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蟻とコゥロギ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 僕はオリバー・コゥロギ。ブエノスアイレスの海軍大佐ツトム・コゥロギの長男として生まれた。今の僕も御多分にもれず海軍に属していて、大尉の階級にある二十八歳のそれなりの持て男だ。コゥロギという姓は、父方の日本人姓で「興梠」と書いて日本でも珍しいらしいが、隣国ブラジルの都市部では役人や軍人、つまり偉そうにしている奴らのうちに見え隠れしている。アルヘンティーノでは、おそらく父が最も有名なコゥロギ族だろう。その父もどうやら大佐のまま、秋には退役するようだ。母が言っているように、そのまま母方の発祥の地ドレスデンへ行って、若いナッティと暮らすのだろうか。なんとも…この僕にしてあの父だ。生意気かもしれないが、父が苦笑いしながら言ったように、男と女はおもしろい。そもそも母が暇に任せて、祖母の系統などに関心を持たなければ、同行した父が母の遠縁にあたるナッティに出会うことはなかっただろう。あれは三年前のことだった。父はめったに取れない休暇の旅行で、フランクフルトまで出迎えた僕と同じ歳のナッティに恋をしてしまったのだ。確かにナッティは、父にとっては新鮮だったのだろう。アルヘンティーノにとっては珍しいプラチナヘアーに、彼女が堆肥でキャベツを作っていること、そして彼女が素手でつまみあげた大きなミミズ…父のものといい勝負だった。
「オリバー、あなたがナッティを好きになったなら分かるわ。いや、あなたでも許さないわ、あんな雀斑だらけのキャベツ女」
 僕は母の愚痴にはつきあったが、心底からは同情していなかった。母は母でライアンの支店長との密会が見つかっていないと思っている。誰でも知っていることだが、ライアンはニューヨークに本社を置く派手な興行主もどきの食肉会社だ。母と懇ろになっている今の支店長ドナルド・リャンは、エンパナーダ(牛肉入りのお焼)用のアンガス牛の開拓で有名になった。そして彼の弟フランクが、海軍情報局のリャン大佐、僕の上官ときたのが運の尽きだったのかもしれない。
 フランク・リャン大佐は四十歳そこそこの中華系だが、安穏とした軍部での評価はかなりのものがあったようだ。特に時代錯誤ばりの盗聴をやり玉に挙げられていた情報収集。そしてバスク語までを含めた三十カ国語をこなす語学力。しかし海軍を遠目に見る世間一般からは奇人変人の類いに見られることがあった。フォークランド周辺の現況について、父と僕が珍しく意見交換していたときである。
「友人だし、お前の上官だから、あまり話の種にしたくないんだが、ついでに聞いてくれ。ずっと我慢していたんだろうな、あれは。夢中になって話しているから時間の経つのも忘れていたんだろうな、あっちを。フランキーの隣りにいた保安局長が慌てて、こんなふうに仰け反りながら小声で指摘したんだよ。何がって、彼が小便を漏らしていることをね。するとだ、彼は眉毛ひとつ動かさず、片手を払うようにあげて、しっかり英海軍の船舶について喋り続けていたんだ。あれには驚いたよ」
 父の酒につきあいながら笑っていた僕だったが、二週間ほどしてから小便大佐(若かりし父は入隊してリャン大佐と同室だったので、早くからフランク・リャンの失禁を見分しているらしい)直々に呼ばれて特命を突きつけられた。まさかコゥロギの息子の自分が、父から戯言のように聞かされていた小便大佐の直属になるとは思いもしなかった。黴臭い下水道のような庁舎地下の最深で、何系何人とはとても推測し難いリャン大佐が待っていた。
「なるほど、コゥロギの子はコゥロギの子らしい。随分とやんちゃ坊主だと聞いていたが、そうか、もう二十八歳になったのか。逃げ出すにしても、つまり除隊してマラドーナの真似をするにしても、笑い者になる歳だな」
 僕は今になって確信している、笑い者になろうが小便大佐の前から逃げ出すべきだったのだと。
「ウマワカ渓谷の方へ行ったことがあるかい。ないだろうな。フフイ州はティルカラ村にだね、今回の特別な任務のために特殊な訓練施設を設けてもらった。明日からそこへ行ってもらう。今宵はツトムとロミー、両親との時間を大事にしなさい」

 颯爽と軍用ヘリコプターで正午ごろには渓谷を眼下にするはずだったのだが、プルママルカ村の七色の丘の観光客救難に横取りされて、列車を乗り継いでマイクロバスにごとごと運ばれ着いたのは翌々日の早朝だった。暗闇の山麓ときては景観も何もあったもんじゃないから腹を括った。仲間もいる。ジル・ティツィアーノという巨乳で近眼のヒキガエルのような女と、パブロ・カサーレスという車椅子に乗った半病人のような色白男。この二人とティルカラ村の袋小路の訓練施設に向かった。そこそこ広範なドーム前で警備兵に敬礼される。選ばれし者ぶって敬礼して中へ入って照明が照らし出したのはプロペラ機やキャタピラーが外された装甲車がずらり。どうやら近隣国から買い取ったか拝借したかといったものばかりだが、格納庫であれ村の博物館であれ飛行機好きな僕は目を見張る。エンブラエルの複座型のスーパーツカノを前にして僕は軽薄に言ってしまった。
「いいねぇ、これが任務の報酬なら喜んで特命とやらを承りましょう」
 にこやかに出迎えいただいた厚化粧のマリア・ヴァカ中佐は、僕の軽口も車椅子の車輪の汚れを気にしているパブロも無視して、汗まみれのジルの手を取ってひらひらと指を三本立てた。
「ようこそ、選ばれし皆さん。コゥロギ大佐のご子息である大尉、プリンストンも欲しがった頭脳のカサーレス、そして、あたしが家系血筋を追いに追って見つけたジル、いきなりだけれど、ジル、あなたの訓練教官はあたし。皆さん、まずは喉を潤しなさいな。ああ、大尉、そのブラジル製の飛行機、あなたがその気なら夢じゃなくてよ」
 僕は怪しい炭酸飲料のグラスを受け取って子供のようにそっぽを向いた。
「あなた方期待の三人に発せられる特命。それは祖国アルゼンチンの国名を冠する有名な三つのもの、いいかしら、アルゼンチン・タンゴ、アルゼンチン・デフォルト、そしてアルゼンチン蟻」
「当時のデフォルトについて分析しなおして…」とパブロが僕よりも露骨にそっぽを向いて吐き捨てるように言った。「ここへ来る前に聞きましたが、当時のデフォルトについて分析しなおして、それからどうするのです。まさか、祖国の経済をデフォルト遥か以前のカルナバル当時にまで建て直せとか?」
「特命よ。そんなありふれて大それたようなことじゃないわ」
「大それた特命じゃないのですか」
「あなたたちが手を下すのよ。やがて美しく花開いたジルのタンゴが、地中海の男たちを虜にする。すると、天才数学者パブロ・カサーレスは、地中海の不労諸国にデフォルトの種を花のそれのように蒔くわけね」
 するとだな、磨き上げられたスーパーツカノを横に見て、僕に与えられる特命は、なんだって蟻なんだよ!

「どうしてコゥロギ大佐の長男である大尉の自分が蟻と向き合うのか、といった遣り切れない顔をしているよ」
 そう言って下手なリノリウム貼りの小部屋に現れたのは、案の定フランク・リャン、小便大佐だった。
「天才数学者だっていうパブロが言ってました」と僕にも意地があるところで睨みつけた。「ここへ来る前からアルゼンチン・デフォルトについて分析することを聞いてきたと。子供じみたことを伺いますが、事前の扱いが違うのは…彼がパブロ・カサーレスだからですか?」
 小便大佐は日本人の父が戸惑ったような、肖像画の毛沢東があきれ果てたような、何とも見えぬ読めぬモンゴロイドらしい表情で座った。
「考えられることは二つ。一つは担当教官として招聘したMITのライゼンボリ教授がおしゃべりなのでパブロに漏らしてしまったということ。もう一つは、今回の特命が海軍情報局の作戦の一環にあるということを認識していない、無理もないがね、彼程度の三流数学者なら。一流だったら、それこそMITあたりに招聘されていて、海軍のこんな服を着て不貞腐れていない」
「つまり、彼が言っていたようなデフォルトの分析じゃないということですか?」
「さあね、デフォルトにしてもタンゴにしても、期待していたようなお気楽な使命じゃないってことは言えるね。そう、言えることはひとつ、一人一人がアルヘンティーノとして対外的に誇れる武器となってもらう」
 僕は軽い眩暈を感じながら椅子のへりを握って持ちこたえた。
「アルゼンチン蟻、コードネームをツトムから教えてもらった日本語の蟻酸のギ、アルファベットのGIとしよう。さて、GIとは、というところから行こうか。ざっと簡単に言えば、アリ科カタアリ亜科アルゼンチンアリ属に分類されるらしい。有名というか、悪名高いのは侵略的外来種のワースト100に早くから選定されているからで、諸外国では堂々とアルゼチンの名を冠して特定外来生物にも指定されている。そもそも雑食性の非常に攻撃的な種で、他の蟻と違う特性はね、一つのコロニーに多数の女王アリが存在するということ、よって駆除や根絶が容易ではなく、生態系を破壊するため世界的に問題視されている、それがGIだ」
 僕は今でも子供のように恨めしく思っている、ブエノスアイレスの郊外でGIの模式標本を採集して勝手にアルゼンチンアリ属などと分類したドイツの昆虫学者を。
「体つきこそ小さいが攻撃性が強くて繁殖力も旺盛なので、侵入した地域における土着のアリを根絶やしにしてしまう。例えばだね、カリフォルニアでは土着のアリを捕食していたトカゲの一種の個体数が著しく減少してしまった」
「なるほど」とは露にも思わず僕は頷いた。「また子供じみたことを伺いますが、そのGIをですね、例えばフォークランド島に持ち込んだにしてもですよ、あそこの土着のアリを食べてきたトカゲがちょっと困るだけですよね?」
 小便大佐は窓辺に向いて彼方を見る毛沢東のように嘆息を吐いた。
「それこそ子供じみたことばかり言っていないで、いいかい、ざっと簡単に言えばだね、GIはエアコンや通信ケーブル、そして電気機器などに侵入して誤作動や故障を引き起こすことが確認されているんだよ。これだよ、これこれ」
 僕だって正気の沙汰とは思えない予感は沸々と持ち始めていた。
「ということで、昼休憩をいれた後、十三時から人間生活に及ぼす生物兵器としてのGIについて具体的に説明しよう」
 小便大佐はまたも彼方を見る毛沢東のような顔のまま背後のキャビネットを小突いた。
「この中には入ってるプロジェクターをセットしておいてくれたまえ」
 僕は茫然と明るい窓辺を横目で見やった。そこには本当に子供だった頃にTVで感動していたウマワカ渓谷の陽光があった。
「ここの窓はブラインドを下ろせるのですか?」
「やっと気が利いたことを言ってくれたね。装甲車に被せているシートでも張っておいてくれ」

 僕は背後にアンデスを意識しながらアトランティックに浮かぶ船舶をずっと見て育ってきた。
 世界は三角巾のような天蓋、南半球のブエノスアイレスから北半球のマラガとニューヨークを結ぶアメーバ状の三角巾を想っていた。壮大で美しくてやりたい放題の青い海原が無知な僕の前に煌びやかにある。それもつかの間、こうやって書いていても、僕がスペイン語を話すという宿命ゆえか、幼い頃から背後の赤茶けた山塊や丘陵を意識していた実感がある。ニューヨークの次にマラガが迎えてくれて、港湾のロマンティックを嘲笑うコンキスタドールの赤茶けた大地の噴煙を見たような気がした。真正面に広がっていた豊かさは虚妄なのか、と思うことによって自分に大人の苦みが分かったような気が擦過した。その背後のアンデスが、父親に倣った二十八歳の僕の目の前に確かにある。苦味はすでに僕のものになっている。ウマワカの渓谷を望んで甘味さえ感じている。アンデスを越えて旋回しアルゼンチンの大地を眼下に置くこと、それが僕に残された特命なのだ。
 僕は渓谷にかかる夕陽に目を細めながらレポートを丸めて胸ポケットに押し込んだ。
「大尉、メランコリーって感じね。もうとっくに脱走したのかと思ったら」と言って紫色のレオタード姿のジルが背後からポケットへ手を伸ばした。「なにこれ?難しそう。ヒートポンプとガソリンポンプに対するGIの経路…交通信号と進入灯に関するGIの…頑張ってるじゃない」
 僕は立ち上がってジルの汗ばんだ手からレポートを奪い取って赤い唇を見下した。
「パブロが言ってたわよ、あいつは毎日、蟻のまる焦げをカップいっぱい作ってるって」
「おまえが瘦せたのには驚いてるよ。脱走しなくてよかったな」
 ジルは鎖骨の下の汗染みに指をのせて目尻をぐにゃりと下げた。
「あと半年はいたいの、コゥロギ大尉好みの女になるために」
「半年って…あのヴァカの小母さんがそんなに待ってくれるのかな」
 ジルはいくらか酸い匂いのする指を僕の首にわらわらと絡めてきた。
「彼女は糖尿病で、今のあたしの食べっぷりと脚力に惚れ惚れしているわ。もう特命も何もあったもんじゃない。あの婆さんはあたしだけが生き甲斐なのよ」
「パブロのことはどうするんだ。数学者はこの手のサーヴィスに参っているんだろう」
 ジルは一瞬息を吞んで目を見張り、それこそ夕陽の茜色が映える狂喜の哄笑を鳴り響かせた。
「ああ可笑しい。あたしだって女よ、まともで残酷なチーカChicaなのよ。コゥロギ大尉が望むなら、パブロの口に焼け焦げたカップいっぱいの蟻を押し込んでやるわ」
 僕は負けじと笑いながら彼女の肩を抱いて、奥で鈍く光っているスーパーツカノを指して囁くように言った。
「おまえもパブロも随分と素直なんだな。いいか、欲しいのはおまえと、あれを飛ばす燃料だと言ったら、おまえはヴァカの小母さんを説得できるかい?」

                                       了
奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)

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  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2018/06/08
  • メディア: 文庫



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