SSブログ

恋藻ペンタリナ   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 夏こそは死ぬのに相応しいと何となく確信している男、こういった男が巷にはそこそこいるのでは、などと漠として思ってしまう朱夏の昼下がり。炎暑に放り置かれたような終戦、その重荷を背負った昭和という時代に生まれたからであろうか。そうとばかりも言い切れまい。冬に戦を仕掛けて、夏に敗残を晒すのは、ここ最近の日本人の勝手だと諸外国に揶揄されて然りだ。いい加減を覚悟で言えることは、夏という灼熱のときは、生の転換としての性の放散に大いに作用しているということだ。


 二〇〇七年八月

場所
 烏山頭水庫のダム堤体に沿った犬走りと呼ばれる監査用路

登場人物
 室田…五十代前半の高山市の水道局浄水部建設課主任
 辺見…三十代後半の高山市の水道局浄水部管理課係長
 賢綺…李賢綺、女流陶芸家
 幸如…張幸如、台南大学の女子学生

(台湾、台南市官田区にある烏山頭水庫という岩を敷き詰めたロックフィル方式のダム湖を客席側に見立てて、幾らか干上がっている観のロック材を積んだ石垣状の遮水壁が高さ約百センチで上手側から下手側へ続き、監査用路の犬走りはその上に走っているが、遮水壁の水からの高さ、そしてそもそも設けるか否か、などは特定するものではない)
(上手から犬走り上を辺見がつかつかと、その後を室田がふらふらとやってくる。辺見は一旦、下手まで行って納得したように正面に戻り、湖面にあたる左右前景にカメラを構えて写しまくる。追いついた室田は、不貞腐れたように辺見の背後に座り落ちる)
室田 暑くてたまらん…これでも麗しの島に来ておるわけだ。
辺見 麗しいじゃないんやさか。あのあたりなんかは瀬戸内の島々のようやさ。
室田 瀬戸内ぃ?あんばいようを仰いますなぁ、飛騨の高山のお人が。
(辺見は下手側の方、犬走り上の先の方に何かを認めカメラを構えシャッターを切ってから、注意を惹くように右腕を大きく振りはじめる)
室田 大丈夫かぁ?昨夜の台北の酒が残っておるんじゃないかぁ?
辺見 あれは…女の子ですわなぁ。
室田 女ぁ?何でも女に見えるんやろうよ、裸のな。
辺見 裸やねえやけど、いい脚をしとるんやてよ。
室田 脚だ、女だと…ちゃっちゃっと結婚しろよ。
辺見 短パンから出ておる脚が白くて、瀬戸内の島々によぉ映えて見えますでなも。
室田 瀬戸の花嫁とか言うなよ。
辺見 危ないですわなぁ。干上がっておるとはいえ、犬走りから下りて行っていいのかな?
室田 犬走りぃ?犬走りって?
辺見 ええ、この今おる道路のことやす。ダムの堤に沿った通路を通常、犬走りと大学の先生から
室田 (面倒そうに立って)女の子って若い女の子か?
辺見 ええ、可愛い顔しておって…憶えとるんやてか、ブラック・ビスケットのビビアン・スーみたいな娘やす。
室田 ビビアン?ブラック・ビスケットのビビアン・スーか…君もテレビっ子やったわけか、今どきの台湾美人やったら、林志玲(リン・チィリン)だな。
辺見 バブル世代のわりには、最近の女の子にも詳しいすね。
室田 ほんなことよりも、黙って見とらんで、危ないから声をかけてこいよ。目の前で自殺とかされては敵わんさからな。
辺見 あんなに可愛いかったら自殺なんかしないすよ。
室田 どんなに美人でもだな、女は恋に生きて(目を凝らして)…ダムの水を飲んはやとしておるのか?
辺見 あんなに可愛いかったら…ダムの水は飲まないやろ。
(上手から白い日傘をさした賢綺が小走りでやって来て、二人を撥ね退けるようにして下手の方を睨んでから二人の方へ振り返る)
賢綺 日本人?日本人は水が怖いの?見てないで行きなさいよ。
室田 そう、日本人だけど、日本人で、日本人だから(辺見の左肩を突くように押して)君ぃ早く行けよ。
(辺見は急な展開をのみ込めないものの些か嬉しそうに下手へ消える)
賢綺 走的快!(早く行って)有的虽然两个人的人(男が二人もいながら)…八田先生のダムで…事故があってはいけません。
室田 そう、八田先生のダムで…そう、事故があってはいけません。そう、私は日本人で、そう、ム・ロ・タと申します。
賢綺 私はリーです。リー・シェンチィ(李賢綺)です。観光ですか?
室田 そう、観光、いや、その、私たちは高山市の水道局に勤めていまして…
賢綺 高山市ぃ?岐阜県の、美濃に近いタカヤマかしら?
室田 そう、岐阜県の高山市でして…そこの水道局の、そう、言わば研修視察の一環として…
賢綺 そのへんは難しい日本語ですね。
室田 そう、水道の仕事をしているものですから、八田先生のダムを…そう、日本人として、大先輩の残された仕事を見にきたわけでして…分かりますか?
賢綺 水道の仕事ぉ?それでダムを見にきたのですか?(自分の両頬を軽く指で払って)私の顔、私の顔に何かついていますか?
室田 そう、いや、何もついていませんが…とても綺麗な…そう、とても綺麗です。
賢綺 ああ、きれいですか?私の日本語、きれい…そうかな?
室田 日本語もきれいですが…そう、それだけきれいな日本語を話されるのは、日本にいらっしゃったことがあるのですか?
賢綺 ええ、八九年から九五年まで六年間、瀬戸と美濃にいました。
室田 (指を大袈裟に鳴らして)ということは焼き物、ということは日本で陶芸をなさっていらっしゃったのですね?
賢綺 ええ、なさっていらしゃいました。
室田 そうですか、陶芸家でいらっしゃって…そう、美濃焼きだったら織部ですよね、青の織部は
賢綺 ああ、私は鼠志野が好きで、今でも志野釉をかけて焼いたものが多いです。
室田 そう、志野もいいですよね、いや、志野が一番いいかな…
(賢綺は室田の眼差しに辟易して下手の方に向いてしまう。そして堤から犬走りへ上がって来る二人を見ながら首を傾げる)
賢綺 子犬のように見えるわ…
室田 そう、あの子は子犬のように可愛いですね…しかし、あなたは、リーさんは綺麗です。
賢綺 そうじゃなくて、手を引いて上がってくる二人が、まるでじゃれ合っている子犬のように見えるわ。
室田 そう、うちの辺見はもう若くないが、辺見と若い彼女がこちらへ向かって走ってくれば…
賢綺 走ってくれば?
室田 走ってくれば、これぞ、その…犬走り。
賢綺 イヌバシリ?
室田 そう、犬走りとは、通常、こういうダムの堤に沿った通路のことを申しまして…
賢綺 (幸如の荷物を代わりに持ってくる辺見を見ながら)何を持ってきたのかしら?あれは…シィンウェイチン(显微镜)、マイクロスコープ(Microscope)のような…
(下手から顕微鏡とクーラーバッグを持った辺見が笑顔をもって現れ、その後に続いて短パン姿で右腿を掻きながら考えごとをしているように幸如が現れる)
辺見 藻や、藻を探しておる学生さんやったんやて。
室田 もや、もやもやでは分からないだろう、辺見君。きちんとした日本語で話しなさい。
辺見・賢綺 きちんとした日本語ぉ?
室田 だから、もやもやじゃなくて、モを探している学生さん、というふうに…モって?
辺見 ウォーターウィードですよ。
室田 そう、いきなり英語を交えるからますます伝わらない日本語、困ったものだ。
辺見 気取ったことを言ってないで、この顕微鏡できれいな緑色の藻を見てくだせえよ。
室田 (気乗りしないふうに顕微鏡に眼を近づけて)まったく、見てくだせえよなんて(覗いたまま顕微鏡を抱え込んで)…何やろか、これは?
賢綺 (幸如の方にさらりと掌を向けて)何でしょうか、これは。换句话说,他说「这是什么」
幸如 大丈夫です。日本語は分かります。
賢綺 (辺見に軽く微笑みながら)それはそれは…それで二人の様子がじゃれ合っている子犬のように見えたのね。失礼しました。私はリー・シェンチィです。
辺見 私は日本の高山市から参りました、高山市水道局に勤務しております、浄水部管理課の係長のヘ・ン・ミ、ヘンミと申します。
賢綺 私は近くの美濃にいたことがあります。
辺見 女性でリーさん…ああ、こちらで顕微鏡を覗いているのは、同浄水部の建設課の主任のムロタです。
室田 自分が係長だからって…(顕微鏡から眼を離して)どこにでもあるリョクソウ(緑藻)、緑の藻だな、海苔のような緑藻で、このようなもんを見ていたら、海苔で巻いた干瓢巻きが食いたくなってきましたんやて。
辺見・賢綺 カンピョウまきぃ?
幸如 海苔巻きなんぞにはできません。わてが発見したボルボックスに属する新種で、ペンタリナいいますねん。
室田・辺見 (顔を見合わせて)てえもねえ関西弁だな。
賢綺 (室田と辺見を押しのけるようにして近づき)日本の関西の方にいらしたことがあるの?
幸如 (考えごとを続けている顔のまま)わてはチャン・シィンルゥ(張幸如)いいます。もちろん台湾人で、正確には、父は宜蘭出身でタイヤル族、そして母は京都の亀岡の出身で…亀岡はたしかに関西で…
賢綺 ああ、タイヤル族、それでビビアン・スーのように可愛かったのね。
室田・辺見 (また顔を見合わせて)ビビアン・スーを知っておるということは、見た目よりも…
賢綺 (室田と辺見の雑音を払うように)この人たちもあたしもジィザツ(自殺)と思っちゃったのよ。
幸如 (驚愕して賢綺の右手を取って引き寄せる)至于你说(あなたの言うとおり)…わてはこの発見でJesusになるかもしれない…
賢綺 (幸如の手を振り払って)そのJesusじゃなくて日本語のジ・サ・ツのこと、Zìshā(自杀)のことよ。
幸如 自杀?自杀はジサツ…なんでや、なんでわてが自殺するん?
賢綺 (下手へ憂鬱そうに離れて)勘違いしたのよ。ここで女の子が一人だもの…我去日本,很痛苦一直在这里…
室田 (咄嗟に幸如の手を握って)リーさんは台湾語で何と言っていたのやろか?
幸如 (室田の手を振り払って)日本へ行くまでのあたしは…いつもここで悩んでいた。
室田 (賢綺の肩に触れるほど近づいて)何を悩んでいたのですか?
賢綺 (振り返ってじっと室田を見つめる)恋の悩みじゃないから、気にしないで…(可笑しくなって顔を逸らして)日本的这种像鸡…
幸如 (大袈裟に賢綺の方へ翻って)可怕(ひどい)!鶏みたいな日本人やなんて…
辺見 (唖然としている室田を後ろへ引き倒すようにして前へ出て)いくら台湾の美人にしつこい日本人やからといって、鶏みてえな日本人、というのは酷い言い方やて。いや、いかにも美人に弱そうな日本人だからといって、もうちょっと言い方があるでしょう。
幸如 (室田を押し退けて顕微鏡を掴んできて覗き込みながら)そうや、あんまりやわ。こんな辛気くさいオッサンやて、わてが発見したこのペンタリナで、若い日本人みたいにビンビンになれまっせ。
辺見 (室田と幸如を怪訝そうに見ながら賢綺の方へ向いて)あなたは陶芸家のリーさんですね?私は高山の自宅で、あなたの鼠志野の茶碗と水差しを愛用しています。台湾から美濃へ来ている女性の陶芸家ということで、志野のよくある白さに、どこか日本人にはない優しい暖かみがあると思っていました…そのあなたが、彼を鶏みたいな日本人だなんて、いくら室田さんが背が低くて痘痕面で、高卒でおそらく主任止まりで、七年前に離婚して女っ気がない中年野郎だとしても、鶏みてえな日本人というのは
室田 (辺見の後ろに縋るようにして)はやいい、はや聞きたくない。これ以上聞くと、そこへ飛び込んで死にたくなるんやて。
辺見 (室田の手を払うようにして)大丈夫や、室田さんの「死にたくなる」は飲んだ時の口癖やろから。そういやぁ、いや、ところで、リーさんが日本へ行くまで、ここで悩んでいらしゃったというのは…
賢綺 (振り返るが、怒ったように逸らして前へ出て)ここで悩んでいらしゃったというのは?
辺見 陶芸家のお父さんを台南に残して、自分一人が日本へ旅立つ…
賢綺 (苦笑しながら両手をまじまじと見つめて)インタビューの記事を読んだのね。水道局…水道の仕事でしたね、水道の仕事には勿体ない記憶力ですね。
辺見 憎まれ口という日本語がありますが、あなたには似合わない。今日もここへ来たのは、創作に行き詰っているからですか?
(賢綺は拳を振り上げて辺見に殴りかかるが、辺見は悠々と受け止めて賢綺を抱き寄せる)
賢綺 (嗚咽をしながら)行き詰るぅ?リー・シェンチィにそんな日本語はいらない…アイデアはいっぱい、いっぱいよ…
辺見 環境を変えてみるといい。心が安らげて、初心に帰れるような所
賢綺 初心に帰れるぅ?
辺見 Where you go home to basics, there is the home of your heart.(あなたが初心に帰れる所、そこはあなたの心の故郷です)
賢綺 There…そこは、日本だと言いたいの?
辺見 (上手の方を窺って)ここはちょっと暑い、犬走りは僕たちには似合わない。あのSLが日陰をつくるところまで行って、二人だけで話しませんか?
賢綺 这是一个好主意(いい考えだわ)。
(辺見と賢綺は寄り添いながら上手へ。室田と幸如はあ然と見送るが、やがて互いに顔を見合わせる)
幸如 (膝を叩いてから顕微鏡を覗き、すぐに顔を上げてクーラーバッグを叩き)これや、あの人な、あそこで採ったこれを舐めておったんや。
室田 (疲れたように横たわって)それは…何に効くモだって?
幸如 モやない、ペンタリナや。見てみい、五角形のかたちして…(顕微鏡とクーラーバッグを取って立ち上がり)ほんま鶏みたいな日本人やな。
(幸如はまた湖面へ向かうべく颯爽と下手へ。室田は幸如の後を見ていたが、やがて辺見と賢綺がいる上手の方を見やり、次にしばらく正面の湖上を放心したように見ていたが、よろよろと立って幸如のいる下手へ向かう)
室田 ヘイ、お姉ちゃん、ギブミー・ペンタリナ!

                                       幕
嫉妬

嫉妬

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2004/05/11
  • メディア: 単行本



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ: