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ワーニャ   Vladimir Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 校長の孫であるワーニャが、ベラルーシ貴族の末裔らしくない縮れた黒髪を、同僚のボリスにふれさせた日曜の午後だった。
「レオってあのエヴェンキ族の?」
「チェリャビンスクが生んだ大作家かもよ」
「象牙掘りの父親が行方不明で、ブルトーザーを操る母親に女手ひとつで育てられりゃ、まともな考え方はしないだろうな」
 ワーニャはボリスの手から逃れてドアの前に立った。隣のマヤコフスカヤ女史の気配などはなかった。ワーニャにとって、他の女教師や女生徒にとっても、ボリスは美男で颯爽としている存在だ。しかし時として醒めた皮肉っぽい言い方をした。
「面白いの、鉄道と革命と…カルトン・スープの三つがあれば、立派なロシア文学として中国や日本では享けるけれど、アメリカやキューバでは退屈で投げ出されるよ、なんて言うのよ」
「嫌な子供だね」
「ロシア語で書かれるものも、これからは面白いものでなくてはならない、と言って教師のあたしを睨みつけるの」
 ボリスは鉄棒で逆上がりもできない少年レオを思い出して項垂れた。そして気を取り直すべく勢いよく立って言った。
「ヴォトカは?」
 ワーニャは窓辺に逃れるようにして言った。
「もうないわ」
 窓から見る七月のチェリャビンスクの裏通りは眩しかった。朝方まで降っていた雨はあちらこちらに水たまりをのこしている。羽虫たちは鏡のような水面に忙しく蟠っている。そして呼応するように霞草の小さな白い花弁の群れが風に揺れる。校庭側へも蔓延っている霞草は校長にとっては厄介物だが、優しいロシア語をさがして窓辺に立ったワーニャには、初雪が察過したときのように美しく見えた。
「なんてやつらだ、学校のそばであんなことをしている」
 ボリスはいつのまにかガス焜炉がある隅の小窓から見下ろしていた。
 裏通りの真下の日陰で、精悍に日焼けした痩せぎすの若い女が煙草を踏み消した。息をきらせて間に合ったようなもう一人は、ワーニャも何度か見たことがあるカザフスタンから来た小太りの中年女性だった。若い女は不満そうに蜥蜴のハンドバッグから数枚のルーブル紙幣を取り出して渡した。中年女性は小さな手でゆっくり数えた後で、一枚のドル紙幣を投げつけるように握らせた。
 ボリスは項垂れて言った。
「レオに教えてやることさ、バレエのようなロシア文学は終わったのだと」
 ワーニャは首を振った。そして多くのロシア人女性のように諦めることを知らなかった。
「いいえ、レオの面白い文学はあの闇取り引きからはじまるの」
 ボリスは自分の二の腕を抑えて語気を強めた。
「トルストイとチャイコフスキーじゃ食っていけないから革命が起きたのだろう?」
「革命はレーニンの兄が処刑されたから起きたのよ」
「そんな悪態をつく教師がいるか?それじゃ校長室に今だ飾ってあるマルクスがそもそも悪いわけだ」
 ワーニャは縁を叩いて言った。
「マルクスは悪くないわ」
 ボリスはせせら笑った。
「マルクスの夢想にレーニンの理想がついていけなかった、とか言い古されたことは言わないでくれよ」
 ワーニャはボリスの言葉にひどく落胆した。
 斬新の欠片もない倦怠をもよおす話し方は、ボリスをはじめとするチェリャビンスクの若い教師に多い、と常々思っていた。焦躁が噴出しそうなほど誠実な彼ら…彼らは校長の孫娘の男友達がモスクワに群れをなしていると信じているふしがあった。
「酔ったの?」
「いいや、もう一本ほしいよ」
 ワーニャはボリスに近づいて頬に触れた。ざらつき渇いてばかりいる灰白色の肌の男。校長である祖父や教頭である父と何ら変わらぬロシアの男がそこにいた。日中はお定まりに権利と義務を次世代に押しつける。夜になっても権利、ほどなく義務だ。教師でなければ、血塗れないし灯油塗れの手をした連中は日中は寡黙、もしくは隠れてヴォトカだ。夜になればセックスや儲け話の前に何はともあれヴォトカだ。透明なアルコールの一杯が自制の象徴と勘違いしている人たち。
 ワーニャは頬から離した右手を差し出して言った。
「あたしは金がかかる女よ。それでも構わないんだったら脱ぐわ、隣の恐いおばさんもいないようだし」
 ボリスの喉が鳴った。
「結婚はすべてではない」
「あたしは金がかかると言っているのよ」
 ワーニャは赤樫の釦をはずしながら確信した。
 ロシア語が今後千年の向こう文学を続けるには熱くならなければならない。エロティックで消費しまくる新しい時代…教師、宇宙飛行士、そして老婆殺しは知るだろう、平坦な胸の女とルーブル紙幣が乱舞する千年を。
 ボリスは後退りながら唸るように言った。
「どうして普通の我々じゃいけないんだ?質素で、健康で、ちょっとだけヴォトカを飲む、そういう我々じゃいけないのか?」
 ワーニャは釦をはずし終わって言った。
「なんて貧相なロシア語なの」
 そして薄っぺらな胸を両手で持ち上げて、寒々しい樺色の乳首を一つ二つ中指で弾いてから言った。
「ロシアの長い長い冬は終わるわ。チェリャビンスクも熱くなるわ」

                                       了
マトリョーナの家 (新潮文庫 赤 132F)

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  • 出版社/メーカー: 新潮社
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