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銀蘭   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 名立たる武将を魅了したと云われる日本刀、大般若長光は昭和二十六年、工芸品扱いの刀剣としては初めて国宝第一号に指定された。帝国博物館(現東京国立博物館)蔵にまで至る所持の来歴としては、室町幕府十三代将軍・足利義輝から織田信長、徳川家康、そして松平家代々を経て、大正時代に山下亀三郎、伊東巳代治までに下るとある。ともあれ戦争を生き抜いた巷の昭和人にしても、由緒ある大般若長光を博物館の一般公開時に凝視できたのだった。
 昭和二十六年といえば、水谷浩三(みずたに・こうぞう)が京都大学農学部の教授に就任した年でもある。水谷家は京は木屋町通りに面した大黒町にあって、かつては伊根から京へ出て来て大いに繁盛した海産物屋だったが、跡取りの府警巡査だった婿の利彦が、昭和九年に共産党員(と言われている)に刺されて殉職してからは、商いの利権を伊根の親類に譲渡する格好となっていた。それでも浩三と未亡人となった姉竜子(たつこ)は、祖父が残してくれた不動産収入と大学からの俸給で人並みの生活はできていた。
 高度成長兆しの槌音を遠くに聞いているような中秋の京、有閑な町家の日曜日の昼下がりに水谷家は何やらそれらしく姦しかった。
「妖刀ぉ?妖刀いうたら普通は村正、村正のこついうんやろぉ?」
 浩三は薄ら笑いながらそう言って、濡れた満杯の薬缶をストーブの上へ置いた。
「熱っ!先生、長光て言うてますやろ。熱っ!まあ確かに妖刀では村正が有名ですわな」
 縁戚にあたる(亡き母と関係して放免された番頭の妹の子)理学部の助手となった森中(もり・あたる)は、弾ける熱々の飛沫を避けながらそう言った。
「妖刀でも水筒でもええけど、なんやその関数何とか、関数解析ぃ?その関数解析をやってはる数学者がな、九条の女が妖刀で進駐軍に斬りつけたなんて…そんな阿呆な話に夢中になって」
「熱っ!この薬缶いれ過ぎですわ。ほんで、阿呆な話でもそりゃ逆ですわ。進駐軍、いや在日米軍の軍医が、大層な日本刀集めらしくて、飾っておった大般若長光いうので、九条の看護婦見習いの女子に斬りつけたんです」
 浩三は闇夜で呼び止められたように背中を硬直させた。
「ほんまかいな。それやったら阿呆な話どころか、立派な事件やなぁ」
 中は薬缶の濡れを拭かなければと、布巾でもありそうな台所の方へ振り返った。待っていたように竜子が睨んでいる。布巾を口にしようとした瞬間、紺染めの手拭いが放られてきた。
「入れ過ぎや思うたらな、さっさと取りにきて拭くなり、薬缶をこっちへ持ってきいや」
「拭くだけでええ思います」と土下座するように中は布巾へ手を伸ばして「竜子さんかて錦の買い物ついでに聞いとるでしょ」
 竜子は待ってましたと言わんばかりに二、三歩踏み出した。
「聞いとる、聞いとる。一命はとりとめはったけど、見つかるのが遅かったら大変やったで」
「ええ、なんでも、正気に返ったいうか我に返った軍医が、血だらけの手のまま交番に行きよったらしいですわ」
「そうやてなぁ、ちゃんと拭きいな、その進駐軍やない、米軍の医者の名前ぇと、なんやったかな、黒船っぽい名前やったな」
「黒船?ああ、そうそう、たしかハリス、ハリスとか言うてました」
 浩三は中から手拭いを取りあげて、薬缶の蓋の周りを拭く仕草をしながら言った。
「黒船やったら、普通はペリーやろうけど…とどのつまりはやで、進駐軍の助平軍医のハリス君がな、看護婦に手を出そう思うたらやな、京都中に聞こえるような大声を上げられてもうて」
「違うわ、先生、ちゃうちゃう。そんな浄瑠璃めいた話と違います」
 竜子は弟の背後へどすんと膝をついて、さも情けなさそうに耳元へ囁くように言った。
「進駐軍さんわな、わてら生き残りが思っておる以上に紳士やで。そんなこっちゃから、痩せ猫が蹴られたように負けてしもうたんや」
 浩三は苦笑しながら後ろの姉へ手拭いを放りながら言った。
「それやったらな、なんやその看護婦見習いの方から、軍医に向かってやで『ドクター・プリーズ』とか言うてやで、その…」
「それや。京大の先生かてな、若い見習いの看護婦から前立腺のあたりをこしょこしょされたらでっせ」
 中は竜子が男二人を大らかに蔑視しながら腕を組む様を見ていた。
「前立腺てこんあたりかな」
 浩三が股間に手をやって振り仰ぐと、竜子は見るともなく頷きながら台所へ行ってしまった。
「まあ前立腺でもタマタマでも何でもええけんどな」
「ええですか、たとえ日本人のような助平な猿やなくて、竜子さんが言わはる紳士だとしてもでっせ、娘に色目使われたいうからて…」 
 浩三はここに至ってメークインと男爵を見比べるように、竜子と中を交互に見ながら大きく頷いた。
「あれかいな、単に不細工な東洋人の女が嫌やったとちゃうか?」
「先生、そん女を女とも思わん言い方が、先生を独身街道から外さんのですわ」
「なにを偉そうに…」
「ええですか、その軍医のえーとハリス、ハリスの奥さんは、なんと日系二世のハワイ人で、ハリスは愛妻から日本語を習ってきて日本へ医療指導に来ているわけですわ」
「それ早く言わんかい。分かった、あれやろ、アメリカ人いうてもピューリタンやから、看護婦がからかい半分で言うたことをな、そのまま真に受けてもうた真面目で頭の固い軍医さんなんやろ」
「そんでも、先生、こん大きな日本刀を抜いて、大般若長光を抜いて、娘の背中を袈裟懸けに斬ってやで、小さい白い花をですな、生けまっか?」
「生けるぅ?生け花のこつかい?」

 かつて山城国といわれた京の府内で日本刀といえば、それは三条小鍛冶宗近が鍛えた刀を指したとのこと。実際に三条通りを東山の方へ行くと、宗近が刀を打つ時に使った井戸が知恩院や仏光寺にあったとされ、鍛冶神社、粟田神社、注意すれば合槌稲荷の祠まで目にすることができる。その神社仏閣の群れから離れた賑やかな三条大橋のたもと、夏場の疲れが出たのか気分すぐれぬ浩三が佇んでいる。憂鬱な顔を若い衆に見せるのは嫌な質なので農業実習は助手に任せたものの、憂鬱なままでもどこか断れぬ人物と待ち合わせていた。
 中から軍医の殺傷事件を聞かされた翌日、浩三に農学部の先輩である高梨晃一郎(こういちろう)から帳場へ電話が入った。高梨は古くからの漬物屋の旦那にして、在学中から猟奇性と退廃美に凝った芝居を書いていて、陰湿極まるなどと評される一方、近松の生まれ変わりか、などと太秦の映画界からも期待されていた脚本家であった。
「えらい久しぶりやな」
 時と場所を約して会うのは数えて十七年ぶりとはいえ高梨は随分と老け込んでいた。
「先輩、ご足労頂かなくとも、宅に呼んでいただきはったら参りましたのに」
「なにを仰いますねん、京大の水谷教授にわてんとこのあばら家は似合いまへん」
 浩三の記憶は冷ややかなカルピスに直結して両手を打合せさせた。
「そや、あのカルピス屋、先輩にご馳走になった、あの静かなカルピス屋でもよろしかったんでっせ」
「なにを言うてんねん、あん店は道楽息子の借金の肩とかで戦前になくなっとるし、カルピスなんぞ珍しゅうもなくなってもうて、そこらの牛乳の代わりに出回っとるわ。ほんでも立ち話はなんやさかい、カフェでも入ろうか」
 高梨は真上の日を睨みながら暇そうな喫茶店へ浩三を誘った。暇そうなのも頷けるような革張りソファは、浩三に総長の応接室を連想させた。脚本家の先輩は倒れるようにソファに落ちると、指を二本立てて注文しながら太秦での仕事ぶりを粛々と話し始めた。
「…という有様よって、まあ、時代劇は仕舞いやろな。とは言うてもなぁ、漬物と同じで簡単には幕を引けんしなぁ」
 高梨は浩三の学者らしい眠気に囚われそうな顔に苦笑すると、それではとばかりに藍染の巾着から黒ずむ小骨のような物を取り出した。
「こん打ち物、何か分かる?そやな、いきなり見せてもうても叶わんわな、これはな、戦前の太秦で大河内先生から拝領した表目貫や」
 浩三は生まれて初めて大刀の柄の目貫という装飾金具を手にさせてもらった。銀色の花弁と肉厚の葉の造形は、鑑賞者に野にある美しさを連想させる間もなく暗鬱な重みを強いる。脚本家の高梨が舞台美術に関わって刀剣にも詳しいことは推察できる。しかし昨日の今日で何故、またも日本刀、またも人斬り包丁なのだ。
「これは…蘭の花どすか?」
「そや、華や芝居に疎いちゅうても、京大農学部の水谷教授やな。若いもんは水仙でっか、とか平気で言いおる。これはもちろん芝居用の偽物やけどな、刀の目貫いうたら後藤光正の大小の目貫が有名で、表目貫いうたらこの蘭や」
 高梨も軽く頭を搔きながら「徳を備えながら世に出ない人」の喩に至る、諸国を遍歴する孔子が山中幽谷の蘭に見入った故事を語りきった。
「…と、まあ、こん話はここまででや、水谷教授にお聞きしたいんわな、こん銀蘭のこつや。北山でも嵐山でもよう見かける銀蘭や。金蘭ちゅうのもあるんやろ」
「あります。金蘭も銀蘭も、昨今の北山や嵐山では珍しゅうなりましたな」
 浩三が力なく目貫を返す仕草を見て、高梨は演出にはまったような笑みを浮かべた。
「どないしたんや。会うたときから風邪でもひいたような顔しておったからな」
「風邪ではおまへんがな、夏の疲れが尾を引いとるような、それも理学部の助手になった森君から聞いた話、これが寒気のもとかもしれまへん」
 今にして思えばと、農学部の怪奇趣味の教授と噂されることもある浩三は、十年越しに襲来する不快について回顧せざるをえない。季節外れの悍ましい寒気の次には、それこそ脚本通りのように高梨のような風情と遭遇するのだった。
「認めたらええんと違う?認められんか。なるほどな、やがてはジェット機やら月ロケットが日がな飛ぶとアメリカさんが吹聴しよる、そんな世の中やしな。ましてや、あんさんは京大の教授さまよって、京都らしい魑魅魍魎の百鬼夜行なんぞは一笑に伏さんとあかんわな」
「憶えています」浩三らしくなく先手を打った。
「よう覚えとります。斎藤さんを襲った犬蓼、あれが始まりおしたな。そんで利彦兄さんを襲った吉草、共産党員の特高に対する逆恨み、とはいかにも時節柄の新聞の見出しどした。嫁になったばかりの姉さんは食が通らずやせ細り、わても長期の腹痛で台湾の蛮人療法に世話になる始末どした」
 洛中にあっての変態騒ぎも二度あっての三度目ゆえに、浩三も戦争を経て嫌がおうにでも開き直っていた。
「今度は中、森中君が持ってきたんは、ばっさり袈裟懸けの背中に挿さされた白い花。おかげでうちの姉さんも祭りのような騒ぎでしたわ」
 高梨は年甲斐もなく涙目になって目貫を巾着に放り込み、これまた年甲斐もなく破顔しながらカフェを啜って大いに咽る始末だった。
「おお咽てしもうた。あんさん、いや、君は煙草は?元々吸わんかったかいな。わては終戦から肺の調子が悪くて、ドクターストップちゅうやつや」
 浩三もぜいぜい顔の先輩が落ち着くまで待てる歳になっていた。
「お察しのとおり、わても銀蘭が、本物の銀蘭やで、この目で見たんや、ストリッパーのリツコのあそこに挿ささってるんをな」
「ストリップを見に行かはったん?」
「大部屋女優も食うていかなあかんわな。不細工なんは仕方ないよって、乳が婆ちゃん乳になる前よったらやで」
「先輩、そん女を女とも思わん言い方は置いといて、誰がどんな凶器でリツコはんを痛めはったんどすか」
 高梨は巾着を摘みあげてテーブルへ放った。そのまま両手で口をふさいで涙目を赤らめる。戦時下にあっても悠長だった高梨は優しい遊び人のままだった。
「日本刀でぐっさりや。というても撮影用の大般若長光の偽作でな、刃なんかあらへん、そうは言うても先は尖っとる、そん長光でな、倒れたリツコの足を掴んで陰部をめった刺しや。最後の一刺しが逸れて肋骨の下に入ってもうた」
 高梨が先週に目の当たりにした惨状を辿るとこうなる。大部屋俳優も裏方の手配もこなしてきた小谷という中年男、彼が戦前からリツコと男女仲だったのは知られているところだった。二人が別れた発端は案の定、小谷の許へ女が通うようになったからである。同志社で英文を教授している英国人女性オードリーは日本語会話に堪能で、日本文化のうちでも戦前からの太秦撮影所に興味津々だった。ハワイの血筋もあって奄美沖縄の美人顔ゆえ高梨もお相伴に与ろうとしたが無視される。勝手にしろと見て見ぬふりをしていたら、小谷がいつのまにか有志というか好き者を集めて、リツコ他食っていくのがやっとの女優を集めて撮影所の裏一画でストリップを企画しているらしい。頃合いを見計らって闇夜に集ってみれば、助平は高梨と守衛の親父と主催の小谷の三人だけで、踊りだしたのは化粧っけもないリツコ一人。半刻も過ぎた頃、酒も入っていない高梨と守衛が欠伸しそうになったとき、フィルムではむろん舞台でもお目に罹れぬ惨憺たる夜が開示されたのだった。

 京都御所の西側に京都府警やら検察庁が居並び、御所と官公庁に挟まれるかたちで烏丸通り沿いに護王神社がある。地元では蛤御門前のいのしし神社とも呼ばれて親しまれている。境内の霊猪像の許で会合すれば安心至極、と豪快に笑って場所を決めたのは、怪奇趣味の浩三ではなく、ましてや関数解析の中でもなく、殉職して警部となった水谷利彦巡査の自称右腕、金光実道(かねみつ・さねみち)巡査であった。
「正午が十一時に戻ったぁ?」
 理系とはいえ数学アレルギーの教授は、まともに聞く耳持たずのはずが、思わず振り仰いでしまった。
「ええ、あれはラマナタンが術を使いおったんですわ」
 霊猪像に寄りかかっていた数学科助手は、度のきつい眼鏡を外して傷を確かめるように日に翳した。
「言うとる意味が分からん。正午になる前、十一時五十八分いうたな、それが十一時に戻った言うんわ、長針がぐるりと左回転してな」
「違ぃますって、短針が左回転、正確には三十度マイナスX軸側に傾いて、長針はぴったり十二のところいうかY軸0のところに重なったんですわ。あれはインド人がよう使ういう魔術でんな」
 浩三は烏丸通りの方を訝しげに窺いながらでぶ猫が満腹のような嘆息をもらした。
「魔術か忍術か知らんがな、そん高名なインド人数学者の講演いうは、十時から始まって十二時正午に終わってな、丸々二時間やったいうことやろ」
「ちゃうちゃう、違ぃますって、丸々三時間話されたんどすわ。わての大学入学祝にもろたこの時計も、助手仲間の雨宮の辛気臭い時計も、講演が終わったときは十三時、午後の一時を指しておったんです!ええですか、ラマナタンは腕時計をしていなくて、背後の黒板の真上の最新の電気時計を、数式をチョークで書く時、話している時も三十分おきくらいに見上げておったんです!」
「ほう、自分が見ていた時計の針を強引に動かしてやな、二時間のところ三時間に渡って話しました、言うんやな。そやったらやで、そんインド人の講演をご拝聴にお集りどした皆さんは大騒ぎやったろな」
 中はそれこそ猫が吐き戻すようにごっくりと唾を飲み下して縦しわを眉間に立てた。
「ラマヌジャンの予想とか…数論のかなり専門的な内容で、他の先生方は感動していたのか、分からなくて居眠りしていたのか、騒ぎにもならんで拍手お開きになって…終わって教授たちの後をついて行くとき、思い切って雨宮に聞いてみたんどす、真上の時計のこと」
 浩三は非番の縦縞シャツ姿の金光巡査を見つけて腰を浮かせた。
「あんさんの目の錯覚や言うとったやろ」
「雨宮の奴、半べそみたいな情けない顔で『おおきにぃ、森君も見たんやな、わいだけかと思うた、怖かったわ~』言うて…」
 金光巡査はいかにも戦時を生き抜いた証か、千切れ欠けた右耳を指すように敬礼した。
「お久しぶりですな。水谷警部の七回忌は戦時中よって水酒どしたが…」
「まあ、その時節柄いうか…今年の来月の十三回忌はとことん飲みましょ、兄さんもそれを望まれとるでしょうから」
 金光は直情で義理堅いことを体現するように暫く目頭を抑えて俯いていた。
「そや、教授、言わはった同志社のオードリーいう英文教授」打たれたように巡査は顔を上げた。
「そん方は去年の夏まではいはったようでんな、あちらで言う新学期、九月からケンブリッジで学びなおしたいとかで」
 撮影所の件を詳しく知らぬ中は、応じるように俯いた浩三の横顔を凝視した。
「そうか、オードリーを騙った女がいるのか。高梨先輩と拘置所で厄介になっとる小谷いう男を騙した女、間違いなく言えるこつは外国人いうこつか」
 金光は日陰の方へ手招きながらシャツ下の腹巻から手帳を引っ張り出した。
「今日は暇やさかい、太秦界隈をぶぅらぶぅらしてでんな、日替わりの守衛の三人やら出入りしとる仕出し屋とか菓子屋に聞いてみたんどす。赤毛のえらい目立つ、お人形はんみたいな女だった、言うてましたわ」
「事件のあとは現れていない、さっぱりとでっか?」
「さっぱりとみたいどす」
 中は幼児が足し算をするように指折りを翳しながら二人に分け入った。
「先生、大部屋女優を小谷いう大部屋俳優がめった刺しにして、わてもよう見たことないあそこに銀蘭を挿しおった言うんは聞きました」
「見たことないって、君はまだ童貞か?」
「違います!伏見の女給あたりはよう見せてくれへんのですわ。ちゃうちゃう、そんこつやなくて、そん赤毛のオードリー言うんは何なんですの?」
 浩三は高梨から聞いた撮影所に出入りしていた女について話した。
「それやったら、丁髷好きいうか侍好きいうか、敗戦国ニッポンに同情して肩入れしたい白人女性、そない言うんはあきまへんか」
「だとしてみぃ、何故、去年の夏には日本を去ったケンブリッジの女史を騙るんや」
 金光はわざと手帳の頁を鳴らしながら軽く咳払いした。
「太秦をぶぅらぶぅらした後で、例の事件を起こしたハリス、そして仲間の医師が集まっとる京大病院までぶぅらぶぅらと」
「ハリスはまだ京にのうのうおるんですか?」と憤慨する中がいた。
「おるわけないやろ、精神鑑定を受けるとかの理由でさっさと横須賀へ移送や。若い看護婦をばっさり斬っておいてやで」
 浩三は自分よりも若い警察官と大学助手が敗戦国らしい虚脱の影を持つのを見ていた。
「それはそれとしてやな、これは日本の事件、京都の事件、しかも学生だった自分と姉竜子が遭遇してきた、一連の面妖な現象いうか狂気の沙汰、それに連なっとるいう妙な直観があるんや」
 金光は吐息を陽に焼けた頬にためてぐいぐいと頷いた。亡き水谷利彦と新妻の竜子が居並ぶさまが、十代の実道が理想とする家族風景だった。
「金光はん、もうひと骨折りしてもらえまっか。そのハリスにオードリーいう外人女が、いや、オードリーはどうでもよろしいわ、外人女がハリスに接近していたのを誰か見聞きしてないか」
「そうおっしゃると思って京大病院までぶぅらぶぅらしてみたんですわ」
「さっすがや~」と何やら嬉しそうな中。
「勝手に褒めんといてくれ。わてかて頭の整理がつかんさかい、こうして教授に護国神社まで来てもろうたわけや。教授、おりましたで、ハリスに接近していた外人女が」
 浩三の脳裏を亡き先輩の斉藤が口いっぱいの犬蓼を吐き散らしながら過ぎていった。
「オードリーではなく、えーと、ナンジャやなくてナジャ?そう、ナジャいう女は、ファイザー、これはアメリカの軍付きの薬剤物資の会社らしいのですがご存知でっか?」
「たしか一昨年だったかな、テラマイシンという抗生物質を開発している製薬会社や。そのナンジャモンジャはそこの何なん?」
「ナジャどす。ナジャは占領時から来ている、えーと、医療顧問とかで、日本語が話せて京都がえろう好きいうか…京大病院の人が言うにはインド人みたいでんな」
「インド人!」と目玉を剥いているのは中。
「だからインド人いうたらインド人やろし、太秦に現れたオードリーいうは白人でっしゃろ?」
 浩三は翳ってきた霊猪像に向いて目を細めて呟くように言った。
「まあ同じコーカソイドだから色の白だ茶色だは何とかなるな…そんナジャいうのは、ちゃんと日本におるんかい?」
「おります。衣笠山にあるサナトリウム?聖マリア修道女会サナトリウム、ここの裏に同僚三人と住んどります」

 衣笠山を有名にした故事では、宇多天皇が真夏に雪景色を見たいとの仰せ、それではと山麓の木々に絹の白旗をかけて雪山に見立てたのが筆頭にあがる。これには大王の権力を嘲笑うような陰話があって、もとより山麓は高貴な筋が埋葬されてきた地で、白絹をかけて埋葬された亡骸が、たまたま雪を頂いたような絹の笠のように見えただけとか。それも戦後の賑やかな今日この頃では、山麓の市道183号線は舗装される観光道路としての期待に与っていた。
「サナトリウムいうは結核患者の療養所ですさかい、その裏ともなれば隠れるにはもってこいでんな」
 中は今にも降りだしそうな曇天を恨めしそうに見上げた。
「本当にインド人を見送りに行かなくてよかったんかい?時計の針を動かす魔術いうんを授けてもらえば、安月給の助手なんぞやっとらんでも羽振りがよかったん違う?」
 浩三は研修林を歩きまわる際のリュックサックを背負いなおしながら言った。
「ラマナタン先生は立派な数学者や言うんは分かっとります。魔術をお使いになるのは、何て言ったらよろしゅうか…あん先生のおそらく体質いいましょうか、きっと」
 妙に専門的に過ぎるかと思えば若者らしく俗っぽい森中、浩三はそんな彼の痩身を今更ながら上から下へ辿り見した。
「体質?なるほど体質か、体質、体質、便利な言葉やな」
 仁和寺の御室桜の段々を右に窺うようにして、あえて藪に分け入れば腐植土の匂いは最近の雨風そのままを連想させた。にわか雨が連なる京都といえど、商いもあって秋の台風続きは恨めしい。盆地の驟雨は金蘭でも銀蘭でも育むが、天神様の怒り心頭めいた雷雨は北山への散策を阻むこと然りである。
「蘭がなんとか残っておったな」
 浩三は先日の土砂崩れに抗ったような跡に白い花を見つけた。小型ショベルで手際よく根土ごと掘り取ってしばし見入る。植物園で怪容を見せる竜舌蘭はいかにも人を取り込みそうな雰囲気があるが、山野のあちらこちらで散見できる銀蘭は、確かに失意の孔子を慰めるに相応しい。
「先生、これから会うナジャいう製薬会社の博士、そん人が、蘭やら吉草やら犬蓼やらの植物ホルモンを操れるとしたら…サンプルにしても蘭を持っていくのは…」
「持っていくのは?さだめし大般若長光を差し出すようなもんやないかて?」
「いや、危ないのは日本刀、キッス、ほんで注射針でありますよって…」
「もう一息や、関数解析の森はん、よう考えなはれ」
「えーと、先生から聞いた犬蓼、吉草、そしてそん銀蘭、これらの植物ホルモンが直接に害を及ぼしたんとは違う、ということは?」
 浩三は持っていた銀蘭を捨てて苦々しく土まみれの指先を舐めた。
「その辺にしとくか。見てみい、サナトリウムへの正面攻撃は避けて正解やったな」
 台風の大雨による土砂崩れが、戦前のコンクリート造りの三階建ての一階板塀へ押し寄せていた。患者たちは大丈夫だったのだろうか。と思う間もなく、土砂崩れの惨状を見下すように堅固な石垣積みが現れた。
 絵に描かれたようなバロック様式の小さい城が見えた。ウォルトディズニーを知る昨今の日本人にとって何やら城風の造り。近づけば赤煉瓦積みにしても樫板張りにしても、ここ一年ばかりの造作に見えるので現実感がない。浩三は入口のようなもの(それがあればの話だが)を探している自分の生温い汗を意識していた。
「窓が開いてますわ」
 中は小窓に架かる白いレースのカーテンに息をのんだ。
「先生、ここは正攻法でいきまっか?」
 浩三は濡れ犬が身震いするように頷いた。
「お邪魔しまーす。京都大学の者ですが、こちらはファイザー薬品のナジャ博士のお宅とお聞きして伺った次第でありまーす」
 二度三度と若者の声が裏返るほどに繰り返したが、邸内のカーテン奥からは物音ひとつしない。留守にしては開窓へ導くようなカーテンは不用心過ぎる。中は逆に意気消沈したように窓辺へ近寄った。
「映画で見たようなきれいな部屋どすわ」
 浩三は若者の大胆さに舌打ちしながら渋々と窓辺へ寄った。
「写真がある。あっちの色の幾らか黒いのがナジャ博士でっしゃろか」
 中が指差す先には汗をひかせる不穏な予感があった。総長の応接室を青りんごの壁紙とペイズリー柄の布カバーでソファを包んだらこうなる。紫檀のように見える食器戸棚の上に写真立てが四つあった。
 左端の総天然色の写真、確かにインド人らしき風貌の女性。向かってその右横のやはり総天然色の写真、黒髪だが眼は蒼金剛石のように青い。この目を引く二つの写真の後方に白黒写真、やや黄ばんでいるが看護婦姿の若い日本人女性。その斜め後方にはかなり黄ばんでいるが、戦前の巡査服をまとった若い日本人男性の姿があった。
 浩三は眼を射られたように後退して、真昼のサナトリウムの屋根の照り返しを振り仰いだ。写真というものは、特に白黒の黄ばんだそれは、時として言葉など寄せつけぬほど説得力がある。勇を鼓して過去の悲壮と対峙しなければならない。
「知っている人どすか?」と中は我慢できずに聞いてきた。
「奥の二つ、白黒の二つはな。看護婦は伊吹山からやってきた注射針の女。もう一枚は、分からないか、あれは…利彦兄さんだよ。結婚する前の小野利彦巡査や」

 その日は悲観的な日本人が常用する意味としての霹靂のごとくやってきた。実際に雲一つない晴天だった。後に映画館で観た西部劇で「死ぬには絶好の日だ」という台詞を耳にして以来、水谷浩三教授は晴天を見上げて卑屈な苦笑を漏らすようになった。
「電話やて!金光はんからやて!帳場さん煩いよって、早よう!」
 姉の竜子が階段下からきゃんきゃんと怒鳴る。遂にきたか。思いのほか落ち着いている自分は噓だ。浩三は膝を叩いて立ち上がり背伸びをひとつ、段を確かめるように下りて竜子を一瞥もせずに過ぎた。
「出ました。双ヶ岡の方へ下ってます…信じられません」
「そうか、わてかてこの目で見んこつには信じられん」
「幽霊やおまへん。二本脚で歩いて行きました、自分の前をあの巡査服姿で…自分を見るでもなく、巡査服の自分を」
「そうか、気をしっかり持ってな、昼間やさかいに。見失わんと頼むで」
 金光が唸るように了解して受話器を置くと、沈痛な金属音が帳場に広がるように延々と耳に残った。
「金光はん何やて?」
 恐れていたことが判で押したように声となって背後にある。竜子の笑みに己の面相が定かでない。姉の明朗な鈍さが救いだった。
「そやな~なんや双ヶ岡の近くでな、北山から下りてきた猪の肉を貰うたと。巡査はええ商売やな」
「なんやそれ。ほんで晩は猪の肉で一杯やりましょか言う電話かいな。ほんま帳場さんに叱られるで」
 浩三は子供のように舌を出して薄ら笑い、左手首の義兄の形見時計をちらり見た。
「それがな、双ヶ岡の下あたりで三輪トラックが転びよって、そっちへ向かうんで、えーとな…」
 竜子は良くも悪くも弟を知り尽くすさすがの姉様だった。
「なんや、なんでおでこに汗をかいとるのや」
 浩三はやはり駄目な弟だと己を皮肉りながら黄ばんだ歯を見せるしかなかった。
「あんなぁ、そやそや、一緒におった部下に持たせたから、正午ごろになったらな、署に取りに来てくれへんかて、そん鹿肉を」
「猪やろ」
「そや猪や。そや、イノさんやから錦で九条葱もぎょうさん買うといてくれとか」
 竜子は針仕事を終えたばかりのように眉間を摘まんで項垂れた。正午は半刻ばかり先だった。
 いかにも早う行ってくれと言わんばかりの弟。暑くもない白昼の母屋への渡り廊下、青白い学者面に玉のような汗を浮かべている、わてがお腹を痛めた実子のように愛しんできた浩三。傍目にはありがちな姉弟のお晩菜語りも、なんや尋常やない風向きらしいさかい仕方ないわな。
 竜子は帯を叩いて顔を上げた。
「仕方ないわな。女は女の仕事をさせてもらいまっか。ほんでな、出掛ける前にな、渡したい物があるよって、書斎で待っといてくれやす」
 浩三が二階の本塞がりの書斎へ戻って間もなく、急いてるのが逆転したように音を立てて姉は階段を上がってきた。襖をきいきいとひいた竜子は長い木箱を捧げ持っている。正座して行儀よく渡そうにも林立の本塞がり。呆れたように姉は放るように弟へ渡した。
「漬物屋の高梨はんが持ってきはった、国宝級とは言わんまでも、本物の大般若長光やそうや」
「本物の日本刀?」
「芝居書きの高梨はんのこつやから本物いうてもな…そんでも、ここは京都や。大学教授やてピストルよりは懐刀やろ」
「そやな…相手は植物ホルモンの何某いうておったけど、とどのつまりは化け物やしな」
「そや、ほんでな、何遍でも言うたる、ここは京都。わての同級生が黒谷の光明寺の娘やさかい、悪霊魍魎の討伐退散の念仏をきっちり入れてもろたわ。あとは中学の途中で投げ出した剣道部のあんたの腕や」
 木箱の紐をほどく浩三の手は震えていた。
 竜子は震える華奢な弟の手首を包むように押さえる。亡夫利彦の腕時計が微熱を発しているように感じられた。
「わての旦さん、利彦さんも一緒やさかい、お気張りやす」

                                       了
男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: 文庫



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