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吉草   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 昭和四年四月七日、京都府警察部の小野利彦(おの・としひこ)巡査長は、父方の遠戚にあたる米と海産物を商う伊根屋の娘、水谷竜子(みずたに・たつこ)と慎ましく挙式を挙げた。もとより竜子の亡父の遺言のままに許婚の契りを交して以来、傍目から見れば夫婦そのままに寝食を共にしていた二人ではあった。
 挙式の十日後の四月十六日のことである。全国的な共産党員の一斉検挙が発令されて、府警巡査長の利彦も飽くほど尋ねている京都帝国大学の構内にいた。散り残った桜の小樹の花弁をぼんやり眺めていると、さらに悠長そうな下駄音を転がして義弟の浩三(こうぞう)がふわりと近寄ってきた。
「兄さん、またナップ(NAP)の追っかけでっか?」
 農学部の二回生になった浩三は随分と胡散臭い髭面になっていた。
「その前にや、目の前の弟は、犬蓼の精とか、実験犬の霊とかと違いますやろな」
 利彦は一尺ほど離れながら義弟の背中の方へまわり込んで苦笑した。
「またそれでっか、兄さんも辛気臭い言うか、京都のお巡りはんらしい言うか…」
「ナップのこつは特高のお偉いさん任せやけどな、わしに化けおった奴、あれはあれっきりやしな」
 浩三は顎鬚の奥で小さく笑いながら義兄の制服の左袖を摘んだ。
「大丈夫やて、称念寺はんでの毎月の厄払い、ほんで姉さんの梅酢、王水のように効いてますんやろ?こうして大事なお巡りはんの制服も見つかったことやし」
「何や、オウスイて?」
「濃塩酸、ほんで濃硝酸、これを三対一で混ぜた王様の水や。人間でも金でも、何でも溶かすんやで」
 利彦は怖ろしい液体が口中から下っていくのを想像して嗚咽をもよおした。義弟はそれを見て子供っぽい哄笑を響かせる。こいつの頭の中には理屈と怨霊、あるいは科学と変異、つまり日常と非日常の垣根ないし分別がないのだろうか?去年の秋の犬蓼騒動を、水谷家の一夜の夢として片づけているのだろうか?確かにそう錯覚させるように、あれから赤まんま(犬蓼)を口に溢れさせた殺人事件は起きていない。そして利彦の畏れ多い制服一式も、長浜の教師が研修とかで入洛した際に届けくれたのだった。
「確かにあれから奇態な殺しは聞かんが…」
 浩三は頷くともなく経済学部の棟がある方を顎でしゃくって言った。
「ナップとか共産党とか、なんや舶来品もどきの思想いうは、京の風土いうか、千年の血水が育んだ草木には…やっぱ嫌われるんとちゃうかな」
「なんや、いっきなり農学部らしいこつ言いよって…あちゃぁ、またあの坊主や」
 利彦はそれこそナップもどきが巡査に遭遇したように仰け反った。校門を隠すように浩三と背丈が居並ぶ大きい頑健一式の男子が立っている。この大木のような少年が二十年先まで水谷家の膂力となってくれるとは、未だ青年になりきれていない京大二回生の浩三には知る由もなかった。
「どないしたん?本官がここにおるてよう分かったな」
 利彦は己の「本官」づかいに些か照れながら紹介した。
「このボンは金光実道(かねみつ・さねみち)、こんなん大きゅうてもな、まだ尋常小学校で来年は浩ちゃんと同じ第一中学を目指しておるんやで」 
「小野巡査長殿、叡山を一周してきました。父が言うには、えーと、一斉検挙が発令されたよって…小野巡査長殿も、えーと、帝国大学の方に…とか言うて」
 浩三はその甲高い声変わりしていない言い回しに思わず後退ってしまった。
「君の御父上はなんでもお見通しやさかいな。こちらの兄さんはな、水谷浩三君、ええか、ここ京都帝国大学の農学部の二回生で、わしの義理の弟にあたるんや」
「金光彫金の金光実道いいます。小野巡査長殿からは、えーと、科学の知識をもって、その…お、怨霊を退治されたと」
 浩三は炊きあげられた飛竜頭の中身を探るように少年の唇に目を細めた。
「金光さんとこに呼ばれたときにな、酒の勢いでな、犬蓼を追い払ったのは浩ちゃんや言うてもったんや。金光彫金いうたら知らんかいな、こん子はぽっちりを作っとはる彫金師の金光弘道さんのお孫さんや。ほんで御父上はわしの剣道部の先輩なんや」
「明日も叡山を一周します。ほんで…えーと、今後とも駅伝の御指南よろしゅうお願いします」
「無理せんとな、雨の冷たい日は休むことも精進やで。先輩がな、わしの剣道よりもわしの駅伝の走りを褒めちぎるさかい、こん子も大人になったら駅伝を走って、京都か大阪の巡査になるよって…なんや?」
 少年は浩三なんぞよりは早そうな両脚をもじもじさせて腹巻から包みを引き出した。
「父が…えーと、駅伝の御指南の御礼とか…こちらのぽっちりの招待券を…」
 巡査長が包みを受け取って開くと今次重宝、なんと金券のような招待券には昨日、大々的に開店された大阪梅田の阪急百貨店の文字があった。

 姉の竜子にとっては二年ぶりの阪急電車だった。滅多に洛中を出ない伊根屋の御新造さんにして、京都府警巡査の新妻であればさもありなん。それでも古の都にあっても、いや古の都にあるからこそ、二十代の若妻なれば流行り廃りは春夏秋冬の肌合いのごとく敏にして捷たる。大阪の梅田に阪急が百貨店なる大店舗を建ておった!そこまでなら京女らしく大山崎の方角をチラ見するくらいだったが、夫利彦のごつい手で何やらの招待券を渡されて「昼はその辺で済ませるよって浩ちゃんと行っておいで」ときたからには稚気朦朧となった。旅は乗り物、阪急百貨店へ水谷姉弟をお連れするは当然、阪急電車と相成った。
「ぽっちりか、帯留めがぽっちり言うのを忘れておったわ」
「そやな、あてはお母はんから形見にいうてもろうたのがあるけどな、あんたは本ばかり読んではる京大生やさかい…まだ枚方あたりかいな、眠とうなってきたわ」
 浩三は内心は緊張が高まってきている姉の白々とした顔を見ながら懐を確かめた。招待券をよくよく隈なく読むと、どうやら店舗内でも高級品を扱う一角を当然ながら監視十分にして美術館扱い同様にしている由、金光彫金直々のご招待なれば慇懃に納得するしかなかった。
「姉さんがお母はんから貰ろたそん帯留め、そんぽっちり言う帯留めは、やっぱ花とか虫とかあしらった物なん?」
「あてのは蘭、蘭に黄金虫や。螺鈿いうの知ってるやろ、螺鈿で白蘭に仕上げて、ほんまに純金やないか思うような、ぴっかぴっかの銅の黄金虫が縋りついとるんや」
「そない豪勢なら大阪には付けていけんわな。例えばやで、赤まんま、犬蓼なんぞをあしらったぽっちりがあったら笑うてしまうな」
「阿呆、そんなんあるかいな」
 大旅行気分が苛々と増幅してきた頃に梅田へ到着した。改札を出たら粋な京女の姉を老婆の手を引くように浩三は先導しなければならない。気合十分な下駄でホームを踏んだ瞬間だった。背後の竜子をど突くような怒声があがる。降車する誰もが振り返った。その満場の注目の海原を鰹か鰆が突っ切らんばかりに、凛とした紺のブレザーが丹前や褞袍を小突き分け行こうとしている。ニキビが残るおかっぱ頭の先争いと見て余裕をもって苦笑する男衆。それもつかの間、少女が掲げる右手の注射器を見ては狂乱の後退り。注射針から飛ぶ白濁した飛沫。勝手に誰かが硫酸雨の恐怖を想ってか、誰もが右へ左へ連鎖して逃げ惑う。ホームは逃げたい見たい止まりたいの大混乱となった。がしかし、そこは謹厳なる昭和、阪急の駅員の剛の者は細腕を掴みあげて抑え込む。ほっと安堵の野次馬も気がつけば将棋倒しに大いに関わっている。浩三は避けた誰彼のあおりを喰らって倒れた姉へ駆け寄った。腕を引き起こされた竜子の呆然とした一言は流石と言えた。
「あん子は、あんバッジは同志社や、同志社女学校や」
 大阪はこれだから云々と興奮そのままに姉弟は百貨店へ吸い込まれていった。竜子はやはり着物の左袖の磨れ汚れが気になって品揃えに集中できない。言わずもがな小心にして傷心を拭えぬ浩三は姉について彷徨するだけの京大生。金光彫金の触れること御法度の帯留めを鑑賞しながらも、遠くで聞こえる幼児の声や大阪マダムのそれが敏感に耳骨に架かってしまう。七階の大食堂で何やら洋食めいたものを戴く予定も、盛況ゆえ待ち列に並ぶよう示唆されるとこれ幸いに断念した。兎にも角にも、百貨店の梅田の大阪の人混みから退散しようや。
「姉さん…同志社女学校て言うたな?」
「あんバッジはな。あての友だち、黒谷の光明寺の娘なんやけど、えろうハイカラさんで同志社女学校に行っておったんや。嫌っちゅうほど見せられたわ。ほんでな、あの注射器の液は硫酸なん?」
「どこから硫酸が出てくるんや、江戸川乱歩やあるまいし」

 昭和四年四月二十五日正午前頃に発生した阪急線梅田駅での事件は、○日新聞の「白昼のヒロポン中毒者の醜態か」があれよあれよと確信情報となっていった。少女は尼崎出身で同志社女学校に籍を置き女子寮でも品行方正の鏡のような十九歳。週末の実家帰省の折に評判の百貨店へ立ち寄ろうとした大いに頷ける乙女心。さりとて注射器所持とはいただけない。巷の有象無象なる男どもは、モノノケに口を吸われるよりは女学生に注射されたいなどと狒々笑い。
 奈良橋譲(ならはし・ゆずる)は○日新聞のそんな三面記事を破るように浩三へ押し付けた。本年から農学部助手になった擦れ違う女子が振り返る好男子である。しかしながら漢方の効果を追及している身なれば、長い睫を瞬かせているのは市中街路になくて草木鬱蒼たる山中にあること度々である。よって植物ホルモンについての質問攻めから知り合った伊根屋の倅、水谷浩三を連れて散策することも度々あった。
 浩三は新聞をチラ見してから朝露が残る倒木へ敷いた。
「座ってくんなはれ、ヒロポン中毒の女の上に」
「○日も面白おかしくへ落ちてるわけや。帝国に憂いなしやな」
 奈良橋はそう言って苦笑しながら股引の膝を叩いて座ると、いつものように欧州の動向面に近眼視をすり寄せた。浩三も右に倣えとばかりに股引の膝を叩いて座った。
 京都大学農学部助手と同学部二回生が薄ら寒そうに肩を寄せ合っている倒木は、伊吹山の表登山道の三合目あたりである。眼前には春霞がかかっていて絶景を楽しむには修行僧のように辛抱しなければならない。一昨年の昭和二年には世界山岳気象観測史上一位となる十一・八二mの豪雪が観測された山ゆえに、この年の来月、五月一日には国営の気象庁付属伊吹山測候所が開設されることが公に通知されていた。もっとも二人が目指しているのは山頂ではなく、目的の春女郎花(ハルオミナエシ)、一般には鹿の子草で知られる漢名、吉草が群れる北尾根の方角だった。
 うら若い二回生は早速、手持無沙汰になって、大先輩の助手を牽制するように大判の手帳をリュックから取り出して読み上げはじめた。
「吉草の根を細かく刻んだもの約五グラムに熱湯を注いで五分待ち服用のこと、適量は一日三回の飲用にとどめおき…多くの漢方薬に鎮静薬として配合されていて安全で中毒性はない。日本産の吉草は精油を多く含み品質が良いとされ、ドイツでは薬の他に菓子の香料の原料として好まれ輸出されている」
 奈良橋は苛々と頷きながらばっさりと新聞を畳んだ。
「ドイツでもどこでも菓子の香料どころじゃないわ。おそらく来年には甘松香(かんしょうこう)、つまり吉草なんぞ輸入している欧州の国はなくなるやろな」
 奈良橋は弾くように立って北尾根へ歩み出した。目の前の春霞こそは不況を覆い隠すような現況そのものではないか。彼には軍靴の音高らかなる予感がつきまとっていた。
 北尾根の斜面が白々と見えはじめると、やがて辺りは春女郎花、吉草の冠毛を有した淡紅色の小さな花弁に満たされていた。幕末の植物学者の飯沼慾斎(いいぬま・よくさい)の草木図説(そうもくずせつ)には「カノコソウ一名ハルオミナエシ。伊吹山中多く自生す」という記述が残っている。北海道などでは輸出用に栽培されている薬草なれど、一般の登山者はただ単に春の吉草の群落を愛でて擦過すればよい。世相は婦女子にとって三合目以上の爽快な花畑のように与り知らぬものであるべきだった。
「女子?あれは女子ですわな?」
 浩三はある種の幽玄さをもった花園に人影を見出してしまった。絣の紋平の上は見たことのある紺のブレザーを着たおかっぱ頭の女子。何故か反射的に股引姿の自分を隠すべくうずくまった。
「何や、知っとる女子かぃ」と奈良橋が言い切らんままにその腕を掴み下ろした。
「大きい声出したらあきまへんて。あんブレザーと同じもんを梅田で見たんです。そや、先輩は見えますか、あんブレザーの胸のバッジ?」
「阿呆、あん子が女子か何かも分からんド近眼のわてに胸のバッジて…君も青春やら何やら真っ盛りなんやなぁ」
 浩三は縋るように並んでうずくまらせると、慌て口調の果ての失語症になっている自分を自覚した。奈良橋は駆け出しとはいえ科学者の端くれ故、興奮が治まるのを待つことにする。浩三は大人の観察力に感謝しながら呼吸を整えていった。そしてあの時の同志社女学校のブレザー姿に酷似した子への焦点をそのままに、梅田駅で姉弟が三面記事の事件に臨場した事の次第を話した。
「ほぉ、君も姉さんもえらい災難やったなぁ。ほんで、あん子の上着が同志社女学校のもん言うのか?」
「いや、似てるいうか、バッジがそれやったらそう思うんです」
「何を言うとんのや、このボンは。あん子がそん時の子や思うてんのかいな」
「いや、似てるいうか、おかっぱ頭の雰囲気が」
「まぁええわ。ええか、そん同志社の子がやで、本当に○日新聞が言うヒロポンの娘やったらやな、今頃のこのこ伊吹山などに来とるわけないやろ、あん紋平姿で」
 奈良橋はまた股引の膝を叩いてさも面倒そうに立ち上がった。そして背後のリュックを軽快に回し開いて、気取った観じで革袋から縁なし眼鏡を取り出しかける。女を数知らない少壮の学者はぎこちなくも偶々を装いながら近づいて行った。女子はさほど驚いた風もなく吉草の束を抱いて振り返る。奈良橋は己の素性を明かしてから「揮発油」とか「鎮静作用」とか本職らしく言い回しはじめた。そして彼が「セイヨウカノコソウ」に続いて「癲癇」とかの言葉を口にした途端、狼狽えるようにおかっぱ頭を揺らして尾根を下って行ってしまった。助手の奈良橋先生は脱兎を見送るように呆然としていた。

 浩三等が伊吹山を下りて電車を乗り継いで、大学の作業場まで吉草根の袋を携えて帰った頃には日が暮れていた。車中、奈良橋は生真面目ゆえに女学生に対する自分の言動に不手際があったのではと悶々。浩三はそもそも一女学生が自分たちと同様に吉草根を採集していた異常、それが言い過ぎならば、吉草根に対する執着と「癲癇」「心悸亢進」などの言に対する反応に不気味さを感じていた。
 日も暮れているとはいえ、伊根屋の暖簾を仕舞う丁稚の顔もどこか辛気臭い。浩三は達観したような学徒面を作って襟を正しながら聞いてみる。たとえ番頭の叱りや口止めが強硬でも、明朗で気が利く丁稚は浩三坊ちゃんにはさらりと話してしまう。しかし勝手ながら聞かぬが仏、今宵はつくづく裏口から部屋へ直行すべきだったと悔やむことになった。
「兄さん、大変やったな」
 浩三はこの時刻には珍しく丹前姿でお猪口を傾けていた義兄の前に胡坐をかいた。
「おう、浩ちゃん、今帰りか…あん坊主から聞いたか。まぁ、しゃあないわな。これで四本めや、飲むしかないて」
「付き合うわ。強くなってきたんやで、飲んべの教授や先輩が多いから。姉さん…」
 竜子は言うより早く茶碗と一升瓶を下げ持って廊下に現れていた。
「北前船が運びよったスルメでやりなはれ…わてもさっきまで付き合うておったんやけど…悪酔いしてしもうたんちゃうかな、お先に床に入らしてもらいます」
 水谷家にとって厄介な報せは主、利彦が昼食に帰ってきた正午過ぎにもたらされた。
 利彦が所属する東山警察署の釈(しゃく)署長から直々に呼び出されることは四度目で、三度目まで警察官として当然至極に誇らしい事件解決の功労を労った弁であった。そして三度目が「赤まんま事件」に対するそれである。猟奇的な殺人事件として洛中に広まった醜聞は、小野巡査の決死の追及捜査によって反政府勢力NAPの内部抗争つまりは内輪揉めという顛末に落ち着いた。実際に賊に対峙したのが本人と義弟の浩三ということもあって、劇薬に類する「植物ホルモン」を使用してのNAP内部抗争劇として公表される。利彦は巡査長に昇格するも警帽や制服を紛失したことの公言は家族共々、御法度と相成った。さても四度目の呼び出し、しかし日々の警らの隅々を浚ってもまったく思い当たる節がないまま署長室の扉をノックした。
「君も阪急電車の梅田駅での女学生の一件は知っとるわな。尼崎の子やけど同志社女学校に通っておるさかい、京都の我々も知らぬ存ぜぬ難波のこつは難波にてよろしゅう、とはいかんわな。その女学生が振り回しておった注射器、新聞が勝手にヒロポン中毒に仕立て上げてくれたんはそれはそれとして、大阪府警は注射器の成分を阪大の先生に分析してもろたそうや。何やったと思う?」
「自分には皆目見当がつきかねます」
「そうやろな、なんでもな、甘松香いう漢方薬の一種らしいんやわ。単独でそこそこの量を摂取してもな、麻薬類と違うて興奮するようなこつはまったく心配いらん言うわけや。お菓子の中にも平気で入っとるらしいんやわ。こないな子を引っ立てるわけにはいかんわな。ほんで無事放免されて、また同志社へお通いして青春を謳歌しとくんなはれ、となったところで君に来てもろうたんや」
「生来鈍感な自分には仰ることの先筋が見当つきかねます」
「そうやろな…ええか、大阪府警はな、この子に注射器と甘松香の入手経路を問いただしたんや。なんとな、梅田や尼崎やのうて、高瀬川の三条川端でな、男前の警察官から渡された言いよったんやて。写真で面通ししよか思うたら…東山警察署の小野巡査いう警察官でな、最初は四月七日の夜半で、それから三度ほど金曜日になると川端で待っててくれて渡してくれるんやて」
「四月七日は私事ながら称念寺にて挙式を挙げさせていただいた日であります」
「知っとる。わしと小谷警視正、あと何人かの同僚も、君が三々九度を拝してやな、それこそ夜半遅くまで飲んでおめでたい顔をしとったんはしかと見とる。大阪府警が言うこつはわしも阿呆臭くて笑いそうになったわ。公務執行妨害に加えて立派な官職侮辱罪や。しかしながらやで、大阪府警からの真剣な捜査依頼ということもあってな、女子の戯言やさかい一笑に付してもらえませんやろか、とも言えんわけや。ほんでな…今週と来週の金曜日に川端へ一人二人張らせよう思うとるんや」
 かくして明日より来週末までの十日間、小野巡査長は署長付きというかたちで謹慎扱いの内勤を命じられたのだった。
「そんだけやないで。ええか、これは竜子と浩ちゃん、身内の者にしか言えんこつや。釈署長はな、話の終わりに、声を潜められてやな、わてを手招くようにしはって耳打ちされたんや。明日から署内では耐えがたきを耐えてくれたらええんやけど、朝、うちを伊根屋を出て署へ入る、夕方、署を出てうちへ帰る、こん時間帯は間違いなく特高が見張っとる。しょうもない思うて寄り道とかしたらあかんで、と言わはってな。まぁ、何ちゅうか、署長の有り難いお骨折りや」
 浩三は一部始終を聞いて逃れられない不愉快がにじり寄ってくる予感をもった。それは利彦の公務にあっての遣りきれなさとか憤りへの同調ではない。本日の伊吹山での吉草根の採集と擦過した女学生。白昼の同じような時刻に義兄へ突きつけられた甘松香、吉草入りの注射器を梅田駅で振り回した女学生。誰が、何が、魑魅魍魎が仕組んだにせよ、またも水谷家が脅かされているということだった。
 浩三は姉、竜子が寝入っているかどうか廊下の方を窺ってから、スルメの足を食いちぎり一升瓶を引き寄せて、己が知る、そして己が悲観する吉草について話し始めた。

 浩三は些か不愛想に試験管を差し置いた。実験室で吉草根を煎じた湯から精油成分をできるだけ分離して鎮静成分を抽出したのである。自分が忌まわしくも関心を持ってしまった「植物ホルモン」とこの鎮静成分をどう関連づけるべきなのか。
「こら乱暴にすな。ここんとこずっと苛々しおって」
 奈良橋は教授に指示された講義用の構造式を大書きしながら眉をひそめた。
「今日は金曜日でっしゃろ~もう~赤まんま警官とか、鹿の子草巡査とか、勝手言う阿呆が出てきたら思うとやりきれませんわ」
「あんな、阿呆臭くて話す気にもなれんけどな、今日、三条川端の橋にな、義兄さんそっくりな偽警察官が現れよったらやで、それはそれで一件落着やないか」
「そうでんな、張りこんどる刑事さんたちが兄さんのそっくりぽんを一網打尽。そうなりますやろか」
「まぁ、張りこんどる刑事さんたちが昼間から一杯やっとらんことを願うしかないか。冗談や、大立ち回りも何も起きんて。特高に睨まれては叶わんさかい嫌味はほどほどにせんとあかんが、十中八九、同志社女学校の洒落た火遊びに振りまわされた京都府警、ちゅう落ちやろうな」
「わては…わては兄さんの辛気臭い顔を見飽きたんですわ」
「辛気臭いて、臭い言うな、義兄さんの名誉のためにも。ええか、分かったやろ、そもそも吉草酸の臭いはな、硫化水素や酪酸と同じ足の裏の臭いに近いんや」
 浩三は「足裏の臭い」という言葉にびくりと反応した。あれはじめじめした雨の日、義兄から制服を奪って自分の部屋に上がり込んできた奴、興奮すると義兄正真の顔が青黒く変容していって、何よりも洗われたことのない野良犬の肛門のような臭い。保護されたことがない奔放な臭いは、警察官に対する、取り締まる国家に対する、地下にあるべき野生の怨念の象徴なのか。奴はまた現れるはずだ。
 浩三は鞄から称念寺のお札を取り出して確と頷いた。そして奈良橋が凝視しながら後退する前を唸るようにして出て行った。

 吉田の理学部から三条川端までは、袴を履いていても若者の脱兎足なら三、四十分というところだが、怨霊の類が這い出して来るには日は高い。それならばと百万遍の方へ転じて同志社女学校へ向かった。警察は女子の戯言と一笑に付したいなどと大人紳士ぶった物言いをしているが、元より女学校へ野暮ったく乗り込むなんぞは到底できない相談なのだろう。まして同志社なれば蛮漢には敷居が高い。ここは帰りがけに妹のところへ立ち寄った京大生ふうに、義兄から聞いた梅田駅暴れ女子の仲道信枝(なかみち・のぶえ)をもう一度、拝めるものなら拝んで問いただしてみよう。
 浅葱色の欧風甍を見上げて暫く中庭に待たされた。しばらくして仲道信枝は用務員に先導されて堂々と現れた。
 あのおかっぱ頭に紺のブレザーに例のバッジである。あの時、たとえカエルの解剖中だったとしても、清楚な彼女に注射器や刃物は似合わないと思ってしまった。
「どちら様でしたでしょう」
「京都大学農学部二回生の水谷浩三いいます。自分は仲道さんにお会いするのは二度目です。最初は阪急の梅田駅構内でお会いしたいうか、失礼ながら仲道さんが取り押さえられた様子を見ています」
 百万遍の往来の車夫や女学生の賑わいが抑え込まれたように静まった。項垂れた彼女を見据える自分が何やら情けない。しかし巷はいざ知らず、我が水谷家が迷惑の渦中にあることを腑の中心に置かなければならない。
「そうどすか、あんときおいでやしたんか…○日新聞贔屓の文学部や経済学部の方でしたら面白可笑しく話せますけどな」
 浩三に輝かんばかりの雌犬を押さえ込む覚悟が一気に沸いた。
「自分の義理の兄が、東山警察署の小野利彦巡査長なんですわ」
 信枝はまた項垂れて辺りを怯ませた。そしてこちらの男性を認めよとばかりの微笑をもって顔を上げた。
「そうどすか~なるほど、女子の頭でもなんや分かってきましたわ」
「ええか、大人を揶揄うて、官憲を揶揄うて、痛い目を見るんはそっちやで」
「そうどすか~痛い目見るん言わはっても…今日はわてやなくて、妹が行くこつなってます、三条川端の小橋へは」
「妹?」
 信枝は来客を伝えに来た用務員の老爺に悠々と頷いてから歌うように言った。
「わてもお兄さんにお会いしとう思ってましたんどすけど、妹が『なんやお巡りさんらしい人が番犬らしくあちこちよって、もう仕舞いにしようや』言うてましてな。そや、もうそろそろ御対面とちゃいますか」
「兄はな、あんた等の狂言に振りまわされた警察署から内勤処分を言い渡されておってな、こん真っ昼間から一歩も外出なんぞできんわ」
「そうどすか~なんや妹は巡査長にお会いしとうてな、最初で最後の金曜日になりますよってお手紙したためておりましたわ」
「今のうちにな、手紙や請求書を送られてもな、全部、特高さんやらがお調べなんや」
 信枝はいかにも息を吞んだかのように口許を抑えてから呵々大笑を響かせた。
「お、お手紙いうてもな、ラブレターちゃいますねんで。郵便やなしにな、丁稚さんに直にお願いした言うてましたで、急ぎ東山警察署の小野巡査長へ手渡しでと」
「阿呆か!あんた等の狂言に乗せられてのこのこ川端まで行く兄さんやないわ」
「そうどすか~お手紙を書かはったんが水谷浩三さんでもでっか?」
 浩三は瞬間、憤怒に駆られてブレザーの襟元を鷲掴んでしまった。怯んでいた辺りから見よがしに悲鳴があがる。目の前の女の皮を被ったこいつ等は何をする気なのか。そしてブレザーの襟の女学生らしい芳香を抜って、女は野良犬の陰部のような臭いをもって言い渡した。
「怖いわ~殿方は怖いわ~これやから手紙と一緒にお父はんの形見をお預けしてよかった思うてます」
 浩三は掴んでいた襟元を放して己の手を嗅ぎながら後退った。
「形見?」
「お父はんの形見どす。わてのお父はんが大事にしてはった拳銃どす」
「ケ、拳銃?」
「そうどす。南部十四年式拳銃どす。どうか、お身内同士、殿方らしゅう華々しゅう戦うて、立派にお果てになってくれやし」

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