SSブログ

トリノアシ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 俺がラジャ・アンパットのあたりに潜っていると言ったら、バリで知り合ったかつてのサーファー仲間は、決まって気の毒そうに「足か背中でも痛めたのか?」と聞いてきた。格好つけて「サーフィンじゃ食えないだろう」と言えば、漁で生きている地元の人々は頷くが、太郎や花子が俺の歳を憶えていれば気まずそうに横を向くしかない。正直に「大学へ戻って棘皮動物を研究しはじめた」と言えないのは、女好きの祖父の血を引いた「ボードを抱えた生殖器」と言われて悦に入っていた俺の矜持と懺悔だろうか。気取ったようなことは言わないことにしよう。要はどこにでも漂っていたサーファーもどきの俺も、渚でシオマネキのように捕まえてくれた女房に頭が上がらないだけだ。彼女が和歌山のスーパーで重たい洗剤を運んだり、レジに立ちっぱなしで頑張ってくれているおかげで、俺は今日も「水底の百合」を探せているわけだ。
「ウミユリって呼び名は日本人らしいな。戦死しちまった連中もヒトデの餌になったって言えば立つ瀬がないだろうが、ウミユリのなんだ、肥やしになったって言えば少しは聞こえがいいって言うのか…大して変わらないか」
 俺が南アジアのどこかの国の外交官になることを勝手に吹聴していた祖父ヒデヲ。祖父自身が太平洋戦争にあっては、インドネシアのスラウェシを中心に転戦してきて終戦を迎えたので、ボードを抱えてバリやスマトラに行くようになった十八歳の俺は、随分と武勇も滑稽も破廉恥もない交ぜになった従軍話を聞かされた。挙句は「アノア」という偶蹄目について調査探索させられたこともある。そんな俺がそっと帰国して白浜の近くにある研究所で、ヒトデやウニの仲間である棘皮動物ウミユリ綱のウミユリの研究をし始めた。そして入院した祖父の従軍話から破廉恥も笑いも海綿が乾くように無くなった一昨年の暮れ、俺は和歌山の陸の現実から逃避すべく採集と研究にかこつけながら、竜宮城のようなインドネシアの多島海へ旅立った。
 確かに多島海の海底に魅せられることは、死と隣り合わせの竜宮城に陥落する危険な日常ではある。番所崎の瀬戸臨海実験所の同僚からのメールは、クラゲの発生と処分にも似た人事異動や予算改定のあれやこれやばかり。俺を放っておいてくれとは言わないが、俺に聞いてほしいだけの浪花節は勘弁してほしい。とは言うものの、ワイサイ郊外の夕景に目を細めている独り情けない俺も、スーパーから帰ってきたばかりの女房の夕餉の支度の慌ただしさなどを想うこともある。そして女房の疲れたたれ目が仔梅(シーメイ)の三白眼に変わるとき、メールボックスを閉じる先からパソコンをシャットダウンするのだった。
 今宵は仔梅の思惑に捕まってシャットダウンどころではなかった。その流暢な日本語のメールに見え隠れしているもの、それは彼女の長い髪の色香などからは明らかに隔しているものだった。
「ブライアン・オシスという五十四歳の英国籍の男性です。日本語に堪能なのは『トリノアシ』について話すと、日本人の学生のように理解して笑ったことからも推察できます。単刀直入に申しますと、ブライアンは私の母国、台湾へ入国したいらしいのです。事の発端は美術商として活動していたミャンマーで、クーデターに成功した現在の軍事政権から長年の搾取を理由に指名手配されいることです。私の家族が官公庁と接触し交渉して台湾の受け入れ先として認められたものの、約一年の待機猶予期間が台湾以外の国で必要なのだそうです。ご存知のように日本はルポルタージュ記者が昨年、銃殺されたこともあってミャンマーからの外国人の来日には当分の間は過敏になっています。そこで…」
 そこで俺に怪しいことこの上ない英国人のおっさんをかくまってくれって?かくまってくれなどという日本語はどこにも見当たらないが、おっさんはすでにマカッサルからソロ港まで来ているとは、台南の金満客家のお嬢さまで日常的に強引な仔梅らしい。それにしても、瀬戸臨海実験所で甲殻類の記載分類学に熱中しているお嬢さま仔梅が、添付された写真の左義眼で藪睨みゆえに正直なところ醜い白人と、どのような関わりがあって俺に彼の隠遁を依頼してきたのか。今夜は神父から戴いた純度アルコールの世話にならねばとても寝つけないだろう。

 波浪注意報と火山噴火のニュースだけが繰り返されている地上の午後。海中のウミユリはプランクトンを捕えるために美しい触腕を踊るように揺籃させる。それを想いながら百合の花には程遠い「トリノアシ」の写真を見るようブライアンへ渡した。
「仔梅のメールにあった指名手配の理由だけど、長年の搾取ってどんなことをしたの?」
 ブライアンは闇夜に遭遇することが憚れる顔を上げて皴っぽく微笑んだ。
「確かにですね、茶葉の仲買業者から始まって仏教美術を扱って、確かに長年に渡ってミャンマーやインドでは商売してきました。搾取?盗みですか?法律から外れた商売をしてきたつもりはありません。本当の手配理由は、おそらくですね、殺人容疑でしょう」
 俺は狼狽えようとする視線を押さえ込んで鼻で笑って見せた。
「おそらくですね、クサカリショウジロウさん、キタムラジョウジさん、ヤマダユウジさん、この三人の殺人容疑でしょう」
「名前からすると日本人だよね。旅行者?本当に…その三人を殺したの?」
 ブライアンはやれやれと首を傾げて幾らか乾いた唇を指し示した。
「確かにですね、話している日本語は三人から教えてもらいました。漢字や平仮名もですね」そう言って俺に誤コピー紙を要求して裏に書きはじめた。「確かにですね、お世話になった三人ですね。草刈象二郎さん、北村譲治さん、ジョウジのジョウは難しいですね、山田雄次さん。私にフレンドリィだった三人ですね、殺すはずありません」
 ブライアンに日本語を教えたフレンドリィな三人について時系列的にまとめみた。三人の日本人はとても旅行者とは言えない。終戦後、祖国へ帰還できなかった、あるいは帰還しなかった、祖父と同世代の帝国軍人である。ブライアンは最初にマニプルという町の茶葉の品質査定場で部落の長的な山田雄次と出会い、山田の紹介で同じ残留兵の北村譲治と知り合っている。北村こそ正にフレンドリィだったらしく「シロワニ」という仇名をブライアンにつけている。そして草刈象二郎こそ乱暴な表現を借りればボスだったようである。草刈は相当な上級将校だった過去を持ち、ミャンマーの四部族、華僑やインド系商人、はたまた進駐した英国将校とも関わっていたらしい。ブライアンが度々の政変にも関わらず最近までミャンマーを脱出せずにやってこれたのは「草刈象二郎さんのおかげです」とのことだった。今もって草刈の存命安否は確認できていないが、山田は九年ほど前に病死されたこと、北村は四年前に軍事政権に拉致されてすぐに解放された後に変死されたこと、これらは公にも個人的にも確認されていた。二カ月前、ブライアンに山田と北村、そして草刈の殺害容疑が発令されるだろうという情報がもたらされた。
「それにしてもミャンマーを出国したのといい、仔梅からメールをもらった時にはマカッサルに到着していた。とても日本人にはできないトリック・プレーだ」
 俺は寝起きのような随分と悠長な、それこそ浦島太郎のような無責任な言い方だった。
「確かにですね、仔梅さんを信じてここまで来れました。あなたが仔梅さんの友だち、私は幸運でした」

 仔梅との出会いは、瀬戸鉛山地区にある実験所に新しく赴任された所長の歓迎式のときだった。棘皮類ならともかく甲殻類の研究者と言葉を交わす機会は今でも滅多にない。日本人離れした美しい女性がいると思った。外来客家人の人類学的な骨格風貌には詳しくないが、彼女には台湾原住民の十代女性に見るような凛々しさがあった。
「見てください、父が祖父から受け継いだ梅花石です」
 挨拶もそこそこに仔梅は翻るようにして携帯の写真を見せてくれた。梅花石はウミユリの化石を含んだ古生代後期の石灰質輝緑凝灰岩である。そして台南を源とした海洋民族の商いと女神である媽祖の関わりを話してくれた。
「あなたが研究しているウミユリ、いいえ、茎のような支持体?支持体が岩に着いているので植物のように見えますけど…あたしもあなたが言ったトリノアシという言い方が好きです。幼体は自由に泳ぎ回っていますし、ときどきは岩を離れて漂っています。トリノアシは鳥のように自由なのです」
 俺は仔梅から円月島へ渡るのを誘われたとき少年のように狼狽した。真水を飲み下して自分が妻帯していることを朗々と告げた。仔梅は了解しているかのように微笑んでビールを取りに行った。何故か彼女の蜜蠟のような二の腕と脹脛が、夕陽を受けた椰子蟹のそれを連想させた。
「仔梅さんが研究しているのはBeetleカブトムシですか?」この質問がすべての始まりだった。「あの…かたい殻でできている生物ですか?」
「似たようなものだがカブトムシじゃない。Crab蟹の仲間だよ。軍人だった先生方もそこまでは教えてくれなかったの?だいたい『シロワニ』とか『トリノアシ』とか分かっていながら…カブトムシって何言ってんの?」
 ブライアンはそれこそ白鰐が天井に浮かぶ足を狙わんとする藪睨みで見上げた。
「確かにですね、甲殻類という日本語をメールで見ました。それはですね、仔梅さんのメールに書いてあった日本語ですね」
「だったらどうしてカブトムシですか、なんて聞くんだよ?」
 ブライアンは混ぜ返したような問いに答える術もなく誤コピー紙を要求してきた。
「確かにですね、草刈象二郎さんのところで最初に出会いました。これはですね、ミャンマーの甲虫ですね、五本のツノがあって、ここの二本のツノがRabbit Ears兎の耳みたいですね、この甲虫に出会ったのですね」
 俺は正直なところ狂人と一緒に生活するのは一週間がいいところだな、などと考えはじめて神父からの頂き物が入った棚を一瞥した。
「私はですね、このミャンマーの甲虫のことを仔梅さんに伝えました。仔梅さんはですね、えーと…ビルマニクス…ゴホンヅノカブトだと教えてくれました」
「なるほど、それで仔梅が陸上のカブトムシ研究者になったわけだね」
「確かにですね、仔梅さんの部屋にもですね、日本の甲虫がいるとメールに書いてありました」
 俺は彼女と黒光りする虫のことなど話題にしたことがなかった。
「あなたは仔梅さんの友だちですね、どうして、あなたのところにはカブトムシはいないのですか?」
「見てのとおり蠅や蚊はいるけど、仔梅やシロワニのように甲虫なんか飼っていないよ」
 ブライアンはボールペンを放って椅子ごと後退った。
「あなたは仔梅さんの友だち…ヒトデやウミユリを研究している『トリノアシ』ですね…私はシロワニはですね、あなたをトリノアシを信じていいのですか?」
 俺は仔梅の艶やかな二の腕に触れようとする甲虫、そして老いた白人の乾いた指先を想っていたのかもしれない。応じるように椅子ごと後退ってモニターのメールボックスを開いた。そして仔梅がもし甲虫を飼っていて、キーボードの上を滑り抗う彼に微笑みながら返信してきたら、明日の満潮、俺の竜宮城にシロワニをご招待しようと思っていた。

                                       了
お嬢さん (角川文庫)

お嬢さん (角川文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: 文庫



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ: