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アルシング   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 ハトルドゥルは議事堂の煉瓦積みの佇まいが好きだった。その集会所らしい佇まいからは、祖国の会議場たる威風は微塵も感じられなかった。凡庸な煉瓦積みの佇まいである議事堂、そしてアイスランドの誇りといえる荒涼とした自然、これらは実に好対照で小気味よかった。
「ところで、あなたは鯨は好きですか?」
 シンこと大友伸輔は、カメラのファインダーから眼を離して、唐突に背後の「オーディン」の店主に訊ねた。
 ハトルドゥルはシンの英語を聞き取るのに難儀していた。ひとつには七十を過ぎるあたりから耳が遠くなったこと、もうひとつは、店で金持ちのアメリカ人を相手にするようになってから、アメリカ英語なる米語が老いた鼓膜を冒しだしてきたこと、などが挙げられた。
「お若い日本人、その質問は、保護に躍起になっている連中が言っているような意味での鯨のことかな」
 シンは思わず左頬の傷に手をやり微笑んだ。ベカー高原でシーア派に敵対する輩から闇討ちされた痕である。その折は二十代も終わろうかとしていたが、気がつけば中東を離れてレイキャヴィクに立った今は三十四歳になっていた。
「もう若くもなくなったが…ただ海外での生活が長くなると、伝統的な日本人、そういったことにいつのまにか拘っていて、日本人ならおそらく言うだろう、聞くだろうということを聞いてしまう。肉ですよ、鯨の肉は好きですか?」
 ハトルドゥルは反り返って笑みを晒して、蜘蛛の巣を掴んできたような毛むくじゃらの右手を議事堂の方へ振った。
「あそこで決まったんだ。鯨が好きで好きで堪らない連中が、鯨を食べたくて仕方のない連中が、あそこでオーディンが下された恵みを喜んでいただくことを決めたんだ、四年前には調査捕鯨を再開すること、そして去年、商業捕鯨を再開することを」
 シンは頷きながら議事堂の簡素な正面をもう一度カメラのファインダーにはめ込んでみた。
「あなた達のアルシングは…手続きというよりも、そこに決定がある、というわけか…」
 ハトルドゥルは腕時計をちらと見てから、苦笑まじりな顎を北東の山麓の方へ悠然としゃくった。
「我々のアルシング、しかし、そこはヴィグディスやエリンのような美女が顔合わせする所さ。曇ってこないうちにシンクヴェトリルに向かおう。我々のアルシングは、いつもそこにある」

 かつてアルシングが開催されていたシンクヴェトリル、記録に残る九三〇年、ノルウェーからの移住者によって、そこでアルシング(Alþingi)と称される民主的な全島集会が開催された。およそ千年前から具体的に立法と司法が機能していたのである。膿み疲れて皮肉しか口にできなくなった方々が、どう見ても丘陵での原始的な集会ではないか、と言ってしまえば鯨捕りの自治に対して無礼であろう。すでに中世の身分制議会ではなく、近代議会が存在していたことになるのだ。そもそも、そこは只ならぬ場所なのである。ユーラシアプレートが東に、北米プレートが西に裂け広がっている様子が目にできる、大西洋中央海嶺の地上の露出部分なのである。よって現在は国旗が掲揚されているシンクヴェトリルこそは、オーディンに祝福された鯨捕りが集う聖地に他ならない。
「商業捕鯨を再開することに反対した人はいなかったのですか?」
 シンの捕鯨に対する拘りは、海外からの視点で伝統的な日本人を見直そうという思考の一環だった。
「いただろうさ。特に四年前の調査捕鯨の再開そのものを反対していた連中は、天地がひっくり返ったようになって、真っ赤になって反対していただろうな、溶岩の塊みたいになって」
 ハトルドゥルの子供っぽい口調は、裂けた地表が見せる岩塊の壁廊に沿って共鳴しているかのようだった。
「聞いていいかい。日本人は、そもそも何を恐れているんだね?」
 シンは両手の中指でこめかみを突く仕草をして渋面になった。異邦人になってから身についてしまった悩ましいモンゴロイド面である。
「それなんです。日本人が恐れているものが何なのか、それが、ずっと日本へレバノン情勢を打電してきた…ヒズボラを中心にして中東情勢を送ってきた自分が、日本人として拘って触れようとしているもののようなんです」
 ハトルドゥルは息子のような華奢な肩に手を置いて首を小さく傾げた。
「イングリッシュで話していながら、未だ掴みどころのないイングリッシュとして…アイデンティティー(identity)という言葉がある」
「identity…確かに厄介な言葉ですね、日本人にとっても」
 項垂れる二人を不意打つように、太い雨がとつとつと岩壁を叩きはじめた。
「思うに…年寄りの経験上、アルシングで決定される事は、このアイデンティティーという、その何て言うのか、鍋みたいなものの中で煮詰められた結果だと思うんだ」
「アイデンティティーという鍋…」
「我々は捕鯨について、いや、鯨そのものについて、我々のアイデンティティーという鍋で煮詰めたんだ。Pan(鍋)はアイスランドでもPanだがね。どうだろう、君たちの捕鯨にしても、いや、君たちの鯨そのものを、君たちのアイデンティティーという鍋で煮詰めてみたら…いかにも酒場の親父らしい話し方になってしまったがね」
 ハトルドゥルはそう言って聖地から出る方向を指した。シンは頷きながらidentityとPanを口中で繰り返していた。

                                        了
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