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未有をμとする   Mye Wagner [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 真冬の半月ほどではあったが、サント・クリメント聖堂へ行くと、祈るように呟きながら刺繍している日本人女性を見ることができた。長い黒髪を白組み紐のミサンガで後頭に結い上げていて、微かに見える後れ毛がかかる額は痘痕ひとつなく白々として広い。手入れしていない恵比須眉の下の醒めた瞳は、度の強い渋茶縁の眼鏡をとおして、日が舐めて褪せてしまった哀しげな肌色の窓枠と、メレンゲ細工のように波うっているジャバクロス(版布)の下書きの間を往復し続けている。彼女は越冬の岩燕のさえずりが騒々しく聞こえてくると、我に帰ったかのようにやっと疲れを実感しているようだった。
 サント・クリメント聖堂は、カタルーニャ州リェイダ県のボイ渓谷にある。スペインの北の境界を予感させる狭い谷間、その渓谷に連なるタウリ村からボイ村への道を行くと、中途の小高い丘に日を過ぎたお菓子のように建っている聖堂が見えてくる。お菓子の脆さが敬虔なロマネスクの壁面にとって侮辱であるなら、遠くピレネーの稜線からくだされた岩塩塊とでも言おうか。どうも古びた威容さばかり形容してしまうが、その芸術的な価値は相当なものなようだ。一一二三年に司祭ロダによって献じられたという堂は、実際に谷の聖堂群の中では最も保存状態の良いものと評されていた。バシリカ式聖堂の典型として三条の身廊が並ぶが、それぞれの身廊は柱が林立する厳かな拱廊で、来堂者を泰然と惑わすように仕切られている。そして南に向いた六階層の高さの鐘楼は、遠くからでも夕景などを背せば、それを見る者は郷愁に拉がれるに値することを知る。さらに半周の和みを見せる後陣の木製の屋根、それが建立以来だということを知れば神聖の想像はいや増す。後陣で待ち受けているイエスの御姿Pantocratorは、背後の蒼天が絶対の占拠としてあって、誰しもが稚気と聖性の惑乱に感慨の嘆息をもって拝していた。
 むろん耕すように刺繍している日本人女性は、本来のPantocratorが国立美術館に保存されていて、眼前の御姿が模写だということを知っていた。
 彼女の名前は米倉未有(よねくら・みう)。未有と書いて「ミウ」と読ませる。生まれ育ちは四日市である。米倉家は戦前の祖父の代から、地元四日市に君臨してきた財閥系の化成工業会社に勤めて禄を食んできた。二人の兄も多分にもれず理工系の大学を経て、見慣れてた工場着を纏って煙突の林立する方へ通い、休日も構造式が配された英文雑誌を枕に昼寝していた。末っ子の未有は、高校卒業後から市内の郵便局に六年間勤務した後、二十代半ばから名古屋の大学でスペイン文学を専攻してなんとか卒業した。そして一昨年から市内のスペイン料理店の受付とCajero(会計係)をこなしていた。
 未有は幼い頃からあまり人付き合いはせずに、自分の世界で遊ぶ性質だった。奇異に見られることは一向に気にせずに、例えば高校時代から手紙や寄せ書きの署名にギリシャ文字の「μ」を使いはじめた。μでも未有でも本人は私的な署名時以外は分別の意識をもっていなかったが、どうも日本国内の日常では自ら口許しっかりに「ミウ」と発音していて、未有の字も「すてきなお名前ね」と言われる矜持を幾らか持っていた。しかし海外へ出てみると、口許はすぼまって「Mi nombre es μ そう、グリィークのミュー」と言っていて、照れも加わって薄ら笑っている自分の顔を想像できた。
 そんな洒落た名前の未有であるが、白い吐息の下でせっせと針を翻して刺繍する契機となったのは、卒業旅行のときに魅せられた何枚かのタペストリーに因る。中でもカタルーニャはジローナ大聖堂の天地創造のタペストリーは圧巻だった。円環状の創造の犇めきは素朴で凄かった。スペインに恋した因縁が瞬間、予定調和をもって轟然と降ってきたかのようだった。
「…これを見せたかったのね、あたしにこれを」
 それこそはヨーロッパ最古のタペストリーであり、日本人などが修練を重ねても叶わないことを自覚させられた。さらに中国の端整な伝統刺繍を知った。針に糸を通した記憶も定かでない者に、天上から表現する呼惑の難題が降ってきたのである。しかし、兄たちの男物の雨具をさっさと羽織ったように、自分の時空を一瞬にして策定してしまう未有は、早計や軽薄などという日本語をさておいて、ともかく刺繍の基本的な技術を習得しなければと思った。今すぐにでも、この困難に触れてみたい。それが被さるように啓示するものは、自らが刺す糸で表現されうる開放感に違いないと思った。
 生来俯き加減で篭りがちに見られる未有が、ジャバクロスとドルフュスのアブローダー(刺繍糸)、PetitPoint(プチポワン)教習本と上海の顧繍を撮ったビデオテープなどに囲まれて、実際に魔女の手遊び宜しく部屋に篭るようになってしまった。拉致されたお針子のようにひたすら刺し続けた。部屋を出ても布という布を見れば刺したくなる。母や数少ない友人に熱狂ぶりを知られるや、シャツの胸元はむろん背中にまで薔薇や麦穂を描いてあげようか、正直なところ刺さしてほしい、と申し出るのだった。スペイン料理店に勤めるようになってからは、黒地のザックに銀糸でμの文字を遠目に豹斑に見えるように刺してみた。そしてμのザックを背負って、夏は上海で伝統刺繍を師事し、冬はフランドルやスペイン北部で凍てついた指を噛むようになっていた。
 謎めいた黒髪の日本人として気難しく見られがちな未有、それでもタウリ村では二度めの冬を過ごしていた。村ではニ、三日以上滞在する日本人はまだ珍しかった。未有はいつもボタンダウンの白シャツに着古した濃紺のセーターを重ねていて、白い蝶を刺し散りばめた桃太郎のジーンズを履いていた。そして常宿となっている雑貨屋兼料理店の主人アントニオ、彼の寝込んでいて店に顔を出せなくなっている老母が、暖をとるためにとくれたフェルト地の灰色の膝掛けを腰に巻きつけていた。
 最初の年にあたる一昨年、一週間経ってみると村民のうちの何人かは、教会とアントニオの店を傘もささず雨に濡れながら朝夕行き来する彼女を見かけるようになった。教会までの道程で村人に会わなければ、長い睫毛と一重瞼を中空に向けて赤銅色の唇から吶々と同じ日本語を呟いていた。
「蝶はあなたの指先を越えていく…蝶は炎を越えていく…蝶は氷雨の夜を越えていく…蝶は海原を越えていく」
 今年になって、アントニオは老人や子供が囁きだした噂、アジアから来て聖堂を模写している精神に異常をきたした娘、という口さがない暇な老人たちの作り話に憤慨して言った。
「彼女は俺たちよりも豊かな国から来ているお嬢さんだ。立派な教養も身につけている。名前のミウにしたって、無知な俺たちにも馴染ませようと、ギリシャ文字のμを使ってくれている。分かるか?ギリシャ文字のμだぞ。スペイン語も随分と上達していて、一昨年のμとは違う。今年もこの村まで来てくれて、我らの主イエスを刺繍して写し取っているのさ。分からないのかい、彼女は芸術家さ…何?バスクの言葉?μはニッポンからのお客さまだぞ、おまえも少しはまともなスペイン語を話すことだな」
 未有は確かにサント・クリメント聖堂の壁画を事のほか気に入っていた。それは困惑した日本語の呟きに見え隠れしていた。
「洗礼も受けていないけれど…イエスの見ている先にあるもの、それが地球の反対側の海上だとしたら…ここのイエスだけが正真のイエス、なんて言ったら叱られるかしら」
 にじり寄るように賞賛されて刺繍に写されはじめたイエス。それは遠望しているような全能のイエス。しかし未有が素朴な壁画を見た最初の素直な印象は不幸なものだった。それは不謹慎で村人にはとても語れない。主の背景はなんと悠長なまでに青いことだろう。無機質に清澄すぎる効果は、確かに絵画らしい絵画としては充分に成っている。しかし未有が瞬く間に連想してしまった先には、オーストラリアの原住民アボリジニーの赤銅顔があった。これは…十六歳の真冬、名古屋の展覧会で見たノーザン・テリトリーの幼虫食い男ではないか…そう思うと偉大に昂ぶらせる背後の青色は、あくまで荒野で生きる純朴と明朗の象徴そのものである。そして息を殺して幼虫食い男に重ねてイエスを見ようとすると、青年とはとても呼べない放浪のはてに捕まった大柄な罪人だけが残った。成層圏に繋がる青はすでに劇的な死を予感させる。これなら嬲られて物見高い女たちを擽るように虜にしただろう。この冒涜と違わない連想に次ぐ連想は、信仰をもたない未有を奇妙に興奮させたのだった。
「蝶と空色の聖衣に包まれた男…蝶は彼をどうする?すでに空色と化している男をどうする…」
 気がつくと、聖なる象徴から拡散しようとしているラピスズリの宙を、未有は黙々と刺繍で写しとっていた。異国の聖堂にあって言葉をかけられることがない、という異常さにたじろぐことがなかったわけではないが、晴天の厳かな暴威に呑みこまれていた。
 九日目の午後だった。いつも膝に擦り寄る黒縞の雌猫を朝から見ていないのが気になっていた。アントニオが済まなそうに刺繍を断ちきらせて告げた。
「μ、お友だちがお見えだよ」
「友だち…あたしに?友だちなんて、そんなものはいない、μにはいないわ」
 アントニオの優しさは感得していたが、思わず不愉快そうな頬を見せてしまった。未有は針を煌かせて笑顔に努めて言った。
「ごめんなさい、おそらく旅行代理店か何かじゃない?」
「Es una muchacha bonita. 彼女はまるでカタロニアの童女のようだよ」
「カタロニアの子供?」
 未有は首を捻って針を皮の収具に差し入れた。躊躇して見上げたさきには、煤けたようなイエスのくっきりした鼻筋がある。誰の来訪であろうと、今は右手を掲げた蒼衣の男が未有を虜にしていた、上海で見た憔悴しきった白馬の刺繍のように。
「ともかくμを知っているニッポニアだよ」
 アントニオは何と言葉を続けていいのか、壁画の真下で驢馬のように右踵を踏み確かめていた。
「ニッポンね…やっぱり」
 未有はそう言って膝を立たせながら小さく吹出した。「ニッポン」と発音した直後に、側頭葉にパスポートの不満そうな自分の顔が明滅したからだ。スペインの山村の聖堂の薄暗がりで、煙たい眼をしたモンゴロイドが何をやっているのだろう。いずれにせよ、優しいアントニオを待たせられない、と思って立ち仰いだ瞬間だった。悠長に教え説いているイエスが、離反に激して一喝する猛禽に見えた。
 未有は拘束を解かれたように、アントニオの後について小走りに聖堂を出た。
 誰だろう?雲の陰影を追いながら腑が重くなる。カタロニアの少女のような日本人って誰のことだろう?こんなところにまで、友だちを装ってわけの分からない詐欺師がやってくることもないだろう。暗雲が早く流れる一月の山中にやって来た友だち…嬉しくもなければ嫌悪もさほど見当たらない、という不意を突かれたわりに鷹揚になっていく自分の感情に笑みがもれた。
 アントニオが怒鳴って前方に注意を促した。小型トラックの運転手は怒憤の表情のまま未有の脇を避けていった。

 未有が朝夕に座っている席にいたのは、少年のように髪を刈上げた女性だった。
「あれ…タマキ、環ちゃん?」
 未有を待っていたのは郵便局に勤めていた頃の同僚、鷺宮環(さぎみや・たまき)だった。アントニオが形容した縄文の末裔らしい濃い目鼻立ちの相。黄壁色の防寒ジャケットの袖口から出た白人参のような手が口許を抑えている。未有が椅子を除けながら近づくまで呼吸も止んだようだった。
「米倉さん、未有さん、お元気でした?」
「環ちゃんよね…あたしは元気」
 環は記憶にある未有の物言いに頷いた。ツアーバスを降りるまでに、何度もこれから尋ねる未有の硬質な物言いを辿りきっていた。しかし三十二歳になっているはずの未有は、濃い口紅とメドゥーサのように豊富な結上げ髪を揺らしながら座って、その存在感は予想どおり環を圧倒した。
「コーヒーでいい?Déme dos tazas de café. …で、よくわかったわね、ここにいるって」
 環は素直に驚愕したまま茫然としていた。喉が膠着したようになって、未有の実家に問合せしたことを音に出せない。すると未有は自分の荒れた左人差し指を見下すようにして苦笑して見せた。
「見つかった犯人みたいなこと言っちゃった。四日市のうちの方へ電話すればわかることだよね」
「そう、おしえてもらっちゃいました」
「それにしても、普通の人はここまでくるのは大変でしょう?」
 環は云々と頷きながら、少女の頃から不思議だった先輩の威が増していることを感じていた。
「化粧が濃くなったので驚いた?あなたは変わらないね。髪は短かったけれど、そんなもんだったかな…ほんと、アントニオが言うようにカタロニアのMuchacha Bonitaだね」
「Bonita…ああ、ボニータ」
「Muchacha Bonitaカタロニアの女の子みたいだって。それにしてもよく来たよね、ここスペインだよ」
「思いきって…来ちゃいました」
「来ちゃいましたって、だって来ちゃったのが環ちゃんだから…あたしね、勤めているときの印象だけれど、環ちゃんは明るくて付合い好きで酒好きだったから、要領のいい温泉派かと思っていた。まして今は冬だし…バルセロナに来たんでしょ?」
「そう、バルセロナ・フリータイム四日間」
 未有はカウンター越しから濃醇な香りのカップを受け取りながら頷いた。
「今日は何日め?」
 環は自分に示すように二本指をおずおずと立てた。
「二日めか。ここのコーヒーは濃いからね。あなたってお茶じゃなかったぁ?もっとも、お茶はないけどね。ごめん、久しぶりの日本語だからさ、ばたばた話しちゃっているよ」
 環にとっては、ずっと寡黙な不思議少女だった先輩の未有、ややもすると周囲は眼鏡越しの上目遣いに睨まれると、見たままに「陰険を描いたような米倉のところの末娘」などと陰口をたたいていた。同じ女子高校のニ学年上で、成績が上位にも拘らず進学せずに郵便局に就職したこと、環の耳にも母親たちの立ち話から何かと偏屈さは漏れ聞こえていた。そして環自身は二年後に辛くも同じ局に就職できた。ところが黙りこくっている先輩は、六年間の勤務をあっさり打っ遣って大学へ進学する。やがて専攻したのがスペイン文学と聞いて、パソコンのメールに懲りだした環は遥か縁遠く感じていた。
「教会で刺繍をされているって、お母さんから聞きました」
 未有は眼鏡の奥の眦を微動だにせず言った。
「されているって…たいしたことやっていないわよ」
「刺繍って、あのぅ、キルトみたいなものですか?」
「流行っているね、キルト。あたしのは中国仕込みの地味ぃなやつ。そうね、あたしらしい遊びでしょう」
 環は頷くともなくコーヒーの苦味に逃げるように啜った。
「そうだ、ごめん、自分がひとりなものだから…バルセロナにはluna de miel(蜜月旅行)だったりしてぇ?」
「luna de…何のことでしょう?」
「ほら、彼氏とか旦那さんがご一緒なのかな、と思って」
 環は煙たさを掃うように首を振ってふかく座りなおした。
「そっちの方は、未有さんが局を辞めた翌年に結婚したんですけれど、すぐに別れちゃって…」
 未有は応ずるべき日本語を失った。もとより取り繕る言葉など備えている質ではない。しかし同じ町に生まれ育って見知った後輩、顔立ちに沿って内面までもが整然順風としていそうだった環、彼女が異国にある自分を尋ねてくれた驚き以上に、頑なではあるが明朗で美貌の彼女が、昨今ありがちな不慮に遭遇していたことは呆然とさせられた。
「そんなに驚かないでください…もう随分前のことなんですから」
「驚いちゃいないけれどさ、結婚も離婚も。ただ、あたしが想っていた、勝手に想っていた環ちゃんからすれば…やっぱり驚いているのかな」
 環は目を伏せて払うように胸元の下を押さえた。
「何か食べたほうがいいですよね、何も食べてきていないから…そうだ、未有さん、来ていきなりですけど、あたしって…幸せそうな日本人に見えますか?」
 未有は写生するときのように反り返って、左右に肩をひきながら四日市の後輩を凝視した。煤けたバシリカ式の石組アーチを模した壁紙を背にして、意志が強そうな眼光の…それも幸せそうに見えるかと聞かれれば、彼女が抱え秘め続けてきたものが、その白い咽喉元を破ってもぞもぞと出てくるかもしれない。なにしろここはカタルーニャの春まだ遠い山中なのだ。
「幸せそうに見えるよ。日本人はね、刺繍をしているときも、テレビでfútbolを見ているときも、愉快そうには見えないらしいんだけれど…環ちゃんはさ、Muchacha Bonitaだからね、四日市の郵便局でも楽しそうに見えたよ、あたしには」
 環は瞬きひとつしなかった。微動だにしないというより微動だにさせない数秒は、村の時間の中核を捉えたかのようだった。そんな彼女が空腹をさておいて、放るように 姫のようなことを問うている。たとえ咽喉元から蚕が二、三匹出てきても、やはり幸せそうに見える日本人だった。
「幸せそうに見える…そして、あたしもお腹空いていたんだ。ボカリィーリョでいいかな、辛いチョリソーを挟んだボカリィーリョでいぃ?」
 未有はそう言いながらアントニオに向かって左手を掲げた。
「あたしもそれで…未有さん、番場(ばんば)局長のこと、憶えています?」
「憶えているわよ、アル中局長でしょ。酔うと触り魔で…スペインじゃmolester(痴漢)って言うらしいけれど」
 環は注文を確認しにきたアントニオの横顔を一瞥した。四日市の伊太利料理店「ネアポリス」で辞表を書いているとき、宥めるように見上げてくれたナポリタン・マスチフ「イカスミ」に似ていると思った。
「あたしはマスタードいらないです…その局長から『鷺宮さんはね、しっかりしているから疲れちゃうんだよ』って言われました」
「しっかりはしていると思うけれど、疲れちゃうか…環ちゃん自身は実感があるの?」
 未有はsopa de espinacas(ほうれん草スープ)を追加しようとして、厨房に入ろうとするアントニオを呼びとめようとした。しかし向かいのBonitaは破裂している。青竹が折られ裂かれたように涙が滴っていた。
「実感っていうか…体のどこかわるいのぉ?」
 アントニオが低まった日本語の気配に感応して振り返った。
「疲れちゃうのは周り…周りの人たちが…あたしに疲れちゃうって…」
 未有は酸欠の鯉のような口許で肩を落とすように両肘をついた。そして一〇時の視界方向で窺っているアントニオにsopaを注文した。
「そうか、ご免なさいね…あたしって、人に対して見たままっていうか、配慮が足りないっていうか…やっぱり無神経なのかな」
「…未有さんが謝ることじゃないです…来る途中で分かりました、自分の旅の意味が、局を知っている人に、局を辞めたことを話したがっているんだって」
 未有は古樫の卓や椅子、そして壁紙の落書きを初めて見るように振り仰いだ。
「そうか、辞めちゃったんだ…環ちゃんらしいって言えば環ちゃんらしい…環ちゃんってさ、あたしと違って気配りができて、思いやりがあって…でもさ、意地っ張りだよね」
「それって未有さんのことじゃ…」
 未有は異国で不意のとどめを突かれた。そして素直に飽きれた頬骨から白光が照射される。環はそれを鼻梁で受容すると、厳かな視線を孕んだ大らかさを感じた。涙腺に別の興奮が走る。二人は同時に吹きだし笑った。
「環ちゃんたら、失礼よ、いきなりこんなとこまで来て」
「未有さんだって…そうだ、伽羅蕗(きゃらぶき)のこと、憶えています?」
 未有は眼鏡を外して笑い目尻にそえていた指先を硬直させた。
「憶えてる。あたしの弁当の伽羅蕗を見てさ、うちの父もね、お酒を飲んだ後は必ず伽羅蕗でお茶漬けなんですよ、とか言ったんだよねぇ?」
「そうそう、あのときも今みたいに笑っちゃった…急に自分の言ったことが可笑しくなっちゃって」
「だいたいさ、環ちゃんは失礼なのよ。あたしをオッサンに見ていたでしょう?」
 未有はそう言いながら腰を斜にずらした。驚愕の末に寛いでいる実感がある。日本語での会話が、氷雨を遣り過ごした後の温シャワーに似ていた。
「四日市の話はさ、またゆっくり聞くとして…昨日はお決まりのバルセロナ観光ぉ?」
「ええ、ガウディの何たらかんたらをぞろぞろ案内されて…夕食は、サッカー留学している子と会いました」
「サッカー留学ぅ?fútbolか、へぇ、次はfútbolの選手を追っかけているのぅ?」
「女の子ですよ、去年の九月からエスパニョールにきている」
「女の子?女子のfútbolか…へぇ、女の子のfútbolもそこまでやるようになったのね。エスパニョールの女子か…何かで見たわ、Espanyol Femenino とか」
 環も一転心なしか寛いできたようで、樫のテーブル上に丸い爪先で漢字を辿った。
「緋山(ひやま)っていう子です。赤い緋色の緋。もともと伊賀の『九ノ一』でやっていて…未有さんもサッカーをご覧になるの?」
「ご覧になるほどじゃないけれど…fútbolは見るよ、いやがおうでも」
 未有は薄ら笑いながらカップを掲げて、自分の唇痕を覗くふりをしながら、ほうれん草の自家製缶詰を取り出すアントニオを窺っていた。
「ここでもね、テレビでやっているのっていったらfútbol、それしかないけれど。彼にしたって、エスパニョールの試合だと人が変わっちゃうのよ」

 未有はタウリ村を案内することになるとは想像もしていなかった、まして一顧だにしなかった後輩の環を連れて。聖堂へ向かう道すがらに己の鼓動の高鳴りに気づいた。異邦人として死ぬのも自分らしい、などといつも苦笑している自分が喜々としている。高貴な掃天を刺すうえでの煩悶がどこかに逸れている。淡々とした直情径行な未有が、不意に惑いだした軽佻浮薄なμになっていた。
「あの渡り廊下のあたり…ういろう、っていう感じじゃないよね。柱が雨に濡れても、蜂蜜が滲みこんだカステラって感じかな」
「詩人だったんですね、未有さんて…そうか、あたしへのサービスですか?」
「こうなっちゃうのよ。だってさ、四日市でコンビナートの鉄パイプばっかり見ていたのにさ、いきなりこういった聖堂の風化しそうな柱でしょ…」
「ということは…村の人も、村の人が言っているスペイン語も、詩人ぶっているって言うか…失礼かもしれないけれど、大袈裟なんですか?」
「大袈裟よね。でもね、失礼じゃないわよ、自分の感想だもの。あたしが知っている環ちゃんは真正面の構図…そう、これから見てもらうPantocratorみたいな人」
「Panto…」
 環はスペイン語の音を聴き返そうとしてやめた。
「Pantocratorってね、ぱっと見にはピカソなんかの土壌っていうのか、カタルーニャらしい素朴な表現の全盛というのか…そして、あたしってやっぱり根性が悪いのか、四日市のママさんたちが、これから見るキリストに追いかけられて逃げだす姿を想像しちゃってさ…笑っちゃうのよね」
 環は腰を退くように立ち止まって、拱廊に林立する柱を訝しげに見つめた。
「こういうところで生活していると…失礼かもしれないけれど、物事に対して臆することとかなくなっちゃうのかしら…」
「だからね、失礼じゃないわよ、真正面から見たままの環ちゃんの感想だもの」
「見たままに感想を言ってきたら…周りの人たちが疲れちゃって…」
 未有は眉間を這いだしたBonitaの手を取った。
「疲れちゃうのは、元々疲れている日本人だけだよ。名古屋の栄町まで出掛けてさ、女の子のお尻を触っているmolesterだけ」
 環の眼は翻弄される慄きに瞠られた。
「どうして…どうして未有さんはそうなんです?孤立することに…失礼かもしれないけれど、独りでいることに慣れきっているんですか?」
 未有はびくんと硬直して鐘楼の上空を振り仰いだ。まるで飛翔体を見つけたかのように微笑む近眼の女。カタルーニャの画家であれ、四日市を引きずってきたBonita環であれ、誰であれ、素直に感情を表現させる土地の秘密を一瞬見たような気がした。
「言ってくれるわね、独りでいることに慣れきっているのかってぇ?」
「ご免なさい、だから失礼かもしれないけれどって…」
「だから失礼じゃないって…これからよ、これからが本番、あたしが知っている環ちゃんの言いたい放題は」
「そんなふうに言われると…」と口篭りながら環は手を振りほどいた。「あたしが言いたい放題に言ってきたから…みんな、遠いところへ逃げて行っちゃったのかな、とか言うと、あたしらしくないんでしょ…」
 未有は声のない笑いを薄い唇につくって、黒いザックから刺しかけのPantocratorをひっぱり出した。
「そうね…環ちゃんはさ、女も男のように意地を張って生活しなきゃならない、と思ってんじゃなぁい?」
 環は突きつけられたイエスらしき泥鰌髭の男に目尻を下げた。
「意地を張ってさ、こんなことをやっていると思ぉう?馬鹿なんだよ、あたしって。ここじゃVacaって牛の意味なんだけど、あたしは愚かな雌牛。確かにさ、馬鹿やってるとさ、女も白鳥のようには見られないけどね」
「それじゃ…言いたい放題のついでに言いますけれど、その愚かな雌牛って、どうやったらなれるんですか?」
 未有はその問いを予知していたように外光から目を逸らした。そして辿り着いた身廊の外側の柱の礎石を、やり場がないようにうな垂れて凝視する。その礎石は補強修復のためか、セメント材のようなものが補填してあった。
「追っかけているうちは…分かんないんじゃないかな」
「どういうことでしょう?…言ってください、局長の栄町通いと同じように、未有さんらしく」
「番場さんの栄町通いか…それと同じなのかな、こんなとこまで来てやっている、あたしの刺繍。逃げだよね、逃避、逃亡…周りや過去の煩わしさを忘れさせてくれる、払拭してくれる、無我夢中にさせてくれるものに逃げてる愚かな雌牛…」
 環は版布の上でひしゃげたイエスに合わせるように首を傾げた。
「逃げてみないと見えてこないものがあるって…だから、追いかけているうちは分からない…あたし、追いかけているんでしょうか?」
 未有は修復痕に指をおくと、眉間にぎゅっと縦皺をいれて頷いた。
「なるほどね、こういうひび割れ、そして接いだ痕…こういうのがいいと思うのは、あたしがジィーンズ世代だからなのかもしれない…」
「未有さん、あたしは追いかけているっていう意識がないんですが…もちろん、こうやって未有さんや緋山に会いに来ているわけですから、人を追いかけていることに変わりはないけれど…」
 未有は唇を尖らせて裾のインディゴの擦れ落ちを摘まんだ。
「そこまで分かっているなら…環ちゃんも試しに逃げてみればいいんじゃないかな。人から逃げてみる…凄く淋しいけれどね。自分をよく知っている人たちから、会話できる環境から、物事の方へ逃げてみること…たとえ、それが他愛もない対象、他愛もない作業、他愛もない表現だとしても、どうせ愚かな雌牛だもん。男のように人と競争して張りあったり、人とは違うって意地を張ったり…そんな格好いい孤独、凍りつくような孤独、そんなもんは嘘よ、少なくともあたしたち女にとっては」
 環は一月のボイ渓谷の吹き下ろしに指先を震わせはじめていた。
「そのキリストもうそ臭いでしょぉ?くっきりとした線描そのものは好きなんだけどさ…ひな壇みたいなところで水色のワンピース着ちゃって、弟子たちを従えて説教たれて、孤独なんてどこにも見えない。人が淋しいことは知っていたんだろうね、あたしたち女と一緒で…愚かな雌牛とは言わないけどさ」
 未有は虚空に戦慄くBonitaの手を取り直した。
「大丈夫、淋しくたって死にはしないよ。それに…高が知れているんだよ、きっと」
「…何がぁ?」
「あたしたちがね、女が孤独ぶってみたって、男のそれと比べてみれば、きっと高が知れているんだと思う。今日しっかりと分かったよ、その辺のことが。環ちゃんに会って…あたしはね、環ちゃんを待っていたんだと分かった」
 環は海驢のように嗚咽しながら濃紺のセーターの胸へ頬をあずけた。同じ冬の曇天とはいえ、カタルーニャのそれはより哺乳類の動態を促すのだろうか。環は大袈裟に乗る足許を踏まえたかのように、粛々としたロマネスクの古柱の下で破かれたように泣いた。
「もう奥へ行こうよ、寒いし…」
 未有は泣き乱れた髪を擦った手を嗅いだ。
「これって…カルソッツの匂いかなぁ…」
「カルソッ…ああ、昨夜ね…緋山と一緒に食べた葱のことぉ?」
「そう、葱を直火で真っ黒に焼いたやつ…環ちゃん、あんたさ、もしかして頭洗ってないでしょぉ?」
 環はやっと荒野に放りおかれたBonitaらしくこっくり頷いて舌を出した。
「飲み過ぎちゃって…二日酔いなのかな、こんなに興奮しちゃって…」
「二日酔いか…言ってくれるわね。環ちゃん、あんた、愚かな雌牛の見込みあるよ」
 未有は寒気を掃うように刺しかけのキリストを奪い取った。風はそれを彼女の旗のように、Pantocratorの青を時雨れてきそうな実空に翻させた。

                                       了
サッカーと11の寓話

サッカーと11の寓話

  • 作者: カミロ・ホセ セラ
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1997/04
  • メディア: 単行本



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