮の記憶が双肩に重い白日に直視続けられるものではない。さればこそ、女が言ったことは聞き逃せない。清長はよろめくように下馬した。
「女、ここはその朝倉景鏡さまの屋敷だったところか?」
「景鏡さまのお屋敷じゃ」
「なるほど、早々に退散された景鏡さまの屋敷なら、女、井戸はまだ生きておるだろう」
 女はごくりと喉を鳴らして己の右乳首を上げて咥えた。乾いている。口から糸を立てて下がった右乳首はうまい具合に赤子の鼻先に落ちた。
「井戸は死んだ、井戸の辺りは水を飲んで死んだ者ばかりじゃ」
「なるほど、景鏡さまが毒をまいて退散されたわけか」
「わらわじゃ、景鏡さまに言付かって、兜花を井戸へ入れたは」
 清長は呼応するように喉を鳴らした。女は気などふれていない。さればこそ、女は景鏡への切り口を一つ二つ持っているやも知れん。今のままでは織田はもとより武田もいつ毒の井戸となるやも見当がつかん。清長は女を気の毒そうに見ている子飼いの足軽の竹筒を渡した。
「女、三の丸近くの湧き水じゃ、飲め」
 女は竹筒を受け取ってから足軽の若々しい目元口元に見入っている。そして唇の乳を拭うようにして竹筒に口をつけた。
「一つ聞きたい。その子は本当に景鏡さまの三男なのか?」
「この子?犬丸は確かにわらわが産んだ子なれど、さあ、景鏡さまのお子かどうかということになると…」
「もう一つ聞きたい。景鏡さまと主、義景さま、おなごとしてどちらが好みじゃ」
 女は咽るようにまた笑いだした。苦しそうに徐々に笑いを収めると、赤子に乳首を吸い直させて足軽の方へ竹筒を突き出した。
「わらわはああいう若いおのこが好みじゃ。犬丸のてて親が景鏡さまかどうかなんぞお釈迦さまでも分かるかいな」
 清長がこの女を拾って足軽へ与えことは言うまでもない。赤子は未だ子がなかった病弱の長男へ預けた。
 焼け燻った一乗谷を横目に諸将の思惑が血の汗と重なる日々は続いた。八月二十日、朝倉景鏡に促され大野郡へ逃れていた朝倉義景は、仮の宿所としていた六坊賢松寺を景鏡の手勢二百ばかりに囲まれる。義景は自刃し景鏡は義景の首を持参して信長に下った。

                                       了
だれか、来る

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