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ドン・シプリアーノの娘   Jan Lei Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 フランス皇帝ナポレオン三世の皇后、ウジェニー・ド・モンティジョその人を書くことになってしまった。いくら彼女がウジェーヌ・シューの名付け親とはいえ、筆名の洒落にふわふわ乗じて、史実のナポレオンの周辺を散策してみようかな、などと嘯いてみるほど暇ではない。さらに謙虚を装って、後々に女を書いて彼は些か巧妙だった、などと評されることは妄想の欠片にもない。しかしカスティーリャのフアナをちまちま書いたあたりから、戯曲の型押しの型の一つとして、井戸端会議や茶飲み話、いわゆる一端の賢婦人、ないしは賢婦人気取りのお喋りの集いを認知歓迎することとなった。とは豪そうに言ってみたものの、未だ分析どころか数えあげにも程遠い、家族というスキーム(概形)、そのスキーム上を渉猟して表現するにあたり、古くから使われている手垢に黒ずんだ木型が、何気なく机上の隅にぽろりと置かれていただけのことかもしれない。


一八三八年五月五日、ウジェニーもしくはエウヘニアの十二歳の誕生日

場所
 パリ、サクレ・クール寺院女子修道院に近いヴァレンヌ街のモンティホ伯爵邸

登場人物
 エウヘニア…スペイン貴族ドン・シプリアーノの次女
 フランシスカ…スペイン貴族ドン・シプリアーノの長女
 マリア…エウヘニアとフランシスカの母、マリア・マヌエラ・キルクパトリック
 アンリ…考古学者にして作家アンリ・イルデトロワ
 フアン…スペインの作家フアン・グランゴベルナール
 マルグリット…家政婦頭
 ルイサ…家政婦、マルグリットの娘

(午後、陽が傾きはじめた時刻、モンティホ伯爵邸の夫人マリアのサロン、正面に向いて窓が三つ並んでいて晴天を背景にサクレ・クール寺院の尖塔が見える。真ん中の窓の前に楕円形のロココ調白卓、背もたれを正面に向けて三人がけの長椅子、卓を挟んで窓下に一人がけ三脚、上手と下手に一脚づつ)
(正面に背を向けたかたちで、伯爵夫人マリアが長椅子の中央に座っている。前屈みになって揺れているので居眠りしているように見えるが、手には十字架が握られていて一心不乱に祈っている。上手から修道尼姿のエウヘニアとフランシスカの姉妹が入ってくる)
エウヘニア (立ち止まって、少々気だるい仕種で後ろのフランシスカを前に押し出す)物事には順番があるそうなので、お姉さまからご挨拶なさって。
フランシスカ 怖いことはあたしにさせるのね、あなたって人は。お母さま、ただいま戻りました。
(二人が近づくにつれて、前傾で揺れていたマリアの背筋が伸びてきて、二人が揃って会釈したときには堂々として微動だにしなくなる)
マリア (キスをさせるべく右手を娘たちに向かって差し出しながら)フランシスカ、怖いことなの?
フランシスカ (慌てて手を取り、キスをしてから頬擦り)お母さまのお祈りにお邪魔することは申し訳なくて…それはあたくしにとって怖いことですわ。
エウヘニア (続けて手を取り、頷きながら軽くキスして)お姉さまの仰るとおり。
(マリアが弾かれたように右手を引いて、エウヘニアは母の手を取っていた両手はそのまま虚ろな面差しになる。マリアは背筋を伸ばしたまま長椅子から立って、下手左回りに回って長椅子の背面、正面に向かって立つ。正面客席は壁面の設定で、数々の肖像画が架かっている)
マリア (上手入口に近い自分から見て左の肖像画に左手を翳して)マルグリット、マルグリット!(上手入口に速やかに現れたマルグリットを見ずに)その北へ向かおうとなさっているサン・ドニ、それを外して、入浴中に亡くなったマラーを架けておくように言わなかったかしら?
マルグリット 奥さまに忠実なあたくしの記憶にはございませんが、ルイサに申されたのであれば、ルイサが果たしていない任は私の責任ですので早速に
マリア マルグリット、パリにいてもグラナダにいても、あなたの忠節と記憶を疑ったことなどないわ。記憶を疑われるべきは、いつも二つの国と二人の娘と、そして二人の作家に気を惑わされている、このドン・シプリアーノの女房よ。
マルグリット めっそうもございません。(上手入口奥の気配に気をとられながら)ルイサったら…早速にマラーの…
(アンリ・イルデトロワがマリアの横顔を直視したまま颯爽と登場)
アンリ マラーの絵とは、マラーがオフェーリアのように浮かんでいる絵のことでしょうか?マダム・モンティホ、三文作家のアンリ、お招きに喜んで馳せ参じました。
(アンリはマリアの手を取りキスする。エウヘニアはフランシスカを脇へ押すようにして二歩前に出る。マルグリットは上手入口の方を見ながらサン・ドニの肖像画の下枠に手をかける)
マリア 謙虚で情熱的な短編の名手、よくぞいらしてくださいました。(袖を翻すようにして素早くマルグリットの手を押さえる)このままにしておいて、そしてベレの用意をして。
(アンリは娘二人の方へ向かおうとするが、マリアはまた翻すような仕種で呼び止める)
マリア サン・ドニがフランス人ならあなたもフランス人。アンリ、あたくしマリア・マヌエラは、つまらない女なものですから、サン・ドニが自分の首を抱えて北の方へ歩いていった話を聞いてから、この青白い横顔を見ると寒気を感じてしまうの。
アンリ それで…臨終のマラーの方がまだましかと?
マリア どちらにしても、この辺りを伝説の地となさったフランスの偉人、そういった方々の肖像を外せだの、替えろだの、アンリはご不満よね。
アンリ 不満などはございません。それに、(娘二人の方へ向いて)私ごときの三文作家でも、いやしくも文筆を生業とする者であれば、語り尽くされた地下の偉人のことより、今日という日には、五月の甘い風が揺らしている青春の髪を語らなければならないでしょう。
エウヘニア (髪に手をやって首を傾げる)今日は五月五日です。
(マリアがエウヘニアとアンリの表情を凝視しながら言いかけると、上手入口から母マルグリットを押しのけて、赤薔薇の花束を抱えたルイサが登場)
ルイサ イルデトロワ先生、お花をお持ちしました、仰せのとおりに。
アンリ (恭しく花束をエウヘニアへ手渡して)愛らしいエウヘニア、いいや、ここはパリ、咲き誇る前夜祭を迎えたマリア・ウジェニー・モンティジョ・シプリアーノお嬢さま、十二歳のお誕生日、おめでとうございます。
エウヘニア (受け取った花束から目を上げずに)なんて綺麗な薔薇、ありがとうございます。次にいらっしゃるときには…フランスが誇る新進作家の新作を読ましてくださいね。
アンリ (マリアの方へ向いて肩をすくめる)これは手厳しい、来週には献辞を添えて、早速に活字組みを始めなければならない。
(アンリとマリアは弾けたように高笑い、マルグリットが追いかけるように引きつった笑い、ルイサも追いかけるように母似の引きつった笑い、そしてエウヘニアとフランシスカが顔を見合わせて些か困惑した笑い)
マリア この子ったら…伯爵とあたくしが、あなたの新作をあれやこれや話していたのを聞いていたのよ。二番目の子っていうのは、何についても目敏いというか、耳聡いというか…アンリも二番目だったわよね?
アンリ 仰るように二番目、目敏くて耳聡くて、蜂のように落ち着きない次男です。ところで、伯爵とお二人で話されていたあれやこれや、拙作のあれやこれやが、小心の私にはとても気になります。
マリア (上手の方の気配を察してルイサに向かうよう顎をしゃくって)その話はまたにしましょう。アンリ、今日はウジェニー十二歳の誕生日ですよ。それに、バスクの詩人もお見えになったようですし。
(マルグリットとルイサを弾き分けるようにして、白百合の小さな花束を持ったフアン・グランゴベルナールが入ってくる)
フアン ご機嫌麗しゅう、マリア・マヌエラさま。エウヘニアお嬢さまのお誕生日にお招きいただき…(エウヘニアが持っていた薔薇の花束にわざとらしく眉をひそめる)ボナパルティステ(bonapartiste)にはこちらの清純な花を捧げます。
(エウヘニアはアンリの方を見ながら大きく頷いて、後ろの姉フランシスカに薔薇を持たせる。恭しくフアンから花束を受け取って、百合の匂いを嗅ぐようにして目を上げる)
エウヘニア ありがとうございます。グランゴ先生は…あたくしマリア・エウヘニアに、この国フランスが似合っていると仰いましたよね?
フアン ええ、会うたびに申しあげています。そして、似合っているどころか、もはやフランスが、百合のようなお嬢さまに靡こうとしているように見える…(母マリアの手を取ってキスしてから、気がついたように振り返る)そうだ、エウヘニア、グランゴ先生はいけません、あれほど申したのに。私はバスクの浜辺のフアンですからね。
マリア (どこか不満気にサン・ドニの肖像画の前まで戻り)その浜辺のフアンのためにベレにかたどったショコラをご用意したわ。
(マルグリットが顔をひきつらせて、ルイサに目配せする。母娘は慌てて部屋を出る)
フアン そちらは自分の首を抱えたサン・ドニ、あるいは自分の手に抱えられたサン・ドニの首…たしか気味が悪いから外したいと仰っていませんでしたか?そして私に、この絵の格と大きさにひけをとらない、ここら辺りにちなんだ絵を探してみてくれないかと…
マリア そんなこと言ったかしら…ここはパリですよ。地元のイルデトロワ先生に頼んだかもしれないけれど。
アンリ (不意をうたれて戸惑う)地元ですが…ここら辺りにちなんだ絵ですか?
フアン (やっと気がついたかのように、大袈裟にアンリの手を握って)おお、アンリ、読ましてもらったよ。胸が張り裂けそうだった。ボナパルティステと王党派の間で揺れ動く女心を描いてご立派、まだお若いのに。いやはや、政治や軍事に携わる方々も、青臭い恋愛小説などと陰口を叩かずに是非に…そうそう、メヒコに介入なさろうとしていらっしゃる方も、是非に読んで
マリア フアン、ここは伯爵がご不在のシプリアーノ家、政界の話は礼を失してますよ。
フアン これは失礼しました、これですからバスクの浜辺の蟹は嫌われる。(塞いだと思わせて反転してアンリの方へ向いて)ところで、あの主人公の麗しい女性だが、ブルボン家に列する貴族の長女ということで、どうしても私は…(フランシスカを大袈裟に捜すような仕種)そちらの、もの静かなフランシスカを想ってしまった。
フランシスカ (皆に注目されて驚き、過呼吸のように胸を押さえながら)あの、あの小説の彼女のことぉ?確か名前は…
エウヘニア ミリヤでしょう、お姉さま。
フランシスカ あたくしがぁ?あたくしが、あの小説のミリヤに…
エウヘニア あたくしもそう思ってましたよ、お姉さま。アンリが、イルデトロワ先生が書かれたミリヤは、とってもお姉さまに似ているって。
フランシスカ (よろめいて後退して窓下の椅子三脚のうちの上手前に座る)あたくしがミリヤに似ているって…ミリヤは愛されているけれど、最後は幸せになれないわ…
アンリ 待ってくれよ、ウジェニーもフランシスも、書いた本人がここにこうしているのだから…
(アンリは慌てて姉妹のほうへ近づくが、エウヘニアの斜め下方から睨み上げたような視線に硬直する。マリアは正面を横切るようにして長椅子をまわり、フランシスカの隣り中椅子に座り、長女の肩を抱き寄せる)
エウヘニア ミリヤは誰なのでしょう?やっと今日、十二歳になった子供のあたくしにも分かるようにおっしゃって、修道院でも噂のイルデトロワ先生。
アンリ いいですか、私は実際の人物を描く作家ではありません。
マリア ウジェニー、今日くらいは十二歳の娘らしくしなさい。アンリ、ウジェニーをここまで大人びた十二歳にしたのは誰あろう、伯爵ご自身なのですから、気になさらないで。乗馬はむろんのこと、狩りにまで幼いウジェニーを連れ出しておきながら…十二歳の誕生日という今日、これから花開くお披露目の日なのに、お見舞いと称してベイル領事のところに立ち寄られるとかで、フアン、お戻りまで乾杯はおあずけよ。
エウヘニア 仕方ありませんわ、お父さまはベイル先生の小説が大好きなのだから。
マリア (フランシスカの肩を押さえつけるようにして)ベイル領事、あの赤と黒の作家、アンリ、あなたが尊敬なさっている大作家先生ですよ。
フアン (はたと思いついたように手を打って)なるほど、それで合点が行きました。話しに上っているミリヤの男とのつきあい方、どうも彼の先生の
マリア フアン、アンリの小説を褒めるなり貶すなりは、シプリアーノ家を出て明日以降にしてくれないかしら。さて、今日はウジェニー十二歳の誕生日、まずベレにかたどったショコラを…(上手の方を窺って大きな声で)ベレはまだなの!親子で味見しているんじゃないでしょうね…まさか、ルイサが落としてしまったとか!
(フランシスカがくぐもった鳩のような音で笑い、フアンが続いて笑い感服したようにマリアに会釈する。マルグリットが慌て気味にベレをのせた大皿を抱えるようにして持って、ルイサが息切れ気味に食器類をのせた台車を押して来る。その様子を見てエウヘニアが微かに笑い、彼女と目が合ったアンリが誘われるように小さく笑う。それを見ていたマリアは、袖を翻すようにして右腕を掲げて、エウヘニアに自分の隣りに座るよう促す)
フアン (エウヘニアが小走りに座るのを追うように、長椅子の下手に向かいながら)それではお喋りなバスクの蟹もショコラをいただきましょうか。アンリ、長椅子に仲良く並んでいただこうじゃないか。
(マリアはマルグリットが並べようとした皿を危うく払わんばかりに、右袖を翻して下手の椅子を指す)
マリア フアン、いらぬ気は使わないで、ここ、普段あたくしが座っているここにどうぞ。伯爵は身内だけだと長椅子をお一人で独占なさるのよ。(右側に座ったエウヘニアをちらりと見て、指し出すように上手の椅子を指す)アンリ、そちらに座ってショコラを味わったら、フランシスカに分かるように、あなたがあの小説で言いたかったこと、ミリヤの幸せについて、それを話してあげて。
(マリアが目配せすると、マルグリットは大皿のベレをエウヘニア、マリア、フランシスカ、フアン、アンリの順に見せる。そしてマルグリットが台車の上で切り分けて、ルイサはショコラの小皿とフォークをアンリ、エウヘニア、マリア、フランシスカ、フアンの順に配る。アンリは考え込んだ様子でなかなか食せず、フアンはフォークを使わずに素手で二口で一気に食してしまう)
フアン これこそショコラですな、甘い中に一抹の大人の苦味を散りばめた、このグランゴ先生が清純な百合を捧げたエウヘニアのような
アンリ グランゴ先生、グランゴ先生はいけません、などとご自分で仰いながら…
フアン どうしたんだい、アンリ・イルデトロワ先生。
アンリ 伯爵がお戻りになってから申しあげようと思っていたのですが、私は、フアン・グランゴベルナール先生の作品が実は嫌いなのです。
(誰もが息を呑んで膠着する中、ルイサが小さく噴出して窓の方へ顔を向け、マリアがそれに呼応するようにフォークを置いて、両腕を広げて両の娘二人の背にまわして笑い出して、窓の方へ仰け反って哄笑となる。ルイサを咎めようとしたマルグリットは、窓の外の気配に気づいて、ルイサの尻を素早く蹴ってから上手入口へ速やかに向かう)
マリア アンリ、あたくしはあなたのそういうところが好きなのよ。
フアン マリア・マヌエラさま、このような若者の無礼はスペインでは言語道断、まさに決闘ものでしょうな。しかし、このバスクの蟹は、騎士道由々しきスペイン人でありながらも、お二人のお嬢さまのグランゴ先生です。パリでいただく野卑な言動も、甘い日常に散りばめられたショコラの一抹の苦味として飲み込みましょう。
マリア フアン、あなたのそういうところもあたくしは好きよ。それに、お互いの作品について、胸が張り裂けそうだっただの、実は嫌いだの、仲がいいから言いたいことを言えるのよ。
エウヘニア そうです、今日はあたくしの十二歳の誕生日、お二人とも仲よくなさってね。(窓外の馬車の到着を気にしながら)イルデトロワ先生、あたくしの友だちは、あのミリヤは…ミリヤはデュドヴァン男爵夫人じゃないかしら、などと言っていました。
マルグリット (上手入口に慇懃に現れて)奥さま、ただ今ご主人さまがお戻りになられました。
(マリアは両側の娘たちを引き上げるように立って迎えに向かうよう促す。フアンは指先を舐めたり側髪を気にしながら、楚々とマリアとフランシスカの後を追う。続こうとしたアンリは、会話が中途なこととエウヘニアが残っているので立ちつくす)
アンリ 伯爵がお帰りのようなのでお迎えに…お父さまは大好きなのでしょう?
エウヘニア 大好きですわ、イルデトロワ先生と同じくらいに。先生、ミリヤはデュドヴァン男爵夫人なのですか?
アンリ アンリで構わないよ、ウジェニー。友だちはなかなか鋭い、ミリヤの三分の二はデュドヴァン男爵夫人だよ。
エウヘニア 残りの三分の一は、あたくしぃ?
アンリ (しばし沈黙、上手奥からフアンの大袈裟な笑い声が聞こえてくる)聡明なウジェニー、あなたにはミリヤの疑う眼差しが似合わない。分かるかい?
エウヘニア アンリ、今日これから、あたくしが誰かに嫁ぐその日まで、二人だけで話しているとき、その「分かるかい?」を言ったら、長い脛を蹴とばしますからね。
(アンリは一歩下がるようにして恭しくエウヘニアの手を取る)
マリア (伯爵を迎えている上手奥から)ウジェニー!マリア・エウヘニア、何をしているの!
(エウヘニアとアンリの二人は、厭きれたように微笑しながら上手入口へ向かう)

                                        幕
鹿鳴館 (新潮文庫)

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  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
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