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ナザレ   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 彼女は酒も煙草もやらなかった。だったらそのまま祈りの町ブラガで祈っていればよかったのに、とか言うのは無神論者で実家が曹洞宗の緋山沙里(ひやま・さり)には酷な物言いである。煙草はもちろんワインも飲まないからといって、やっぱりmono amarilloもしくはmacaco amreloそのままのyellow monnkeyを見くびらないでほしい。バルセロナのエスパニョールを後にしてブラガのランクFCに移籍した時、サリ(沙里)のお決まりの挨拶の締め括りはこうだった。
「…好きなものが三つあって、一つはやっぱりクリスチャン・ロナウド、一つは猫、もう一つは鰯の塩焼きです。ブラガはちょっと海から遠いことが残念です」
 海から遠い祈りのブラガのランクFCは、誰の誰への祈りのおかげか知らないうちにリーグ優勝の喜びをサリにもたらしてくれた。JFAアカデミー福島のときのポルトガル遠征で勝利したとき以来の喜びである。嬉々としたまま海を見ようと思ってブラガを出立したのだった。
 正直な感想を言えば十代だったあの時のほうが嬉しかった。相手はたしか近在の高校生と大学生を寄せ集めたようなナザレのチームだった。そんなチームを相手の勝利にはしゃぎながら海浜をバスで過ぎてみると、晴天でも殺伐としている常時、波浪警報が鳴っていそうなナザレだった。そうだ、ナザレだ。ナザレまで足を延ばそう、ご褒美のような休日なのだから。水平線を望むベンチでメモリアルのように固まった爺さん、そして鯱かマッコウクジラに追われる鰯の群れのようなサーファーたち、あれがここポルトにはない。世界遺産の橋で有名なせいか観光客の団体ばかり。時々、日本語まで聞こえてくる。あの恰幅の好い老夫婦は、ポルトにあって「瀬戸大橋の袂のヒレカツ」が旨いとか言いながら窓辺のあたしをちら見している。捕まる前にここホテル・ダ・ボルサを後にしよう。
 サリはボールがペナルティエリアに出る予感には卓越しているが、朝食のスクランブルエッグとポテトの残りの見切りには躊躇する質であった。
「ご一緒していいですか?」
 甲高いものの嫌味のない響きの日本語が落ちてきた。
「えっ、あっ、どーぞ、どーぞ」
 サリはポテトを含んだ口元を抑えながら後ろからのファウルに近い不快を持った。
「このホテルは日本人だらけですね。あそこにいる母と叔父が、さっきから一人旅のあなたを指して、あの人も日本人の方じゃない、とか…」
 長身の男はトーストとカフェだけがのったトレイを滑らすように置いた。二十代後半から三十代に見えるが、断じて純粋な日本人ではない。オーストラリアのマンリィ・ユナイテッドFCからロンドンを経てランクFCにやってきたサリ、彼女にも人を見る目利きは備わってきていた。
「ランクFCの方ですよね。先週の優勝のダイジェスト版を見ていたら、あれ、日本人だ。しかも母の若い時の写真にそっくりだと思って。そう、朝からお腹いっぱいのような顔をしている、あの母の」
 サリはラテンな男性ファンの言い回しには慣れていたが、回りくどい日本語の羅列には腰を引くしかなかった。挨拶代わりに振り返ってみれば確かに似たような奥二重眼。ポテトを飲み下してからカウンターに転じてみた。
「あなたとご家族は日本のどちらからいらっしゃったの?」
「ああ失礼しました。僕はルート・ファン・マーネンと言います。母と叔父は日本に住んでいますが、僕は父の方の国、オランダに住んでいます。ああPSVのユニフォームを持っています。オランダでプレイする気はありませんか?」
「ありません。あなたはオランダでどんなお仕事をなさっているの?」
「日本語で言うと、そうですね…自称、カフカ研究家、ですね」
 そうきたかのスライディング・タックルでもないし、父のクライフ好きのおかげでオランダなんぞでのプレイは考えたこともなかった。
「カフカってあの『海辺のカフカ』のカフカさん?」
「そう、そのカフカさんだけど、カフカさんには海辺は似合わないと思うな。読んだの?」
 見え見えのフェイントに乗っちゃって、もらったと落胆させないでほしかった。
「十代のとき、本屋さんの店頭に並んでいたのを見ただけよ。あたしの愛読書はサラ・パレツキー、英語のため」
 固まっちゃったキーパーじゃ楽々ゴール!スクランブルエッグは諦めて席を立とうと思った。
「ああサラ・パレツキー、僕もVIものは息抜きによく読みます。本当は母と二人だけだったらシカゴとかニューオリンズに行きたかったな。シャナ・デリオンは?」
「VIものよりも好きかな、新作が出たら練習そっちのけで読むわ。叔父さんが一緒だったからポルトになったの?」
「そう、叔父さんはカトリックなんだ。しかも金持ちだから言いなり旅行だな」
 二度と顔を合わせたくない日本語を話すダッチ混じりのカフカ研究家に言った。
「言いなり旅行なんて愚痴ってないで、ご家族で楽しいご旅行を」

 ポルトからナザレまではバスに乗って約三時間、がっくりと頷いた方はイベリア半島を楽しめないだろう。サリにしても時計ばかり見ている主審のような日本人気質は打っちゃれない。車窓は思いのほかオーストラリアのキンバリー海岸沿いに似ていた。赤茶けた不毛とまでは言わないにしても、テラコッタ・スレート葺の軒下に垣間見えるのは老人ばかり。しかし裏庭に上がっている白煙を見ると、バーベキューとワインよりは鰯の塩焼きとビールを連想して「日本人向きなのかもね」と呟いて微笑むしかなかった。
 未知への勇躍と不安を醸し続けてきた大西洋を望むナザレ。四世紀に聖職者がイスラエルのナザレから聖母像を持ち込んだことにちなむポルトガルのナザレ。たどり着いた聖母像も波頭の麗しさに嬉々としていたことだろう。やっとナザレに着いた。ケーブルカーなんて後まわしにして、須磨にあがるような鰯の塩焼きとできればスーパードライ、それが叶わぬのならライト・コークで手を打とう。まずは香草もスパイスも嘲るような岩塩焼きの狼煙を見つけることだ。狼煙が見つかった。やや大振りだが眼の赤くない立派な鰯だった。来た、見た、勝った。暇そうな太鼓腹の親父が鰯六匹に二個丸ごとレモンを深皿に載せてくれたものの、ビールどころかライト・コークも見当たらず氷たっぷりのグラッパを強制してきた。岩塩焼きに伴するなら安アルコールでも妥協するしかなかった。
「案外とさっぱりで…岩塩のせいかな。グラッパなんかは滓焼酎だからやめとけなんて言ってたけど…そうだね、カフカさんには海辺は似合わないよね。日本人の独り言だから気にしないで…鰈みたいなやつも美味しそうだったからグラッパをもう一杯いくか」
 微風の晴天下にあって、サリはむさぼり飲んでいるグラッパを称賛する羽目に陥った。砂塵も舞わず野良犬もまとわりつかない。どんな部屋でもいい、ホテルどこか空いていないかな。ランクFCのフォワードって言っても、ここはもうリスボンが近いナザレだから無理か。ブラガとかリスボンとか、女だらけのフッチョボルなんか忘れよう。グラッパと太陽が手伝ってか、異邦人サリは無防備にベンチから立って振り返った。
「やあ、やっぱりカフカには海辺は似合わない」
 ダッチ混じりのルートが往年の湘南俳優のような話し方で立っていた。
「そうか…ここも有名な観光地だもんね。カフカに似合う所ってどんなところ?」
 陳腐に繰り返すが、グラッパと太陽が手伝ってサリの切り替えも早かった。
「そうだなぁ、いつもカフカが似合うと思っているのはプラハ、こういう晴れた日は羽曳野かな」
「ハビキノォ?大阪の羽曳野?そうきたか…お母さんと叔父さんは?」
 ルートは「上から見たいんだって」と言って遠方のケーブルへ顎をしゃくった。
「羽曳野か…グラッパをもう一杯飲もうと思っていたんだけど、あんたもどう?」
 ルートが渋い顔のまま頷いてベンチへ座ったことがいささか腹立たしかった。鰈なんかあいつには贅沢だ。塩っ辛い鰯じゃなければ「羽曳野のカフカ」は始まらない。グラッパを面倒そうに注ぐ親父さんの太鼓腹を蹴とばしてやりたかった。
「羽曳野に行ったことがあるの?」
「母の実家が羽曳野のワイナリーなんだ」
「それはそれは御免なさいね、グラッパなんか相手させちゃって。でも鰯の微妙に残る生臭さを抑え込む感じが案外いいよ。案外って分かるよね」
 明らかに今朝の馴れ馴れしいルートではなかった。グラッパを含んで氷を嚙み砕いた横顔は哲学者か。地の果てナザレに辿り着いた巡礼者か。体の具合が悪いのか。そういうことか、海辺へ来るはずじゃなかったカフカなのだ。
「びっくりしちゃった。あたしね、羽曳野の青山病院で生まれてね、そう、峰塚中学校でサッカー始めたんだ。あの辺は古墳ばっかりでね、囲んでいる池の周りをよく走ってたんだ。あたしのこと調べたのかと思っちゃった」
 さすがに悩めるルートも笑みを浮かべた。かわされた。グラッパと太陽が阿呆に拍車をかけていると思うと、鰯の腸の苦みが随分と味わい深かった。
「具合…悪いの?余計なお世話だったらごめんなさいね」
「さすがは日本人。カオイロ?顔色をよく見ているんだね」
「だったらグラッパなんか飲ませるんじゃなかった。こっちはさ、爽快な気分だったんだからさ」
「僕も観光バスに乗り込むまでは爽快だったよ。叔父さんがいっぱいの薬を飲んで寝てから…母さんが言ったんだ」
 咄嗟に鳥のような影が過ぎった。人が肉親から離れて真顔になるときは肉親に原因がある。サリは父の病室を出た後の母の顔の落差に愕然としたものだった。
「叔父さんも聞こえていたのかもしれない。叔父さんはね、あの叔父さんは、ポルトガルへ死にに来たんだ。Leukemie 白血病って言うのか、その…駄目みたい」
 日本を出るまでのサリは置かれたような沈黙を嫌ったが、ここまで脚力だけで芝生の上に立ってきたフォワードはそれを静観できた。焦らない。ルートの方から沈黙を破ってくるだろう。焦れない。死に直面しているルートの叔父、連想に父の寝顔が去来してくるのは自然なことだ。古墳の堀周りを走るサリに自転車の父が並走し始める。頬を伝いはじめた涙が誰のためのものであろうと、ルートが語りかけてくるまでオフサイド・ラインを見極めるのだ。
 ヨハン・クライフさん、ナザレの午後にありながら羽曳野の夕景が重なってくるこの世界で、瘦せた日本人のフォワードを走れるだけ走らせてください。

                                       了

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