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アルバトロス   Naja Pa Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 母さんと最初に海を見に行った時、私はまだ充分に砂上を歩けなかった。そして転んで砂まみれになった顔をあげた時、この世で最初の白人に出会った。金糸のような胸毛を風に弄らせた海神、それがサー・ヘンリー・スチュアート・ビリンガム子爵だった。子爵の笑顔は凄かった。私は中空に舞い上がった。あのまま渚へ放られても、子爵や世界の暴虐を恨むどころか、光を浴びに母の胎内から出てきた者の末路として受容していたことだろう。子爵は私の頬に笑顔を寄せて、ブルーのような銀の頬髯を擦りつけられた。その灰色の瞳は落ち着きなく好奇心に踊っていた。後に母さんから聞いたのだが、そこはリチャーズベイとダーバンの中間にあたる浜辺らしい。もちろん、ビリンガム家に仕えるようになってから、右手を母さんに、左手を子爵に預けて歩いたその浜辺には行っていない。そもそもここ五十年ばかりはケープに行っていない。あのとき浜辺を吹き過ぎていた東南風、からりとしたケープ・ドクターのその感触は、子爵の陽を映した瞳と共にかろうじて記憶に残っている。あの風はまったくドクターだった。ケープを後にして上陸したプリマスも温暖で、貧乏海賊の岬で遊んだ帰りの海風も心地よかった。そして紛れもない今の風が、剃ったばかりの老い肌に雨滴をもって吹きつける。目覚めてなお続いている悪夢でもなく、教会堂の切妻壁の彼方に暗鬱な水平線が見えた。朝から苛立った冷たそうな白波は、凝灰岩の壁を上ろうと蠢く羽虫の大群…しかし否定するほどの風景ではなかった。教会堂の窓を閉じるほどの風ではなかった。
「もういちど聞くけれど…どうしてこの島だったの?」
 メラニーはアイロン掛けを終えて、私の古いシャツを打っ棄るようにおいてから聞いてきた。ビリンガム家の家政婦頭にして、私こと執事バート・キャンベルの妻である。そして「どうしてこの島だったの?」という問いは、アイロン掛けの遥か以前、四日前にやっと洋上から集落を認めたときから三度目だった。
「もういちど答えると、ヘーラクレースの十二の冒険のひとつ、それがここエディンバラ・オブ・ザ・セブン・シーズEdinburgh of the Seven Seasなのだ」
「そのプリマスの酒場の三文芝居のような言い方はやめて…疲れたわ、昨日から降ったりやんだり、加えて鳥の糞が子供の悪戯みたいに窓を叩くし、毎晩のメインは塩っ辛いヘイクhakeのフライとチップス」
「イングリッシュらしくていいじゃないか」
 メラニーは鼻で笑って反り返ったが、音声は喉で鳴らずに飲み込まれた。おそらく「ンデベレ族の祈祷師が気取って」とか「ショナ族の筋骨には肉が必要なの」とかだったのだろう。そしてメラニーが老いた家政婦らしく、執事である私にあたることは無理もなかった。現在、御歳四十四歳のビリンガムの当主、サー・ポール・スチュアート・ビリンガム公は、テムズ・ウォーターThames Waterの役員にして、ロイヤルホロウェイRoyal Hollowayの論理哲学の講師にして…動物愛護団体Dogs Trustの理事にして、国際災害救助隊IRCの広報まで請け負われていて、独身をいいことに世界中を飛びまわっていらっしゃった。メラニーはポールさまが幼い頃より、陸海空と瀟洒荒涼を問わずに陰に日向に付き添い、執事である私はひたすらサウスケンジントンの留守邸をお守りしていた。しかし、忘れもしない、二十三歳のポールさまが精神科の治療を受けられたとき、メラニーは座っている私を机ごと暖炉へ押しつめた。そう、追いつめたのではなく、野兎が住まう生垣を日本製の重機が押しつぶすように、凄まじい泣き声で私を押しつめた。そのときに私は了解した。私は彼女を愛している痛みを、明確に引き出しの樫の取っ手で知った。それからの私は、留守邸を一旦引退していた両親に頼んで任せ、自身も携帯電話(普及していない頃はトランシーバー)と分厚い備忘録を持って、ポールさまに付随するメラニーの後を追ってきた。そしてヘーラクレースの冒険よろしくポールさまが向かわれる先々で、散らばる共感を夫婦で拾い並べて味わってきた。旅先のきっかけはポールさまの事業と好奇心にあったので、人知を超越したような驚愕とは遭遇しなかったが、ポールさまを追いかけるに時として老体は辛くなっていた。人の哀しみを聞き取るポールさまの才能は、神々に抗う同胞の住まう地を選ばなかったのである。
「あたしが気がかりなのはね、島の痩せた猫ちゃん。さすがにショートヘアが多いと思わない?思わないか…だったら、ンデベレのあなたとショナのあたしが、こうして夫婦になったきっかけは?」
「ビリンガム家にお仕えしてきたからだ」
 難破船から得られたという鐘が鳴った。メラニーは勢いをもって椅子から立った。
「もし仮によ、この島がショナ族の島で…二百人の島民になるまで二百年が過ぎているとして…」
「メラニー、落ち着いてくれ。ポールさまのお帰りが遅いとき、または朝になって連絡もなく戻っていらっしゃらないとき、君はいつも苛立ってしまう」
「いいから聞いて、そのショナ族だけ二百人の島に、ンデベレ族の祈祷師の息子で弁が立つ、背が高くてマサイのような脛をもったバートっていう若い男がやって来たら…島はどうなると思う?」
 私は冷めた茶を飲み下して椅子を立った。
「あたしの母、あたしの祖母、隣の親戚の女たち、いいえ、牧師さんの女房までが口を揃えて、若いあたしに言うでしょうね…メラニー、あんたは運がいいって」
「やめろ、ここはカトリックの教会堂だぞ!君はポールさまのことになると…」
 メラニーは私にシャツを投げつけて、唸るようにして堂の集会所を出て行った。どこへ行く気だろう。朝早くからポールさまが誘われて行ったところ、そこは亀礁と呼ばれる岩礁とのことで、アルバトロス(アホウドリ)が群生しているらしく…そこで島中の若い女たちがビリンガム子爵を待っているとでもいうのか…メラニーが島民の誰彼を構わずに「泥棒猫は許さないよ」と怒鳴っている姿を想像してしまった。私は払い除けようとしたシャツを持って、集会所から堂奥へ向かって軽く十字架をきった。あとはアルバトロスに導かれるままに浜へ出よう。

                                       了
荒涼館〈1〉 (ちくま文庫)

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