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藍の醒春   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 日間賀島は蛸の島とも言われている。蛸の干物が有名で島が蛸の形状をしているわけではない。それにしても三河湾という入海近い波は人を悠長にさせる。私は先月で終っている河豚漁を表紙にした案内書をふたつに折って眼を閉じた。そして中年の脂じみた額を波粒が弾けるフェリーの窓にあずけてみる。数分でも眠りのような弛緩があれば随分と腹が据わってきたことになる。しかし波小高いものの快晴の下を走っているはずが、結露に濡れる私の額の裏には、暗天下の浜辺でふさいでいるトレンチコートの蒼ざめた男が見えてくる。振り払うようにして首のマフラーを巻き直してみると、乗場で見た地図上の日間賀島の規模が思い出されて「日間賀オクトパスは無理だな…ボールが海に落っこちてしまう」と小声で呟いて微笑んでしまった。何をやっているのだ、見ず知らずの島へ呼ばれるまま渡ろうとして。落ち着きなくブリーフ・ケースからファイルを引き出して開いてみると、たちまちアコニチン(鳥兜毒)やテトロドトキシン(河豚毒)など自然毒の構造式が蝿糞に見えてきて苦笑するしかない。笑った後で咳き込みながら自分の寝不足顔を想像して懐の携帯電話に指をのばした。
 私は東京の池上で精神科専門の小室医院を営んでいる。祖父の代からの精神病院一家の次男に生まれついて、離婚歴があって中学生になったばかりの娘が一人いる。趣味はありきたりだがサッカー観戦。研修医のときにJリーグが始まると、兄の影響もあって清水エスパルスを応援しはじめた。月に二度は新幹線や仲間相乗りで日本平や草薙のスタジアムへ足を伸ばした。しかし兄が亡くなった二十世紀最後の年を境に観戦から遠退いていった。
 二〇〇三年の暮れのことだった。友人であり患者でもあるヒトシが、蒲田駅界隈で飲もうと電話をくれた。正直なところ目を離せない人間なので二つ返事で店へ向かった。逢うなりヒトシは、真紅のマフラーを恭しく私の首に架けた。いつも巻いているレイトン・オリエントのマフラーである。英国リーズでの学会の折に誘われるままサッカーの試合を観たらしい。学会での成果交歓も上々だったらしく、向躁状態も加わって観戦はかなり彼を興奮させたようだった。彼の興奮続きを見守りながら二人でJリーグ観戦を再開し始めると、翌年の十月にはヒトシの懇願もあってロンドンへ行くことになった。彼がどうしても双対の紅いドラゴンのチームをもう一度見たいと言い張ったのである。レイトン・オリエントはロンドンの下町を本拠とする二部と三部を行き交っているチームである。今となっては果たして毎年どころか二年に一度もロンドンまで行けるか、という極東の野暮用続きにとっては渋すぎるチームではある。そして私にレイトンを知らしめてくれたヒトシは「仕事が称賛されて人生が薔薇色濃くなってきたときに薔薇色の竜が現われた」と素直に応援旗ばかり見ていた。実際にオフサイドひとつの意味も無関心だった。やがて双対の紅いドラゴンと再会してから燃え尽きたように関心を失っていった。
 私はそのヒトシこと栗田斉(くりた・ひとし)のもとへフェリーに乗って向かっていた。
 ヒトシは私と同い歳で数学(本人は幾何学と言わないと憤慨する)の講師だが、そもそも十歳の春から我が家、小室医院に患者として出入りするようになった。彼は田園調布のはずれにあるレンズ研磨工場の一人息子に生まれたが、就学すると早速に軽い自閉症の徴候を見せはじめた(治療に当たった父の記録による)。私が釣り好きな父につきあって竿を継ぎはじめた頃、ヒトシは上級生のいびりに対して咬みつくことが頻繁になり次第に登校しなくなっていった。
 二人の決定的な出遭いは小学五年生のときで、父がヒトシの父親を羽田沖の乗合いの船釣りに誘った日曜の早朝だった。彼は蒼白の瓜実顔に艶やかな栗色の髪を伸ばしていたので十分に女子と見紛った。母は「眼が黒目がちだけれど綺麗ね」と言っていたが、幼い私は彼の眼が少々怖かったことを白状しよう。しかし中学二年の兄が言っていたヒトシの野獣三昧の噂は欠片も見えなかった。小柄なヒトシは人の腕に咬みつくどころか、早速に船酔いして舳先に最後までしがみついていた。あの頃から釣りものとしての魚類よりは、市場や土産物店で光っている甲殻類などの方が好きだったようである。それから父親の釣り談義に伴われるようなかたちで、月にニ、三度ほど通院するようになり、自意識過剰な私の方から意識的に親しくなっていった。私が兄とTVのサッカーの試合を観戦していると、ヒトシは漆のお盆に息を吹きかけて指で三角形をなぞり細かく分割していた(すでに幾何学をやっていたということか)。その後は私も兄がいたクラブに入りサッカー三昧だったので、父親が急逝されて通院しなくなったヒトシとは自ずと疎遠になった。
 再会したのは私が医師試験の勉強に追われているときだった。東急線の蒲田駅で呼びとめられたのは私の方だった。ヒトシは実家工場の草色の作業服を着ていたが、白髪まじりの長髪に薄っすらと髭を生やしていたので、その頃に上野界隈を闊歩していたイラン人のように見えた。驚いている私を駅ビル最上階の喫茶店へ誘ったのはヒトシの方だった。来院しなくなってからのことを聞いてみると、(彼本人が言うには)高校に入学はしたものの風貌や仕草が気持悪がられて中退してしまった。しかし徐々に家業を手伝うようになってみると、幼少からの数学や物理への憧憬が止みがたいことを自覚する。私と偶然に再会したときは、検定を経て工科大の理学部に入学したばかりだった。過日を懐かしむヒトシは柔和な町工場の兄ちゃんそのものだったので、疎遠になってから十代に二度、突発的な譫妄状態に陥って傷害事件をおこしたとは信じられなかった。
 ヒトシの最初の衝撃発言は、サッカー小僧の私と兄との会話中にぽんと投げ入れられた。有名なマラドーナの「神の手ゴール」について兄と私が難じ合っているときだった。ヒトシは水族館で海豚の芸を見ていたときと同じ目で言った。
「蟹は絶対に間違わない」
 私と兄は発作が起きたのではと訝って顔を見合わせた。
「手を使っているじゃん。でも審判はゴールだって言っている。審判は絶対なんでしょ。だったら、なにも変わらないでしょ、どうせ」
 中学生だった兄はやり場なく横になって「話だよ、話をしているだけさ」と言った。
「ツヨシも兄ちゃんも、大人の真似をして話しているだけでしょ。僕は蟹でよかったと思う」
 私はヒトシの言動に世界で最も慣れ親しんでいる自負があったので「オレと兄ちゃんにも分かるように言って」と優しく言った。
「大人の時間潰しを真似しているのを見ていると…大人が言っていることは無駄なことばかりだよ。だから…僕は蟹になって泥の中へ潜りこみたくなってしまう」
 私は大人びた口調のヒトシの童顔を脳裏に明滅させながら携帯電話の受信を検索した。そして子供の頃と心なしか変わらぬ冷静で格調高々な文語調のメールを辿り直す。それでも彼の口語から蟹が出てくる詩の難解さはなくなり、ワープロに付随した文法ソフトの補正に従順になってきているのが見てとれた。

〇七年四月八日 午後九時六分
「桜を追って北上する蜂がいるなら、彼らの背毛に縋りたい四月、小室君、そして御一家の方々も壮健であられると察する。このような華麗な中春の、このような時刻に、このような駄文を書き送ることを許してほしい。僕は君が僕の主治医であるということ以上に、君が僕の遠い幼時から卑近の酔態をも知る友であることを常日頃、幸運に思う」

〇七年四月八日 午後九時二十二分
「失礼した。どうか驚かないでほしいのだが、僕は愛知県の日間賀島というところで、愛知県警に島内を徘徊する不審者として見られているようなのだ。とは言うものの拘束されたとか拘留されているわけではなく、見晴らしのよい民宿で不自由なく逗留している。順を追って書こう。僕の研究の大半が生活上では共同作業であること、具体的に言えば解析のさまざまなアイデアの突端は、すべて藍(アイ)がもたらしてくれていること、これは何度か話したり書き送ったりしているので君も知っているだろう。藍が僕の研究のみならず生活全般において僕を支え続けてくれていること、藍が一年の大半を採集の行脚に費やしていながらも、旅先から僕へ幾何学的思慮と女性的配慮を与え続けてくれていること、これらの事実を知っているのは友人である君だけだ。申し訳ない。感情的な前置きは控えねばならない。藍からいつもどおり十一日と六時間の間隔を置いて連絡があったのは六日前の四月ニ日だった。僕は毎朝、人並みにPCのメールはチェックしている。そのまま添付しよう。
『今年の冬は長かった。あたしの指はずっとかじかんでいて、三月になっても凍えるような海辺に立てなかった。それでも今までは、あたしのあなたへの思いが、あたしを海辺に立たせてきた。あたしのあなたへの思いの核心はあなたへつくすこと。あなたの言葉で言うなら、あたしはあなたといつも水平的だから、あたしはあなたといつも接続している。だから今日以降、あたしの言うことが日常的で鸚鵡貝の殻のように退屈なものだとしても分かってほしい。あたしはあなたのあたしへの接続を試してみようなどとは思ってはいない。ただ、あたしはあなたへつくしてきたように、あたしが通りすぎる傍らで泣き崩れている彼女たちへ手を差し伸べたくなった。すると、瞼の裏には、海流に乗って遡上した、夜半の波打ち際で息をつく紫檀の木偶が見えてきた。耳を澄ますと、何故か遠く離れた女たちの悲鳴を聞きつけることができるようになった。あたしには彼女たちの鳴き声が聞こえる。最初は玄界灘を渡った壱岐の印通寺港から聞こえてきた。壱岐の次には、深夜の厳島の弥山山頂、紀伊水道の沼島、そして奄美の加計呂間島、これらの島の潮も塞ぐ時刻に、あたしは女たちの悲哀と嗚咽を耳にした。そして先日、日間賀島の太平洋を望む防波堤から、あたしを呼ぶ泣き声を聞きつけた。あたしはあなたのテンソルの歌に耳を傾けてきたように、防波堤に座って擦りむけた右の手のひらを舐めている彼女の声に耳を傾けた』
 南から北上してきたようなこのメールは、ここで一旦途切れた文のまま送られてきていた。そして僕が気を取り直して研究に入ろうとして電源を切ろうとすると追申があった。
『朝になってしまった。十代の頃のような朝が忌まわしい苦味と共に戻ってしまった。藍は大事に育ててきたHAPALOから採集した二〇MUの狼花を見ている。そして花を散じて愚かな虫を土に還すことには迷いもない。ひとつだけ畏れている。美しい小島に幸をもたらして余りあるPUFFたちが誤解されないか。もはや、藍はあなたの幾何学に耳を傾けられるかどうか分からない』
 僕は長らく君の患者であるから察してくれようが、この一文を読み終わった後に残っていた安定剤を貪るように服用してしまった。そしてMUについて調べたことが、君へ連絡して助力を仰がなければならない、と決断させたと言ってもいいだろう。MUはマウスユニットなのだろうか。1MUとは体重二〇gのマウスが十五分で死ぬ毒量、という君たちの分野で使う単位のMUで間違いないだろうか、僕の勘違いであってほしいものだが。僕の返信もそのまま添付する。
『何が起きたにせよ、君は早まって行動してはいけない。君が望むなら、いや、君が望まなくとも、僕は君のために島へ向かう気持でいる』
 そして愚かな男なら誰もが知るように、その感情は幾何学など足蹴にしても僕を島へ走らせた。日間賀島は知らぬ地ではなくて父に連れられて遊んだ思い出がある。タイド・プールの宇宙での安らぎはここに始まったと言っても過言ではない。その日の夕刻には知多半島を下って師崎から島へ渡り宿泊先をおさえた。藍が何かをしようとしている、あるいは何かをしてしまった、という嘔吐をもよおすような懸念が肌をあわだたせた。レンタサイクルを借りて夜半の島を時計回りにまわった。翌日の四月三日、人の奔走を見張っている鴎のようなメールが僕のPCに飛び込んできた。
『この小さいけれど美しい島にあたしとあなたがいるなんてほとんど信じられない。あたしは他の恋人達のようにあなたと自転車でこの島をめぐりたい。しかし、あたしの中の藍はそれを許さないでしょう。あたしの中の藍、という感情が覚醒してしまった今となっては、あなたにもっと直にふれておくべきだったと後悔しています』
『君は手を汚してはならない。君の才能は君が採集してきた生化学の華々と同様に賞賛されうるものなのだ。ここが駄目なら君が指定する場所で会おう。どこにでも行くよ。頼むから逢ってくれ』
 藍は今もって逢ってくれない。
 僕はこの小さな島を彷徨するしかなかった。四月三日の夕刻、太平洋側の東港へ向かっていて防波堤の北端に立ちつくす子供を見つける。防波堤には釣り道具や撒き餌などが蹴り散らしたようにあった。近づいてみると少年は怯えるように逃げていって、彼が見ていた眼下には磯釣り姿の男性の遺体があった。正確に言えば遺体だということを僕が確認した。防波堤はさほど高くはないものの、臆病な僕が膝を震わせながら堤を下りたのだ。端正な剃り痕が濃い男らしい顔だった。眠っているように安らかな目蓋に日は照っていて、転落したあとで苦しくて寝返ったのか、頭の出血が額と左頬にまわって粘ついていた。息はなく唇は心なしか灰色だった。正直に言えば僕が咄嗟に考えたことは、目前の遺体と藍が関わりないことを早々に確認して、場違いな現場を離れて自分も藍も島を出なければならないということだった。しかし堤を足掻くように上った僕は民家の方へ歩き出した。警察へ通報してもらった。遺体は名古屋の市議会議員、益子誠一、風に煽られて転落した可能性による頭蓋骨折、これらは警察が教えてくれた断片だ。僕はさすがに臨場の現実に混乱してしまったのか、吃音が先行して会話が困難になってきたので、日常で破綻した感覚を持ったときの君の指示通りに、神経症を患っていて服薬したいことを告げて民宿へ戻った。そこへ藍から僕のPCへメールが届いた。
『藍は今更、人間が生活するということに感動している。彼のような愚かな人間でさえ、時として誠実な人々と関わって幸を分かち合ってきたようだ。藍は美しい島の名誉が守られ、すべてのことがあなたの幾何学のように明晰となるまでこのまま見守っている。藍は島を去るあなたを怨みません』
 このメール以降、今の今まで藍からは連絡がない。そして忌まわしい予感のもとに島へやって来た僕は、どこかで見ている藍の視線を意識しながら島を去れないでいる。どうも不審者として通報されたのか、昨日、七日には畏れ多くも警視庁から電話をいただいた。すると幾何学者などというものは、幾何学へ逃げ込めれば世情も霧散すると高をくくっているのは本人だけだと知って、とても孤軍を全うすることなどはできそうもない。やはりここに到っては申しわけないが君を頼らざるをえない。安定剤を持参してくれと懇願しているのではなく、僕と藍のために、現状の何が明確に推量できるものなのか、何が不可測な混沌としたものなのか、僕に絡んだ藍というアリアドネの結び目に指をかけてくれるのは君しかいないのだ」

 私は携帯電話をたたむと同時に眼を閉じて額を振った。何が何でアリアドネとか、混沌として嘔吐をもよおしたいのは私の方だった。ヒトシは善いにつけ悪しきにつけ変わっていなかった。私にだけ気を許して、彼はいつも一方的に幾何学について語り、一方的に藍について語ってきた。友人としての私の不愉快をどれほど察してくれているものか。微分可能多様体とかいう幾何学はともかく、私はヒトシにとって女神のような存在の藍という女性に会ったことがないのだ。患者と医師の間柄は二十年近くだが、幼少時から三十年以上の縁がありながら彼女に紹介してはいただけない。ヒトシが藍と二人並んでのそれはむろん、藍が一人で写っている写真一枚でさえも見せられたことがないのだ。もちろん声などに到っては、小鳥の囀りなのか、山犬の遠吼えなのか…むろん私は最終的に医師としての分析へ猟犬のように立ち還ること、それがヒトシに関わり続けることだと知っている。


 西港の船着場で私を迎えたヒトシは、行楽客の姿からほど遠くトレンチコートの裾を靡かせていた。髪は伸ばし放題だったが髭は元来、薄い質だったので不潔には見えない。青白い手を握りながら覗きこむと、黒目がちなので充血はやっと確認できるが焦点は定まりなく落ちつきなかった。
「まずは医者の俺の言うことを聞いて持ってきたものを飲んでくれ」
 ヒトシは安堵したように白い歯を見せながらも慇懃を保っていた。
「レイトンのマフラーだね。ありがとう、ここまで来てくれて感謝している。愚かな友人というよりも、奔放不軌な患者の一人として勘弁してくれたまえ。そして、安定剤を飲む前に君に会わせなければならない人がいる。警視庁の薮田(やぶた)という警部補で、今朝早くに来られて僕という異常な人間に多分の興味をお持ちのようなのだ」
 混雑を逃れるようにして港から離れて、新装したばかりのように擬似の白漆喰がまぶしい喫茶店へ入った。慣れ親しんだような「先生、先生」が連呼されて、猫背で疲れた背広の男が跳んで来た。すると奥の席からゆらりと長身で頬がこけた男が立った。一瞬にして育んだ嗅覚を隠すべく、その男の肩の張りが落ちるのが見てとれた。愛知県警の柿崎は父兄に頭を下げ続けてきた教頭のように猫背を折り曲げてから、大袈裟な身振りの下がり口上で背後の警視庁閣下を紹介した。
 薮田警部補はすでに仕事の構えになっていた。もう一人の友人が加わったように私の手を握りながら、柔和な目つきで「大変でしたねぇ、本当に大変でしたねぇ」と繰返した。私は彼の訝しさを頷きながら呑みこんで、一見消沈しているようなヒトシの面の裏洞で苛立っている歯牙を弛ませようとした。
「たまには街から出ませんとね。しかも日本人で四人目のフィールズ賞受賞者にならんとする友人が、日常の雑務ひとつに惑わされることを懸念しているのに、事件に遭遇してしまうなどとは…まったく浮世の配慮を疑いたくなります」
 私に肩を軽く叩かれたヒトシは見計らっていたように微笑んだ。
「警部補は御足労にも東京から挙動不審な幾何学者を尋ねてこられたわけだ。僕のような人間は、君が持ってきてくれる霊薬で落ちつきを取り戻せば、微分幾何学と蝦蛄のようなものにしか関心をしめさない男だと証明できる、と申し上げたんだが」
 薮田は虚を突かれたような唖然とした口のまま頭を掻いた。
「栗田先生、もう脳足りんの警察官をいじめないでくださいよ。私も本当のところはもうちょっと頭が良ければ、こういう島で蛸や河豚、そうそう河豚の毒でも研究して日がな過ごしたかったですよ」
「河豚の毒?」とヒトシは不意撃たれたように薮田を見上げた。
「河豚の毒が関係しているのですか?それでもう一度現場へ同行してくれと。僕が身命をかけて研究しているのは幾何学だけですから、甲殻類、ましてや魚類のことは何もお話できることはない」
「まぁ、あれはおそらく転落でしょう」薮田はそう言って柿崎の背を押すようにして続けた。
「まあ、ちょっとだけ県警につきあってください。栗田先生も先ほど言っておられたように論文の校正もあるでしょうから早々に民宿へ戻っていただくとして、途中、申し訳ないですが第一発見者ですから、ちょっとだけ検証につきあってやってくださいよ」
 私は警察らしい手際に白けた様子を見せてみた。しかし軽く興奮しているヒトシは薮田の眼差しから逃れたかったのか、私から安定剤を受け取りながら紙ナプキンに民宿までの略図を書いてくれた。
「それじゃ、先に行っているので宜しく頼むね。人騒がせな奴だと…今更でもないか。それから…もうこの歳になるとフィールズ賞は無理なんだよ」
 私も四十歳以下という受賞条件は彼本人から何度か聞いていたので肩を竦めるしかなかった。
 薮田はヒトシが出て行くと柔軟な殻を脱ぐように伏せていた目を上げてきた。
「申しわけありませんでしたが、知的で生産的なお仕事をなさっている先生方に、聴取をとるうえで要領だっていないのは無粋かと思いましたし、実のところ私の時間も限られているものですから…」
「警視庁の方がこうして三河湾の島へいらっしゃったのには分けがあるのでしょうね」
 薮田はさらに硬質な背羽を広げるように背筋を伸ばした。 
「もう御存知かもしれませんが、名古屋の市議会議員、益子誠一という方が釣りの最中に事故にあって亡くなりましてね」
「防波堤や磯ではよくあるらしいですね」
「議員の事故は基本的には愛知県警の仕事です。私は栗田先生という方について確認したいことがあるのです」
 私は頷きながら書きとめる気もないファイルを取り出した。
「率直にお伺いして、主治医の小室先生としては、ここ暫らくの栗田先生の精神状態はどのような診断となっていらっしゃるのでしょう」
「もとより知的で生産的な数学者にありがちな神経症です、一言で言えば」
「神経症…大学の先生が論文作成をかねて行楽で日間賀島へ来られて、たまたま散策中に防波堤の釣り人の事故に遭遇された。そして先生は少々不愉快な記憶をお持ちのまま東京へお帰りになった…というふうにはいかなかったようですな、栗田先生の場合は」
「率直にお話しいただけませんか」
「失礼しました。栗田先生は犯罪やそれに使われる凶器や毒物に対して興味をお持ちでいらっしゃる、というようなことはありませんかね」
「子供の頃から好奇心は旺盛なやつですが、私の耳にしつこく残っているのはテンソルとかベクトル・バンドルとかの用語ばかりです」
 薮田はまた肩を落として頭を掻きながら続けた。
「それでも事件に遭遇されて興奮されたのですかねぇ、お持ちになった安定剤を見て大層喜んでいらっしゃったから」
「彼が証明を書きなぐっているところに遭遇すると、私も安定剤を飲みたくなりますよ」
「先生のご専門でしょうが、身近で殺人とか火事とかの事件が起きると、興奮が冷めずにそうとうに持続する方もいらっしゃるでしょう」
「具体的に彼が何をしたのでしょう?」
「失礼、どうも人には率直さを求めていながら自分はまわりくどい。さて、とあるメールが柏の科警研に届いたのですよ」
「柏の何ですって?」
「科警研、科学警察研究所のことで柏にあります。科捜研よりも先生方のお仕事に近いのでしょうけれど…」
 私の手に焦燥に似た湿りが滲み出した。
「そこの法科学第三部の第二研究室、そこの研究員からうちの方へ連絡があったのです」
 私も科警研のことは仕事仲間から断片的に聞き知っていた。法科学第四部が心理学と精神医学のブロックと記憶していた。
「今どきの見通しのよい進んだ公的機関として、通常も外部からの問い合わせはメールで受けているようです。そして先日、とあるメールがその第二研究室宛てで届いた。該博でいらっしゃるから御存知かもしれませんが、この第二研究室は犯罪に関与する毒物及び劇薬の分析についての広範な研究を推進するところですが、メールを送ってきた方も、ある事件に生物毒が関わっている疑いがあるのではないか、という問い合わせというか、示唆するような内容を送ってきています」
「そのメールの主が栗田だとおっしゃるのですか」
「メールの主は携帯電話から科警研へメールを送ってきています。栗田先生は、ノート・パソコンを常時所持していらっしゃるようですが、なんと携帯電話を持たれたことはないとか。数学を研究するのに煩いからでしょうかね?」
「自分や他人の利害にあまり関心を持っていない人には邪魔なのかもしれません」
「なるほど、でメールの主なのですが、メールを貰った場所柄、事件性があると判断してアドレスから電話会社へ照会を依頼しましたら、案の定と言いますか、前払いのプリペイド式の携帯電話から送られてきたメールと判明しました」
「ヒトシは、栗田は携帯電話が落ちていても見向きもしない人間です」
「もう少々聴いてください。拾ったか買ったかはまだ正確には分かっていませんが、現状確認できたことは、電話番号とアドレスを取得した人間はミズシマ・アイ(水島藍)、二十九歳、アドレスはAIWAINDIGO@以下で…アイワインディゴだから藍色は英語でインディゴというようなことですかな。住所は京都の伏見区桃山の公団住宅です」
「京都の伏見区桃山…」
「どなたか、または何か、お心当たりはありませんかね」
「いや、まったく…それで京都のそこはミズシマ何とかさんのお宅だったのですか」
「水島さんは水島さんだったのですが、退官されて久しい元大学教授が古本の中に一人住んでいらっしゃって、親類縁者に藍の名前の方はおられないそうです」
「そこから科警研宛てのメールと栗田がどう繫がるのですか。メール内容も可能な範囲でお教え頂けるのであれば、記憶の経絡がその何かを拾いだしてくるかもしれません」
 薮田はゆっくりと肘掛に頬杖をついて言った。
「繫がりの端緒は、その携帯電話のリチャージ、追加で前払い通話料を購入した際のクレジット口座の名義人が、栗田斉という方だったということです。クレジット会社へも照会を依頼すると、名義人ご本人からの紛失及びそれに伴う被害届けはない、ということと、まして口座番号と暗証番号を知られていれば拾われた金も同然とか」
 薮田は精神科医を相手にして透徹するように目を細めた。
「栗田先生は水島藍という名前もアドレスもご存知ないそうです。親類縁者や大学関係にも心あたりはないそうですが、二十九歳くらいの女性で教え子とかいらっしゃいませんかね?」
 私は不覚にも顔を背けてしまった。
「教え子なんて、そんな馬鹿な」
 薮田は頷きながら使い込んでいる手帳を慌しくめくった。
「ともかく問題のクレジットの口座の名義がご本人ということは確認いただけて、それはそれで厄介なことが露見してしまったわけです。まあ、本人が知らないうちにクレジット・カードを使われてしまったことは事実ですから、カードは使用停止に陥りそれなりの手続きを踏んでいただくわけですが…」
 薮田は老眼なのか見つけたページを仰け反るように注視しながら言った。
「栗田先生は独身者のようですが、女性との交友関係はどうなのでしょう。女性にいつの間にか高額なものをカードで買われちゃった、なんていうことは普通にあることですからね」
 私は藍について平然と首を横に振る鉄面皮のヒトシが想像できなかった。
「確かに何から何まで彼のことを把握しているわけじゃないが、私が知る彼と関わる女性というのは七十半ばのお母さんだけですよ」
「生真面目な研究者なのですね、分かります。ただ、ご本人が精神疾患でいらっしゃるので先生にお聞きするしかないのですが、例えば最近、職場関係とかで外国人留学生とか、一杯飲みに行った盛り場の先で外国人女性と懇意になられたとか」
「いいえ、蒲田生まれの遊び人である私ならともかく、あのヒトシが外国の女なんて…携帯電話を不法使用するのが外国人に多いというのは分かりますが、不法使用の契約内容を鵜呑みにして短絡に外国人女性へ結びつける、いかがなものでしょう」
 薮田が口許を弛めて手帳を胸元へ引き寄せたので、私は相手の懐へ入って間合いをつめることにした。
「と、まあ、私にこういう釈迦に説法を吐かして悠長にさせていては、お互いに時間が勿体ない。警部は人から大事な話を聞き出すプロですし、私は人から大事ではない話に聞き入るプロですから…そもそもあ水島藍が外国人かもしれないという可能性があるのですか?」
 薮田は仕方なく私という人間を警戒レベルまで引き上げたようだった。
「さすがに攻守逆転に敏い、やっぱりサッカーはカウンターですかね、お好きなそうで」と言ってから薮田は身を翳すように伸ばした。
「いいですか、防波堤で亡くなっていた益子誠一には、名古屋市内の風俗店に勤める翠蘭(すいらん)という台湾人女性が同行してこの島へ来ていたのです。そして県警からの身元調査依頼で公安から刑事部の私のところへ通達されたことは、栗田先生と翠蘭がここ西港で六日の午後に目撃されているということです。今いらっしゃったフェリー乗場の向うの防波堤上り口で二人が会っていたと」
 私はすでに驚愕を慣らしきって放心したような情けない顔だったに違いない。
「え~と、事故があったのが三日の夕方で、翌日には県警が同行していた他の議員や風俗店の女から事情聴取をして、午後には遺体の搬送に同行するように全員が島を離れた、となっていますから…」
 私は眉間を抑えて後退するように首を振った。
「つまり、その台湾人女性ひとりがヒトシに、栗田に会うべく六日の日に島へ戻ってきた、ということですか」
「そのようです。こうして短絡な我々が、科警研へのメールの件と翠蘭という女性を繋ぐまでは一本道となるわけです」
 私は仕事柄、ヒトシについて幾何学以外は本人以上に了解と範疇づけができていると想っていた。しかし私の分析も既の時間のことでしかないことを確認させられた。
「いやいや、ボストンとかロンドンとかで知り合った女ならともかく、台湾で、名古屋の風俗店…」
「ええ、お察しかと思いますが、栗田先生は翠蘭に会われたことを否認されました。記憶にない、という表現を繰り返されましてね、西港で道とか店舗とかを尋ねられたくらいのことなら記憶にないと」
「研究に集中しているときは、五分前に口に入れたものを忘れている。あれは子供の頃からそうです。我々とは脳幹の使い方が違う」
「不思議な方ですな。ああいう顔で、記憶にない、と言われてしまうと、これはもう小室先生のお越しをお待ちするしかないかなと…こちらへ来る前に少々調べさせていただいたのですが、いわゆる自閉症児だったそうですね。数学で目立たれはじめるのは高校生になってからで…ちょっと騒ぎも起こしていられますなぁ」
 私は自身も知る情報へ横ずれしてくれたので、一掻き一掻き這うように冷静さを取り戻していった。
「え~と…ご存知でしょうけれど、十三歳のときに、自転車に乗れないことをからかった同級生の女子を突き飛ばして、その子は橋から自転車ごと河川へ落ちて全治一ヶ月」
「河川というほどじゃなく側溝です、その場で見ていましたから」
「それと十八歳のとき、東新宿の路上で無職の女性二人をパイプ状のもので殴打、一人は全治二週間、一人は骨折全治三ヶ月」
「彼もひどいめにあっています。彼女たちから煙草を溶かしこんだワインを無理矢理に飲ませられて急性ニコチン中毒、呼吸麻痺で死にかけました」
「ほぉ…で幼い頃は先生のお父様が主治医で、思春期になってからは通院されていない。やっぱり薬は飲み続けなきゃだめですかね」
「警部もお仕事柄、薬をほしくなるときがあるでしょう」
「い~え、傍目よりも鈍い質で…多重人格?九五年ですが、奈良で会議中に全身痙攣をおこして救急車で搬送されている。東京へ帰ってからの大学病院での診察結果は心因性機能障害、担当教授の所見に、多重人格の症例に似る、とありますが、この頃なら先生が診ていらっしゃったのじゃないのですか?」
「遊び人の町医者ですから」と言って私は自嘲を頬につくった。
「あのときは男女の喧嘩のように些細な擦れ違いがあって半年ばかり疎遠でした。多重人格に似る、という所見についてですが、そういった症例に似ていたというだけで、ドラマティックなイメージは言葉だけだと思ってください。実際、私もドイツで研修中にニ、三のそれという所見の患者を見たことがありますが、日本ではおかげさまで、と言いますか、私が確認しているかぎりでは、似ていてもだいたいは神経症、ヒステリーですね」
 薮田は不快な微熱を感じたのか薄紫のネクタイを男臭く弛めた。
「我々も難しいことにきりきりと頭を使っていらっしゃる先生方を刺激する気持ちは毛頭ないのですが…」
「分かっています、お互い真実を掘りあてるような仕事ですから。そして、ここまで繫がったのなら、友人及び患者でもある栗田斉が重要参考人でも致し方ないことで、彼はむろん、この私も可能な限りあなた達に協力しなければならない」
 私は分析する前に際限ないヒトシの変容を受け入れようと思った。そして勇を鼓して市中の精神科医にならねばならなかった。耳奥で痙攣している幼いヒトシの吐瀉物が鳴る。そして辟易して後退する私を軽く押しのける手、泡吹くヒトシを抱きかかえて優雅なほどに悠々と診察室へ移るのは父だった。やることは決まっている、といつも父は言っていた。それは目の前にある虚妄への阿りに断固抗し続ける戦いである。
「まず、プリペイドの携帯から科警研へ送られたメールの内容を可能な限りお教えいただけませんか」
 薮田は残っていたコーヒーを飲み干してカップへ微笑むように言った。
「分かりました。先生の著作を読んでいるのも何かの縁でしょうから…」


 八足を座りがいいように広げた桜煮の蛸が、女将の容赦ない鋏さばきであっという間に切り並べられてしまった。私はその手際を子供のように羨ましく思っている。焼き魚は上品なほど腹が輝白なカマス。ヒトシは子供の頃と同じように箸先を口に入れて小さい鋭牙をちらり見ていた。
「医者の言う処方を守らず薬を貪り食う患者に飲ませる酒はないのだが…」
 私は皮肉に口端を曲げながらヒトシのコップにビールを注いだ。
「どうするんだ、水島藍のことは。おまえが俺に度々のろけるというか話してくれる恋人、送ってくれたメールの中でも随分と無理難題を言い出した藍ちゃん、その藍ちゃんと水島藍が同一人物ならおまえは偽証罪に問われるぞ」
 ヒトシは乾いていない前髪が視界を邪魔するのも気にせずにコップの泡を見ていた。
「警察が知っていることは、水島藍がおまえのクレジット口座を使って通話料を補填したプリペイド式の携帯電話から、科警研の問い合わせメールとして三部第二研究室宛てで、ある死亡に犯罪の疑いがあるので鋭意捜査願いたい旨を送ってきたことだ」
「鋭意捜査か…」と言ってヒトシは子供のように畏まってコップを置いた。
「一生懸命になって調べてくれと言っている。あとは三日に転落して亡くなった益子誠一が連れてきた台湾人女性の翠蘭、翠蘭が六日にこの島へ戻って来ていて、フェリー乗り場でおまえと会って話しているのを見たという目撃証言がある」
「それは本当に憶えていないんだ」そう言ってヒトシは薮田との不愉快さを思い出したようだった。
「それに、その台湾人がまだこの島にいるのなら、早く捕まえるっていうか、身柄を拘束して本人から聞き出せばいいことだよね」
「分かった、おまえが名古屋の風俗店の女と関係ないことは。また戻るが、藍のことはどうするつもりなんだ。おまえもこの歳になった男だ、俺がここに来るまで、藍の行動にどう対処していくか考えていたんだろう?」
「そうだね…」とさも熟考していたようなヒトシの苦虫顔は、まったく要領立てて考えていなかった証である。
「これからどうするか…でも藍が何かやったような様子は見えないし…」
 私は威圧するように自分のコップに壜を勢いよくぶつけて注いだ。
「充分に世間を騒がせているじゃないか。いいか、おまえの藍ちゃんも、おまえのメールによれば実際に加計呂間島へ足を伸ばしているんだろう?そして水島藍のメール内容は、俺が警部補から聞いたところでは、先月二十二日、加計呂間へ行楽で来ていた福岡の図書館員の女性が心筋梗塞により亡くなった。そして検死解剖に当たった医師は、保険会社からの依頼で臓器と血液を保存して毒物との関わりの分析を行っている。結果として毒物による殺害の可能性があるにしても、おそらく保険金の支払い申請などが出ていない状況なので民事訴追に至っていない。それを不満に思った水島藍は、図書館員に同行していた神田の出版社役員の男性について捜査依頼の旨、科警研の問い合わせメールとして送ってきたわけだ」
 ヒトシはさすがに疲弊したような溜息を吐いてからビールを舐めるように飲んだ。
「それにしても藍はよく調べているようだ、事件の関係者とか保険会社の動向だけじゃなくて、河豚毒などの生物毒についてかなり詳しく。テトロドトキシンが使われた可能性が高いものの、安易に河豚の卵巣や肝臓が分離元だと決めつけずに、豹紋蛸(ヒョウモンダコ)や小さな河豚を獲物にしている鯔(ボラ)類からも分離は可能だと。おそらく、加計呂間で河豚を食ったとか食っていないとか、入手経路がどうのこうので時間をロスされるのを懸念したんだろう」
「学名ハパロカラエーナ(Hapalochlaena)」ヒトシはそう呟いてから傍らのノートPCを引き寄せた。
「豹紋蛸は、唾液腺に二種類の毒を含んでいて、一つは甲殻類を捕らえるためのもので、もう一つがテトロドトキシン、熱帯地方では、咬まれた報告が頻繁で、呼吸困難になって、子供や女性の場合は亡くなるらしいね」
「神経毒だからな、それが彼らの脊椎動物に対する防御ってものだ。メールのハパロ(HAPALO)が気になって調べたのか?そりゃあそうだな」
「PUFFは河豚のことだね。そして君にだけ見てほしいものがある」
 ヒトシは作ってあったファイルを開いてから液晶画面を私の方へ差し向けた。
「僕は、この子が、あのメールを送ってきたとは、信じられないんだ」
 私は画面いっぱいにセーラー服姿で両手ピースサインを突き出すポニーテイルの女の子を見ていた。写真をスキャナーで読み取った観がある。背景は鄙びた反射を見せているが金閣寺の舎利殿だった。逆光でやや翳った面立ちながら鋭利で頑なそうな眼差しがこの時とばかり微笑んでいる。華奢に見えるのは二の腕と膝下が長いからだろう。これが藍その人だとしたら、私は今の今まで何について思考してきたのか自分を訝りたくなる。そして華やかな修学旅行の極まり絵の上に、蒼白なまま詩句を諳んじているようなヒトシの顔があった。
「まさか彼女が来年は同志社か立命館、失礼、京都大学に行きたがっている、なんて言わないでくれよ」
「この写真しかないんだ」と言うなりヒトシはノートを抱え直して一瞥するなりファイルを閉じようとした。
「今まで、藍が言ってきたことからすれば、この写真は十二年前くらい、だろうと思う。もう大人になっちゃって、今年で三十歳になるらしい。この子が、あの四月二日のメールを、あの『HAPALOから採集した二〇MUの…狼花』なんて書いて送ってくるなんて、僕は信じられない。生物毒に詳しいのは、ライフワークの一環だからだろう。それに、詳しいからこそ、黙って見ていられなくて、メールを送ったのだと思うんだ」
「待ってくれ」私はヒトシの息が上擦ったような話し方を抑えた。
「分かった、おまえのそのパソコンの中の藍が、科警研へメールを送った水島藍だと認めるわけだ」
 ヒトシは望んで手繰り寄せた人間関係に俗に言う厄介を見て戸惑っていた。
「ところで、おまえは水島藍の情報をどれほど持っているのだ?男のおまえが、女の藍のことをどれだけ知っているのだ?男女の関係というのは、一時的な関係を美化しがちなのだ。つらいかもしれないが、人は生活するために美化されたファサードを取り払って、一時的な実体のセックスというものに直面しなければならないのだ。眼の前にいる藍の声を聞いたことがあるのか?」
「藍の声…」と呟きながらヒトシは卓の下の翳を食い入るように見つめていた。
「僕は若い頃、セックスを幾何学へ昇華できる、と信じていたわけではないが、セックスから逃れられないのは、若さゆえだと思っていた」
「若くなくても、生殖能力を失っても、生きている限り我々の脳はセックスからは逃れられないよ」
 ヒトシはビールを飲下して目尻に疲れた苦笑の陰影をつくった。彼もまた彼のセックスと遣り過してきたのだ。
「僕らしいかもしれないが、水島の姓だってことも知らなかった。この四年間のメールの遣り取りで分かっていることは、彼女は北九州で生まれ育っていて、学生生活はやはり京都、そして滋賀の製薬会社に就職したが半年もせずに辞めて、援助団体を通じて東南アジアの山村の中学校へ行って、そこの教員として三年間過ごしている」
「東南アジアのどこ?」
「タイのチェンライ県メースワイというところのヴィタヤコム中学校」
「その記憶力は今更驚かないが、かなり詳しいな。いつのまにかタイ通になっているとは」
「僕もいつか行ってみたいと思っているんだ。彼女は時折、思い出したようにメールにのせてくれる、校長先生とかスウェーデンのウメオから来ていた同僚のこととか、サリカっていう少女のこととか。問題の袋小路にはまった深夜などはどんなに癒されるものか…バナナの葉で餅のようなものを包む話、あのイメージは鞍点の解消へのアプローチにとても役立った」
「分かった、この数年のおまえの研究が藍との共同作業に成り立っていることは」
「しかし、あのメールは変だ」そう言うなりヒトシは自分の腹へ放り込むようにノートを引き寄せた。
「四月二日のメールだけが変なんだ。さっき二年分くらいだけれど、藍からのメールだけをまとめてみたんだ。読んでもらえば分かるが、タイの校長が飼っていたクマムシとか、壱岐の蝦蛄の話はあるが、毒の話とか、誰彼が愚かだなどと言いだすのは、四月二日からなんだ」
 私はノートを受け取りながらヒトシの頚椎をひくつかせる沸々とした焦燥を見とめた。そして一旦、藍からの色気を微塵も感じさせないヒトシ宛てメールを読みだすと止まらなくなった。二人が「MAD・CRAB(マッド・クラブ)」という熱帯魚を中心とした海生生物のブログで知り合ったことは聞いていた。いまどき珍しく慇懃で丁寧なヒトシの文が藍の目にとまっても不思議ではない。私は蛸足を必要以上に噛み続けながら古風な文章を追う。純情な人間に相対して純情な人間がいるものだ、と同い年の中年を嫌が応にでも微笑ませながら読み続けさせた。
 ヒトシはいつのまにか座椅子を倒して横になっていた。昔ほど安定剤が効かなくなっていたので、鎮静睡眠剤のフェノチアジン誘導体で調節したのだが、ヒトシはあっさりと世界の騒憂や私の省察を打っ遣って熟睡していた。そのように見えていた。
 私は読み終わって呉須牡丹の大皿に残った蛸の足と海老の殻を見ていた。そして四月二日の藍からのメールを再三に二度、三度と読み込むと、過敏な子供のようなヒトシの寝顔に目が移っていった。ヒトシは本当に寝ているのだろうか。彼の恐るべき脳髄では、辺りの静謐さとは裏腹に私に煽られた感情が、睡眠剤の被せてくる弛緩を蜘蛛の巣を掃うようにねじ伏せているのではないだろうか。ヒトシが私の背後を捕れる瞬間を狙っているとしても不思議ではなかった。
 そして分析と幻想が混濁しはじめた他愛ない思考に水を浴びせられた。ヒトシのノートに藍からのメールが飛び込んできたのである。私は躊躇わずに開いた。

〇七年四月九日 午後九時三十七分
「別れても尚、あなたの若さと哀しさは美しい。そしてあなたの若さと美しさは哀しい。皮肉は愚かな人間と誠実な人間との干渉にある。藍は運昇と転落を繰り返すシーシュポスのような人間の生活に涙する。益子のような愚か者の死でさえも神から下されたように伝えられ、あなたの妹やあなたの嬰児の死は紬鯊(つむぎはぜ)のそれのように見捨てられる。しかし怨讐の季節はここに来た。たとえ愚か者をそのまま許しても、干渉は誠実な人間に皮肉をもたらす。藍は孤独を厭わない、性に生きると揶揄されてきた女たちの未来のために。これから美しい頬と唇、そして舌に痺れが降りてくる。藍のHAPALOの唾液腺もまだまだ優しい。救いはそこから近い安楽寺で祈ること」
〇七年四月九日 午後九時五十八分
「藍への疑惑は大義への疑惑 この携帯電話を読みし者は日々の糧に恨を見よ」

 時計を見ると十時にならんとしていた。一読して直感したことは、藍が間違って送ってきたということだった。あるいは己の行為を誇示ないし示唆するためにか、行為の挙句に混乱しているのか。「あなたの妹やあなたの嬰児の死」というくだりから文末まで推察すると、詩的な美文調をどこまで信用できるかはともかく、このメールを本来送りつけられた女性は、安楽寺という寺近くにあって、豹紋蛸の毒テトロドトキシンを盛られたことになる。藍は何をしようとしているのだ。藍は本当にヒトシがメールで親しんだ藍なのだろうか。目覚めたヒトシはこのメールを藍からのものだとは信じないだろう。冷えこんでいるはずの夜気に抗するように、調節利かない嫌な脂汗が滲み出てくるのだった。
 私は受信トレイを閉じながら躊躇していた。その着飾ったような悪意のメールを残しておいてヒトシに読ませるべきか。とりあえず受信トレイから外して別ファイルに移した。すると呼応するように、ヒトシがはっきりと寝言を呟いた。
「…俺たちゃルナティクス、ルナティ…」
 ヒトシはルナティクスの夢を見ているのだろうか。
 私が三十半ばになんとか十一人集めた常負の草サッカーチームが「ルナティクス」である。父は吐き棄てるように「患者さんたちのことを考えろ」と言っていた。チーム名を考案した亡き兄は「狂人の意味じゃなくて変人の意味だよ」と言って高笑いしていたものである。ヒトシはたった一度だけ江戸川競技場まで応援に来てくれた。
 私が長髪を払って首筋の脈を窺ってから毛布をかけてやると、ヒトシは待っていたように自ら包まっていった。
 そしてやり場なく酒を頼もうとしたときだった。携帯に電話がはいった。薮田警部補は疲労が見え隠れする声音だった。
「もうお酒が入られた頃ではないかな、と思ったのですが…」
「酔いを醒ますのには警部に電話番号を教えておくのが一番ですな。冗談ですよ、ビール一本だけです」
「そうですか、ビール一本だけですか。それはよかった、というか、ここは安楽寺というお寺なのですが、遺体が見つかりましてね…身元確認がとれたところなのですが、捜していた翠蘭、例の名古屋の転落して亡くなった議員と一緒に島に来ていた風俗店の翠蘭なのですがね」
「捜していた翠蘭…」
「鑑識によりますとね、今から約五時間前の十七時半前後に絶命、死因は解剖していませんが、呼吸困難になって何度も転倒したのか打撲痕が体中にあって、どうも嘔吐物に毒薬反応が見られるようなのです。先生?聞いていらっしゃいますか?」


 私はフェリーの出入りを望める洒落た二階のカフェ・テラスでヒトシを待っていた。赤茶けたテント地の日除けを風が弄ると、たっぷり吊るされた陽気な蛸のキーホルダーが風鈴のように鳴る。娘のために買おうかどうか思案していると、見覚えのある県警の車が下に止まった。車酔いしたような蒼ざめたヒトシが薮田に支えられて出てくる。私は不惑の顔を装って階下へ二人を迎えに降りていった。そしてヒトシの口唇を洗うべく洗面所へ連れていった。
「すみません、ちょっと興奮されたようです」そう言いながら薮田は素人臭く眉をしかめて見せた。
「もう帰らしてくれ、ツヨシを、先生を呼んでくれ、の繰り返しでした。時々あんなふうになられるのでしょうか」
「このごろは歳も歳なので落ち着いてきています。それに重要参考人だとしても、精神疾患だと分かっているのなら…医師が離れるべきではありませんでした」
 私がそう言って手洗いの方を見ると、ヒトシはウェイトレスに洗面所を濡らしたことを謝っていた。朦朧さめやらぬ足取りで席に着いたヒトシはそのまま眼を閉じた。
「正直なところ進展がないので、引き続き様子を見ながら、そうですね、栗田先生には警視庁へ出頭していただくことになります」
「どちらにしても弁護士を立てますから、お互いきちんとした道筋に沿ってやっていきましょう」
「仰るとおりでして、こうなってしまっては、ひとつの保険金殺人を示唆されたという枠を越えて、無差別で広範囲な連鎖反応、そういったものへ拡大することを懸念します。そもそもの科警研へのメールの件以来、科警研の副所長、警視総監ですが、そちらまで報告が上がってしまったヤマでしてね」
「それはそれは…結構なヤマを担当されることになったわけですな」
 私はそう言ってから下の車中で待機している県警の刑事たちを流し見た。そして薄ら笑っているように唇を痙攣させるヒトシの痩せ肩にマフラーをそっとかけた。
 早朝からは任意同行を求められたヒトシに付き添って慌ただしかった。薮田の半ば強引な遺体確認を受諾すると、ヒトシは防水布の中の遺体を見て「そういえば、波止場で事故のあった防波堤まで一緒に行ってもらえないか、と言ってきた人だ」と放るように言ってしまった。翠蘭は血の気があった生前を想像し難いほど、もはや化石のような荒涼たる美しさとなっていた。南方系らしい小振りな顎の面立ちは、議員を悩ませた小悪魔ぶりを想像させた。薮田はさっさとファスナーを閉じると、私に毅然と向いて、個別によるヒトシの事情聴取を取りたいと言いだした。私は一刻も早く東京へ戻ってヒトシに充分な診療を施したかったので了解した。そしてヒトシを中心とした弁護士との連携による事件の全容把握を目論んでいた。
「そうだ、ここの食事を奢らせてください」
 薮田はそう言うと疲労も手伝ってか、可笑しそうに顔を歪めたが直ぐに真顔になった。
 私は出航の時刻も迫っていたので急ぎオーダーを任せてもらった。定番でもないが蛸の浅漬けマリネと、冬の名残でもないが保存されている河豚のグリルのバルサミコ酢ソースを注文した。薮田は職務中というよりも顔に大いに出るらしくビールを飲むのは私一人。ヒトシはろくに口にせず薮田の似合わないナイフ使いを憔悴した眼差しで見ていた。
 県警の刑事たちの大層な見送りから解放されてフェリーに乗り込むと、私とヒトシ、そして薮田までもが声を合わせて嘆息を洩らした。春ゆえか磯のように慌ただしく、男三人に疲労が雲霞のように蟠っていた。小雨まじりだが海上は凪いでいて、風は昨日よりは今日、といったふうに微妙な温みを孕んでいる。平日の半端な時間ということもあって乗客は疎らだった。最近は見かけなくなった行李担ぎの行商が一人乗り込んでいた。記憶にある房州の豆売りよりは粋な濃紺のスカーフ。すでに老眼の奥の眼を赤らめて両手に缶ビールと乾した蛸足を握っていた。
 フェリーがやっと西港の岸壁を離れると、早朝からの聴取のためか、猛烈な睡魔が私を襲ってきた。それも束の間、乾し蛸商いのお母さんが蛸を鼻先に押しつけてきた。頂いてみると懐かしくうまい。素朴な味に無関心だった己の殺伐とした横顔を情けなく想った。ヒトシも気に入った様子で袋詰めを買い求めて、投薬も効いてきて気分が和んだのか、蛸足を咥えながら観光案内の空白に数式を書きこみはじめた。
 薮田はしばらく化け物でも見るようにヒトシを斜め見ていた。そして蛸を噛みながら私の隣に座って医院の住所を聞いてきた。
「ところで、先生、毒の成分を取り出すその分離というのは難しいことなのでしょうか」
「純粋な化合物として分離するのでなければ難しくはないと思いますが…私が昔やったのは青梅の種から青酸を分離したくらいで」
「そうそう、青梅は生で危ないってよく言われました。あと科警研へ送られてきたメールにあった紬鯊(つむぎはぜ)っていう魚、これもテトロドトキシンなのでしょうか」
「紬鯊?それは昨日の話には出なかったでしょ」
「ここまできたら話しますけれど、現段階ではですね、加計呂間島で使われたかもしれない毒として、その紬鯊から取り出したテトロドトキシンが有力みたいなのですよ。おそらく翠蘭の口に入ったやつもね」
「ああ…紬鯊か、思い出した…昔は台湾の部族が鼠駆除に使っていたようです。若いときですが、紬鯊のそれを使って一家惨殺を目論んだ分裂症患者の報告をセミナーで聴いたことがあります」
「へえ~河豚だけかと思っていたら…勉強してみようかな」
「勉強してみてください、失礼」
 私はそう言って露骨に狸寝入りをはじめた。
 師崎に到着するとヒトシが私の袖を掴んだ。後方の席に戻った薮田の姿が見えない。住所も伝えたことだし警察なんぞ放っておこう、と少々邪険になって降りようとした。するとヒトシが甲高く私を呼んだ。
 薮田が歩けない?警部補は昼前と逆にヒトシの肩を借りるほど引きずるような歩き方になっていた。なんとかフェリーから降りることはできたが、萎えたように歩けなくなってしまった。
「まいったね、成人病検診くらい…受けておくんだった」
「持病はあるか」と聞きながら私は薮田の脈をとった。戦慄が駆け抜けた。
「これは検診くらいで太刀打ちできるような相手じゃないぞ」
 私は応急処置どおり薮田の横腹をつねってみた。麻痺がはじまっていて痩せた腹が反応しない。脈をとり直すと心拍数が増している。呼吸困難が迫っていた。ヒトシに携帯電話を押しつけて救急車を呼ばせた。
 神経毒?私にそう直感させる概況がすでにあった。薮田を駄犬のように引きずって狭い便所へ連れこんだ。大声で語りかけながら指を入れて嘔吐させる。そして人工呼吸、何度も何度も際限なく汗だくで繰り返す。やがて脈が落ち着いてきた。救急車を待ちながら私とヒトシは未消化の蛸の欠片を見ていた。
 一命をとりとめた薮田が搬送されていくと、吐瀉物に汚れたコートの裾に水をかけているヒトシが見えた。私は繰り返した人工呼吸で息が上がったままでいる。警官が男子便所の前で港湾職員と話している。その脇を我慢できない子供がすり抜けて入ってきた。大便扉にもたれている雑巾のようになった私に気づかなかった。
 私とヒトシが新幹線に乗れたのは暮れ馴染んでからだった。三河の近海が遠ざかると何故か漠寂たる感慨を持った。それは男女の出会いに必携な劇的なる感情に似ていて私を苦笑させた。
「おまえと藍は似た者同士なんだろうな」ぽつりと置くように言って、私はマフラーの双竜に微笑んだ。
「大方はその原理に則ってカップルを作っているんだろうけれど…必ずしもセックスを伴わなくても成立するのかもしれないな、カップルは」
 するとヒトシは驚いた顔のままノートの画面を私の方へ向けた。

〇七年四月十日 午後七時五十四分
「名蔵(益子誠一) 不法滞在者摘発・賭博容疑  名古屋ビジネスドラフトソリューション(益子誠一) 売春容疑・恐喝容疑」

 私は随分と簡潔になった藍からのメールに低く唸るしかなかった。なるほど慇懃で古風な文章の取り交わしでなければ劇的ではありえない。そして我が友ヒトシに相応しい藍は「あたし」の藍でなければならない。四月二日に覚醒した自分を「藍」で呼ぶ藍は、おそらく自らの存在に怯えている者、すなわち私の患者なのだろう。削いで削いで簡潔になりきろうとしている言葉は、悲鳴、絶叫だ。語り合うことで肉体の次元をさておこうとしている、そのようなカップルも確かにありうる。しかし、それは果たして我々の希望なのだろうか。
「どうして言わないの」と言ってヒトシは浜名湖上に糸をひいた雷鳴に目を細めた。
「そのレイトンの二匹のドラゴンのように分裂してしまった藍…こんなメールを送るようになった藍とは別れろと」
「分かれろだと…人はそんな簡単なものじゃない」私は些か気恥ずかしかった。
「そのメールを送ってきた藍はおまえの藍じゃない。その藍は俺の患者だ。だからおまえが以前からの藍と語り合い続けるのは勝手だが、そんな交番日記のようなメールを送ってくる藍を…俺は見過ごすことはできない。まったく二匹のドラゴンはややこしい」
 ヒトシはかっくりと天井に向いて甲高く笑いはじめた。
「だって…だって一瞬、藍が複素数、虚数のように思えて…だって虚数はアイだから…」
 私は座席で丸まるように笑い続けるヒトシの膝を高校生のように叩いた。
「馬鹿笑いはやめろよ。あの程度の障害は押さえ込むことができるし、基本的に存在する藍は…少々神経質かもしれないが、理知的で情熱的な女性だと思う」
「分かっているよ、誰よりも」ヒトシは珍しく笑みのまま語り続けた。
「思っていたよりも若々しくてスカーフが似合っていたけれど…いくら缶ビールを片手に籠を背負っていても…分かるよ。解析し難い複雑さは、そう、一目見れば分かるよ」
 私は腐食したトタン板の肌合いから離れるように身を引いた。
「ヒトシ…何を言っているんだ?」
「時間はやっぱり残酷だね…でも本質は失われない、たとえ虚数を孕んでいても、それが皆さんの欲しがっている現実なのだから」
 鼻先に押しつけれた乾し蛸の臭い、そして濃紺のスカーフの陰の赤らんだ怠惰な眼差し、これらの記憶がページを弄り戻すように私を襲ってきた。
「随分と前の写真だったんだね…そうだよ、金閣寺だよ。昨夜見せた写真の金閣寺、金箔を張り替える前で、下の黒漆が見えていたね。もう一度見る?どうしたの?それにしても…藍って…困ったドラゴンだな。だって悪者を食っちゃうだけならともかく、正義の味方の刑事さんまで食っちゃうんだから」
 私は左手でヒトシの右肩を鷲掴んだ。そして彼の膝に置いていた右手を拳に握りこんで振りあげた。
                                       了
オイラーの公式がわかる (ブルーバックス)

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  • 作者: 原岡 喜重
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/06/21
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