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外相の薔薇   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 迫宗一郎(さこ・そういちろう)は、誰もが知るように、昨年の六月六日から外務大臣として多忙な日々を送っていた。
 妻である法子(のりこ)は、就任して四ヶ月ほど経った頃から、自邸にある夫を「お父さん」とか「あなた」とか呼ばずにこう呼んでいた。
「アゥスン、梅干し、食べられました?」
 法子の父親は、ドイツ語圏を渡り歩いた外交官だった。生まれてから七歳までをヴィーンで過ごした法子にとって、外相ないし外務大臣の漢字並びよりも、Außenministerの最初のAとベータに似たßエスツェットが、交渉に向かう夫を凛々しく見せるように思えた。もっとも、夫からそう呼ぶ承諾を得たのは、九段のインド大使館に招かれた晩からであった。
 法子は帰りの車の中で、アルコールの勢いに背を押されてか、大使が口にし続けたministerを些か難じたあとに言った。
「ミニスタでもいいけれど…牧師さんとか小型車の名前みたい。あたしは頭のアゥスンがすてきだと思います」
「アゥスン?」
 宗一郎は機嫌よく鼻にかけて聞き返した。
「ああアゥスンか…それくらいのドイツ語だったら分かるよ。しかしさ、意味としてはまるっきりの外国人じゃないのか?」
「外国人というよりも、外からやってきた、帰ってきた人という感じで、男らしくていいわ。もちろん人前だったら、あなた、リブリンだけれど…」
「たしかに浅利さん、浅利国交大臣だったら、アゥーサンと呼ばれるわな」
 前の席で白髪の頑健な男が、吹き出し笑いを堪えていた。秘書の笹森睦夫(ささもり・むつお)である。
「モリさん、あたしね、ちゃんとね、存じあげていますから」
 法子は夜景を覗きながら顎先を逸らして続けた。
「このひとが、うちのリブリンが、アゥスンが、神保町のお座敷では、サッサンとかソゥーサンとか呼ばれていること」
 宗一郎は腫れあがったような左手で笹森の背座を叩いた。
「ソゥーサンなんていうのは、結婚して、おまえが鹿児島に足を運ぶようになってから、かかどん(母さん)に見せつけて言っておったど、サッサンは…言われたことないな」
 法子は小首を傾げて腕時計を見やるふりをした。そして笹森は、公的な場では無論のこと、車中における適温の調整も怠りなかった。
「思うにですな、アゥスン・サッサンでは、なんかペルシャ湾で舟遊びをしている王族のどら息子みたいですな」
「そりゃあいい。なってみたいもんだ、王族のどら息子」
 宗一郎はがらがらと笑いながら法子の笑窪を見つけようとした。そしてお笑い芸人の種にされた恵比須顔のまま、妻の右手の麹町の方を指してさらりと言った。
「ご覧よ、その王族とは犬猿の仲とも言えるイスラエル大使館のあたりを走っておるわ」
 法子は微笑もうとしていた唇を丸く窄めるしかなかった。夫の邪険な冗談は若いときのままである。笑って振りまかれた夫のカレー臭から鼻を背けた。
 笹森は察して翻るような反応を示した。外交の長の誠実な刀持ちらしく、荘重な面持ちの眉間になって言った。
「たしかに、エルアル航空と大使の観光誘致は、脇腹を小突くように積極的ですなぁ。それもこれも、韓国がサウジと合弁事業を進めている矢先ですから、ちょっと不愉快なくすぐりですわ」
「観光ですって?」
 法子は捕らえるようにそう言って嘆息をもらした。
「たとえ韓国のように近くても、日本のお坊ちゃんやお譲ちゃんが、危ないところへ行くと思います?トモやシゲが行くって言ったら…言うわけないか」
「智和(ともかず)さんや重和(しげかず)さんが行くのは、ちょっと…おそらく中東課か、人権人道課の方から、あれやこれや言ってくるでしょうな」
 法子は頷きながら、鼻白んだように酔眼になっている夫の膝に左手をおいた。
「シゲなら、重和なら、何とかザウルスの骨が出たって言えば、行くかもしれませんね。でも、あなたの計らいで、やっと本所勤めになったトモ、智和は、仕事に精を出しているから旅行どころじゃありませんわ」
 今度は宗一郎が、珍しく唇を窄めて眉間を険しくした。そして気がついたように険しさを緩めて、脈走る右手を妻の手の上においた。
「辰巳さんに、辰巳法務大臣には、小まめに気を配ってくれ。お世話になったことだし、奥さんを亡くされてから久しいし…娘さんがしっかりしているから、何も心配ないだろうが」
「分かっていますよ、ちゃんとやっていますから。法総研の本所に、近くに勤務替えをお願いしただけじゃないですか」
 宗一郎は妻の手から離した右手を握り込んだ。
 法総研とは法務総合研究所の略称である。長男の智和は二十九歳で、一昨年から名古屋支所を皮切りに、法総研の研修部で働いていた。そして先月、瀟洒な旧司法省庁舎の本所勤務になった。
「どうして、トモのことになると不機嫌な顔をなさるのかしら。聞いてらっしゃるの?あなた、アゥスン?これからは、アゥスンと呼んでいい?アゥスンと呼びますからね、外務大臣」

 桜の蕾がほころびかけた頃、迫外相は踵を踏まれたような苛立ちに襲われた。
 盟友でもある浅利国交相の「オープンスカイなのだから、宗教法人も大いに喧伝してもらって、敦煌や雲南に支店というか、別院というのか、そういうものを作って、共産党の幹部に怪訝な顔をさせるくらいでなくちゃ」という発言に対しての、中国側の過剰な(あるいは通常の)反応の収拾が厄介だった。磊落に見せかけていながら、女房の尻に敷かれている浅利を知る宗一郎は、追及と騒憂から逃れたいがために、当人が野党の思惑どおり、官邸へ辞表を持ち込むことを懸念していた。
「駄洒落じゃないけれど、奴のあっさりは、周りのことを考えないことがあるからなぁ、なんて仰っていたけれど、あたしが思うには、浅利さんが単に下品なだけだと思うわ」
 法子は早口でそう言うと、最奥席からハワイのメニューに歓喜している団体客を一瞥した。そして法子の姪、香奈(かな)の夫にあたる事務官の笹森悦夫(えつお)は、さすがに返事に窮していた。
 帝国ホテルのパークサイドダイナーは、法子が度々使っているレストランである。「宝塚は唯一の楽しみね」と公言している法子にとって、劇場の目と鼻の先で、連れと待ち合わせながら軽食を摂る段取りは欠かせなかった。この日は薔薇の騎士を基にした「ゾフィーの冒険」を観劇するために、嫁に行ったばかりの姪と待ち合わせていた。
 悦夫は笹森秘書の嫡男で、大臣官房に置かれている儀典官室の事務官の一人である。夫が電話で儀典長と話していたので、法子はカナダの環境大臣が近々に来日することは知っていた。
 法子は彼の目尻を覗き込むように首を傾げた。
「疲れているんじゃない?眼が充血しているわよ。儀典官室ってそんなに大変なの?」
「いいえ、要領がわるいだけですよ」
「ごめんなさいね、忙しいあなたに席を取らせるなんて、香奈ったら」
「いいえ、僕自身がリヒャルト・シュトラウスのファンですから…」
 法子は自分でもドイツ人の名前に反応しやすいことは分かっていた。
「そうなんですってね。だから、余裕をもって、事前に薔薇の騎士について伺いたかったわ。なにしろ、ご存知でしょう、あたし自身がドイツ語圏で育ったようなものですから、リヒャルト・シュトラウスの音楽は分からなくても、Ehrenspiegel Österreich…オーストリーの名誉とか聞くと、なんか身が引き締まるような感覚に陥るのよ」
「分かります」
 法子は悦夫の前髪の乱れに目を細めてしまった。格段の美男子でもなかったが、連日の疲労が脂汗となって頬骨を艶やかにしている。そのお疲れ気味の若い官僚を、姪が来るまで悠長に眺めていること、外相夫人はお調子に乗ってはいけない、という自制の囁きが冷めたコーヒーを啜らせた。
 悦夫は呼応して追いかけるように啜りながら、持ち合わせている知識を浚い出そうとしていた。
「宝塚の舞台では、どうもゾフィーを中心に据えていますが、本当の主人公はマルシャリンなんです。元帥夫人マリー・テレーズ、従弟のオクタヴィアンと愛人関係にある、このマルシャリンが主人公なんです」
「そうらしいわね」
 法子は頷きながら微笑んだ。退屈させまいとして、本筋をいきなり放り込んでくる焦りも心地よかった。
「でも…申し訳ありません」
「どうして?今度はどうして謝るのかしら」
「仕事もそこそこなのに、できれば自分もマルシャリンを見たい、などと総括官の耳にでも入ったら…」
 法子は這い上がってきたような笑いを堪えた。
「何を言っているのよ、うちとモリさんのお宅の間柄で。うちのが議員とか大臣でいられるのは、笹森のお宅があってのことなんだから、あなた方親子にだけは気まずい思いはさせないわ。総括官って、あの髪が薄くなった…」
 肩を落として低頭気味だった悦夫が驚いて席を立った。法子の背後の棕櫚の並びに重和が現れたのである。
「シゲちゃん、重和君ですよ、あれは」
 法子は弾かれたように立った悦夫を見上げたまま振り返った。そして色落ちした紺のポロシャツが向かってくるので息を呑んだ。また何かしでかしたのかしら…次男の重和は昨年末、交通事故を起こしていたので、咄嗟に「またバイクもろとも転がったのか」と思ったが、小走ってくるジーンズの両膝は軽やかで笑みがこぼれていた。
「来ちゃったよ、エツ兄と直接話した方がいいと思って」
 法子が息子のスニーカーの爪先まで見下ろす間に、悦夫は安堵したように重和の椅子を引き寄せた。そして先ほどまでの悦夫としては豹変よろしく、兄貴ぶった口調と目尻が喜々としたものになっていた。
「シゲちゃんが有楽町に来るなんて、凄く嫌な予感がするな。しかも俺に直接話したいなんてさ」
「大丈夫だよ、何もお騒がせしないから…兄貴がさ、本所の屋上からメロンを落としたなんてね」
 悦夫は外相夫人をちらと窺うこともなく、手慣れているようにウェイトレスを手招いてメニューを広げた。
「兄弟の漫才は二人だけでやってもらって…コーヒーでいいかい?」
 重和は頷きながら野太い左上腕をまわすように後ろへ反らした。
「邪険にしないでよ、わざわざこんな場違いなところにまでやってきたんだからさ。母さん…このポロ、そんなにだめ?」
 法子は眉間の縦じわを弛めて飽きれたように首を傾げた。
「いいえ、迎賓館でもないんだから、あなたの好きなものを着てくださいな。それで、何を慌てて悦夫さんに会いに来たの?悦夫さんも忙しい方なのよ、今日は香奈の旦那さんということで気遣って来てもらっているけれど」
 重和はかっくりとうな垂れるように頷いて悦夫の方へ向いた。それを待っていたように悦夫は腕時計を見ながら言った。
「環境大臣ミルトンのお嬢さんのことか…琵琶湖の農業試験場のこと、そうだろう?」

 モリさんこと、外務大臣秘書である笹森睦夫は五十八歳になろうとしていた。四十前から側頭部が白くなって、今や永田町では誰もが知る迫の露払いである。笹森の生家は近江八幡市内にあったのが、不動産管理のために安土寄りの大中干拓の方へ移転していた。睦夫は大農家の倅といった風体ではなかったが、勤勉な血統を体現したような立ち振舞いで、鈴鹿の高専を卒業した後、滋賀県庁の農政水産部に勤務していた。そして湖北の有力者で木之本の老舗割烹の亭主が、少年時代から才覚を見込んでいた笹森を、当時の農水大臣政務官だった衆議院議員、迫宗一郎の面識に与らせた。迫はニ、三の諸事の対応を見て気に入ってしまった。
 親が親なら子も子の習いで、長男の悦夫も学生時代から、父親の周りの海千山千に将来を嘱望されていた。悦夫は大学卒業後、外務省に入省して手始めに広報文化交流部に席を置いたが、迫が外務大臣になると官房付きの儀典官室へ配された。口さがない連中は、派手な外交官を目指していた悦夫が、思いも半場で嫌々ながら父親のネットワークに捕りこまれて可哀そう、などと揶揄していた。しかし当の悦夫にとっては、ここに至る流れは予定調和に合致したものだった。それも想定内などという答弁のような醒めた口調ではなく、やっと国政に献ずる手練手管の修行の入り口に立てた、という試合開始の喜びだった。
「正直言って、あのシゲちゃんが、このセロリを能登川の方で作ってみたいって、そう言いだしたときは驚いちゃったよ」
 悦夫は摘まんだセロリの欠片を見ながらそう言った。
「頭が痛いでしょうね、伯母さまも」
 香奈はそう応えながらも、大皿へ並べた紅鮭の削ぎ切りに満足していた。
「まあね、野放図に見えるシゲちゃんでも、息子にはかわりないわけだから。このまま食べていいの?」
「そう、カルッパッチョだから。伯母さまだって、シゲちゃんの頭の回転の速さを自慢しているようなときもあるしね」
 悦夫はいかにも安価ふうな白ワインの紙パックを手にとって頷いた。
「あの人は、母親というものが分かっていて、それで尚且つ、どこにでもいそうな母親を演じている。酸っぱ、防腐剤の酸味なのかな…」
 香奈は摘まみかけた箸をそのままにコップを差し出した。
「毒味なら喜んで。伯母さまは…たしかに、ちょっと酸味が強いけど…伯母さまは、なにしろサッチャーの追っかけっていうか、サッチャー贔屓で、二人が小学校へ行くようになったときには、真剣に東京四区から立候補することを考えていた、そういう人だから」
「サッチャー?サッチャーか…」と呟きながら悦夫は自分のグラスへ注ぎ足した。「サッチャーは根っからの政治家だと思うんだ。サッチャーは逃げなかった。このてのものはよく振った方がいいな、飲む前に」
「逃げられなくなったんでしょ。伯母さまだって、議員になって大臣になれば逃げられないわ。不味かったら、後輩の人がくれたグレート・ウォール、あれ飲めば?」
 悦夫は首を振って箸を取った。そして器用にセロリを紅鮭で巻いて口に入れた。
「あれは共産党タカ派の連中が来日でもしたら、ここで飲ませるか、迎賓館で悪戯に出してみよう」
 香奈の笑いは少女のようにいつも朗らかだった。そして竹筒を模した美濃焼に手を伸ばしてセロリを摘まんだ。
「うちに来るのはやだぁ、とくに中国の人は。セロリでも何でも炒めちゃうのは、うちでは絶対にやらないから」
「だったら…本所勤めになったトモちゃんから連絡のひとつもないから、トモちゃんの上司、研修部長への手土産代わりにあげちゃおうか…」
 香奈は小気味よい噛み音をとめて、右側へ傾ぎながら夫の横顔を窺った。
「伯母さまがまた何か言っているの?」
 悦夫は妻の視線を感じながらも、眉間に皺をいれてグラスの底に眼を近づけた。
「何か言っているわけじゃないし、とくに母親として口煩いわけじゃないんだが…あんなにトモのこと、トモ、トモって言っていながら、四区から立候補する気でいたなんて…」
「今になって言っているだけよ、実際に立候補したわけじゃないんだから。今なら何とでも言える外相夫人だし、サッチャーを知らない政治家の妻はいないし」
 悦夫は底の白い毒のような澱を香奈の方へ翳して言った。
「ともかく、薔薇は薔薇のままでいてくだされば…外相夫人はさ、元帥夫人じゃないんだからさ。マルシャリンだっけ、あれじゃ困る、世界中が困る」

                                       了
宴のあと (新潮文庫)

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