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パセリ、イール・アンド・タイム   Naja Pa Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 トム、君は鰻のパイか鰻のジェリーを食べたことがあるかい?僕はイースト・エンドの繁盛店までわざわざ行って、正午前だというのに客が神妙に並んでいる列の後尾にそっとついてみた。そして黙々と順番を待っている列の僕の前にオードリーがいた。彼女は灰色がかった黒髪を僕よりも短くしていた。
 僕は立ったまま居眠っていたようなオードリーに話しかけた。
「ここはそんなに美味しい店なのかい?」
 オードリーは揺り起こされた猫さながらに恐いほど綺麗な目を振り上げた。
「平均的な店よ。中国人?旅行中なの?」
 僕はいつものように韓国人であることを告げる。そして「from Osaka」でレイトン・オリエントの試合を見に来たことを話した。
「鰻はパイとジェリーのどっちがお薦めなんだろう?」
 オードリーはこの後に度々見ることになるのだが、討論中のサッチャーのように仰け反り鼻先を空へ向けて、僕の全体を観察したあとで言いきった。
「ジェリーよ。ここのはちゃんと皮までついている鰻が味わえるから、日本から来た人向きでしょうね。残念ながら生で食べさせる店はないけれど」
 僕は少々横柄に響くオードリーの英語に、いや、もっと正確には憮然とした桜貝色の厚めの唇に魅せられた。できるだけ長くその唇を見ていたい。引っ込み思案な方の僕がそう思ったのだ。正直なところ、鰻はジェリーでもパイでも何でもよくなってしまった。
 それにしても長らく待ったのだから、あるいはオードリーと出会わせてくれたのだから、鰻は丁寧に頂かなくてはならない。僕のジェリーは、煮込んだ鰻に透明な寒天をのせてあってデザートのように煌いていた。そして彼女のパイにかかる大量の薄緑ソースは、皿から溢れてトレイに見よがしに氾濫していた。そして白セメントのような付け合わせにマッシュをどっさり。いや、むしろロンドンではマッシュを食べるために鰻のジェリーやミートパイがあるのかもしれない。オードリーは皿の威容を見て驚いている僕を冷ややかに見上げた。そして彼女は代金を支払ってさっさと窓辺の席へ行ってしまった。僕はトレイを抱えて追いかけた。
 トム、僕だってこうして桟橋から恋の船に飛び乗ることもあるのだ。自分が在日の韓国人の旅行者であること、大阪の鶴橋に長くつきあっているガール・フレンドがいること、そんなものはホテルの朝食のスクランブル・エッグだ。つまりは、この戦慄と甘美の瞬間にとっては、好むと好まざるとに関わらず「さっきまでの日常の僕」なのだ。僕はここのマッシュ以上に美味なマッシュを知らない。そして男と女は魚と香草みたいなものだ、などと後に言えるようになったのはオードリーとの出会いがあったからだ。僕は窓外の通りを見ている彼女に僕の名前を告げて、彼女はソースを扱くように含んだあとで「オードリー・エリス、オードリーよ」と言ってくれた。
「レイトンの試合?アーセナルじゃないの…」
「アーセナルが好きなのかい?」
「アーセナルしか知らないの。リンダが、同居人が時々テレビで見ているわ。アーセナルのフランス人選手が好きで、ヘンリーとか…」
 あの頃のアンリはアーセナルのアンリだった。
「アンリのことかな」
 オードリーは僕が鰻のジェリーを口に入れるのを見ながら微笑んだ。
「そう、アンリ、フランス人だからアンリよね。フットボールのことはこんな調子よ」
「それならご存じないはずだ、二匹の赤いドラゴンが向かい合っているレイトン・オリエントは」
「レイトン・オリエント?ごめんなさい、知らないわ。フットボールのことは知らないし、ロンドンにはまだ六年しか住んでいないのよ」
 トム、類は類を呼ぶとは使い古された言葉だけれど、オドーリー・エリスとの出会いは落雷のように僕の頭に刺さってきたのだ。
 オードリーはアバディーン生まれだが、六年前に肉屋を営んでいる従兄弟を頼ってロンドンへやってきた。そして肉屋での勤めの合間に小説を書いている。どんなものを書いているのか、と聞いてほしい。僕も食べることを忘れて彼女の英語に聞き入った。
「二十歳の鱈漁師の話よ。鱈よ、鱈。鱈は安くて美味しいわ。鰻は漁獲量が少なくて貴重品ね。ロンドンでも安くないけれど、ここまでくれば名物料理とかで適当な値段になっているけれど…知っていた?一匹だってテムズの鰻じゃなくて、オランダで養殖された鰻よ。そう、ダッチ・イール…日本人のように色白だわ。ごめんなさい、韓国人だったわね。でもこの緑色、パセリ、この香り、タイム、これらはロンドン郊外のものよ。分かる?タイムの香り…鱈漁師の話?そうね…私の小説の前にあなたの小説を話すべきじゃなくて?」
 僕は腹へ落ちたマッシュに鼓舞されて自分が書いているものを言った。
「警察官の話ね…殺人事件は好まれるわね、国に勢いがあって皆が刺激を求めている、そういった時代には」
 僕の頚骨の芯にあって留まってきた男の羅針が震えたような気がした。
「失礼に聞こえるかもしれないけれど、ニューヨークやトキョーでは、まだ無口な死体が好まれていて、英国のように雄弁な幽霊が好まれる段階にまで至っていないと思うの。あたしはいつも幽霊と向き合って小説を書いているわ」
 オードリーの想い人は鱈漁船の乗組員だった。互いが二十歳になったときに結婚を約束したが、まもなく転覆事故で冬の海に消えてしまい、夏でも湿ったセーター姿のまま水辺に現れて…執拗に(恋人だったからね)オードリーに小説を書かせているわけだ。
「え?そうね、愛が書かせている、と素直に言ったほうがいいのかもしれない。愛もそうだけれど、こういった雰囲気が必要になってきて…この界隈がアバディーンの一廓と似ているの、魚臭いところなんか。あとはあたしの腕次第…魚にはね、パセリのこの緑とタイムのこの香りが必要なのよ」
 トム、ここで僕の両の頚骨の羅針は、鰻のような極細の束光となって脊椎の大道へ流れ落ちたのだ。
「パセリは冷静だわ。あたしはずっとパセリのままでいたい。タイムの加減は、一緒に食事をする相手次第よ」

                                       了
恋の骨折り損 シェイクスピア全集 16 (ちくま文庫 し 10-16)

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  • 作者: W. シェイクスピア
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/05/08
  • メディア: 文庫



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