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幸如(シィンルゥ)   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 トオルは構内に展示されている翡翠の巨岩を一回りした後で改札口へ向かった。台南で見つけたシィンちゃんがここまでやって来る。糸魚川駅の哀愁に彼女への愛おしさは灼光を灯す。彼女は無論ほしいが王座も欲しい。何を言うとるねん。トオルは思わず舌打ちしてしまった。
 金野暢(こんの・とおる)は京都市の隣の向日市に生まれ育った二十五歳の囲碁棋士である。関西棋院所属だが年初に七段位、初夏には碁聖戦の挑戦権を得て、五番勝負まで食い下がって敵わなかったものの、初秋には王座戦の挑戦権を得ていて、次代を担う棋士の一人と目されている。シィンちゃんこと幸如の出会いは、ありがちではあるが台北での日台交友囲碁フェスティバル会場だった。
 張幸如(チャン・シィンルゥ)は台南に生まれ育った二十二歳の女子大生である。タイヤル族で宜蘭出身の父親を持つが、母親が大阪の池田の出身ゆえに不便ない関西弁を話せる。暢との出会いは、その流暢な日本語を期待されての、父方の伯母から要請されての囲碁フェスティバル会場だった。
 暢はビビアン・スーを彷彿とさせるシィンちゃんの愛らしさに真っ正直に魅了された。台南まで彼女を追いかけていって八日間ほど音信不通となるも、棋院の師匠と兄弟子に説得されて棋士廃業を撤回するに至る。むろんのこと、求愛を受け入れたシィンちゃんからの復活への発破があったことは言うまでもない。十月から王座戦に臨んで、先行されながらも二勝二敗の対にまで打ち抜いたとき、隠密に来日していたシィンちゃんから慰労の電話をもらって驚喜する。そして先週のこれまた唐突な電話は、母親が阿倍野に出しているジャージャー麺店を手伝い終わったので、これから暢が指導碁で立ち寄っている糸魚川へ向かう、というもので大いに慌ててしまった。
「そんな驚かんといて、今日と明日は糸魚川、二十三日には新潟でお仕事やったね」
「そう、村上の瀬波温泉で対局やけど…まさか、ここ糸魚川で若布みたいなもんを採るんか?」
「ワ・カ・メ…ワカメって?」
「そやかて、シィンちゃんは台南におるとき、なんや海藻のようなもん研究してること知っておるから」
「あんね、ヒスイ、翡翠、知っとる?」
「知っとるよ、宝石みたいなもんやろ…そうか、ここの海岸で時々、翡翠みたいな石が見つかるんは有名やからな」
「翡翠を見つけてみたいんよ、一緒に」
「見つけてみたい言われてもな…よっしゃ、構わんで、このホテルで今晩、待ち合わせしよか?待って、やっぱ駅まで迎えに行くわ」
 日本海の低気圧が凄まじく垂れこめてきている師走の夕の糸魚川駅である。暢は己のかじかむ指先に息を吐きかけながら、好奇心旺盛な幸如が浜の方の実況から翡翠採集を諦めてくれることを願っていた。
 暢は改札口に到着した幸如の温かい指先を両手で包みながら、彼女が翡翠を見つけてみたい海浜の荒天を呟くように言った。
「ヒスイ?ああ、翡翠ね、翡翠はええわ…トオルに会いたかったんよ」
 抱き寄せた幸如のこの言を聞いて、暢は明後日の王座戦最終局が手元に引き寄せられた実感を持った。

 平成二十八年十二月二十二日の午前、糸魚川市の中心繁華街にて大規模な火災が発生していた。耳目を大いに集めたのは約一四〇棟に及ぼうかという延焼の広がりである。老舗である酒造や割烹、そして金融機関も営業停止となって、緊急の払い戻し措置などが講じられていた。真南にあたる青海川上流の山中から北方を望むと、今は遠くになった中心街から上る黒煙が海風に揺らいでいた。
 幸如は鉱山の事務所があった跡にいた。
「シィンちゃん、頼むで、ほんまに。ほんで、火傷はしとらん?」
 暢は霜でしとど濡れた枯葉を蹴散らすように斜面に足をかけた。かつての橋立金山の坑道も冬枯れの葛葉に覆われて見当もつかない。職業柄とはいえ日頃から正座している膝にはかなり応える。碁石ばかり握っている軟い右手は寒気に蒼ざめている。しかし携帯電話を握っている左手からは、焦燥の名残りのような汗ばみの湯気が立っていた。
「火事が嫌いなんは、阿倍野でも聞いておったで、まぁ、分からんでもない…そやけどな、ここまで逃げんでもええとちゃうか?」
 暢はそう言った後で、シィンルゥの華奢なセーターの肩に触れるのを躊躇している自分に舌打ちした。
「タクシーに乗ったんか?金は持ってるからな、シィンちゃんは。そやけどな、僕とおった方が、逃げるんやったらな、僕と逃げた方がええと思わんかったぁ?」
 幸如は前髪と涙目だけを覗かせた紺マフラーの奥からやっと声を絞り出した。
「爸爸(父さん)…自己逃走了(一人で逃げた)。只有一个人逃走了(一人だけで逃げたの)。分かる?父さんは一人だけで逃げたんよ、生まれた宜蘭の山へ帰るて」
「それは聞いとるけど…」と言いかけて、暢は冷たい右指たちの先を唇においた。「そやかて一人で逃げたら…あかんて。ここはな、シィンちゃんにとって外国、日本やし、糸魚川も昨日初めて来たところやで」
「対不起、ごめん」
 暢は右手を男の子の背を叩くように振りかぶって軽く触れた。そして左手の携帯に点滅している急行の糸魚川発の時刻をちらり見た。
「もう電車に乗ろうや、ここはえらく寒いし」
「一緒に行っても…一緒に行ってもええの?」
「あたりまえや。シィンちゃんを一人になんかせん。まして今朝のこん火事やで…シィンちゃんを一人にしたら…その認知症いうか、病気で亡くなったお父はんに申し訳が立たんわ。ど突かれるわ、ほんま」
 暢はシィンちゃんがもらっていた領収書のタクシー会社へ電話した。
「おおきにな…明日はえらい大事な対局なんやろ?」
「そやからな、一緒にきて言うとるんや。王座になるとこを…もしもし、翠々タクシーさんでっか?」
 約一時間後、大火事で騒然としている駅前の混乱を掻き分ける二人の姿があった。
 それから三日後のローカル新聞の一面、当然ながら糸魚川大火の悲惨さを嫌がおうにでも追跡するものだった。しばらくは悠長な記事作りに気兼ねしたような三面、海豚に追われて柏崎の浜へ打ち上げられた鰯の大群の写真と、村上で迎えた囲碁の王座戦五番勝負の最終局の結果、本因坊が挑戦者の金野七段を退けて王座を防衛したとあった。

                                       了
微分位相幾何学

微分位相幾何学

  • 作者: 田村 一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: ペーパーバック



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マグナス   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 ともあれマグナスは自身にとって最初の戯曲だった。三幕に仕立てあげたのは「サド侯爵夫人」そして「わが友ヒットラー」を読んでいて、この辺りが形式的に正規な感じかなと思っていただけのことである。人工頭脳に追いたてられて離散した人間たちが、最終的な反抗を画して集うといった、見るからに稚拙極まる概形は蓋をして仕舞い込んでおきたかった。しかし、誰か、一人でもいいから、使用した楽曲「ベートーヴェンの十二のコントルダンス」について訊ねてくれないものだろうか。そして元来のマグナスの伝説については不問とされることを願うばかりである。


2057年 六月・十月・十二月

場所
英カークウォールの郊外。「マーガレットの陰部」と呼ばれる歪な柱石が六本林立した巨石文化跡地。廃棄されたタイヤのないカワサキのバイクの残骸が三台。横積みされたサーバーらしきプラスティック直方体が二基。

登場人物
スタンリー・マグナス
フェルディナンド・モラレス
トム・キューザック
ロマン・リンデマン
リリィ
老いた刑事
若い逃亡者

第一幕
(下手寄りのバイクに跨っているトムは、スコッチを飲みながら正面に向いて沈思している。サーバーの上にスコッチ壜がニ本とグラス三個。その脇でサーバーに腰掛けたロマンはトムに背を向けて上手に向いて人参をかじっている)
(若い逃亡者が後方を気にしながら小走ってきて、二人を見つけて何気ない風を装いながら下手最奥の柱石に寄りかかって身を隠す。トムもロマンもまったく無関心)
逃亡者 (一息ついて)いいところだなあ、このへんは。
(老いた刑事が息を揚げながら疲れたようにやってきて、二人を見つけて躊躇するが、落ちつこうとしてもう一台のバイクに座って話しかける)
刑事 (一息ついて)いい午後ですなあ、今日は。旅行ですか?どちらからいらっしゃったのですか?
(ロマンはバイクのタンクを人参でゆっくり指す)
ロマン カワサキに乗って精神病院から来たんだよ。
(老いた刑事は続けて聞こうとして口を噤んでしまう)
トム ああ、どうも俺には分からない…などと言って頭を抱えたところで、おまえがその兎のように食う手を休めて振り返るわけでもない。たとえその耳が俺の声を聞いていたとしても俺に分からぬことは、おまえにも分からないのだから、俺は黙っているべきなのだろう。それにしても、俺には分からないという俺の独り言を、風に聞かせるしか俺達にはもはや何も残されてはいない。何も…そう、何もかも終わろうとしている。マグナスは中国人が造りだした銀碧色の獣と手を握り合う…これですべて終わった。
ロマン いいや、俺はこれから始まると信じているよ。
トム おまえの始まりは聞き飽きた。もっとも、その聞き飽きた始まりも、この期に及んでは、どことなく終わりの凄味を孕んでいて美しい響きだ。
ロマン 信じなければ…人参さえも口にできない南と、廃棄物の捨て場ばかり探している北…この少年まがいの乱痴気な時代を終わらなければ、飢えから解放される新時代は始まらないよ。新時代にはその十二年もののスコッチも、このリリィの菜園の人参も無用になるね。
(トムは打たれたように回転してバイクから降りる)
トム そうだ、あの女ならマグナスを三十ニヶ月ほども堕落させられるだろう。堕落の象徴なる豚とも、人間に譬えられて迷惑な葦とも寝る女なら、最後の獣を駆逐はできずともマグナス本人を翻弄することはできる。
ロマン アシとも寝る女のアシって何?
トム 草の葦、女と寝ることもなかったトランプ博打のパスカルが言っていた水際の草の葦だよ。
ロマン 草の葦か、どうやって寝るんだろう、葦はくすぐりが上手そうだがな。それにしても、やっと反キリストらしい言葉を聞けたよ。
トム そうさ、俺達は血統について実に科学的誠実さを保ってきた。この二十年、俺は伝統の問題を「我らが大陸」で論じつづけ、「我らが大陸」を停滞の泥濘に留まり続けさせてきた。父の父によれば、俺達の忌まわしさの根源はあの大地溝帯の深奥なのだから。
ロマン 俺達の血統ね…そのために生まれ、そのために死んできた、俺達の血統ね。その俺達の血統が、マグナスの新しい友人を呼び覚ましたのだとしたら…どうなっちゃうのかなあ。
トム エアハルトでの仕事は立派だったじゃないか。(後ろからロマンの両腕を取って上げる)祈っている場合ではない!かつて鎌や鋤を取って戦ったように、めくったアスファルトを投げつけて戦うのだ!
(ロマンは振りほどいて落ちた人参を憮然とした顔で拾う)
ロマン ルターも飢えた女子供が国境を越えてくるとは想像しなかっただろうね。(齧ろうとしてトムに投げつける)エアハルトの騒乱も、「我らが大陸」の停滞も、そもそもは羊達の生きる欲望があってこそだろう!
(上手の柱石の後ろから突然にクーラーボックスを背負ったフェルディナンドが現れて、驚いてバイクから腰を上げた老いた刑事を無視してバイクに機敏に跨る)
フェルディナンド やっとるな、諸君。蛆虫だらけの豚仮面にもひとこと言わしてくれ。
ロマン あれえ…枢機卿との醜聞裁判はどうなったんだい?
フェルディナンド お国の牧師と違って、我が国では枢機卿様はエメラルドの翡翠仮面なのだよ。つまり、彼を中傷した者は三日後に彼の試練と言い直さざるをえんわけで、彼は誰も手が届かない緑の園にそっと隠される。ま、こんなところだ。それにしても、この島の変わらぬ牧歌風情はどうだ。ロンドンのテレビでは我らがマグナスの顔ばかりが映し出されている。(トムにむかって)すべての病を煮出す鍋よ、マグナス万歳、と言ってくれ。
トム 相変わらずだな。マグナス万歳。
(フェルディナンドは仕方ないといったふうにクーラーボックスに膝をついて頭を抱えて見せる)
フェルディナンド 買い被りすぎです、僕は父の仕事を引き継いだだけなのに。父は言っていました。コスモスが萎れるのを見て、涙ぐむ少女の涙を涸らしてはいけない、たとえ少女の硬い胸の下を蒼い血が流れようとも。(しばしの沈黙の間隙をぬって老いた刑事が片手を上げて話しかけようとする)いまひとつだ。まったく二枚目の悲壮な顔ほど難しいものはない。
ロマン ああ、スタンリーの真似だったんだね。
トム (酔った足でクーラーを軽く蹴ってから)マグナスはノートしか持ち歩かない。それも台湾の新興のメーカーに特注した信じられないほど軽いものだ。
フェルディナンド おやおや、スコッチかぶれの椰子酒飲みに教えられるとは。さきほどからこの荒野にはイカ墨のような悲鳴が聞こえていたぞ。中国人が作り出した最後の獣と手を握り合うマグナスが分からない、と嘆いていたスコッチ中毒の黒豚は誰だった?
(トムがいきなり立って正面に向いて右手を振り上げると、アルビノーニの弦楽とオルガンの為のアダージョ・ト短調がながれる)
フェルディナンド (ゆっくり仰け反りながら仰向けに倒れて)何十頭かの豚が、俺のポケットのどんぐりをめざしてむかってくる。
ロマン トム、やめるんだ!
フェルディナンド おうっ!痛い!豚が俺の顔をふみつける。
ロマン やめろ、トム、俺まで…
(トムが座ると音楽が止んでフェルディナンドが微笑みながら立ち上がる)
フェルディナンド と、まあ、この程度の力か。飲み過ぎにしても情けない。大丈夫、黒い森の聖者リンデマン。椰子酒飲みの末裔キューザックの力などせいぜいこの程度のもの。何故、彼は飢餓の撲滅こそが正当な悪の温床の未来であることを認めたがらないのか。
(フェルディナンドが左手を優雅に振りはじめるとメンデルスゾーンのスケルツォ・ト短調がながれる。トムが塞ぎ込むようにして倒れる)
ロマン モラレス教授、やめるんだ!
フェルディナンド ほら、見えてきたろう?これがおまえの原点、おまえの母が見えるだろう?
ロマン やめるんだ、教授、やめろ!
フェルディナンド ナイロビのガレージの隅で腹をすかせているこの少女がおまえの母だ。
(音楽が止んで低めの女の笑い声が響く。フェルディナンド、ロマン、トムの順に打たれたように周囲を見まわす。いちゃついた男女の嬌声がだんだんと大きくなる。英国旗ユニオン・ジャック模様の幅広なワンピースを着たリリィを肩車状態にのせて、スカートに頭を入れて顔を隠したスタンリー・マグナスが上手からふらふら登場)
リリィ 愛しのロマン、これを見て。スタンリー・マグナスを生んじゃったわ!さっき彼が畑に現れたの。あなたの好きな人参を抜いていたら、ロマン達とパーティーをするのですが御一緒しませんか、って背後で声がするので振り返ったら、アメリカのコンピューター会社の宣伝みたいに、本物のスタンリー・マグナスがノートを持って笑っているじゃないのよ。そして、見て、これを買ってきてくれたの、この島を出たこともないあたしにこの国の旗を。
(リリィは肩車から下りて老いた刑事に微笑みかけながらスコッチを注ぎはじめる)
スタンリー (乱れた髪を幾分か整えながら)お待たせしました。(ロマンを小さく手招いて握手しながら小声で)彼女は風呂に入っているのですか?野の臭い、小便の香り、しかし花の匂いなど微塵もない。(フェルディナンドを手招いて握手しながら)空港に電話をもらった時は驚きました。豪快な教授らしい、僕のためにわざわざローストを背負ってくるなんて。
フェルディナンド たいしたことはないよ。最初は農夫にポークを運ばせようと思ったんだが、カークウォールでも皆が皆、あちらこちらの飢餓状況を肴に、君の御先祖が残したスコッチに酔いつぶれている始末さ。
スタンリー キューザック大使、どうして握手をしてくれないのですか?
トム しばらくだったね。
(クーラーをあけたフェルディナンドが驚いてへたりこむ)
フェルディナンド これはなんと…痩せてはいたがラムだったのに。
(リリィはフェルディナンドとスタンリーと老いた刑事にグラスをわたすと、フェルディナンドを押しのけてクーラーからノートPCを取り出す。柱の影の逃亡者はずっと茫然自失)
リリィ マグナスの可愛いノートじゃないの。でも食べられないわね。
(スタンリーが小さく身構えるふうにするとベートーヴェンの十二のコントルダンスがながれる)
スタンリー 僕はマグナスです。
(リリィから優雅にノートPCを受け取って踊るようにリリィ、フェルディナンド、ロマン、トムの順に画面を見せる)
フェルディナンド マラガで食った豚の丸焼きだ。
ロマン 伯母さんが作ってくれた…蜂蜜とヘーゼルナッツがたっぷり入ったケーキ。
トム ロンドンではじめて飲んだハイランド・パーク。
リリィ 魚っていえばやっぱり揚げた鰈。あたしってほかに知らないから。
(画面を見せられた刑事がうろたえていると、吹き出してしまった逃亡者と目が合ってしまう。逃亡者は下手へ逃げ出して刑事は追いかける。リリィが楽しそうに手招きながら下手へ向かい、タクトを振るっているようなスタンリーが続き、フェルディナンド、ロマン、トムの順に続いて退場)

                                       幕

第二幕
(若い逃亡者が後方を気にしながら走ってきてバイクのシートへ諦めたように跨る。追ってきていた老いた刑事はその様子を見て大袈裟に手錠を取り出す)
逃亡者 (両手を手錠に向けて突き出して)分かった、分かったから、あんたもちょっと俺の話を聞いてくれ。
刑事 (咳き込みながらサーバーへ片足をのせて)聞いて…聞いてやろうじゃないか、この世の終わりが近いそうだから、あの劇団もどきの奴らのたわ言だとな。
逃亡者 そうだ、そのことなんだが、あんたが思うに、奴らは狂っているのか?
刑事 ああ、おそらくな、精神病院から抜け出して、あのマグナスとその取巻き連中を気取っている奴らさ。現実は退屈だ。
(老いた刑事は嘆息を吐きながら若い逃亡者に手錠をかける。若い逃亡者は俯いて上手へ向かうが、老いた刑事が咳き込みながら彼を下手へ引きたてて行き、下手最奥の柱石に寄りかかって寝ているウイスキー壜を握ったままのフェルディナンドに気づくが、二人は顔を見合わせて大袈裟に嘆息を吐きながら退場)
フェルディナンド …パタゴニア工科大学万歳!…カルメンデパタゴネスの陽気な学長様……砂漠の緑化に対しての旺盛な情熱は……ネグロ川の開発のために一睡もされないのは……ご立派な学長様。…あいつが指図するままに動いているだけさ。
(トムがノートPCを携えて上手から走ってきてサーバーの上に飛び乗る)
フェルディナンド 遅かったじゃないか。傷の具合はどう?神々の島を忘れたわけじゃ…。これはこれは…平和賞を総なめのキューザック・ナミビア大使様、いつのまにかおこしで。
トム ロマンはエディンバラの医者に立ち寄っているようだ。思ったより傷は深いらしい。
フェルディナンド 敵もさるもの、ライプチヒの神学講師に刺させるなどとは。
トム 嘆かぬ者に未来はなく、未来なき者に構え備えなし…ロマンは嘆いてはいたのだが。いつも俺の酔っ払いの戯言を聞き、いつも俺とおまえの間に立って諌める…ロマン。酒に溺れることもなく、波止場で客をとれない淫売鰈から淫茎人参を買っている優しいゲルマン。
フェルディナンド ほう…おまえも、もはや溺れることはなくなったと言うわけか、ご立派な黒い舌鮃。
トム 淫売鰈のおかげさ。ひいてはロマンのおかげさ。ナイロビで発生してロンドンにて熟成された世界史に対する怨恨、仕事とは成就するものだ…いまや法皇の専用機が砂漠に墜落する時がきたのだ。
フェルディナンド 何をする気だ…マグナスは、直接対決にはまだ十年以上は必要だと言っていたろう!
トム だから淫売鰈のおかげ…その鰈を我々と、マグナスと出会わせてくれた心優しいロマンのおかげ、だと言っているんだ。たとえば昨日…スタンリーはBBCの出演依頼を蹴って、御先祖様ゆかりのハイランド・パーク十二年ものを朝飯代わりにしている、夏までのこの俺のように。
フェルディナンド 獣が黙っているものか。
トム 教授、いや、学長…我々、反キリストにそもそも女がいないことを、あらためて考えてみるがいい。女にとっては…俺も学長様も雌の蟷螂の美味しい雄でしかないのだよ。
フェルディナンド 何を言っている。スタンリーもロマンも若くて美しくて有名だからにすぎない。豚頭と黒蝗は、マグナスの顔に賭けるしかないのさ。
トム そもそも反キリストなどという言葉が聞いて呆れる!(ノートを叩きつけるべく持ち上げて)白豚達が“我らが大陸”に忌々しい十字架と靴と電気を持ち込まねば、我々はずっと停滞…大いなる太古の時間に暮らし続けてこれたのだ。
フェルディナンド (ノートを指して)それを…「飛べない鴉」を何故おまえが持っているのだ…。
トム 俺にあずけたのさ、それこそ重荷に耐えかねた酔っ払い同然に。モラレスよ…前途有望なる若者が転落することは、劇的にしてありふれた事なのだよ。
(ベートーヴェンの十二のコントルダンスが切れ切れに徐々に大きく聞こえてくる。驚いて恐る恐るあたりを窺うトムからフェルディナンドがノートを奪い取る。縺れ合ううちに二人は曲の途切れ途切れに気づいて顔を見合わせる)
フェルディナンド 確認しようじゃないか。俺を俺本来の姿にしてくれ、おまえをおまえ本来の姿に変えてやるから。
トム よろしい、二十二分間だけだ。
(アルビノーニのアダージョ・ト短調の一章節とメンデルスゾーンのスケルツォ・ト短調の一章節が、それぞれの構えごとにめりはりよく流れた後に、殆ど聞こえていなかったコントルダンスが轟然と高まって急に途切れる。中央の二本の柱石の裏からスタンリーとリリィが現れて舞うように絡み合いながら正面へ。トムとフェルディナンドは丸まって横になっている)
スタンリー ああ…この女め、どこまでも濡れつくし、いつまでも水を孕んでいる。汗に唾液に小便に……乾くことがない海そのものだ。
リリィ あなたのノートがそこに…(丸まって横たわるトムとフェルディナンドを見る)気味が悪いわ。豚みたいな…確かに蝿も近寄らないような豚だわ。そして…何?焼け焦げた虫のような…大きな飛蝗のような虫。(スタンリーに縋りつく)どっちも死んでいるわ。
スタンリー こいつは豚なんかじゃない。それに死んじゃいない。ブエノスアイレスのテノール歌手が、アルトの見込みない新人歌手に生ませた子供で…孤児院ではやくもロルカを読みふけり、世話してもらった牧童の仕事をしながらフランス語をたどってセリーヌを読んでいたのさ。牛肉相場にその存在ありと言われたモラレス氏に見出されて後は、気の赴くままにカトリックの坊主達に賞賛されながら忌まわしい南米の歴史の研究に奔走した。それは多くの慈善家や枢機卿にとって…
リリィ ここを出ましょうよ。酔いがさめてしまうわ。
スタンリー こいつも飛蝗なんかじゃない。本人はマサイ族だと思っているが、タイタ族の清掃員とメルー族の踊り子によるナイロビっ子だ。孤児院で度々、予言めいた幻覚を見るものだから、ロンドンの物好きな精神科医の格好の研究材料にされた後(リリィがノートを開いて驚愕する)…逆に精神科医を狂わせてベストセーラー「我らが大陸」の著者となり…。
リリィ その…女…その女を…殺せ。
(スタンリーは何食わぬふうにノートをとりあげてバイクのシートへ誘う)
スタンリー どうも停留所にある電話ボックスは故障しているようだ。もっとも、この島では…
リリィ 殺す気なの?
スタンリー 殺す理由がない。
リリィ あたしだって…わかっているわ。あなたがマグナスなら、誰もが…この女を殺すべきだと思っているのよ。
スタンリー 誰もが思うとおりになどならないのがマグナスだ。
リリィ あたしだって知っているわ、あなたが砂漠を緑に変えて、人参やじゃが芋をたくさん作っていることを。忙しいあなたが、ここにロマン達と集まるのは…何とかっていう天才機械が、巨石文化の神殿跡でマグナスは世界の王となる、って言ったからでしょ…。
スタンリー もうそんなこともどうでもいいんだ。
(シートから立ってトムとフェルディナンドを狂ったように蹴り上げる。転がりうめく二人を見ながら顔を抑えて崩れる。リリィが抱きつく)
スタンリー あらゆる物と同様に、我々も真正なる神である太陽に焼き尽くされるだろう。…イエスが、どこでどう何度も何度も再生降誕しようとも、我々、反キリストが彼の影に怯え続け、邪悪の刻印に大いに甘んじ続けようとも…灼熱に焼かれるのだ。
リリィ あたしはあなたを…愛している。愛している、イエスが誰であろうと、あなた達が何者であろうと。
スタンリー あいつは機械のくせに中国人に学べと言う。あいつの観念…そんなものは実はない。せいぜい北京原人の本能が形成された程度さ。
リリィ 愛は、波止場の先に延々と広がる海そのものだわ…。あたしを人参畑から連れ出して。あたし達は…ずっと沖の暗い海底で、疣だらけの鰈の夫婦になるのよ。
(スタンリーは爆発したように哄笑しながらよろめいてもう一台のバイクに崩れもろとも倒れる)
スタンリー なんという耽美な誘惑だろう。私がマグナスではなく、配管工か二階建バスの運転手だったら…
(トムが満足げに立ち上がりフェルディナンドの肩をたたく。フェルディナンドは茫然自失の体でシートでコントル・ダンスのメロディをハミングするリリィと倒れたままのスタンリーを見比べる。トムはノートを軽く蹴って侮るように画面を開く)
トム ただちに女を殺せ、か…機械とはいえ「飛べない鴉」さんもたいしたものだ。…何だと…その女は…すでにイエスを受胎している。

                                       幕

 第三幕
(サーバーを囲んでスタンリー、ロマン、トムがシャンペンを注ぎあっている。真ん中の皿には鰈のから揚げが一匹。上手奥から微かにリリィの呻き声)
ロマン かくして神学は村芝居のごとくひとつに閉じる。
スタンリー そのとおりだよ、自然と共にあるロマン。そもそもこの場所も、あの淫乱にして博愛の女リリィも、この大いなる結末も、すべてはあなたという予言者の導きだったのです。
ロマン 何を言うんだ、アルファにしてオメガのスタンリー・マグナス。そもそもこの島こそが君のご先祖の地にして、例の密造酒を隠した教会の教壇下に、「マーガレットの陰部」にて野に葬られし鎮魂を掘り当てろ、という古文書があったからだ。
スタンリー それでもあなたがロンドンのハイスクールに突然に現れた時、私は今日という至福を予想することなどできなかった。
ロマン 君を見つけたというトムの興奮。そして俺は非常勤講師としてハイデッカーを携えて。
トム 何を考え込んでいるのだ、と聞きたそうな顔だな。
スタンリー キューザック大使、フライド・ソールはお嫌いですか?
(トムは怒ったように鰈のから揚げにかぶりつく)
ロマン 大使の憂鬱は他でもない。来春にでも法皇をナミビアに呼ぼうと思っていた矢先の珍事だ、彼にとっては。
スタンリー 神の代理人と名乗る者は名乗らしておけばいいのです。駱駝のように殺さずに飼い慣らし続けましょう。
(雷鳴の後にリリィの呻き声が急速に高まって出産の絶叫、そして轟くような産声。三人は咄嗟に頭を抱えて硬直する)
フェルディナンド 見よ!我が父よ、大いなる暗黒の父よ!あなたは蘇られた!
(上手より鉛色の手術着を着たフェルディナンドが震えながらよたよたと出てくる)
スタンリー 相変わらず乱暴な比喩しかできない方だ。学長、それはそうと母子共に健在でしょうな?
フェルディナンド マグナス様、これもまた我々の試練なのでしょう。
(ロマンが打たれたように、トムが引きずられるように上手に駆け込む)
フェルディナンド 偉大な方が再来降誕なさるためには、マグナス様の運命に対する波涛のような怒りが必要なのでしょう。リリィ…最初にして最後の奥様は、赤子をご覧になってすぐにお亡くなりになりました。
(沈黙、小さな雷鳴の後にロマンの啜り泣きとトムの放逸したような苦笑が交互に聞こえてくる。三度目の小さな雷鳴の後に、スタンリーが天に拳を突き上げると引き裂くような大雷鳴がおきる)
スタンリー 堕天使サタンは男でも女でもない。マグナスはサタンだ。よってマグナスに妻などあるはずもない。
(スタンリーは女性的な仕種で髪を整えて上手に悠々と歩いていく。すれ違って上手からトムが足下をふらつかせながら出てくる。トムがフェルディナンドを手招いてシャンペンを注ごうとする。ロマンが上手より濡れそぼったような形相でよろよろと出てくる)
フェルディナンド 暗黒の父に…汝の神に…乾杯!
ロマン あれは何だ!答えてみろ!
(上手からスタンリーが俯きながらゆっくりと出てくる)
フェルディナンド 暗黒の父だと言ってるだろう!おまえにはあれがフィッシュ・アンド・チップスに見えるのか!…あれは…あの方は、この蛆虫だらけの豚頭の王にして、この黒い飛蝗の王にして…
スタンリー キューザック大使、何らかの説明をあなたに求めるのは不当なのでしょうか?
トム …我らがマグナスとて最も親しんできた黒い肌は…この出自も怪しい私。そして、多くを並べ立てるよりも早々に吐かれるべき言葉はひとつだけのはずだ。
フェルディナンド 俺はおまえが嫌いだけれども、おまえの野心の骨頂は信じているよ。
トム 誓って言う。俺は反キリスト者として生を受けて以来、白い肌の女どころか、人間の雌と交わったことがない。俺は最初で最後の黒い飛蝗だ。
フェルディナンド そのとおり…おまえはこの島では呑み潰れてしまうしかできない誇り高い飛蝗だ。
(フェルディナンドが食いかけられた鰈の皿を持ってスタンリーの前に立つ)
フェルディナンド ご覧なさい、この鰈を…。腹も肉も白ければ背は黒々としてごわごわと硬い…。スタンリー・マグナスの黒い意識が黒い肌の王子を望んだのです。
(スタンリーは徐々に高まってきたベートーヴェンの十二のコントルダンスにのって舞うように何度も回転する。ロマンが急激に硬直して次の瞬間、スタンリーの胸元をつかむ)
ロマン 黒とか白とかの問題じゃない!…あれは…イエスだ。
フェルディナンド 黒いイエス…それこそ世界が震撼するぞ。馬鹿馬鹿しい、…我々、反キリストなど問題ではないな。
ロマン 「飛べない鴉」をどうして捨てたのだ、銀碧色の獣が創造する新しい時代がそこまできているというのに…。
フェルディナンド あいつは鱈腹、電気を食っていればよい。我々は今までどおりマグナス様に従って…王子を完全なる暗黒の王に奉りあげるのだ。
ロマン (疲れた様子でスタンリーの胸元をはなす)イエスよ…ライプチヒで流した俺の血などではとても満足できないようだな。
(スタンリーは腕を組んで考え込みバイクのシートに座る。ロマンは追いかけるようにしてスタンリーの肩に手をかけて、トムとフェルディナンドに微笑む)
ロマン 恐竜と直に戦えるとは思わなかったよ。
(ロマンは厳しい形相になって上手へ走り込んでいく。爆発したような赤子の泣き声の後にロマンの叫び声がおきる)
フェルディナンド どちらにしても優しいロマンは死んだようだな。
(フェルディナンドは手術着を正してすたすたと上手へ歩いていく。そして慌てふためく声の後に叫び声がおきる)
トム 何ていうことだ。
(トムが上手に向かってスタンリーの前を過ぎようとすると、スタンリーの脚が止める。トムは後ずさりしながらベンチの後ろをかいくぐって上手に向かおうとするが、スタンリーは素早く立ち上がって両手を広げてトムの行手を塞ぐ)
スタンリー 黒い飛蝗さん、マグナスを甘く見るな。
トム 何をしているんだ…ロマンの言ったことが本当なら…
スタンリー あの子が、暗黒の王でも、イエスでも…大した問題ではない。問題は黒い飛蝗さんが嘘をついていることだ。本当のことを言えば命は助けてあげましょう。
トム 何度も言わせるな。俺は女と交わったことがない。
(スタンリーは飽きれた仕種で両手を下ろして上手への道をあける。トムは怯えながらも威を繕って上手に歩いていく。暫しの沈黙の後にトムの絶叫が響き渡る。スタンリーは大きく嘆息を漏らしてシャンペンを注ぎ上手に向かって掲げる)
スタンリー 何者にも触れさせない…大変なお力で。いずれにせよ、君が電気を鱈腹食らう化け物と手を握ったことは、生まれたばかりの君の開いていない目を見て瞬時に分かった。(押し殺した笑いからシャンペンをこぼすような哄笑へひろがる)それにしても、私もどうかしている。君が私の子であろうとなかろうと、化け物と手を組んだのであれば、父も子も…サタンもイエスも…人間の脳髄、そして脳髄の神話を再現する機械、この両者の尊厳を賭けて戦わざるをえないのだ。それなのに肌の黒さに惑わされて…私も生身のくだらない猿でしかないのか。
(さらなる哄笑と共に赤子の泣き声が高まる)
 
                                       幕
タッソオ (岩波文庫 赤 407-5)

タッソオ (岩波文庫 赤 407-5)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2023/06/10
  • メディア: 文庫



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バールベック   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 時々、日本人の中にも砂漠志向の人間が一人二人と散見できる。
 シンと呼ばれている大友伸輔(おおとも・しんすけ)もそんな一人なのだろう。磯子の学者肌の家に生まれて、大学をなんとか卒業してからは桜木町の銀行に六年ばかり悶々と勤めていたが、ホメイニがイランへ戻った頃から体調不良を訴えはじめてそのまま辞職した。続けてエルサレムへ旅立ち父母を悲しませる。気がつけばホメイニが亡くなった翌月にはレバノンのベカー高原にいた。
 ベカー高原のほぼ中央にローマ遺跡で有名なバールベックがある。フェニキアの豊穣の神バールに由来するこの遺跡は案外に客が切れない観光地である。一昨年からシンは遺跡脇にある観光客相手の料理店で働いていた。
「シン、肉をまわしてくれ」
「タイガー、豆のスープの様子を見てくれ」
 大友伸輔は好きだったインド人のプロレスラーの名前を捩って、タイガーとかシンとかと自分を呼ばせていた。
「日本じゃそのレスラーっていうのは人気者なのかい?」
 店長のナファトに英語でそう聞かれてシンは手を止めた。
「大変な悪役なんだけれど、なぜか憎めないんだ」
 シンはそう言うと嬉しそうに人参を掴んだ。学生時代に初めて金銭を得たのが洋食屋でのアルバイトだった。こうしてまた食べ物を提供すれば大方が喜んでくれる。為替と背広から離れてみると益々そう実感できる日々だった。
 店に羊肉がなくなって、ナファトが買出しに行ってしまったとある日の午後。シンは早速に遺跡のチケット売り場へ向かった。売り子のナナに会うためだ。ナナはいつものように何食わぬ表情でチケットを切って「前庭のピンクの石」と言って渡した。ナナが知っている英語はこの「前庭のピンクの石」と「前庭の葡萄の木」、そして「今日は悪い日」と「ありがとう」の四つだけだった。
 シンはチケットを手の中に丸め込みながら左手の階段を上がった。そのまま上がりきって前庭に向かおうとした時だった。ちゃんとした英語が聞こえる。花崗岩の列柱の前で写真を撮っている一団だった。端に収まっていた黒縁眼鏡の老人がじっとシンを見ている。目を逸らして脇を通り過ぎようとしたときだった。
「天気がいいから葡萄の木かい?」
 老人は待ち構えていたかのように言った。シンは驚愕して一瞬、膠着したがそのまま階段を上がりきろうとする。立ち止まる勇気が附着するまでに数秒かかった。上がりきってから落ち着き払った素振りで振り返ると、老人の白髪はトルコ人の団体に紛れてしまっていた。
 シンは足の踏み場もないほど瓦礫が散乱している前庭を小走った。葡萄の木へ向かっていた。葡萄の木は遺跡の経路からかなりはずれた秘密の場所だ。誰もいなかった。木の脇のナナを抱く石に座る。呼吸が乱れていた。肘から汗が滴のように落ちていた。不思議なものである。四年前の屏風ヶ浦の駅で躓いたときの記憶が蘇えった。あの夏の日と同じ分けの分からぬ疲労が襲ってきていた。
「奴らに…奴らに何が分かるってんだ」
 シンは久しぶりに日本語を呟いて立った。経路をはさんで反対側にあるピンクがかった花崗岩へ向かう。ナナは不服そうに待っていた。シンは雨露を避けて割れ目奥に隠してあったビニルシートを広げる。慌てて広げる様に不服そうだったナナも笑い出す。シンは笑っている彼女を倒してその胸に汗まみれの顔を埋めた。
 日も傾いて涼しくなった頃、店へ戻るとナファトが羊肉を一心不乱に捌いていた。
「シンも有名になった。あちらさんがご指名で、羊の挽肉団子のトマトスープだ」
 予約されていた盛況な晩餐にナファトは気を良くしていた。そしてシンが半年前から作りはじめた料理も徐々に有名になっていた。ヒズボラの連中にも好評だった。しかしナファトが指差したさきには「PLYMOUTH」の文字の濃紺のTシャツがあった。
「あのイングリッシュが俺の料理を?」
「ああ、なんでも、大庭園での明後日からのクラシックのコンサートで、ヴァイオリンを弾きに来られた方々だそうだ」
 シンはもはやナファトの言っていることが聞こえなかった。背がいくらか曲がった濃紺のTシャツが振り返るとあの老人だった。思ったよりも眼鏡の奥の眼差しは優しい。そして恥ずかしそうに伏せられた。
 シンは腿肉を重たい出刃で叩きながら日本語で呟きはじめた。
「そうか…あんたらが俺とナナを見ていたっていうのか?見せてやったのさ、アングロサクソンに…俺たちが犬のようにどこでも愛し合えるってことを」
 ナファトが肩をたたくまで日本語は沸々ともれていた。
 夏のコンサートが無事に終ると、バッカス神殿を見上げる観光客も幾分か減った。ナナの「今日は悪い日」が何日か続いたほかには、懸念することもなく料理に励む日々が続いた。
「女がいない日は、静かな所で外国の新聞でも読むことだ」
 ナファトはくせのない英語でそう言ってガーディアンを手渡した。イラン系のアメリカ人だったナファトは、異邦人として生活するシンにとってまさに先生だった。
 シンとナファトが新聞を読む静かな所は、遺跡の一角の博物館の中にあった。シーア派のヒズボラの一室である。上目遣いのホメイニの写真が貼ってあって、武器を持つ若者が笑って迎えてくれるときもあった。
 一人で窓際で風を待っていると、湿り気を持った風がジブラルタルの記事の頁をめくっていった。
「…バールベックの遺跡の入り口にかつての少女はいた。もはや老人の私を憶えているわけもなく…」
 シンはしばらく凝視していたが、風がさらにめくった頁のメイジャー首相と目が合うと舌打ちしてたたんでしまった。

                                       了
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