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軋み桁   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 天正九年、中秋の夕暮れのことである。
 その頃は、錦川を見下ろす吉川家でも、畿内を制しようとしている信長の噂でもちきりであった。
 吉川元春は岩倉の羽柴秀吉としばらく対峙した後、不快な胸中を下げ持ったまま帰還した。それが名にしおう羽柴との戦のやりきれなさだとは自らも覚っていた。そして堅固な山城から城下の夕餉の煙の群れを見る。元春は思った。仮に明朝、対岸の川原で飯を炊く煙が羽柴の軍勢のものだとしたら…。
 錦川は山上の一滴から潮に注がれるまでに時を要せず、若武者のような清流としての素直な顔と、暴れ川としての無礼な顔を合わせ持っている。ゆえに斎藤家のような橋守と言っても橋そのものを守れるわけもなく、大水の後の橋普請奉行として威勢を見せるほかは、日がな橋の両袂で通行の番をしながら世間話に興ずるしかなかった。
 夕暮れもせまり稜線が黒々としてきた頃、嫡男の斎藤寅之助は、殿様に随行した息子の土産話を抱えてきた丑(ちゅう)から、延々と羽柴秀吉の話を聞き出していた。
「猿大将の大将?」
 寅之助はつい大声で橋桁の下に向かって聞き返した。
「そうじゃ、猿大将の大将、言うてみれば猿回しじゃな」
 小網を仕掛け終わった百姓の丑が桁の下から応じた。
「その猿大将を操る猿回しが…あの…」
「織田信長じゃろうが」
「知っとるわい、その猿回しの織田信長は…たいそう細面のいい男なんじゃろう?」
 丑は闇の中で卑屈に笑ってから言った。
「たいそういい男…殿様の耳に入ってみい、打ち首じゃ」
 寅之助は舌打ちをしながら山上の岩塊のような城を見上げるのだった。
 一時の橋普請奉行の斎藤家にしても、足軽組頭ほども禄を食んでいるわけではない。めったに戦の場に出たこともないので、名将はむろん老将の一人の脇腹でも刺しぬいた足軽の方が恩賞の与りは間違いない。しかし寅之助には、戦に駆り出してくれと愁訴する意地もなかった。
 丑は痛めた腰を庇いながらやっと橋上に上がってから呟いた。
「なんにしても…殿様は負けなさるだろうよ」
 寅之助は耳を疑って返す音を発せられなかった。
「息子の言うには、猿大将はわしらと同じ百姓の出よって、戦の場になりそうなあたりの百姓に声をかけおり、なんと幾らかの銭まで施されるそうな」
「百姓を味方につけるのか?」
 丑は寅之助から離れて嘲るように大笑してから一気にまくしたてた。
「百姓なんぞ味方につけてどうするんじゃ?土地のかたち、川の在りよう、そして倅のような盗っ人ふぜいがどこにいるのかとか、そこらへんを聞き出して、まともな戦はそっちのけじゃ。そしてじゃ、わしらの殿様は毛利の若様にして槍を取らせたら安芸一ときてなさる。猿大将は面が猿に似ていても、歳格好は寅之助様と似たりよったりじゃ。そしてじゃ、わしらの殿様はこのわしよりも五つも歳をとっていなさる…」
 たしかに岩倉の陣で吉川の殿様が、猿大将の小柄を見て笑われたという噂もあてにならない。元春公も若かりし折りは毛利一の槍取りと言われた強者だったが、父元就公が逝去されて後は目に見えて老け込まれてしまっていて、血気盛んな猿大将に一騎打ちを挑まれる、などと誰も戯れ言は語れない。
「帰れ。それ以上言うてみろ、殿様に代わって…」
 寅之助は分けの分からぬ義憤に駆られて脇差に手をかけた。
 丑は一歩一歩後退りしていった。一足ごとに老け込んでいって、闇の奥に消えいくようだった。橋の中途で丸太の節組みに躓いて立ち止まる。一昨年の大水の後でやっと成った橋の上で丑は怒鳴った。
「斎藤の親父様に宜しくな!殿様がな、親父様をそこに居させて、寅之助様のような青瓜男を戦の場にかりだすようになったらな、寅之助様は逃げればいいんじゃ!戦になんぞ行ったらいかんぞ!」
 丑は右手を臍のあたりまで上げたかと思うと、踵をかえして薄暗がりの川原の烏の溜まり場へ走り去っていった。
「百姓が…分かったようなことを…」
 百姓の丑の言うことだ。しかも猿大将を見たという丑の息子にしても、土仕事が身につかない野盗まがいの日々を送っている奴だった。
「青瓜男だとぬかしおって…」
 寅之助は自分でも可笑しくなって腹を抱えた。しばらく梟のように低く笑うと、もはや暗いばかりの川面と目が合った。丑は仕掛けた小網をどうするのだろう。ちょうど火をつけなければならぬほど更けてきたので桁の下へ降りた。
「この音じゃ…」
 櫂がだすような音だった。一昨年に成ったばかりの橋桁の一本がもう軋みはじめているのだ。風が吹き過ぎて波がくると心地よく鳴っていた。
 寅之助は火打石を握ったまま呟いた。
「戦には…わしは行かん」
 何度も石を合わせ打っては何度も吐くように言い続けた。
「殿様でも、猿大将でも、なんでもよいわ!橋桁はわしのもんじゃ!わしのもんじゃ!」
 その後、寅之助が娶って嫡男が生まれた翌年の大水まで、丑が桁の下の小網を引き上げにくることはなかった。

                                       了
笛吹川 (講談社文芸文庫)

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