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ナザレ   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 彼女は酒も煙草もやらなかった。だったらそのまま祈りの町ブラガで祈っていればよかったのに、とか言うのは無神論者で実家が曹洞宗の緋山沙里(ひやま・さり)には酷な物言いである。煙草はもちろんワインも飲まないからといって、やっぱりmono amarilloもしくはmacaco amreloそのままのyellow monnkeyを見くびらないでほしい。バルセロナのエスパニョールを後にしてブラガのランクFCに移籍した時、サリ(沙里)のお決まりの挨拶の締め括りはこうだった。
「…好きなものが三つあって、一つはやっぱりクリスチャン・ロナウド、一つは猫、もう一つは鰯の塩焼きです。ブラガはちょっと海から遠いことが残念です」
 海から遠い祈りのブラガのランクFCは、誰の誰への祈りのおかげか知らないうちにリーグ優勝の喜びをサリにもたらしてくれた。JFAアカデミー福島のときのポルトガル遠征で勝利したとき以来の喜びである。嬉々としたまま海を見ようと思ってブラガを出立したのだった。
 正直な感想を言えば十代だったあの時のほうが嬉しかった。相手はたしか近在の高校生と大学生を寄せ集めたようなナザレのチームだった。そんなチームを相手の勝利にはしゃぎながら海浜をバスで過ぎてみると、晴天でも殺伐としている常時、波浪警報が鳴っていそうなナザレだった。そうだ、ナザレだ。ナザレまで足を延ばそう、ご褒美のような休日なのだから。水平線を望むベンチでメモリアルのように固まった爺さん、そして鯱かマッコウクジラに追われる鰯の群れのようなサーファーたち、あれがここポルトにはない。世界遺産の橋で有名なせいか観光客の団体ばかり。時々、日本語まで聞こえてくる。あの恰幅の好い老夫婦は、ポルトにあって「瀬戸大橋の袂のヒレカツ」が旨いとか言いながら窓辺のあたしをちら見している。捕まる前にここホテル・ダ・ボルサを後にしよう。
 サリはボールがペナルティエリアに出る予感には卓越しているが、朝食のスクランブルエッグとポテトの残りの見切りには躊躇する質であった。
「ご一緒していいですか?」
 甲高いものの嫌味のない響きの日本語が落ちてきた。
「えっ、あっ、どーぞ、どーぞ」
 サリはポテトを含んだ口元を抑えながら後ろからのファウルに近い不快を持った。
「このホテルは日本人だらけですね。あそこにいる母と叔父が、さっきから一人旅のあなたを指して、あの人も日本人の方じゃない、とか…」
 長身の男はトーストとカフェだけがのったトレイを滑らすように置いた。二十代後半から三十代に見えるが、断じて純粋な日本人ではない。オーストラリアのマンリィ・ユナイテッドFCからロンドンを経てランクFCにやってきたサリ、彼女にも人を見る目利きは備わってきていた。
「ランクFCの方ですよね。先週の優勝のダイジェスト版を見ていたら、あれ、日本人だ。しかも母の若い時の写真にそっくりだと思って。そう、朝からお腹いっぱいのような顔をしている、あの母の」
 サリはラテンな男性ファンの言い回しには慣れていたが、回りくどい日本語の羅列には腰を引くしかなかった。挨拶代わりに振り返ってみれば確かに似たような奥二重眼。ポテトを飲み下してからカウンターに転じてみた。
「あなたとご家族は日本のどちらからいらっしゃったの?」
「ああ失礼しました。僕はルート・ファン・マーネンと言います。母と叔父は日本に住んでいますが、僕は父の方の国、オランダに住んでいます。ああPSVのユニフォームを持っています。オランダでプレイする気はありませんか?」
「ありません。あなたはオランダでどんなお仕事をなさっているの?」
「日本語で言うと、そうですね…自称、カフカ研究家、ですね」
 そうきたかのスライディング・タックルでもないし、父のクライフ好きのおかげでオランダなんぞでのプレイは考えたこともなかった。
「カフカってあの『海辺のカフカ』のカフカさん?」
「そう、そのカフカさんだけど、カフカさんには海辺は似合わないと思うな。読んだの?」
 見え見えのフェイントに乗っちゃって、もらったと落胆させないでほしかった。
「十代のとき、本屋さんの店頭に並んでいたのを見ただけよ。あたしの愛読書はサラ・パレツキー、英語のため」
 固まっちゃったキーパーじゃ楽々ゴール!スクランブルエッグは諦めて席を立とうと思った。
「ああサラ・パレツキー、僕もVIものは息抜きによく読みます。本当は母と二人だけだったらシカゴとかニューオリンズに行きたかったな。シャナ・デリオンは?」
「VIものよりも好きかな、新作が出たら練習そっちのけで読むわ。叔父さんが一緒だったからポルトになったの?」
「そう、叔父さんはカトリックなんだ。しかも金持ちだから言いなり旅行だな」
 二度と顔を合わせたくない日本語を話すダッチ混じりのカフカ研究家に言った。
「言いなり旅行なんて愚痴ってないで、ご家族で楽しいご旅行を」

 ポルトからナザレまではバスに乗って約三時間、がっくりと頷いた方はイベリア半島を楽しめないだろう。サリにしても時計ばかり見ている主審のような日本人気質は打っちゃれない。車窓は思いのほかオーストラリアのキンバリー海岸沿いに似ていた。赤茶けた不毛とまでは言わないにしても、テラコッタ・スレート葺の軒下に垣間見えるのは老人ばかり。しかし裏庭に上がっている白煙を見ると、バーベキューとワインよりは鰯の塩焼きとビールを連想して「日本人向きなのかもね」と呟いて微笑むしかなかった。
 未知への勇躍と不安を醸し続けてきた大西洋を望むナザレ。四世紀に聖職者がイスラエルのナザレから聖母像を持ち込んだことにちなむポルトガルのナザレ。たどり着いた聖母像も波頭の麗しさに嬉々としていたことだろう。やっとナザレに着いた。ケーブルカーなんて後まわしにして、須磨にあがるような鰯の塩焼きとできればスーパードライ、それが叶わぬのならライト・コークで手を打とう。まずは香草もスパイスも嘲るような岩塩焼きの狼煙を見つけることだ。狼煙が見つかった。やや大振りだが眼の赤くない立派な鰯だった。来た、見た、勝った。暇そうな太鼓腹の親父が鰯六匹に二個丸ごとレモンを深皿に載せてくれたものの、ビールどころかライト・コークも見当たらず氷たっぷりのグラッパを強制してきた。岩塩焼きに伴するなら安アルコールでも妥協するしかなかった。
「案外とさっぱりで…岩塩のせいかな。グラッパなんかは滓焼酎だからやめとけなんて言ってたけど…そうだね、カフカさんには海辺は似合わないよね。日本人の独り言だから気にしないで…鰈みたいなやつも美味しそうだったからグラッパをもう一杯いくか」
 微風の晴天下にあって、サリはむさぼり飲んでいるグラッパを称賛する羽目に陥った。砂塵も舞わず野良犬もまとわりつかない。どんな部屋でもいい、ホテルどこか空いていないかな。ランクFCのフォワードって言っても、ここはもうリスボンが近いナザレだから無理か。ブラガとかリスボンとか、女だらけのフッチョボルなんか忘れよう。グラッパと太陽が手伝ってか、異邦人サリは無防備にベンチから立って振り返った。
「やあ、やっぱりカフカには海辺は似合わない」
 ダッチ混じりのルートが往年の湘南俳優のような話し方で立っていた。
「そうか…ここも有名な観光地だもんね。カフカに似合う所ってどんなところ?」
 陳腐に繰り返すが、グラッパと太陽が手伝ってサリの切り替えも早かった。
「そうだなぁ、いつもカフカが似合うと思っているのはプラハ、こういう晴れた日は羽曳野かな」
「ハビキノォ?大阪の羽曳野?そうきたか…お母さんと叔父さんは?」
 ルートは「上から見たいんだって」と言って遠方のケーブルへ顎をしゃくった。
「羽曳野か…グラッパをもう一杯飲もうと思っていたんだけど、あんたもどう?」
 ルートが渋い顔のまま頷いてベンチへ座ったことがいささか腹立たしかった。鰈なんかあいつには贅沢だ。塩っ辛い鰯じゃなければ「羽曳野のカフカ」は始まらない。グラッパを面倒そうに注ぐ親父さんの太鼓腹を蹴とばしてやりたかった。
「羽曳野に行ったことがあるの?」
「母の実家が羽曳野のワイナリーなんだ」
「それはそれは御免なさいね、グラッパなんか相手させちゃって。でも鰯の微妙に残る生臭さを抑え込む感じが案外いいよ。案外って分かるよね」
 明らかに今朝の馴れ馴れしいルートではなかった。グラッパを含んで氷を嚙み砕いた横顔は哲学者か。地の果てナザレに辿り着いた巡礼者か。体の具合が悪いのか。そういうことか、海辺へ来るはずじゃなかったカフカなのだ。
「びっくりしちゃった。あたしね、羽曳野の青山病院で生まれてね、そう、峰塚中学校でサッカー始めたんだ。あの辺は古墳ばっかりでね、囲んでいる池の周りをよく走ってたんだ。あたしのこと調べたのかと思っちゃった」
 さすがに悩めるルートも笑みを浮かべた。かわされた。グラッパと太陽が阿呆に拍車をかけていると思うと、鰯の腸の苦みが随分と味わい深かった。
「具合…悪いの?余計なお世話だったらごめんなさいね」
「さすがは日本人。カオイロ?顔色をよく見ているんだね」
「だったらグラッパなんか飲ませるんじゃなかった。こっちはさ、爽快な気分だったんだからさ」
「僕も観光バスに乗り込むまでは爽快だったよ。叔父さんがいっぱいの薬を飲んで寝てから…母さんが言ったんだ」
 咄嗟に鳥のような影が過ぎった。人が肉親から離れて真顔になるときは肉親に原因がある。サリは父の病室を出た後の母の顔の落差に愕然としたものだった。
「叔父さんも聞こえていたのかもしれない。叔父さんはね、あの叔父さんは、ポルトガルへ死にに来たんだ。Leukemie 白血病って言うのか、その…駄目みたい」
 日本を出るまでのサリは置かれたような沈黙を嫌ったが、ここまで脚力だけで芝生の上に立ってきたフォワードはそれを静観できた。焦らない。ルートの方から沈黙を破ってくるだろう。焦れない。死に直面しているルートの叔父、連想に父の寝顔が去来してくるのは自然なことだ。古墳の堀周りを走るサリに自転車の父が並走し始める。頬を伝いはじめた涙が誰のためのものであろうと、ルートが語りかけてくるまでオフサイド・ラインを見極めるのだ。
 ヨハン・クライフさん、ナザレの午後にありながら羽曳野の夕景が重なってくるこの世界で、瘦せた日本人のフォワードを走れるだけ走らせてください。

                                       了

あい―永遠に在り (時代小説文庫)

あい―永遠に在り (時代小説文庫)

  • 作者: 高田 郁
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2015/02/14
  • メディア: 文庫



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銀蘭   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 名立たる武将を魅了したと云われる日本刀、大般若長光は昭和二十六年、工芸品扱いの刀剣としては初めて国宝第一号に指定された。帝国博物館(現東京国立博物館)蔵にまで至る所持の来歴としては、室町幕府十三代将軍・足利義輝から織田信長、徳川家康、そして松平家代々を経て、大正時代に山下亀三郎、伊東巳代治までに下るとある。ともあれ戦争を生き抜いた巷の昭和人にしても、由緒ある大般若長光を博物館の一般公開時に凝視できたのだった。
 昭和二十六年といえば、水谷浩三(みずたに・こうぞう)が京都大学農学部の教授に就任した年でもある。水谷家は京は木屋町通りに面した大黒町にあって、かつては伊根から京へ出て来て大いに繁盛した海産物屋だったが、跡取りの府警巡査だった婿の利彦が、昭和九年に共産党員(と言われている)に刺されて殉職してからは、商いの利権を伊根の親類に譲渡する格好となっていた。それでも浩三と未亡人となった姉竜子(たつこ)は、祖父が残してくれた不動産収入と大学からの俸給で人並みの生活はできていた。
 高度成長兆しの槌音を遠くに聞いているような中秋の京、有閑な町家の日曜日の昼下がりに水谷家は何やらそれらしく姦しかった。
「妖刀ぉ?妖刀いうたら普通は村正、村正のこついうんやろぉ?」
 浩三は薄ら笑いながらそう言って、濡れた満杯の薬缶をストーブの上へ置いた。
「熱っ!先生、長光て言うてますやろ。熱っ!まあ確かに妖刀では村正が有名ですわな」
 縁戚にあたる(亡き母と関係して放免された番頭の妹の子)理学部の助手となった森中(もり・あたる)は、弾ける熱々の飛沫を避けながらそう言った。
「妖刀でも水筒でもええけど、なんやその関数何とか、関数解析ぃ?その関数解析をやってはる数学者がな、九条の女が妖刀で進駐軍に斬りつけたなんて…そんな阿呆な話に夢中になって」
「熱っ!この薬缶いれ過ぎですわ。ほんで、阿呆な話でもそりゃ逆ですわ。進駐軍、いや在日米軍の軍医が、大層な日本刀集めらしくて、飾っておった大般若長光いうので、九条の看護婦見習いの女子に斬りつけたんです」
 浩三は闇夜で呼び止められたように背中を硬直させた。
「ほんまかいな。それやったら阿呆な話どころか、立派な事件やなぁ」
 中は薬缶の濡れを拭かなければと、布巾でもありそうな台所の方へ振り返った。待っていたように竜子が睨んでいる。布巾を口にしようとした瞬間、紺染めの手拭いが放られてきた。
「入れ過ぎや思うたらな、さっさと取りにきて拭くなり、薬缶をこっちへ持ってきいや」
「拭くだけでええ思います」と土下座するように中は布巾へ手を伸ばして「竜子さんかて錦の買い物ついでに聞いとるでしょ」
 竜子は待ってましたと言わんばかりに二、三歩踏み出した。
「聞いとる、聞いとる。一命はとりとめはったけど、見つかるのが遅かったら大変やったで」
「ええ、なんでも、正気に返ったいうか我に返った軍医が、血だらけの手のまま交番に行きよったらしいですわ」
「そうやてなぁ、ちゃんと拭きいな、その進駐軍やない、米軍の医者の名前ぇと、なんやったかな、黒船っぽい名前やったな」
「黒船?ああ、そうそう、たしかハリス、ハリスとか言うてました」
 浩三は中から手拭いを取りあげて、薬缶の蓋の周りを拭く仕草をしながら言った。
「黒船やったら、普通はペリーやろうけど…とどのつまりはやで、進駐軍の助平軍医のハリス君がな、看護婦に手を出そう思うたらやな、京都中に聞こえるような大声を上げられてもうて」
「違うわ、先生、ちゃうちゃう。そんな浄瑠璃めいた話と違います」
 竜子は弟の背後へどすんと膝をついて、さも情けなさそうに耳元へ囁くように言った。
「進駐軍さんわな、わてら生き残りが思っておる以上に紳士やで。そんなこっちゃから、痩せ猫が蹴られたように負けてしもうたんや」
 浩三は苦笑しながら後ろの姉へ手拭いを放りながら言った。
「それやったらな、なんやその看護婦見習いの方から、軍医に向かってやで『ドクター・プリーズ』とか言うてやで、その…」
「それや。京大の先生かてな、若い見習いの看護婦から前立腺のあたりをこしょこしょされたらでっせ」
 中は竜子が男二人を大らかに蔑視しながら腕を組む様を見ていた。
「前立腺てこんあたりかな」
 浩三が股間に手をやって振り仰ぐと、竜子は見るともなく頷きながら台所へ行ってしまった。
「まあ前立腺でもタマタマでも何でもええけんどな」
「ええですか、たとえ日本人のような助平な猿やなくて、竜子さんが言わはる紳士だとしてもでっせ、娘に色目使われたいうからて…」 
 浩三はここに至ってメークインと男爵を見比べるように、竜子と中を交互に見ながら大きく頷いた。
「あれかいな、単に不細工な東洋人の女が嫌やったとちゃうか?」
「先生、そん女を女とも思わん言い方が、先生を独身街道から外さんのですわ」
「なにを偉そうに…」
「ええですか、その軍医のえーとハリス、ハリスの奥さんは、なんと日系二世のハワイ人で、ハリスは愛妻から日本語を習ってきて日本へ医療指導に来ているわけですわ」
「それ早く言わんかい。分かった、あれやろ、アメリカ人いうてもピューリタンやから、看護婦がからかい半分で言うたことをな、そのまま真に受けてもうた真面目で頭の固い軍医さんなんやろ」
「そんでも、先生、こん大きな日本刀を抜いて、大般若長光を抜いて、娘の背中を袈裟懸けに斬ってやで、小さい白い花をですな、生けまっか?」
「生けるぅ?生け花のこつかい?」

 かつて山城国といわれた京の府内で日本刀といえば、それは三条小鍛冶宗近が鍛えた刀を指したとのこと。実際に三条通りを東山の方へ行くと、宗近が刀を打つ時に使った井戸が知恩院や仏光寺にあったとされ、鍛冶神社、粟田神社、注意すれば合槌稲荷の祠まで目にすることができる。その神社仏閣の群れから離れた賑やかな三条大橋のたもと、夏場の疲れが出たのか気分すぐれぬ浩三が佇んでいる。憂鬱な顔を若い衆に見せるのは嫌な質なので農業実習は助手に任せたものの、憂鬱なままでもどこか断れぬ人物と待ち合わせていた。
 中から軍医の殺傷事件を聞かされた翌日、浩三に農学部の先輩である高梨晃一郎(こういちろう)から帳場へ電話が入った。高梨は古くからの漬物屋の旦那にして、在学中から猟奇性と退廃美に凝った芝居を書いていて、陰湿極まるなどと評される一方、近松の生まれ変わりか、などと太秦の映画界からも期待されていた脚本家であった。
「えらい久しぶりやな」
 時と場所を約して会うのは数えて十七年ぶりとはいえ高梨は随分と老け込んでいた。
「先輩、ご足労頂かなくとも、宅に呼んでいただきはったら参りましたのに」
「なにを仰いますねん、京大の水谷教授にわてんとこのあばら家は似合いまへん」
 浩三の記憶は冷ややかなカルピスに直結して両手を打合せさせた。
「そや、あのカルピス屋、先輩にご馳走になった、あの静かなカルピス屋でもよろしかったんでっせ」
「なにを言うてんねん、あん店は道楽息子の借金の肩とかで戦前になくなっとるし、カルピスなんぞ珍しゅうもなくなってもうて、そこらの牛乳の代わりに出回っとるわ。ほんでも立ち話はなんやさかい、カフェでも入ろうか」
 高梨は真上の日を睨みながら暇そうな喫茶店へ浩三を誘った。暇そうなのも頷けるような革張りソファは、浩三に総長の応接室を連想させた。脚本家の先輩は倒れるようにソファに落ちると、指を二本立てて注文しながら太秦での仕事ぶりを粛々と話し始めた。
「…という有様よって、まあ、時代劇は仕舞いやろな。とは言うてもなぁ、漬物と同じで簡単には幕を引けんしなぁ」
 高梨は浩三の学者らしい眠気に囚われそうな顔に苦笑すると、それではとばかりに藍染の巾着から黒ずむ小骨のような物を取り出した。
「こん打ち物、何か分かる?そやな、いきなり見せてもうても叶わんわな、これはな、戦前の太秦で大河内先生から拝領した表目貫や」
 浩三は生まれて初めて大刀の柄の目貫という装飾金具を手にさせてもらった。銀色の花弁と肉厚の葉の造形は、鑑賞者に野にある美しさを連想させる間もなく暗鬱な重みを強いる。脚本家の高梨が舞台美術に関わって刀剣にも詳しいことは推察できる。しかし昨日の今日で何故、またも日本刀、またも人斬り包丁なのだ。
「これは…蘭の花どすか?」
「そや、華や芝居に疎いちゅうても、京大農学部の水谷教授やな。若いもんは水仙でっか、とか平気で言いおる。これはもちろん芝居用の偽物やけどな、刀の目貫いうたら後藤光正の大小の目貫が有名で、表目貫いうたらこの蘭や」
 高梨も軽く頭を搔きながら「徳を備えながら世に出ない人」の喩に至る、諸国を遍歴する孔子が山中幽谷の蘭に見入った故事を語りきった。
「…と、まあ、こん話はここまででや、水谷教授にお聞きしたいんわな、こん銀蘭のこつや。北山でも嵐山でもよう見かける銀蘭や。金蘭ちゅうのもあるんやろ」
「あります。金蘭も銀蘭も、昨今の北山や嵐山では珍しゅうなりましたな」
 浩三が力なく目貫を返す仕草を見て、高梨は演出にはまったような笑みを浮かべた。
「どないしたんや。会うたときから風邪でもひいたような顔しておったからな」
「風邪ではおまへんがな、夏の疲れが尾を引いとるような、それも理学部の助手になった森君から聞いた話、これが寒気のもとかもしれまへん」
 今にして思えばと、農学部の怪奇趣味の教授と噂されることもある浩三は、十年越しに襲来する不快について回顧せざるをえない。季節外れの悍ましい寒気の次には、それこそ脚本通りのように高梨のような風情と遭遇するのだった。
「認めたらええんと違う?認められんか。なるほどな、やがてはジェット機やら月ロケットが日がな飛ぶとアメリカさんが吹聴しよる、そんな世の中やしな。ましてや、あんさんは京大の教授さまよって、京都らしい魑魅魍魎の百鬼夜行なんぞは一笑に伏さんとあかんわな」
「憶えています」浩三らしくなく先手を打った。
「よう覚えとります。斎藤さんを襲った犬蓼、あれが始まりおしたな。そんで利彦兄さんを襲った吉草、共産党員の特高に対する逆恨み、とはいかにも時節柄の新聞の見出しどした。嫁になったばかりの姉さんは食が通らずやせ細り、わても長期の腹痛で台湾の蛮人療法に世話になる始末どした」
 洛中にあっての変態騒ぎも二度あっての三度目ゆえに、浩三も戦争を経て嫌がおうにでも開き直っていた。
「今度は中、森中君が持ってきたんは、ばっさり袈裟懸けの背中に挿さされた白い花。おかげでうちの姉さんも祭りのような騒ぎでしたわ」
 高梨は年甲斐もなく涙目になって目貫を巾着に放り込み、これまた年甲斐もなく破顔しながらカフェを啜って大いに咽る始末だった。
「おお咽てしもうた。あんさん、いや、君は煙草は?元々吸わんかったかいな。わては終戦から肺の調子が悪くて、ドクターストップちゅうやつや」
 浩三もぜいぜい顔の先輩が落ち着くまで待てる歳になっていた。
「お察しのとおり、わても銀蘭が、本物の銀蘭やで、この目で見たんや、ストリッパーのリツコのあそこに挿ささってるんをな」
「ストリップを見に行かはったん?」
「大部屋女優も食うていかなあかんわな。不細工なんは仕方ないよって、乳が婆ちゃん乳になる前よったらやで」
「先輩、そん女を女とも思わん言い方は置いといて、誰がどんな凶器でリツコはんを痛めはったんどすか」
 高梨は巾着を摘みあげてテーブルへ放った。そのまま両手で口をふさいで涙目を赤らめる。戦時下にあっても悠長だった高梨は優しい遊び人のままだった。
「日本刀でぐっさりや。というても撮影用の大般若長光の偽作でな、刃なんかあらへん、そうは言うても先は尖っとる、そん長光でな、倒れたリツコの足を掴んで陰部をめった刺しや。最後の一刺しが逸れて肋骨の下に入ってもうた」
 高梨が先週に目の当たりにした惨状を辿るとこうなる。大部屋俳優も裏方の手配もこなしてきた小谷という中年男、彼が戦前からリツコと男女仲だったのは知られているところだった。二人が別れた発端は案の定、小谷の許へ女が通うようになったからである。同志社で英文を教授している英国人女性オードリーは日本語会話に堪能で、日本文化のうちでも戦前からの太秦撮影所に興味津々だった。ハワイの血筋もあって奄美沖縄の美人顔ゆえ高梨もお相伴に与ろうとしたが無視される。勝手にしろと見て見ぬふりをしていたら、小谷がいつのまにか有志というか好き者を集めて、リツコ他食っていくのがやっとの女優を集めて撮影所の裏一画でストリップを企画しているらしい。頃合いを見計らって闇夜に集ってみれば、助平は高梨と守衛の親父と主催の小谷の三人だけで、踊りだしたのは化粧っけもないリツコ一人。半刻も過ぎた頃、酒も入っていない高梨と守衛が欠伸しそうになったとき、フィルムではむろん舞台でもお目に罹れぬ惨憺たる夜が開示されたのだった。

 京都御所の西側に京都府警やら検察庁が居並び、御所と官公庁に挟まれるかたちで烏丸通り沿いに護王神社がある。地元では蛤御門前のいのしし神社とも呼ばれて親しまれている。境内の霊猪像の許で会合すれば安心至極、と豪快に笑って場所を決めたのは、怪奇趣味の浩三ではなく、ましてや関数解析の中でもなく、殉職して警部となった水谷利彦巡査の自称右腕、金光実道(かねみつ・さねみち)巡査であった。
「正午が十一時に戻ったぁ?」
 理系とはいえ数学アレルギーの教授は、まともに聞く耳持たずのはずが、思わず振り仰いでしまった。
「ええ、あれはラマナタンが術を使いおったんですわ」
 霊猪像に寄りかかっていた数学科助手は、度のきつい眼鏡を外して傷を確かめるように日に翳した。
「言うとる意味が分からん。正午になる前、十一時五十八分いうたな、それが十一時に戻った言うんわ、長針がぐるりと左回転してな」
「違ぃますって、短針が左回転、正確には三十度マイナスX軸側に傾いて、長針はぴったり十二のところいうかY軸0のところに重なったんですわ。あれはインド人がよう使ういう魔術でんな」
 浩三は烏丸通りの方を訝しげに窺いながらでぶ猫が満腹のような嘆息をもらした。
「魔術か忍術か知らんがな、そん高名なインド人数学者の講演いうは、十時から始まって十二時正午に終わってな、丸々二時間やったいうことやろ」
「ちゃうちゃう、違ぃますって、丸々三時間話されたんどすわ。わての大学入学祝にもろたこの時計も、助手仲間の雨宮の辛気臭い時計も、講演が終わったときは十三時、午後の一時を指しておったんです!ええですか、ラマナタンは腕時計をしていなくて、背後の黒板の真上の最新の電気時計を、数式をチョークで書く時、話している時も三十分おきくらいに見上げておったんです!」
「ほう、自分が見ていた時計の針を強引に動かしてやな、二時間のところ三時間に渡って話しました、言うんやな。そやったらやで、そんインド人の講演をご拝聴にお集りどした皆さんは大騒ぎやったろな」
 中はそれこそ猫が吐き戻すようにごっくりと唾を飲み下して縦しわを眉間に立てた。
「ラマヌジャンの予想とか…数論のかなり専門的な内容で、他の先生方は感動していたのか、分からなくて居眠りしていたのか、騒ぎにもならんで拍手お開きになって…終わって教授たちの後をついて行くとき、思い切って雨宮に聞いてみたんどす、真上の時計のこと」
 浩三は非番の縦縞シャツ姿の金光巡査を見つけて腰を浮かせた。
「あんさんの目の錯覚や言うとったやろ」
「雨宮の奴、半べそみたいな情けない顔で『おおきにぃ、森君も見たんやな、わいだけかと思うた、怖かったわ~』言うて…」
 金光巡査はいかにも戦時を生き抜いた証か、千切れ欠けた右耳を指すように敬礼した。
「お久しぶりですな。水谷警部の七回忌は戦時中よって水酒どしたが…」
「まあ、その時節柄いうか…今年の来月の十三回忌はとことん飲みましょ、兄さんもそれを望まれとるでしょうから」
 金光は直情で義理堅いことを体現するように暫く目頭を抑えて俯いていた。
「そや、教授、言わはった同志社のオードリーいう英文教授」打たれたように巡査は顔を上げた。
「そん方は去年の夏まではいはったようでんな、あちらで言う新学期、九月からケンブリッジで学びなおしたいとかで」
 撮影所の件を詳しく知らぬ中は、応じるように俯いた浩三の横顔を凝視した。
「そうか、オードリーを騙った女がいるのか。高梨先輩と拘置所で厄介になっとる小谷いう男を騙した女、間違いなく言えるこつは外国人いうこつか」
 金光は日陰の方へ手招きながらシャツ下の腹巻から手帳を引っ張り出した。
「今日は暇やさかい、太秦界隈をぶぅらぶぅらしてでんな、日替わりの守衛の三人やら出入りしとる仕出し屋とか菓子屋に聞いてみたんどす。赤毛のえらい目立つ、お人形はんみたいな女だった、言うてましたわ」
「事件のあとは現れていない、さっぱりとでっか?」
「さっぱりとみたいどす」
 中は幼児が足し算をするように指折りを翳しながら二人に分け入った。
「先生、大部屋女優を小谷いう大部屋俳優がめった刺しにして、わてもよう見たことないあそこに銀蘭を挿しおった言うんは聞きました」
「見たことないって、君はまだ童貞か?」
「違います!伏見の女給あたりはよう見せてくれへんのですわ。ちゃうちゃう、そんこつやなくて、そん赤毛のオードリー言うんは何なんですの?」
 浩三は高梨から聞いた撮影所に出入りしていた女について話した。
「それやったら、丁髷好きいうか侍好きいうか、敗戦国ニッポンに同情して肩入れしたい白人女性、そない言うんはあきまへんか」
「だとしてみぃ、何故、去年の夏には日本を去ったケンブリッジの女史を騙るんや」
 金光はわざと手帳の頁を鳴らしながら軽く咳払いした。
「太秦をぶぅらぶぅらした後で、例の事件を起こしたハリス、そして仲間の医師が集まっとる京大病院までぶぅらぶぅらと」
「ハリスはまだ京にのうのうおるんですか?」と憤慨する中がいた。
「おるわけないやろ、精神鑑定を受けるとかの理由でさっさと横須賀へ移送や。若い看護婦をばっさり斬っておいてやで」
 浩三は自分よりも若い警察官と大学助手が敗戦国らしい虚脱の影を持つのを見ていた。
「それはそれとしてやな、これは日本の事件、京都の事件、しかも学生だった自分と姉竜子が遭遇してきた、一連の面妖な現象いうか狂気の沙汰、それに連なっとるいう妙な直観があるんや」
 金光は吐息を陽に焼けた頬にためてぐいぐいと頷いた。亡き水谷利彦と新妻の竜子が居並ぶさまが、十代の実道が理想とする家族風景だった。
「金光はん、もうひと骨折りしてもらえまっか。そのハリスにオードリーいう外人女が、いや、オードリーはどうでもよろしいわ、外人女がハリスに接近していたのを誰か見聞きしてないか」
「そうおっしゃると思って京大病院までぶぅらぶぅらしてみたんですわ」
「さっすがや~」と何やら嬉しそうな中。
「勝手に褒めんといてくれ。わてかて頭の整理がつかんさかい、こうして教授に護国神社まで来てもろうたわけや。教授、おりましたで、ハリスに接近していた外人女が」
 浩三の脳裏を亡き先輩の斉藤が口いっぱいの犬蓼を吐き散らしながら過ぎていった。
「オードリーではなく、えーと、ナンジャやなくてナジャ?そう、ナジャいう女は、ファイザー、これはアメリカの軍付きの薬剤物資の会社らしいのですがご存知でっか?」
「たしか一昨年だったかな、テラマイシンという抗生物質を開発している製薬会社や。そのナンジャモンジャはそこの何なん?」
「ナジャどす。ナジャは占領時から来ている、えーと、医療顧問とかで、日本語が話せて京都がえろう好きいうか…京大病院の人が言うにはインド人みたいでんな」
「インド人!」と目玉を剥いているのは中。
「だからインド人いうたらインド人やろし、太秦に現れたオードリーいうは白人でっしゃろ?」
 浩三は翳ってきた霊猪像に向いて目を細めて呟くように言った。
「まあ同じコーカソイドだから色の白だ茶色だは何とかなるな…そんナジャいうのは、ちゃんと日本におるんかい?」
「おります。衣笠山にあるサナトリウム?聖マリア修道女会サナトリウム、ここの裏に同僚三人と住んどります」

 衣笠山を有名にした故事では、宇多天皇が真夏に雪景色を見たいとの仰せ、それではと山麓の木々に絹の白旗をかけて雪山に見立てたのが筆頭にあがる。これには大王の権力を嘲笑うような陰話があって、もとより山麓は高貴な筋が埋葬されてきた地で、白絹をかけて埋葬された亡骸が、たまたま雪を頂いたような絹の笠のように見えただけとか。それも戦後の賑やかな今日この頃では、山麓の市道183号線は舗装される観光道路としての期待に与っていた。
「サナトリウムいうは結核患者の療養所ですさかい、その裏ともなれば隠れるにはもってこいでんな」
 中は今にも降りだしそうな曇天を恨めしそうに見上げた。
「本当にインド人を見送りに行かなくてよかったんかい?時計の針を動かす魔術いうんを授けてもらえば、安月給の助手なんぞやっとらんでも羽振りがよかったん違う?」
 浩三は研修林を歩きまわる際のリュックサックを背負いなおしながら言った。
「ラマナタン先生は立派な数学者や言うんは分かっとります。魔術をお使いになるのは、何て言ったらよろしゅうか…あん先生のおそらく体質いいましょうか、きっと」
 妙に専門的に過ぎるかと思えば若者らしく俗っぽい森中、浩三はそんな彼の痩身を今更ながら上から下へ辿り見した。
「体質?なるほど体質か、体質、体質、便利な言葉やな」
 仁和寺の御室桜の段々を右に窺うようにして、あえて藪に分け入れば腐植土の匂いは最近の雨風そのままを連想させた。にわか雨が連なる京都といえど、商いもあって秋の台風続きは恨めしい。盆地の驟雨は金蘭でも銀蘭でも育むが、天神様の怒り心頭めいた雷雨は北山への散策を阻むこと然りである。
「蘭がなんとか残っておったな」
 浩三は先日の土砂崩れに抗ったような跡に白い花を見つけた。小型ショベルで手際よく根土ごと掘り取ってしばし見入る。植物園で怪容を見せる竜舌蘭はいかにも人を取り込みそうな雰囲気があるが、山野のあちらこちらで散見できる銀蘭は、確かに失意の孔子を慰めるに相応しい。
「先生、これから会うナジャいう製薬会社の博士、そん人が、蘭やら吉草やら犬蓼やらの植物ホルモンを操れるとしたら…サンプルにしても蘭を持っていくのは…」
「持っていくのは?さだめし大般若長光を差し出すようなもんやないかて?」
「いや、危ないのは日本刀、キッス、ほんで注射針でありますよって…」
「もう一息や、関数解析の森はん、よう考えなはれ」
「えーと、先生から聞いた犬蓼、吉草、そしてそん銀蘭、これらの植物ホルモンが直接に害を及ぼしたんとは違う、ということは?」
 浩三は持っていた銀蘭を捨てて苦々しく土まみれの指先を舐めた。
「その辺にしとくか。見てみい、サナトリウムへの正面攻撃は避けて正解やったな」
 台風の大雨による土砂崩れが、戦前のコンクリート造りの三階建ての一階板塀へ押し寄せていた。患者たちは大丈夫だったのだろうか。と思う間もなく、土砂崩れの惨状を見下すように堅固な石垣積みが現れた。
 絵に描かれたようなバロック様式の小さい城が見えた。ウォルトディズニーを知る昨今の日本人にとって何やら城風の造り。近づけば赤煉瓦積みにしても樫板張りにしても、ここ一年ばかりの造作に見えるので現実感がない。浩三は入口のようなもの(それがあればの話だが)を探している自分の生温い汗を意識していた。
「窓が開いてますわ」
 中は小窓に架かる白いレースのカーテンに息をのんだ。
「先生、ここは正攻法でいきまっか?」
 浩三は濡れ犬が身震いするように頷いた。
「お邪魔しまーす。京都大学の者ですが、こちらはファイザー薬品のナジャ博士のお宅とお聞きして伺った次第でありまーす」
 二度三度と若者の声が裏返るほどに繰り返したが、邸内のカーテン奥からは物音ひとつしない。留守にしては開窓へ導くようなカーテンは不用心過ぎる。中は逆に意気消沈したように窓辺へ近寄った。
「映画で見たようなきれいな部屋どすわ」
 浩三は若者の大胆さに舌打ちしながら渋々と窓辺へ寄った。
「写真がある。あっちの色の幾らか黒いのがナジャ博士でっしゃろか」
 中が指差す先には汗をひかせる不穏な予感があった。総長の応接室を青りんごの壁紙とペイズリー柄の布カバーでソファを包んだらこうなる。紫檀のように見える食器戸棚の上に写真立てが四つあった。
 左端の総天然色の写真、確かにインド人らしき風貌の女性。向かってその右横のやはり総天然色の写真、黒髪だが眼は蒼金剛石のように青い。この目を引く二つの写真の後方に白黒写真、やや黄ばんでいるが看護婦姿の若い日本人女性。その斜め後方にはかなり黄ばんでいるが、戦前の巡査服をまとった若い日本人男性の姿があった。
 浩三は眼を射られたように後退して、真昼のサナトリウムの屋根の照り返しを振り仰いだ。写真というものは、特に白黒の黄ばんだそれは、時として言葉など寄せつけぬほど説得力がある。勇を鼓して過去の悲壮と対峙しなければならない。
「知っている人どすか?」と中は我慢できずに聞いてきた。
「奥の二つ、白黒の二つはな。看護婦は伊吹山からやってきた注射針の女。もう一枚は、分からないか、あれは…利彦兄さんだよ。結婚する前の小野利彦巡査や」

 その日は悲観的な日本人が常用する意味としての霹靂のごとくやってきた。実際に雲一つない晴天だった。後に映画館で観た西部劇で「死ぬには絶好の日だ」という台詞を耳にして以来、水谷浩三教授は晴天を見上げて卑屈な苦笑を漏らすようになった。
「電話やて!金光はんからやて!帳場さん煩いよって、早よう!」
 姉の竜子が階段下からきゃんきゃんと怒鳴る。遂にきたか。思いのほか落ち着いている自分は噓だ。浩三は膝を叩いて立ち上がり背伸びをひとつ、段を確かめるように下りて竜子を一瞥もせずに過ぎた。
「出ました。双ヶ岡の方へ下ってます…信じられません」
「そうか、わてかてこの目で見んこつには信じられん」
「幽霊やおまへん。二本脚で歩いて行きました、自分の前をあの巡査服姿で…自分を見るでもなく、巡査服の自分を」
「そうか、気をしっかり持ってな、昼間やさかいに。見失わんと頼むで」
 金光が唸るように了解して受話器を置くと、沈痛な金属音が帳場に広がるように延々と耳に残った。
「金光はん何やて?」
 恐れていたことが判で押したように声となって背後にある。竜子の笑みに己の面相が定かでない。姉の明朗な鈍さが救いだった。
「そやな~なんや双ヶ岡の近くでな、北山から下りてきた猪の肉を貰うたと。巡査はええ商売やな」
「なんやそれ。ほんで晩は猪の肉で一杯やりましょか言う電話かいな。ほんま帳場さんに叱られるで」
 浩三は子供のように舌を出して薄ら笑い、左手首の義兄の形見時計をちらり見た。
「それがな、双ヶ岡の下あたりで三輪トラックが転びよって、そっちへ向かうんで、えーとな…」
 竜子は良くも悪くも弟を知り尽くすさすがの姉様だった。
「なんや、なんでおでこに汗をかいとるのや」
 浩三はやはり駄目な弟だと己を皮肉りながら黄ばんだ歯を見せるしかなかった。
「あんなぁ、そやそや、一緒におった部下に持たせたから、正午ごろになったらな、署に取りに来てくれへんかて、そん鹿肉を」
「猪やろ」
「そや猪や。そや、イノさんやから錦で九条葱もぎょうさん買うといてくれとか」
 竜子は針仕事を終えたばかりのように眉間を摘まんで項垂れた。正午は半刻ばかり先だった。
 いかにも早う行ってくれと言わんばかりの弟。暑くもない白昼の母屋への渡り廊下、青白い学者面に玉のような汗を浮かべている、わてがお腹を痛めた実子のように愛しんできた浩三。傍目にはありがちな姉弟のお晩菜語りも、なんや尋常やない風向きらしいさかい仕方ないわな。
 竜子は帯を叩いて顔を上げた。
「仕方ないわな。女は女の仕事をさせてもらいまっか。ほんでな、出掛ける前にな、渡したい物があるよって、書斎で待っといてくれやす」
 浩三が二階の本塞がりの書斎へ戻って間もなく、急いてるのが逆転したように音を立てて姉は階段を上がってきた。襖をきいきいとひいた竜子は長い木箱を捧げ持っている。正座して行儀よく渡そうにも林立の本塞がり。呆れたように姉は放るように弟へ渡した。
「漬物屋の高梨はんが持ってきはった、国宝級とは言わんまでも、本物の大般若長光やそうや」
「本物の日本刀?」
「芝居書きの高梨はんのこつやから本物いうてもな…そんでも、ここは京都や。大学教授やてピストルよりは懐刀やろ」
「そやな…相手は植物ホルモンの何某いうておったけど、とどのつまりは化け物やしな」
「そや、ほんでな、何遍でも言うたる、ここは京都。わての同級生が黒谷の光明寺の娘やさかい、悪霊魍魎の討伐退散の念仏をきっちり入れてもろたわ。あとは中学の途中で投げ出した剣道部のあんたの腕や」
 木箱の紐をほどく浩三の手は震えていた。
 竜子は震える華奢な弟の手首を包むように押さえる。亡夫利彦の腕時計が微熱を発しているように感じられた。
「わての旦さん、利彦さんも一緒やさかい、お気張りやす」

                                       了
男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: 文庫



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蒸留所   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私はタクシーの運転手にスペイサイドの蒸留所を告げた。五月の空は晴れあがり気温は上がっていた。林檎の白々とした花弁がこの日とばかりに歌っている。なるべく自転車ほどの速さで悠々と行ってほしいと思った。それにしてもスカーフを被った伏し目がちな少女が見あたらない。そうだ、林檎の花弁から「りんごの木」という介護業者のロゴを連想している大阪人がここにいる。遥々、トム・スティルチェスを訪ねてきたことはそっちのけだ。そして中年という河岸に両足をどっぷりと浸けてしまった今日この頃、目の前のスコットランドの健在さは、嫌がおうにでも無謀な二十代の自分を炙り出してくれる。十分に若かったトムと出会ったのはグラスゴー。私が在日韓国人だと言っても信用してくれなかったオードリーと出会ったのはロンドン。無謀に載せた虚勢とプール学院出の姉仕込みの英語が私の全てだった。
「君が言っている日本の中の韓国人っていうのは、スコットランドの中のノルマン人とかピクト人とかとは違うのかい?」
 トムはあの頃と変わりなく容赦ない語り口だろうか。そう回顧するまもなく、容赦云々を相も変わらず唱えているのはおまえだけだ、と聞こえてきそうだ。
「ノルマン人?そこまで遡らなくても、もっと近代になってから、大陸から英国に移住した人たちがいるだろう」
 ゴールウェイ出身のトムは実際に思いついたのか、大きく頷いて薄まったスコッチのグラスを当ててきた。私はしっかりと記憶している、彼が「ユダヤ人」という言葉を吞み込んでくれたのではないかと。あのバーには被虐的に「ユダヤ人」と言ってほしかった私がいたようだ。
 こんな私たちをグラスゴーで出会わせてくれたのは、若さ、スコッチウイスキー、そしてセルティックだった。
 若い私はなりふり構わず中村俊輔を追っていた。それもセルティックのユニフォームを着て左足を振りぬくナカムラを見たかった。ファン心理というものが鏡像を踏まえているのは仕方ない。私は独り、壁の一点へ向けてボールを蹴るのが大好きで、一重瞼の朝鮮顔を前髪ばっさりで隠していて、独り、祖父のいる鰺ヶ沢を訪ねた夏休みの思い出に浸っている少年だった。日韓共催のワールドカップに背を向けて宿命を受け入れたナカムラ・シュンスケ。鏡の中にいつしか勝手にシュンスケを見ていた。濡れそぼった前髪を払いボールを置いてゴールの隅を射る眼差し、あれを温もっているイタリアの芝上ではなく、鰺ヶ沢のようなスコットランドのそれで見ること。なんとも地上の直観と杞憂は人間の思い通りになるものだ。感動のためのロマンの神は浪花節の恵比寿さまと一晩語らってくれたのだろうか。
 若いトムは二〇〇五年からゴードン・デイヴィッド・ストラカンを追っていた。ストラカンはダンディーFC、アバディーンFC、マンチェスター・ユナイテッド、リーズ・ユナイテッド、コヴェントリー・シティでプレーした右サイドの技巧派プレーメーカーだったらしい。らしいというのは、トムにしても選手としてのストラカンの最初の記憶は、リーズ・ユナイテッドを優勝に導いたときの新聞写真でしかないからだ。彼が二〇〇五‐二〇〇六シーズンよりセルティックFCの監督に就任したことがトムに至福をもたらしたのだった。
「あの年は素晴らしかった」
「そうさ、リーグ戦の優勝とUEFAチャンピオンズリーグの出場権の獲得…シュンスケはやってくれたね」
「翌年はさらに素晴らしかった。レンジャーズに圧倒的な差をつけて首位を独走してのリーグ連覇!そしてチャンピオンズリーグのグループリーグ、しびれたね」
「そうだね、マンチェスター・ユナイテッドやベンフィカにホームで勝って、チャンピオンズリーグのベスト十六…特にマンUを相手のシュンスケのフリーキック!」
「レノンの鬼のような顔とマロニーの坊ちゃん顔が実に対照的でね」
「トム、どうしてシュンスケの、ナカムラの名前が出てこないんだ!」
「君をからかっているのさ」

たとえば
僕がグラスゴーの街に精通していること
トーキョーのこともよく知らないのに
とても詳しいということ
写真でしか見たことがない女の黒子
誰もが知る上唇の右端
項の生え際に血の固まりのような一つ
左の乳房
垂直に落ちず膨らもうとする鞍点

たとえば
僕が酒場で友達になりたい彼らのこと
ハートソン
悪夢のように白い象
潅木を芝をクレソンを散らし舞わせよ
マローニー
礫を投げつける悪童
野苺を蛇梨をクレソンを彼女の籠に隠せ
ウォレス
蚯蚓とクレソンを束ねる王子
スコットランドは永久に健在なり

たとえば
君は世界の奥深さを目の当たりにする
地の果ての港町から
長靴の土踏まずを経由して
神の足はやって来た
静謐なまま万能の予感をもって
アスファルトから洋上へ
洋上から石畳へ
羊骨の散らばる贄台を越えて
クレソンが繁茂する沼を越えて
神の足はやって来た

 私はトムの言うとおりにスペイ川に架かるゴシックな橋のたもとでタクシーを降りた。トムは中世の橋の番人のように待っていてくれた。彼の少女のようだった頬と唇と顎は、挿絵にぴったりな疲れたロビンフッドの人相にはまっていた。お互いに発声する間もなく悟った、自分たちが風景に否応なく映える歳になったことを。あれからどうした、などと言うものなら聞こえないふりをしよう。私が言うことは決まっていた。
「いい川だね」
「そうだろう、これがスペイ川さ」
 私たちは野を越え樫の林を越えて蒸留所を目指した。若かりし頃の饒舌さはどこへ行った。これでいい、二人を黙らせているのは分別などというものではないのだから。それは眼と指先が感じてしまった北風や樫肌の堅さだろうか。しかし疲労は微塵も感じない。何やら互いに微笑み合うような顔をあげると、老いた白鳥のようなイースターエルキーハウスが忽然と見えてきた。
 私が蒸留所にトムを訪ねた日は、つい一週間ほど前に完成して間もない新しい蒸留所への神秘と期待に澱んでいた。目の前にした新しい蒸留所のスロープは、私にH・G・ウェルズの荒涼たる未来を想わせた。
「ウェルズを?そうか、あの屋根の形が火星人が乗ったポッドに似ているって?」
「タイムマシンだよ。人間が地に住まわしてもらう最終的な理想形が見えるようだ」
「あべのハ・ル・カ・スだっけ?そう、あべのハルカスが人間の目指す住まいじゃなかったのかい」
「よく言うよ、君はロンドンやグラスゴーから遠ざかりたいばかりに来たんだろう、スペイサイドに」
 私が想った荒涼たる未来とは、垂直志向に辟易としてしまった人間が、高度な知性を育みながら地の精霊に捧げる未来である。鰺ヶ沢の祖父の血が、スコットランドの土と水と樫を、幼い少女のように掻き抱こうとしていた。イースターエルキーハウスの隣のビジターセンターは、正真のスコッチウイスキーが大地の恵みであることを啓示するパノラマ・ステーションである。私はセルティック・パークを見渡したときの感慨に再び襲われていた。
「外観にばかり圧倒されていないで、中のポッドスチルの林を見てくれ」
「火星人が乗ったポッドもぶっ飛ぶことを期待しているよ」
「技術だよ、技術。君のナカムラや僕のストラカンが培ってきたもの、神に捧げるべく練磨してきた技術、人間の尊厳そのものといえる技術、その技術があるんだ」

                                       了
中村俊輔式 サッカー観戦術 (ワニブックスPLUS新書)

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  • 作者: 中村 俊輔
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2019/02/19
  • メディア: 新書



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