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華菜   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 紀ノ川に沿った粉河寺の門前町に市がたつ。青々とした野菜ばかりが並ぶなかに柑橘が見えた。季節は春も盛りとはいえ、四季を問わずに柑菓が見出せる昨今にあって、唐突ではあるが鬼頭のような柑橘が見えた。拳大の山吹色のそれを三宝柑といった。
 市のおばちゃんが欠伸を続ける前で、色黒の娘がおもむろに歪なひとつを取り上げて、勾玉でも見出したように見つめていた。彼女は女子高生の佐々木華菜(ささき・かな)、十六歳である。眼差しはじっと右手の三宝柑にあるが、思いは左手の切頂二十面体のサッカーボールを模した小銭入れにあった。
「あのね、これを五個ほしいのだけれど、キロあたりから計算すると…五個で六百円くらいはするよね?さっき使っちゃって…五百二十円しかぁいのよ」
 おばちゃんは顎の先を掻きながら頷いて、スーパーのビニル袋に五個を放り入れた。小銭入れには五百円硬貨一枚と十円硬貨が十枚以上押し合っていて、華菜は息を呑んで五百二十円を渡した。これでお父ちゃんと兄ちゃんの分も確保できた、酒ばかり飲んでいて「わっしゃは食べたくないよ」と言うに決まっているが。
「ともかく、こういったもんのクエン酸は、細胞呼吸を促進して、疲労回復や造血作用に働いて、アセトアルデヒドを分解して二日酔いを防ぐ、とあるから食べた方がええって」
 華菜がそう言って、三宝柑を剥いた手の黄ばみを目にしたとき、お父ちゃんが兄ちゃんに向かって思い出したように聞いた。
「松本さんの奥さん、むかしぃ…ストリッパーだったんだってぁ?」
 柱時計の振り子がこのときとばかり硬質に振れたような気がした。兄ちゃんはコップ酒につけた唇を窄めて、一変に二十年は老けて五十前の矢沢栄吉のような顔になった。お母ちゃんは条件反射で正座し直した。不思議なもので、お母ちゃんの改まった正座は、風や虫を避ける仕種のように華菜へ伝播した。あとはいつものように、兄ちゃんが上の空で聞き流してくれれば、お母ちゃんも華菜も膝と腰を弛めていける。この晩の兄ちゃんは格好よかった。
「どなたはんが、そがなことを言ってあったんだ?」
「ああ、サッカー部の顧問の…」
「顧問の先生と言ったら、漢文の先生やろう?」
「ああ、そうなのか…」
「そがなことを、漢文の先生がお父ちゃんに教えてくれたのか?」
「ああ、いや…」
「お父ちゃんな、気を使ってな、むりにそがなことを話さないでもええんだよ」
 お母ちゃんは兄ちゃんが寄りきったと見るや、箸と茶碗を音もなく置いて、背筋を伸ばして顎をひいた伏目で首を横に振った。
「悟(さとる)、声が大きいちゅわけよ」
「大声を出さしちゃるのはどなたはんやろ?」
「みんながみんな、同じような気持ちかどうかは分からんよ」
「やしぃ、それを言ってるんだよ。無理にくだらんことを言わなくてもええ、そうやろ?」
 お母ちゃんの柔和な視線は、兄ちゃんのコップを掴む指先から側頭部辺りまでを辿る。そして兄ちゃんの首筋の赤らみ具合から、停滞してきたアセトアルデヒドの性質を読むのだった。
「怒らんでね、邦子ちゃんと何よあったの?」
「なぁんもないよ。なんで、うちの親は怒らせるようなことばっかり言うのやろうわ」
「やしぃ、怒らんでね、と言ったやないちゅわけ」
「やしぃ、そういう言い方は、俺が怒るのが分かってあるからやろう?」
「ええかい、おまえが理屈っぽくなってきたときは、外で何よあったときなのよ」
「それはそやろう、外に働きに出てあったら、何よ、ええこと、わるいこと、あるにきまってるちゅうわけよ」
 兄ちゃんはそこまで言うと、啜る滴もないコップを置いて、白々としている三宝柑に手を伸ばした。房を丸ごと頬張って酸味に顔を歪めた。華菜には益々格好よく見えた。
「華菜、まだ酸っぱいけれど、体には良さそうだな」
「そうやろ、兄ちゃんのためを思って買ってきたんやしぃ」
 お父ちゃんはそう聞くと、コップをかっつんと置いて柱時計の方を見上げた。そうそう、風呂に行ったほうがいい、と言わんばかりにお母ちゃんは素早く立って、お父ちゃんを促すように風呂場へ向かった。お父ちゃんも廊下を鳴らして向かって行った。
「兄ちゃんは、松本コーチの奥さん、ストリッパーやったのを知ってあったの?」
「松本さんの奥さんはな、ちっとかり男っぽくて、性格がストリッパーなんやろうな、きっと」
「性格がストリッパー…」
「そがなことより、三宝柑、やっぱり五個買ってきたのやしぃ、はやく摩魅(まみ)にもあげてきなよ」
 華菜は驚いた眼を上げた。兄ちゃんの合わせられない眼は、お母ちゃんに似た目蓋の下で泳いでいる。華菜は剥いていない三宝柑を持って仏壇へ向かうとき、少々生意気ながら妙な確信を持った。兄ちゃんと邦子さんは、そこそこ旨くいっている。そして小学生の姉、摩魅の顔写真の前に、なかなか居座らない山吹色の三宝柑を置いた。

                                       了
ハロルド・ピンター (2) 景気づけに一杯/山の言葉 ほか(ハヤカワ演劇文庫 24)

ハロルド・ピンター (2) 景気づけに一杯/山の言葉 ほか(ハヤカワ演劇文庫 24)

  • 作者: ハロルド・ピンター
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2009/09/30
  • メディア: 文庫



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