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チャネルキャット   Vladimir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 その頃のレイ・フランシスコ・アライサは、ヌードリング(Noodling)のシスコと呼ばれていた。ヌードリングとは手掴みで魚を獲ることである。ネイティブ・アメリカンによる独特な漁法だと説く先生方もいらっしゃるが、ともあれ古今東西、大河から側溝まで、水流の恩恵を拝してきた者が、記憶する産卵期や増渇水期に行ってきた手掴みである。ヌードリングという言葉は、「noodle」を語源としているのだが、この単語の意味は中西部ミシシッピー河沿いにあっては二つあり、どちらの意味も猥雑で気が利いている。ひとつには、小麦粉を練って紐状に切ったり伸ばしたりしたものをスープに入れた中華食の王道、これが口中にある感覚が、チャネルキャットに触れた感触と似ていることらしい。もうひとつは、道具を使わない始原的な行為を皮肉ってか「blockhead」とか「stupid」と同意である。
 北アメリカの手掴み漁の歴史としては、ヌードリングの起源は一応アメリカ開拓時代にまで遡るものの、多くの州では今もって禁止されている。単純で果敢な漁であるがゆえに、危険な行為だと断定されている。詳細はヌードリングを懐かしむレイによって説明されるが、認可されている州は、マッディウォーター(泥水)でチャネルキャットなどが十分に生育できる、ミズーリ周辺中西部から南部に集中している。ともかくシスコこと少年時代のレイ・フランシスコは、セントフランシス川及びその周辺のクリークで、チャネルキャットをヌードリングして小遣い稼ぎをしていたようである。
 ヌードリングが手掴みだということは分かったが、手掴みされるチャネルキャットって何かって?鯰(なまず)のことである。鯰の直訳は「cat fish」なのだが、レイ・フランシスコは川底や水路を意味する「channel」の響きを愛していた。後年、ニューメキシコ州の公認調査員になって多忙を極めると「俺のチャネルはこうでなくちゃ」などと呟くことになる。そして同じように見える鯰でも味の違いがあるらしい。通称フラットヘッドとかブルーとかいわれる種のキャットフィッシュよりも、チャネルの方が野性味があって葫やパセリと相性がいいらしい。
「だったら、そのままチャネルキャットを獲ってりゃよかったじゃない、そのセントフランシス川で」と言いながら奈美子は白石を二間に開いておいた。
「わけがあるんだ、川から離れて、ファーミントンを出ていったのには」と応じながらレイは黒石で後頭を掻いた。
「そこはね、危険な場所なんだ。ヌードリングも時として危険なんだ。つまり、楽しくて夢中になっちゃって、そして…何よりも、その場所は目と耳に優しくて、僕には危険なんだ、ちょうど今の時間のように」
 奈美子は、そんなことを言いながら苦渋に歪むレイの眉間を見て微笑んだ。彼がどれほど長考しようと、AFH(American Female Honinbo アメリカ女流本因坊)の彼女に一糸を報いるのは至難であった。
「オーク(樫)の幹を刻んだときの香り…あそこの川沿いの樹木は奇跡だ。三種類のオーク、ホワイト、レッド、そしてブラック、これらが大統領や法王のように際立っていて、寄り添うように桜や胡桃、そしてヒッコリーやゴム、それらが一目で分かる葉を揺らしている。樹木だけじゃない、土地そのものが奇跡なんだ。親父が口癖のように、ファーミントンの赤土はすこぶる肥沃で、牧草にすると、たしか一エーカーあたり二、三トンの干し草を生み出していると…あそこは奇跡だ」
「その豊穣な奇跡の地を離れて、赤茶けた西の果てニューメキシコにやってきたわけは?」
 レイは槍を突きつけられたように奈美子の視線を窺った。彼女の眼差しはすでに盤上を離れていて、グラスの緑茶に浮かべられた卵大の氷にあった。
「大丈夫よ、石だけを見て、よく考えて打ってね。アマチュアを相手に、さっさと大石をとって戦意を喪失させて喜んでいる人もいるけれど…相手が負けても、もちろん勝っても、楽しかったと思える時間を作りだす、それがプロフェッショナル…どうして、楽園でそのままヌードリングのプロフェッショナルにならなかったの?」
「何度も言うけれど、危険なんだよ」
 奈美子は緑茶を含んで、碁笥から数少ない蛤らしき白石を摘まみあげた。
「危険ね…よく言うわ、アルバカーキのマック事件を掘り起こして、エスプレッソ・メーカーに狙われていたあなたが」
「狙われていたは大袈裟だが、あれは…僕が執拗だった、まるでスナッピング(Snapping turtle)のように」
「スナッピング?」
 レイはまるで投了したかのように苦笑いしながら立った。どこかしら舞うような仕種でグラスに同等の卵大の氷を入れて、冷蔵庫から「おーいお茶」を取り出すと勢いよく注いだ。
「母が指を失っているんだ、左手の第四指、指輪ごとね」
 奈美子はキャンディのような白石を盤上に落とした。
「母の指輪を飲みこんだ奴、まだ生きているだろうか…母が指を失ったのは、二度めのヌードリングだった。カンザスシティを殆ど出たこともなかった母、今から思うとかなり地味だった母、そんな母がだよ、男に交じってヌードリングをしたいと言いだしたんだ」
 レイは氷を前歯にあてながら大きく飲み込むと、小さく唸って二間開きの白石の内に突き当たった。
「僕はそれをヒステリックとは言わないが、母は解放させたかったんじゃないかと思うんだ、行き詰っていた自分を。何に行き詰っていたか…やっぱり父ジョージとの結婚生活っていうやつかな。もちろん、父は母を、母は父を愛していたと思う」
「そうでしょうね」
「結婚そのものが最初の開放だったはず…あの地味な母が、両親の反対を押し退けて、南のファーミントンで気儘な生活をしていた父と暮らすようになる…信じられない、あの母がいくら顔見知りの同級生とはいえ」
「そのおかげで、あなたが今ここにあるわけでしょ」
 奈美子はそう言って微笑みながら無視するように白石を伸ばした。
「確かに…最初の開放、結婚生活はネスト(巣)だ、誰にとっても。チャネルキャットなら堤防に沿った穴や窪み、流れにある倒木や岩のすき間…そこで産卵が済むと、親は卵や幼魚を保護するために、ネストに近づく外敵を威嚇する。そのネストに、強引に指を入れて、キャットが指に咬みついたところを引きずり出す」
「それがヌードリング…どちらにしても指は咬まれるわけね?」
 レイは黒石を摘まんで放るように離して、側頭部を抱えるようにして反り返った。
「母は二度めのヌードリング、川に入るのも二度めだったんだ。だからネストがどこにあるのか、どの穴に指を入れるのか、もちろん親父、ジョージの言うままだった。そして、子供の僕が思いもよらないジョージがいて…親父もまた行き詰っていたのかもしれない」
「お父さんも行き詰っていた…どうしても難しい変化を考えがちだけれど、単純に打ってみることね」
 レイは両手で顔を覆ってうな垂れるままに首を振った。
「指を失うなんて…幼児の指ならともかく、炊事と洗濯に費やされた母の指、しかも指輪ごと…キャットじゃない、亀だ、おそらくスナッピングだ。あそこ…あの堤防の亀裂、あそこに、親父はスナッピングがいることを知っていたんだ」

                                        了
エミリーに薔薇を (中公文庫 フ 17-1)

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