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バールベック   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 時々、日本人の中にも砂漠志向の人間が一人二人と散見できる。
 シンと呼ばれている大友伸輔(おおとも・しんすけ)もそんな一人なのだろう。磯子の学者肌の家に生まれて、大学をなんとか卒業してからは桜木町の銀行に六年ばかり悶々と勤めていたが、ホメイニがイランへ戻った頃から体調不良を訴えはじめてそのまま辞職した。続けてエルサレムへ旅立ち父母を悲しませる。気がつけばホメイニが亡くなった翌月にはレバノンのベカー高原にいた。
 ベカー高原のほぼ中央にローマ遺跡で有名なバールベックがある。フェニキアの豊穣の神バールに由来するこの遺跡は案外に客が切れない観光地である。一昨年からシンは遺跡脇にある観光客相手の料理店で働いていた。
「シン、肉をまわしてくれ」
「タイガー、豆のスープの様子を見てくれ」
 大友伸輔は好きだったインド人のプロレスラーの名前を捩って、タイガーとかシンとかと自分を呼ばせていた。
「日本じゃそのレスラーっていうのは人気者なのかい?」
 店長のナファトに英語でそう聞かれてシンは手を止めた。
「大変な悪役なんだけれど、なぜか憎めないんだ」
 シンはそう言うと嬉しそうに人参を掴んだ。学生時代に初めて金銭を得たのが洋食屋でのアルバイトだった。こうしてまた食べ物を提供すれば大方が喜んでくれる。為替と背広から離れてみると益々そう実感できる日々だった。
 店に羊肉がなくなって、ナファトが買出しに行ってしまったとある日の午後。シンは早速に遺跡のチケット売り場へ向かった。売り子のナナに会うためだ。ナナはいつものように何食わぬ表情でチケットを切って「前庭のピンクの石」と言って渡した。ナナが知っている英語はこの「前庭のピンクの石」と「前庭の葡萄の木」、そして「今日は悪い日」と「ありがとう」の四つだけだった。
 シンはチケットを手の中に丸め込みながら左手の階段を上がった。そのまま上がりきって前庭に向かおうとした時だった。ちゃんとした英語が聞こえる。花崗岩の列柱の前で写真を撮っている一団だった。端に収まっていた黒縁眼鏡の老人がじっとシンを見ている。目を逸らして脇を通り過ぎようとしたときだった。
「天気がいいから葡萄の木かい?」
 老人は待ち構えていたかのように言った。シンは驚愕して一瞬、膠着したがそのまま階段を上がりきろうとする。立ち止まる勇気が附着するまでに数秒かかった。上がりきってから落ち着き払った素振りで振り返ると、老人の白髪はトルコ人の団体に紛れてしまっていた。
 シンは足の踏み場もないほど瓦礫が散乱している前庭を小走った。葡萄の木へ向かっていた。葡萄の木は遺跡の経路からかなりはずれた秘密の場所だ。誰もいなかった。木の脇のナナを抱く石に座る。呼吸が乱れていた。肘から汗が滴のように落ちていた。不思議なものである。四年前の屏風ヶ浦の駅で躓いたときの記憶が蘇えった。あの夏の日と同じ分けの分からぬ疲労が襲ってきていた。
「奴らに…奴らに何が分かるってんだ」
 シンは久しぶりに日本語を呟いて立った。経路をはさんで反対側にあるピンクがかった花崗岩へ向かう。ナナは不服そうに待っていた。シンは雨露を避けて割れ目奥に隠してあったビニルシートを広げる。慌てて広げる様に不服そうだったナナも笑い出す。シンは笑っている彼女を倒してその胸に汗まみれの顔を埋めた。
 日も傾いて涼しくなった頃、店へ戻るとナファトが羊肉を一心不乱に捌いていた。
「シンも有名になった。あちらさんがご指名で、羊の挽肉団子のトマトスープだ」
 予約されていた盛況な晩餐にナファトは気を良くしていた。そしてシンが半年前から作りはじめた料理も徐々に有名になっていた。ヒズボラの連中にも好評だった。しかしナファトが指差したさきには「PLYMOUTH」の文字の濃紺のTシャツがあった。
「あのイングリッシュが俺の料理を?」
「ああ、なんでも、大庭園での明後日からのクラシックのコンサートで、ヴァイオリンを弾きに来られた方々だそうだ」
 シンはもはやナファトの言っていることが聞こえなかった。背がいくらか曲がった濃紺のTシャツが振り返るとあの老人だった。思ったよりも眼鏡の奥の眼差しは優しい。そして恥ずかしそうに伏せられた。
 シンは腿肉を重たい出刃で叩きながら日本語で呟きはじめた。
「そうか…あんたらが俺とナナを見ていたっていうのか?見せてやったのさ、アングロサクソンに…俺たちが犬のようにどこでも愛し合えるってことを」
 ナファトが肩をたたくまで日本語は沸々ともれていた。
 夏のコンサートが無事に終ると、バッカス神殿を見上げる観光客も幾分か減った。ナナの「今日は悪い日」が何日か続いたほかには、懸念することもなく料理に励む日々が続いた。
「女がいない日は、静かな所で外国の新聞でも読むことだ」
 ナファトはくせのない英語でそう言ってガーディアンを手渡した。イラン系のアメリカ人だったナファトは、異邦人として生活するシンにとってまさに先生だった。
 シンとナファトが新聞を読む静かな所は、遺跡の一角の博物館の中にあった。シーア派のヒズボラの一室である。上目遣いのホメイニの写真が貼ってあって、武器を持つ若者が笑って迎えてくれるときもあった。
 一人で窓際で風を待っていると、湿り気を持った風がジブラルタルの記事の頁をめくっていった。
「…バールベックの遺跡の入り口にかつての少女はいた。もはや老人の私を憶えているわけもなく…」
 シンはしばらく凝視していたが、風がさらにめくった頁のメイジャー首相と目が合うと舌打ちしてたたんでしまった。

                                       了
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