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喜鵲的意見   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 改札を抜けると張候啓(チャン・シャオシェン)らしい青年が待っているはずだった。「らしい」という曖昧な表現は、初の顔合わせゆえ致し方ない。支社が違うとはいえ、同じ商社の同じ事業部傘下なのだから、顔写真の一枚でも互いの携帯電話に送れなかった訳でもない。どうも端から疑心暗鬼な接触は、軽快に事を運ばせなかったようである。
 そんな一彰の不快も、駅前に開けた日生港の迎えるような渚ぶりに、朗々とどこかへ発散していくようだった。水また水の海原の囁きが聞こえる。左の土産物屋に「小豆島行きフェリーのりば」の看板が見える。折りも折、この場の色は波の紺青と白雲に極まると言わんばかりに、瀬戸内観光汽船の第三ひなせ丸が到着したところだった。日生で会おうとはよく言ってくれたものだ、と気分が爽快へ転じて一彰は苦笑せざるをえなかった。
 妻と娘にPicaピーカと呼ばれている一彰も三十三歳になっていた。総合商社オクト・ワグネルの水理事業部、堺にある日本支社へ転勤してきて八か月が過ぎていた。しかし帰国した感慨はあまりない。
 一彰は音楽家である義父に母共々つき従って、多感な時期をリンツとウィーンで過ごした。そして在学中からウィーンで務めはじめて、今もリンツに妻子を置いてきている。仕事熱心という以上に、上下水道の整備開発には天命のような啓示を感じてきた。それは柳川の水路に親しんだ少年時代からのものだった。異邦にあってもドナウの水流に目を細めていれば、柳川の布袋葵と自慢の大島紬を着て倉敷の堀端で微笑んでいる母の姿が、陽の変容に沿って流れていくのだった。
 堺へ転勤してから半年、ドイツ語のメールを妻ニネッタへ送りながら、日本での些かの慌ただしさにも慣れてきた実感のあるピーカだった。
 杭州の中国支社に勤務する候啓(こうけい)こと張候啓から、不意に連絡をもらったのはそんな春先だった。日本語にきちんと変換したのか、元来の流暢な日本語をそのまま送ってきたのか、いずれにせよ一彰をして幻惑な眼差しを窓辺へ向けさせた。

一〇年三月×日
 水理事業部 日本支社  野村一彰様
 私は同水理事業部の中国支社に勤務いたします張候啓と申します。社内間の電子郵件とはいえ、突然の不躾な郵件を平にご容赦ください。事業部における野村先輩のご活躍はかねてからお聞きしていました。昨年から日本支社へご栄転されてご多忙とは存じあげながら、日本語を専攻して日頃から日本支社と接している私としましては、早速にご挨拶申し上げて、是非ともご面識を持っていただける機会を願っておりました。そして唐突を重ねる無礼な中国人社員の後輩を許して頂けるのなら、私が三月に出張した倉敷での仕事について、何卒ご教示ご鞭撻いただきたく存じます。先輩が長年取り組まれていらっしゃる排水用の浸漬型膜分離装置は……
 
 一読して慇懃な文面の中に小気味良い中国人の後輩を想像させられた。
「電子郵件か…片仮名を知らんのか、それとも…」
 しかし次に候啓から受信した郵件ならぬメールを悠長に開封して仰天してしまった。

一〇年四月×日
 ……先輩は備前出身の小松原亜紀、という女性をご記憶でしょうか。彼女は一昨年まで倉敷にある作陽大学、音楽学科、打楽器専修に席を置いていて、現在は日生中学校の音楽教師の職にあります。私が亜紀さんと面識を持ちましたのは、倉敷のホテルで行われたK社環境事業部主催の浙江省との懇親パーティのときです。私が社名と水理事業部を口にした途端に、彼女は『そこのウィーンの野村さんという三十くらいの人を知っています。インターナショナルな仕事も大変ですね。たしか下水屋さんですよね。でも野村さんは、下水と関係なく、マオリ族のジョージに親身につきあっていて、いい人だなと思いました』と懐かしそうに先輩のことを語りだしたので、私は中国的に正しい使い方の、青天の霹靂を感じました。私は彼女と先輩のご関係を詳しく伺おうと思いました。彼女曰く『話しても理解してもらえないと思います』と断言しました。そこで私は、私が中国人だから理解できないと思っているのですか、と正面から問いました。彼女曰く『すでに亡くなっているマオリ族の青年の霊と、すでに亡くなっている日本人の少女の霊、この二つの霊を結婚させようという話をどう思いますか』と問い返してきました。私が驚いて即答できずにいると、彼女にっこり曰く『今言ったことは忘れてください』と美しい長い髪をかきあげました。私は思わず彼女の白い腕に手をかけてしまって、中国人も霊魂のことは大事に思っていて、子供のころから黄大仙廟に参拝に行って……
 
 商社マンの堅実そうなメールは、気がつくと恋する香港青年のばたばたした郵件になっていた。確かにインターナショナルな仕事は大変だが、恋と冒険を勝手に身近に感じ取れることは否めない。とどのつまり同僚後輩である張候啓は、どうやら教師になったらしい小松原亜紀と出張先で遭遇して恋に落ちたようだ。そして仕事はさて置いて、先輩一彰に是非とも助力を賜りたく会ってほしい主旨である。それほど暇ではないという普段の感覚から断りの返信を送ろうとした。しかし一彰の半生において、人助けや難儀に関わることになるときには、必ずといってよいほど母一人子一人の倉敷の母が、まさしく字義どおり神妙な啓示とも警告とも取れる電話をしてくるのだった。
「…天津神社の可愛い猫みたいな寅、その寅年の虎が枕元に立ったのよ。天津神社っちゅうんは、備前焼を並べた参道のさきぃあって…そねぃなことより、その虎が凄いことを言うてきて『人種や民族や宗派を越えて、一心博愛を受け入れてくださるとお聞きしまして、なんとぞ、未来の大中国の柱となる人材を助けとっただきたい』っちゅうことなのよ。なんじゃけど、倉敷に来とる中国人らしいけれど、お母さんはお父さんの関東ツアーに同行せんとならんし……」
 ともあれ一彰は日生へ向かうことにした。山村の福建人を両親に持つという張候啓。車中にあっては純情そうな中国人の顔を想っていた。そして日生港を前に何度も辺りを見まわしてみると、四か国語に通じている香港人らしい算術顔の候啓が想像されて、揺籃するような頭を振って嘆息を吐くしかなかった。
「すぅみぃませ~ん、野村さ~ん、すみません、ここです」
 第三ひなせ丸のタラップで羽ばたくように手を振っている男の声だった。いわゆる人の良さそうな艶々した南人顔のぽっちゃり青年。呼応するように微笑んでしまったが、こちらの顔を調べて知っていたのなら、自分の顔写真くらい送ってきて然るべきだろう。しかも駅改札で待ち合わせようと言った本人が、夏の行楽を告げるようなフェリーから颯爽とお出ましときた。一彰はフェリーに向いていた踵を止めて頬を強張らせた。
「すみません、張候啓です。三年目の社員です。申し訳ありませんでした。言い訳になりますが、昨夜寝ていなかったものですから、船の中で眠ってしまって…」
 ひしゃげた薄い眉に汗を溜めていかにも済まなそうには見える。やはり想像していたとおり背は自分の肩ほどしかなかったので、一彰は鳳凰が威嚇する心地で彼の頭越しにフェリーを指差した。
「あれに乗ってどこへ行ってきたのか知らないが、駅で出迎えると言ったのは君の方だろう。同じ事業部でメールもやり取りしているから気楽な気持ちで来たからいいけれど…まあ、顧客相手には的確に応対していると信じているよ」
 候啓はジャスミン臭を湧き上げるように反り返って敬礼した。
「やめなさい、軍隊じゃないんだから。そうか、何かチームスポーツをやっていたんだな」
「はい、香港のサッカーチーム上環海驢隊では10番をつけていました」
「10番っていうのはエースナンバーだろ、そんなスポーツマンで、もてそうな君がどうして小松原さんのような…」
「もてません。いまだ独身です」
「それはともかく…小松原さんも、もう今は立派な教師になったのだろうけれど…ちょっと変わっている、つまりエキセントリックな女性だろう?」
 候啓は頷きかけながら奥二重の眼を泳がせて横っ腹を叩いた。
「食事はまだですよね。私も昨夜から小豆島で何も食べていないものですから、はい、とても空腹です」
「ゆうべから小豆島?それでフェリーからご登場となったわけか…何をしていたんだ?」
「昨日、中学校の休日出勤していた教師から得た情報なのですが、一昨日の金曜日に背の高い大きな男の人が亜紀さんを訪ねてきたそうです。それで、昨日は朝から二人で小豆島へ渡ると言っていた、という言葉を聞いて…気がついたら自分もあのフェリーに乗って小豆島へ向かっていました。あとは闇の雲ですか?ブラインドリィにアット・ランダムに行方を捜しました」
「驚いたね、なかなかの恋する熱血商社マンだ。そこまで彼女を好きになってしまったわけだな」
「好きです、食べることを忘れるほど。ところで野村先輩は、穴子のひつまぶし、お好きですか?大きなボウルに入ってきて美味しいですよ」
「ひつまぶしぃ?お好きっていうほどじゃないけれど、子供の頃に柳川で鰻のそういったのは食べたけれど…なるほど、へたな日本人よりも日本に詳しければ、日本のちょっと変わった女でも惚れてしまうわけだ」
 候啓はまた頷きかけながら一彰の手荷物を持とうとした。
「大丈夫、自分で持つよ」と言ってから一彰は候啓の肩に軽く手を置いた。「見る目がある、っていう日本語は当然知っているだろうが、無責任なまま、あえて言うよ。君は見る目がある。彼女は少々変わっているが、確かに素晴らしい女性だ」

 候啓は洗面器ほどもある朱塗りの丸櫃から三杯目をよそう手を止めた。
「先輩もお母さんと同じその…ユタ?霊媒師なのですか?」
「俺?」と一彰もかきこむ箸を止めて煎茶へ手を伸ばした。「俺はそのための修行もしてないから、本来は余計なことを口外できない、他人には言えない立場なんだ。ただ…その血は受け継いでいるらしくて、状況によっては、常人には見えない変なものが見える」
「変なものが見える、って今も何か見えるのですか?」
「状況によってはと言っただろ。匂いみたいなもので、例えばだな、君は自分では体から出るジャスミン茶の匂いが分からないだろうが、俺とか他の日本人が、なんか味噌くさいとは思わなかった?」
「正直に言いますと」そう言いながら候啓は首を傾げて微笑んだ。「味噌くさいは分かりませんが、男性の日本人は醤(ジャン)に紹興酒を混ぜたような匂いがします。私の感覚です」
「君の感覚で構わない、それが大事なんだ、なんて偉そうなことを言うと、人は奄美のユタ、巫女の息子らしいと勝手に思ったりするからな。ともかく、匂いそのものではないが、霊を感じる体質を持った者同士で、対話というか交感がはじまって、極度に集中力が高まったときに視覚化が起きる、と俺は解釈している」
「なるほど、私の父と似ていますね」そう言って候啓はがつがつと飯をかきこんで低く唸った。「私の父は今年で六十六歳ですが、早くから母と家族と香港に渡っていたので、文化大革命に遭わずに、配管の仕事をして生活してきました」
「配管って水道の配管?そうか、君もやっぱり水を背負わされてきたんだな」
「水を背負わされてきた?」
「つまり、こういう言い方がそもそもユタっぽいのかもしれないが、君がやがて水の仕事をするように、お父さんの代から運命づけられていた、っていうのか」
「そうです、私の父は蝦蛄です」と言ってから候啓は老人のように胸元を連打して食を下げた。「静かに食べましょう…私の父は前世では、おそらく蝦蛄だったのです」
「いきなり蝦蛄か…蝦蛄って、あの海老と蟷螂(カマキリ)が合体したような蝦蛄だよね」「ええ、その蝦蛄です。香港に来たばかりの頃らしいのですが、母のお腹に私がいたので、栄養をつけさせようと蝦蛄を捕りに行きました。そして網で捕った蝦蛄の中の一匹が、金メッキしたような金ぴかぴかの蝦蛄だったのです」
「金の蝦蛄か…香港らしいな」
「その金の蝦蛄が父に言ったそうです、地下を掘って、清い水を通すことが、おまえの仕事だと。驚きましたか?」
「日本人も金好きだから、金の蝦蛄くらいじゃ驚かないよ。できれば、縁起もので食べてみたいものだ」
「蝦蛄はお好きですか?亜紀さんは茹でた小蝦蛄が大好きだとか…」
 一彰は茶碗を空にして沢庵を口に放り込んでから、箸をこれ見よがしに仰々しく置いた。
「俺の話に戻るとだな、そのようなことで、昼間だから声を小さくするけれど、母の予言に乗っかるような格好で、倉敷に度々来ていたクライストチャーチのジョージをたった一日お手伝いしただけなんだ。何しろ放っておいたら、色黒のマオリの大男が、市内の看護士や女子大生を追いかけまわしている、というふうにしか傍目には見えないからね。そしてジョージに詳しく聞いてみると、亡くなったマオリ族の青年は四人、彼らを慰める日本人女性も四人必要だということになって、このうちの一人の名前がアキ。それで当たりをつけられた一人が、小松原さんだったわけだ」
「驚きました…」
「驚くのはまだ早い。小松原さんに会ってからだったな、話が急展開していって、ジョージもご納得の方向に収まった」
「ジョージもご納得?」
「最終的にはだね、カトリック倉敷教会に眠っている大正時代に生まれてすぐに亡くなった『あき』さん、この方の霊に祈りを捧げることで勘弁してもらった」
「勘弁してもらった?」
「仕方ないだろう、俺が母のような本物のユタならともかく。それに小松原さんともう一人の女子大生の手助けがなかったら…ジョージも俺も精神鑑定を受ける破目になっていただろう」
「なるほど、残りをいただきます」そう言って候啓は丸櫃を抱えて茶碗へばらばらと移した。「先輩は、そのジョージと小松原さんの間が、男と女として、どこまで進展したかご存知でしょうか?」
「ご存知じゃないよ、まったく。教会で名前を確認した翌日、二人で饂飩と団子を食べたとか、俺が出発する日の朝にジョージが嬉しそうにそう言っていた」
 候啓は最後の一膳に向かおうと箸を摘んでから幾らか重たげな息をもらした。
「先輩の奥様はオーストリア人ですよね」
「またいきなりだな。そう、彼女はカトリックだからさ、母がユタだと言ったら、魔女みたいなものと勘違いしてびっくりしていたよ。妻は慌て者で信心深くて、プリッツェルが好きな、おデブちゃんだよ」
「私が日本人を好きになるなんて」候啓は茶碗を置いてふらふらと薬味の葱を含んだ。「父が何と言うか…ブラックプールから香港に来ていた雀斑(チェバン)いっぱいの女の子、彼女が私の初恋でした。父は、そんな私を見ていたせいか、私が中国人以外で結婚するのならブリティッシュかカナディアンでなければ駄目だ、と言っていました」
 一彰は些か呆れ顔で甘夏柑の一切れを咥えた。
「俺の母は、俺が中学生のときに、おまえと結婚する女性はマーラーの曲が好きな人だ、と言った。巫女の血をひく母の言うことならと思って、日本人なのかどうか聞いてみた。すると、人種は分からないが、マーラーの曲を静かに聴ける環境の人だろう、とか言っていた。ほかでもない、母が若いときから文通していたヴァイオリニスト、それが今の父なのだけれど、母は父からマーラーだ、巨人だ、マーラーだと言われ続けてきて、ついに夢に見るほど、夢に聴くほどマーラーの曲を聴きこんでいたんだ」
「マーラーはたしかウィーンの作曲家ですよね」
「そうらしいが、妻は日本のアニメの主題歌が好きで、マーラーの曲はまともに聴いたことがない。つまり何を言いたいかというと、母の存在は妻や娘の存在と同等の価値が確かにある、がしかし、母の考えていること、そして母の言ったことは、妻や娘の言ったことと同等に俺を拘束する、俺の身動きをとれなくするものではない、ということだ」
 候啓は頷きながら箸を置いて甘夏柑を摘んだ。そして口に入れると思いきや茶碗の上でぷちぷちと千切りはじめた。
「少なくとも父親っていう種族は、そういうことは分かっているのだと思う」そう言って一彰は反り返って両腕を組んだ。「それにしても、あの小松原亜紀に惚れてしまったのか…大学の食堂だったなぁ。俺とジョージが会ったときは、随分とボーイッシュな印象だったけれど、君のメールには髪が長いとか書いてあったな?」
「ええ、肩よりも長くて、内側にくるくるっと巻き込んだような」
「やれやれ彼女も大人びてしまったのかなぁ。あのときは髪を結い上げて、目が爛々とした肉食獣の雌、っていう感じだったなぁ」
「分かります」
「そうか、分かるか。だいたい、人間の本質は三、四年で変わるものじゃない、と俺は思う。特に話し方、最初に俺とジョージに向かってね、岡山弁で格好よく啖呵をきったのさ」
「岡山弁で…タンカ?俳句?」
「そっちの短歌じゃなくて啖呵、歯切れのいいシャープな言い方で、あれはたしか『言うておくけれど、田舎の娘だと思って馬鹿にしたら、ただではおかね~よ』とかね、あと『岡山の女は、けっこうしっかりしとるのよ。情にあちぃ分だけ、裏切られたら鬼退治までやらんと気がすまね~よ』なんてね。あの娘が中学校の音楽の先生か…君には標準語でしか話さなかったと思うけれど」
 候啓は頬を紅潮させて首を横に振った。そして蜜柑の黄皮まで飯の上に千切って箸でぐいぐい押しつけた。
「私も亜紀さんのシャープな言い方に痺れました」言うなり候啓は蜜柑入りの飯をざっくりと口へかきこんだ。「お姐さん、お茶ください!そもそもですね…倉敷でのK社と浙江省のパーティに何故、亜紀さんが来ていたのか」
「そりゃそうだな、中学の先生がアルバイトしていたわけじゃないだろう」
「会社には報告していませんが、先輩にはお話します。実は同席したK社役員が、中学生の孫にヴァイオリンを無理矢理に弾かせようとしたのです。女の子でしたが、私が見ていても、不安そうで嫌がっているのが分かりました。それでも演奏させようとしたとき、横の扉がばーんと開いて、黒いジャージを着て、スニーカーを履いた亜紀さんが走りこんできました」
 一彰はやっと目を丸くして、驚いた表情のまま笑みをつくった。
「凄いな、本当かい?白髪千条の中国的脚色じゃないのかい?」
「本当です。先輩の変なものが見える話、それよりは現実的に聞こえると思いますけれど」
「ご免、冗談だよ。それで彼女はシャープにまた言ったわけだな」
「はい、たしか…」候啓は茶碗を空にして記憶を搾り出した。「なっにょ~しとるのじゃろうか?彼女は嫌がっとるじゃろう。どうして分からんのじゃろうか。あんたの見栄張りで、お孫さんが嫌な思いをしとるのじゃ…という感じで」
 一彰は自分の旺盛な想像力を嘲りながらも、相変わらずの痛快さに何度も頷くしかなかった。
「気がつくと、私の悪い癖ですが、気がつくと」と言いかけて候啓は注ぎ足された煎茶を熱がって啜った。「亜紀さんを追いかけていました。彼女は泣いている中学生と一緒に広間を出て行きましたが、私がすぐに思ったのは、ホテルの人とかK社の社員とかから、亜紀さんと中学生、彼女たちを守らなければならない、ということでした」
「そうこなくっちゃ、男は」
「そして、二人をタクシーに乗せてから思いました、日本語をしっかり勉強していてよかったと」
 一彰は仄かに目尻を充血させて、候啓の頬から語りの興奮がひいていくのを満足そうに見ていた。
「こうも役者が揃っているなら」微笑みながら一彰は胸ポケットから手帳を取り出して何かを確認した。「この俺は何のためにのこのこ堺からやって来たのか。そうだろう?そういう状況で始まった恋は蟻一匹紛れ込む隙がないってことさ。女と酒は劇的であるに越したことはない」
「女と酒は劇的であるに…李白ですか?シェイクスピア?」
「いいや、昔々、ウィーンの空港で、今の父が迎えに来てくれた晩に、未成年の俺にビールを飲ませて偉そうに言っていた言葉さ。舞台に役者が揃ったら、その劇から逃げるのは許されない、とかね…」
 候啓の先輩に対する真摯な眼差しが痛いほど強硬だった。
「張候啓、あとは中国の蝦蛄らしく掘り進んでいけばいいじゃないか。君が通した水をぶっかけてやれ」
 候啓は微熱に戸惑うような目つきで何か言おうとしたが、一彰はやんわりと遮った。
「君が懸念しているのはジョージのことだろうけれど、彼に関して間違いなく言えることがある。これを最初に話すべきだったのだろうが、ジョージ・マンガは日本時間の昨日の夕刻までクライストチャーチにいた。さっき言っていた学校に彼女を訪ねてきた大男、一緒に小豆島へ渡ったその男がマオリだったか聞いたかい?小麦色の肌でカメハメハ大王みたいだったと言っていた?ともかく、ジョージは今日も地球の反対側にいる。電話で話したのだから間違いない」

 鹿久居島は茫洋と日本人について考えるには格好の島嶼だろう。野生とはいえ、鹿の人懐こさほどは安芸の宮島にもある。縄文体験ができる集落施設もさほど目新しいものではない。しかし凪いだ波形の重ね重ねは、綿毛を舞わせるタンポポの群落を想像させて、秘めやかにエロスへ向かう原動力を思考させる。見え隠れする播磨灘の先に何があろうと、この海ならば死を賭すに値すると確信していたことだろう。
 亜紀は肌が泡立つような気がして、思わずジャージの膝を抱えた。あまりにも静謐な小磯で、珍しく音楽を忘れている自分がいる。それはまるで男のように音楽という恋声をひと時打っ遣って、島から島へ欲望を向かわせた、先祖の艘群の幻を見たかのように、かつてない鳥肌を立てる瞬間だった。
「亜紀ちゃん、誰かのことでも考えていたの?」
 綾香が頃合いのように、足場も覚束ないまま静寂を破ってきた。他に人気はないとはいえ声高々に悠長な綾香らしい。小太りな身を、貫頭衣という弥生風の白装束で包んでいた。
「伝染したのかな、照夫さんから」と言って亜紀は岩から立ち上がって、近づく綾香に手をかそうとした。「昔の人たちはさ、太陽と海がこんなふうに優しかったら…」
「優しかったら?」
「…誰かの子供を産んでさ、育てて…歳をとったら、さっさと姥捨て山へ行っちゃったのかな?それかもしくは、雨風が酷くて漁に出れなかったら、栗とか芋とかを海へ撒いてさ、神様に捧げてさ…何日も風が静まるまで祈っていた、なんてね」
「なるほど、そうきたのね。でも、それは照夫さんの影響じゃないよ」そう言いながら綾香は亜紀の節くれ立った手を求めてきた。「亜紀ちゃんはずっと見ているけれど、時々どきっとするようなこと言ってさ、けっこう詩人だもんね。本当はさ、倉敷にいたときみたいに、ティンパニーを叩きながら詠いたいんじゃないの?」
「そうだったねぇ、文化祭とかでは、よく叱られたね。そんなアヴァンギャルドなことやっていると教師になれんぞ、って散々に言われてさ」
「学生だったからね…でも、理解してくれていた人もいたでしょうが」
「理解してくれた人か…そういえばジョージは、ちょっと不思議なジョージっていうマオリ族の人は、ヒネモアが舞うときの歌に似ていて懐かしい、って言ってくれてさ」
「ジョージ?…ま、不思議なジョージもいいけれど」と言って綾香は脂質そうなぽっちゃり右肘で亜紀の脇腹を突いた。「中国からまたやってきた張さんはどうするの?倉敷の仕事の後処理とか言って来ているけれど…あれはね、亜紀ちゃんのためだったら、商社をやめて日本に来ちゃってさ、牡蠣の養殖でも何でもやる覚悟だね」
「会わせるんじゃなかった、綾香にだけは」亜紀は言いながらがっしりと綾香の腕を掴んで微笑んだ。「張さんも張さんよね、よりによって、ご縁を見通せることで、作陽じゃ有名だった綾香さま、ご本人がいらっしゃる時に来ちゃってさ」
「情熱家っていうか、しつこい男は駄目なの?」
「しつこい男だとは、思っていないよ」
「でしょうね、亜紀ちゃんの性格って、やっぱり遠くから飛んでくる頑張りやさんは好きなんじゃないの?」
「そりゃあ…あたしだって女だから」そこまで言いかけて亜紀は掴んでいた腕を口許へ引き寄せた。「でもさ、女の人もそうだけれど、ましてや男の人は、仕事とか目的とか夢とか簡単には放り出せないでしょ。あたしは放り出してほしくない」
「へえ~、なんかいい女になったねぇ。あたしが東京から倉敷にきたときには、外でこつこつ稼いできて、好きなだけ妻の自分にバンドをやらせてくれる男だけ、とか言っていた男の子と間違われた亜紀ちゃんがね」
 亜紀はふっと笑いを呑みこんで綾香の腕に前歯を立てた。
「食べちゃうよ、縄文人に食べられる前に。だいたいさ、人のご縁を見通せる本人はどうなのよ、照夫さんのこと」
「いたっ、痛いよ。縄文人を亜紀ちゃんみたいな石器人と一緒にしないでよ」そう言いながら綾香は咬ませるままに竪穴住居の方を望んだ。「それに何度も言わせないで、照夫さんとあたしは、男女の間柄なんてありえない親族なんだから」
 二人の話に上っている東條照夫、その照夫も柔道家のように貫頭衣を着ていたが、長髪と無精髭を風に靡かせて悠長に三畳敷きほどの小浜へ下るところだった。
 照夫は函館出身で、母と祖母が続けている産婦人科に年に二度ほど帰省するほかは、市町村の教育委員会等の伝手で、縄文遺跡の発掘に勤しんでいるような男だった。大学の考古学研究室に属しているわけでもなく、野心的に仮説を披瀝する様子も論文の発表もなかったが、発掘作業における誠実な手際と一九〇を越える大柄どおりの鷹揚さをかわれていた。
 竹中綾香は同じく北海道の襟裳の出身だった。今でも襟裳に一人住む綾香の母親は、国会対策委員長を務めたこともある故竹中宗二の長女である。就学する頃には、母娘共々、襟裳を去って東京の国立で生活をしてきたが、竹中の支援にあって竹中の囲柵に辟易していた綾香は、逃れるように倉敷の大学へ単身で進学した。そして山陽道に降り立った少々訳ありのお嬢さまは、打楽器に夢中な小松原亜紀という猫眼の気丈な子と出遭ったのだった。
「わざわざ会いにきてもらっただけで充分」と言って綾香は歯型も見えなくなった弾むような腕を大きく振った。「なんでもね、函館を築いた高田屋嘉兵衛が、淡路の出身で前から関心があったとか、犬島貝塚が評判になっているとか、それらしい理由でわざわざお越しいただいてさ。でも昨日はびっくりしたよね、いきなり小豆島に着いたら、犬島の貝塚にはどうやって行くのか、とか言いだしてさ。真面目で研究熱心なのはいいけれど、朝から晩まで縄文漬けで…そんな地面掘りが好きな人に、おそらく函館の彼のお母さん、亡くなったお祖父ちゃんの後妻だった人だけれど、あの綺麗な女医のお母さんが、瀬戸内の島で、音楽の先生やっているらしい綾香を見てきな、とか言ったんじゃないかな」
 亜紀は眉間に寄せていた皺を掃うように額を振って、そのまま綾香の肩にのせた。
「そうか…あたしは子供の頃から変な子って言われていたけど、根っ子はさ、水島のコンビナートに勤める普通のサラリーマンの娘だもんね。だけど綾香は、一見普通の東京から来た女の子だけど、縄文人とか国会議員とか、何だかちょっと複雑な家庭が背後にあるんだぁ。あたしってさ、馬鹿だから、最初からシンプルな人生が設定されているのかな」
 綾香は照夫に向けて手を振ったまま思わず噴出し笑ってしまった。
「見なさいよ、照夫さんたら、あたしがげらげら笑っているもんだから変な顔しちゃって。亜紀ちゃんはやっぱり詩人だよ。海を見れば海の人の営みを想って、あたしのような一人っ子を見れば、一人っ子にも色んなタイプがいることに感動している」
「そんな…詩人に申しわけないよ」
「大丈夫だよ、人間ってさ、思うほどシンプルに生きられないような気がするよ。だってさ、シンプルに生きようと思ったって、突如現われたる謎の…」
「中国人?また張さんのところへ話が行っちゃうのか。どうせ…あのときさ、パーティの席上に怒鳴りこんで行った新米の教師が、ちょっと可哀そうに見えただけだよ」
「それで充分じゃない、何だかちょっと複雑が始まるには」そこまで言いかけて綾香はふらふらと立ち上がろうとした。「何だろう?監視塔の方から誰か照夫さんを呼んでいる…もう食事の時間なのかな?」
「まさか、ちょっと早すぎるよ」と言って亜紀は脇から支えるように立ち上がった。「飯だ、飯だって、綾香の方がお似合いじゃないの、謎の中国人は。きっと腹いっぱい好きな蝦蛄の天ぷらとか丼を食わしてくれると思うよ」
「それはいいね、蝦蛄丼はいいよね…」
 綾香は唇に人差し指をおいて、聞いている耳を浜の照夫の方に向けていた。照夫は膝をぽんと叩いて浜から磯へ駆け上がる。そしてこちらへ向かって何事か怒鳴りだした。しかし綾香と亜紀の怪訝な目つきから、自分の声が届いていないことを察したようである。照夫は寡黙な大柄からは想像できない身軽さを見せた。
「小松原さん、小松原さんにお客さん!野村さんという方が、小松原さんを訪ねていらしているようだよ」やっと土鈴のようなと綾香が例えた照夫の声がとどいた。「オクト・ワグネルって…ドイツの外資系商社らしいけれど」
「知っています、野村さんもオクトも…野村さんが一人で?」
「そう、野村さんという方お一人でいらしているけれど…」
 亜紀は磯を上がる綾香の尻を押しながら「野村さんが一人で」を呟き続けた。そして小磯のさほどでもない段丘に、なぜか息苦しさを覚えだすのだった。竪穴住居の方から挨拶ともつかない鳥鳴きに似た声が聞こえた。磯を上ってきた綾香の手を取る照夫は、無骨な縄文人そのもののようだった。そして肩の張りきった照夫の背後に、汗ばんだシャツをはだけた野村が蜃気楼のように現われて、磯から上がってきた亜紀を見つけて困憊したように微笑んだ。
「なるほど、倉敷で会ったときからすれば、備前の女としてますます磨きがかかって、随分と魅力的になっている。これだったら、候啓、張が参ってしまったのも無理はない」
「その張さんは?」と亜紀は弄られる髪を押さえながら聞いた。
「その張はフェリーに乗り込もうとする寸前に、倉敷のK社から連絡をもらってタクシーに乗り込んでしまった。まずいことに、接待されて来ていた浙江省のお偉方が倒れてしまったようだ。そこで…僕は夜までに帰ればいいし、小松原さんを知らないわけじゃないし、そもそも張の身元保証人みたいなことで来たわけだから、ここへ渡ってひと目会って、挨拶できればと思ったんだ。中学校の音楽の先生になったとか…」
「張さんはあたし宛てに何か言ってましたか?」
「ああ、食いしん坊の香港人らしく、日本の蝦蛄は小さくて少なくて値段が高いので、仕事上の情報力と分析力を使って、この辺りから笠岡の方までの海域の水質を調べはじめたらしい。このことを、とりあえず伝えてください、また連絡します、と言っていた」
「水質…とりあえずですか…」

 例年どおり、五月末に一年生による牡蠣の種付けを無事終えると、夏を迎える漁協の市場周りは、朝な夕なに劇場の哀愁を見せてくれる。ふらりと立ち寄った旅人の足許、そこに野良猫が近寄ってくれば、堪らなく人恋しくなるだろう。五味の市の朴訥な佇まいは、白昼は沖の豊饒を夢見ているのか、満腹の海驢が日に向いて居眠りしているようだ。それにしても市場は人のためにあり、牡蠣祭りなどで隣の駐車場から夥しい客が押し寄せるときは、絵画に通じている皮肉屋ならブリューゲル風の騒乱の構図を連想してみてもよい。汀の市場はあまりにも愛しい。綾香による腫れ物に触れるような弾き方のサティが、波止場から這ってくるような気がする。亜紀は吹けなくともトランペットの音を出したくなった。教師でなくとも新しいメロディを口ずさみたくなる場所だった。
「あたし、思っているよりも若いのかな…」
 亜紀はかつて純白だった自転車をとめてそう呟いた。乗り続けてきて斑点傷だらけゆえに、フレームは骨化石のようだった。しかし自転車の汚れよりも気になるのは、前のバスケットで揺らし続けてきた紙袋のソフトクリームである。牡蠣フライを飾ったクリーム、それを買ったときの痒い悪戯心が沸々と冷めないで頬の上にいた。
 五味の市の正面を「チョコのカテドラル」と言ったのは候啓だった。即答すればよいというものではない。しかし彼の素直な想像力が、彼の誠実な行動力と直結していることが分かってくれば、単なるカテドラルと渋い顔で言われるよりは、チョコのそれは随分と博愛な響きをもってくるのだった。当の候啓は、カテドラルの入口脇で頭を掻きながら携帯電話でメールを送っているところだった。シャツは二日目か三日目のようだったが、ネクタイはどうやら水玉好きである。忙しい身分のわりには、いつのまにかネクタイが増える一方なので油断がならない。亜紀は自転車を押して近づくにつれて、自分がジャージからジーンズに穿き替えてきたことを、なぜか浮調に気恥ずかしく思えてくるのだった。
「これって香港で売れると思う?」
 候啓は牡蠣ソフトを突きつけられると、慌てて携帯を閉じながら虫食いを隠した梨のような微笑を差し出した。
「香港よりも上海でしょうね。上海だったら売れそうな気がします」
「食べてから言ってみて」
 候啓は大きなアルミ鞄の上に座り直して、牡蠣フライを摘んで口に押しこんだ。
「クリームが、冷たいホワイト・ソースみたいで、美味しいと思います」
「美味しいっていう顔には見えないんだけれど」
「美味しいです。美味しいのは、美味しいとしか言えません。それに…」
「わかった、美味しければいいわよ」
「…さきほど組合の指導員の方からいろいろと聞きました。小蝦蛄は松の犠牲になったのかもしれません」
 亜紀は甘い香りの吐息を宙に舞わせながらアルミ鞄の端に腰を落とした。
「どういうこと?」
「小蝦蛄が減った原因のひとつとして、松を枯らす松食い虫の被害がひどい年に、大量の薬剤を空中散布したらしいのです。その薬剤が海底に沈殿して小蝦蛄を死なせてしまったのではないか…」
「どうしてさ、張さんは蝦蛄をコジャコ、小蝦蛄って言うの?」
 候啓は鞄の端にずれて亜紀の横顔を窺いながらもう片方の牡蠣フライを咥えた。
「ここで捕られているサイズの蝦蛄は、香港では小蝦蛄なのです」
「あっそう、香港のは唐黍くらい大きいって言っていたもんね」
「小さい蝦蛄は味わいがある、ご飯によく合う、ということは分かりました。しかし、もう呼び戻すことは不可能かもしれません」
「なぁんだ、もうおえんか。ジャッキー・チェンのようにしぶといのかと思った」
「おえん?」
「終わりか、ってこと」
「終わりって…」候啓は方言の意味を自ずと悟ってコーンをぱりぱり噛みしだいた。「いいですか、松食い虫の次には、海苔の養殖の犠牲になったのです。海苔を養殖するときに、海苔が茶色にならないで黒くなるように、やっぱり海苔の網に薬品を散布したのです。これも毒です。こういった毒は海水よりも比重が大きいから海の底に沈殿してしまって…」
「わかった、分かりました」そう言いながら亜紀もコーンに達して噛みしだきはじめた。「これでも備前に生まれていて、一応、教師の端くれだから、そのへんの裏事情は嫌でも耳にしているわよ」
 候啓は指を舐めながら上空を仰いで、カテドラルの壁に背をゆっくりとあずけた。眩しいばかりの天蓋から目を反らすと、亜紀がやはり眩しそうに自分を見ていた。彼女は食べきった手を掃ってから、小さく唸って壁にもたれた。
「ちょっとだけ、こちらの言葉で言っていい?うちは確かに蝦蛄は好きじゃけど、蝦蛄のほかに枝豆も好きで、せぃにお酒も大好きなのよ。つまり、どこにでもいる田舎の女なのよ。あなたのように何ヶ国語も話せんし、音楽の教師にだってやっとなれた、そうゆ~つまらん女なのよ。じゃけん、あなたの先輩の野村さんのような、仕事先でのラヴロマンスなんか期待されても困るのよ。せぃにあなたは立派な商社マンで、野村さんが見つけたマオリ族のジョージとか、綾香を訊ねて来た縄文人の照夫さんとか、ああゆぅ夢を見とるようなもんたぁちごぅとるじゃろう?世界中に水を供給して下水の処理に走り回らなくちゃならんじゃろう?さっきは、もうおえんか、なんて言ったけれど、あなたはおえん商社マンじゃねぃ。あなたは中国の未来を背負って立てる人だと野村さんが…」
「野村さんが、先輩が『君は見る目がある。彼女は少々変わっているが、確かに素晴らしい女性だ』と言ってくれたのです」
「もう、野村さんは、自分が結婚しておって子供がおるから勝手なこと言うて…だいたい商社マンのくせに、霊魂が見えるとか、見えんとか…」
 気がつくと駐車場の方からじゃれつくような騒々しさが転がってくる。亜紀がブラスバンドを指導しているうちの四人の女子だ。恥じらいながらも仔犬のような嬌声をあげているのは後ろ二人の一年生で、前の見慣れた三年生元リーダーと二年生新リーダーの二人は、博物館を巡ってきて珍奇に遭遇したような顔をしていた。
「シャコ先生かぃ?」と元リーダーが呟くように言った。
 亜紀は心なしか候啓の肩へ傾いで隠れるような仕種をした。
「揃いも揃って、どうしたん?」
「まさか、シャコ先生、恋人ってゆ~こたぁねぃじゃろう?」と新リーダーが自分の頬を赤らめて言った。
「こら、こっちのゆ~ことに答えなさいよ」
「シャコ先生に、ネクタイをしめた恋人なんて、嘘じゃろう」
「こねぃなところで、うちをからかうなんて、なかなかええ根性しとるね」
 亜紀は紙袋を丸めて投げつける真似をしたが、教師としての視線は背後を取っている候啓に恐る恐る戻された。
「うちの生徒で…ブラスバンドの少女ABCDなの」
「シャコ先生ぇ?」言うなり候啓は立ち上がろうとした。「君たち、先生に対して…どうして彼女がシャコ先生なのだ?」
 亜紀は彼の膝にすがって押さえようとしたが、思いのほか頑健な手が女の細い手首を掴んだ。
「シャコ先生は、シャコ先生です」と言って新リーダーは一歩進み出た。
「こんなにきれいな先生をシャコ先生とは…」
「邪魔してわるいけれど、キレイはキレイかもしれんけれど…」とそこまで新リーダーは言いかけて、後ろの一年生を突き出すようにして発言させた。
「そうじゃのぅ、えーと、指揮をするときの振り方がカマキリみたいじゃけん、最初はカマキリにしょぉと思ったのじゃけど、蝦蛄丼とか天ぷらが大好きだってゆ~し、なんと言うても、怒って指揮棒で叩くときは、やっぱりシャコじゃ」
 亜紀が立ち上がって候啓の手を振りほどこうとすると、四人の少女たちは豚舎が火事になったような声を響かせて散っていった。腕を振りまわしながら追いかける振りをする亜紀、シャコ先生の笑顔はカテドラルの前を華やかにする。少女たちを追いかける痩せぎすな背中は舞っているようだった。
 候啓は双肩がゆらりと落ちる気がした。野村が言った「女と酒は劇的であるに越したことはない」という言葉が薮蚊のように察過する。これほど幸福そうに見える教師という仕事、彼女は愛し愛されているがゆえに、さらなる情愛の加重を懸念しているのだろうか。しかし亜紀が言った「なぁんだ、もうおえんか」という言葉も飛び交う。そうだ、愛されている女性は、蝦蛄の一匹などが背に付いても「その劇から逃げる」ということはありえない。配管が済んだ直後の父親そっくりに膝を叩いて立った。
「この水も背負ってみせるよ。日本の水ごと、背負ってみせるよ。亜紀さんがシャコ先生なら、俺だって九竜の蝦蛄だ。金ぴかぴかの蝦蛄、金蝦蛄、俺も金蝦蛄だ」
 そう呟いて候啓はアルミ鞄に伸ばした手をとめた。
「いま、俺って言ったような…どうも日本語が変になってきている。場所に縁るのは仕事がら仕方ないが、もしかすると野村先輩と会ってからかな…」
 亜紀は候啓の方に振り返って、心地よく走り疲れたように微笑んだ。そしてシャコとは想えない白鷺のような両腕をさらりと広げた。

                                       了
潮騒 (新潮文庫)

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  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 文庫



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