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玉葱   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 大地震の八ヵ月後、茉莉(まり)はやっと土を握って呟いた。
「腰をうったかて…抱いてもらえんなんておかしいわ…」
 父、規一(きいち)はそれを最後の籠を積み終えたときに耳にしてしまった。
 そして、娘の泣き言を耳にしたとて、父親に果たしてなにができよう。最悪の年の最悪の玉葱を籠から手にとってみる。些か小振りで艶のなさは随分と神経質に見える。気遣うべき玉葱を気遣えず、ひたすら面倒見きれなかった自省の一言につきた。
「叔母ちゃんに相談したんか?」
 茉莉は土を離してくりくりした眼を閉じた。そして小さく笑って抑揚なく言った。
「叔母ちゃんとこは断層の真上やろ…それに叔母ちゃんには、面倒見なあかん叔父ちゃんがおるやろ」
 規一は茉莉が中学一年生のときに妻を亡くしていた。父娘だけの生活が十六年続いている。茉莉は農協に勤めながら規一の玉葱栽培を助けてきた。「玉葱やないで、あんたの娘は」などと周りから揶揄されながらも十六年が過ぎた。男の手に負えない(玉葱作り以外のすべて)事柄は、茉莉が叔母ちゃんと慕っている妻の妹に任せきりだった。
 そんな慎ましい淡路の玉葱農家にも、幸も不幸も分け隔てなく供される。大地震は砂地の上で生きる者たちの心根を大いに攪拌していた。
「もう出たる、ここはあかん」
 茉莉のやりきれなく低まった声に規一の視点は失われた。父は奥歯を噛みしめて常備薬を探すように籠の中を掻きまわす。そして不思議にまともな見解を淡々と口にできた。
「明石に行ったかてな…地震のあとは同じやいうの知っとるやろぉ?」
 娘は蒼白な横顔を見せて頬をふるわせた。
「ここが厭や」
 規一は追いつめられた自分の指が、なぜか形のよいひとつを掴んだことを訝った。
「平八(へいはち)さんがな、その…一緒に住んでくれる言うたんは…嘘やったんかぁ?」
 茉莉は鼻水をすすりあげてうな垂れた。
「あたしが出たいんよ。あたしがここから出たい…平八と二人だけでいたいんよ」
 数秒ながらも鈍重に凍てついてしまったような沈黙があった。玉葱の手ごたえだけは変わらない。地の利を知るものだけが生き続ける、たとえそこが裂け崩れる地でも。しかし規一の信念も規一の玉葱と同様に砂上の産物ではないか、と囁くように虻が勢いよくあたった。
 父は娘にむかって立派な玉葱を投げつけた。それは茉莉の腰にあたった。そこは箪笥がたおれて傷めた部位である。茉莉は苦笑しながら足下の玉葱を拾おうとした。勢い屈んだ瞬間の痛みは絶大だった。思わず唸ってしまって、悲痛さは後先をさておいて怒りへ転じていった。茉莉は父へ向かって投げ返した。規一の股間をすり抜けてトラックのタイヤにあたった。
 二人は籠ひとつが空になるまで投げつけあっていた。

 明石と富島の間を行き来する船舶交通を西淡路ラインという。この八ヶ月間の西淡路ラインは、富島へ到着して降りてくる人という人すべてが眩しく見えていた。
 茉莉は改札の脇で髪を結い上げ直していた。あと十分もすれば平八が来る。正月に挨拶に来た時、彼の帰りを見送りながら、誰がこれからくる神の咳払いを予知できたであろう。あれから引き裂かれたまま、平八は富島へ渡ってこなかった。彼も彼で震災後の家族と向き合って悩んでいるのだった。
 平八は茉莉と出会った高校で、音楽教師が隠れながら弾いていたアコーディオンに魅せられた。大阪から東京、ブエノスアイレスからローマ、哀切の鍵盤に捧げた二十歳前後の日々は、帰国して間もない交通事故に断ち切られた。仕方なく指置きを鍵盤からキーボードに替えて、農協に出入りしている肥料会社に勤めはじめた。そして平八は富島の農協へ初めてやってきて、迎えにきた職員の茉莉とここ改札口で再会した。それまでの営業社員とは違う茫洋とした雰囲気の平八に、苛々と伝票整理と軽トラックの運転ばかりしてきた茉莉は、父規一が島らっきょうを探り掘るように魅了されていった。
「嬉しそうですね」
 老人はそう言ってリュッサックを振りまわすようにして下ろした。
「あれぇ、カレーの先生、金野(こんの)先生じゃないですか…」
 茉莉の緩みかけた頬を見とめた老人は、長めの白髪に度の強い眼鏡、そしてサビーナの赤の千鳥格子模様のネクタイをきちんと締めた金野先生だった。農協が講演者として度々招いている京大名誉教授である。若かりし情熱を捧げた専門は「偏微分方程式の数値解法」とかいうものらしいが、退官されてから情熱を捧げているものは「野菜カレー」と言いきっていた。
「たっぷり頂きましたでぇ、おおきにや。これから暫くは、ここの玉葱を使って、カレー、カレーの毎日だわ」
 先生はリュックサックを抱えながら近いベンチの端へ腰を下ろした。
「先日は貴重なお話、カレーのお話、有難うございました」
「いや、カレーって言うてもね、マサラとか何とか言うたけれど、カレー粉の女房役と言ったら、何はともあれ野菜なんだわ」
 茉莉は咄嗟に共済金のことだけが頭を占める組合長の言を思い出した。
「次にいらしていただけたら、簡単な統計の話をしていただければ、などと申しておりました」
「統計よりも、一昨日は茄子のカレーの話をしたから、今度はズッキーニのカレーなんかはどうやろう」
「ズッキーニ?」
「そうだよ、こんなに素晴らしい正妻としての玉葱があるんやから…次の新しい愛人としてはズッキーニあたりがええわ」
 茉莉が唖然となったのを見ると先生は子供のように舌をだした。
「こりゃ、あかん。あんたは未婚やからな、まずは立派な玉葱にならんとな」
「奥様に叱られないんですか」
「ま、なんと言うか…船が来おった」
 茉莉が振り返った時、先生はまたリュックサックを振りまわすようにして背負った。この先生とは是非とも落ち着いて話がしたかった。しかし先生を見送るよりも、自分の網膜が船を下りる平八を捕捉しようと必死なのが感じられた。
 降船客の最後尾に、杖をついた老婆の荷物を抱える柔和な平八がいた。改札をやっと通った平八は、茉莉の苛立っている厳しい顔に驚いた。
「茉莉、なにしてんねん?」
 就業時間中なので迎えに出られない、と言っていたのは茉莉なのである。
「あかん、してんねん、なんて言うたらあかん。ここでは、なにしとん、言うの」
「茉莉はあほや…」
「あほ言わんて…だぼ、だぼや、平八はだぼやぁ」
「だぼ言うたかて…」
 茉莉は平八の背後の乾いた笑い声に目を細めた。それは黄金色の玉葱が表皮をそよがせているような音。金野先生は笑顔のまま誰にともなく手を振って、西日を背に後退って乗船されるところだった。

                                       了
偏微分方程式 (数学クラシックス 第 12巻)

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