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呑川   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 今風に言えばアラ六〇、つまり還暦前の僕は、イオンシネマ京都の大スクリーンに愕然と目を見張っていた。シン・ゴジラが羽田沖から上陸する。そしてあの吞川を遡っていたのだ。
 十九歳のあの頃、僕は偽学生ならぬ偽予備校生として、呑川沿いの布団部屋のような三畳間に住んでいた。
 呑川という川は目黒あたりに始まって、池上を巻くようにして蒲田駅を掠めて羽田の方へ流れている。正確に言えば流れているらしい。逆流することが度々で淀みっぱなしなので、どっちへ流れているのか一見しては分からない。そして泥水だか汚水だかの色は底が見えないほどに黒々としていた。
 僕は日に一度は腹に何かを入れなければならないと知っていたので、夕方になると呑川に架かる橋のたもとの駄菓子屋へ向かった。おばさんは珍しく川辺りの金網にしがみつくようにして何かを見ていた。僕はいつものようにナビスコのクラッカー一箱とカップラーメン一個を掴んだ。
「おばさん、すいません…なに見てんの?」
 おばさんは訝しげな顔のままレジスターを打ちはじめながら言った。
「魚をとっているんだけどね、あんな汚いところの魚を…」
 僕は田舎で川遊びばかりしていたから、どこであれ何であれ漁労の瞬間は見逃せない。小銭を支払うと追突するように金網へしがみついた。
 橋の下の真新しいコンクリート土手の水際に、それこそ溝鼠色の作業着を着た五十がらみの男二人が水面を睨んでいた。デブとチビの二人は、首筋と耳周りがどす赤く額の日焼け方が青黒くなっていて、いかにも日雇い労務者ふうだった。二人が見守っていた水面は時々、音をたてて泡立っている。一瞬、シーズー犬くらいの大きさの魚影が僕にも見えた。丸々としている。鯉だろうか。よくよく見ると鱗模様らしくない赤茶けた斑紋が見える。鯰の一種だろうか。呑川には池上の方の立派な邸宅から逃げ出した鯉がいるとか、西蒲田七丁目あたりのクラブの水槽で飼われていた南米産の魚が捨てられているとか、後に僕がメッキ工場で働いていた二十三歳頃によくそんな話を聞いた。
「いまに死んじまうがら」
 デブが労わるような目つきでそう言った。
「すかす、でっけえな」
 チビの目つきは異常に爛々としていた。
 しばらくすると、大魚はぱくぱくと拳が入りそうな口をあけて水面に浮かんできた。この川なら無理もない。定年間近い鮨屋の常連客に「私がね、子供の頃には、それでも泳げたりしたんだよ」と聞いたのは、やはり後に僕が駄目セールスマンで飲み屋に出没ばかりしていた三十三歳頃だった。
「あんなの食べる気なのかしらねえ」
 駄菓子屋のおばさんが薄ら笑いながらそう言ったとき、ついに大魚は飛沫音をたてて足掻くように沈んだ。失望の声の後で、おばさんも含めた嘲笑が広がった。しかし大魚はゆっくりと白い腹を浮かべてきて二人を喜ばせた。
「よす、捕っぞお」
 チビは身を屈めて浅黒い両手を伸ばした。
「まだ生きているがもしんねえ」
 デブはそう制しながら憐れむような目つきは変わらなかった。
 大魚の腹が蒲田の白昼に晒された時だった。
「おまえら何考えてんだぁ!」
 雷鳴のような甲高い声が橋の上から突き刺さった。
 洗いざらしの薄水色の作業着に茶縞のチェック模様のハンチングを被った男、徳さんが欄干にもたれていた。捲り上げた袖の下に猿のような剛毛を見せて、太い眉の下に南方の豪快そのままにぐりぐり眼があった。
「そんなの食ったら死ぬぞぉ!何でも食うもんじゃねえ!」
 それが徳さんだった。
 蒲田駅西口から東邦医大付属病院あたりにかけて、知る人ぞ知る徳さんこと徳永良美(とくなが・よしみ)だった。ビル現場の電気工事を専業にしていて、自分に似ている(本人が多分にそう意識していた)長嶋茂雄の大のファン。夏は生ビールを大ジョッキで駆けつけ四杯は一気に飲み下す。鹿児島の徳之島の出身で、煮魚と軍歌と特攻隊の悲哀話が大好きな男。そして猫とロシア人と女房連れで飲みにきている野郎が大嫌いな男。ポパイのような頬っぺたで、徳さんは僕の前に現れたのだった。
 徳さんの一喝でチビは硬直してへたり座った。デブは頭を掻いて橋の下の陰へ隠れてしまった。
 その後、僕は焼き鳥屋で隣り合わせに飲んでいて、正式に面識をもって可愛がってもらった。そして互いに気心が知れてくると、徳さんの一喝は僕の上にも何度か落ちるところとなった。
「この野郎、ネクタイなんかしやがって!ちょっとばかり稼げるようになったからってな、いい気になって飲んでんじゃねえぞぉ」
 この言葉とともに三十八歳の僕は徳さんに小突かれた。あの晩が徳さんを見た最後だった。そんな話はまた機会があればしよう。
 いずれにせよ、出会いは衝撃的な遭遇だった。唖然としている十九歳の僕の横を、皮肉な薄ら笑いを浮かべた徳さんが颯爽と歩き去っていった。
 僕はその後姿にきちんとした野蛮を見ていた。僕のふやけた額の裏で、憶えたばかりの行列の公式がばらばらになっていって、英単語が洗っていない頭のフケのように呑川へ落ちていった。
 あの頃の蒲田では、僕の知るかぎりの金銭という金銭は目まぐるしく化けた。それも酒か女か食い物にである。真昼とか青春とか、極端に言えば豊かさが似合わない町だった。夜半とか墨冬とか、みっともない酔っぱらいが似合う町だった。
 あの時、徳さんも早い時間から酔っぱらっていたのかもしれない。いや、飲んでいようがいまいが、そんな背景の蒲田でさえもどうでもよい。酔っぱらっていなくとも、徳さんは二階の窓から小便をしたり、ごみと塵を遠投の真似事で呑川へ投げ捨てたりしていた。僕は見ていないが、本人がそんなことを可笑しそうに語ってくれたのだ。
 そういえば大魚はどうなったのだろう。おそらく腐敗して微生物の餌になり、呑川の栄養から羽田の東京湾の、太平洋の栄養になったのだろう。そして徳さんは未だに蒲田で飲み歩き、吞川にじゃぼじゃぼと小便をしている、いや、していなければならない。二〇一六年、新しいゴジラが徳さんに拝謁すべく吞川を上っていった。
                                       了
高等学校の微分・積分 (ちくま学芸文庫)

高等学校の微分・積分 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: 文庫



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オブシディ   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私にはオブシディ・ルル・ド・ギョメというダンサーが、パリの日々の天候のように気になる存在である。
 今年のシーズンの幕開けこそは待たれていた。長年オペラ座の舞台を見続けているファンに、新世紀バレエを充分に堪能させるものとなった。二十五年前、オペラ座のダンサーと批評家にほとんど受け入れられることのなかったヌレエフ版の「白鳥の湖」で、オブシディ、ヌレエフバレエを再生したもうひとりの立役者オーギュスト・ジロー、この二人が二十五年の時を経て、このバレエの本質を再度指し示すかのごとく舞台に立っていた。舞台は二十五年前の初演時に比べて、斬新さをはるかに凌駕して野生的な印象を与えた。オブシディの父親で美術担当のシャルル・ド・ギョメが語るには、自分の故郷エクス・アン・プロヴァンスと、早くに亡くなった妻の故郷セネガルのサンルイを何度も咀嚼して舞台に再現した、とのことであった。
 このようにファンとオペラ座とフランスにとって、順風満帆なステップで蒼天王道を行く観のオブシディであったので、私はダカールの殆ど忘れかけていた友人ソニンケから、シャルルとオブシディの父娘を見た、という連絡を受けた時は殆ど信じられなかった。確かに一週間ほど前からオブシディは体調を崩して代役を立てるようになっていたが、あれほど自らの万全さと裏方への過ぎる気配りをできるダンサーもざらにはいない…オブシディの身に何がおきたというのだろう。しかも父娘二人が密かに向かっていた所は、首都から内陸に向かって車で八時間も行ったジャワラという村だった。早すぎるほどに早い情報には理由があって、ほかでもないそのジャワラ村はソニンケの故郷なのである。いずれにせよ、私は荷造りしてオデオン駅に向かい、翌々日からソニンケの大家族に囲まれて1週間を過ごすことになった。
 村の家々は剥き出しのコンクリート造りが多かったが、塀は日乾し煉瓦で作られたものもまだあった。約束した場所までは、村を出て久しいソニンケもあてにならない素朴な迷路そのものである。刈り込んだ芝の英国式の迷路と違って、肩や肘に大地を感じながら辿り着く迷路の先では、子供たちの好奇な眼差しの中央に美しい人オブシディがいた。
「ここはイスラームの学校です。子供たちはイスラームとセネガル国立の二つの学校に通っています。村の親達はイスラームですから、イスラームの学校に行かせたい。 国としてはフランス語を中心とした学校に通わせたい。結局、両方の学校に通っているわけです。私がバレエを始めた頃のように、普通の学校が終わってから、もう一つの学校に通っているわけね」
 初舞台の頃、まだあどけない表情を隠せない頃のルルは、黒曜石の英語でオブシディアンと呼ばれた。「そうね…『サマータイム』を生涯に一度演じられれば、それで満足かな」と言っていた。そんな野心の欠片もあまり見えないような彼女に、偶々食事を同席していたボビンレース編みの大家が、レース地タイツを提案したことにより、彼女の脚は黒鳥でも白鳥でもないものになった。そしてルルはオブシディになった。
「彼女はママジャーレという子で、私が勝手に村一番の美人と決めたの。写真を撮る?って言ってみて、慌てて着替えてきてくれるから」
 オブシディが賞賛するママジャーレの足には刺青があった。刺青と言っても妖しさを見ることはできない。彼女のあどけない目元の若さが、足の踵からふちに沿って流れる羊歯模様を落書きのように見せていた。
 村には1件だけレストランらしき食事所があった。しかしソニンケが言うように、村人は家で食事を済ましてしまうので、私たち以外に誰が食べに来るのか疑問だった。
「父はやっと糊口凌ぎの舞台美術から開放されたのよ」
 端正なシャルルはその店で白い粒状を啜っていた。ミルというミルク粥である。村人が日常に食する粥は粟と稗ばかりだった。レストランでは屑米のミルク粥が、舞台美術をやめたばかり、という老人を和ませていた。
 親子が泊まっていた家は鍛冶屋だった。シャルルは自分と同じ年齢の男が鎚を振いやすいように手伝っている。合間には娘オブシディが村に来た記念にと、教わりながら村人たちがつけているのと同じブレスレットを完成させようとしていた。
「父には母の次に鍛冶屋が夢だったらしいわ」
 ソニンケの兄達は山羊を料理してくれた。鉈で割られた頭がオペラ座のプリマドンナを見上げている。オブシディが立てた片膝は思わず触れたくなるほど美しい。呟くように話しながら骨に歯を立てている様は絶対の美獣だった。
「私にもし才能があるのだとしたら、黒くて強くて女性的なるものを抑制して、白くて弱くて男性的なるものを愛しむ、そういう才能だと思います」
 父親のシャルルは上を仰いで十字を切った。もとより寡黙だった舞台美術家が、やっと望んでいた鍛冶屋になったら微笑むしかない。
 シャルル・ド・ギョメの少年時代は、戦時中のレジスタンスに明け暮れたといっても過言ではない。戦後は理論物理で学位を取得して、核エネルギーの開発研究に着手した。そしてひとつの実験の成果を得た後に失踪する。アフリカだった。サンルイで愛する人を見出し、彼女を伴ってプロヴァンスへ戻り教師となるが、程なくして…またフランスから逃げるように荒野へ逃亡した。そして娘が生まれたことを海岸で知った。
 シャルルにとってすべてを娘に捧げるべき人生が始まった。やがて肌色がカラードの娘が、バレエを習いたいと言いだした。才能がある…オーギュスト・ジローのこの言葉に打ち震えた日があった。娘が愛しているバレエに自分も関わりたい。そしてバレエなら白鳥を踊らせたい。たとえまともな白鳥を踊れなくとも、父が、シャルルが美術と効果で新しい白鳥に仕立て上げてやる。シャルルは砂漠をモティーフとした斬新な舞台美術で、遅ればせながらデビューを果たした。当の娘はオペラ座で踊れるなどと想像もしていなかったらしい。たとえ跳躍力があろうとも白鳥は白い人が踊るものでしょう。父は首を振った。
「おまえなら、オブシディなら、今までのバレエの慣習や常識をひっくり返せる」
 白いレース編みのタイツが事態を変えた。正確には、レース編みタイツのオブシディを立てた白鳥の脚色、その売り込みに奔走したシャルルと仲間にフランスが応えたのである。ある評論家は「レース編みのタイツなど無くともすでにシヴァ神だ」と言った。そして「今後、我々は白鳥を見るとき、オペラ座のオブシディに感謝しなければ」とも。
 山羊を味わった後で、ソニンケの他愛もない問いに彼女は笑いながら答えた。
「私は引退したら…そうね…父が鍛冶屋になるように、北のおばさんの所に行ってボビンレースを習うわ」
 私はオブシディが舞い踊るオペラ座を誇りに思っている。

                                       了
プロレタリア文学はものすごい (平凡社新書)

プロレタリア文学はものすごい (平凡社新書)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2000/10/01
  • メディア: 新書



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ロマンポルノ・ボーイズ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 先輩と美江の披露宴は、若い僕には些かつらいものがあった。
 飲めば飲むほどに、先輩の漁師らしい日焼けした笑顔は、季節を迎えた飼い犬の白昼の健康な狂喜を連想させた。
 僕が大安吉日の日曜日の宴に出席するために、土曜日の新潟税関との対抗試合を済ませた後、やっと臭い剣道着を脱ぎ捨てて、夜行に乗って京都で乗り継ぎ、浜坂に着いた時は式当日の花曇りの朝だった。強行軍は体力商売の税関職員なので、鈍牛のようにものともしないが、対抗試合に備えた小田原での週末合宿が、僕の欲求を一週間以上前から抑圧して、厭世な脱力感へと転化させていた。その厭世な脱力感とかを携えながら、新潟の連中を相手に竹刀をふりまわして、体を痛めつければ浄化される、と思ったのが身の程知らずだった。僕の欲求とは女たちであり、僕の欲求とは自然であり、僕の欲求とは日常だったのだ。
 小田原での週末合宿が決定した日の夕刻にまでさかのぼる。中華街の北門で待ち合わせていた啓子の姿が見えた時、後ろから甲高い声をかけられた。後輩の山田が追いついた痩せ犬のように息せき切っている。彼が付き合っている「笑いながらする女」というのは、日活の王林「水島美奈子」にそっくりで馬車道の証券会社に勤めている。その女に買ってもらったという檸檬色のネクタイが乱雑に首から下がっていた。
「お急ぎのところ、一分だけ先輩思いの後輩にお時間をください。そちらの美保純そっくりの啓子さん、啓子さん以上と言ったら申し訳ないが、先輩が今一番会いたい女が来週やってきますよ。いいですか、伊勢崎町の日活へ舞台挨拶に来るんですよ。誰がって…ひ・と・み」
 僕の脳の助平襞が一瞬にして捕らえたのは、片足を取られて痛みにうずくまっている日活の二十世紀「小林ひとみ」である。俯いていた彼女が、山田の言で粘膜のような逆光とともに濡れた眼で振り返る。あの眼とあの乳房が舞台挨拶にくるのだ。人通りにあって正直に勃起してしまった。
「もちろん自分は行ってきますけれども、来週の土曜日、先輩は小田原の虎の穴を抜け出られます?」
 僕は十分に意味不明なまま低く唸った。小柄な山田を脇へ寄せるように押して、淫蕩な焦げついた十字架を背負い直す。刹那の酒を浴びて陰嚢の演歌を呟くしかなかった。
 ホテルですませた時は零時半だった。啓子は背を向けて臍の掃除をしながら僕という男を感心させてくれた。
「一番上の兄の嫁さんがね、山でさ、兄に何かあると、寝ていても本気じゃないのが分かるって、よくそう言っていたわ。何かって…茸とか山菜を採りに行くでしょう。その時に何かいいことがあると本気じゃないって言うのよ。いいことって…その嫁さんが確認したことは、ひとつは千本しめじか松茸が生えている所を見つけた時。ふたつめは温泉の女風呂を覗ける所があって、そこから覗いた時に若い女の子が入っていた時。そしてみっつめは、現場をおさえたわけじゃないらしいんだけれど、隣りの出戻りの娘と一緒に山から下りてくる時…だって」
 僕はなるほどといった顔をして寝返りをうった。
 路上の野良猫を蹴散らすようにして、ボーイズが集う寮へ帰ってみると、向かいの山田の部屋から日活の長十郎「谷ナオミ」の呻き声がした。いつものように鍵をかけて、縄の縛り目に瞠目しているのかどうか。ともかく二日酔いの助平頭を石榴のように横たえようとした時、呻き声を全開させた黴臭い空気と供に山田が入ってきた。
「先輩、お帰りなさい。これから奥様が生卵を割るところですけど、一緒に見ませんか?臭くありませんよ、香りの人形を買っちゃいました、一昨日。そうなんだよなあ、あいつもこういう匂いがして笑わなきゃ…」
 僕は咄嗟に日活のラ・フランス「鹿沼えり」の写真集を投げつけそうになったが、先輩からの招待状を投げつけることによって山田を追い出した。

 先輩と美江は何度も何度も互いの頬にキスをしていた。
 美江は教頭ながらも美術教師も兼ねていた僕の父によれば、浜坂はじまって以来という画才のはずだった。そんな少女時代の凛とした孤独の不幸を棄てて、瓢箪を商ってきた母親と同じく収まった幸福になろうとしていた。
 同級生の美江は、幼い頃から強気に口を窄めて顔を逸らすと、残念ながら胸の揺れない日活のあかつき「東てるみ」だった。僕が「将来は佐々木小次郎のような剣術家になりたい」などと書いていた頃、彼女は「ピカソの青の時代が私にも間違いなくやってくると確信できれば、私は画家になるだろう」などと書いていたものだ。僕も今から回顧すれば変な少年だったが、振り袖の影で咽ている彼女も随分と変な少女だった。
 あれは飛魚が嫌になるほど市場をうめつくした頃だった。
 僕は自分が長身で女の子たちの噂に上っているのを知っていた。あれは、あの頃のあれは、金柑のように表皮の甘味がじれったい。しかし手頃な酸味はとても忘れられるものではない。そして僕は頑固で偏屈で気取っていたわけだ。今でも武蔵のような昼夜を問わない求道な生活に胸糞を悪くする。僕は陰に隠れて声を漏らさないような努力をしない。晴天白日のもとに防波堤の突端で自家製の長木刀を振った。卑らしい教頭の息子は上半身をさらけだす。防波堤を望めるあらゆる場所から小便臭い少女たちが見ている。
「騒ぐんやったら向こう行け!」
 僕は海に向かって怒鳴って、小次郎以上に努力してしまったのかもしれない。女の子たちから母は勇姿を伝えられて、夕食時に何やら嬉しそうに取り留めもない罵声を置いたものだ。そして剣道以上に、海以上に、この世には素晴らしいものがあることを教えてくれたのは、やはり偏屈だが人間の本質を見ぬいていた父であった。
「美江がおまえを書きたいそうや」
 おそらく彼女は、練習に疲弊した浜坂一の優美な肉体を所望しているに違いない。
父が唇の端に笑みを浮かべながら言って三日も過ぎると、僕は汗まみれの濃紺の剣道着姿のまま山の手の豪壮な家を目指していた。予感を押え込みながら、さも朗々と玄関を開けると、美江自信が向かえ出るでもなく、いつもは瓢箪畑でしか見かけぬ祖母が、娼館の主のように喜んで僕の手を強引に引いていった。美江は油絵の具と日本海が拮抗している香りの中で、恥じらいの睫をベランダに向けていた。
「そこに立って…そこにもたれて…」
 キャンバスから目を離さず震えるように呟く美江は、男物らしい大きすぎるトレーナーにそれこそ生瓢箪のような肌肉を包んでいた。小一時間も立っていてやればいいだろう。後は暑がって上を脱ぎ捨てて、陰毛に似た数本を生え揃えた乳首を見せてやろう。僕はその一年ほど前に、姫路でラ・フランス「鹿沼えり」に酷似した叔母から喜びを教えられていた。
 さても…美江はどうする…彼女が真の芸術家なら僕のすべてを見たくなるだろう。
 美江は襖の影で苦悩の果てに熱そうな溜息を吐いた。
 そして彼女の目は痛たがらず、青の時代の獄門を垣間見ようとしていた。
 それにしても袴というものは、屹立を面白味もなく隠し、焦らすように纏わりつくので笑ってしまった。
 二人の噂が少しずつ聞こえるようになった頃、美江はデッサンの後の床話で、この時の僕の苦笑の意味を執拗に問い詰めていたのだった。

 先輩と美江は浜坂の阿呆議員の祝辞に白けていた。
 あの奥さん、そういえば日活の紅玉「田中真理」に似ているな。媒酌人の住職の奥さんの遣り手らしい美しさのことである。子供を産んでいないので、僕のような若僧でも住職を蹴りたくなるほど若々しい。僕は錫色に照り返すうなじを見ながら呟いた。
「公僕にも慰めるポルノあり。よって公僕にも確たるロマンあり」
僕は先輩と美江に酌をしにまわった後で、特別に用意してもらった「あごの竹輪」に満悦な住職へ近づいた。
「そればっかり言われるわ、こうやって夫婦揃って人前に出るとな。歎異抄を紐解いて五十年、この「あご」に手を合わせること、裏山から滴りくる水に手を合わせること、あれの喜ぶ顔を見ること、この三つがわしのような坊さんにようできることや」
 あの時の小柄な住職の眼光は、日活ロマン・ポルノの最後を飾った「竹中直人」のように隆々としていた。
 日本人の性は飛魚のようではないかと思っている。魚でありながら魚であることを一瞬忘れて、水の恵みから飛翔して永遠を見ようとする。すると日本人に限らないわけか、危うさと心地よさの攪拌は、はてさて。
 翌年の晩春、新横浜駅で税関ボーイズの予備軍になる後輩を待っていると、紺のスーツ姿で大きな鞄をさげた住職の奥さんを見つけてしまった。友人に歌舞伎座へ招待されて上京したとのだった。二日後、寮でボーイズが烏賊の匂いに包まれながら「早乙女愛」の釣鐘に目を丸くしていると、僕あてに酔った声で女性から電話がかかってきて大騒ぎとなった。奥さんが中華街で「北京家鴨」を食べたいと言ってきたのだった。
「浜坂の子って鈍い子ばっかりなんだから…」
 北京家鴨よりも添えられた白髪葱が美味かった。朱の長襦袢が僕のために取り出される夜。思っていたよりも我が侭な奥さん。揺籃の後にやってきた海鳴りは、口惜しいけれども日本海のものだった。それを奥さんに囁くように伝えたが、長襦袢の朱を汗ばんだ額に翳して眠っていた。
 奥さんの肌の脂身もすっかり忘れた晩秋、さしもの日活ロマン・ポルノも幕を下ろしてしまった。
日活らしい棲息の終焉の内容に肩を落とさず、竹中直人の熱演に転戦する勇気を見ていたのは僕だけだろうか。
 そしていつもの休日、相変わらず僕と山田、ポルノ・ボーイズの残り滓は、伊勢崎町の雑踏を歩いていた。後ろを来る後輩のボーイズは、妊娠させてしまった黄金町の彼女の言に困惑しきっていた。
 僕はその日の白昼にあって北欧ポルノを斜め見して大欠伸をもらして、夕方から独りで候孝賢の「風櫃の少年」を見て愕然としていたのだった。

                                       了
いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

  • 作者: 飯高 茂
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/04/07
  • メディア: 新書



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