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ロリアン   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 またも茫洋と海が広がっていた。倫代(みちよ)の目の前にはいつも水平線がある。意識するしないに関わらず海原がある。船着き場にせよ、磯の潮だまりにせよ、忍び寄る眠気のようなもので、眠りが来たかと思う間もなく、沈みゆく深々とした眠りそのものなる海原が漠として広がっているのである。酒やワインのように味わいの違いを無理に風土に求めてみても無駄だ。三河湾にせよ大西洋にせよ、倫代の海は、倫代を裏切ることなく思い通りの海としてそこにあった。
 ロリアンというフランスの港町についに来てしまった。
 フランス北西部モルビアン県の都市ロリアン、かつてはフランス海軍の基地だったが、今ではアメリカ人と日本人を手長海老で誘う漁港である。雨に煙る乾ドックの彼方はお洒落な倉庫街、手前のUボート・ブンカーと言われていたUボートの防空施設跡は、観光計画に繰りこまれてヨットの保管などに使われている。牛が潮風に弄られながら草を食んでいる海浜、勝手に想像していた牧歌的なブルターニュとは違っていた。
 母の母、倫代にとって祖母にあたる女性がフランス人であったということは、篠島では「魔女の棲家」と噂されているペンションの女将である母が幾度となく語っていた。出涸らしの紅茶のような色の一枚の写真、呉のどこかの床の間で母らしき幼児を抱いている女性は日本人ではない、と言ってしまえば皆が皆で納得しただろう。祖母はその写真を撮った翌年に亡くなっている。母は祖父の呉の実家に引き取られて育てられ、フランス人の生母「シルビ」の記憶は一枚の写真と祖父の思い出語りに尽きてしまった。
 母が祖父から聞いた思い出語りを、倫代が散逸した戯曲の頁を並べなおすように集成した伝聞内容はこうなる。一九四四年、帝国海軍の伊号第二九潜水艦は、ドイツが占領中のフランスのロリアン港を訪れて一ヶ月ほど滞在した。その伊二九潜水艦に十九才の祖父は技術士官として乗り組んでいる。少壮の技術士官としての祖父の記憶は鮮烈で、写真と共にあった覚書には、ドイツから供与されたマウザー二〇ミリ四連装機銃二基、クルップ三七ミリ単装機関砲一門、他にジェット機などの技術資料など、と克明に記述されていた。しかしながら伊号第二九潜水艦は、戦闘によるものか事故によるものか不明のまま、帰途シンガポールから日本本土へ向かう途中で沈没している。祖父は甚だ運命的にシンガポールにて下船していて日本へ帰国することができた。ロリアン滞在時に話を戻すと、うら若き技術士官は、当時のUボート・ブンカーの食堂施設に出入りしていた乳酪製品卸業の娘だというシルビィ・ド・ギョメと知り合った。「シルビ」ことシルビィは十六才だった。出会い即別れもつかの間の終戦、一九四六年にはアメリカ経由でシルビィは呉に現れている。現れているなどと粗雑な表現に至るのは、この決定的に感動的なこの時の状況を、母本人が成長してから父である祖父に執拗に聞いても、そして呉の親戚や近所に詳細を聞いても、淡々と曖昧な記憶を辿るばかりであったからだ。食べるのに生活することに精一杯の終戦直後にあって、かつての軍港に現れた亜麻色の髪の女は、米軍の連れ合いぐらいにしか見えなかったのか。それにしても祖父が語り残した祖母の印象は稀薄である。あまりの驚愕に麻痺したまま墓へ持っていきたかったのだろうか、などと倫代はそれこそ茫然と推測するしかなかった。

「この番地のあたり、事務官の人が言うにはね、サウス・ブルターニュ空港の敷地内なんだって」
「空港?昔は住宅地だったってことかしら」
「あたしも聞いた。なんでもね、昔からの野っ原の丘で、潜水艦基地の物質を補うためにナチスがばたばたと作ったんだって。ジプシーか何かじゃなかったの…冗談よ、いい方に考えましょうよ、母さんの灰色がかった瞳のためにさ」
「その東京のフランス大使館の事務官って人はまだ若いんだろ」
「ソルボンヌを出ていて日本語はぺらぺら、ロリアンから一八〇キロほどのナントの生まれ、ナントの勅令のナント、あの辺一帯は詳しいようなこと言ってたけど」
「何とかだか知らないけど、一八〇キロも離れているってことはさ、ここ篠島から伊豆の下田くらいまで離れているってことで、しかもフランス人やイタリア人ときたら当てになるもんかい」
「またそんな父さんからの受け売りみたいなこと、その目つきではっきり言うから魔女だなんて言われんのよ」
「父さんが、あなたのお爺ちゃんが言っていたのよ、日本人以外で信用できる船乗りはドイツ人だけだって」
「わかった、爺ちゃんの伊号潜水艦がお邪魔したっていうUボートの隠れ家もちゃんと見てくるから」

 連合軍の度々の空爆を受けてもUボート・ブンカーは破壊されなかった。ノルマンディー上陸作戦以降、アメリカ軍はロリアンを包囲したが、ドイツ軍は降伏しなかったようである。ロリアンは終戦までドイツ軍に占領されたままだった。
 Uボート・ブンカーの跡地に掲示されている構造の説明を、リヨンで学んでいるという名古屋っ子の斗亜ちゃん(山崎斗亜)は感心しながら訳してくれた。斗亜ちゃんは建築を専攻しているとかで無理もない。爆弾の衝撃を逃がすべく屋根を傾斜させたドームブンカーの構造には感心しきりで、彼氏がドイツ人だと聞いてはフランス人に睨まれないようそっと祈る。そして解体費用が郡の収入を上回るゆえに中止となったあたりで、ちょうどと言うか、やっとと言うか、調査を依頼していた市役所の係員から斗亜ちゃんの携帯電話に連絡が入ってきた。
 斗亜ちゃんはリヨンで日頃身についてしまった大きい手振りでメモしながら、名古屋のおばさんでも張り上げないような嘆き声で対応してくれていた。
 倫代は「メルシー」の後で俯きながら電話を切った斗亜ちゃんの汗額にハンカチをあてがった。
「シルビィ・ド・ギョメという女性、倫代さんのお祖母さんですけど…」
「大丈夫、はっきり言ってちょうだい。そんな人はいなかったんでしょ」
 斗亜ちゃんの困惑の眉間は、どうも内容の悲劇性というよりは摩訶不思議にあった。
「いらっしゃったようですけど、なんていうのか…でぇらやばいな、わけがわからん」
 倫代は栄町あたりの十代が呟くしぐさに破顔してしまった。
「でぇらやばいって、駄目よ、そんな日本語をフランス人に教えちゃ。聞いたとおりに訳して教えてちょうだい」
「そのままですね、そのままで、ロリアンの戸籍台帳に今日までの残っているシルビィ・ド・ギョメという方はお一人だけで、その方は一八九一年十一月三日生まれで、いいですか、一九三九年七月二十二日に亡くなっています」
 倫代の笑みは梗塞して余裕の眼差しは足下へ泳ぎだした。
「何それ、一八九一年?一八九一年に生まれて、いつ亡くなったって?」
「だから二度聞き直したんですけど、亡くなったのは一九三九年だから…」
 倫代は脇へ嘔吐するかのようにバッグを開けてがさがさと写真を引きずりだした。
「って言うことはだよ、この写真、うちの母を抱いて母親らしい顔をしている人、あたしの祖母っていう人はシルビィ・ド・ギョメじゃないってことで…でもさ、この裏の本人のだっていうサインは?」
「読みにくいですけど、シルビィ・ド・ギョメ、と読めないことはないですね」
 倫代は対岸沿いに曳航されてゆく大型ヨットに目を細めながら舌打ちした。
「でぇらやばいわね、夫であった爺ちゃんがそう言っていたんだから、そのままシルビィであってほしいけど…安易なロマンスを勝手に想像していたあたしと母さんが、そもそも阿呆なのかもしれない。こんなフランスくんだりまで来ちゃってさ。ロリアンじゃなくて呉のお墓参りからやり直そうかな」
 遥か洋上にたなびいていた雲はひとつ残らず視界から消えていた。そして色白の女二人を嘲るような日輪は真上にある。倫代は初めて海に裏切られたように感じていた。

                                       了
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